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2026年8月15日土曜日

戦後81年目の「終戦の日」 〜猛暑と地震と集中豪雨の夏 そして...〜

 鎮魂 

そして二度と繰り返さないこと 

鎮魂

武器輸出三原則見直し。国家情報局設置、国旗毀損罪新設、皇室典範改正。この勢いでスパイ防止法制定、そして憲法改正へ。併せて非核三原則見直し。国体護持(反象徴天皇制)。本日の全国戦没者追悼式において、過去への反省を明確に述べられた天皇陛下に対し、反省に言及しない総理大臣。淡々と進められる法律改正や制度、政策見直し。気がつくといつの間にか戦争できる国に。民草のことはどこかへ忘れてきたかのように。「民権」より「国権」。「この道はいつか来た道」.....それが、あなたが笑うように単なる杞憂で あることを祈る。


2026年8月3日月曜日

猛暑の夏

 毎年夏の暑さが増しているが、今年の夏もまた一段と猛暑だ。これからは35度を超えると「酷暑」とする。とお役所が新らしい名称を発表したらしいが、ヨーロッパでは今年も40度を超える熱波が襲っている。もう次の40度超えの名称を考えておく必要があるのでは。そんな暑さの「名称」よりも「対策」だ。今するべき事と、将来を見据えてするべき事と。そんな今年の夏、熊本でまた大地震。10年前の悪夢の再現だ。猛暑の夏の地震。避難生活。やり切れない。日本人は太古より過酷な自然の中で生きてきた。この地から逃げ出すこともせず。壊れては建て直し。亡くなった方々の墓碑を守りながら生きてきた。「自助」「共助」。長い時間の中で日本人の精神性に影響を与えながら。

「言うまいと思えど今日の暑さかな」今年もまた。











2026年7月3日金曜日

ノスタルジック喫茶店 〜また昭和の面影が消えてゆく〜

 次々と「喫茶店」が街から消えてゆく。最近、ご近所の最後の安らぎの場であった「昭和な」喫茶店が閉店した。高齢のご婦人とその娘さんが二人でやっていて、丁寧に入れてくれるコーヒーの香りが心に染み渡ってよかったのに。ふう〜と落ち着ける場所だったのに。これでこの界隈に喫茶店というものがなくなってしまった。いわゆる「再開発」で取り壊されるのだそうだ。もう一箇所、喫茶店ではないが、駅近の某ホテルのコーヒーラウンジは気さくなマスターと元気なウェイトレスの二人組でやっていて、ホテルっぽくない敷居の低さが人気であったが、これもホテルオーナーが替わると共に無くなってしまった。伊豆下田に行くと必ず寄っていた、高齢の夫婦がやっていた小さな落ち着いた喫茶店。これも「長らくお世話になりました」の張り紙を残して閉店した。だいたい熟達のマスターや家族でやっている店、人と人との触れ合いがある店から消えてゆく。残るのは全国チェーンの(ネットでリクルートしたバイトがやっている)コーヒーチェーン店ばかり。マニュアルで「仕事」する画一性は、人の安らぎを生んでいると言えるのだろうか。

学生時代にあった「歌声喫茶」や「ジャズ喫茶」「フォーク喫茶」などはもう語り種。ただ福岡天神のフォーク喫茶「照和」はレジェンドらしくまだ頑張っている。灰皿完備「喫煙当たり前」の煙もうもうの喫茶店も、しまいの方には「禁煙室」を設けて無駄な抵抗していたが遂に落城したようだ。大阪のなんばでガンバってたあのマスターも年だったからなあ。初任地の姫路の商店街の喫茶店。「モカ」って言ったかな。毎朝通勤時に、独身寮からここに寄ってコーヒー、トースト、ゆで卵のモーニングセット食って会社に行った。まだあるのかな。おデートした銀座の「和蘭豆」は健在だ。今も時々行く。あちこちに思い出の詰まった喫茶店があった。やがて「喫茶店」という言葉も「カフェー」という言葉と共に消えゆくのだろう。消えてゆくからノスタルジックなのか。



神保町のレジェンド「さぼうる」。こちらは観光スポットになっていて入店には行列待ちを覚悟すべし。ふらりとは入れない。それもなんか寂しい。神保町に行くとまだ老舗の喫茶店があちこち健在だ。本との相性が良いのだろう。頑張って欲しい。我々も懐かしむだけでなくもっと行かなくちゃ。




学生時代に通った九大正門前の「プランタン」跡。「学生街の喫茶店」。喫茶店はとうの昔に廃業したが、店とそのファサードはそのままで今も残っている。「純喫茶」(懐かしい!)「プランタン」のロゴが50年の風雪に耐えているのが愛おしい。これを発見した時、思わず「ありがとう」と手を合わせてしまった。時空を超えた奇跡だ。可愛いウェイトレスの娘がいたなあ。私がコーヒー頼むとヴィヴァルディーの「調和の幻想」をかけてくれた。元気かな。おばあちゃんになってるんだろうな。私もおじいちゃん。大学そのものが移転してしまい無くなったのに、正門前の喫茶店だけが残っている。なんとも切ない
😞






伊豆下田の「邪宗門」。下田で唯一残る喫茶店。よく見ると「珈琲店」とある。私が勝手に喫茶店に分類してるだけなのか。ウインナコーヒーが名物。赤い郵便ポスト中心にアンティークなものが店内あちこちに飾られ、骨董品店に居る気分だ。観光客にも人気だが地元の人の交流の場になっている。タクシーでやってきた車椅子のおばあちゃんが、運転手さんと店員さんの手伝いでお店の定位置に収まり、コーヒーを飲んでいる。そんな喫茶店。




大森の老舗喫茶店「ルアン」。地元出身の個性派タレントおすすめの店だ。2階席もあってスペースがあり入りやすい地元志向の喫茶店。中高年世代の憩いの場は大森駅界隈ではここだけになってしまった。




福岡天神の伝説のフォーク喫茶「照和」。海援隊、チューリップ、甲斐バンドなどを生み出した。今も西鉄福岡(天神)駅ターミナルビル前の同じ場所で、同じ佇まいで営業中。周りは再開発ですっかり様相が変わったのに奇跡的!地下の小さなスペースにステージもあり、今でも多くの新人がここからデビュー目指してライヴをやっている。芸能人、歌手、音楽家を多く生み出している福岡という街を、ある意味象徴する喫茶店だ。






2026年6月7日日曜日

コーヒー・ハウスとは何か? 〜17・18世紀ロンドンのソーシャル・ネットワーキング〜

ホガースが描く18世紀ロンドンのコーヒー・ハウス


伝説のコーヒー・ハウスButton'sに設けられたライオンの投書箱

代表的なコーヒー・ハウスGarraway's

1700年頃のコーヒー・ハウス内部(British Museum蔵)

シティーにある現在のロイズ保険会社


 「コーヒー・ハウス」ってなに?

