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2015年6月14日日曜日

アール・デコ建築の粋 〜旧朝香宮邸の美と技巧を愛でる(第一弾エクステリア編)〜

 
旧朝香宮邸


 東京都庭園美術館と目黒自然教育園。中世の豪族白金長者の居館跡だと言われる広大な杜の中に存在する。今でも敷地内に当時の土塁の遺構が確認できる。都心に残る数少ない緑地の一つだ。そもそも「白金長者」とは誰なのか。その確かな伝承はないそうだが、その割には広大な敷地を残したものだ。白金長者の居館敷地跡はその後、江戸時代には讃岐高松藩下屋敷となる。その名残に大名庭園の池やクロマツの大木が今も残っている。明治維新後は陸軍・海軍のの弾薬庫に、大正時代には皇室の白金御料地となる。そしてその敷地の一部が皇族朝香宮家に下賜された。英国Kentの田舎暮らしで週末の森の散策を楽しみとしていた我が家にとって、東京へ戻ってからの、この「自然教育園」という都会の杜は貴重な空間だった。そして白金迎賓館(「庭園美術館」というより馴染みがある)は知人の結婚式や、夏のプール、お庭での食事など、思い出深いところだ。

 世界に誇るアール・デコ建築の粋を堪能せよ。

 旧朝香宮邸。現在は東京都庭園美術館となっているこの地の圧巻は、何と言っても緑の庭園に広がるアール・デコ建築の邸宅。外見は思いの外シンプル。しかし、一歩玄関を入ると、デコラティヴな別世界。アンリ・ラパンによる内装、ルネ・ラリックのガラス工芸品の数々。一つ一つの部屋は世界中から取り寄せた、拘りの素材、部材を使った装飾芸術でしつらえられている。建築設計は、赤坂離宮など、数々の日本を代表する洋風建築を手がけた宮内省内匠寮。そしてフランス留学していた朝香宮に依頼を受けたインテリアデザイナー、アンリ・ラパンによる内装は、妥協を拒んだ本格的なもの。

 日本人の異文化の咀嚼力の凄さを感じさせられる。趣味の悪いコピーではない。本物を取り入れて日本の風土に同化させるだけでなく、日本古来からの伝統的な技を使って、西欧の技法と素材をうまく日本化している。そして新たな本物にする。古来よりユーラシア大陸の東の端の、文明の終着点の島であった日本。その水の流れの淀みには、様々な文明・文化が融合した堆積物が新たな価値と美を生み出して蓄積されている。それを日本人は咀嚼し、昇華し、自分の物にしてきた。今回は、館内では「マスク」展が開催されていたため、残念ながら建物内部の撮影は禁じられて紹介できない。しかし、そのインテリアのディテールと全体コーディネーションの完成度に、日本という国の海外文化に対するオープンネスと多元的な受容性が凝縮された成果の一つを見る事ができる。

 戦後は、一時吉田首相の仮総理大臣公邸、西武グループへの売却により、白金プリンス迎賓館などとして使われ、1984年に東京都へ売却され東京都庭園美術館として公開されている。2014年リニューアル再オープンした。隣の自然教育園で森のお散歩を楽しんだあと、アール・デコの邸宅でアートな時間を過ごす。目にも鮮やかな緑の芝生庭園を眺めながらカフェで一服する。フランスの田舎ではないが、KentやSussexあたりのManor Houseでの英国貴族の生活を、このせせこましい東京の中で味わえる不思議。なんか素敵な時間と空間だ。


門から玄関までの散策も楽しい



ようやく邸宅の玄関が見えてきた

玄関のラリックのガラスレリーフ
(東京都庭園美術館HPより引用)


2014年オープンの庭園美術館新館


新たにオープンしたカフェレストランで昼食



庭園の芝生が鮮やか
玄関に立つ狛犬
アール・デコとのコラボ
庭園側から見た本館テラス


アジサイの季節だ


大和撫子







2015年6月8日月曜日

東西文明の邂逅 知のラビリンス「東洋文庫」を探訪する

 
Look at this!
圧巻のモリソン書庫


 学生時代に平凡社「東洋文庫」シリーズに出会った。内外の歴史的な資料、古文献を日本語で読む上でのバイブル的存在であった。もちろん膨大なシリーズをとても全てを読破できないものの、図書館にある面白そうな巻を手当り次第を斜め読みしてみた。そのなかでも、マルコ・ポーロ「東方見聞録」の邦訳版に出会った時の衝撃を覚えている。歴史の教科書でしか見たことのないこの文献が、実際に読めるのだ、と。西洋が東洋に出会った最初の記録である。「ジパング」の記述が初めて出てくる14世紀の旅行記。これが私にとって「東西文明の邂逅」というテーマへの憧れを抱くきっかけであった。

 のちに留学先に英国を選んだのも、考えてみるとこうした背景が深層にあったように思う。ユーラシア大陸の西の果てと東の果ての出会い。その時空を超えた「未知との遭遇」のロマンが、私をロンドンでの、British Museum探訪、古書店探訪、古プリント/古地図店探訪へと駆り立てていった。考えてみると明治の先人達は欧米だけでなく、中国、インド、イスラム等、世界中の古典を勉強し、和訳して世に広めたわけだ。そのおかげで、後世の若者がマルコ・ポーロであれ、イブンバツータであれ、四庫全書であれ、アダムスミスであれ日本語で読む事ができる。これはすごい事だ。それを日本語訳した「東洋文庫」シリーズ。これらが日本人の知識欲と教養への憧れと知的探究心をおおいに涵養した。皮肉にも、おかげで普通の日本人はすっかり外国語が苦手になってしまったが...(なにしろ、世界中の知の体系が日本語で理解でき、大学の講義が全て自国語で行われるような国は欧米を除くと日本くらいだろう)

 一方、東京駒込に「東洋文庫」がある。こちらは平凡社叢書とは関係ないが、東洋学の貴重な研究図書館として90年の歴史を有する。最近こちらを訪ねる機会があったが、その圧倒的な蔵書と吸い込まれるような空間にすっかり魅了されてしまった。もっと早く知っておくべきであったと思う。今回はその探訪記だ。

