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2015年1月23日金曜日

旧制浪速高等学校「イ号館」を訪ねる 〜父の青春時代の面影を求めて〜

 私の父は生まれも育ちも大阪天王寺、チャキチャキの(?)浪速っ子であった。以前、私がこのブログを始めるきっかけとなった大阪勤務時代、当時住んでいた天王寺の宿舎の近くに、父が旧制中学生時代まで暮らした住所と番地を確認することができた。しかし、父がその後進学した旧制浪速高等学校(浪高)へも行ってみたいと思いつつ、結局大阪在任中、この浪高のあった豊中待兼山を訪ねることができなかった。今は大阪大学の豊中キャンパスとなっている旧制浪速高等学校跡には、本館である「イ号館」が残っており、大阪大学会館として保存活用されているという話を大阪大学OBの同僚には聞いていた。

 旧制浪速高等学校(浪高)は、1926年(大正15年)に大阪府立の公立7年制校(尋常科4年、本科3年。のちに尋常科は廃止された)として創立された。その後、終戦後の1949年(昭和24年)には学制改革で大阪大学に包含され、翌年に廃校となった。その間、たった24年という短い歴史ではあるが、政官界、財界、学界に戦後の日本を代表するリーダーを多く送り出した旧制高校として知られる。制服はボタンのない「海軍式」で、上からマントを羽織り、かっこよかった、と父も語っていた。学生は、やはり地元出身者が多かったようで、当時、大阪が日本一の経済都市で「大大阪」と呼ばれていた時代に創設された学校だけに、地元財界の御曹司など都会的でスマートな学生が多かった、と言っていた。旧制高校といえば、弊衣破帽に朴歯下駄という「バンカラ」が主流であった時代に、やや異色の旧制高校だったのかもしれない。

 一方、大阪には官立の旧制大阪高等学校(1921年大正10年創立)もあった。やはり戦後の学制改革で廃校となり大阪大学に包含されたが、こちらはキャンパスが引き継がれず消滅してしまった。旧制高校は戦後、新制大学に包含、改組され、旧ナンバースクールは、一高が東京大学に、二高は東北大学に、三高は京都大学に、四高は岡山大学に、五高は熊本大学に、六高は金沢大学に、七高は鹿児島大学に、八高は名古屋大学に、それぞれ包含、改組された。旧帝國大学では九州大学が旧制福岡高等学校を吸収し、大阪大学が旧制浪速高等学校と旧制大阪高等学校を吸収した。ちなみに浪高も一部の教官と蔵書は、府立浪速大学、のちの大阪府立大学に引き継がれた。父もよく大高は官立なのに無くなってしまい、卒業生はかわいそうだ、と言っていた。

 父の浪高時代の青春は、勉学一筋であったようだ。学究肌を地で行くような人で、もともと愛だの恋だの、ナンパな話は聞いたことがなかった。かといって、硬派ぶってバンカラ風を愛するわけでもなく、端然としていたようだ。浪高では弓道部に属し、各地の旧制高校との他流試合に出かけたといっていた。旧制松江高校との試合では、松江高校が駅まで出迎えに来て、黒山の人だかりの駅前で蛮声を張り上げてエールの交換を行い恥ずかしかった、と語っていたくらいだ。また、ご時世で、軍事教練では、分列行進、閲兵の指揮をとらされ「大声を出すのが大変だった」と述懐していた。確かに、父は、成績優秀でひときわ長身で目立つ体躯だったので、選抜されたのだろうが、サーベルで号令かけている父を想像できない。

 このように、父には中学時代から自ら興味のある研究テーマがあり、「その研究のため」という明確な進学理由を持っていたので、あまりそれ以外のことにうつつを抜かす、というようなことはなかったようだ。本人の希望としては、そのためには名古屋の八高へ進学したかったようだ。のちに祖母や父から聞いたエピソードで、浪高理科に合格したのち、大阪駅から八高受験のため名古屋に向かおうとしていた父を、中学の担任の先生が大阪駅まで「浪高に行け」と連れ戻しに来たそうだ。

 結局浪高に進学したが、そこで父は、後の人生に影響を与える多くの友人を得ている。父自身はその後、東京帝大に進み学界で研究者、教育者として活躍することになるが、その浪高人脈は、学界にとどまらず、財界、政界、官界で活躍する、いわば戦後復興期のリーダーたちのそれである。父の晩年まで各方面に活躍する同窓生との交流があったことを覚えている。この待兼山でのいい意味でのエリート教育と、多彩な人脈がのちの父を育てたといっても過言ではないと思う。羨ましい青春時代を送ったものだ。いや、羨ましいと言わしめるのも、のちの父の壮絶な学究人生を振り返ればこそである。あの時に培われたものが大きかったんだと。


 この度ようやく父の母校、旧制浪速高等学校を訪ねることができた。場所は豊中市の待兼山。父からよく聞かされた地名だ。同窓会誌が「待稜」であったことを覚えている。阪急石橋駅から坂を登り歩くのが正面ルートのようだ。父もそうして通っていたと話していた。ちなみに旧制高校は全寮制が多くて、私の子供の頃まで、旧制高校OBが全国寮歌祭なるものを毎年開催していて、NHKテレビで全国放送されていたのを覚えている。しかし浪高は全寮制ではなく、通学生が多かったそうだ。父も生まれ育った天王寺からこの頃には豊中に引っ越して自宅から通っていた。「孟母三遷の教え」。子供の教育のために引っ越した祖父母の父への愛情が感じられる。

