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2017年12月17日日曜日

Leica CLデビュー! 〜実機ファーストインプレッション速報!〜

 Leica CLが日本でも出荷開始となった。早速実機を手にして撮影する機会を得たので、いつものように独断と偏見に満ちた極私的なファーストインプレッションをご披露したい。

 Leica CLはAPS-Cフォーマットのミラーレス機。これまでのレンズ固定式のLeica Xシリーズのレンズ交換バージョンという位置付けと捉えたい。あるいはデザインの革新性を売りにしたアルミ削り出しボディーのLeica T, TL, TL2の実用機バージョンというべきかもしれない。主なスペックは、2400万画素CMOSセンサー、Q, SL, M10と同じMaestro IIエンジン、TL/SLマウント、SLと同品質のEVF内蔵、コントラストAF、4Kビデオ、1/8000秒メカニカルシャッター、Qと同じバッテリー。

 総じて言えばライカのデジタルカメラ造りもようやくここまで来たかという感想だ。Q, SL, M10と培ってきたデジタルカメラの要素技術を取り入れた普及機だ。ライカらしい時間軸で進化してきたデジタルミラーレスカメラという印象(失礼)。

 外見の第一印象。デザインがヤボ臭い。CLと銘打っているが、かつてのMINOLTAと共同開発したLeica CL(Compact Leicaの略だと言う)とは全く異なるデザインコンセプトの製品(後述写真参照)。ライカ社はバルナックライカの伝統の復活をイメージしているというが、特にバルナックライカ登場時のような衝撃的な革新性も、そのレジェンドを引き継ぐエレガンスさもそれほどには感じない(後述写真参照)。時代を変える革新的なカメラのリバイバルというより、むしろ製品として成熟し、競争厳しいミラーレス市場にキャッチアップしたデジカメ実用機と称したほうがよいように思う。無理に過去のレガシーに関連付けない方がいいと思う。

 ということで、その外見しかわからないCL発表時にはあまり大きな期待感も、関心もなかった。こうして実機を手に取ってみた瞬間も、ふ〜んという感じであまり感動も驚きも感じなかった。しかし、実際に撮影してみて驚いた! まず電子ファインダー(EVF)の画が美しい!そしてこのヤボ臭い普及機然としたボディーから叩き出す画の美しさに驚いた。外見に似合わず、高精細、階調の豊かさ、クリアーで高品位な内容の画作りを目指していることが理解できる。さすがライカだと納得する。ライカレンズの高性能を遺憾なく引き出すインテリジェントプラットフォームになっている! そして、これまでのライカデジカメのなんとも言えないレスポンスの悪さ、ストレスのたまる操作感が大幅に改善されている。テンポ良く撮影できサクサク感が増している。ある意味、これほど外見と内容のギャップの大きいカメラに出会ったことはないかもしれない。まるでスコットランドの歌姫、スーザン・ボイルが素人歌合戦に登場した時のようなショックだ。


Pros:

1)内蔵EVFの見えが素晴らしい。左肩に飛び出した設定でデザイン的には如何と思うが、大きくて見やすいファインダーは写欲を高めてくれる。
2)AF速度、操作レスポンスが大きく改善した。XやTで感じたディレーやテンポの悪さによるストレスから解放された。サクサク撮影ができる。
3)レンズアダプターを介したM,Rレンズ使用時のMFフォーカスアシスト機能(拡大機能、フォーカスピーキング)の改善と画質の向上。それを狙ったセンサー設計なのだろう。これならオールドライカレンズ資産もこのボディーで使える。M10やSLと共通のセンサー周りの処理が感じられる。
4)ライカにしては軽量でコンパクトなサイズ。SLシステムの重さに辟易している身には福音。
5)そして何と言っても素晴らしい画質。APS-Cのサイズを感じさせない高画質。ボケを除けばフルサイズでなくても十分に作品を追い求めることができる。


Cons:

1)デザイン。特に軍艦部のデザイン処理のヤボ臭さ。TL2のそれの対局にある。
2)全体的な質感。あまり高品位な感じがしない。Xシリーズのそれだ。
3)貼り革の質感がイマイチ。つるつるで滑りやすいしホールドも不安定。グリップ、サムレストが必須。しかしこれを装着するとコンパクトさは損なわれるだろう。
4)独特の操作性。しばらく慣れが必要。特に2ダイヤル、2ボタンの機能に習熟を要す。SLともM10とも異なるユーザインターフェース。
5)依然として今時手振れ補正機能がない。一瞬、「手振れ補正」というメニューが出てきたので、「ついに!」と思ったがぬか喜び。レンズ内手振れ補正のSLレンズを使用した場合ということのようだ(当たり前じゃないか!)。やはり手ぶれが気になる。
6)そして価格。いつもこれがネック。ライカは手の届きやすい価格設定と言っているが、超高額なSL, Mに比べればの話。このクラス(APSーCミラーレス普及機)のカメラだと、やはりソニー、キャノン、フジ、のコスト対パフォーマンスと比べてしまう。なんとニコンの超絶一眼レフD850とほぼ同じ価格帯なのだから。

 とまあ、いつもの辛口コメントだが、細かいことに目をつぶるのがライカユーザの礼儀、ライカ使いのお作法。

 「買いか?」ふところに余裕がありライカファン(特にSLやMシステムユーザ)なら買い。SLシステム使ってるなら、そのサブシステムとしてCLはパーフェクト。特に望遠系の予備に最適(何と言ってもSLの90〜280mmバズーカ砲よりはるかに軽い)。もちろんいつもカメラを持ち歩くキャンデットフォトグラファーにも最適。Qの28mm、M10の50mmと一緒に持ち歩けばほぼ全てのシチュエーションをカバーできる。驚きの高品位な画質に感動すれば、あとはどんどん持ち出して使い倒すのがこのCLへのリスペクトだろう。

 こうなると、次はこの素晴らしいEVFを内蔵したフルサイズカメラの登場が期待される。すなわちM10の次のEVF内蔵Mだ。しかしそれはないんだろうな。ライカ社はフルサイズでEVF 内蔵ならSLがある、と言うのだろう。あの鉄アレーのように重い... 光学レンジファインダーにあくまでこだわるのがMなのだ。ニコンも一眼レフの最高峰D850を出して、大ヒットしているのだし。伝統のMのファインダーをEVF化し、ミラーレスカメラ(もともとミラー何ぞないんだけど)化するつもりはないだろう。かといって安易にCLのフルサイズ化もやらないだろう。Mが売れなくなる。老舗はそう簡単にはクラウンジュエルを手放さない。面倒くさい。



Vario Elmar装着
あちこちに高低差のある無骨な軍艦部

内蔵EVFの見え方は美しい

EVF内の情報
ファインダーに使用する光学ガラスにも凝って視認性も申し分ない

背面液晶もクリアーで高精細
チルト機構などというギミックもない

軍艦部
ダイヤルで設定した内容が小さな液晶画面に表示されるのだが...
もうちょっといいデザイン処理はなかったのだろうか。ファインダー上部あたりの凸凹も少しエレガントにまとめて欲しい。


かつてのLEITZ/MINOLTA CL
日独合作のコンパクトフィルムカメラの傑作


Elnst Leitz社最後のバルナック型ライカLeica IIIG
ライカレジェンド究極の姿

CLでもなければバルナックでもない、と感じるのは間違っているのか




作例:


素直でクリアーな写り

大森貝塚公園のエドワード・モース博士像
上記写真をクロップして拡大
2400万画素の余裕


ナチュラルな色調とボケ具合

終わりを迎えた紅葉残照
上記写真をクロップして拡大
葉脈の一本一本まで写し出している解像度に感動

撮影機材:Leica CL + Vario- Elmar T 18-56/3.5-5.6 ASPH.

2017年12月16日土曜日

旧三井家下鴨別邸探訪 〜糺ノ森界隈に佇んでみる〜









 




 旧三井家下鴨別邸は、下鴨神社、糺ノ森の南に位置している。元は下鴨神社社家の敷地の一つであったそうだ。南禅寺界隈別荘群同様、大寺院の塔頭や神社の社家町が、明治以降、政財界人の屋敷や別邸になったケースはそう珍しいことではない。京都だけでなく奈良でも東大寺周辺には今でも依水園や吉城園などの立派な庭園を有す屋敷跡があるし、春日大社の社家町であった高畑町にも多くのお屋敷が並んでいる。