 東洋文庫の沿革(同ウエッブサイトより引用):

 東洋文庫は東洋学の研究図書館です。三菱第三代当主岩崎久彌氏が1924年に設立した、東洋学分野での日本最古・最大の研究図書館であり、世界5大東洋学研究図書館の一つに数えられております。その蔵書数は国宝5点、重要文化財7点を含む約100万冊であり、内訳は、漢籍40%、洋書30%、和書20%、他アジア言語(韓・越・梵・イラン・トルコ・アラビア語等)10%です。 
 職員は研究員も含め約80名で、2つの超域研究、10の研究班による歴史・文化研究および資料研究を行っております。又、人間文化研究機構との共同研究組織2つ、文部科学省からの受託事業、更には、フランス国立極東学院、台湾の中央研究院、EUの東洋学研究コンソーシアムと協力協定を締結しております。その研究成果は東洋学報・東洋文庫論叢・Memoirs of the Research Department of The Toyo Bunko・東洋文庫書報等の刊行物で発表し、一般向けに東洋学講座等の講演会も行っております。 
 図書館は閉架式の閲覧室を設け、貸し出しは致しておりませんが、一般に無料で閲覧に供しております。又、データベース化にも力を入れており、書誌データはインターネット検索が出来ます。又、順次貴重本・絵画等の全文データ・画像データ・動画データ等をインターネットで公開致しております。 
 当文庫は特定公益増進法人に認定された財団であり、その必要資金は自己資産、寄付金及び補助金で賄われております。

岩崎久彌
モリソン蔵書印
Morison


岩崎久彌(1865-1955)
岩崎彌太郎の子で、三菱会社三代目社長。事業の発展だけではなく、社会貢献にも心を配り、この東洋文庫設立の他にも、岩崎家の所有になっていた清澄庭園と六義園を東京都に寄付した。上野のジョサイア/コンドル設計の洋館岩崎邸は彼が建てたもの。彼はまた、三菱会社社長を小彌太に譲った後は農場経営に力を尽くした。この時に小岩井牧場を所有した。現在の「東洋文庫ミュージアム」にあるカフェレストランは小岩井農場の経営である。ペンシルバニア大学ウオートン校留学。

モリソン、ジョージ・アーネスト George Ernest Morison(1862-1920)
イギリスのジャーナリスト。オーストラリアのヴィクトリア州ジーロン市に生まれる。1895年にロンドン・タイムズ入社、1897年より北京特派員。1911年中華民国総統府顧問。在任中蒐集したモリソン文庫と称される極東関係文献2万4,000冊は1917年、岩崎久彌に譲渡。


 このように、世界的にも貴重な東洋学の研究図書館としてその役割を果たしているのであるが、私にとっては、西洋と東洋の文化の出会い、とりわけ日本との遭遇(日本にとっては西欧文化との遭遇)をテーマとした様々な古典資料の宝庫であることに興奮を抑えることができない。おそらくこの分野ではBritish Libraryよりも充実しているかもしれない。ロンドン大学SOAS(School of Oriental and African Study)、またオランダのライデン大学図書館/博物館シーボルトコレクションが有名であるが、むしろ日本との関係ではこの東京の東洋文庫が世界のセンターであるかもしれない。三菱財閥3代目の当主である岩崎久彌の残したこのレガシーこそ、日本が世界に誇る文化遺産の一つとなっている。

 岩崎久弥は明治期の西欧文化、文明開化至上の時代、東洋や日本の古い文化が疎んぜられ、打ち捨てられかねない時代に心を痛め、自ら古典/書画を収集保存し「岩崎文庫」を設けた。そしてモリソンから彼の東洋在任中の書籍コレクションを購入。そのモリソンが集めた書籍はおもに西欧から見た東洋を描いた貴重な古書の数々である。彼の帰国に伴い散逸の危機にあったが、岩崎久彌の日本を含む東洋文化への憧憬の心がこれを防いでくれた。この「岩崎文庫」と「モリソン文庫」が合わさって現在の「東洋文庫」の基礎をなしているという。あの岡倉天心やフェノロサが日本の美術の価値を認め、破壊から守り再び光を当てたように。

 東洋文庫は奥深い知のラビリンスだ。その底なし沼に分け入る前に、まずはミュージアムを巡ってその一端を味わってみよう。まずは眼に飛び込んでくるモリソン文庫の圧倒的な威容に驚かされるが、他にも貴重な書籍の数々が。

司馬遷の史記(写本)
中国清朝時代の「四個全書総目提要」
日本書紀(寛永版写本)
マルコポーロ「東方見聞録」コレクション
ジョン・セーリス航海日記
バスコダガマ航海記
コロンブス航海記
キャプテンクック航海日誌
ジョン万次郎を救助した捕鯨船の航海日誌
好太王碑文の拓本
等々

 また古地図の宝庫でもある。この時はちょうどブラウの大地図展、「フェルメールも描いたブラウの世界地図」展を開催中であった。人気のフェルメールの「天文学者」と対をなす「地理学者」が展示されている。普段はフランクフルトのシュテーデル美術館に展示されているのだが、この企画展示ために東京出張中だ。この絵の主人公はコンパスを片手に、ふと見上げたその目は遠い東洋を夢見ているようだ。あるいはなにかの「啓示」があったのかもしれない。彼が羽織っているガウンは日本から伝来した着物をリフォームしたものだとか。当時流行りのファッションだった。オランダが世界に羽ばたき東洋との交易で繁栄の時代を築く17世紀。その遠洋航海を可能としたのは天文学と地理学であった。フェルメールはこの繁栄の時代のオランダを二人の学者の姿を描いくことで表現したのだろう。そして画中に広げられたブラウの「大地図帳」こそがその重要なモチーフであった。

 このように国宝、重要文化財を含む約100万点の書籍/資料が収蔵されている。去年創設90周年を迎えた。5年前に新書庫へ蔵書を全面移動した際に「再発見」されたのが、このヨアン・ブラウ(Joan Blaeu)の「大地図帳全9巻」Grooten Atlas(1664−65年アムステルダム刊)だ。