17〜18世紀イギリスに花開いたコーヒー・ハウス文化。主としてロンドンの中心街に社交の場として開かれ、特に1660年の王政復古ののちに盛んになった。これまであったタヴァーン(酒場)とは異なりコーヒー・ハウスでは酒を出さない。海外、特にアラビア、トルコから伝わった大航海時代の産物「コーヒー」を出す。これは二日酔いに良いと考えられ、健康にも良いと信じられ人気となった。コーヒーのメリットを盛んに喧伝したのはフランシス・ベーコンである。さらにやはり海外から持ち込まれた砂糖、タバコ、カカオも嗜まれた。エギゾチックな香りの飲み物と紫煙に満ちたコーヒー・ハウスはたちまちトレンディーな社交の場となった。何よりも強い酒で思考が朦朧として、喧嘩も絶えずまともな議論が出来ないタバーンではなく、コーヒーは脳を覚醒化させて理性的、合理的に議論し、判断できることが好まれた。17世紀の詩人アレキサンダー・ポープは「コーヒーは政治家を賢明にした」と言っている。ちなみに茶(Tea)が社交の場に入ってくるのは19世紀になってからのこと。

コーヒー・ハウスは入場料1ペニーとコーヒー一杯2ペンス払えば誰でも店に入れる。コーヒーを飲みながら自由に議論し談笑し、情報交換する場となった。もともと航海を終えた冒険商人、これから航海に向かう冒険野郎などが集まり海外情報を交換する場であった。有名なロイズ・コーヒー・ハウスがその典型である。そこで海外情報が共有され、新しい商売が着想され、リスクヘッジの保険のアンダーライターを探し、やがて株価情報が行き交い、市場動向がつかめる場となって行った。エリザベス一世はロンドンに株取引所を開設したが、ディーラーたちはその周りにできたコーヒー・ハウスで取引をした。まだ郵便制度ができる以前には、ここで手紙を書き、宛先別の袋に入れておけば船乗りや行商人が配達してくれるし、ここで手紙を受け取ることもできた。特に海外向けの信書の扱いで通信手段が限られていたので重宝された。

またコーヒーハウスには政治パンフレットや新聞、雑誌が置かれ、誰でも無料で読むことができ、図書室を併設するところもあった。様々な情報に接する機会が用意されていた。ここでの客同士の会話は最新のニュースであり新聞記事の情報源となった。このようにコーヒー・ハウスは一種の情報センターであり、ジャーナリズムの揺籃となった。また、人が集まれば必然的に商品やサービスの広告宣伝の場になった。コーヒーが健康に良いという噂に釣られ来店する客に向けて、怪しげな薬やニセ医者の広告宣伝の場となり、特にペスト流行時にはイカサマ情報が横行しトラブルも多かったようだ。当時の旅行記や風俗詩に格好の話題を提供した。

コーヒー・ハウスには真実も有益な情報もあったが、フェイクもウソもハッタリなどいかがわしい話も混在した。陰謀を企む者やスパイの暗躍する場ともなった。政府にとっては都合の悪い言論動向を把握し、フェイクニュースやプロパガンダで故意に世論操作する場ともなった。時には検閲官が出入りすることもあった。王政復古後一時、言論統制のためチャールズ2世によってコーヒー・ハウス禁止令が出されたこともあるが、なんとか規制をすり抜け、業界は逞しく成長し、一時はロンドンだけで3000を超える店があったという。コーヒーハウスはますます繁栄した。こうした虚実内混ぜのカオスの中から世相を読み取り、時代の流れを見極め、商売や政治や文学作品が生まれた。コーヒー・ハウスはまさにそうしたオープンなソーシャルネットワーキングの場であった。

コーヒー・ハウスには誰でも入れるとは言え、出入りするのは時間に余裕がある人々であり、毎日仕事に追われる労働者階層の人々の来るところではない。第一、少なくとも新聞を読める、すなわち識字能力を持つ階層であることも重要だ。政治や文学に関心があり一言物申す知識と教養、あるいは「エセ紳士」であってもそれらしく振る舞うお厚かましさ、皮肉やウィットに富んだ会話も求められる。すなわちここは、上流階級や都市ブルジョワのものであった。しかし時代とともに徐々に有産階級の一角をなすようになる中産階級のジェントルマン(気取り)や、上昇志向の学生や若者の溜まり場になっていった。また文字を読めない人が読める人から新聞を読んでもらうことも盛んになった。ただあくまでも女性は除外される。


「場」としてのソーシャルネットワーキングの諸相

1)政治、言論の場として:

王政復古後からは政治的色彩が出る。トーリー(王党派)とホイッグ(議会派)の根城になる。と言っても、のちの「クラブ」ほど厳密な区分があったわけではないく、そういう傾向、系統の人物がよく集まったという程度であったようだ。トーリー系では、ココア・ツリー(Cocoa Tree's)、チョコレート・ハウス( Chocolate House's)といった店が有名であった。一方、ホィッグ系では、セント・ジェームス( St. James's)、スミルナ(Smilna's)が有名で エドムンド・バークも訪れたという。また人気風刺作家のジョナサン・スウィフト、ダニエル・デフォーが出入りしたコーヒー・ハウスは、トーリー系であったりホィッグ系であったり揺れ動いていたようだ。「政論」が教養人たるに必要な一種の流行であった時代のものだ。

2)経済・株取引・保険の場として:

ギャラウェイ(Garraway's)、ジョナサン(Johnathan's)、ロイズ(LLoyd's)などの伝説的なコーヒー・ハウスがあった。これらはイギリスの経済的な発展を支えたとも言える。こちらは政治色は薄く、交易情報の交換、株価、市場動向など経済活動に専念する客層が集まった。王立株取引場(Royal Exchange)の周辺には多くのコーヒー・ハウスが開店していた。ジョナサンは株の売買を、ギャラウェイはハドソン会社の毛皮や船の売買を、ロイズは保険を扱った。のちに世界的なロイズ保険会社にようなイギリス経済のインフラを支える企業も出てくる。一方で、南海泡沫事件のようなバブルの温床にもなり、破産者が多く出た。

3)文学サークルとして:

 文学界の大御所と言われたジョン・ドライデンが中心となっていたウィル(Will's)には多くの文人が集まった。いわゆる上流の「ウィット:Wit」(才人)の集まるコーヒー・ハウスで、ポープも常連であった。もう一つの有名所はバトン(Button's)。こちらは中産階級向けの文人サロンで、アディソン、スチールなどにより、一般の市井の出来事「エブリマン」が多く語られた。ジョナサン・スウィフトも出入りした。店主が、雑誌への投稿を促すためライオンの頭の投稿箱(上図参照)を準備したことで人気があった。他にもジョン(John's)、チャイルド(Child's)など。この時期のイギリス文学を知る上で欠かせないサロン、文学界プラットフォームであった。

4)ジャーナリズムの場として:

18世紀に入っての啓蒙的傾向が強いコーヒー・ハウスである。 バトン閉店後の、コベントガーデンのベッドフォード(Bedford's)などは、デフォー、アディソン、スティール、デヴィド・ギャリック、ホレイス・ウォルポールなどが出入りした。先ほどの「ライオン頭」の投稿箱も引き継いだ。他にもセントジェームス(St. James)など、テーマごとに特色を持ったところが生まれた。こうしたコーヒー・ハウスから、中産階級のホイッグを代表するデフォーの「レビュー」、一方でトーリーを代表するスウィフトが主筆の「イグザミナー」、そのほかスティール創刊の文芸誌「タトラー」「スペクテイター」「ガーディアン」といった新聞、雑誌が生まれ、ジャーナリズムの揺籃となった。

5)イカサマ師、大衆文学、風俗発信の場?:

しかし18世紀後半になると、流石のベッドフォードのような文人に愛されたところも、種々雑多な人間の寄せ集めの場となり、一部では詐欺、イカサマの場と化していた。コヒー・ハウス文化の終末の時期である。一方で中産階級の読書習慣が徐々に浸透し始め、貸本業や大衆文学、風俗文化の発信地となったものがある。