 三井家は惣領家である三井北家を始め11家あるという。下鴨別邸は三井北家の第10代三井八郎右衛門高棟(たかみね)によって、大正14年(1925年)11家共有の別邸として建築された。建築に際しては木屋町三条上ルにあった三井家木屋町別邸を母屋として移築した。さらに玄関棟と茶室が加えられ現在の姿となっている。この別邸の建物の特色は、何と言っても主屋二階の東山全景と庭園を展望する開放的な座敷と、さらにその上にしつらえられた3階の望楼である。これが外観的な特色にもなっている。2階、3階は通常公開されていないが、年何回か公開日が設けられている。ぜひ上がってみたいものだ。建物の前面には苔地の庭と、泉川から水を引き込んだひょうたん池が配されている。もとは古代からの原始林、糺ノ森の一部であったという来歴を聞くと、鬱蒼とした森林のなかの邸宅/庭園を妄想するが、それとは異なり開放的な明るい佇まいである。南禅寺界隈の別荘に比べると比較的こじんまりしているが、落ち着いたくつろぎを感じさせる別邸である。

 これまで何度か下鴨神社、糺ノ森に足を運んだことがあるが、今までこんなところにこんなお屋敷があることに全く気づかななかった。塀に囲まれた一角であったので、何があるのか気づかなかったとしても不思議ではない。京都には、まだ高い塀に囲まれて人知れず荒れ果ててゆく歴史的な邸宅や庭園が数多くあるのだろう。この三井家下鴨別邸も。戦後の財閥解体に伴って昭和24年(1949年)には国に移譲されて、京都家庭裁判所所長官舎として使われていたという。2007年にその官舎としての使用が終わり、跡地利用の話になった。家屋は老朽化し修復もままならぬ状態、池も干上がって見るも哀れな状況であったという。で、取り壊しの話が持ち上がった。しかし、近代建築の保存、文化財としての価値の再認識の動きの中で、コンソーシアムを形成して敷地建物を引き継ぎ、保存修景することとなった。平成23年(2011年)には重要文化財指定、そして平成28年(2016年)に一般公開される。そう、去年から新しい京都の公開文化財となったわけだ。知らないはずである。なんでも古いものはすぐ壊して再開発と称して集合住宅や雑居ビルを建てる。下鴨神社境内にもなんと参道の両側にマンションが建てられている。神社の台所事情から売却された神社所有地に建てられたそうだ。文化財を守る、文化的景観を守る。資本主義の論理の中で難しい決断を迫られるのであろう。舞台裏で三井家下鴨別邸の保存に苦労された方々の労苦を偲ぶ。




































(撮影機材:Leica SL + Vario Elmarit-SL 24-90/ 2.8-4)



2017年12月3日日曜日

小石川後楽園散策 〜都心の大名庭園に紅葉を愛でる〜





 今年は京都の紅葉の時期に、妙に忙しくて、ついに上洛が叶わなかった。永観堂だ、東福寺だ、真如堂だ、北野天満宮の御土居だ、いや嵯峨野の常寂光寺だと散々にFBで沸き立っているのを横目でチラ見するだけであった。その悔しさが募る一方、ふと都心でも紅葉の美しいところがあるはずだと気づいた。なにも「紅葉といえば京都」ばかりでもあるまい。負け惜しみじゃ無い。いや少しは負け惜しみだが、東京には江戸時代の大名屋敷/庭園の跡があちこちにあるではないか。しかも広大な敷地を有する邸宅とそれに付属する庭園だ。大名庭園はほぼ例外なく紅葉や桜の名所になっている。

 参勤交代の廃止、廃藩置県の後、こうした大名屋敷は明治新政府に接収され、あるものは政府官庁の用地に、あるものは軍用地に、あるものは大学に、あるいは皇族や華族の屋敷に。あるものは払い下げられてビジネス街や、維新の元勲や財閥の邸宅になっていった。江戸にはこうした明治新政府にとって帝都を形成するために必要な敷地がふんだんにあった。京都ではこうはいかない。こう言う観点からも東京奠都は日本の近代化にとっても合理的な判断だったといえよう。さらに戦後になって、財閥解体、華族制度廃止が進むとこうした広大な敷地を有する邸宅/庭園は、市民に開放され公園となっていった。こうして大都会東京は想像以上に緑地面積が広く、市民の憩いの場となる公園や庭園が数多く有する都市となる。