 私はかつて、ロンドンの大英博物館近くの古書店でたまたまオルテリウス(Abraham Ortelius)の「The Theatre of The Whole World」(London 1606)の1969年800冊限定facsimile版を見つけた。イングランド王ジョンに献上された英語版だ。オルテリウスはアントワープの地図製作者で同僚のメルカトルから地図を学んだと言われている。彼がいわば大航海時代の世界地図製作ブームの火付け役といっても良い。のちにブラウ親子がアムステルダムで「大地図帳」を出すにあたってもこのオルテリウス世界地図が原本となっている。ブラウの「大地図帳」出版が、オランダがスペイン・ポルトガルに変わって世界進出する時期と重なる事は偶然ではない。

 余談だが、この時は現金の持ち合わせがないのでクレジットカードで購入。すさまじく大きくて重い地図帳であったので、店主が「郵送してやるよ」と言ってくれたが、ゲットしたら何が何でもすぐ持って帰りたい。幸い大英博物館前の地下駐車場に車を止めていたので、なんとかそこまで休み休み担いで行ったことを覚えている。物欲煩悩とどまるところを知らず。

 このオルテリウス版の世界地図が、以降の様々な地図の原本になっている。ブラウもその一人。ヤン・ヤンセンもそうだ。こうしてアントワープからアムステルダムへ地図作りの中心地が移って行く。それにしてもこのオルテリウスの地図帳には日本の形はサモサ状のものとオタマジャクシ状のものの二種類が掲載されている。なぜなのだろう。ポルトガル人の航海者やイエズス会宣教師からの情報に基づいて描かれたものだろう。日本という島の形状に二説あったのだろうか。結論が出ず両論併記とした訳か。その60年ほど後のブラウの地図の日本は、北海道らしき島も描かれてもう少し現実の形に近くなっている。日本に関する情報がアップデートされていった経緯など、この辺りの変遷を追いかけるのも面白いかもしれない。

 ここでブラウにめぐり合うのも奇遇だ。ユーラシアの東の果ての日本(Iaponia)で再会とは。「東洋文庫」恐るべし。いや、なんだこんなところに俺の居場所があったぞ!! 分け入って散々に迷って出口さえ見えない知のラビリンス(迷宮)。いや、出れなくて良い。古書に埋もれて過ごす余生、かあ。悪くない。フェルメールの「地理学者」の、まだ見ぬ東洋を夢想するようなあの眼(まなざし)こそ、時空を超えた知の冒険者の心情を表している。


Look at this!
圧巻のモリソン書庫
美しい装丁の書籍に囲まれているだけで至福の時間だ。




フェルメールの「地理学者像」
遠い東洋を夢想しているのだろうか...

バスコ・ダ・ガマ
航海記
クリストファー・コロンブスの書簡集




キャプテン・クック





「フェルメールも描いたブラウの世界地図」展
大世界地図全9巻が揃い踏み

アジア/中国の巻
日本が含まれている
明朝時代の中国全図
右端に日本が記載されている



マルコ・ポーロ「東方見聞録」
各国版のコレクション
清朝乾隆帝の「四庫全書総目提要」
世界の賢者達の言葉が刻まれた小径
小岩井農場のカフェレストランへ
注記:写真撮影は許可を受けています。


2015年6月4日木曜日

Leica Vario Elmar R80-200mm 〜レジェンドになり損ねた望遠ズームレンズ〜

 世の中には運のいいヤツと悪いヤツがある。もっとも実力もないのに運をつかむヤツはいないが、実力があるのに運が巡ってこないヤツはいっぱいいる。カメラのレンズにもそういう不運なレンズがある。今回はそういうお話。

 ライカ社がRマウント一眼レフの製造を止めてから、Rレンズ資産が宝の持ち腐れになっていた人が多いと思う。Mに負けない優秀レンズがラインアップされているにもかかわらず、世の中に認められることなく中古市場でも気の毒なくらい安い値段で並んでいる。こうした事態を重く見て(?)、ライカ社は2013年のM Type240発売と同時にRレンズ用Mマウントアダプターを発売し、Rユーザの不満を解消しようとした。ライブビュー搭載をきっかけとしたソリューションとしては妥当なところだろう。しかし、少しタイミングが遅すぎた嫌いがある。デジタル全盛となった今、そもそもただでさえRマウント一眼レフ使っているユーザは希少で、マザーボディーの供給がストップした時点で、大抵は泣く泣く安い値段で売り払ってしまった人が多いのではと思う。

 私もその一人だが、以前にも書いたように、Mがせっかくライブビュー機能を搭載したにもかかわらず、高性能なライカ望遠ズームがないことに少し苛立っていた。もちろんライカ社はMマウントの望遠ズームなぞ出す気はサラサラないだろうし、最近のTマウント(ASPーCサイズセンサー)で望遠ズームが投入されたが、「なんかちょっと違う」のに価格が何故こんなに高いのか。どうせなら、やはりフルサイズセンサーMボディーで、しかもライカ純正が欲しいということになる。

 Rレンズ用Mマウントアダプターの登場で、にわかに脚光を浴びたのがVario Elmar R 80-200mm f.4ズームだ。レンズ設計、機構設計はドイツ、製造は日本(あのレジェンダリー富岡光学。後に京セラオプティク)というハーフだ。1996年の発売だが、その以前から、ライカ社は一眼レフはなんとなく自社製造路線に懐疑的で、ライバルの日本メーカに製造委託していた。R3のようにミノルタXEボディーにライカロゴつけたカメラや(今のパナソニックコンデジにライカ外装をかぶせたのはこのころからの伝統か)、一眼レフ用ズームレンズは初期にはシグマやミノルタなどが製造を請け負っていた(あるいはOEM供給していた)。

 そういうこともあってMade in Germany一神教ライカファン(ライカ正教徒)からは疎んじられ、中古価格も低迷していた。確かに、初期のズームレンズのラインアップは、なんとなく設計コンセプト、ポジショニングも曖昧で、しかも性能的にもソコソコ(特にニコンキャノンなど優秀なズームレンズが次々市場投入されていた時代だけに)。いくらライカだと言われても、あえてライカ印の付いた日本製ズームを買う意味がわからないようなものが多かった気がする。

