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2025年2月22日土曜日

皇居東御苑の梅が咲いた!

今年の梅は開花が遅い。去年より1〜2週間は遅れているようだ。神保町で古書探索した後に、いつものコースで東御苑に寄った。ようやく梅林坂の紅梅白梅が見頃になっていた。梅の木の中から鳥の囀りが聞こえるので、カメラを向けた。初めはメジロかと思ったが、鳴き声が違う。よく観ると胸が黄色いのでキビタキのようだ。ここには来るんだ!梅にキビタキ。見れたのはラッキーだった。

外国人観光客に人気の東御苑だが、敷地が広いので混雑もなく、オーバーツーリズムも感じなく、ゆったり散策できるのが嬉しい。外国人観光客にとっては皇居:Imperial Palace、すなわち「王宮」「帝室庭園」と言えば、壮麗な建物が立ち並び、人工的に自然を制するかの如く整備された広大な庭園を期待するのであろうが、ここは石垣以外の構造物はそれほど見当たらず、むしろ「古城」跡といった佇まい。ただただ広大なスペースが広がる都心の緑の空間。ちょっと期待とは違うのだろう。これが日本の「王宮」「帝室庭園」なのだ。黄金や豪華な調度品で埋め尽くされた宮殿ではなく、静謐で簡素な空間こそが威厳の象徴なのだ。元は徳川氏の城、武家政権の象徴を、明治維新後にいわば接収した「宮殿」なのだから、日本的に見ても「皇居」や「御所」のイメージとは異なる。考えてみればそんな歴史的な出来事を象徴する特異な空間とも言える。もっとも外国人観光客にどこまでそうした日本の歴史の理解があって散策しているのかは疑問だが。皇室のお宝が見たければ、東御苑内に最近リニューアル・オープンした「三の丸尚蔵館」を訪ねて欲しい。

お天気が良いと空が広くて気持ち良い。我が家からのアクセスも良いので、皇居外苑を含めて勝手に我が家の庭だと決めている。Happy Birthday his Majesty, Thank you for your generocity.







キビタキ

飛んだ!


梅林坂










雅楽堂

マンサク


これはツバキかと思ったら「春さざんか」だそう!

百人番所



(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4 ほんとにこの組み合わせはオールマイティーコンビだとつくづく思う)

2025年2月10日月曜日

「アンボイナ事件」とは? 〜17世紀イギリスとオランダの海洋帝国覇権争いと日本〜

 

17世紀のアンボイナ島(Wikipedia)

17世紀のアンボン砦(Wikipedia)

現在のアンボイナ島(Wikipedia)

モルッカ諸島全域図
中心にAmbon(アンボン)とBanda Islands(バンダ諸島)の地名が見える


アンボイナ事件

1623年、香料の一大産地であったモルッカ諸島のアンボイナ島で起きた事件は身の毛もよだつ凄惨なものだった。イングランドの商館長と館員、日本人傭兵が、オランダ商館のオランダ人によって拷問の末に処刑された。その拷問は書くのも憚られるような執拗で残忍なもので、その模様が図入りで記録として残されている。この商館員達の無惨な死がイングランドに伝えられた時には、国王ジェームス1世をはじめ国民全体が大きなショックを受ける。それまで友好国だと思っていたオランダに対する強い憎悪と非難が沸き起こった。この事件は、イングランドが東インド諸島(現在のインドネシア)の香料スパイス交易のサークルから撤退を余儀なくされた事件として記憶され、以降アジア進出のターゲットがインド亜大陸に向かうこととなる一大転換点となる。オランダはその東インド交易の覇者になるが、これがイングランドとオランダの間で3次ににわたる戦争を引き起こすきっかけとなり、さらに両国のその後の海洋帝国の明暗を分けることになる。

事件が起きたアンボンは、「香料諸島」として知られるモルッカ諸島のアンボイナ島の中心都市。現在でも同地域の州都である。戦時中は日本の海軍も駐留していた。イエズス会のフランシスコ・ザビエルも布教に訪れたことがある。最初にやってきたヨーロッパ人はポルトガル人で、1513年に香料の原生林獲得を目指して入植、原住民を駆逐して砦を築いた。のちに1605年にはオランダ人ステファン・ファン・デア・ハーゲンが入り、ポルトガル人を追い出し、多くのポルトガルに協力した原住民を殺害して砦を構築。1610〜1619年までオランダ東インド会社の拠点とした。のちに拠点は1000キロ離れたバタビアへ移転するが、オランダがナツメグ、クローブなどの香料交易を独占した。やがてイングランドとオランダの本国では、英蘭両東インド会社での共同開発の合意がなされ、1615年にイングランドはアンボンの近郊カンベロに居住地を設置した。しばらくはオランダのアンボン砦の一角を占めるなど共存していたが、香料争奪戦の激化に伴って対立が始まるのは時間の問題だった。本国における上層部の合意が現地まで上命下達で直ちに浸透するような時代ではない。現地で一攫千金、蓄財を狙う冒険的商人の個人的な欲望、利害や野心で物事は動く時代である。まして本国と現地の間のコミュニケーションは、実際の人の移動による書簡、報告書によるしかなく、往復に何ヶ月、あるいは何年もかかった。アンボイナ事件はこうした背景のもとで起こった。

この事件は日本人傭兵がオランダ砦の邏卒に砦の詳細を質問したことに端を発すると言われている。この日本人はオランダの砦を攻撃しようと計画しているイングランドのスパイだということで拷問にかけられる。彼は「七蔵」といい、傭兵として砦を警備するのに必要な質問をしただけであったが、苛烈な拷問でオランダの筋書き通りの自白を強要される。すなわちイングランド人は砦を攻撃してオランダ人を殺害する計画を立てているというもの。その結果、オランダのアンボイナ総督ヘルマン・ファン・スプールトは、イギリス商館長ガブリエル・タワーソン初め10人のイングランド人、9人の日本人を捕えて激しい拷問を加えた挙句に処刑してしまう。これが「アンボイナの虐殺」:Amboyna Massacreである。この事件は生き延びて本国に帰還できた2名のイングランド商館員によって報告されたことで明るみになった。イングランドでは、上述のように激しい反オランダ感情が燃え上がった。当のオランダ本国でもこの残虐行為が問題になっていたが、これは現地の商館員と傭兵が行ったもので上層部は預かり知らぬものとして黙殺した。しかし、現場におけるこのような残虐行為はこの事件だけではなく、現地人に対しては頻繁に起きていた。またバンタムのイングランド商館は絶えずオランダ人の襲撃の恐怖に怯えていた。案の定、アンボイナ事件はのちにオランダのバタビア総督ピーテル・ヤンスゾーン・クーンの、個人的野心からくるイングランド排除の謀略であったことが明らかになっている。彼は現地人やイングランド人や日本人が殺されることに何の痛痒も感じない冷酷な男であった。日本人傭兵「七蔵」はその陰謀に利用されただけであった。もっともこの時代の「冒険商人」とはそのような殺し合いを生き延びたものたちのことであった。


日本人傭兵の存在

ところでこの事件では日本人の存在が重要な鍵となっている。日本人がなぜこの時代にこのようなところにいたのか?それには当時の日本の国内事情が大きく関わっている。1615年に「大坂の陣」が終わり、主家を失った西軍の大量の浪人が発生していた時期である。浪々の身となったサムライの一部は、海外に流転して新たな生きる道を模索した。戦国時代から商人やキリシタンだけでなく、奴隷狩りで売られた農民や、多くの「敗残兵」たるサムライが海を渡り、ルソン、アユタヤなどで日本人街を形成し、やがて山田長政のように現地で勢力を誇った人物も現れる。またジャンク船を仕立てて東インド海域で交易/海賊を行ったものも記録されている(例えばオランダのファン・ノールト艦隊の「世界一周紀行」にも記録されており、この時、日本のジャンク船からリーフデ号の日本到達の情報を得ている)。オランダ人やイングランド人にとっては、よく切れる刀を持ち鉄砲も扱える、屈強で従順に仕事をする日本人のサムライは格好の傭兵候補であった。また「流浪のサムライ」にとっては、このような海外の修羅場はやり場の無い不満の捌けどころで、サムライとしての実力を発揮する機会とも捉えていたことだろう。こうした浪人がポルトガル船、オランダ船で東南アジアに送られた。事件のあったアンボイナ島にもまとまった数の日本人がいて、砦の中には少なくとも30名の日本人傭兵がいたと記録に残っている。日本人傭兵はオランダ、イギリス双方で雇われており、戦いの時は日本人傭兵同士が戦った。彼らは主に西軍の残党であったと言われる。このアンボイナ事件の発端は、先述のようにオランダに捕えられた「七蔵」なる人物の自白がきっかけとなっている。彼の出自についての記録はないが、一説に平戸の出身であるとも。アジア各地に進出してきた「南蛮人」「紅毛人」にとって「流浪のサムライ」が商館の護衛、敵対勢力からの防衛、さらには攻撃に大きな役割を果たしていたことがこの事件からもわかる。この時代、我々の想像以上に日本人が海外に出ていたし、しかしその多くは日本側の記録には出てこない。