 ここ後楽園はその代表格。今更説明するまでも無いであろうが、元は御三家の水戸徳川家江戸屋敷。その庭園が後楽園である。明治以降、その広大な敷地は陸軍の用地となり。戦後は民間に払い下げられ後楽園遊園地と後楽園球場となった。都民には遊園地や巨人軍の本拠地、いまの東京ドームの方が馴染みなのだろうが、どっこい水戸徳川家の大名庭園は今も生きていて都立「小石川後楽園」として人々に開放されている。東京ドームの白い屋根を借景にした庭園風景は東京名所になっている。

 ここの紅葉がまことに美しい。紅葉といえば六義園が有名であるが、後楽園のそれも素晴らしい。春にこの近くのホテルで会合があり、その帰りに立ち寄った時は桜が満開であった。とりわけしだれ桜が見事であった。その時、園内に紅葉の木が多かったことに気づいてのでさぞや秋の紅葉シーズンには、と想像していた。この日は快晴。平日の朝から入場に長蛇の列。並んでいるのはシニア割引対象の人々ばかり。団塊世代の定年退職により、平日からこういうところが混雑するのだ。定年後は、ようやく休日の混雑を避けて、平日にゆっくり名所旧蹟散策を楽しめるようになるんだ、という夢ははかない幻想であることを思い知らされることになる。全く何歳になっても団塊世代は競争が厳しい。それでも並んでも入る甲斐がある美しさであった。人の賑わいも江戸情緒のうち。東京も捨てたものではない。まあ、とにかく写真をご覧あれ。





























(撮影機材:Nikon D850 + AF Nikkor 24-70/2.8, AF Nikkor 80-400/3.5~5.6)



2017年11月27日月曜日

畠山記念館探訪 〜茶室という小宇宙〜



 地下鉄高輪台から歩いてすぐの畠山記念館。ここは荏原製作所の創業者、畠山一清の邸宅であった場所を公益財団に寄贈し、茶の湯や能楽関連の美術館として一般に公開している。この高輪台は薩摩藩島津家の屋敷があったところで、別名島津山とも呼ばれている。現在は閑静な住宅街として知られる一帯だ。畠山記念館と隣の旧般若苑の敷地は、島津重豪(斉彬の父)の江戸別邸であった。明治以降、同じ薩摩藩出身の外務卿寺島宗則の邸宅になり、それを畠山一清が購入し邸宅とした。ちなみについ最近まで隣にあったその般若苑という料亭だが、海外からの賓客をもてな迎賓館として歴史に名を残す場所であった。しかしその後廃業して人出に渡り取り壊された。跡地には2013年にテラス白金という4階建ての白亜のビルが建設された。周辺住民の間では孫正義の迎賓館だともっぱらの噂だが公表はされていない。閑静な住宅街に突如出現した全く場違いでセンスを疑うような建造物。厳重に門扉は閉じられ、始終警備員が巡回警備するという不気味な存在だ。同じ実業家でも、その富の使い方には大きな違いがあって、奇しくもそのコントラストが際立つ場所になってしまった感がある。

 話を畠山記念館に戻そう。ここは茶道関連のコレクションを中心とした美術館で、こじんまりした展示点数もそう多くはない美術館である。一清が能楽にも通じていたため能関連のコレクションもあるそうだが、この日は目にすることがなかった。一方で、国宝7点を有するほか、茶室は三つある。畠山一清自身、茶人として即翁と称し、原三渓や、三井物産の益田鈍翁、横井夜雨などと交遊した。今回はこの三人(即翁、鈍翁、夜雨)の交流を偲ぶ「近代数寄者の交友録」展を鑑賞した。当時の財界人や政界人は、茶道を通じて交流し、文化人としても名を成した。こうした人々を「数寄者」と呼んだ。去年訪問する機会を得た京都南禅寺界隈別荘群の一つ、「野村碧雲荘」も野村徳七翁の数寄屋別邸で、特色ある茶室の数々と能楽堂で有名である。

