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2014年9月26日金曜日

當麻寺の謎 〜豊穣の時を迎えた當麻の里散策〜

 當麻寺は、創建の由来などはっきりした記録が残っていないが、飛鳥時代に聖徳太子の異母弟、麻呂子親王が河内から現在の當麻に遷した万法蔵院が起源だと言われている。あるいは地元の豪族當麻氏の氏寺であったとも言われ,詳細は分かっていない。いずれにせよ私寺であるが南都仏教の学問寺として開設され三論宗が講ぜられたようだ。しかし、奈良時代後半には西方浄土信仰、曼荼羅信仰で當麻詣でが盛んになり、平安時代になると弘法大師が真言密教の寺として再構築し、大師信仰の寺としても崇敬を集める。一方で中将姫伝説と阿弥陀信仰で、都人の憧れの地となり、浄土宗の聖地にもなってゆく。以降、真言宗・浄土宗共立の寺となる。その後平氏の南都焼き討ちで大きな被害を受けた寺も、多くの人々の信仰の力で再建され現在のような姿になったという。

 當麻寺は、古代大和の“西方”に位置し、白鳳・天平様式の大伽藍、多くの塔頭を有する古刹である。金堂の弥勒仏や四天王、梵鐘などの白鳳美術を今に伝えるほか、我が国最古の三重塔が東西一対で残る全国唯一の寺としても知られる。

 本尊として祀られる「當麻曼荼羅(たいままんだら)」は、奈良時代、藤原家の郎女・中将姫が写経の功徳によって目の当たりにした極楽浄土の光景を壮大な規模で表したもので、守り本尊「導き観音さま」とともに今も多くの人々のよりどころになっている。

 當麻寺の歴史、由緒については下記のウエッブサイトに詳しいので参照願いたい。

當麻寺の歴史(當麻寺のウエッブサイト) http://www.taimadera.org/history/index.html

 
伽藍配置の図(當麻寺ウエッブサイトから)
左下が現在の山門。東西の三重塔の間にかつては南大門があったのだろう。

 ところでこのように人気の當麻寺には、あちこちに謎が潜んでいる、いわば不思議がいっぱいの寺である。例えば...

1)なぜ河内の近つ飛鳥から大和の當麻に寺が遷されたのか(と伝承されているのか)?
2)當麻曼荼羅は本当は誰がどのように紡いだのか?
3)なぜ真言宗と浄土宗の両宗共立となったのか?
4)なぜ伽藍配置が他の寺と異なっているのか?


1)大和世界に身を置いてみると、太陽は三輪山から昇って、二上山に没する。これが古代からの大和人(やまとびと)の宇宙であった。三輪山と二上山はちょうど方位的に東西軸にあり、二峰とも自然崇拝、太陽信仰の象徴的な山であった。ことに仏教伝来以降は、日の没する二上山は西方浄土のシンボルとして憧れの聖山となった。こうしたことから、「夢のお告げで」河内の地にあった寺を大和世界の西方浄土の地に遷したという。河内近つ飛鳥は、もともと蘇我氏系の土地であり、瀬戸内海、難波の津を介して大陸からの外来文化が大和に達する通り道であった。蘇我氏の系譜を引く大王(用明天皇、敏達天皇、推古天皇、聖徳太子など)の墓が多く集まる「王陵の谷」と呼ばれるしなが谷もある。しかし、現世に於けるみやこ、飛鳥古京や藤原京、平城京からは山一つ隔てられた地であり、大和に学問寺を移設する合理性はあったのだろう。地元の豪族當麻氏の氏寺だとしても、大和と河内を分ける山塊を背にして、なぜ聖徳太子の異母弟が寺を移設したという伝承が残っているのかは依然として謎である。

2)曼荼羅とは、仏法が描く宇宙観である。空海の真言密教も、難解な密教理論とその世界を分かりやすく見せる(可視化)するために、例えば京都の東寺の立体曼荼羅のような造形を作り上げた。當麻曼荼羅もこうした真言密教世界を解く仏画として有効なものだった。空海は嵯峨天皇の勅命により當麻寺に参籠し、中将姫が織ったと言う當麻曼荼羅の世界を感じ取ったのであろう。そしてそこを真言密教の道場とした。奈良時代の貴族のお姫様が、仏のお導きで西方浄土に赴くとそこに二上山があり、その麓に當麻寺があった。そこで夢に見た仏の世界を、出家剃髪した自分の髪や蓮の繊維で曼荼羅に織り上げた、という伝説は、密教を広めるためにも有効なレジェンドであったことだろう。中将姫は実在の人物だったらしいが、當麻曼荼羅制作にまつわる伝承は不思議で神秘的なものであるべきだった。真言宗、さらには後に浄土宗の浸透に有益なものとして大いに脚色もされていったのだろう。信仰にとって本当の作者は誰なのか、それは詮索する意味が無いのかもしれない。

3)真言密教の金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅の世界観は、平安時代に入って盛んになった阿弥陀信仰、浄土信仰といった、浄土宗の教えにも合致するものでもあったろう。西方浄土に憧れ、導き観音により極楽浄土に旅立ったとされる中将姫、その仏教世界を現世に可視化した當麻曼荼羅が、浄土宗の布教に重要な役割を果たしたとしても不思議ではない。こうして平安時代以降、真言宗、浄土宗共立の寺院として栄えることとなったという。しかし、この両方の儀式を執り行うのは曼荼羅堂(すなわち当麻曼荼羅を祀る本堂)に於いてのみである。本尊弥勒仏がおわします金堂は真言宗の世界である事には変わりなかった。なお牡丹で有名な中の院、花の寺として有名な西南院は真言宗子院、護念院、奥の院は浄土宗子院である。

