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2015年2月16日月曜日

もう一つの「山崎の合戦」〜なぜサントリーの山崎にアサヒビール大山崎山荘美術館があるのか?〜

 NHK朝ドラ「マッサン」が人気だ。スコットランドから連れてきた妻のエリーの健気な姿がとても日本人ウケする。日本人はこういう「外人」に弱い。一方、巷では、ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝がモデルとなっているのでサントリーが僻んでるとか、「マッサン」を取り上げた雑誌にはサントリーは広告を出さないとか、まあ、どこまで本当なのかわからないが騒いでいるようだ。サントリーほどの企業がそんな子供じみた反応するとは思えない。そもそもドラマのストーリー読んでも、マッサンは鴨居商店で日本で初めてのウイスキー醸造所を作り、しかも鴨居社長にはいたく恩義を感じて、共に日本のウイスキーづくりに頑張っているではないか。そもそもライバル同士が切磋琢磨し、正々堂々と競争してない業界があるとすればそれは終わってしまった業界だろう。世の中には、ホントにつまらんうわさ話を作り出しておもしろおかしく「売り」にするヤツがいるものだと思う。

 ところで、大阪と京都の間に位置する山崎の地は、歴史好きには明智光秀と秀吉の「山崎の合戦」「天下分け目の天王山」、ウヰスキー好きにはサントリー山崎ディステラリー、「鉄ちゃん」には新幹線とJR東海道線、阪急電車の並走競争「山崎の合戦」で有名な土地である。古来より京都・大阪を結ぶ重要な交通の要衝で、三川合流する谷間の狭い回廊が、様々な「合戦」の舞台であることを示している。

 以下は以前の訪問した時のブログ:
「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 大山崎山荘美術館 ーOyamazaki Villa Museum of Artー: http://tatsuo-k.blogspot.jp/2011/09/oyamazaki-villa-museum-of-art.html
最近ちょっと美術館巡りが続いている。今回は京都府乙訓郡大山崎町にあるアサヒビール大山崎山荘美術館。  この山荘美術館の本館は、大正7年に実業家加賀正太郎によって建てられた、英国ハーフティンバー様式の建物だ。英国の生活様式に憧れて建物を本格的に設計、建築した。この時代には好事...

 この大山崎の背後にそびえる天王山。その中腹に、立派な英国風ハーフティンバーの山荘がある。現在はアサヒビール大山崎山荘美術館として一般に公開されているが、元は関西の財界人加賀正太郎が建てた別荘である。素敵な建物と庭園、一級の美術品。安藤忠雄設計の半地下の新館にはモネの睡蓮が。テラスからは木津川、桂川、宇治川が合流して淀川となり、やがて大阪へと流れ下る景観を一望に見渡せる。素晴らしい景観と歴史的な建築。私の好きな場所の一つだ。

 しかし、山崎といえばサントリー山崎ディステラリーを思い起こす人が多いだろう。TVのコマーシャルでもおなじみのあの静かな森に囲まれた醸造所だ。サントリーで有名なここ山崎に、何故アサヒビールの美術館があるのか?ちょっと不思議に思っていた。サントリー山荘美術館じゃなくて、アサヒビール山荘美術館なのだから。なにか曰く因縁があるのだろうかと。現にすぐ隣にあのサントリーのシンボルたる醸造所の建物がそびえている。ちなみにアサヒビールは大阪生まれのビールの老舗(大阪麦酒)。同じく大阪生まれのサントリーはビール市場では新規参入事業者だ。しかし、そういう競争関係だけでなく、実はアサヒビールは現在はニッカウヰスキーを吸収しているので、サントリーの本丸とも言えるウイスキー市場での競争相手なのだ。

 そうなると、にわかにここ山崎の地が騒がしくなってくる。

 話は少々込み入ってくるが、ここは関西の起業家・企業家たちのビジネスの主戦場の一つ、もう一つの「山崎の合戦」の舞台でもあったのだ。すなわち、「マッサン」こと竹鶴政孝は、鳥井信治郎に見込まれてサントリーの前身、鳥井商店・寿屋に入り、日本初の本格的なウイスキー醸造所をここ山崎に創設する。竹鶴はのちに寿屋を離れ、北海道余市に醸造所を設け、ニッカウヰスキーを設立する。こうして世話になった鳥井信治郎の元を離れ、彼が開設し所長を務めたサントリー山崎醸造所とも競争関係になる。

