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2014年10月17日金曜日

友泉亭探訪 ー「城下町」福岡に大名文化は残っているか?ー 再掲第二弾

 今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」もいよいよ終盤。秀吉の「明国を我がものとする」という老人性パラノイア的破滅への道。それに異を唱える「軍師」としての官兵衛は、秀吉の野望を忠実に実行しようとする「官僚」石田三成との対立が抜き差しならない所へ来てしまった。豊臣家崩壊の足音が間近に聞こえる。豊臣恩顧の大名であるにもかかわらず、関ヶ原で徳川家康側につき、東軍勝利に導いた黒田長政の活躍。やがて、その恩賞として、筑前一国五十二万石という大藩を与えられる。官兵衛/長政の「福岡への道」の伏線がここに描かれる。

 ドラマチックでヒリヒリするような官兵衛の戦いと生き様が、そのクライマックスを迎えドラマは終章を迎える。しかし、その後の筑前福岡における黒田家はどのような道をたどったのだろう。そしてその城下町の運命は如何に? 

 以前、黒田家別邸「友泉亭」を探訪した時のブログを再掲。やや皮肉な視点で「城下町福岡」を振り返ってみたい。

(次をクリックして下さい)↓
「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 友泉亭探訪 ー「城下町」福岡に大名文化は残っているか?ー: 福岡は言うまでもなく、というか、本当は関ヶ原以降に豊前中津から筑前国主として入府した黒田長政が開いた城下町だ。筑前藩52万石という外様の大藩の藩府だ。しかし、福岡が城下町であったというイメージが希薄なのは何故だろう?黒田官兵衛(如水)の忠臣、母里太兵衛がモデルとなっていると言わ...



友泉亭の黒田家紋所

建物は炭坑主であった貝島家によって建てられたもの

黒田家別邸であった時代の遺構はほとんど残されていない

池泉回遊式庭園も見事だ。しかしこれも貝島家の設計になるものだ。
現在の「友泉亭公園」入口
福岡城武具櫓を移設したと言われる黒田家浜の町別邸
福岡空襲で焼失し現存しない。

2014年10月7日火曜日

みまきいりひこいにえのみこと 〜崇神天皇の三輪王朝と邪馬台国〜


  記紀に記述のある歴代天皇のうち、第十代崇神天皇は、初代神武天皇とその後の八代の天皇(在位中の事績が記されていないことから「欠史八代」と呼ばれている)と異なり、初めて登場する実在の天皇(大王)であったと言われている。それは、記紀において初めて在位中の事績が詳しく記述される大王であること、拠点とした三輪地方に、その存在を裏付けるいくつかの考古学的な証拠が見られること、などによる。和風諡号を「みまきいりひこいにえのみこと」という。また「はつくにしらすすめらみこと」という。とくに「はつくにしらす...」は初代天皇という意味で、不思議なことに神武天皇と同じ諡号である。このことからも崇神天皇が神武天皇とともにと特別の存在であることを示している。もっとも何時の時代に実在したのか、編年体で記された記紀の記述からははっきりしないうえ、記述通りだとすれば120歳で崩御したことになっているから正確な在位期間もわかっていない。おそらく3〜4世紀ころではないかといわれる。

 3世紀と言えば魏志倭人伝に記述のある邪馬台国、その女王卑弥呼と、その後継者であるトヨの時代である。以前にも述べたように、記紀の記述と魏志倭人伝の記述には接点が無いので、卑弥呼と崇神天皇との関係も不明だ。8世紀に天武天皇により天皇中心の国家体制に一新し、天皇支配の正当性を内外に示すために編纂された古事記、日本書紀(記紀)と、中国の三国志とでは編纂の時期、目的、意図が異なる事は言うまでもない。8世紀の記紀編纂者はあきらかに魏志の存在を知っていたにもかかわらず(神功皇后の項に注記で「魏志によれば倭国女王が魏に使者を送った」と記す)、邪馬台国や卑弥呼の名は一切言及していない。意図的に無視したのか、皇統との関連性を認めなかったのか、いずれにせよ、両文献の比較研究は思いのほか困難な作業であるようだ。