ちなみに、このアンボイナ事件が起きた1623年には、イングランドは日本の平戸商館を閉鎖して撤退している。これは東インド市場からの撤退と軌を一にするが、この事件とは直接の関係はない。平戸は平戸で大きな問題を抱えていた。それは商館の財政破綻だ。すなわち先行するポルトガルやオランダに大きく遅れをとり、売るものがなく商売にならなかった。本国や東インドの拠点バンタムから荷を積んだ船の来航する頻度が減り、やがてはバンタムから撤退する。仕入れがなくなり、商売が見込めなくなっていった。こうした事態を見て本国では東インド市場からの撤退に合わせ、平戸商館閉鎖を決断した。最後まで撤退に抵抗した平戸商館長リチャード・コックスもついに断念し、商館員全員が日本を後にした。日英関係構築の先駆者である三浦按針(ウィリアム・アダムス)も手がなくなっていた。一方のオランダも平戸商館の業績は思ったほどではなく、やはり本国では撤退の議論があった。特に家光の鎖国政策で、オランダが平戸商館を破却して、長崎出島に押し込められることになった時には、本国は撤退を決断した。しかし商館長フランソワ・カロンの抵抗で留まることになり、結果的に240年後の開国まで、唯一のヨーロッパ世界の対日窓口として残ることになった。オランダ商館は、独占的に日本との交易ができたが、一方で商館長の江戸参府、「オランダ風説書」などの商売とは無関係な幕府への情報提供の義務も負っていた。初期の頃のビジネスは主にオランダの東インド交易の後方支援であったと言われている。先述のように、奴隷、日本人傭兵(敗残浪人)の植民地獲得戦争の最前線への供給はオランダにとって有益であった。オランダが「儲からない」平戸/長崎の商館を維持した背景にはこのような事情もあった。東南アジア交易圏における日本人の存在についてはさらなる研究が必要だ。


ファン・ノールト艦隊がボルネオ沖で遭遇した日本のジャンク船
(イザーク・コメリン「オランダ東インド会社史」1644年より)

ファン・ノールトが出会った日本人サムライ(傭兵と思われる)
(イザーク・コメリン「オランダ東インド会社史」1644年より)


「東インド会社」というビジネスモデル

オランダとイングランドは、ともにプロテスタント国で、カトリック国のスペイン/フランスに対抗する点で利害が一致する同盟国同士であった。オランダは長くスペインの植民地であったが独立したのは1579年。それまでもアムステルダム、ロッテルダムやアントワープ(現在のベルギー)などの海洋交易都市を抱えていたし、スペインの海外進出に伴われて活躍するオランダ人商人も多かった。一方のイングランドがスペイン無敵艦隊を撃退したのが1588年。島国であるイングランドはスペインの海洋覇権を脱して活発に海に出るようになる。ウィリアム・アダムスがオランダのマフー艦隊の航海士として乗組、日本に到達した例でも分かる通り、イングランド人とオランダ人はともに協働して、スペイン、ポルトガルの後を追うように海外に出ていった。やがて国家として組織的に海外進出を行うために特許会社(国営企業ではなく独占権を与えられた私企業)を創設するようになる。その一つがアジア方面の事業を独占的に扱う「東インド会社」である。エリザベス1世は1600年にイングランド東インド会社を創設し、これに倣って1602年にオランダでも東インド会社が設立される。東インド会社は、世界初のジョイントストックカンパニー(株式会社)であった。海外進出当初の事業形態は、船主の出身地域やスポンサーごとにバラバラに船団を組み、一回の航海ごとに資金を集め、帰ってくると出資金を返還し利益を分配して解散する方式であった。しかし、アダムスのマフー艦隊の例のように、事業として悲惨な結果に終わることが多く、航海によって当たり外れが大きいまるでギャンブルのような事業であった。こうした問題を解決するために、オランダは資本を温存し航海ごとのリスクを分散させるために共同出資方式の連合東インド会社( 都市、地域をまとめた全国ベースの)を設立する。出資金も会社が解散しない限り返還しないので安定的に資本金を保有することができる。これが成功モデルとなり、大規模な船団で継続的な航海ができるようになった。一方のイングランドは、こうした経営改革が進まず、資金不足で規模の拡大ができず、遠洋航海に耐える大型船の建造も進まず、海外拠点の確保もうまくゆかず、なかなか収益を上げることができずに苦戦した。アンボイナ事件はこうした時期にイングランドのオランダに対する劣勢の象徴のような出来事として起きた。こうしたイングランドの劣勢を救ったのは、清教徒革命で王権を倒したオリヴァー・クロムウェルであった。彼がイングランド共和国護国卿になると、オランダ他外国船を海上輸送ルートから排除するための航海条例(1651年)を定めイングランドの航海権益を守るとともに、1656年には東インド会社の再建(株主総会制導入と株主へは配当のみで資本は返還しない)と船団の強化を支援。オランダとの競争力を高めていった。

この頃の交易は、イングランドやオランダが商船で自国産の毛織物などの交易品を持ってアジアに売りに行き、圧倒的に豊かなアジアの富、すなわち香料や、絹、貴重な皮革や、陶磁器や刀剣など高価な工芸品を手に入れる、というものであった。しかし、熱帯や温暖なアジアで毛織物は売れなかった。一方、先行するスペインやポルトガルは、本国の商品を持ち込むのではなく、南米のポトシや日本の石見の銀を手に入れて現地で買い付け、現地で売る、という中国、日本、琉球、東南アジアとの三角貿易で成功していた。このスペインやポルトガルの商圏に割って入る事ができなかった後発のイングランド、オランダは、結局はその「お宝を満載した」商船を襲って財物を強奪する、すなわち「海賊モデル」で利益を得ることになる。このため、商船といえども船団を組み大砲や鉄砲で武装し、また戦闘員も乗船するなど臨戦体制で出航していった。またエリザベス女王から私掠船:Privatiers(要するに海賊行為)許可を得て、いわば「王室公認の武装海賊」として海外に出かけた。東インド会社設立前ではあるが、ドレイクやホーキンス、ローリーが活躍した時代である。同じくキャベンディッシュ艦隊の世界就航で、アカプルコからルソンに向かうスペイン船を襲撃して莫大な財宝を奪い、ロンドンに凱旋して女王に献上した事例や、日本に到達したアダムスの乗船したオランダ船リーフデ号に武器弾薬が満載されていたのもそういった船団の実態を示すものである。日本でキリスト教の布教活動をしていたイエズス会宣教師が、イングランド人やオランダ人は海賊である、アダムスを処刑すべきである、と家康に訴えたのも、単なる反プロテスタント・プロパガンダというだけではなかった。実際そうした事実があったからだ。

しかしこうした「海賊モデル」「私掠船モデル」はいつまでも続くはずもなく、結局はオランダもイングランドも、王権主導の交易独占という重商主義貿易政策を維持しつつ自由主義貿易政策へと移行してゆく。といっても、トランプが保護関税を武器にして壊そうとしている今の自由貿易ではない。東インド(現在のインドネシア)、インド、西インド(現在のカリブ海諸国)北米大陸、の植民地化による資源と市場の収奪を旨とする、いわば「帝国主義的自由貿易」である。東インド会社は、そうした「植民地収奪モデル」の受け皿となっていった。まさにアンボイナ事件は、そうした東インド会社の現地出先である商館(砦)同志の、現地そっちのけの植民地争奪戦であった。そういう意味においては日本の長崎「出島」のオランダ東インド会社「日本支社長崎出島支店」は、日本側の統制下に置かれるという稀有な形の商館であった。またイングランドの東インド会社は、18世紀にはインドの綿布で大儲けするという、いわゆる「キャラコバブル」を経験する。この時の東インド会社総督が、重商主義経済学者としても知られるジョサイア・チャイルドである。自身もインサイダー取引で莫大な蓄財をしている。南海泡沫事件のようなバブル崩壊を経て、独占緩和による自由主義貿易政策へ転換してゆく。一方で18世紀末から19世紀に入ると、東インド会社の役割、機能が大きく変質し、国家に代わって立法権、徴税権、裁判権、軍事力を持って植民地経営を請け負う、いわば「インド統治アウトソーシング会社」化していった。これが1858年まで続いた。東インド会社の歴史的役割についての考察は、また別の機会に譲ろう。