 竹鶴のニッカウヰスキーはその株の70%を関西財界の大物、加賀正太郎に保有してもらう(出資してもらう)ことで事業化に打って出ることが出来た。加賀は良きパトロン、筆頭株主としてニッカの事業支援を行ってゆく。この加賀正太郎が、この山崎の山荘の所有者である。また竹鶴政孝とその妻リタ(エリーのモデルとなる)はこの山崎に一時住まい、リタは加賀夫人の英語の家庭教師を務めたという。晩年に加賀は、この株をアサヒビールの山本為三郎に譲渡する。安定的にニッカの事業を継続できる株主としてアサヒビールを選んだと言われている。アサヒビールはニッカウヰスキーを吸収合併して現在に至っている。そういった加賀と山本の関係もありアサヒビールが、一時存続が危ぶまれていた加賀の山崎山荘を買い取り、再生して「アサヒビール大山崎山荘美術館」が誕生することとなったというわけだ。

 ちなみに、この「山崎の合戦」のプレーヤーを簡単に紹介しておこう。関西財界の超有名人、実力者達なので今更履歴など書き連ねても始まらないが。

竹鶴政孝
(大阪高等工業のちの大阪大学工学部。グラスゴー大学留学)
寿屋で鳥井信治郎の元で本格的なウイスキー製造を始める。山崎醸造所開設。のちに独立してニッカウヰスキー創立。北海道余市に醸造所を開設する。
鳥井信治郎
(大阪高等商業のちの大阪市立大学)
大阪道修町小西儀助商店などを経て鳥井商店、のちの赤玉ポートワインの寿屋を創設。現在のサントリーの創業者。
加賀正太郎
(東京高等商業のちの一橋大学。英国留学)
加賀財閥主人。加賀証券社長。ニッカウヰスキー設立に関わり、筆頭株主(70%)。のちにアサヒビールに全株売却。

 このようにこの業界だけ見ても、当時の関西はこうした起業家・企業家がダイナミックに合従連衡する土地柄だったことがわかる。高等工業や高等商業といった実業を教える高等教育機関がこうした若い人材の育成に大きな役割を果たしたこともわかる。学校卒業後、地元の企業に入り、下積みから努力して、やがて独立し起業する。成功した財界人は彼らのパトロンとなり、そうした若き起業家を育て、出資し、事業の成功を支援する。ベンチャーキャピタルファンド、エンジェル、人材育成... 当時の関西にはシリコンバレー顔負けの産業生態系(エコシステム)が出来上がっていた。日本一の経済産業都市、大大阪のエネルギーの源泉はこの辺にあったようだ。

 資本、人材、技術、これらが自由でダイナミックに融合し、競争し、あるいは衝突しながら産業、経済が成長してゆくという資本主義の本質。それを育む土壌と気質。これが大阪という土地の生来の特色だ。それらがこの「合戦」エピソードを生み出しているのだ。マッサン人気とサントリーの苛立ちなどという下らない岡目八目の噂話などではなく、むしろこうしたダイナミズムを感じさせる話が最近トンと聞こえてこないほうを心配したい。もっと後世に残るドラマの主人公になる逸材や、豪奢な別荘でも建てる大物がドンドン出てこないものか...


アサヒビール大山崎山荘美術館
加賀正太郎が建てた英国風別荘が元になっている

天王山中腹にハーフティンバー様式の山荘が威容を誇る

山荘テラスから展望する大山崎
京都からの木津川、桂川、宇治川がここで合流し淀川となって大阪湾に流れ込む
英国のテムズ川やエイボン川の風景を彷彿とさせる
サントリー山崎醸造所(同社HPより)




2015年2月2日月曜日

今、5年前の「初夢」を思い起こしてみる。 〜文明の盛衰と世界観の変遷〜

 5年前のあの時、夢想した世界史の大きな潮流の転換点を、今日この時にこそ思い起こしてみる。21世紀の中国、インドの台頭を。そしていまだ混乱のなかにあるイスラム諸国の胎動を。残虐で理不尽なテロリズムに動揺し、目を曇らせてはならない。「絶対に許せない」と誰もが言う。全くその通りだ。が、そこで立ち止まったらテロリストの挑発に反応しているだけだ。そこから先の思考が止まってしまう。

 ここでちょっと目線を上げて「文明の盛衰」という数百年周期の波動を見据えてみよう。それはマクロ的に歴史を振り返り、未来を展望するということである。そこから得られる世界観は、誰かにとっての「悪夢の終わりで薔薇色の夢の始まり」が、別の誰かにとっての「薔薇色の夢の終わりで悪夢の始まり」である、といった単純な「正義の変遷」でかたずけられるようなものではないことがわかる。「文明の盛衰」とはそんな誰かの正義と誰かの悪の二元論で説明できないことがわかる。いまだに多くの人間が誰かの正義の名の下に殺されている。こうして連鎖的にただ憎しみが憎しみを生み出しているだけだ。正義や悪は後から説明される。「文明の盛衰」があっても人間は何も変わっていない。