 それにしても展示を丁寧に拝見して感じることは、茶道とは、一服の茶を媒介として、大の大人が素朴な小さな茶室に集い、大きな自然を感じ、そこに宇宙を見る文化だ。茶器も、備前、志野、楽茶碗などの枯淡な、あるいは偶然の造形の酔狂さに溢れるもの。それは縄文時代から続く手撚りの土器の延長であり、一切の装飾や人為的な造作を廃したもの(人為的に作り出しているのだけれど)の伝統が生きているように感じる。茶杓にいたっては要するに竹篦を竹林からそのまま削り出したものにすぎないではないか。茶室を彩る唯一と言って良いほどの装飾品も切り出した竹筒に投げ入れた一輪の野花。

 古代から中世にかけて、中国から伝わった唐物や、近世以降、西欧諸国から伝来した南蛮渡来物などへの強い憧れがあったのも事実だが、青磁、白磁などの磁器や金属機器、織物、絵画と異なり、自然の一部として生み出されたお道具が愛でられる空気が流れている。もちろん唐物や南蛮渡来のその影響を受けてはいるが、それを咀嚼し自分の物にして、さらにそこに日本人独特の自然観、それにもとずく精神性のスパイスを利かす。茶道においては利休がそれを目に見える形に完成させ、自然を重んずる侘び、寂びが基調になっていった。

 こうした国宝や文化財として指定されている茶碗や茶杓、一節の竹を割っただけの花瓶、一筆、墨で殴り描かれたような掛け軸にしても、ルーブルやエルミタージュ、メトロポリタンに並んでいる絢爛豪華なお宝を見慣れた西欧文明人の目から見ると、粗末とさえ見える素朴さである。下世話な表現で言うと「金目のもの」に見えない、超絶技巧のかけらも感じないシロモノがなぜ国宝や文化財として美術館に丁重に保管され展示されているのか不思議に感じることだろう。最近でこそ日本文化の真髄を理解し、愛でる人が世界中に増えたが、日本人である私ですら、こうした作品を目の前にすると、なぜこれが貴重な美術作品なのかふと不思議に思うことがある。茶室のしつらえにしてもそうだ。西欧的な感覚でいうと、木と藁と紙でできた極端に狭くて粗末な小屋でしかない。西欧の石造の建造物に比べると、残す努力をしなければいずれは朽ち果てて自然の中に埋もれてゆく運命にあるだろう。しかし、それこそが森羅万象を貫く摂理なのであって、風雪に耐えて永遠に残るのは建物ではなくその精神だという。この宇宙観、哲学、精神世界、美的センスを感じる日本人とは、ある意味不思議な人たちである。

 ルネッサンスを経て人間の英知と力と文明が自然に打ち勝ってゆく歴史を歩んだ西欧文明。「我思うゆえに我あり」。いろいろと思索を巡らす自己こそが疑いのない存在であり宇宙の中心であるということに気づいたという西欧個人主義哲学。人間の理性に導かれる経験こそが真理の源泉であるという経験論哲学。これに対し、自然と共に生きてゆく、自己も自然の一部である、広大無辺な宇宙を構成する様々な要素の一つとしての自己、という宇宙観を持つ日本人。唯一絶対神にすがるよりも一木一草に神が宿る八百万の神々の世界に生きる日本人。こうした違いが美への感性に染み込んでいるのだろうか。明治以降、西欧流の近代合理主義に染まった日本人にとっても不思議な原点回帰の体験である。

 この日は見学者に外国人は見かけなかったが、彼らは一体ここに何を感じるだろう聞いてみたい気がする。茶道を愛好すると思われる様々な世代の見学者が集っていた。茶室では茶会も催され、着物姿の女性も多かった。中には一本の茶杓(本阿弥光悦の作という)の前にじっと佇み、一人はるかな宇宙を夢想する若い女性もいる。もうかれこれ何十分かこの前を動かない。決して多くはない展示品の数々だが、来館者はゆったりとして濃密な時間を楽しんでいるように見受けた。なんという人たちなんだろう日本人は...

 岡倉天心の「茶の本」を思い出した。読み返してみよう。





畠山記念館美術館
靴を脱いで入る



畠山即翁像
平櫛田中作















庭園内に残る松の巨木

茶室の板戸からの光が障子に
木洩れ陽



茶室への枝折り戸






すぐ隣には「ホワイトハウス」
一瞬で夢想世界から現実の物欲煩悩世界に引き戻される