 しかし、この望遠ズームは別格だ。8群12枚のレンズ構成。作りも妥協なく金属鏡胴で固めたライカテイスト満点。ズームリング回してもレンズ長が変わらず、トルクも適度だ。最短撮影距離は1.1m。フード組み込みもライカらしい。赤いロゴマークが誇らしげに鏡胴の左右二ヶ所に掲げられている。その性能はすばらしい。単焦点望遠レンズに匹敵する解像度と、高価な哨材のレンズを多用したアポクロマート補正も秀逸(何故APOと称さないのか?)。ボケも嫌いではない。最新の日本製ズームレンズにも劣らない性能を備えている。初期ミノルタ製に次ぐ4代目の製品であり、性能も、その「お道具性」も随分グレードアップされている。しかし、1996年製と比較的歴史が新しいのと、やがてライカ社がR一眼レフから撤退したので、このレンズで多くの作品を世に出したフォトグラフォーが少ない。したがってレジェンドとなり得なかった悲運なレンズだ。

 M Type240にRアダプターを介して装着すると、長くて重量がある。正直バランスがいいとは言えない。ハンドグリップとEVFが必需品だ。しかも手振れ補正がないので、手持ち撮影には限界があることを知っておくべき。そんなにしてまで「ライカで望遠ズーム」にこだわらなくても、世の中には優秀な日本製のNコンやCヤノンがあるではないか、と普通なら考える。しかし、その写りが素晴らしいことと、そのレンズの姿が美しく、ライカで撮影する、というお作法、スタイルへの期待感を裏切らない。ようやくライカ製の望遠ズームレンズで撮影できる喜びはひとしおなのだ。ようするにライカ病の新たな症状の出現だ。

 こうした再評価、人気復活のせいか、中古市場での価格も、最近急速に上昇してきている。しかし、何しろ流通している玉数が少ない。したがってなかなか店頭でお目にかからない。新品に近いまま個人宅に死蔵されているか、中古ショップの美品在庫となっているのだろう。個人的にも一度ネットで見たのが2年ほど前。それ以降お目にかかれなかったが、最近突然、Mップカメラのネットサイトに二本も現れた。使用痕が見られない美品だ。

 軽快なスナップシューターとしてのライカ撮影の楽しみとは別に、じっくりと風景撮影に取り組むという、新たなライカ撮影ライフが開けそうだ。ピントピーキング機能のついたライブビューならではの撮影を楽しみたい。しかし、くれぐれも手ブレにはご注意を!そうすれば新たなレジェンドが生まれるかもしれない。運に恵まれなかった実力者に、再デビューの機会が巡ってきたのは嬉しい。



2013PhotokinaでのM Type 240+R Adapterの発表
Stephen Danielが持つと小さく見えるが...







実際にはかなりモノモノしいいでたちとなる。
手振れ補正なぞないのでハンドグリップとEVFは必需品

三脚座つきRアダプターを装着した姿

 このレンズによる作例:

ライカらしい立体感だ


最短撮影距離1.1mでの撮影。すばらしい解像度
左上のハチに注目

ボケもなだらか

明暗の階調も豊かだ




2015年5月26日火曜日

古書探索の楽しみ 〜「ペリー艦隊日本遠征記」縮約版〜





  
Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Year 1852-54, Under the Command of Commodore M.C. Perry, by Order of the Government of the United States.

New York: Appleton, 1856.
[First trade edition] 1 vol. 


26:17cm, VII, 624 pages. With engraved portrait, 8 engraved-and 67 woodcut-plates, 11 partly folded lithographed maps, and various woodcuts in the text. Half cloth in contemporary style, title in gold on spine. Shortened edition of the official report of the famous Perry-Expedition, which lead to the end of the isolation of Japan against the western hemisphere.


 この書物は、フランシス・ホークスがペリー艦隊の日本遠征の公式報告書として編纂し、ペリーが監修して1856年に 全3巻で刊行された“Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan”(『ペリー艦隊日本遠征記』)を縮約したものである。

  日本橋の丸善で見つけた。以前から翻訳版や復刻版は見たことがあったが、この原書との邂逅を心待ちにしていた。古書店めぐりするたびに本棚を見て回り、店主に問い合わせてみたりしたが、これまで一度も出会うことがなかった。特にロンドンやニューヨークの古書店では、より遭遇する可能性が高いことを信じて探していたが、そこでも出会いは訪れなかった。こうして探していると見つからないものだが、出会いは突然やってくる。なんだ「君」は日本に居たのか。それも不思議ではないかもしれない。やはり日本人コレクターの方がこの本への関心は高いだろうから。


 ニューヨークのマディソンアベニューにThe Complete Travellerという旅行書/地理書/古地図専門の古書店があり、私の大好きな古書店で心落ち着く空間であった。店主は博識で日本関係の旅行書のコレクションも優れていた。Isabella Birdの「Unbeaten Tracks In Japan」の初版本はここで入手した。他にもLafcadio Hearnの初版本も豊富に並んでいた。しかし、この「ペリー艦隊日本遠征記」だけは、何度訪ねてもお目にかからなかったし、問い合わせても入荷情報もなかった。これだけ日米の歴史上有名な出来事のNarrative(記録)なのだから、当然古書店市場にはそれなりに出回っているだろうとタカをくくっていたし、ましてアメリカで出版された記録なのだからニューヨクでは見つけやすいだろうと考えていた。現実はそう容易くはなかった。店主曰く「公文書だったので国立公文書館や大学図書館、博物館に収蔵されていて滅多に市場に出てこないのかもしれない」と言っていた。

 ちなみにこのThe Complete Traveller、この3月にニューヨークへ行った時立ち寄ったら、残念ながら2015年3月をもって閉店してしまっていた。マディソンアベニューにはまだ店があり、看板も出ていたが、「Closed」の張り紙が... まさにタッチの差であった。今後はネット販売中心でやっていくらしい。あの古書店独特の空気感と店主との会話、そして本棚に佇む美しい装丁の本達がたまらないのだが... どうも中古カメラ屋と古書店は実店舗販売が難しくなってしまったようだ。どんどん町から姿を消してゆく。悲しいことだ。