「クラブ」の登場

やがてコーヒー・ハウスは、政治的な主義主張(トーリーvsホィッグ)、業種、商売仲間、趣味、娯楽仲間、文芸仲間、貴族や都市ブルジョワ、中産階層という社会階層の属性にそった、いわば「会員制クラブ」へと変異してゆく。特定の店に特定のパトロンがつき、贔屓客が集まり、インフルエンサーが集うようになると、その特定の意見や趣味、利害に共鳴する客が集まり始める。まさにクラブである。すなわち、オープンなネットワーキングの場からイクスクルーシヴなネットワーキングの場へと変遷してゆく。コーヒー・ハウスからクラブが生まれていった。これはある意味自然の成り行きであろう。現代の厳密なルールと会員オンリーの「ジェントルマンズ・クラブ」もここから生まれた。ここでも女性は入れない。完全に男の世界である。

こうしたクラブは、コーヒー・ハウスから発展したクラブだけではなく、14世紀から存在する伝統的なクラブもある。コーヒ・ハウスが流行る以前から、タヴァーンの二階が上流階級の仲間の社交の場として用いられた。エリザベス朝のウォルター・ローリーが創設したマーメイド・クラブ( Mermaid Club)や、同時期のベン・ジョンソンのアポロ・クラブ( Appollo Club)などももその一つ。シェークスピアも出入りしていた。少しのちのスウィフトやポープが主導したスクリブレラス・クラブ( Scriblerus Club)や、詩人のコングリーヴ、政治家のウォルポールなどが会員であったキットキャットクラブ( Kit-Kat Club)なども歴史ある有名なクラブである。クラブ好きで知られるサミュエル・ジョンソンの文芸クラブ(Literary Club)は、王立協会(Royal Society)会長のジョシュア・レイノルズが発起人となり、エドムンド・バーク、オリヴァー・ゴールドスミス、ギャリック、ボズウェル、アダム・スミスなどが会員であった。このようにタヴァーンやコーヒー・ハウスが特定のグループの集まりに利用されることは珍しくなく、そこから「会員オンリー」のクラブが生まれた。

17世紀スチュアート朝時代は、イギリスは革命の時代であった。清教徒革命で国王が処刑され、1660年には王政復古で国王が戻ってきたり、王党派と議会派の争いの中、自由主義や民主主義の萌芽が生まれ、やがて1688年の名誉革命で議会派優位の立憲君主制の国家「君臨すれども統治せず」の政治となった。一方でカトリックとプロテスタント(国教会、非国教会)の対立、オランダやフランスとの戦争もあった。イングランド・スコットランド・アイルランドの「三王国戦争」の時代でもあった。1665年にはペストが大流行し、1666年にはロンドン大火があり、パンデミック、災害で街やコミュニティーが壊滅的な被害を被った。コーヒー・ハウスはペストで閉鎖され、大火で大部分の店が消失し、それでもロンドンの復興に伴い復活して再び賑わっていった。混乱の時代こそコーヒー・ハウスは逞しく発展した。名誉革命ののちは、18世紀のイギリス啓蒙主義時代到来、経済では重商主義にかわる自由主義経済、科学万能主義による産業革命など、近代合理主義の時代へ、そして「七つの海を支配する」大英帝国への道を突き進んでゆく。その反動としての文学芸術におけるロマン主義、ゴシックリバイバルも勃興する。こうした激動のイギリス社会の持続可能装置として下支えしていたのがコーヒーハウス文化であった。揺れ動く社会にたくましいソーシャルネットワーキングのプラットフォームがあったればこそ、イギリスは(急進的ではなく)漸進主義的な進化と発展が可能であった。たかが一杯のコーヒー、されどコーヒーである。


コーヒー・ハウスの終焉

しかし18世紀後半から徐々にコーヒー・ハウスは変質が始まり、当初の「自由な言論の場」と言う性格は失われ、やがて19世紀に向けて衰退、役割を終えてゆく。その理由はいくつか考えられる。

1)まず数が増えすぎた。臨界点を超えると衰退が始まるのは全てに共通する「進化論的」原則である。すなわち自然淘汰が始まる。

2)その中で、特色を出すために酒と博打の場となる店が現れる。自由で健全なコーヒー・ハウスというイメージと、その秩序の崩壊はこうして始まる。そして客足が遠のく。

3)そうなると、行きつけの店、馴染みの店ができ始める。客による選別が始まる。一方で贔屓客だけ受け入れる「一見さんお断り」、客層の固定化という、オープン性が売りであったはずのコーヒー・ハウスコンセプトに矛盾が発生する。「クラブ化」の始まりである。

4)ジャーナリズムの自立化、一般化。書店や街角で新聞や雑誌、書籍が買えるようになる。家庭で読めるようになる。「新聞や本の読書室」としての存在意義が薄れる。

5)コーヒーから茶へ。大英帝国の植民地政策、市場の変化が、コーヒーよりやすい茶の嗜好を産む。すなわちティーの習慣が18世紀後半から始まる

6)住環境の改善。家庭でのパーティーや接客。サロンの形成などが進む。この頃家庭での「アフタヌーン・ティー」の習慣が始まった。

コーヒー・ハウスは完全に姿を消してしまったわけではないが、18世紀後半から酒場や、宿屋、書店や印刷所などに鞍替えする店も増えた。本来の姿を留めるコーヒー・ハウスは、今ではほとんどなくなってしまった。時代の変化とともにその役割を終えた。しかし、コーヒー・ハウス100年の歴史がイギリス社会に、そして世界に与えた影響は見てきたように計り知れない。


SNS≒バーチャル「コーヒー・ハウス」論

ここまで考察してきてふと思う。コーヒー・ハウスはまさに現代のSNS:Social Network Serviceではないか。17−18世紀、コーヒー・ハウスはロンドンのソーシャルネットワーキングのプラットフォーマであったわけだ。逆に、今のFacebook, Instagram, YouTube, Blog, X, TikTokは現代のネット上のバーチャルコーヒー・ハウスだ。ここでは「飲んだ」「食った」「会った」などの日常の会話から、政治論議も、ビジネスも、広告宣伝も、ジャーナリズムも、文学芸術論も、旅行や趣味も、フェイクも。政治プロパガンダも、詐欺も、検閲も....なんでもありだ。資格要件もなく誰でも参加できるオープンなプラットフォームだ。コーヒー飲みながらスマホやスクリーンに向かう。

しかしそこは真実も嘘も自己承認欲求も我欲も全てがごった煮のカオス、誹謗中傷、炎上が蔓延る修羅場。それがソーシャルネットワーキング・プラットフォームなのだ。18世紀のコーヒー・ハウスがそうであった。人は、その「玉石混交」から賢く情報を選び、そこの中から真実を見出し、自分なりの判断を下す。そういう目利きもできた。信頼できる人脈も見つけた。そして文化も生まれた。結局、自我と精神の自立がなければ浮草のように時流、情報に流されてしまう。「自由な言論の場」オープンなプラットフォームとはそういうものだ。ただ、現代の「バーチャル・コーヒー・ハウス」は世界中の人間と繋がっている。「客」はコーヒ代すら払わなくて良い。その代わり「店」が「客」の個人情報や「好み」「人脈」をアルゴリズムで操作することができる。それを広告という形で売る。売上は入場料とコーヒ代という「ビジネスモデル」と大きく違う。しかもAIによってといかようにも情報創出が可能になり、人為的に操作された情報がとてつもない金になる仕組みだ。これが現代の「オープンなプラットフォーム」の実態である。ただ、歴史は「クラブ化するコーヒー・ハウス」と言う結末を示してみせた。無秩序なオープンから、規律を持ったイクスクルーシヴへ。これはSNSの将来にとって極めて示唆的である。我々は主体性と個人情報を一定のルールのもとに取り戻さねばならない。



参考書:

1)『Club Life in London 』1866年刊行 

ロンドンのクラブ、コーヒー・ハウス、タバーンを網羅的に紹介。各店の歴史や、著名な客人のエピソードが紹介されていて、その時代の世相がわかる。どちらかというとClub中心の解説。新聞「イラストレイテッド・ロンドンニュース」の編集長を務めたジョン・ティムズの編集。彼はハサミとノリで切り貼りした本を大衆向けにたくさん出し、街角のゴシップをエンタメに変えた編集者と評されている。


Club Life of London
with Anecdotes of The Clubs, Coffee-Houses and Taverns of The Metropolis
During The 17th, 18th and 19th Centuries
By John Timbs
1866




2)『コーヒー・ハウス』小林章夫著 講談社学術文庫 2024年14版 

18世紀ロンドンの都市生活史の視点からまとめたコーヒー・ハウスの実情と、出入りする人物評が面白い。政治史、経済史、文学史、社会史をコーヒー・ハウスから読み解く面白さ





3)『漱石全集』第十巻 文学評論 岩波書店刊

夏目漱石の帝大講義録「十八世紀英文学」をまとめたもの。この中の第二編で一章を設け「珈琲店、酒肆、俱楽部」として「ベッドフォード」「キットカット」「スクリブリラス」「セントジェームス」などを紹介している。





2026年5月18日月曜日

世界に冠たる本の街「神保町」を楽しむ 〜ネット時代の古書店は知のワンダーランド!〜


知の殿堂「北澤書店」



神保町で古書の魅力に出会う

書籍・出版文化の危機、活字離れ、書店の経営危機が叫ばれて久しいが、ここにきて書店業界に新しい潮目が現れているようだ。建て替えを終えた「三省堂書店」の本店開業が大きな話題となっているように、本の街、神保町が活気付いている。和書、洋書を問わず多様な専門分野の書店が軒を連ねる世界最大の古書街。その神保町での古書店巡りが、海外からのツーリストの東京への来訪目的の一つとなっている。それぞれに特色を持った古書店には外国人ブックハンターが押しかけている。イギリスのTime Out誌で「世界で最もクールな街」の一つに選ばれた。この空前の「JINBOCHO」ブームは何を意味しているのだろうか。

日本は、和書、洋書、漢籍を問わず古書/古典書をよく保存し、流通させている国の一つであるとみなされている。イギリス人がシェークスピアやディケンズを求めて神保町にやってくる。フランス人がデカルトやニーチェを探しにやってくる。中国人が杜甫や白楽天を求めてやってくる。それが不思議でないのが神保町だ。浮世絵やジャポニズムだけでなく、日本文学の古典の英訳版が人気である。最近は、漫画やアニメ、映画に加えて日本の新しい文学作品が欧米諸国で人気が出ていることも話題となっている。注目すべきは、こうした「聖地」神保町ブームが、インスタやX、YouTubeなどのSNSによって世界中に拡散している点である。読書離れ、書店や本の衰退が云々されがちだが、神保町を歩いてみると、新しいかたちの書籍ブーム、古書店人気が起きつつあると実感する。

もちろんロンドンにもチャーリングクロス・ロード(あの映画や小説で有名な)やセシル・コートなどの古書街。ストランドやフリート・ストリートなどの出版、新聞街がある。周辺にロンドン大学や大英博物館、高等法院などの教育・研究機関が数多いなど、その成り立ちも神保町の書店街と似ている。しかし、その古書店の集積度と多様性は、はるかにロンドンのそれを上回っている。またロンドンの老舗古書店は、最近は店舗をたたみ、郊外に移転するか、オンライショップに変更しているケースが多いと聞く。あの伝説の「Mark's Book Shop」も今はなく、跡はファーストフード店になっている。私がかつてよく通った「Ash Rare Books」は郊外に移転、オンラインも始めた。神保町でも廃業した古書店もあるが、盛業中の実店舗が130店以上も軒を連ねていることには驚かされる。これが世界的に注目されて外国人が殺到する理由となっているとしても不思議ではない。


「知の迷宮」を彷徨う

かつて古書店は、ちょっと入りにくい、一種、日常から隔絶された別世界であった。ドアを開けて静寂で薄暗い店内に一歩足を踏み入れると、足元から天井まで本、本、本。壁という壁は古色蒼然たる本のモロッコ革の背表紙て埋め尽くされている。そう、闖入者は本の大海に揺蕩う漂流者になる。ここでは時間の流れが止まっている。いや数百年の歴史が重層的に折り重なっているのだ。ページの間から滲み出てくる何百年も前の文字が空間を浮遊している。この「知の迷宮」を彷徨う至福の時間。それが古書店探索の魅力だ。これは決してオンライン書店では味わえない。

ロンドンの古書店の中には、どこに何の本があるかわからないようなダンジョンのような本屋が珍しくなかった。ロンドンで古書店通いしたのは、70年代に留学した時と、90年代に勤務した時なので、もう随分と昔のことだ。その後、仕事でロンドンを訪ねた時に、久しぶりに立ち寄ってみたが、古書店の佇まいはチャールズ・ディケンズの時代から変わらぬ風情でのままである。狭い店内に入ると足の踏み場もない。店員はこちらから話しかけない限り近寄ってこない。薄暗い片隅のデスクに佇む店主に聞くと、たちまち目当ての本を取り出してくれる。彼の頭の中にはこのランダムに積み上げられた古書のインデックスが保存されていて、たちどころに脳内のサーチエンジンが起動し、取り出しができるのだ。神技である。そして先ほどまでの寡黙さと眼鏡の奥の無愛想な眼は、芝居だったのかと思わせるような饒舌さで語り始める。本への愛が止まらない。こうした人種はロンドンのダンジョンには生息しているが、現代のアマゾンのジャングルではお目にかかれない。

目当ての本などなくても、ただ迷宮をあてもなく漂うのも楽しい。目についた古色蒼然とした革装の本を梯子を頼りに取り出し(周りの本が崩れ落ちないように気をつけながら)、そこに思いもよらない世界を発見することも古書店の醍醐味だ。数百年という「時間の経過」を纏った古書。未だ色褪せぬ先人の知恵との出会いに心が震え、自ずとその「時間の経過」にしかるべき敬意を払うようになる。 17世紀イングランドで出版された本が、本棚から私に向かって「ここにいるぞ」と目配せするなん場所が他にあろうか。思わず埃を払ってそれを連れ帰ることになる。

古書には前の所有者の蔵書票や、サイン、書き込みがあることがある。時には小さな紙切れに記されたメモが入っていることもある。蔵書票によっては、所有者自身も歴史的に著名な人物であったり、著者と深い関わりを持つ人物だったりする。購入した年月日、誰かへの特別なプレゼントを示すコメント。文中の下線や、チェックの部分には所有者の心の動きや言葉への愛着が読み取れる。なのになぜそんな愛蔵書を手放すことになったのか。そして、どんな旅路の果てに私の手元にたどり着いたのか。そんな以前の所有者の痕跡にこの本にまつわる物語を夢想してみるのも古書の楽しみの一つだ。そして私の人生もこの本にしかるべき痕跡を残して未来に引き継がれる。ロマンチックではないか。


「製本・装丁(Book binding )」という古書の世界

洋古書には蠱惑的な奥深い世界がある。その装丁である。本は活版印刷された文字列を記録する紙媒体であるだけではない。本自体が工芸品、アート作品なのである。モロッコ革装、マーブルボード、天金、金文字、羊皮紙、簾の目紙、背表紙補強(five raised band)、アンカットページ、エッチング挿画など。今は失われし製本・装丁技法や素材が本を希少な工芸品にする。それが時間という試練に耐えた書籍となり、その出会いにクラクラしてしまう。あるいは、時の経過(aging)により、背表紙が外れボロボロな姿になって書棚に横たわっている古書にも、むしろ侘び、寂び、古びといった美を感じることすらある。まさに「崇高と美」の境地である。古書を装丁で買う。今風にいえば、一種の「ジャケ買い」である。