「ナツメグからビッグ・アップル」へ イングランドとオランダの歴史の分かれ道

話を「アンボイナ島」に戻そう。そもそもヨーロッパにおける大航海時代の始まりのきっかけの一つが、この貴重なモルッカ諸島にしか自生しない香料を手に入れることであった。ナツメグやクローブなど貴重な香料を巡るポルトガル、オランダ、イギリスの争奪戦である。これらの香料は、ヨーロッパでは単なるスパイスではなく疫病の治療に有効と信じられていた。他にも肉の保存剤や、解毒薬として重用され、大量の金と交換され莫大な利益を上げることができた。この「スパイス戦争」が展開されたアンボイナ島、バンダ諸島の小さなルン島(上記地図参照、といっても地図にも記述されないほどの小島)は、全島がナツメグの自生地で、争奪戦の主要ターゲットであった。

しかし歴史は時に国家を皮肉な方向へと導くことがある。アンボイナ事件を契機に香料をめぐる東インド市場(現在のインドネシア)から撤退したイングランドは、インドまで後退することを余儀なくされたが、そこで思わぬチャンスを掴む。扱い商品が香料から綿へと変異してゆく過程で、綿の戦略的価値に気づく。以降、イングランドはインドの綿糸/綿布、北米の綿花栽培とアフリカの奴隷貿易を主軸とするようになる。これが、やがてアメリカ植民地での綿花栽培をアフリカからの奴隷労働で賄い、イングランドで加工して綿製品にし、インドという一大消費地に売る、という「グローバル加工貿易モデル」を打ち立てて成功する。このサイクルが製糸、綿織物工業、エネルギー、動力、輸送に必要な技術革新を促し、「産業革命」をリードする世界の工場の地位を確立してゆく。すなわち大英帝国への道を歩み始める。「ナツメグから綿へ」「災い転じて福となす」「転んでもただで起きない」である。

一方のオランダは東インドの香料貿易の覇権を確立したことで、これまた思わぬ運命を辿ることになる。アンボイナ事件をきっかけとするイングランドとの3度にわたる戦争が起き、最初はオランダ優位に進んだが、フランスの介入など度重なる対外戦争でオランダ本国の凋落が始まる。それに伴い東インドなど海外植民地を一時的にイングランドなどに奪われることになるが、やがてそれを取り返す。その象徴とも言える「取り替えっこ」ディールがあった。第二次英蘭戦争終結の1667年ブレダ条約で、先述のバンダ諸島のルン島(ナツメグの一大産地)がイングランドからオランダに返還され、代わりに北米大陸のマンハッタン島(ニューアムステルダム砦)がイングランドに割譲される。この時点では、オランダは念願の香料産地を取り戻すことができ、イングランドはナツメグの産地を放棄して、寒冷で不毛の島、マンハッタン島を手に入れるという残念な取引:Dealであった。英蘭戦争は必ずしもイングランド優位の戦いではなかったことがわかる。しかし、周知の如くこの不毛のニューアムステルダム砦は将来のニューヨークとなる。そして先述のような綿花生産、貿易での北米植民地の発展という大化けにつながることになる。この取引:Dealを、イギリスのノンフィクション作家のジャイルズ・ミルトンは、彼のベストセラー小説「スパイス戦争」Natherniel's Nutmegの中で、「ナツメグからビッグ・アップルへ」と表現している。さらに香料は、イングランド人がその種子をモルッカ諸島から持ち出してシンガポール、セイロン島など他の交易に適した場所のプランテーションでの栽培を可能にした。モルッカ諸島領有の戦略的重要性が失われ、香料そのものの希少性も薄れて市場価値が急落することになる。「スパイス戦争」の時代が終わりを迎えようとしていた。

16世紀末から17世紀初めには手を携えてスペイン、ポルトガルに立ち向かって海外に進出したイングランドとオランダ。イングランドがこの後大英帝国への道を歩むことになるのとは対照的に、オランダ海洋帝国の覇権は衰えを見せ始める。17世紀の3度の英蘭戦争と、18世紀のアメリカ独立を支援するオランダとの第4次英蘭戦争。さらにフランス革命後はフランス共和国の支配を受け、バタビア共和国に。やがてフランス第3帝政のルイ・ナポレオン時代にはフランスの衛星国オランダ王国に。そして1810年にフランス直轄領ネーデルランドとなる。ちなみに、19世紀の長崎オランダ商館は、正式にはフランス領・ネーデルランドの出先であった。日本人がどの程度までそうしたオランダの実情を認識していたかは不明であるが。オランダはその後再び独立を獲得し、第二次大戦までオランダ領東インドとして植民地支配をし続けた。そして第二次世界大戦では(あのオランダ人に嵌められて虐殺された日本人傭兵「七蔵」の故国)日本に占領される。日本の敗戦で植民地を回復したものの、この日本のオランダ駆逐がきっかけとなって、インドネシアの独立運動でオランダの300年余にわたる苛烈な植民地支配は終わりを迎える。ちなみにこの独立闘争に日本人現地残留兵が参加している。


付記:イングランドの17世紀

17世紀のイングランドは、チューダー朝最後のエリザベス1世、スチュアート朝ジェームス1世、チャールズ1世、清教徒革命でクロムウェル護国卿、王政復古でチャールズ2世、ジェームス2世、名誉革命によるウィリアム3世/メアリー2世と100年間に目まぐるしく君主/元首が変わった。カトリック、国教会、非国教会プロテスタント(ピューリタン、プレスビテリアン)という宗教対立。イングランド、スコットランド、アイルランドの「三王国戦争」という激動の時代であった。一方、上述のように、対外的にはスペイン、フランスというカトリックの大国の脅威のもと、プロテスタント国で同盟国であったはずのオランダと、やがて海外進出をめぐって激しい覇権争いを展開し、3度にわたって戦争した時代であった。しかし、第3次英蘭戦争終決の手打ちの証として、1677年に政略結婚したオランダのウィレム3世とイングランドのメアリー2世が、1688年にはイングランドの共同統治者としてロンドンに凱旋する(いわゆる「名誉革命」)。なんとも皮肉というか理解に苦しむ英蘭関係だ。こうしたイングランドを取り巻く複雑に絡み合った国内外のカオスが大英帝国萌芽の時代を形作っていたのであった。我々日本人は古事記の創世神話になぞらえて、「天沼矛(あめのぬほこ)」でこのカオスをかき混ぜると、その矛先から滴り落ちた雫の中から、近代国民国家、民主主義、自由貿易体制、そして帝国主義が生まれたのだと理解することにしよう。



参考(1)英蘭戦争とは

イングランドとオランダの海洋覇権をめぐる争いで、基本は艦隊同士の海戦であって陸上戦はなかった。また18世紀になってアメリカ独立戦争をめぐるオランダとの戦争が起こるが、これを第四次英蘭戦争とみる歴史家と、これは別の出来事と見る歴史家に分かれる。


第一次英蘭戦争(1652〜1654)

クロムウェルの航海条例によるオランダ船の輸送ルート排除とこれに抵抗するオランダとの戦い ジェームス1世時代のアンボイナ事件の補償を求める ウェストミンスター条約で停戦

第二次英蘭戦争(1665〜1667)

王政復古後のチャールズ2世の時代 国王の弟ヨーク公(のちのジェームス2世)参戦 フランスがオランダと同盟 しかしペスト、ロンドン大火で厭戦 ブレダ和約で終戦 イングランドはバンダ諸島放棄、代わりに北米ニューアムステルダム割譲(「ナツメグからビッグ・アップルへ」)