 現大阪大学豊中キャンパスには、浪高本館「イ号館」が修復保存され、大阪大学会館として待兼山にそびえ立っている。ここに立つと、待兼山の名にふさわしく大阪を一望に見渡すことができる。とても風光明媚な地だあることがわかる。「イ号館」の前にはかつて、父が水練に勤しんだという池も半分残っている。弓道場は今も阪大弓道部が使っているとか。なんと緑濃い素晴らしいキャンパスだ。比較的新しく帝国大学(8番目)になった大阪大学にとって、「イ号館」は現在残る唯一の歴史的建造物(2004年登録有形文化財)としてキャンパスにアカデミックな風格を醸し出している。「時空トラベラー」にとってここに立っていること自体が得難い体験だ。

 ところで、今回の私の大阪大学訪問の主目的は、法学研究科での特別講義である。父と違って理系の学究の道を歩んだわけでもない「不肖の息子」が、亡き父の母校を図らずも訪れることができ、そこで、長く通信事業に身を捧げた会社人生を背景とした講義が出来たことは感慨ひとしおであった。講義を熱心に聴講してくれた若い学生諸君の澄んだ瞳に、そして講義の後の活発な質疑応答に「待陵」若人のアカデミックな伝統と父の青春時代の面影を見たような気がした。



旧制浪速高等学校生(理科)の集合写真
青春群像!
「イ号館」横の土手で撮った写真だと思われる

その石段が今も残っていた!
「イ号館」から理科特別教室へ移動する若き日の父(右)
写真の裏に昭和15年4月とある

浪高「イ号館」
父の卒業アルバムから


現在の浪高「イ号館」
修復保存され「大阪大学会館」として豊中キャンパスのランドマークとなっている。

「イ号館」を望む「浪高生の像」


同窓会により寄付された「浪高庭園」
リノベートされているがファサードの原型は残されている
階段は往時のままだという
館内廊下
         エントランス部のレリーフは往時のまま復元
当時の浪高キャンパス配置ジオラマ
エントランスに展示されている

この池には「水練場」があった
手前の石柱は当時池の周りを囲っていた柵の跡だ。

現在は大阪大学豊中キャンパス

法文系キャンパス

法学研究科特別講義
若き阪大生の瞳に父の青春時代の面影を見た




2015年1月19日月曜日

「無鄰菴」庭園散策 〜京都南禅寺界隈別荘群を巡る(1) 〜

 京都東山南禅寺界隈は明治期から昭和にかけての政財界人が建てた別荘が集まる地域としても知られている。對龍山荘、野村碧雲荘、真々庵などの有名なものを始め15邸があると言われている。これらの別荘は、それぞれ東山を借景とした広大な庭園を有しており、また琵琶湖疏水を利用した水の流れを庭作りに生かしていることも特色である。それぞれに伝説的な作庭師が庭作りに腕を振るい、時代の流れとともにその別荘のあるじが変わっても、カリスマ庭師の子孫や弟子たちが、代々庭を守っている。これも伝統工芸そのものだ。京都という町の伝統の奥深さを改めて感じることができる。

 もともとこの辺りは南禅寺の広大な寺域で、多くの塔頭あったところだ。明治初期の廃仏毀釈の動きの中で、これら塔頭の多くが取り壊され、その跡地を緑豊かな別荘地にしたのが始まりだ。また南禅寺境内には、明治維新後に建設されたレンガ造りの琵琶湖疏水の水路閣が、ローマの水道橋風に、一見場違いな風情で連なっている。この空間はまことに不思議な空間だが、今となっては1200年の都らしく、時空を超えて中世と近代が同居する景観となって、すっかり違和感がなくなっている。実はこの疎水が運ぶ琵琶湖の水がこの界隈の別荘群にとって重要な修景エレメントになっている訳だ。

 ただ残念なことに、こうした別荘群のほとんどが一般には非公開である。私的な邸宅であり、企業の迎賓館として所有されたりしている。こうした別荘は時代の流れで所有者が変わってゆく。明治、大正、昭和初期には関西という大きな経済圏を背景に、財界人や、明治政府の元老や政界人が造営、所有してきた。終戦後は、一部進駐軍が接収して将校ハウスに利用され、無残な改造を受けたりした。やがては、日本の復興、経済成長とともに個人所有者から大手企業や宗教団体が所有するようになる。中には何有荘のように、シリコンバレー一の日本通、オラクルの創業者ラリー・エリソンがクリスティーズのオークションで落札し、修景保存工事を行っているところもあるなど、時代を映し出すものとなっている。

 その中にあって、今回訪ねた無鄰菴(むりんあん)は公開されている数少ない別荘の一つである。無鄰菴は明治の元老山県有朋が明治27〜29年(1894〜96年)にかけて造営した別荘である。この山県有朋こそ、荒廃した南禅寺界隈に別荘を営んだ最初の人である。その大半を占める庭園(面積3,135㎡)は第7代小川治兵衛(屋号:植治)の作庭による。やはり東山を借景に、疎水の水を取り入れた池泉回遊式庭園である。母屋は木造二階建ての比較的簡素なもの。建物は、この他に茶室と煉瓦二階建ての洋館を含めた3棟で構成される。

 この洋館は、よく見ると煉瓦建ての頑丈な土蔵のような建物になっている。元老の身辺防備の意味もあったのだろうか?しかし、その二階には江戸時代初期の狩野派による金碧花鳥図で飾られた洋間がある。明治期に流行った和様折衷のインテリアであるが、ここは、日露戦争前、我が国の外交方針を決める、いわゆる「無鄰菴会議」が開かれたところである。明治36年(1903年)4月21日、元老山県有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎がこの二階に会した。この会議の翌年の2月にはついに日露開戦となり、明治日本が一つの画期ををなすこととなる。この東アジアの新興国は辛くも欧亜にまたがる大国ロシアとの戦いに勝利し、東アジアに帝國版図拡大の一歩を大きく踏み出す。しかし、皮肉にもこの日露戦争での勝利がのちの大日本帝國の崩壊の第一歩だったとも言われる。トップが集まり、新興国日本のその後の運命を決する意思決定を行った。その歴史的の舞台がここ無鄰菴洋館の二階なのだ。