昔は出版人(Publisher)、印刷人(Printer)とは別に、製本・装丁を専門に請け負うBook binderがいて、書籍の購入者が、印刷済みのアンカットの束を買って、製本・装丁を依頼した時代もあった。あるいはハードボード表紙で簡単に製本した本を、自分用に装丁し直すことも盛んであった。活版印刷が普及したとはいえ、本は貴重で高価なもの、誰でも購入して読めたわけではない。詩人が事前に購入予約者を募り、代金を支払ってもらってから出版し、装丁家が買主の注文に応じてデザインを施すこともかつて流行ったことがある。詩集の装丁が殊に美しいのはそのせいかもしれない。蔵書家が著者と作品への敬意を込めて、あるいは知的資産への愛着を込めて、美麗な装丁を施して大切に所蔵する。これも本の文化の一つである。それを古書店で手にすることができる。

今でもイギリスの田舎のマナーハウスを訪ねると、立派な書斎に天井までの高い書棚があり、美しい革装丁の背表紙がずらりと並んでいる光景を見ることがある。特に全巻揃えの古典書全集などは壮観である。あるいは生涯で旅した思い出(Grand tour)を記録するために書いた旅行記や、訪問したエキゾチックな国々の書籍をコレクションとして並べる。本は絵画や彫刻、調度品などと共にその家の格式、教養、趣味あるいは一族の事績といったものを誇示するステータスシンボルであった。


神保町から見る「西洋古書事情」

話を神保町に戻そう。このようにここは世界的にもユニークな古書街として賑わっているが、一方で、古書業界もなかなか厳しい試練の時代を迎えている。これまでの大口顧客であった国内の大学図書館や、公共図書館、研究機関からの学術的にも貴重な古典書への引き合いが減少しているという。今やネットで世界中から本を取り寄せることができる時代なので、神保町の古書店に来て本を探す必要も無くなったというわけなのか。また古典書のデジタル・アーカイヴ化も進んでいて、コスト削減のためできるだけ書籍を所有しない大学もあるという。これが一時期神保町に閑古鳥が鳴くようになった原因の一つだという。もちろん読書離れ、学生すら本を読まないなどの、知的欲求の低下がある事も否定できないのだろう。しかし、バブル時代に日本が海外で買い集めた貴重な洋古書は日本にまだ眠っている。今やネット時代。逆に、東京の神保町にお宝あり!という情報が世界中にが拡散している。そして円安もあり、欧米のバイヤーや古書コレクターによって買い集められている。すなわち神保町の客層が日本人から外国人に移りつつあるようだ。

かつてはジャパン・マネーが海外でアンティークや貴重な古書を買い漁ったものだ。これまでは日本で開催される国際的な古書フェアーは、そんなジャパン・マネーを狙って海外の売り手が殺到した。日本にはそれだけの需要があった。しかし、今は、逆に日本に眠る洋古書や和書を買い付ける海外バイヤーや古書マニアが押しかけるようになった。長いデフレと円安で、今や「日本」は海外バイヤーによって買い漁られる国になってしまった。彼らから見れば、かつての「ジャパンアズナンバーワン」時代に海外流出した「文化財」の買い戻しなのだろう。神保町が世界の古書の共有市場(common market)として繁栄するのは嬉しいが、流出一方では寂しい。国の経済的な衰退が、知的資産の縮小、ひいては文化的な衰退につながりかねない。「貧すれば鈍する」だ。


神田古書会館

神保町にある神田古書会館。ここを拠点とする神保町の古書店組合は、こうして蓄積された和洋を問わず古典書の、言わば書庫的機能を果たしている。書誌データを調査、記録し、その価値を公正に評価し、情報発信し、貴重書が散逸したり、価値の毀損が起こらないよう保全する役割を担っている。また毎週「交換会」と称した加盟店のみが参加する「市」や、誰でも参加できる定期的な古書フェアーを開催して、流通を促し、歴史的遺産たる古書の適正な取引の仕組みを保持している。そうした地道な活動が評価され、世界的な古書市場としての信頼を獲得しているという。

古書市場も「レッセフェール」(資本主義的合理性)に任せていたら、淘汰され消えてゆくユニークな店や、売れなくて廃棄所処分される貴重な古書が出てくる。しかし、一見閉鎖的な「ギルド的」組織が、一定の規律と互助精神を持って歴史的遺産としての古書の価値を守り、流通を促し、伝統を継承し新たな価値創造を推進する。いわばSDGs ,社会変革(Social Innovation)を起こす社会事業(Social Business)の役割を担っているとも考えられる。その中から若手経営者が育ち、さらにオンラインやSNSとの融合で新たな事業モデルを生み出す。古書の持つ新たな価値に光を当てる。「古書は過去の賢人からの未来への預かり物」という古書店主の言葉に重みを感じる。


ある老舗洋古書店の「ビジネスモデル・イノベーション」物語

創業120年の老舗「K書店」は、4代続く神保町を代表する洋書、英文書籍の殿堂である。多くの文人墨客が集い、大学の研究者、学生にとっては憧れの書店であった。この店に出入りすることが知識のアップデートに欠かせない習慣であり、知的なステータスですらあった。戦後、高度経済成長期には店頭での洋古書販売。新刊書販売も併設し全盛時代を迎える。しかし、21世紀、ネット時代に入ると、ご他聞に洩れず大口の注文・納品が減り、さすがの老舗も徐々に書店経営受難の時代の波をかぶることになる。やむえず店舗縮小し古書専業へ。事業承継問題もあり、一時は廃業の危機に。「伝統ある老舗の事業継続」というビジネス・スクールのケーススタディーになりそうな事態であるが、現実の経営の苦労は想像を絶するものであったろう。しかし、ここからが老舗古書店の新たなスタートであったという。

4代目店主は3代目の娘さんで、大学を出て全く家業とは無関係な仕事についていた。しかし、実家の祖業の危機を目の当たりにして、仕事を辞め家業を継ぐことにしたという。古い商慣行や、付き合いが横行する業界での若店主デビューは苦労の連続であったであろう。だが、2代目(祖父)、3代目(父)の背中を見て育った。持ち前のセンスと才覚を発揮し、古書のオンラインショップ・サイトを立ち上げる。さらに「ディスプレー書」の販売と古書を活用した空間デザインコンサルという新基軸を打ち出す。ネット店舗とリアル店舗をうまく融合させた事業モデルを開発していった。古書店のビジネスモデル・イノベーションだ。

この「ディスプレー書」という着想の背景には、売れなくなった古書。すなわち大量の廃棄本の扱いという社会問題があったという。本を捨てるなんて勿体無い!なんとか活かす方法はないか?まさにSDGs発想である。まずデザインの優れた装丁の本をディスプレー用(ホテルや、インテリアショップ、アパレルショップ、レストラン、バーなど)にセット販売。セッティング受託やディスプレー・コーディネーションのコンサルもやる。重厚で整然とした書店内を古書をテーマとした写真撮影の場として提供。SNSで紹介し、オンラインショップで販売した。これが話題となり多くのメディアで取り上げられ注目を浴びる。「カリスマ店主」からの新しい古書生活の提案である。