第三次英蘭戦争(1672〜1674)

フランスのオランダ侵攻 チャールズ2世はフランスに加担して参戦 国民の戦争反対、議会の親仏路線への抵抗 ウェストミンスター条約でオランダと和睦 その証として1677年にオランダ・ウィレム3世にヨーク公(のちのジェームス2世)娘メアリー(のちのメアリー2世)政略結婚 皮肉にもこれが「名誉革命」の布石となった


第一次英蘭戦争

第二次英蘭戦争



参考(2)ジョン・ドライデンの詩劇「アンボイナ」。

事件から50年後の1673年、チャールズ2世がフランスのオランダ介入を助けるために参戦した第三次英蘭戦争の只中、反オランダ機運を盛り上げる「アンボイナ事件」を題材にした悲劇をドライデンが発表し話題になった。古書を巡る旅(60)ドライデン劇詩集。しかし、議会は国民の不満を背景にこの戦争に反対し、1674年にウェストミンスタ条約で停戦した。その和睦の証がウィレム3世とメアリー2世の結婚であった。




おすすめ文献:

「17世紀のオランダ人が見た日本」フレデリック・クレインス著
「さむらいウィリアムス」ジャイルズ・ミルトン著
「スパイス戦争」ジャイルズ・ミルトン著




2025年2月1日土曜日

大井町再開発 大型複合商業施設と「せんべろ」横丁 〜資本主義的合理性とは何か?〜

 

JR大井町駅


高輪ゲートウェー、品川駅と鉄道沿線沿いに連続して進められているJRによる再開発事業の波が、ついに大井町にも及んできた。東急大井町線の北側のJR車両センター(旧国鉄大井工場)の敷地の一部が再開発の対象。かつてJR社宅(旧国鉄アパート)があったところ、そして一時「劇団四季」シアターがあったところ。大井町駅直結の複合商業施設ができるという。大井町にもこの大手デベロッパーが大好きな「大型複合ビル」がニョキニョキと建ち始めた。それにしてもまあ、どこへ行っても同じ規格、どれもこれも何の変哲もないGlass & Steelのビルばかり。東京は個性のない都市景観が連なる街へと変貌中。今回の再開発エリアには入っていないが、大井町名物「せんべろ」横丁も風前の灯か😵「昭和は遠くなりにけり」だ。

空には羽田着陸の飛行機が、地上には高層ビル建設のクレーンが



東急大井町線駅に隣接する「大井町TRUCKS」
  



それにしてもどこも変わり映えしない「規格品のプレハブビル」ばかり



JR大井町駅と東急大井町駅
品川駅方面を展望



大井町は戦後の焼け跡復興商店街の痕跡が今も残る街だ。トレンディー、ファッショナブルなどという、賞味期限の短いブームを追いかける街ではない。東急大井町線で繋がるお隣、おしゃれな街で人気の自由が丘が、周辺建物の老朽化に伴い再開発計画が持ち上がり揺れている。例によって辺りを取り壊して「15階建ての複合再開発ビル」化しようとしている。この町の「おしゃれな」佇まいに複合施設ビルは必要なのかと。何でも高層ビル化すればいいってもんじゃないだろう。ビルが陳腐化すればデベロッパーはまた建て替えする。壊しては作り、作っては壊す。そうして金を回す。この資本の論理のもとでは歴史や文化や情緒が棲みつく間もない。大井町も高度経済成長以来の再開発で街は変わった。バブル崩壊までは日本の戦後高度経済成長を牽引する京浜工業地帯の一つの中心であった大井町。国鉄や紡績会社(カネボウ)や、製薬会社(第一三共)、日本光学(ニコン)などの大手工場、それに関連する中小工場が集まり多くの勤労者で賑わう街であった。その頃の面影が残る地区の多くは飲食店街で、今でも庶民にとって懐に優しく、戦後を知る昭和老人にとっては懐かしい街となっている。人気のB級グルメの店や安くて美味い居酒屋などもあり、いわゆる「せんべろ」横丁が今も健在だ。限られた土地、狭い通りに店舗が密集する地区なので地震や火事を考えると、行政としては安全な防災街区に「再開発」したいのだろう。実際、最近も火事が発生している。しかし、この何とも言えない路地の奥に愛おしい昭和の佇まいを感じる人が多いのもまた事実。赤提灯、縄のれんが再開発複合商業施設ビルのテナントになってしまっては情緒なしだ。経済合理性一本槍の「規格型ブレハブビル」や「複合商業ビル」の対局をなすこの無規格で非合理的カオスがたまらなく愛おしい。有形資産価値:tangible value VS 無形資産価値:intangble value 、資本主義的合理性と非合理性。これらがが同居する大井町。うまく調和すればそれが新たな町の魅力になるのかもしれない。


「東小路」入り口


この人気店も火事に見舞われた




「大井新地横丁」



2023年11月の火事で12棟が消失した。人的被害はなかったのは不幸中の幸い。
今も再建の見通しが立っていないようだ

2025年1月18日土曜日

古書を巡る旅(60)『The Comedies, Tragedies, and Operas』by John Dryden 〜「ドライデンの時代」の劇詩集〜

 

ドライデン肖像と表紙


今回紹介する古書は17世紀イギリスのジョン・ドライデン:John Drydenn (1631-1700)の劇詩全集である。「ドライデン『喜劇・悲劇・オペラ』全集 揃2巻 ロンドン刊」出版・販売元はロンドンのジェイコブ・トンソン:Jacob Tonson。35*22cmの大型フォリオサイズでエンボス加工された豪華な総革装の古書である。貴重な1701年の初版である。イギリス文学史の一時代を築いたドライデンのオリジナル劇詩集という内容はもとより、その書籍自体が工芸品、その醸し出す風格は歴史的文化財と言って良いほどのオーラを放っている。初版から320年。21世紀の東京、神保町の北澤書店に現れた。


総革装エンボスの大型本


第1巻表紙
第二巻表紙
ドライデンの真骨頂「劇詩論」

1623年の「アンボイナ事件」を題材にした悲劇

John Dryden (1631-1700)

ジョン・ドライデンとは

著者のドライデン:John Dryden(1631-1700)は、17世紀後半、イングランドの王政復古時代に古典主義文学の大御所として名声を博した人物である。多くの詩・韻文、戯曲、批評、翻訳を発表し、この時代はのちに「ドライデンの時代」と呼ばれた。1668年には王室桂冠詩人に、また1670年には王室年代記編纂官に選ばれる。しかし、そのような名声と裏腹に、彼はその時代の権威者のもとで主流となる政治信条、宗派を信奉するなど、日和見主義者との批判も受けたことでも知られる。クロムウェルが護民卿となりイギリスで初めての共和制を引いた時には、ケンブリッジを出たばかりのドライデンは、彼自身がピューリタンの家系に生まれたこともあり、クロムウェル政権を熱烈に支持しその共和制政権に加わった。1658年にクロムウェルが亡くなると、彼の葬儀に共和主義者であったジョン・ミルトン:John Milton (1608-1674)と共に参列し、彼を礼賛する頌徳文「Heoique Stanza」を捧げている。しかし1660年に王政復古でチャールズ2世が亡命先のフランスから帰国しイングランド王に即位すると、今度は新国王に祝意を表すため「Astraea redux」を献辞している。さらにチャールズ2世の弟で、カトリックを信奉するジェームス2世が即位すると、カトリックに改宗している。しかし、1688年のいわゆる名誉革命でジェームス2世がフランスへの亡命し、代わってプロテスタントのオレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)とメアリー2世が即位すると、イギリスにおける政治体制が立憲君主制へと移行し、国教が英国国教会となる。ドライデンはカトリックから改宗しないまま王室桂冠詩人の地位を失う。ドライデンはその政治的キャリアを失い失意の人となったが、その後も強かに作品を発表し続けた。彼は時勢に阿る道徳的に劣った人物であったのであろうか。いや、統治者が激変する不安定な時代としては普通のことだったのだろう。ちょうどジェームス1世時代の知性であったフランシス・ベーコンがその時の王権にへつらう宮廷官僚であり、同時に偉大なる哲学者であったように。