 しかし、一方で古代人や中世人にとっての地球/世界と違って、近代人の地球/世界は、はるかに小さくて脆弱な「村(Global Village)」になってしまった。我々はこの星が宇宙に青く輝く小さな星であることを知ってしまったのだ。しかも生命が存在する星は、この宇宙にそんなに多くはなさそうだ、と。「おーい!誰かいるか?」と宇宙に向かって叫んでも、なんの返事も帰ってこない。地球は孤独な生命の星だと。問題は、その狭い地球「村」の中の「文明の対立」が引き起こす戦争、テロ、貧困、飢餓、そして環境破壊が、「文明の崩壊」さらには地球上の種の大量絶滅につながらない知恵を出し合うことが出来るかだ。さもなければ、後世、この21世紀の地層が、白亜紀とそれにつづく古第三紀恐竜を絶滅させたという小惑星の衝突などの偶発的な自然現象ではなく、人間という種が引き起こした大量絶滅のK−T境界となってしまうかもしれない。

 問題を地球全体にすり替えて、地域の現状から目をそらせるな。これでは今の問題を解決できない。誇大妄想で、荒唐無稽な悪夢である、と言われるかもしれない。しかし、少し頭を冷やして目線を変えてみたい。問題のありかを長い歴史の全体を俯瞰するところから始めてみたい。魔法の薬のような即効的な答えや明確な処方箋はそこにないかもしれないが、何か考える視点を提示してくれるかもしれない。歴史を知るということはそういうことなのだ。どうせカッカして「木を見て森を見ず」じゃいい考えなんか浮かばない。「誇大妄想」「荒唐無稽な悪夢」。まさにそうであることを祈るばかりだ。

以前モノしたブログ:

「時空トラベラー」 : 2010年正月 初夢を見た: 15世紀の大航海時代が始まる前のヨーロッパはユーラシア大陸の西端に圧迫された後進地域であった。森の中で獣を追っかけて西へ東へ移動していた狩猟民族の世界だった。ローマ帝国から広がったキリスト教はまだ世界宗教ではなく、東方の圧倒的なイスラム教世界に包囲された地方宗教に過ぎなかった。


追記:

 16世紀、ヨーロッパのキリスト教徒が、広大なユーラシア大陸の西端のヨーロッパを出て、上述のような理由で東アジアへの東航路、西航路を切り開いた。、バスコダ・ガマはインド航路、さらにはマラッカ、中国への路を開いた。コロンブスは東ルートでインド/ジパングへ行こうとして偶然「新大陸」を「発見」した。マゼランは世界一周航海を達成し世界が丸い球体であることを証明した。これが「大航海時代」と後世呼ばれ、ヨーロッパ人/キリスト教徒中心の世界地図が流布し、そういった世界観が形成された。西洋文明全盛の時代がこうして到来した。

 しかし、こうしたヨーロッパ人の世界観が形成される以前、14世紀、イスラム教徒である大旅行家イブン・バトゥータは3大陸を周遊する大旅行を敢行した。また同じ頃、中国では明朝の宦官鄭和が皇帝の命を受け、大船団を率いてやはり東南アジア、インド、アラビアからアフリカまで遠征している。13世紀のベネチアの商人マルコ・ポーロは元朝の首都大都まで旅して「東方見聞録」を著した。あの「黄金の国ジパング」を紹介した本だ。しかし、彼の旅はアラビアの商人やスルタンの知識と保護/導きによるものであるとされている。中世のヨーロッパは偉大なイスラム文明から見ると文化果つる大陸西の果ての辺境地域でしかなかった。東へ行こうとすると巨大なイスラム世界(異教徒の世界)が立ちはだかり、海を渡ろうとすると巨大なアフリカ大陸がアジアへの道に立ちはだかる。世界の文明はイスラム世界、インド世界、中華世界が中心であった。しかし、大航海時代の幕開けとともに、こうした文明は、西洋文明に対比される旧世界の遅れた文明として片付けられてしまう。

イブン・バトウータ
イブン・バトゥータの三大陸周遊
14世紀中4次に渡り行われた。


鄭和
鄭和の遠征
14〜15世紀初頭にかけて7次に渡って行われた



マルコ・ポーロ
13世紀マルコ・ポーロの「東方見聞録」の旅


バスコ・ダ・ガマ
1497〜1499年バスコ・ダ.ガマのインドへの航海


クリストファー・コロンブス
1492年コロンブスのアメリカ大陸「発見」
以降4度にわたる航海

フェルディナンド・マゼラン
1519〜1522年マゼラン艦隊の世界一周航海