 みまきいりひこいにえのみこと(崇神天皇)は三輪山の西麓に拠点を置いた三輪王朝の始祖である。いくめいりびこいさちのみこと(垂仁天皇)など、イリの名を持つ大王がでたためイリ王朝とも言われており、これがヤマト王権の始まりではないかと言われている。一方、三輪王朝以前に葛城山麓を発祥の地とする葛城王朝があり、実在が疑わしいとされる欠史八代の天皇は、実はこの葛城王朝の王達であった、とする説もある。

 この三輪王朝も、4世紀後半に入ると河内に起こった応神天皇を始祖とするの河内王朝に取って代わられたのではとされる。仁徳天皇の聖君子伝説や、雄略天皇の武勇伝、古市古墳群や中百舌鳥古墳群に見られるような巨大古墳を残した王朝である。やがてはその王統が武烈天皇で途絶え、5世紀後半には越の国からオヲド王、継体天皇が大和に入り、飛鳥の地に宮都を開き、飛鳥を中心としたヤマト王権の時代が始まる。崇神天皇に始まる三輪王朝を初期ヤマト王権とし、このように王朝交代を経てヤマト王権が確立していったとする考えが定説になりつつある。

 崇神天皇の都は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)とされており、山辺の道に沿っている。また、陵墓は、天理市柳本町にある山邊道勾岡上陵山辺道勾岡上陵、やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に治定されている。考古学名は柳本行燈山古墳前方後円墳、全長242m)。

 ここ山辺の道のある山麓にはこの他にも景行天皇陵とされる渋谷向谷古墳、西殿塚古墳などの大型前方後円墳が並んでおり、大倭古墳群を形成している。また、卑弥呼の墓ではないかといわれている箸墓古墳もある。古墳時代の幕開けを象徴するエリアだ。実は、渋谷向山古墳(景行天皇陵)は柳本行燈山古墳(崇神天皇陵)よりも大きく、かつ年代測定法によると、より古いという結果がでていることから、渋谷向山古墳が本当の崇神天皇陵ではないかと言われている。

 また、纒向遺跡では水路跡や都市跡ではないかと思われる区画が広範に見つかっている。さらにJR巻向駅近くで卑弥呼の宮殿(神殿)ではないかと言われる神殿跡が見つかり、いよいよ邪馬台国近畿説論者を勢いつかせたことも記憶に新しい。また、卑弥呼が魏王から貰ったと記述のある三角縁神獣鏡が大量に副葬されていた黒塚古墳も柳本にある。もっとも、ほとんどが国内で造られた榜製鏡であることが、後の調査で分かった。

 ところで、魏志倭人伝によると、倭国は2〜3世紀、鬼道を用いる女王卑弥呼が支配する邪馬台国を盟主とする30カ国ほどの連合国家(クニのあつまり)であった。呪術により女王(巫女)が天の意志を伝え、男王がそれに基づいて政治を執り行う、という祭政一致の政治体制(ヒメ・ヒコ制)をとっていた。それが、記紀によると、崇神天皇の時代には、男王が、四道将軍の伝承のように武力を持って倭国全土の統一を図ったように記述されている。その勢力範囲は、せまい大和盆地内だけでなく、全国に拡大するようになる。さらに景行天皇の時代には、その皇子である日本武尊が、東征、征西、熊襲征伐を行い、武力で全国を平定したという英雄伝が語られている。

 そういう点では、崇神天皇の時代は、祭政一致、ヒメ・ヒコ体制、すなわち祭祀による統合の時代から、武力による統一に向けて大きく一歩を踏み出した画期の時代であったと考えられる。河内王朝の時代になると、さらに三韓征伐や熊襲征伐を断行したと言われる神功皇后や、雄略天皇のような武勇を誇る大王達が名を連ねる。5世紀の中国の史書である宋書に於いても「倭の五王」による倭国統一、朝鮮半島支配権を中国皇帝に認めさせようという記述が見られ、「そでい甲冑を貫き山河を跋渉し寧所にいとまあらず」となる。ここでも中国の史書と記紀との間で年代の相対比較が困難であるが、倭国は、呪術的権威による祭政一致支配体制の国から、武力を持った男の大王による権力基盤の国という変化が前面に現れるようになる。

 このように見ると、邪馬台国は果たして崇神天皇「みまきいりひこいにえのみこと」が築いた三輪王朝(初期ヤマト王権)との繋がりはあるのだろうか?邪馬台国はどこにあったか、という位置論争がハイライトを浴びているが、北部九州ににあったにせよ、近畿にあったにせよ、そもそも後のヤマト王権に繋がりのある国だったのか疑問がわいてくる。