植治作庭の庭園





この洋館の二階で「無鄰菴会議」が開催された

折上格天井に狩野派の金碧花鳥図という
洋間で4トップが会した

広大な敷地を囲む塀
京阪電車HPより引用

2015年1月7日水曜日

LeicaMレンズの最適プラットフォーム SONY α7II登場! 〜それでもLeica Mで撮る意味とは?〜

 謹賀新年。2015年もまたよろしくお願い申し上げます。


 いきなりカメラ談義で今年のブログスタート。

 SONYは最近素晴らしい製品を次々市場に投入してくる。といっても、トリニトロンやウオークマンじゃない。VAIOでもない。そっちの方は最近からっきしダメだ。どうなっちゃったの?あのSONYは... 私が言ってるのはカメラの話だ。SONYじゃなくて旧ミノルタなのかもしれないが、こっちは凄い!

 Eマウントのフルサイズセンサー、ミラーレスカメラα7シリーズに、ボディー手振れ補正機能のついたIIが出た。α7の新シリーズと言ってもいいほどの大改造だ。グリップ部形状が変わり、大きくて握りやすくなった。シャッターボタンの位置も一眼レフに慣れた人には有難い。レンズマウントはややボディー中央部に移動。このバランスがまた良い。ちりめん状のマットブラック塗装で道具としての風格もグッと増した。ボディーサイズは全体に少し大きくなったが、個人的にはこれまでのSONYの軽小短薄路線は、好きでなかったので、むしろ私好みに近ずいて来てくれた。やっとSONYのカメラに私も関心が向くようになった。カメラはしっかりしたホールディングと安定感が必要なので、それなりの大きさと重量感、剛性感がなくてはダメ。軽小短薄ではダメなのだ。

 しかし、何と言ってもα7はライカMマウントレンズを楽しむためのM代替ボディーとして最適なのだ。α7IIにコシナのクローズフォーカスリング付きVM/Eアダプターを装着。これをベースとしてライカMレンズ群をとっかえひっかえ遊ぶことができる。これまでライカMボディーで撮影の度に溜まっていったフラストレーションが雲散霧消するのが小気味良い。特にレジェンド、名レンズNoctiluxのマザーボディーとしては最高だ。この開放f値1、最短撮影距離1mという扱いにくい老眼レンズも、やっと防湿庫の闇から出して使うことができるようになる!

 ライカMと比較したα7IIのメリットは、

1)先ほどのマウントアダプター併用で、近接撮影ができるようになる。このNoctilux 50mmを近接撮影で使えるだけでもOKだ。とろけるようなアウトフォーカス部分のなんとも言えぬ美しさ。これが本家ライカMボディーの、最短撮影距離1mという老眼レンズと距離計連動光学ファインダーという組み合わせでは味わえないのだからフラストレーションが溜まっていた。。

2)マニュアルフォーカスでも、ピント合わせが容易だ。Noctiluxを開放f値で撮る時、Mの光学レンジファインダーでは、ピントあわせが非常に難しい。被写界深度が極端に浅いレンズなので、ファインダーで見ると合っているが、実際の写真では微妙にピントが来ていない。ライカの外付EVFはイマイチの解像感。しかも拡大表示するとますますピントがギザギザで山がつかめない!その点α7IIの方は、内臓EVFの解像度が凄い。ピント拡大表示も容易でクリアー。フォーカスアシスト機能も非常に明快(ライカMのそれは、いったい何なんだろう?)

3)露出補正ダイアルが、軍艦部に鎮座しているのもいい。すぐにアクセスできるということには妙な安心感がある。ライカMはオート撮影を主体に想定していない。ユーザの要望が多いので「妥協した」のだろう。マニュアル撮影(露出絞りとシャッタースピードを合わせて撮る)での撮影を想定しているので、あくまで露出補正はサブなのだ。私のようにオート+露出補正を多用する場合はα7IIの方が良い。

4)そこに、この度α7IIではボディー内手ぶれ補正機能(5軸手振れ補正、要するにどっち方向に動いても補正します、という優れもの)が加わったのだ。SONY純正Eマウントレンズでなくてもマニュアル設定で手振れ補正できる。特に望遠系レンズを装着するときは絶対有利。4段ほどの効果がある。ライカはMもXもTも、何故手振れ補正を取り入れないのか? スナップ撮影を想定したTなんかでも、これから望遠ズームがラインアップされるというのに。あのヤサ男のような薄っぺらいボディーに太くて重い望遠レンズ装着では、バランスが悪く手持ち撮影は無理だ。

5)スイッチオンからの立ち上がりが早く、レスポンスがキビキビ、サクサクしていて気持ちが良い。以前のα7で感じたシャッターのワンテンポディレー感も無くなった。全てにスローでまったりしたライカMの感覚とはかなり違う。

 ほかにも色々優れた機能がてんこ盛りだが(各種フィルター設定や、超解像ズームなど)、それは別にしても、本家よりもライカMレンズの性能を余すところなく味わえる仕様となっているのがなによりも嬉しい。安心感、信頼感があることも心地よい。Noctiluxのような高速レンズこそこのα7IIの標準レンズかもしれない。