 The Complete Travellerのウエッブサイト

 確かに、日本でも翻訳版が岩波書店などから出されているし、横浜の開港資料館には3巻セットの公式報告書原本が収蔵されている。下田の豆州下田郷土資料館編纂の「ペリー日本遠征記図譜」も出回っていることから、図書館や博物館には収蔵されているのだと考えていた。しかし今回判ったのは、そうした公的な報告書だけでなく、いわゆる「市販本」が商用ベースで出版されていたということだ。今回入手できたのもNew YorkのAppleton社による「Trade Edition」(市販版)である。また、公式報告書(議会版と言われている)は3巻からなる膨大な書籍であるが、ペリーの功績を多くの人々に伝えるために、より入手しやすく1冊にまとめた「Shortened Edition」(縮約版)が出版されている。


 入手した本にはTrinity College Libraryの蔵書印がある。それが米国コネチカット州ハートフォードのそれなのか、英国ケンブリッジのそれなのか、あるいはアイルランド・ダブリンのそれなのかは確認できないが、いずれにせよ大学図書館が放出(withdrawn)したもののようだ。なぜ放出したのだろう。
公式版3巻が入ったので市販版を放出したのだろうか。また表紙が中身に比して新しいので、装丁はオリジナルではなさそうだ。あるいは大学図書館で補修したものなのかもしれない。経年によるシミや変色はあるものの、書き込みやインク汚れのようなものは見当たらず、古書としては程度が良いように見受ける。あまり読まれなかったのか? そうした本の歩んだ道筋を想像するのも面白い。


 マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry:1794-1858)は15歳で海軍に入り1812年の米西戦争、地中海・アフリカ巡航、西インド諸島での海賊狩り、メキシコ戦争等を経て、1852年米国東インド艦隊提督(この提督は正式にはCommodoreでありAdmiralではない。また艦隊も当時はFleetではなくSquadronと称されていた)となった。やがて大統領フィルモアの命を受け日本と通商開始のために1853年浦賀に来航、久里浜に上陸して大統領の国書を将軍に伝達。翌1854年再び江戸湾に入り横浜で日米和親条約に調印、ついで6月には開港地となった下田を視察し、そこで追加条約(下田条約)に調印した。こうして鎖国日本の開国への道を開いたことは衆知の通りだ。 

 1855年1月帰国後、政府の委嘱を受けフランシス・ホークスに命じて編纂せしめたのが本書である。ペリー自身の航海日記と公文書を中心に部下の航海記や日記・報告書を用いて編纂、1856年に公刊された。この「遠征記」には色々異本があるようで、本報告書には、米国議会上院版と下院版の2種がある。その内容構成は第1巻は遠征記の本文、第2巻は諸調査の報告書類、第3巻は黄道光の観察記録である。また、先述のように市販版がNew YorkのAppleton社から出版されている。その縮約版の1856年初版が今回入手できたものである。



下田の公衆浴場の図
ペリー一行が最も驚いた光景の一つ
 また、俗に云う「風呂屋版」と云うのがある。同行した画家ハイネが描いたものを、黄・淡藍・墨の3色刷の砂目石版に複製した「下田の公衆浴場の図」(右図)入りの版である。ペリー艦隊一行が、女性のお歯黒と共に、この公衆浴場での混浴を、最も驚いた日本の習慣であると記述しているものである。公式な本報告書では、あまりの驚きにより(?)この図が掲載されていないものが多いと云う。ハイネ著のドイツ語版には、ハイネが写生したものを木版画にしたものがあり、今回の古書店にも並んでいたが、希少本扱いでとても手が出る値付けではなかった。コレクターズアイテムというわけだ。ちなみに今回入手した版にはこの「話題騒然」は掲載されていない(残念ながら...)。

 ペリーは遠征準備のため8か月間もの時間を掛けたという。その間、航海に必要な海図をオランダから入手し、日本に関する書籍を可能な限り収集して読破したという。これらの書籍の中には、シーボルト『ニッポン』やケンペル『日本誌』などが含まれている。 中でもシーボルトはペリーに書簡を送って日本との折衝のアドバイスををしている。
イントロダクションでは、かなりのページを割いて、これまで日本を訪れた過去の西洋人の活動の歴史が記述されていて興味深い。16世紀末の大航海時代のポルトガル人、オランダ人、ウイリアム・アダムス、イギリス人などの活躍、幕末のロシア人、アメリカ艦隊などの日本との関わりから説き起こしている点が興味深い。そうした歴史の上に成り立つ今回の偉業であることを印象付けたのであろう。

 ペリーの黒船来航は、日本を鎖国から開国に向かわせた歴史的な出来事であるが、一方で長い眠りからたたき起こされた側から言わせてもらうと、その強引な砲艦外交に対する批判もある。そもそもこの当時、鎖国していた日本をなぜ開国させようとしたのか。当時、七つの海を支配するイギリスを始め、フランスやオーストリア帝国などの欧州列強諸国はオスマントルコ帝国に関わる「東方問題」で日本に構っている余裕はなく、ロシアと新興国アメリカが日本の開国に関心を持っていたに過ぎない。しかもアメリカの関心事は、日本との交易というよりは、中国に向かう太平洋ルートの開拓であった。欧州の列強諸国がアジア/中国へと歩を進めた大西洋、喜望峰、インド、マラッカという南回りルートではなく、直接太平洋を横断して中国へ向かコースが重要であった。広大な太平洋を横断するためには、途中、食料や水、薪炭を補給し休息を取る寄港地が必要であった。さらに当時盛んであった米国捕鯨船の、薪炭、食料の補給、乗員の保護も重要な課題であった。このころはすでに帆船による遠洋航海に時代が終わり、蒸気船によるそれに移っていたので、航海の出先での燃料補給が喫緊の課題であった。ペリーが持参した大統領フィルモアーの親書に記されていた要求事項はこの補給のための寄港地を日本に開いてほしい、ということ。激動の19世紀帝国主義植民地争奪戦のなか、奇跡的に(?)極東で平和な生活を楽しんでいた日本を、無理やり開国させる欧米列強側の直接的動機は、皮肉にも(幸運にも)日本そのものがターゲットではなかった。