最初は「本を何と心得るか」とか、「老舗も落魄れたものだ」「邪道の古書販売だ」とか、色々批判が殺到したという。しかし、革新には抵抗がつきもの。伝統と革新とは常にセットである。若い感性と問題意識が洋古書への関心を高め、さらに古典作品への関心、書籍に囲まれた生活への憧れ、といったライフスタイルを広めていった。それにまず反応したのが海外の客というのが興味深い。それだけ日本人の読書離れは深刻なのだろう。実店舗は数年前までは閑散としていたというが、今では連日外国人客で賑わっている。この言わば「神保町現象」が、忘れていた古書の魅力を思い出させ、個人の研究者や愛好家などの、いわば古書マニアが「アマゾンのジャングル」から戻ってきたのだ。かく言う筆者も明らかにその一人である。あのロンドンのダンジョンとは一味違う、「K書店」の端然とした「書の殿堂」にすっかり魅了されている。

4代目店主は、古書店を、近寄りがたい店、敷居が高い店、ではなく、思わず入ってみたくなる店に変えた。それも伝統的な老舗書店の佇まいをそのまま生かして。最近は外国人客の増加に合わせ、Books on Japan in Englishとして、気軽に手に取れる日本関連の英訳ペーパーバック版などの品揃えを充実させている。そして世界中がネットで繋がる時代だからこそ、海外からの注文が舞い込むようになった。遠く離れた海外の会った事もない客との出会いとコミュニケーションを大事にし、新しい書店文化を創造すべく頑張っている。いや、これは思い起こしてみれば、『チャーリングクロス街84番地』の、ロンドンの伝説の古書店「マークス」のフランク・ドエルと、ニューヨークの作家ヘレーヌ・ハンフの交流の物語に描かれている世界ではないか。まさに本を通じた信頼関係、書店文化の原点である。コミュニケーション手段が手紙からネットに替われども、底流にある「本への愛」は変わらない。それを神保町の「K書店」で改めて発見させてもらった。「朋ありて遠方より来たる亦楽しからずや」だ。

最後に、今どきの「世界の神保町」を象徴するようなエピソードをもう一つ紹介したい。アメリカの比較文化学の女性研究者が、数年前から神保町を拠点に、古書店でインターンをしながらフィールドスタディーを続けている。そんな彼女は最近、「神保町の沼」にハマってしまったのか、「古書の大海」に飲み込まれたのか、なんと研究対象の古書店の店主とめでたく結ばれ、神保町の「女将」に収まってしまった。これからは地元に根を生やしたローカルな「本屋の女将」にして、グローバルに発信する研究者として世の中を面白くしてくれるのだろう。やはり、ここでも神保町を活気づけているのは女性のパワーと海外顧客なんだ。そのダイナミズムにワクワクさせられる。



KITAZAWA DISPLAY BOOKS

このディスプレーもオシャレ

今や神保町のランドマーク





老舗「八木書店」

「一誠堂書店」は建物もクラシック

「大久保書店」


「文房堂」書店ではないが

浮世絵・版画といえば「大屋書房」

「三省堂書店」新本店開業

かつて徘徊したロンドン セシル・コート古書店街



本稿を執筆するにあたって、北澤書店の北澤一郎社長、北澤里佳店主に、店内写真掲載許可を含め、多大なるご協力をいただいた。末尾ながら謝意を表したい。

参考:朝日新聞デジタルマガジンの特集記事です。

参考:

84 Charing Cross Road:

ロンドンのMarks Bookshop:マークス書店を舞台にした1986年制作の映画。出演:アンソニー・ホプキンス、アン・バンクロフト

へレーヌ・ハンフ(NYCの作家)、フランク・ドエル(Londonの古書店主)の20年にわたる手紙による交流の物語

日本語文庫本『チャリング・クロス街84番地』へレーン・ハンフ編著、江藤淳訳 中公文庫










2026年4月28日火曜日

 景観の美学:崇高と美とピクチャレスク 〜「時間の経過」に対する敬意とは?


九州帝国大学法文本館竣工(1924年大正13年)

キャンパス移転に伴い法文本館取り壊し(2016年平成28年)


跡形もなく消滅


日本の場合、再開発とは常に歴史的建築物、都市景観の消滅を意味する。歴史的な建築や景観を保存修景するという発想がない。古いものは汚い、効率が悪い、邪魔だ。「古い」というだけで壊して捨ててしまう。まるで経済合理性だけが全ての価値基準だと信じて疑わない後進的資本主義の現れのようだ。いや壊しては作る。作っては壊す。それで金を回す経済社会なのだ。日本にはヨーロッパのような長い歴史を纏った建物や街並みといった景観は育たない。「時間の経過」:ageingに対するしかるべき敬意が払われない。例えば150年前にベアトが愛宕山から眺めた整然とした江戸の街並みは、今の東京ではその痕跡すらなく、まるで全く別の街になってしまっている。これは震災や戦災による都市破壊が原因というばかりではない。むしろ平時における営みの中でゼロクリアー、上書きされたものである。これは明治維新の「近代化」「一等国」邁進という強迫観念の後遺症だ。戦後はそれに拍車がかかり、バブルが弾けた後も続いている。日本の伝統的価値観、審美眼である「わび」「さび」を忘れたのか。「最新」や「最先端」はすぐに過去のものとなる。革新は時の流れの中で熟成されて伝統となり未来に生きる。2019年3月1日 愛宕山から見た江戸の街(ベアト写真)

ベアトが撮影した江戸の街並み(愛宕山から)
江戸の街並みは見当たらない現代の東京


18世紀後半〜19世紀のヨーロッパ、とりわけイギリスは産業革命という近代合理主義の波に洗われたが、その伝統や文化、景観や自然を守ろうという動きも盛んであった。この科学や合理主義一辺倒に対する抵抗としてのロマン主義。時にゴシックリバイバル。それは文学や美術、庭園や建築に現れた。いわば彼らの「美意識」を覚醒させた。彼らは近代合理主義、科学技術の果実を享受しつつも古いものを過去の遺物として葬り去るのではなく、そこに美を見つけた。美学者、旅行家のウィリアム・ギルピンは、宗教改革で廃墟となったカトリック修道院の佇む丘に美を見出し、山上の中世の古城に荘厳を求めた。詩人のウィリアム・ブレイクは、緑の沃野に屹立して黒煙を吐き出す工場を「悪魔の窯」として憎悪した。そして造園家、建築家のユヴデール・プライスは、古い街並みを保存修景しあの時間を今に引き継いだ。また自然を生かしたイギリス庭園を産んだ。崇高と美、そしてピクチャレスクである。そして哲学者、政治思想家のエドマンド・バークは、政治制度においてもフランス革命のように王政を徹底的に破壊して捨て去るのではなく、立憲君主制という議会制民主主義を生み出し、中世、近世そして近代を生き続けたコモン・ローを賛美した。これを人は保守主義という。しかしこのラディカリズム(急進主義)に対するインクレメンタリズム(漸変主義)。これが長い歴史を有するイギリス人の「時間の経過と歴史の知恵に対する敬意」であり、「革命」そして「民主主義」の姿なのだ。それが美意識の中にも現れている。我々はイギリスの近代合理主義に学んだのに、なぜそのもう一つの思想とムーヴメントについても学ばなかったのか。2025年3月15日古書を巡る旅(62)ピクチャレスクとは?