 Mほどではないが、道具としての質感も高まった。画質も解像度、歪曲収差、周辺部減光もいいし、ライカMレンズの色味、高解像感をよく再現できるチューニングになっている。安心してMレンズ群を堪能できるようになったと思う。

 さてそうなるとライカMはもういらない?「売っ払おう!」。 いや「待て待て。ライカは売らない。」「何故?」自問自答が始まる。断捨離のできないモノへのコダワリ症の自分だからなのか。「それでもライカMで撮る」ということにはどういう意味があるのだろうと考えてみる。

 ライカMよりはるかに安くて、便利で、しかも高機能なα7IIがあれば、Mはいらない。持ってれば売り払う、というのが合理的考え方だろう。そうする人もいるだろう。しかし、ライカは他のカメラとは異なるカメラなのだ。どこが違う? レンジファインダーカメラは一眼レフカメラと異なり、シャッター押す瞬間まで、フレームの周辺が見える。そこで被写体の動きを予測できる。イマジネーションが沸き立つ。故にライカは作品作りに手放せない道具であると主張する写真家は多い。被写体が人物や、ストリートスナップなどの場合、確かに一眼レフの切り取り画面周辺がブラックアウトしたファインダーよりいいかもしれない。

 だが私にとって、ライカで撮るということには特別の意味があるのだ。確かにレンジファインダーの効用はある表現者にとっては合理的であろう。しかし、厳密のフレーミングが求められる風景写真や動きの激しいスポーツ写真、鉄道写真などには適さないだろう。そういった、技法の合理性や、テクノロジー最適化というロジカルな判断基準では計れない価値があるのだ。ライカは、単なる撮像装置、デジタル写真機ではなく、それを超えた「何か」なのだ。これを「操る」ということが特別な意味を有する「体験」(experience)なのだ。あえて不便さを楽しむ。シンプルだが作りの良い道具を自分流に使いこなす。庭を愛でながら茶室に佇まい、利休好みの黒茶碗で茶を飲む、という体験自体に意味が有るのと同じなのだ。それが「茶道」という「道」であるのと同じく「ライカ道」なのだ。楽しみなのだ。いやアートなのだ。

 ライカユーザの、高い金を払わされてコレか、というちょっとしたガッカリ感から来る負け惜しみじゃないんだ。むしろその不便さを楽しむというのがライカを体験するということなのだ。くどいが、そうなんだ。と、何度も言い聞かせている自分がいる。不思議なカメラだ、ライカってやつは。


 SONYα7IIとNoctilux 50mm f.1の組み合わせ作例をご覧にいれましょうぞ(いずれもJPEG)。

SONYα7II+Noctilux 50mm f.1
クローズドフォーカスリング付きアダプターでなければこれだけ寄れない。
Leica Mボディーでは撮れない画だ。なんと言う皮肉!

SONYα7II+Noctilux 50mm f.1
ライカレンズの見事な立体感が表現できている

SONYα'II+Noctilux 50mm f.1
アウトフォーカスへのなだらかなボケとピント部分のクリアーな写り
SONYα7II+VoigtlaenderVM-E Close Focus Adaptar+Noctilux 50mm f.1
ホールド感、見た目のバランスも良くて最高の組み合わせだ!
これはLeica D-Lux(Type109)で撮影。


2014年12月22日月曜日

映画「黒田、藩主やめるってよ」 〜大河ドラマ「軍師官兵衛」続編登場か?!〜

 今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」がついに大団円。かつて司馬遼太郎の「播磨灘物語」で描かれたものの、これまであまり歴史の主人公としてハイライトを浴びることのなかった人物にもかかわらずこれだけ話題になった大河ドラマも珍しい。史実と異なる、という論争も喧しいが、歴史ドラマとして楽しめるストーリー展開と、知られざる官兵衛の魅力がよく描き出されていて面白かった。それでいい。

 最終話は、黒田官兵衛孝高(如水)とその子長政二代で勝ち取った筑前国五十四万石。福岡城築城の復元CGも登場(なんと小さく右隅に天守閣らしき建物が...) しかし如水はそんなもので満足するつもりはなかった。関ヶ原で徳川東軍と石田西軍が争っている間に、九州から攻め上がって天下を取るという野望。しかし関ヶ原の戦いが予想より早く、たった1日で決着したので、せっかく九州を平定したのに、東へ攻め上る機会を失ってしまった。しかも息子長政の関ヶ原における活躍のせいで...皮肉なものだ。という筋書きだ。「内府殿がお前の右手を握って武功をたたえたというが、その時お前の左手はなにをしていたのだ」という如水の長政に対する有名な言葉も再現されている。

 これらエピソードは後世、福岡藩第3代藩主黒田光之の時、福岡藩の儒学者貝原益軒が表した「黒田家譜」に記述されているもの。ごたごた続きで藩政にほころびが出るなか、祖先の偉業を思い起こさせて奮起させようと書かれた「如水武勇伝」だ。如水に本当にそんな野望があったかどうか今となってはわからないが、藩祖が太閤、家康に一目置かれた英雄であることを強調する逸話として記録されている。初代藩主長政が家康に重用されていたのは間違いなさそうだ。関ヶ原以後の豊臣恩顧の大名、肥後熊本藩主加藤清正も安芸広島藩主福島正則も早くに徳川幕府に取り潰しにされているが、黒田長政だけは明治まで続く筑前福岡藩主の家系を残した。もっとも如水、長政の嫡流の血統を引き継ぐのは6代目継高まで。