 前述のように、記紀が意図的に邪馬台国にも卑弥呼にも言及していないということは、邪馬台国が、崇神大王に始まる倭国ヤマト王権、その後8世紀に始まる天皇制日本とは繋がらない国、王権であったことを示唆しているのかもしれない。あるいは意図的に中華世界で朝貢・冊封体制に取り込まれていた邪馬台国の系譜を避けたのかもしれない。しかし、仮にそうだとしても中国の三国志(魏志)にその名を記され、世界に認知されていた倭国、邪馬台国、その王たる卑弥呼やトヨが、後のヤマト王権とは異なる系譜の王権であったとしても、さらには何らかの形で邪馬台国からヤマト王権への王権交代、王権簒奪があったとしても、そのプロセス、歴史を記述しなかったのはなぜなのだろう。なにか「不都合な真実」が隠されているのだろうか?依然として疑問が残る。

 そう考えてゆくと、そもそも邪馬台国はこの大和盆地の三輪にあったのか?卑弥呼の墓ではないかと言われる箸墓古墳も、纒向遺跡で見つかった大型の神殿跡も、邪馬台国近畿説側から観た物証解釈で、邪馬台国や卑弥呼に特定できる証拠はどこにも見つかっていない(魏王からもらった「親魏倭王」の印か、封泥が出れば決定的だが)。むしろ崇神天皇「みまきいりひこ」の三輪王朝の遺構であってもおかしくないのではないか。纒向現地を巡ってみると、ここはやはり初期ヤマト王権発祥の地(すなわち三輪王朝の地)で、水稲農耕弥生文化の習俗を色濃く残していたであろう邪馬台国の匂いがしない気がする。やはり邪馬台国はこの三輪山麓や纒向ではなく、北部九州筑紫にあったのではないかと考え始める。卑弥呼やトヨの死後の倭国混乱のなかで、邪馬台国と倭国連合が崩壊し、その一部が筑紫から瀬戸内海を東に移動し、近畿大和に定住し武力を持って王朝を開いたのではないか。そのとき大和盆地や河内平野(潟)には先住民がいた。「にぎはやひ」を祖先とする物部氏系の先住部族だ(彼らもまた筑紫から東遷したとの伝承を有している)。それと戦い,融和して開いた王朝、それが三輪王朝ではないのか。(神武東征伝説のもとになる出来ごと)。

 天武天皇の時代、8世紀の律令制、天皇制、「倭」から「日本」への国号変更、公地公民制などの改革が次々と行われた時代、天皇支配の正当性、神代の昔から続く万世一系の天皇系譜の書である記紀、また中華帝国に対抗する新生「日本」の正史「日本書紀」にとって、魏志に記述された邪馬台国や卑弥呼は、あまり触れたくないものであったのだろう。まして、華夷思想に基づく蔑称である、倭や邪馬台国、卑弥呼の名を嫌い、を王統譜に入れなかったのかもしれない。また、記紀編纂事業が取り組まれた7世紀後半から8世紀当時、2〜3世紀の邪馬台国/倭国に関する本邦側の文字にされた記録も無く、口頭伝承された記憶があったとしてもかなり薄らいでいたのかもしれない。稗田阿礼も太安万侶も舎人親王も邪馬台国の伝承を受け継いでいなかったのかもしれない。したがって邪馬台国から初期ヤマト王権への移行のプロセスに関する記憶も無くなっていたのかもしれない。

 このように、卑弥呼の邪馬台国と、みまきいりひこの初期ヤマト王権との連続性はあったのか。王権としての断絶、フェーズ転換があったのか。いろいろ推測は出来ても、確固たる証拠は無く、まさに歴史のミッシングリンクである。ただ記紀編纂の時代背景から推測するに、邪馬台国や卑弥呼などの時代の「倭国」は、新生「日本」にとっては、あまり仔細に触れたくない時代の歴史だったのではないか。太古からの歴史をずっと見つめてきた三輪山は荘厳な佇まいで黙して語らず。人の手で創出された巨大な古墳群が山辺の道に威容を誇るが、陵墓の発掘調査はおろか立ち入りすら認められず、被葬者の声を聞く術もない。