Elm Hill地区Norwich 
建物も通りもそのまま保存修景

海軍大学Greenwich London
背後のシティー金融街は高層ビル化したが

(上記写真2葉は "All about Great Britain" FBより引用)


日本は2000年の歴史をもつ国でありながら、その歴史の中で幾度もその文化や伝統をかなぐり捨てて、新しい外来の文化に飛びつき、その受容と変容を繰り返してきた。もっとも最近では、80年前の敗戦と占領に伴うアメリカ文化受容であり、その前は150年前の明治維新における西欧文化である。2000年前には中国から、1500年前にはインドからも最新の文化を取り入れては日本古来の文化を大きく変容させてきた。この外来文化の「受容と変容」の歴史は日本の特色であり、確かに文化的な進歩をもたらし独特の文化を生み出したのだが、その反面、新しいものは素晴らしい。古いものは捨て去って顧みないという思考を生んだ。明治維新のそれが顕著である。さらに戦後のアメリカ物質文明はそれに輪をかけている。「日本人は国家に対する自尊心が高いが、自己の文明を2度も捨てた。中国人は政治制度としての国家には敬意を払わないが、自己の文明に対する自尊心が強い」。そう喝破したのは明治期のジャパノロジスト、バジル・ホール・チェンバレンだ。日本人は悠久の歴史と文化をもちながら日本固有の伝統や、価値観や美意識をいつも見失いがちであった。新しいものには飛びつくが、古いものへの敬意が薄い。にも関わらず国家意識だけは強い。我々自身はそう思っていないつもりだが、外の目には違った姿が見えている。ラフカディオ・ハーンの作品に通底するのもそれへの警鐘だ。岡倉覚三の「茶の本」の心は欧米人に向けて発したものだが、それは同時に日本人への警鐘である。

敗戦を経験した戦後においても変わっていない。むしろ伝統と格式を封建的なものとして否定することが民主主義と経済合理性であるとさえ考えるようになった。いまだになかなか成熟した大人になれない若造のようである。「いい加減で自分のアイデンティティーを持ったらどうだ」というと、すぐに皇国史観と忠孝道徳、滅私奉公の愛国心が踊り出てくる。あるいは形を変えた排外主義が頭を擡げる。どうも二択思考が染みてしまっているようだ。「明治維新には革命の思想がない。あるとすればそれは「尊王攘夷」だけだ。国権の伸長が優先で、民権は後回しであった」。そう振り返ったのは司馬遼太郎だ。西欧列強の「一等国」を目指す富国強兵、殖産興業、文明開花型の明治維新を棚卸し、パクスブリタニカ、パクスアメリカーナの退潮を目の当たりにして、次のフェーズの日本の姿(和魂)を描く時期に来ているのではないか。それは時の流れ(歴史)への敬意を忘れた資本主義的合理性の丸出しの「再開発」という名の文化破壊や、善隣友好の思想のない国粋主義的な軍事力強化を、「やむを得ないでしょう」などと見過ごし、思考停止するような日本の姿ではないはずだ。それはSublime(崇高)でもBeautiful(美)でもPicturesque(ピクチャレスク)でもない。日本は長い歴史の中で外からの多くの文明・文化を受容し、それを変容しつつ独自の文化を育んできた。と同時に、日本は長い歴史、時間の経過とともに海外の本家ではすでに失われてしまった、あるいは失われつつある人類の知恵や価値観、美意識といったもの(東洋のものであれ、西洋のものであれ)を保存し、習合し、然るべき時に向けて発信する「文明のアーカイヴ」の役割を果たすことができる立ち位置にある。そいう歴史を歩んできた。「日本文明」と言うものがあるとすれば、それはは、時間の経過と知恵を保存し育む文明であり、日本にはRadicalism(急進主義)ではなくIncrementalism(漸変主義)こそ相応しい。近視眼的なロジックで無闇に捨て去ったり壊してはならない。





めも:

自然と共に生きる民草(青人草)。一木一草に神宿る 一切衆生悉皆成仏。

慈悲と利他。執着と煩悩に囚われず生きる。

諸行無常 生々流転 時の流れに対する敬意・美意識 奢れるものも久しからず。盛者必衰のことわり。行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず。

ワビ、サビ、旧びの美

そして多様な文化を受け入れて独自に変容させ、さらに発展させる逞しさ


Sublime, Beautiful, and Picturesque

William Gilpine (1724-1804)

Edmund Berke (1729-1797)

Uvedale Price (1747-1829)




2026年3月27日金曜日

NHK朝ドラ『ばけばけ』ついに最終話! 〜「期待がはずれた」のに喪失感を覚えるのはなぜか?〜

小泉八雲・セツ夫人

トミー・バストウ(ヘブン役)、高石あかり(とき役)、ふじきみつ彦(脚本)
「NHKステラ」より


NHKの朝ドラ『ばけばけ』が、本日3月27日に最終話を迎えた。

最初、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の事績を追ったストーリー展開を期待していた私には、大きく違った内容となり、終始期待がはずれたドラマであった。ハーンの多彩な著作も『Glimpses of Unfamiliar Japan』と『KWAIDAN』しか登場しないし、史実と異なる展開もあり、実際には1年しかいなかった松江時代のエピソードがあまりにも長く、端折られた時間(神戸時代、帝大時代の多く))や、ハーンに様々な影響を与えた重要人物(西田千太郎、エリザベス・ビズランド以外の、チェンバレンやメイソン、マクドナルド、大谷繞石、焼津の音吉、帝大での研究者や彼の教え子たちなど等々)にも触れられることがないまま終わった。脚本家はそんな「小泉八雲伝」や「歴史ドラマ」を意図していないこと認識させられる結果となった。しかし、「期待外れ」と言いながらなぜか毎日欠かさず視聴している自分がいた。見逃し配信もNHK ONEで観た。終わってみると、何か「読後感のさわやかさ」というか、「ニヤリとする」ウィットというか、「思わず涙する」切なさというか、取り止めのないエピソードにも良い意味で期待を裏切られた感じがする作品であった。朝ドラに相応しく一日の始まりに活力を与えてくれた。あの主題歌は、今の世相とあの時代を重ね合わせていて心に刺さる。何よりもヒロインはじめ多彩な登場人物がどれも魅力的で素晴らしいし、ベテラン、若手俳優の演技力に感動した。このドラマが才能ある新人俳優がデビューする場となったとも感じた。これほど毎日楽しみに見た朝ドラも久しぶりだ。これは文豪「小泉八雲の回顧録」ではない。小泉せつ夫人の、本当は波乱に満ちた人生なのだが、何気ない日常を描いた「ホームドラマ」なのだ。悔しいが、しばらくは『ばけばけ』ロスに苛まれそうだ。

さはさりながら、言うまでもないことであるが、ハーンは作家として、帝大英文科教師として数多くの著作そして書簡を残している。その交友関係も、喧嘩別れした人物も多かったが、日本国内外の広範囲に渡っており、それにまつわるドラマもすごく魅力的なのだ。さらに彼の死後に発表された評論など関連著作、伝記、書簡集も多く刊行されている。それ等が、このドラマではあまり触れられず描かれていないことは不満ではある。セツ夫人が主人公なので致し方ないのだろう。また別の企画でその物語をドラマ仕立てで観てみたいものだ。

私はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)ファンである。そのきっかけは、なんと言っても、学生時代に初めて訪れた出雲松江の街の佇まいが、小泉八雲の著作に情感豊かに描かれた松江の朝、松江大橋と人々の下駄の音、コメをつく杵の音などの情景描写とピッタリと重なったことであった。ハーンのファーストインプレッションが自分のそれとがシンクロしたと感じた。やはりハーンと松江は切り離せない。それから何年も経ったロンドンやニューヨークでの生活の中で、ハーンを求めて古書店を巡り、彼の古書を買い集めたものだ。彼はロンドンやニューヨークには住まなかったが、彼の地の人々のハーンへの思い入れを肌で感じることができた。ハーンはそこにいた。その後日本に帰り、神保町でも古書店巡りに勤しんだ。松江の小泉八雲旧邸にも二度ほど出かけた。杵築の社(出雲大社)にもその足跡を辿ってみた。ハーンの人生には多くのストーリーがある。それにまつわる多くの著作がある。バジル・ホール・チェンバレンとの交友関係や論争、野口米次郎のハーン弁護の評論、エリザベス・ビズランドの『ハーン全集』刊行と小泉家への支援、帝大時代の教え子たちによる『英文学史講義録』刊行など、この機会に「よきパパさん」の「文豪」「ジャパノロジスト」として事績を振り返っていただければと思い、以下に以前のブログを掲載させていただいた。

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 古書を巡る旅(76)ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)著作と関連書籍: これまでにロンドン、ニューヨーク、東京で収集したLafcadio Hearn(小泉八雲)の著作、および講義録、評論集、書簡集を刊行年順にリストアップしてみた。彼ほどの作家になればこれ以外にも多くの著作があり、アメリカ滞在中にも翻訳や西インド諸島に伝わる伝承再話集などを発表している...