「ドライデンの時代」とは

「ドライデンの時代」は、1660年の王政復古:Restration後の文芸、演劇が活況を呈した時代である。その中心にドライデンがいた。クロムウェル共和政時代は、清教徒的な禁欲主義政策で劇場や演劇が衰退した時代であった。エリザベス朝文化の精華とも言うべき、シェークスピアやベン・ジョンソンすらも演じられなくなる。しかし、チャールズ1世の帰国と王政復古により、停滞していた演劇を中心とする文芸活動が一斉に復活し、音楽界ではヘンリー・パーセル:Hnery Purcellのような天才が見出される時代であった(古書を巡る旅(59)Orpheus Britannicus by Henry Purcell)。むしろ贅沢三昧の宮廷の風潮を背景により享楽的、退廃的な風刺詩や劇が生まれるなど一種の反動の時代と言って良いかもしれない。こうした時代にドライデンは多くの叙事詩や英雄詩や、時代を辛辣に語る風刺詩:Satierで名声を博した。1667年にはペスト流行、ロンドン大火災、そして第二次オランダ戦争という時代の空気を謳った叙事詩『驚異の時代』:Annus Milabilisを。また『劇詩論』:Dramatic Poesies(本書収録)により画期的な演劇評論を展開し、この時代の文壇の大御所の名を欲しいままにした。そうした活躍から1668年には「王室桂冠詩人」に選ばれた。60年代から70年代にかけては劇場用作品の執筆が中心で、彼の作家としての主な収入源となった。『当世風結婚』:Marriage A-La-Mode1672のような喜劇や、当時のオランダとの海洋覇権をめぐる戦争を背景にした歴史悲劇『アンボイナ』:AMBOYNA 1673、『全て恋ゆえに』:All for Love1677などの悲劇が代表作で成功を収めた。また敬愛するミルトンの叙事詩『失楽園』の劇詩化に取り組み、The State of Innocent 1674~1677を発表する(古書を巡る旅(21)ミルトン「失楽園」)。一方で劇作家としての名声が高まるとともに、むしろ劇場外で詩人としての名声を得ようと努力した。『アブサロムとアキフェルト』1681のような風刺詩において秀逸な作品を残した。1682年には国教会の立場からイエズス会とカルヴィニズムの両極端を批判する風刺詩『平信徒の宗教』:Religio Laiciを発表。その直後にかカトリックに改宗する。また、当時シャフツベリー卿により主導された反王党派のホイッグ党を批判する風刺詩『メダル』:The Medalを出している。ドライデンは王党派の詩人である。しかし彼が開いた独特の風刺詩の境地、文芸批評は、同時代のアレクサンダー・ポープ:Alexander Pope (1688-1744)や、後世のサミュエル・ジョンソン:Samuel Johnson (1709-1784)に大きな影響を与えた。ジョンソンは彼を「イギリス文学批評の父」と賛美した。またオペラや歌曲として後世に名を残すことになるドライデンの劇詩作品も忘れてはならないだろう。同時代のヘンリー・パーセルとの共作であるオペラ『アーサー王』:King Arthur 1691年のほか、ヘンデルが1736年にドライデンの詩を原作とした『アレキサンダーの饗宴』:Alexander's Feastを作曲。これは『メサイア』に並ぶヘンデルの代表作の一つとなっている。

このように「ドライデンの時代」とは、王政復古後のイギリスの文学の一つの頂点の時代であった。それはシェークスピアやミルトンという時代の画期を成した人物の次に現れたドライデンのそれであった。しかし、先述のように、彼の評価はその時代の政治情勢や宗教対立と無縁ではなかった。ミルトンに心酔しクロムウェル共和制を支持したピューリタンのドライデンは、王政復古とともに王党派の詩人となった。そしてカトリック王ジェームス2世の即位とともにカトリックに改宗する。ゆえに名誉革命で失脚する。まさに「ドライデンの時代」は「イギリス革命の時代」と表裏一体であった。「知性受難の時代」と言っても良いかもしれない。同じく激動の時代に巻き込まれた哲学者/大法官ベーコン(徹底して王権に追従し、ポープが「最も偉大で最も卑しい人物」と評した)や、詩人ミルトン(ピューリタン、共和主義者を貫き王政復古後悲惨な晩年を送った)のような後世に受け継がれる名声をドライデンは勝ち得たのだろうか。ドライデンは、ベーコンやミルトンのように「政治的敗者」となっても「知性の勝者」となったといえるのであろうか。あるいは19世紀ロマン主義時代にも名声を勝ち得たポープとはどこが違ったのか。時代の寵児、ビッグネームがのちにイギリスで久しく忘れられることになる。彼が再び評価されるのは20世紀に入ってからである。その歴史的評価は如何。文学的評価は如何。


日本におけるドライデンの受容

我々日本人にとって、ドライデンは比較的馴染みの薄いイギリス作家である。シェークスピアやミルトン、ポープの作品は知っていても、現代まで語り継がれる彼の代表作は何かと問われると思いつかないだろう。なぜなのか?イギリスにおいても、19世紀ビクトリア朝時代には、17世紀の詩人といえばポープの方が評価され、ドライデンは取り上げられることが少なくなっていた。その再評価がなされたのは20世紀になって、アメリカのT.S.エリオット:Thomas S. Elliott (1888~1965) が、ドライデンの政治的、宗教的変節にもかかわらず「ドライデンの存在が全ての18世紀のイギリスの詩の元祖であり、彼なくしてイギリスの数百年に及ぶ詩の歴史を正しく評価することはできない」と礼賛したことによると言われている。したがって19世紀後半(明治期)に欧米の文化を盛んに取り入れた日本では、御雇外国人教師でドライデンを取り上げることも稀であった。ドライデンの作品や業績があまり伝わることもなかった。したがって翻訳者も研究者も少なかった。英国留学で多くの英文学作品を研究し、持ち帰った夏目漱石もドライデンをほとんど取り上げていない(東北大学所蔵の「漱石文庫」には後世の評伝が一冊あるのみ)。シェークスピア作品全巻の翻訳を手がけ、日本の近代演劇の祖ともいうべき坪内逍遥もドライデンの劇詩、演劇評論を取り上げていない(翻訳論でドライデンの影響を受けたとする研究がある。「坪内逍遥におけるドライデン受容の研究」佐藤勇夫1981年)。東京帝国大学英文科の初代教師、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の英文学講義では、ドライデンを取り上げているが、ミルトンとポープの間に挟まれた存在と紹介しており、偉大ではあるが、何かを生み出した(invent)イノベーティヴな詩人と言えるのか、と厳しい評価を下している(小泉八雲『英文学史』北星堂書店1970年刊)。ビクトリア朝イングランドのドライデン評価が端なくも明治期の日本の文学界に映し出されている。今でも日本におけるドライデン研究者は多くない。彼の著作の翻訳もその名声に比して多いとは言えない。最近では、ドライデンを翻訳論や演劇評論の研究対象として取り上げる研究者がいる(「劇詩論研究」2006九州大学芸術工学研究院・大島久男)。ドライデンは詩人、劇作家としてだけではなく、先述のようにギリシア、ローマなど古典の翻訳家としても活躍し、また演劇評論やジャーナリズムのなかった時代に演劇批評家としても活躍した。彼の『劇詩論』は現代の演劇論、演劇批評のルーツとして、あるいは古典翻訳方法論の開拓者として評価する研究が進んでいるようだ。今回の書籍を「発掘」紹介していただいた北澤書店の先代の店主、北澤龍太郎氏は、東京帝大英文科出て、お茶の水女子大学や都立大学で教鞭をとった英文学者で、日本では数少ないドライデン研究者であった。今回、そんな北澤書店にゆかりある由緒ある古書を手にすることができたのは誠に光栄であり、この歴史的な書籍を後世に次いでゆく責任を痛切に感じる。


職業作家と出版事業者の出現

ところでドライデンは王室桂冠詩人という栄光の座を追われてから、どのように著作活動を継続できたのだろう。桂冠詩人は国や宮廷のためにかなりの量の詩作を求められる代わりにその名誉と収入が確保(大した額ではなかったとも言われるが)されていたわけだが、桂冠詩人の地位を追われるということは、作家として詩人として収入の途が閉ざされることになるわけだ。この頃から詩作から離れて戯曲、翻訳(翻案)作品に力を入れた。しかし、戯曲の方はあまり成功せず、収入が乏しかったようだ。そこで転じて古典作品の翻訳家として、1697年ローマ時代の『ウェルギリウス全集』:The Works of Virgil、ホメロス、ホラチウス、ボッカチョ、チョーサーなどの古典の翻訳、韻文で翻案した『古今寓話集』:Fables, Ancient and Modern 1700年を出す。以前のブログ(古書を巡る旅(17)「聖フランシスコ・ザヴィエル伝」)で紹介した『ザビエル伝』1688年もこうした翻訳作品の一つである。こうした作品を世に売り出せるようになった背景に、新たに台頭してきた出版事業者の存在がある。