崇神天皇の磯城瑞垣宮跡と伝承される金谷の志貴御県坐神社

三輪山をご神体とする三輪神社拝殿

三輪神社から大和三山、二上山が見渡せる

葛城山遠望

古代の官道と言われる山辺の道

檜原神社の真西には二上山が

三輪山

箸墓古墳

渋谷向山古墳(景行天皇陵)

行灯山古墳(崇神天皇陵)

山辺の道の背後にそびえる龍王山から見下ろす主な古墳


箸墓古墳

景行天皇陵。
その左手上部に纒向遺跡(神殿跡)発掘現場が見える

崇神天皇陵

黒塚古墳
大量の三角縁神獣鏡が出土した



参考までに、以前のブログを下記に掲載。
「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 纒向遺跡と箸墓古墳 古代ヤマトを歩く: 最近、あらためていろいろ古代史に関する本を読みあさっていると、主に考古学分野での研究成果の蓄積により、永年の「邪馬台国位置論争」にも一定の答えが見えてきたような気がする。 もちろん位置を特定する決定的な証拠(例えば当時の地図、親魏倭王の金印、卑弥呼を特定出来る遺物など)が出てこな...

2014年9月28日日曜日

Alpa Kern-Macro-Switar 50mm f.1.8 + Leica M Type240という不思議な世界

 スイスの伝説の一眼レフAlpa Reflexの標準レンズKern-Macro-Switar 50mm f.1.8。このとろけるようなマクロのボケを久しく味わってなかった。残念ながら本家Alpaのボディーで撮影する機会は極めて少なくなってしまったので、宝の持ち腐れであった。なんとか復活させたいと画策。そこで、Leica M Type240ボディーにマウントアダプター(Kipon製)を介して、この伝説のレンズを装着し、覗いてみることにした。

 なんと不思議な世界だろう。まず、Leica MのライブビューモードでMacro-Switarの像を直接見ることが出来る事に感動。あのとろけるようななだらかなアウトフォーカスが、液晶モニターに再現されているではないか。外付け電子ビューファインダー(EVF)を通して覗くと、まるで異界に引きずり込まれるような錯覚さえ覚える。開放で撮影すると,合焦深度(被写界深度)が極めて薄いので、ピント合わせは慎重に行わねばならない。幸いEVFを装着すれば正確なピント合わせが可能だ。

 Leica Mは好きだが、ライブビューモードが搭載されてもなお、レンジファインダーカメラの最短撮影距離70cm(NOCTILUXは1m!)の呪縛から逃れられない(逃れようとしない)Mレンズ群に対しフラストレーションを覚えるこの身にとって、このAlpa Macro-SwitarやNikkorのLマウントレンズのように、近接撮影が出来るクラシックレンズは魅力的だ。なんとか禁断の世界をLeicaで覗いてみたいと思うのは罪悪なのだろうか?ともあれ薄暗い防湿蔵の奥で長い眠りについていた名レンズが、Leica Mの限界と呪縛を打ち破る魔法のレンズとして再登場した事に興奮している。




ヤブラン
このなだらかなボケ。立体感すら感じる。
開放f.1.8

やっと咲いたデュランタの小さな花房も違う花に見える。
近接撮影開放f.1.8

もちろん標準レンズとしての描写も秀逸。
フィルム時代のクラシックレンズとは思えない。
f.5.6

Alpa 11el+Kern-Macro-Switarを開放f.1.8で撮影
ピント部分のクリスプな描写とアウトフォーカス部分のクリーミーな表情のコントラスト...

Leica M Type240にKern-Macro-Switar 50mm f.1.8を装着した勇姿
この写真は日本製コンデジで撮影。
破綻のない描写性能だが、良く写っているというだけであまり面白みがないのはなぜ?



2014年9月26日金曜日

當麻寺の謎 〜豊穣の時を迎えた當麻の里散策〜

 當麻寺は、創建の由来などはっきりした記録が残っていないが、飛鳥時代に聖徳太子の異母弟、麻呂子親王が河内から現在の當麻に遷した万法蔵院が起源だと言われている。あるいは地元の豪族當麻氏の氏寺であったとも言われ,詳細は分かっていない。いずれにせよ私寺であるが南都仏教の学問寺として開設され三論宗が講ぜられたようだ。しかし、奈良時代後半には西方浄土信仰、曼荼羅信仰で當麻詣でが盛んになり、平安時代になると弘法大師が真言密教の寺として再構築し、大師信仰の寺としても崇敬を集める。一方で中将姫伝説と阿弥陀信仰で、都人の憧れの地となり、浄土宗の聖地にもなってゆく。以降、真言宗・浄土宗共立の寺となる。その後平氏の南都焼き討ちで大きな被害を受けた寺も、多くの人々の信仰の力で再建され現在のような姿になったという。