2026年3月19日木曜日

古書を巡る旅(77)バートランド・ラッセル『幸福論』The Conquest of Happiness 〜行動する知の巨人はどう「幸福」を語るのか?〜


1930年初版本

1872〜1970年
『西洋哲学史』表紙より

 "The secret of happiness is this: let your interests be as wide as possible, and let your reactions to the things and persons that interest you be as far as possible friendly rather than hostile."


3月20日は国連が定めた「国際幸福の日」だそうだ。だからというわけではないが今回取り上げる本は、バートランド・ラッセルの『幸福論』:The Conquest of Happiness。1930年初版本である。ダストカバー付きの極めて程度の良い初版本は珍しく、「ABAJ稀覯本フェア−2026」に北澤書店から出展されていたものである。日本語訳は岩波文庫から安藤貞雄訳で出ている。

20世紀の知の巨人、数学者、哲学者、平和運動家の唱える「幸福」とは? 彼自身が本書の序文で述べているように、これは哲学書ではない。深い哲学的な考察や博学な見識を述べるものではない。自分自身の経験、観察、コモンセンスからくるコメント、自分が獲得したものをまとめた読者への幸福のレシピである。良い方向に導かれるよう努力することによって不幸であると考える人が幸福になるという確信を示したものである。極めて実践的、合目的的、論理的な行動指針である点でラッセルらしい「幸福論」である。

パート1では、不幸の原因を8パターン挙げている。そしてパート2で幸福の有り様を示し解説している。まとめると、内省的、自己没頭、内向きになるのではなく、自分の関心を外(他者、社会、仕事、趣味など)に向けて自分を広げること。これに尽きるという。これは私が最近感じている、自分自身を主観的に見つめる(自分への関心を持ちすぎる)のではなく、外に向かった目を持ち、外の世界への興味と関心によって自分を客観視することと通じると、自分なりに合点している。そして個人の幸福が、ひいては幸福の社会基盤である平和につながる。

ラッセルが指摘する人を不幸にする原因の中でも、自己没頭、権力への執着、金銭欲、自己承認欲求、成功への強迫観念、被害妄想、自己陶酔。これらが自分だけでなく、他者をも不幸にする。この指摘にハッとさせられる。最近こんな人物が毎日のように世界の話題になっている。しかし、彼は世界の人々を不幸にしているばかりか、自分自身も不幸な人生を送っているのだ。いや彼が幸せかどうかなんてどうでも良いし大きなお世話だろう。ただこうした人物はあまりにも愚かで醜悪で、反面教師としても学ぶところが少ないが、少なくとも自分が、そうした自己撞着に陥らないように心がけてたいと思う。それは道徳的な意味においてだけでなく、自分の幸福感のためにも。

世界の「三大幸福論」といえば、イギリスのバートランド・ラッセル、フランスのアラン、スイスのカール・ヒルティと言われているようだ。もっともこれは「三大ナントやら」が好きな日本だけのようだが、それだけラッセルの『幸福論』は日本で人気がある。そもそも、「幸福とは何か?」「幸福になるにはどうしたら良いのか?」「不幸から逃れるには?」こうした「幸福論」には個人的にはあまり興味がなかった。どこか高いところから見下ろすような教訓めいたお説教や、徳育科目的なあるべき論、精神論を聞かされるのは苦手である。あるいは手軽な「自己啓発本」「ハウ・ツー本」として取り上げられがちで、あまりこうした本を読む気がしなかった。しかしラッセルのそれは異なっている。彼自身の生い立ちからくる個人的な体験と、数学者、哲学者、平和運動家としての活動の中で彼自身が見出した「幸福論」である。そもそも敬愛するラッセル自身の生き方に興味を抱いていたので、彼自身の思想と行動の背景を知る上でも興味深い。大きな社会的課題や企画に挑戦し成功する達成感と喜びは、それが人にどう評価されるかとは関係なく、我欲への執着によって名誉や利得を得ることより遥かに幸福である。それをラッセルは言葉だけでなく実践で示している。原題は「The Conquest of Happiness」:「幸福の制覇」。彼の幸福論は「どうしたら自分に幸せがやってくるか」ではなく、「幸せは自ら獲得しに行くもの」であるとする。「行動する哲学者」の実践的な行動指針である。まさに「幸せは歩いてこないだから歩いて行くんだね」。あの歌は深い意味を持っていたのだ。

私がラッセルに最初に触れたのは、学生時代、1970年代前半である。学生運動、反戦運動、反体制運動が盛んであった「孤立を恐れず連帯を求めて」の時代であった。私にとってラッセルは、哲学者であるとともに行動する人、すなわち、反ナチ、反ボルシェビキ運動、核廃絶運動(ラッセル・アインシュタイン宣言)、ベトナム反戦運動(戦争犯罪法廷)に積極的にコミットし、発信、行動して行くその姿に共感してのことであった。当時の全共闘など反体制運動家にとってはラッセルは体制内思想家とみなされていたのだが、英国貴族で数学者で哲学者で、生涯二度の投獄を経験した行動する知性という彼の生き様はとても戦闘的で魅力的あった。著作としては『ラッセルは語る』1964年みすず書房に始まり、『ベトナム戦争犯罪』1967年河出書房、そして大学のリーディングリストの『西洋哲学史』1956年みすず書房に至る。私にとってはそんな出会いのラッセルであったから、遅まきながらこの歳になって彼が「幸福」について著作を残していることに改めて気づき、手にしてみるとそこにも新鮮さを覚えた。しかも1930年初版。世界が世界大恐慌に始まるカオスに向かう時代の著作である。100年後の今、歴史が繰り返されて再び世界がカオスに引き込まれてゆく事態を目の当たりにして、「幸福」と「平和」の実践に指針を与えてくれる。彼の世界に向けての発信と行動は、まさに彼の「幸福の制覇」の実践であった。

年齢を重ね、社会の第一線から退いてふと我が人生を振り返るとき、若き日に感銘を受けた人物の著作との久々の再会は、ことさら懐かしく、一方であの時には気づかなかった新しい視点を与えてくれる。そしてその古典は新鮮な輝きを放つものだ。この時期の「内省」が来し方の後悔や老人性の愚痴、あるいは執着に変わりがちな時に、自分の閉じた心の外に無限の知られざる世界が広がっていることを知る。企業人としての役割は終わっても、まだやることはいっぱいある。そのことに気づくこと。これぞ「幸福」と言わずして何を「幸福」というのだろうか。自分がわかったつもりでいる世界が、お釈迦さまの掌(たなごころ)の上の話に過ぎないことに気づいた孫悟空の心持ちだ。