4)伽藍配置を見てみよう。なにか不思議な配置であることに気づくだろう。奈良の大寺(東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺いずれをとっても)はたいてい南に山門(南大門)があり、そこから入ると左右(東西)に塔が配置され、正面(北)にご本尊を祀る金堂、さらにその後ろには講堂が配置される、いわば南北軸の伽藍配置である。

 ところがこの當麻寺は、まず東に寺の入り口である山門(仁王門)があり、正面(西)に本堂(曼荼羅堂)がある。そしてその手前、左に、本来だと伽藍の中心であるべき金堂が、右に講堂が並ぶ、さらに不思議なのは、金堂のさらに左(南)に日本最古と言われる三重塔が東西に並び立っている。これはどうしたことか? 順路に従ってご本尊弥勒仏を拝観するため金堂に入ると、いきなり大きな壁が立ちはだかっている。ここは弥勒仏、四天王の真後ろではないか。ぐるりと南側に回るとようやくご本尊を拝むことが出来る。なぜこのような向きになっているのか。

 実は、現在の當麻寺の伽藍配置を90度傾けてみると分かりやすい。かつては南に山門があったようだ。そこから入ると左右(東西)に三重塔が配され、正面(北)に本尊を祀る金堂が、その後ろに講堂が配置されている。南都大寺にある南北軸の標準的な伽藍配置であったのだ。しかし、いつしか南北軸が東西軸に変わってしまったので上述のような不思議が発生してしまったのだ。

 寺の由来説明では、かつては寺の南を通っていた竹内街道側から入るようになっていたものを、みやこが飛鳥、藤原京から平城京へ移るにつれ、みやこからの参詣者の利便性を考えて東から入れるようにしたのだろう、と。しかし、それだけではないだろう。先にその歴史を辿ってきたように、もともとは三論宗の学問寺、さらには真言密教の(女人禁制の)道場として、南北軸を基本とした配置であったものが、平安時代以降中将姫信仰、曼荼羅信仰、阿弥陀信仰が盛んになるにつれ、従来の曼荼羅堂を大きく拡張し、むしろ寺の中心的なお堂(現在の本堂)とし、それにつれて東から入って曼荼羅堂が正面に見える配置に変えたのだろうと思う。

 ちなみに境内の地形を見ると真南は山地になっていて竹内街道とは直接繋がっては居ない。また南大門の跡というようのものも見つかっていない。元々の南北軸時代の入り口はどうなっていたのだろうという疑問も残る。また、東西三重塔は金堂や講堂、塔頭よりも高台に建っている。南北軸の伽藍配置とするにはかなり無理な地形であったような気がする。ともあれ、この伽藍配置の変化は、當麻寺の寺としての性格(すなわち南都仏教から平安仏教へ)の変遷を表したものではないかと思う。

 しかし、さらに不思議に思うのは、二上山との関係である。古代ヤマト人、飛鳥人が憧れた落日の聖なる山と、寺の関係に方位という点で関連性がが見えないのはなぜだろう。當麻寺の位置は二上山の真南でもないし、真東でもない。二上山は寺の北西方向に見える。一方、二上山は壬申の乱後の混乱のなかで自死に追いやられた大津の皇子の眠る山。當麻寺はその鎮魂の寺、怨霊封じの寺という役割も与えられたのであろう。あまり厳密に方角にこだわるのではなく、この美しい二上山麓の穏やかな里に憧れの聖地、鎮魂の寺があるということで良いのかもしれない。

 當麻の里は、今まさに実りの秋を迎え、何時にもまして豊かで美しく平和だ。大和国中を隔てて真東には三輪山を望むことが出来るこの地が、何時の時代にも人々の憧れの地であった事は不思議ではない。二上山の落日は今でも神々しく感動を覚える。そして近鉄当麻寺駅前の中将餅は何時食しても旨い。ただし寺を参詣する前に買わないと帰りには売り切れているから、念のため。




山門(仁王門)
本堂は東に面しており、参道はこの山門から遥か東に向って伸びている。

本堂(曼荼羅堂)
ご本尊は中将姫が紡いだと言われる當麻曼荼羅

三重塔
結構な高台に建っている

本堂(曼荼羅堂)から東方向を望む。
遠く飛鳥、藤原京を望むことが出来る。
右手が金堂、左手が講堂
金堂
現在はこちら側が参拝のための入口だが、実は金堂裏手にあたる。
ご本尊弥勒仏、四天王の後ろから入って参拝する形になっている。



講堂に建つ中将姫像

境内を駆ける現代の中将姫達

かつてはこちらが金堂正面であった。
金堂としては小振りだが,創建当時の原型をとどめているといわれている。

當麻寺参道
真東に一直線に伸びている


當麻の里

豊穣の時を迎えた當麻の里

現存する日本最古の東西三重塔

二上山から見る當麻寺

5月に催される當麻おねり

二上山残影。
心象風景描写はなかな入江泰吉先生のようにはいかない。
今回も結局どれも説明的な写真ばかりだ...

絶品!