 當麻寺は、古代大和の“西方”に位置し、白鳳・天平様式の大伽藍、多くの塔頭を有する古刹である。金堂の弥勒仏や四天王、梵鐘などの白鳳美術を今に伝えるほか、我が国最古の三重塔が東西一対で残る全国唯一の寺としても知られる。

 本尊として祀られる「當麻曼荼羅(たいままんだら)」は、奈良時代、藤原家の郎女・中将姫が写経の功徳によって目の当たりにした極楽浄土の光景を壮大な規模で表したもので、守り本尊「導き観音さま」とともに今も多くの人々のよりどころになっている。

 當麻寺の歴史、由緒については下記のウエッブサイトに詳しいので参照願いたい。

當麻寺の歴史(當麻寺のウエッブサイト) http://www.taimadera.org/history/index.html

 
伽藍配置の図(當麻寺ウエッブサイトから)
左下が現在の山門。東西の三重塔の間にかつては南大門があったのだろう。

 ところでこのように人気の當麻寺には、あちこちに謎が潜んでいる。不思議がいっぱいの寺である。例えば...

1)なぜ河内の近つ飛鳥から大和の當麻に寺が遷されたのか?
2)當麻曼荼羅は本当は誰がどのように紡いだのか?
3)なぜ真言宗と浄土宗の両宗共立となったのか?
4)なぜ伽藍配置が他の寺と異なっているのか?


 1)大和世界に身を置いてみると、太陽は三輪山から昇って、二上山に没する。これが古代からの大和人(やまとびと)の宇宙であった。三輪山と二上山はちょうど方位的に東西軸にあり、二峰とも自然崇拝、太陽信仰の象徴的な山であった。ことに仏教伝来以降は、日の没する二上山は西方浄土のシンボルとして憧れの聖山となった。こうしたことから、「夢のお告げで」河内の地にあった寺を大和世界の西方浄土の地に遷したという。河内近つ飛鳥は、もともと蘇我氏系の土地であり、瀬戸内海、難波の津を介して大陸からの外来文化が大和に達する通り道であった。蘇我氏の系譜を引く大王(用明天皇、敏達天皇、推古天皇、聖徳太子など)の墓が多く集まる「王陵の谷」と呼ばれるしなが谷もある。しかし、現世に於けるみやこ、飛鳥古京や藤原京、平城京からは山一つ隔てられた地であり、大和に学問寺を移設する合理性はあったのだろう。地元の豪族當麻氏の氏寺だとしても、大和と河内を分ける山塊を背にして、なぜ聖徳太子の異母弟が寺を移設したという伝承が残っているのかは依然として謎である。

 2)曼荼羅とは、仏法が描く宇宙観である。空海の真言密教も、難解な密教理論とその世界を分かりやすく見せる(可視化)するために、例えば京都の東寺の立体曼荼羅のような造形を作り上げた。當麻曼荼羅もこうした真言密教世界を解く仏画として有効なものだった。空海は嵯峨天皇の勅命により當麻寺に参籠し、中将姫が織ったと言う當麻曼荼羅の世界を感じ取ったのであろう。そしてそこを真言密教の道場とした。奈良時代の貴族のお姫様が、仏のお導きで西方浄土に赴くとそこに二上山があり、その麓に當麻寺があった。そこで夢に見た仏の世界を、出家剃髪した自分の髪や蓮の繊維で曼荼羅に織り上げた、という伝説は、密教を広めるためにも有効なレジェンドであったことだろう。中将姫は実在の人物だったらしいが、當麻曼荼羅制作にまつわる伝承は不思議で神秘的なものであるべきだった。真言宗、さらには後に浄土宗の浸透に有益なものとして大いに脚色もされていったのだろう。信仰にとって本当の作者は誰なのか、それは詮索する意味が無いのかもしれない。