この時代は出版事業が発達して、文筆を生業とするいわば職業作家が生まれた時代である。それまでの17世紀中葉(清教徒革命以前)は、詩や散文などの文芸作品は貴族や聖職者などの上流階層の嗜み、あるいは政治的な意思表明の文書として書かれ、出版人は存在したが、限られた上流階級コミュニティーに配布されるにとどまり、それを多くの人々が読むことはこと稀であった。また印刷法という出版を統制する法律やそれを執行する星室庁などの言論統制機関があって、文芸作品や政治的なパンフレットを誰もが自由に印刷したり出版したりすることはできず、出版事業は宮廷や教会とそこにつながる印刷、出版人(組合)が取り仕切る世界のものであった。詩作や論文、そして出版は密接に政治や宗教にリンクしていた。しかし、これを壊し「出版・言論の自由」の空気を生み出したのが1649年の清教徒革命であった。この革命は、先述のようにピューリタン的な禁欲主義の影響で、演劇や音楽、文芸活動の衰退を招いたが、一方で、皮肉なことに王政復古後、いわば「出版の自由」の勢いに火がつき、結果的に読者層も新興のジェントリー層や都市富裕層などに拡大し、商業活動としての出版事業が成長産業になっていった。先述の印刷法も星室庁も1696年には廃止される。こうした規制緩和と宮廷や貴族といったパトロン、政治や宗教といった束縛からの脱却により、作家にも自由な著作活動と出世のチャンスが生まれ、いわば新たな「文芸復興」の時代になっていった。同時代の詩人、アレクサンダー・ポープはその一人であったと言われる。彼はドライデンに影響を受けた当代一流の詩人であったが、桂冠詩人でも、宮廷の官僚の地位にあったわけでもないので、自由な立場から批判的詩作、彼独自の視点による古典翻訳に取り組み評価を得るようになっていった。当然、有力なパトロンも少なく経済的には困窮していた。しかし、ポープは『イリアス・オデッセイ集』の翻訳や、『シェークスピア全集』の編纂などの大作を出したことでも知られ、その収入で生計を立てることができた。これを可能にしたのは出版・販売事業者:Publicher/Booksellerの存在である(この頃は出版と書店が未分化であった)。ポープは出版事業者と手を組み、作品の原稿を書くときに、事前に予約を募りお金を集め、出版時に予約者に本を売るという方法をとった。出版人にとってもそれを元に印刷業者:Printerに発注できる。また出版人に代わって作家自体が売り歩くわけで、富裕層を新たな読者層として開拓できるメリットがあった。17世紀のクラウド・ファンディングと言っても良いかもしれない。


ドライデンとトンソン

桂冠詩人の地位を失ったドライデンもこのモデルを取り入れて、すでに得られていた名声を生かして第二の創作活動人生を歩んだ。ロンドンの著名な出版人で、のちに「近代出版事業の父」と呼ばれたジェイコブ.トンソン:Jacob Tonson(1655-1736)と組んで、ミルトンの『失楽園』舞台版などを売り出した。先述の『ザヴィエル伝』もトンソン出版だ。今回紹介する本書もドライデン没後の1701年にトンソンにより出版、販売されたものである。この二人は新しい出版企画を生み出し、まず共同作品とも言うべき『ドライデン・トンソン版英国詩歌集』全6巻:The Dryden-Tonson Miscellanias 1684-1709を世に出す。これはドライデンを編集者としたアンソロジー集である。続いて先述の『ウェルギウス全集』『古今寓話集』といった古典の翻訳、翻案作品の出版を手掛けた。トンソンはドライデンを著名編集者として売り出し、複数の選者や訳者を集め、連載シリーズで出版する。いわばサブスク型の出版物を生み出した。ドライデンはこの出版で多額の報酬を得ることができたし、出版が商業的にも成功を収めることができる事業であることを証明した。もっともドライデンの方は自分の取り分が少ないとトンソンにクレームする手紙が残っているようだ。ともあれトンソンは出版事業の新しいビジネスモデルを作った人物と言われている。また、この頃になると著作権や版権概念が生まれ、シェークスピアの版権を買い取るなど事業を拡大し、当時の文化サロン「Kit-Cat Club」を創設したことでも知られる。これまでの宮廷や教会、それと結びついた出版事業者というクローズドな世界、パトロン依存の芸術や著作活動から脱却する、いわばイギリスにおける新たな出版文化の開花といっても良いかもしれない。ちなみに今年の「大河ドラマ」の主人公として話題となっている江戸の出版人にしてプロデューサー、蔦屋重三郎出現の100年前の話である。蔦重こそ、日本における太田南畝、滝沢馬琴、十返舎一九などの初めて職業作家を産み育てた人物である。


Jacob Tonson (1655-1733)


参考:本書収蔵内容

(巻1)

An Essay of Dramatic Poesie :劇詩論 1668

The Wild Gallant 野生の色男  1663

The Rival Ladies

The Indian Emperour, or The Conquest of Mexico 1665

Secret-Love, or The Maiden Queen

Sir Martin Marr-all, or The Feign'd Innocence

The Tempest or The Enchanted Island  テンペスト 1667  シェークスピア作品の翻案

An Evening's Love, or Mock-Astrologer 1668

Tyrannick Love, or The Royal Martyr 1669

The Conquest of Granada グラナダの征服 1670

Marriage A-la-Mode 当世風結婚 1672

The Assignation, or Love in a Nunnery

AMBOYNA  アンボイナ事件 1673

The State of Innocence and Fall of Man ミルトン「失楽園」のオペラ台本 1677


(巻2)

Aurenge-Zebe or The Great-Mogul ムガールの大王 1675

All of Love or The World well Lost  アントニーとクレオパトラの翻案 1677

Limberham or The King Keeper

OEDIPUS 1679

Troilus and Cressida, or Truth Found too Late

The Spanish Fryar, or The Double Discovery

The Duke of GUISE

ALBION and ALBANIUS 1685 オペラ台本

Don SEBASTIAN King of PORTUGAL 1690

AMPHITRYON 1690

CREOMENES The Spartan- Hero

King ARTHUR, or The British Worthy  アーサー王 1691 ヘンリー・パーセル作曲セミオペラ

Love Triumphant, or Nature will Prevail




次回に続く:

1)劇詩論:Dramatic Poesies

オランダとの英仏海峡での海戦、という政治情勢下での演劇議論
四人の登場人物が、古典劇、フランス劇、英国劇についてその長所を討論を交わすという形でドライデンの英国詩への独自の評価を展開した名著

2)アンボイナ事件:AMBOYNA

1623年に東インド(現在のインドネシア)の香料諸島(バンダ諸島)のアンボイナで起きたオランダとイギリス商館同志の香料利権をめぐる事件。イギリス商館長とイギリス人、日本人、ポルトガル人20名がオランダ人によって虐殺された。イギリスで大きなショックが広がり反オランダ世論が高まった事件。これをきっかけにイギリスは東インドから撤退を余儀なくされ、日本の平戸商館も閉鎖する。イギリスとオランダの海洋覇権をめぐる戦いの始めとなる事件。結果的に、イギリスはインドへシフト、オランダは東インドに。その結果、イギリスは綿花でインド経営で成功し、香料市場の縮小で衰退したオランダと対照的な道を。さらに英蘭戦争の結果、1664年に交換が成立しオランダはバンダ諸島のルン島を、イギリスは北米大陸のマンハッタン島を得る。イギリスはナツメグを失ったが、ビッグ・アップルを手に入れた。
当時海外で日本人傭兵が活躍していた様子が描かれた貴重な作品
この事件の50年後、チャールズ2世の時代に第3次英蘭戦争が勃発したときにドライデンが劇詩化した。