 筑前黒田家では早くから正史としての「黒田家譜」が編纂されたので、比較的詳細な歴史を辿ることができる。黒田一族は、近江源氏佐々木氏の末裔(したがって黒田軍の旗印は近江佐々木の平四つ目紋に佐々木大明神)で、出身地が近江黒田の庄であったが、故あって備前福岡に移り住んだという。ちなみに我が一族のルーツも近江佐々木の末裔で、黒田とは祖先を共有していると我家の家系図にある。もっとも戦国時代には、武士が名のある家に仕官するする際に、自らのルーツが正統な血筋であることを証明するために、しきりに「系図買い」が行われたようだ。黒田家の出身地についても論争があり、元々は備前の土豪であるが由緒正しき宇多源氏の血を引く近江佐々木の一族である、としたのかもしれない。日本書紀の例をまつまでもなく、正史というものの性質上、その一族の系譜がいかに由緒正しき血筋で、天下を治めるにふさわしい祖霊を有しているか、ということを伝えるために記述されているわけだから、全てが史実であるとは言い切れない。文献による歴史研究にあたってその点を念頭に置いておく必要があることは言うまでもないが、黒田家祖先の必死の乱世生き残り作戦と、そういう戦国の時代背景を垣間見ることができて面白い。

 ところで、その後の福岡藩黒田家はどういう道を辿ったのか。如水、長政父子の活躍ののち、平和な時代になってからの三代目(第2代福岡藩藩主)はあの黒田騒動を引き起こした忠之だ。長政は、度量が狭くて粗暴な性格の長男の忠之ではなく、人望の厚い三男の長興(のちの秋月藩藩主)を福岡本藩藩主後継に決めていたが、栗山大膳(あの官兵衛/如水の右腕と言われた栗山善助の子)ら重臣に反対され、結局忠之を後継者とする。しかし、長政が生前危惧した通り、長政の死後、忠之は暗君/暴君ぶりを遺憾なく発揮し、如水、長政以来の重臣との間に軋轢が生じ、ついには御家騒動に発展する。当時幕府は外様大名の締め付けを強めており、主君と家臣の争いは、お家取りつぶしの格好の材料であった。これを案じた栗山大膳は、敢えて幕府に訴え出るという手段に出た。主家を守るための捨て身の行動であった。結果的には黒田家は、幕府により一旦領地召し上げとなるが、再び黒田に領地を与える、という苦肉の策によって救われる。黒田家を守ろうとこの御家騒動を幕府に訴え出た忠臣栗山大膳は、結局、騒動を起こした狂人として陸奥盛岡藩お預けとなる(盛岡藩では流人としてではなく忠義に人として遇されたという)。いらい栗山家は盛岡の地に足を下ろすことになる。如水から栗山善助が託されたあの赤合子兜も、今ではもりおか文化館に保存、展示されている。

 黒田二十四騎という最強家臣団もこの頃には散りじりになる。ドラマでも最後の付け足しエピソードみたいに触れられていたように、後藤又兵衛は長政との確執で黒田家を出奔し、大坂の陣で大坂城に籠城し戦死している。ドラマでいつも如水に寄り添っていた側近中の側近、栗山善助の栗山家は前述のとおり黒田家を去ることとなり、また井上九郎右衛門の井上家はその後黒崎城主となるが、忠之によって断絶させられる(いわゆる井上崩れ)。登場人物で、今でも福岡に子孫の方が残っているのは「黒田節」の主人公、母里太兵衛の母里家。また長く黒田家の家老を務めた三奈木黒田家だ。官兵衛が荒木村重の説得に向かい有岡城に幽閉された時に、牢に繋がれた官兵衛を手厚く面倒観た牢番の息子を解放後に家臣に取り立てている。これが三奈木黒田家の始祖黒田一成だ。

 忠之の時代の黒田騒動は、その後も尾を引き、三代の光之の時代になっても家臣とのゴタゴタが絶えず、かつての家臣団との結束を取り戻すことはできなかった。古株の家臣団に対する若殿の息苦しさもわからないではないが、結局家の結束を壊してしまったのでは何もならない。この頃、創業の精神を、と貝原益軒によって著されたのが、先ほどの「黒田家譜」である。光之の偉大なる祖先への回帰運動も功を奏さなかったようだ。

 こうして関ヶ原以来、徳川家/幕閣に信任のあった黒田家は徐々にその存在感を失ってゆく。かわって代々黒田家と対抗関係にあった細川家が九州における徳川の藩屏となってゆく。雄藩薩摩の島津家との関係を取り持つため肥後熊本藩に移封されたのもこのためと言われている。

 お世継ぎ問題も黒田家を悩ませた。如水の血筋が継承されたのは第6代継高まで。その後は御三卿の一つ、一橋徳川家からの養子が黒田を継ぐようになる。その後も京極家、藤堂家や島津家からの養子が藩主となるが、正室が徳川家から嫁すなど、徳川家の家系に取り込まれてゆく。福岡本藩の方はこうして如水の血脈は途絶える。

 しかし、如水/長政の血筋は長政の三男長興の秋月藩黒田家に引き継がれ、明治維新まで続く。こちらも途中で他家からの養子が藩主を継ぐが、女系で黒田の血統は継承される。そのなかにあの上杉鷹山の甥で高鍋藩秋月家から黒田家に養子に入った長舒がいる。ちなみに秋月氏は黒田入府前の秋月の領主で、島津方についていたが、秀吉の命を受けた官兵衛の九州平定時に降伏し、日向高鍋藩に移封された。黒田家への養子とはいえのちに旧領に返り咲いた訳だ。歴史の巡り合わせというほかない。この秋月藩も忠之によって一時福岡本藩への吸収合併の危機にさらされるが、藩主長興の機転により、福岡藩とは別に幕末まで幕府内にも独自の序列を保つ秋月黒田家として存続することとなる。