 しかし、この「日本遠征記」自体は歴史上の一大事件に関するその当事者達の詳細な記録であるだけでなく、当時の日本の社会・文化・自然等に関する観察記録でもある。さらには異文化との遭遇の記録である。特に上陸した下田での人々との交流から得られた印象記述が興味深い。この時の模様はハイネだけでなく、日本人の絵師によっても描かれている。国と国との出会いというよりは、人と人との出会いが生き生きと描かれている。そういう観点から読んでみると、現代の日本人の目からとても興味深い。黒船来航騒ぎといえば、度肝を抜かれた日本人の驚きばかりが伝えられているが、一方で、日本に上陸したアメリカ人の驚きも新鮮だ。彼らは、危険な未開の国々を経由する長くて困難な航海の後、たどり着いた地球の裏側にもう一つの文明国を発見した、と書いている。これは260年前に、オランダ船リーフデ号で豊後府内に漂着同然にたどりついた、イギリス人航海士ウイリアム・アダムスが、彼の航海日誌の最後に記した言葉でもある。まさにEast meets west. West meets east. 東西の文明の歴史的な遭遇である。

 さて、この本の表紙を開き、時空のドアーを開けて、ゆっくりと幕末の日本にタイムスリップしてみようと思う。古書探索はもう一つの「時空旅行」だ。



ペリー艦隊の日本への航海(横浜開港資料館資料より)







2015年5月14日木曜日

チクシ王権からヤマト王権への変遷はどのようにして起こったのか?

 チクシ倭国の時代:

 紀元前2世紀から紀元2世紀頃までの倭国は、北部九州の奴国や伊都国などのチクシの国々が中国王朝(この頃は前漢、後漢)との外交を主導し、中国の華夷思想にもとずく朝貢・冊封体制のもとで東夷の倭国という地域を統治するの権威を得てきた。この頃の東アジア的世界観では、圧倒的な文化力と経済力を持つ中国王朝の皇帝から冊封を受けることが、その地域での王権の維持に不可欠であった。北部九州チクシは列島の中で大陸に最も近く、人の往来も古来より盛んで、ことに弥生文化を代表する水稲稲作農耕が倭国で一番最初(紀元前10世紀頃)に入ってきた地域であり、最も先進的な地域であった。したがって、奴国や伊都国のような国がこれら倭国連合諸国において経済的優位性と外交的優位性を享受できたとしても不思議ではないだろう。

 このことは、紀元前1世紀の漢書(前漢)の「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以って来たり献見す、と云フ」という記述、後漢書東夷伝の記述(57年の奴国王の朝貢「漢委奴国王印」、107年の倭王帥升の遣使)にあるのみならず、考古学的にも検証されている。紀元前1世紀の奴国の王都であるスク・岡本遺跡からは30枚もの前漢鏡やガラス装飾品、武具などの王の権威を示す中国皇帝からの下賜品が出土している。また、同時期の伊都国王墓と言われる三雲・南小路遺跡や井原・槍溝遺跡、さらには平原王墓遺跡からも、奴国王墓を上回るほどの前漢鏡、装飾品が出土している。また、福岡市早良の吉武・高木遺跡からは、紀元前2世紀頃の最初期の王墓らしき遺構が見つかっており、ここからも鏡・剣・勾玉という3種の神器に相当する遺物や、多数の大陸由来の遺物・威信財が出土している。中国の史書にはこのクニ(早良国ではないかと言われているが)に関する記述はないが、この時期にチクシには中国に朝貢するクニ・王がいた証左として注目されている。このように紀元前2世紀から紀元2世紀初頭までは、北部九州チクシ倭国の国々が中国王朝から冊封を受け、統治権威を有する、倭人社会、倭国連合の中心であったことを示している。この時代に、こうした威信財は近畿を始め、出雲・吉備などの地域では出土が見られない。

「漢委奴国王」の金印が出土した福岡市の志賀島
1世紀の「後漢書東夷伝」の記述を証明する発見であった。



紀元前1世紀の奴国王墓
金印を受けた奴国王の数代前の王の墓であろう
(春日市のスク・岡本遺跡)
紀元前1世紀の伊都国王墓
(糸島市の三雲・南小路遺跡)
2世紀前半の伊都国王墓
真東に神奈備の高祖山を望む東西軸の配置
被葬者は女性である可能性
圧倒的な威信財の数々が副葬されていた
(糸島市の平原王墓遺跡)







紀元前2世紀の吉野ケ里遺跡の復元神殿

巫女が神がかりとなって御宣託を聞く












その御宣託に基づいて王と一族の長が集まり意思決定する。






















ヤマト倭国の時代へ:

  ところが、2世紀後半から3世紀になると、こうしたチクシ中心の倭国の姿は徐々に変わって行き、ヤマト中心の倭国へと変遷してゆくようになる。史書の記述でいう「倭国大乱」を境にこの変異が起こっているようにみえる。例えば、考古学的にはこの頃になるとチクシにもヤマトから伝来した土器などが出現するようになるが、その逆は見られない。ある時期から倭国連合の中心がチクシからヤマトへと移ったらしいことをうかがわせる。3世紀後半の古墳時代になると、明らかにヤマトに大型の前方後円墳が出現し、初期のヤマトの古墳(ホケノ山、メスリ、黒塚古墳)からは多数の三角縁神獣鏡などの後漢鏡・魏鏡などの中国からの威信財が出土する。やがてこの前方後円墳という墓制はヤマト王権の倭国支配の権威の象徴として各地域の首長へ伝搬されてゆく。チクシで主流であった土坑墓や甕棺墓などの墓制はヤマトでは見られず、やがてはヤマトで出現した前方後円墳がチクシへも伝搬してゆく。

 魏志倭人伝の記述にあるように、「倭国大乱」の後、3世紀半ば(249年)に邪馬台国女王卑弥呼が、魏の明帝に使者を送り冊封された(親魏倭王)。その時に銅鏡100枚を下賜された。また、伊都国には王もいたが女王卑弥呼の代官、一大率が駐在して、大陸との通交、九州(チクシ倭国)の統括を行っているとされている。奴国を見ると、この頃には57年に後漢に朝貢した奴国王の末裔に当たる王の存在は記述されておらず、地方官僚の存在のみ記されている。すなわち伊都国も奴国も邪馬台国の支配下にあったことを物語っている。