2025年1月3日金曜日

「門松やディストピアへの一里塚」〜水晶玉が見た2025年の世界〜





2025年年頭にあたって今年もまた恒例の「水晶玉」占い。さて2025年をどう見るのか。去年は次のような「水晶玉のご宣託」があった

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : ChatGPTより良く当たる!水晶玉が見た2024年の世界: バイデンがホワイトハウスの階段で転んだところが見えます。 トランプが笑いをこらえてガッツポーズしているところが見えます。 プーチンが高笑いしているところが見えます。 ゼレンスキーが親露派に失脚させられるところが見えます 習近平が地球儀見ながらほくそ笑んでいるところが見えます。... どうだろう、2024年の「水晶玉」占いは結構当たったじゃないか。バイデンの高転び、トランプの高笑い、プーチンのほくそ笑み、日本の不透明感は当たり。ゼレンスキー失脚、NATO崩壊、アジアでの戦争開始は外れたが、時期がずれただけでその確率は高まった。

今年の「水晶玉のご宣託」は、去年に加える新たな項目はなさそうだ。だからといって喜んではいけない。これ以上のリスクはないと言っているわけではなく、TRUMP2.0が始まるのだ。不安定化とそれによるリスクが一段と危険度を増すと告げているのだ。ある意味で占い師でなくても読める顕在化した危機になってしまったということだ。民主主義のパラドックス。欲望の資本主義。「法の支配」の「法による支配」化。これらは今年また一段と進むだろう。選挙イヤーでポピュリスト政党が躍進し世界の秩序は大きく変化する。無秩序なAIとカオスなSNSによってこれまでの民主主義のルールや価値観が大きく変わる。重要な言論プラットフォームになったSNSは企業によって運営され、自己規制もルールもない。金で支配した声のでかいものが勝つ。情報リテラシーは自己責任化する。そしてこうした急速な変化に人々が思考停止状態となる。この一年は後世の歴史家が歴史の転換点と評価する年になるかもしれない。アメリカは、関税:Tariff、国境の壁:Wall、二国間取引:Dealでますます内向きになる。Make America Great Again by means of Tariff and Wall and Deal. グローバルサプライチェーンがズタズタになり、国内ではインフレが高まり雇用が失われ、貧富格差はますます広がる。これがうまくマネージできないまま世界中に分断が広まる。民主主義や自由、法の支配といった歴史的にアメリカが進め、守り、仲間を作ってきた戦いから撤退し自国に引き篭もるわけで、ならず者国家や非国家テロリスト政権にとっては願ってもない追い風というわけだ。あるいは西欧流の価値観と秩序に否定的な勢力に「ほれ見ろ!」と勢いを与える。国際機関、地球温暖化対策、自由貿易、核廃絶、安全保障といった多国間の枠組みやルールが崩れ、二国間の相対取引契約でブロック化してゆく。ロシアはやったもの勝ち!の味をしめ、さっそく次を狙う。「大ロシアの夢!」。アメリカの抑止力はない。むしろアメリカもロシアに負けないでやったもの勝ち競争に参入。「Make America Great Again!」。中国は少子高齢化と経済の行き詰まりで、アメリカ同様内向きになるが、国民の専制的統治への不満のはけ口を外に用意しておかねばならなくなる。台湾はそこで利用される。「おお!偉大なる中華民族」。ここでもアメリカは出てこない、絶好の機会到来だ。朝鮮半島はもともと不安定で東アジアの火薬庫。一触触発でさらに不安定化している。しかしアメリカは動かない、こうして台湾海峡と朝鮮半島から日本は戦争に巻き込まれる。日清/日露戦争、満州事変という歴史が教える地政学的リスクシナリオの展開だ。やはりアメリカは出てこない。アジアに戦争の危機がヒタヒタと迫ってくる。Gゼロとはそういう世界規模の安全保障リスクを意味する。友邦を裏切る国に未来があるとは思えないが、そんなアメリカの未来を心配をしている場合ではない。自国優先主義はそんな連鎖を世界に広げる。

祇園精舎の鐘の音諸行無常の響きあり 奢れるものは久しからず 盛者必衰の理りあり


ちなみにイアン・ブレーマーの「ユーラシアグループ」は今年に起こりうる10のリスクを挙げ、2025年を「冷戦初期に匹敵する地政学的に危険な一年」としている。すなわち「Gゼロ」が世界を危機に陥れる。去年のリスクは「アメリカの分断」だった。それが世界に拡大するということか。



残念ながら悲観的材料が目白押しの2025年。

「門松やディストピアへの一里塚」「めでたさも中ぐらいなりオラが春」ではある。正月休みはジョナサン・スイフトの「ガリバー旅行記」を読んでいる。別に童心に帰ったわけではない。世界最高の政治風刺物語を苦笑いしながら読み耽り憂さ晴らし。このご時世、なかなか示唆的で、読んでいていちいち合点することが多い。面白い一節があるので紹介したい。ガリバーが日本:Japonからイギリスに帰国する途中で立ち寄った架空の島国ラグナグでの不死の人物の話だ。


西がJapon:日本, その東にある島がLugnagg:ラグナグ
ちなみに「ガリバー旅行記」に出てくる国々はJapon:日本以外はどれも架空の国

「大きな島国であるラグナグ王国に着いたガリヴァーは、不死の人間ストラルドブラグの噂を聞かされた。自分がストラルドブラグであったならいかに輝かしい人生を送れるであろうかと夢想する。しかし、ストラルドブラグは不死ではあるが不老ではない。老衰から逃れることはできず、いずれ体も目も耳も衰え集中力も記憶力もなくなり、日々の不自由に愚痴を延々こぼし、歳を取った結果積み重なった無駄に強大な自尊心で周囲を見下す低俗極まりない人間になっていく。ラグナグ国では80歳で法的に死者とされてしまい、以後どこまでも老いさらばえたまま、世間から厄介者扱いされ、人間に対する尊敬の念も持たないまま生き続ける。そんな悲惨な境涯を知らされて、むしろ死とは人間に与えられた救済なのだと考えるようになる。」

不老でない不死。老いさらばえて「その結果積み重なった無駄に強大な自尊心で周囲を見下す低俗な人間」。「人を人として尊敬しない人間」。こんな人間で満ち溢れ、彼らにコントロールされる世界。死こそが人間に与えられた救済だという。このカリカチュアライズされた世界こそディストピアだ。18世紀の作家、ジョナサン.スイフトの強烈な皮肉を21世紀に生きる我々はどう受け止める?

2025年1月1日水曜日

古書を巡る旅(59)『Orpheus Britannicus 』by Henry Purcell 〜没後330年を迎える年末年始はパーセル三昧で過ごす〜

パーセル肖像と第1巻表紙



私はクラシックの中ではバロック音楽が好きだ。これは高校生の時のヘンデルのオラトリオ『メサイア』の演奏会に合唱団の一員としてフルオーケストラとともに参加した体験に由来している。あの時の打ち震えるような感動が生涯忘れられない。あの経験をして自分が音楽の世界に行かなかったのが不思議なくらいだ。確かにあの瞬間、救世主Messiaが降りてきたのだが、音楽の守護聖人St. Cetiliaは現れなかったからだろうか。この『メサイア』はアイルランドのダブリンが初演で、アリア、レシタティーボ、合唱はドイツ語ではなく英語で歌われる。私も英語歌詞なので歌いやすかった。もっとも古英語表現が至る所にあって、それがまたワクワクした。若い心に響くヘンデルであった。それからというもの、ヘンデルはもちろん、バッハ、ヴィヴァルディ、テレマンなど、後期バロックの音楽、さらには初期、中期バロックのモンテヴェルディ、カブリエリ、コレッリ、クープランなどの音楽を渡り歩き、古楽器による演奏やイムジチ合奏団やパイヤール弦楽四重奏を聴きまくった。ある時ヘンリー・パーセルに出会って、イギリスにもバロックの作曲家がいたんだと知る。彼はヘンデルやヴィバルディの前の世紀、17世紀に活躍した中期バロックに属する。フランスやイタリアバロックの影響を受けているものの、フランス語、イタリア語、あるいはラテン語ではなく英語の宗教曲や頌徳歌を多く発表した。英語の歌詞は、単純にイギリス人にわかりやすい、ということだけではない。イギリスではジェームス1世の時代に欽定訳聖書(1611年)、すなわち聖書が英訳された。讃美歌、頌歌や典礼が英語で吟じられることはプロテスタントにとって重要なことなのである。パーセルもヘンデルもそうした欽定訳聖書を典拠として作詞、作曲をおこなったのである。