 福岡本藩に戻ろう。幕末期には薩摩島津家からの養嗣子として入った第11代藩主長溥は、年の近い島津斉彬と兄弟同様に育った。斉彬同様、英明な君主で蘭癖大名として名をはせる。しかし、薩摩、長州、土佐、肥前と並ぶ尊皇勢力を誇った筑前も、最後の最後に筑前勤王党一派を大弾圧し、家老の加藤司書らを処刑してしまう。これで西南雄藩には珍しく福岡藩は佐幕派と見なされ、維新に乗り遅れてしまう。さらに明治新政府になり、贋札事件で藩知事黒田長知はその職を追われる。如水、長政以来、あの黒田騒動をも乗り切って、一度も改易も断絶も受けなかった黒田家は、明治に入って最後の改易大名となる。しかも廃藩置県の前に...

 藩祖如水、初代藩主長政の武勇伝に比し、その末裔の辿った道筋は決して華々しいものではない。あまり「運が巡ってまいりましたぞ」とはいかなかった。むしろ運を掴めなかったのかもしれない。しかし、これは黒田家に限らない。名門と言われる家系でも、代々名君が続くケースの方が稀だ。ましてお世継ぎ問題は大名家の最大の頭痛の種であった。徳川将軍家でもその事情は同様である。黒田家だけが悲劇に見舞われたわけではないが、早い時期に創業時の武勇伝を「黒田家譜」に残した分だけ、かえって後世の落魄ぶりが顕著に際立ってしまう。あの黒田二十四騎も伝説となってしまった。江戸後期の10代藩主斉清の時に二十四騎の絵が復刻され、今でも福岡や博多の町屋の神棚にも祀られているが、これは黒田家の体たらくを見かねた斉清が、黒田家創業の精神を思い起こさせるため、絵師に二十四騎一人一人の往時の姿を調査させ、忠実に再現したものだという。結果、より伝説として神格化されてしまったわけだ。

 初代は苦労して未踏の荒野を開拓して一家をなし、二代目はその初代の背中を見て育ったので一族隆盛の基盤を確かなものにし、しかしてその三代目は平和で安定した中で生まれて苦労を知らずボンボン育ち。創業以来の家臣にも愛想つかされ家を潰す。「唐様で売り家と書く三代目」だ。

 ビジネスの世界も同じだ。創業者のイノベーティブなビジョンと行動力、ハングリー精神。突破力。それを受け継ぐ創成期の後継者たち。やがては安定した大企業となりエスタブリッシュされた組織となり、攻めの経営から守りの経営へ。創業者の家訓だけは壁に貼ってあるが、いつしか創業の精神は失われる。組織防衛と自己保身にのみ知恵を回すトップとその取り巻きが続出するとき、その企業は終わる。今の日本に思い当たるところがあるだろう。

 大河ドラマ「軍師官兵衛」の続編を誰か企画しないかなあ。タイトルは「黒田、藩主やめるってよ」!? そんな映画ありえへんか!

黒田二十四騎図
あの井上九郎右衛門が城主であった黒崎の春日神社に奉納されたものだが
黒田大明神とともに神格化され神社の御祭神となっている



福岡城多聞櫓
47もの櫓を配した堅固な縄張りの福岡城も
今はこの多聞櫓と潮見櫓などの復元櫓しか残っていない。

秋月黒田家の城館
今でも城下町の原型を色濃く残す筑前秋月は福岡の変貌ぶりと対極を成す。

2014年12月19日金曜日

東京の夜景 Night Skyline of Tokyo

東京は夜景の美しい街だ。だが日本三大夜景には入っていない。長崎、神戸、函館が挙げられている。これらはいずれも稲佐山、摩耶山、函館山など、街を俯瞰できる展望場所があることが共通点だ。東京のように平地に広がる大都会は全体を見渡す場所がないことから、「三大」には選ばれないことが多い。せいぜい高層ビルやタワーの展望台から見渡すことができるくらいだが、この夜景は世界一だと思う。

3枚の写真は、新しくできた虎ノ門ヒルズの51階のレストランからのもの。冷たい雨にけぶる新橋/虎ノ門あたりの夜景にも情緒を感じるが、やはり雨が上がった後のクリアーな夜景は絶品。無数に輝くビルの窓の一つ一つに都会に住む人々の暮らしと思いが詰まっている。そしてひっそりと広がる漆黒の空間は、皇居の森。昼間とは違った生きた大都会の姿がそこにある。



左の暗闇は皇居の森


日比谷/丸の内界隈

冷たい雨にけぶる新橋/虎ノ門

2014年12月14日日曜日

思わず「大阪ラプソディー♪」 第二弾 〜師走の大阪は恋の街だった〜


 師走の大阪ヘ出張。LEDを発明した3人の博士のノーベル賞授賞式も終わった今日、その21世紀を変える青い光に包まれた大阪。「大阪光の饗宴2014」と名打ったイベントが街の中心部で展開中だ。ビジネスの街大阪、モノ造りの街大阪、コト起こしの街大阪、いや「宵闇の大阪はふたり連れ恋の街〜♪」
 残念ながら「ふたり連れ...」じゃなかったけれど。




過去のブログ《思わず「大阪ラプソディー♪」第一弾》はこちらから↓
http://tatsuo-k.blogspot.jp/2014/09/blog-post_18.html



道頓堀といえばグリコ。LEDに変わった新グリコ!動くようになった。
スーパー「玉出」のネオンもあったんだ...