 では、その邪馬台国はどこにあったのか?九州のどこかなのか、それとも近畿なのか。有名な邪馬台国論争だ。前者だとすると「倭国大乱」は北部九州を中心としたチクシ倭国内の争いである。後者なら「倭国大乱」は西日本の広範な地域を巻き込む争いであったろう。また、女王卑弥呼が支配したという30余国の範囲も大きく変わってくる。また卑弥呼の死後は「大いに塚をつくり」埋葬していることから、ヤマトの箸墓古墳がそれではないか。これは邪馬台国、卑弥呼が、チクシのクニ、女王ではなく、ヤマトに起こった(あるいは移動してきた)クニであることを推測させるものではないか、というのが邪馬台国近畿説である。後世、倭国の中心が北部九州を離れ、近畿に移ったことは明らかなのだが、問題は「何時」「どのように」ということだ。


3世紀古墳時代初期の箸墓古墳
卑弥呼の墓ではないかといわれる

箸墓古墳の背後にそびえる三輪山
同じく3世紀のメスリ山古墳
最古の古墳形式を確認できる貴重な遺跡

崇神天皇陵(行灯山古墳)
巨大な古墳が並ぶ大倭古墳群

 ちなみに、鏡は、統治権威を伝える威信財として重要な役割を持っていた。中国皇帝から下賜された複数(数十枚〜100枚)の銅鏡は、下賜された王が、さらに「中国皇帝から倭国王として冊封された証」として、さらに連合王国の地域の王や首長に「権威の象徴として」下賜する。という構造になっている。このような「威信財」を配ることで地域支配の権威を与える、という統治の仕掛けは、5世紀に入ってヤマト王権が次第に倭国全般のし支配圏を確立してゆく「倭の五王」の時代にも引き継がれる。埼玉県の稲荷山古墳や熊本県の江田船山古墳から出た「獲加多支鹵」(ワカタケル:倭王武、ないしは雄略大王)の文字が入った鉄剣などが、ヤマト王権が地方首長の地域支配を冊封した証拠だといわれる。


倭国大乱:

 話を戻すと、このようなチクシとヤマトの倭国支配の勢力逆転はいつ頃、どのように起こったのか?2世紀まではチクシが、3世紀以降になるとヤマトが倭国の盟主となっていった。魏志倭人伝によれば、男王の治世が7〜80年続いた後、2世紀後半(146〜189年頃)に「倭国大乱」で王がいない時期が続く。その「倭国大乱」とはどのような争いであったのか。なぜ騒乱になったのか(何を巡って争ったのか?)。邪馬台国の卑弥呼擁立により騒乱は収まったとされるが、前述のようにそれはチクシ倭国での話なのか、もっと広範囲に近畿ヤマトを含めてで起こったのか?。

 おそらく「倭国大乱」は当時の東アジア情勢の流動化が原因であろう。後漢王朝も末期に入り、184年の黄巾の乱、それをきっかけとした後漢王朝の滅亡は、朝貢していた周辺諸国に、地域支配権の攻防、それに伴う戦乱や、亡命、難民の発生など大きな影響を与えた。倭人社会においても、漢王朝の冊封を受けていたチクシ倭王(奴国王・伊都国王)が、その統治権威を失い、争いになっただろう。また、稲作農耕や武器として必須の戦略資源である「鉄」は当時朝鮮半島南部でしか入手できなかったが、その入手ルートや資源権益を掌握していた北部九州のチクシ倭王がなんらかの理由で争いに破れ、倭国内陸のヤマト倭王に権益を奪われてゆく。また、大量の亡命者や難民が列島に押し寄せて混乱した可能性もある。そういった倭国の国際環境の変化に伴う王権の揺らぎが倭国連合盟主争いの実態ではないかと考える。やがて邪馬台国の「鬼道をよくする」シャーマン卑弥呼を倭国連合の霊的権威として担ぎだしてようやく乱が収まった。すなわち、中国との外交権、地域の武力支配権の争いを、祭祀権をもって収めた。武力で治らないと、その上の権威を持ち出して妥協させるというのはいつの時代にも取られる和平手段だ。

 邪馬台国が近畿ならば、57年のチクシ奴国王の後漢への朝貢、107年の倭王帥升(伊都国王であろうと言われている)の朝貢から100年足らずの間に近畿地方に北部九州チクシを凌駕する近畿ヤマトが生まれたことになる。漢に代わる新しい中華王朝魏の冊封を受け、なんらかの形で半島の製鉄利権を獲得し、ヤマト・邪馬台国は、大陸に最も近い先進地域である北部九州チクシの奴国や伊都国に代わって、大陸から遠く離れた奈良盆地に外交力、武力を持ったクニを出現させた。ということなのか?そしてそれがヤマト王権に繋がっていったのだろうか。

 一方、倭国支配の中心はチクシからいきなりヤマトへ飛んだわけではなく、出雲や吉備、あるいは越にも有力な国が生まれる。ヤマトに発生した古墳時代の先駆けとしての墳墓形態(四隅突出型という大型墳丘墓)や祭祀形態(特殊器台という土器)を生み出したこれらの国々が、ある時期、倭国の中心的な位置を占めた可能性もある。やがてはヤマトに協力、服属することで倭国の統一の第一歩となった可能性がある。このころ考古学的には、青銅器祭祀から墳墓祭祀へと移行する過程で、いわば「弥生時代」から「古墳時代」へと移行する時期である。これらの国々がその移行プロセスを象徴する国々であったのだろう。ちなみに倭国統一の過程で、チクシは比較的最後までヤマトに服属しなかったように見える(6世紀のチクシ磐井の乱が最後の抵抗だった)。あるいは神功皇后の三韓征伐エピソードは、熊襲掃討の過程で出てきたことになっている。この時も熊襲征伐の後にチクシをようやく平定し、さらに三韓征伐に向かったと考えられる(もっともいつの時代の事績なのかは不明であるが、そういったチクシ平定に手こずった記憶に基づく記述である可能性がある)。


ヤマトの起源は?:

 そもそも山々に囲まれた内陸の盆地であるヤマトでは、弥生世界でどのようにクニが形成されていったのだろうか?もともとヤマト盆地に発生した弥生の農耕集落・ムラが成長していってクニになったのか?あるいは、西から移動してきた勢力によってある時期に形成されたクニなのか?意外にわかっていない。

 奈良盆地の中心部に位置する(古代奈良湖のほとりの湿地帯に形成された)唐古・鍵遺跡は弥生初期(吉野ケ里遺跡などのチクシの大規模環濠集落跡と同時期、紀元前3世紀頃)の大環濠集落跡であるが、これがのちの邪馬台国ないしはヤマト王権に発展していった形跡はないといわれている。環濠集落は古墳時代までには消滅し、その跡地には古墳が築造され、中世になると武士団が砦を築き、農村集落が形成されている。一方、3世紀頃、三輪山の山麓に形成された纒向遺跡は東西軸に配置された宮殿・神殿を中心に水路が巡らされ人工的に建設された「都市」のようで、全国各地の土器が出土するなど、人が倭国各地から集まってきた様が見える。「共立された女王卑弥呼の都」らしい雰囲気が溢れている。卑弥呼の神殿と思しき遺構からは、祭祀に用いられたと思われる桃の種が大量にみつかるなど、中国の神仙思想の影響を受けた有様が見て取れる。もちろん3世紀後半から始まったと考えられている箸墓古墳(卑弥呼の墓ではないか、と言われる)のような巨大古墳群の築造がヤマトの独特の景観を形作るようになる。

 しかし、ここヤマト倭国には弥生社会に典型的な高地性集落も環濠集落も(唐古・鍵遺跡の他に)見つかっていない。北部九州チクシ倭国の国々はほとんが環濠集落を特色としていた。瀬戸内沿岸に展開するムラ/クニは高地性集落を特色とする。すなわち稲作農耕社会であり、その土地、水と民、富の集約と支配を巡っての争いを想定したムラ/クニを形成していた。それが(魏志倭人伝が描く)弥生時代を象徴する倭国の姿であった。ヤマトにはそれがない。すなわち弥生のクニの香りがしない。纒向や箸墓はもっと新しい時代の遺跡ではないのか(ヤマト王権成立時期以降)、と邪馬台国九州説の学者は唱える。箸墓古墳も纒向遺跡も3世紀ではなく、4世紀以降の遺跡であるとする。すなわちヤマト王権初期の遺跡だという。

 それにしても、このような列島内部の盆地に位置しながら大陸との交流は誰が取り仕切ったのか?後世、チクシの安曇族(住吉族)や宗像氏がヤマト王権の大陸との通交を取り仕切るが、ヤマト初期(チクシと覇権を争っていた時期)には誰がそれを行ったのか。それがなければチクシに代わって倭国連合の盟主にはなれなかったはずだし、帯方郡を通じての魏への朝貢もできなかったはずだ。

唐古・鍵遺跡
紀元前3世紀ころのヤマト盆地最古の稲作農耕環濠集落跡


竜王山から望む奈良盆地
古代にはここが左の図のように湖だった
正面に二上山
古代奈良湖推定図
唐古・鍵遺跡や纒向遺跡の位置に注目



三輪山に日が昇り
二上山に日が沈む
東西軸の宇宙観であった
纒向遺跡の発掘
卑弥呼の神殿ではないかと言われる遺構。
しかし、本当に卑弥呼の時代の遺構なのか。弥生の匂いがしない。
背後には三輪山がそびえる

 我々はヤマト、すなわち山々に囲まれた奈良盆地の長閑で箱庭のような舞台が日本の誕生の地、日本文化発祥の地だと考えている。もちろんそれは事実だ。ある時期以降、ヤマト王権が列島支配権を確立してゆく過程で、奈良盆地が倭国・日本という国家の揺籃の地になっていったことは間違いない。しかし、これまで見てきたように、実はヤマトが、何故、いつ頃、倭国・日本の中心となっていったのかはまだ十分に解明されていない。謎に包まれている。そもそも列島の文化の発展は、少なくとも弥生時代には入ってからは水稲農耕文化がたどったように、大陸に近い北部九州を起点に西から東へと伝搬していった。大陸の文化圏や交易圏と切り離して倭国の成長は考えられない。そうした文化的な権威や資源、経済権益をいかに獲得・独占するかが倭国の支配者の争いの核心であった。あるいは、若狭湾や越前といった日本海側に大陸から人がやって来て、琵琶湖を経由して奈良盆地に大陸文化が入ってきたことも考えられる(後世の渤海使のように)が、やはりチクシ、瀬戸内海、摂津、河内、奈良盆地ルートほどの太いパイプの通交ルートではなかっただろう。このいわばゴールデンルートがそのまま倭国における列島支配拠点移動のルートでもあったのではないかと思う。北部九州チクシから近畿ヤマトが中心となっていった訳だが、そのプロセスはまだ解明されていない。日本の古代史は、大事な点でまだまだ多くの謎に満ちている。

 倭国の各地には。チクシとヤマトだけではなく、様々なムラやクニが発展し国が存在していたであろう。こうした国々は日本列島(主に西寄りに)に広範に存在し、その連合(倭国連合)の中心は、大陸に近い(文明に近い)地域(北部九州)から、次第に内陸へ、東へと移動していった。ある時期になると国内の経済活動が活発になり、むしろ倭国内の生産や物流の結節点のような国が中心になっていったのかもしれない。それが近畿ヤマトであった。事実、その後の倭国・日本は、19世紀のみやこの関東への奠都まで、近畿を中心とする歴史を持つことになる。歴史がそのロケーションの合理性を証明して見せた訳だ。

 今回は、あえて8世紀初頭に編纂された日本側の歴史書である日本書紀や古事記の記述には触れなかった。もちろん必ずしも中国の史書に記述されている記事全てが正確で信頼に足るとは考えないし、ある時期の限られた情報による「倭国」像である。しかし8世紀以前に記述された文献資料としては中国の史書しかないこと。また、編年体で記述されているので、これら史書の記述と考古学的発掘成果の突合による時代考証が比較的可能であることから、古代史を研究する手法においては貴重であると考える次第である。

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