その後しばらくはパーセルを忘れていたが、イギリス留学中にウェストミンスター大聖堂とノーリッチ大聖堂でパイプオルガン演奏を聴き、それがパーセルだと知り感動したことをきっかけにハマり始めた。そもそもパーセルはかつてウェストミンスター大聖堂のオルガン奏者であった。その後90年代のロンドン勤務時代には、ちょうどパーセル没後300年で記念コンサートがイギリス各地で開催され、記念のCDが出たので夢中で聴いた覚えがある。トレバー・ピノック:Trevor Pinnockのイングリッシュ・コンサート:The English Concertが多くのバロック作品を演奏し、CDのコレクションを出した。パーセルの曲はポール・マクリーシュ:Paul McCreeshのガブリエリ・コンソート&プレイヤーズ:Gabrieli Concoert & Playersであった。いずれもドイツグラモフォンのアルヒーフシリーズ:ARCHIV ProduktionのCDで、トッテナムコート・ロードのHMVに通って買い集めたものだ。ロンドンの自宅に英国製オーディオセット(ArcamのバイアンプシステムにMission, B&Wのトールボーイスピーカ)を置いて、Hail, Bright Cecilia, Harmonia Scara, Fairy Queenなどを聴き、17世紀のイングランドに時空トラベルしたものだ。至福の時であった。

リタイアー生活を送るようになって、いつもお世話になっている神保町北澤書店で、なんとパーセルの「Orpheus Britannicus:オルフェウス・ブリタニクス」歌曲集の初版本を見つけた。2024年の「稀覯書フェアー」に出展されていたものである。ロンドンでは出会わなかったこのパーセル本との出会いは、時空を隔てた偶然といえば偶然だが、必然といえば必然、出会うべくして出会ったような気もする。ロンドン時代の心の友との30年後の神保町での再会。出会いとはそんなものだろう。

今回入手した「Orpheus Britannicus」はこれまでに作曲した一声、二声、三声のための歌曲を集めた初の全集である。1695年11月、パーセルのあまりにも突然の死にロンドン中がショックを受け、多くの弔辞や頌歌、詩が寄せられていた時期に、その偉業を顕彰しようと出版されたものである。2巻からなる合冊本で、第1巻は1698年初版(彼の没後3年目)、1706年第2版(新しく発見された曲を追補)である。第2巻は1702年初版で、第1巻(初版)を補完するものとされている。大型、フルカーフ革装の重厚な書籍で、まさに稀覯書と言って良いだろう。第1巻にはパーセルの肖像画とともに、未亡人フランシス・パーセルの献辞、ジョン・ドライデンのパーセルへの頌歌:Ode他、彼の師であったジョン・ブロウ、多く友人の弔辞が掲載されている。第2巻にはロンドンの著名な音楽出版人であったHenry Playfordの献辞がある。この後も1711,1712,1721年と改訂が続けられた。本書は彼を悼む人々によって生まれた、いわばパーセルメモリアル歌曲集である。ただ、彼の34年という短い生涯における作品の全てが明らかになっているわけではない。特に初期の作品はほとんどが散逸しており、今回紹介する「歌曲集」も、晩年の5年分の作品を集めたものだと言われている。本書も先述のように、追補、改訂が繰り返されており、いまだに研究者のあいだで。作品の発掘と整理が行われていている。Zナンバーでパーセル作品の整理を図ったアメリカの音楽学者フランクリン・ツィンマーマン:Franklin Zinmermanの研究が有名だ。彼は新たに発見された作品にはZNを付している。これからもZNナンバーの作品が次々と世に出ることを期待したい。

ヘンリー・パーセル:Henry Purcell (1659-1695) はいまだに謎に満ちた作曲家である。生まれはロンドン、ウェストミンスター近辺らしいが生い立ちもはっきりしていないし、あれほど人々に衝撃を与えた突然の死の原因も明らかでなく諸説ある。彼が生まれたのはイギリス激動の17世紀、清教徒革命のクロムウェルの共和制時代末期である。父と叔父がウェストミンスター大聖堂と宮廷合奏団の演奏者であったらしく、9歳頃に王室聖歌隊の一員となり音楽指導を受けたという。1674年、15歳の時にはウェストミンスター大聖堂のオルガン奏者で作曲家のジョン・ブロウ:John Blowに師事し作曲をはじめた。しかしこの頃の作品はほとんど残っていない。王政復古でフランスから帰還し、即位したチャールズ2世の抜擢で、1677年にはなんと18歳で王室弦楽合奏団の専属作曲家兼指揮者となる。国王の目に留まるのだからよほど才能が光っていたのであろう。また師匠であるブロウの後任としてウェストミンスター大聖堂のオルガニストにも就任。チャールズ2世は、王政復古とともに、衰退していたイングランドの音楽の復興に力を入れ、パーセルの才能を見出したと言われる。パーセルもこの頃チャールズ2世のためのOde:頌歌や、Anthem:讃歌を盛んに作曲し、さらに『Theodosius』などの大作を発表する。この時期が彼の全盛期で、主に宮廷向けの頌歌、祝祭音楽、中でもSt.Cetilia祝祭曲、宗教曲などを次々と作曲し名声を高めていった。1689年には彼の唯一のオペラ『ディドとエネアス:Dido and Aeneas』のロンドン初演が行われた。また1691年にドライデンの劇詩にパーセルが演劇、管弦楽、合唱、独唱をつけた「アーサー王:King Arthur」はセミ・オペラ作品として好評を博した。1688年の名誉革命で即位したメアリー2世には誕生日や祝祭のたびに曲を献上し、宮廷音楽家としての名声を欲しいままにした。1694年のメアリー女王崩御にあたっては、パーセルはその死を悼んで頌歌を献じ、葬送曲を作曲したが、その翌年1695年に彼も新しい世紀の到来を待たず短い生涯を閉じた。17世紀イギリスの音楽界に彗星のように現れた天才は、新世紀を見ることなくあっという間に時代を駆け抜けて行ってしまった。どこかモーツアルトを彷彿とさせる天才の生涯であった。

現代においてイギリスの音楽家といえば、ビートルズが圧倒的存在感を放っているが、クラシック界では(ビートルズもすでにクラシックの域に入っているが)、20世紀のベンジャミン・ブリテン:Benjamin Britten (1913-1976)とパーセルくらいしか一般には思い浮かばないだろう。パーセル没後にロンドン中心に活躍した音楽家はヘンデル:George Friedrich Haendel (1685-1759)であるが、彼はドイツ生まれでハノーバー朝イングランドに帰化した作曲家であり、確かに英語のオラトリオ『メサイア』の作曲家としてイギリスでも親しまれているが、厳密な意味でイギリスの音楽家とはみなされていないだろう。ブリテンはパーセルの曲を青少年向けに翻案した作品が多く、パーセルあってのブリテンと言っても過言ではないだろう。そういう意味ではパーセルこそイギリスを代表する古典作曲家と言って良い。惜しむらくは、あと2〜30年長生きして18世紀にも活躍していれば、宮廷向けだけでなくオペラや劇用音楽にその作品の領域を広げ、さらにバロック音楽の大家としての名声を得ていたであろう。残念ながら日本ではあまり演奏もされないし歌われることも少ない。評伝や研究書も少なく評価が行き渡っているとはいえない。もったいないことだ。17世紀イギリスが産んだ天才音楽家の曲がもっと演奏され、聴かれても良いのではないかと思う。

今年はパーセル没後330年である。年末恒例の国民行事「紅白歌合戦」もほとんどが知らない曲ばかりになってしまった今、そして世界中で「神の摂理」と「人間の理性」が混沌として先行きが不安なゆく年くる年を、パーセルにどっぷり浸って過ごす。オリジナルの楽譜と歌詞を参照しながらパーセル三昧でCDを聴く。しばしの心のデトックス。亦楽しからずや。




フルカーフ革装の大型本である 2巻合冊

第1巻第2版表紙

第2巻表紙

ジョン・ドライデンの追悼詩:Odeが掲載されている

歌曲リストと楽譜




Jill FeldmanによるOrpheus Britannicus歌曲集CD

YouTubeチャンネルで視聴できるHenry Purcell Orpheus Britannicus