 3)真言密教の金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅の世界観は、平安時代に入って盛んになった阿弥陀信仰、浄土信仰といった、浄土宗の教えにも合致するものでもあったろう。西方浄土に憧れ、導き観音により極楽浄土に旅立ったとされる中将姫、その仏教世界を現世に可視化した當麻曼荼羅が、浄土宗の布教に重要な役割を果たしたとしても不思議ではない。こうして平安時代以降、真言宗、浄土宗共立の寺院として栄えることとなったという。しかし、この両方の儀式を執り行うのは曼荼羅堂(すなわち当麻曼荼羅を祀る本堂)に於いてのみである。本尊弥勒仏がおわします金堂は真言宗の世界である事には変わりなかった。なお牡丹で有名な中の院、花の寺として有名な西南院は真言宗子院、護念院、奥の院は浄土宗子院である。

 4)伽藍配置を見てみよう。なにか不思議な配置であることに気づくだろう。奈良の大寺(東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺いずれをとっても)はたいてい南に山門(南大門)があり、そこから入ると左右(東西)に塔が配置され、正面(北)にご本尊を祀る金堂、さらにその後ろには講堂が配置される、いわば南北軸の伽藍配置である。

 ところがこの當麻寺は、まず東に寺の入り口である山門(仁王門)があり、正面(西)に本堂(曼荼羅堂)がある。そしてその手前、左に、本来だと伽藍の中心であるべき金堂が、右に講堂が並ぶ、さらに不思議なのは、金堂のさらに左(南)に日本最古と言われる三重塔が東西に並び立っている。これはどうしたことか? 順路に従ってご本尊弥勒仏を拝観するため金堂に入ると、いきなり大きな壁が立ちはだかっている。ここは弥勒仏、四天王の真後ろではないか。ぐるりと南側に回るとようやくご本尊を拝むことが出来る。なぜこのような向きになっているのか。

 実は、現在の當麻寺の伽藍配置を90度傾けてみると分かりやすい。かつては南に山門があったようだ。そこから入ると左右(東西)に三重塔が配され、正面(北)に本尊を祀る金堂が、その後ろに講堂が配置されている。南都大寺にある南北軸の標準的な伽藍配置であったのだ。しかし、いつしか南北軸が東西軸に変わってしまったので上述のような不思議が発生してしまったのだ。

 寺の由来説明では、かつては寺の南を通っていた竹内街道側から入るようになっていたものを、みやこが飛鳥、藤原京から平城京へ移るにつれ、みやこからの参詣者の利便性を考えて東から入れるようにしたのだろう、と。しかし、それだけではないだろう。先にその歴史を辿ってきたように、もともとは三論宗の学問寺、さらには真言密教の(女人禁制の)道場として、南北軸を基本とした配置であったものが、平安時代以降中将姫信仰、曼荼羅信仰、阿弥陀信仰が盛んになるにつれ、従来の曼荼羅堂を大きく拡張し、むしろ寺の中心的なお堂(現在の本堂)とし、それにつれて東から入って曼荼羅堂が正面に見える配置に変えたのだろうと思う。

 ちなみに境内の地形を見ると真南は山地になっていて竹内街道とは直接繋がっては居ない。また南大門の跡というようのものも見つかっていない。元々の南北軸時代の入り口はどうなっていたのだろうという疑問も残る。また、東西三重塔は金堂や講堂よりも高台に建っている。南北軸の伽藍配置とするにはかなり無理な地形で、不便でもあったのだろう。ともあれ、この伽藍配置の変化は、當麻寺の寺としての性格(すなわち南都仏教から平安仏教へ)の変遷を表したものではないかと思う。

 しかし、さらに不思議に思うのは、二上山との関係である。古代ヤマト人、飛鳥人が憧れた落日の聖なる山と、寺の関係に方位という点で関連性がが見えないのはなぜだろう。當麻寺の位置は二上山の真南でもないし、真東でもない。二上山は寺の北西方向に見える。一方、二上山は自死に追いやられた大津皇子の眠る山。當麻寺はその鎮魂の寺、怨霊封じの寺という役割も与えられたのであろう。あまり厳密に方角にこだわるのではなく、この美しい二上山麓の穏やかな里に憧れの聖地、鎮魂の寺があるということで良いのかもしれない。

 當麻の里は、今まさに実りの秋を迎え、何時にもまして豊かで美しく平和だ。大和国中を隔てて真東には三輪山を望むことが出来るこの地が、何時の時代にも人々の憧れの地であった事は不思議ではない。二上山の落日は今でも神々しく感動を覚える。そして近鉄当麻寺駅前の中将餅は何時食しても旨い。ただし、その日の朝に店で作った分だけ出すので、ここでしか食べれない。大人気(といって都会のように行列ができるわけではないが)なので寺を参詣する前に買わないと帰りには大概売り切れているから、念のため。