御堂筋/道頓堀あたり

御堂筋なんば方面


大丸本館 奥には上本町がチラリと...


大丸本館の電飾

ヴォーリズ設計の建物はこの季節に合う佇まいだ

中之島公園


中之島公会堂
いつの時代も大阪のランドマークだ

中之島プロムナード
淀屋橋方向


法善寺


一夜が明けて。生駒に上がる旭日の光芒
二上山のシルエットも



2014年11月25日火曜日

なぜライカMにはズームレンズが無いのか? ~ライカMでズーム使いたい人に~

 ライカMにはズームレンズが無い。何故? 「何を今更。そんなのあたりまえだろう。光学レンジファインダー(距離系連動ファインダー)カメラにズームは無理。しかも単焦点レンズの画質を維持できないズームは不要」。そんな自明の問いに答える必要なし的な、ケンモホロロの返事が返ってきそうだ。

 後者は、かなり言い訳っぽく聞こえるが、ライカはとにかくズームレンズを造ってこなかった。かつて存在したライカの一眼レフカメラRシリーズ向けに、ズームのラインアップが用意されていたが、これらは日本のメーカー(シグマ、ミノルタ、京セラ)からのOEM。しかも概して高評価ではなかったようだ。確かに28−70mm標準ズームは歪曲収差もかなりのもので、ちょっと引いてしまう代物。よくライカ社がライカブランドで市場に出すことを認めたなと思う。それくらいライカ社にとってズームはどうでも良かったんだろう。

 ようやく自社製造で本格的なズームレンズを出したのは、コンパクト機X Varioが最初だ(中判一眼レフのSシリーズは別に)。これはなかなか良いレンズだ。デジタルになって収差や周辺光量の補正がボディー側で可能になったこともあり、ライカもようやくやる気になったのだろう。さらにミラーレスカメラであるTシリーズ向けに標準ズームを世に問い、年明けには広角ズーム、望遠ズームをリリースする予定(もっともいずれも日本製だそうだ)。しかし、いずれもMマウントではなく、フルサイズフォーマットでもなく、APS-Cサイズフォーマットでコンパクト、ミラーレス用だ。

 そもそもライカはM用にはズーム出す気はないようだ。いやいやMにはトリエルマーがあるではないか。28、35、50mmと、広角寄りの16、18、21mmの2種類がラインアップされている。しかし、これらはリニアに焦点距離が変化する「ズームレンズ」ではなく、3つの画角を選択する「3焦点レンズ」だ。

 まあ言葉の定義はどうでも良いが、レンジファインダーカメラでは、焦点距離、画角の移動に伴い、フレームがリニアに変化するファインダーなんぞ無理なのだ。この時点でレンジファインダーの限界を認識して方向転換を図る、なんてライカ社でもない。徹底的にレンジファインダーにこだわる。

 そこで1997年にリリースされたトリエルマーは、レンズ側に連動カムによってファインダーのフレームを50mm,35mm,28mmと切り変える機構を搭載した。これはすごいアナログでメカニカルな仕掛けだ。レンズの後部を見るとカムを動かすバネが見えている(壊れない事を祈る)。しかし、どう見ても一眼レフ+高倍率ズーム全盛時代に対抗するための苦肉の策にしか見えない。しかもこの機構だけで大きなコストアップ要因になっているだろう。現にその市場価格は並外れている。あくまでもレンジファインダーに固執するとこうなる。最近の発売になる広角系トリエルマーになると、そもそも内蔵ファインダーの画角外(28mmが限界)なので、そんな複雑な仕掛けは無くなったが、そのかわりとてつもない外付けファインダーを用意した。画角をダイアルで選択する。視差をダイアルで調整する。大きさはちょっとしたコンデジ並み、価格はミラーレス機並み!!M9ボディーに乗っけたその姿は「怪物」だ。とても軽快なスナップシューターとは言えない。ライカMの抱えるジレンマ、矛盾を体現したような様になる?別の見方するとライカ社の、土台はそのままにして「なんとかならんか」と苦闘,工夫するアナログでメカメカした解決策が楽しいともいえる。

 しかし、時代の潮目は変わりつつある、一眼レフですら、ミラーレスの台頭という挑戦を受けている。レンジファインダーで世界チャンピオンになったライカ。その挑戦に一眼レフという答えで打ち勝ち、ライカを抜いて世界チャンピオンになったニコン。そしていま、ミラーレス、ライブビューの登場だ。そう、ライブビューを導入したM Type240では、もはやそのようなレンジファインダーの限界、制約は無くなったはずだが、それでもMレンズにズームのラインアップは考えてないという。マクロレンズの開発や70cmの最短撮影距離を短くする予定もなさそうだ。ライブビューを取り入れてもなお、あくまでもレンジファインダーが主、ライブビューは従。どうしてもズームが欲しけりゃX,Tを買えってことのようだ。そこがライカだ。頑固だ。かつての商業的敗北(と思っているかどうか)を挽回できる絶好の機会が到来したにもかかわらずだ。あくまで自分で出来ることを大事にしつつ、クラウンジュウェルのレンジファインダー方式という「伝統の味」を守って行くつもりのようだ。毎度のコメントだが、「伝統」と「革新」のライカ的両立モデルを見守ってゆこう。



 そうはいっても旅先やスナップにズームは便利だし、デジタルになるとレンズ交換の度にほこりの侵入を気にしなくてはならない。なんと言っても最近のデジイチのズームの性能は格段に良くなっている。「なんとかMでズーム使えないのか」という懲りないライカ異端者の方々に付ける薬として、次の処方箋を:


1)ライカ社純正トリエルマーという手。

① M Tri-Elmar f.4 28,35,50mm ASPH

 M6フィルムカメラ時代の1997年から売り出され,今はディスコンになっている。中古市場でも常に品薄状態。出て来ても価格は新品価格よりもはるかに高いプレミアプライス。前期型(フィルター径55mm)と後期型(フィルター径49mm)があるが、レンズ構成(非球面レンズ2枚)は同じだ。それぞれの画角とも単焦点レンズに負けない高解像度はさすがだが、50mmで逆光ハレーションが出るのが気になる。かなり深いフードが必要だ。


初期型(フィルター径55mm)。
広角側でわずかにタル型の歪曲が認められるのと、50mmでフレアーが出やすく、逆光に弱い。
しかし各焦点距離とも単焦点レンズ並みのきわめて良好な解像度。
f値が4と暗いのと、最短撮影距離が1mであることを我慢すれば、とても便利なスナップシューター。
作例1:
28mmで撮影。少しタル型歪曲があるが,単焦点レンズと遜色ない写りだ。
作例2
50mm 開放F.4で撮影。
最短撮影距離が1mという「老眼」なので寄れない。
またSummicronやSummiluxのようにはボケないが、立体感は出ているし,解像度はなかなかのものだ。
作例3
50mm F.5.6でやや逆光気味に撮影すると結構ハデなハレーションが出る。
推奨フードは24mm用と共通のものだが、もっと深いフードが要る。
しかし,此の場合良い感じの効果を出してくれている。

② M Tri-Elmar f.4 16,18,21mm ASPH

 2006年、デジタル時代になってからの発売だが、M8,9の内蔵ファインダーではカバー出来ないし、ライブビューもなかったので、こんな(写真のような)外付けファインダーを併売している。ファインダーだけでも10万円という超高価レンズ。Type240になってようやくライブビューとEVFが使えるようになり、頻繁に持ち出せるレンズになった。インナーフォーカスや、焦点距離を替えると前群と後群が別々に動くなど、非常に凝った機構を持つ。これだけの広角でも、歪曲や周辺光量が極めて良く補正されており、隅々まで解像度の高い高性能レンズである事に疑問の余地はない。


M9に外付けファインダー載っけるとこのような凄まじい出で立ちになってしまう。
Type240のライブビュー(+EVF)であればすっきりした使い勝手の良い広角レンズとなる。
レンズ自体は歪曲も少なく周辺光量落ちも少ないきわめて優れたレンズだと思う。

作例4:
16mmで撮影。遠近感の強調に良い効果を出してくれる。解像度、諧調も抜群。
周辺光量不足も見られない。これは凄い事だ。驚愕のレンズだ!
作例5
18mmで撮影。狭い室内をパンフォーカスで撮ることが出来る。

作例6
21mmで撮影。素直な画造りが出来る。ライカらしいトーンも好きだ。


2)M Type240に純正RアダプターでR Vario-Elmar 28-70mmを装着するという手。

 このレンズはライカ一眼レフの廉価版R-Eとの組み合わせで1990年発売された。設計はライカ、製造は日本のシグマ。ライカにしては価格も安価である。初期型と後期型がある。初期型はフード内蔵型。しかしこのフードがスコスコですぐ引っ込んでしまうし、ピントリングを回すとレンズ前玉も回転するのでPLフィルターが付けられないなど、造りがしっくり来ない(発注元スペックのせいで、シグマのせいではないと思う)。後期型ではフードはねじ込み式に変更されたが、レンズ前玉は相変わらず回転する。ピントリングの回転トルクは改善され、ルックスもライカらしくなった。しかし、このレンズの難点は歪曲収差。28mmではタル型、70mmでは糸巻き型の歪曲が結構顕著。周辺光量も落ちる。これらを厭わなければ、ライカ純正で固めるこのソリューションは、ライカ正教徒にとっても納得のいく手だろう。はっきり言って、あんまり高い評価のズームレンズとは言えないが。

R Vario-Elmar 28-70 f.3.5-4.5(前期型)
内蔵フードがスコスコ。
撮影中すぐ引っ込むので役に立っていない

R Vario-Elmar 28-70 f.3.5-4.5(後期型)
フードはねじ込み式になった。
ルックスもライカらしくなりMとのバランスも良い。



 3)Mをあきらめ、ライカの他のシリーズを使うという手。

 Mレンズはスッパリ諦めましょう、XシリーズとTシリーズのズームがあるじゃないか、と割り切る手もある。案外合理的なソリューションだ。APS-Cサイズセンサーで、Xはレンズ固定のコンパクト、Tはレンズ交換式のミラーレスであるが、T シリーズも基本はXを踏襲しており、どちらのズームもデジタル時代に相応しい秀逸な出来だ。コンパクトでクセがなく良い結果をもたらすコストパフォーマンスの高い優秀なズームレンズだと思う。単焦点レンズ並みの高画質で3本のレンズを合わせた価格よりは安いのだし。もっともライカにコストパフォーマンスという評価基準は似合わない気もするが。使い勝手についての詳細は以前のブログを参照いただきたい。

① X Vario Vario-Elmar 28-70mm:Leica X Varioの使用感

② T Vario-Elmar 28-80mm:Leica Tの使用感


 最後に非純正Mマウントアダプターで他社ズームレンズを、という手があるが、これではもはや「ライカのズームで撮る」というボトムラインを踏み越えてしまうので、ここでは紹介しないでおこう。

 ここまで書いて、どこぞから「そんなにズーム使いたけりゃ、ライカMに手を出すなよ!」というライカ原理主義者の一喝が聞こえてきそうだ。