山門(仁王門)
本堂は東に面しており、参道はこの山門から遥か東に向って伸びている。

本堂(曼荼羅堂)
ご本尊は中将姫が紡いだと言われる當麻曼荼羅

三重塔
結構な高台に建っている

本堂(曼荼羅堂)から東方向を望む。
遠く飛鳥、藤原京を望むことが出来る。
右手が金堂、左手が講堂
金堂
現在はこちら側が参拝のための入口だが、実は金堂裏手にあたる。
ご本尊弥勒仏、四天王の後ろから入って参拝する形になっている。



講堂に建つ中将姫像

境内を駆ける現代の中将姫達

かつてはこちらが金堂正面であった。
金堂としては小振りだが,創建当時の原型をとどめているといわれている。

當麻寺参道
真東に一直線に伸びている


當麻の里

豊穣の時を迎えた當麻の里

現存する日本最古の東西三重塔

二上山から見る當麻寺

5月に催される當麻おねり

二上山残影。
心象風景描写はなかな入江泰吉先生のようにはいかない。
今回も結局どれも説明的な写真ばかりだ...

絶品!









2014年9月18日木曜日

思わず「大阪ラプソディー♪」 〜水都の夜景散策(堂島/中之島編)〜


 大阪は水の都。最近は「水都大阪」がキャッチフレーズになっている。太閤さんが拓いた商都大坂は、淀川を北辺に、東西横堀川と長堀川に囲まれた船場、長堀川と道頓堀川に囲まれた島之内、西横堀川の西に開かれた西船場。淀川の北に天満。こうした川と運河に彩られたナニワ大坂が、現在の大阪の原型である。

 淀川は元々はナニワの町に流入していたが、度重なる洪水に見舞われたため、戦前に市街地を北へ迂回して放流するルート(新淀川)を開削。現在は淀川の支流となった大川が中之島を挟んで堂島川、土佐堀川と分かれ、さらに合流して安治川となって大阪湾へと流れ込んでいる。この京都と瀬戸内海を繋ぐ川を利用した水運が大阪の街を殷賑なる商都にしたといっても過言ではない。堂島は天下の台所、大坂の中心であった。米の先物取り引き発祥の地。米会所が設けられ、その周辺の堂島、中之島には各藩が米を市場で現金化するため蔵屋敷、大名屋敷、御用商人が軒を連ねていた。

 現在は天満橋から中之島への川沿いの夜景が素晴しくキレイだ。橋やレトロビルがライトアップされ、散策用のプロムナードも整備され、おもわず「大阪ラプソディー」(歌詞では恋の道は御堂筋だが...それはどうでもよい)を口ずさんでしまう。この歌は、かつて東京とニューヨークを行き来していた時に、ANA便の機内音楽チャンネルで、なぜか何度も聴き、耳にこびりついてしまった歌だ。海外にいると,妙に歌謡曲が好きになる。ふだんは「歌謡曲人間」ではない私だが... 都はるみの「涙の連絡船」など、暗い機内で聴いていておもわず涙している自分がいた。「大阪ラプソディー」は,その後に大阪に住むようになって,突如、脳内に蘇り、「ビーック、ビック、ビック、ビックカメラ!」的な勢いで頭に響き渡り始めた。ちなみに,最初の頃は口ずさんでいると,いつの間にか途中からメロディーが「東京ラプソディー」に変わってしまったりした。なぜだろう?まあいい。

 中之島の夜景はまるでパリのシテ島のそれだ。いやニューヨークのマンハッタン島か。少し言い過ぎかな? ああ大大阪の夢よもう一度!



江戸時代元禄年間の大坂堂島界隈

淀川と東西南北に開削された掘に囲まれた街だ

夕闇迫る天神橋

土佐堀川、八軒屋浜から天満橋を望む
大阪のシテ島、中の島公園の噴水
天満橋と夕日に映えるOsaka Business Park(OBP)

中之島公会堂


OBPからの大川の夕景
天満橋、天神橋が美しい



昼間の堂島川
右手に市役所、日銀大阪支店、正面は大江橋
夜の堂島川