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2024年10月27日日曜日

古書をめぐる旅(56)『The War in The Far East 1904-1905』 〜英国タイムス紙従軍記者が見た日露戦争〜

 

The War in The Far East 1904-1905




明治天皇

明治天皇への献辞


海軍戦力比較

表紙

ロシア皇帝ニコライ2世

大山巌元帥

クロパトキン将軍

東郷平八郎提督

リニエヴィッチ将軍、乃木希典将軍、


今回取り上げる古書は1905年出版の、"The War in The Far East 1904~1905" by The Military Correspondent of The Times,:「極東における戦争 1904−1905」。英国タイムス紙の日露戦争従軍特派員報告/論評である。出版社はロンドンのジョン・マレー社:John Murray。ポーツマス講和条約締結の年1905年に出版された。

 イギリスを代表する高級紙タイムス:The Timesの日露戦争従軍記者の記事を中心に、他誌からの記事、東京特派員、北京特派員による記事や作戦情報、外交戦略報告を加えた総合的な日露戦争レヴュー(論評)となっている。また開戦(宣戦布告)から終戦(ポーツマス条約)までの出来事が日付ごとにリスト化されている。明治天皇、ニコライ皇帝ほか大山巌、クロパトキン、乃木希典、ロジェストヴィンスキー、東郷平八郎など日露双方の将軍の写真、旅順攻略戦や日本海海戦などの作戦地図をふんだんに用いて、1904年2月5日から1905年8月29日までの各地での作戦、戦闘の詳細が全50章で解説されている。特に後世にも名を残す「旅順攻防戦」「瀋陽会戦」「奉天会戦」「対馬海戦(日本海海戦)」については、あらたな情報を加え全面的に書き直したとある。日刊紙の記事としても十分に詳細報道であるが、それを時系列的に並べただけでは、十分な戦況分析、論評ができないので、他の情報源からの入手資料を加えて本書のために編集している。日本が宣戦布告するに至る東アジア情勢、満州、朝鮮をめぐる緊張状態については冒頭に一章設けて解説。さらに当時の日本の国力、軍事力、政治情勢、並びにロシアの国力、軍事力、政治情勢を解説している。ただ、なぜか現地からの写真は一枚も掲載されていない。それにしても終戦の年1905年には「戦記」としてまとめられて刊行されるという速さである。巻頭言で筆者は、過去に多くの歴史家、戦史研究者が優れた「戦史」を残しているが、本書は、読者にこの戦争の現状を報告する「戦記」として編集した」と書いている。1905年刊行という生々しいタイミングから見ても、これは歴史というよりは時事報道であり、無闇に歴史家ぶらないジャーナリストとしての妥当な自評であろう。この戦争を歴史として論評するにはもう少し時間が必要だ。

本書は、交戦国の日本側の視点でも、ロシア側の視点でもない、「第三者イギリスのジャーナリスト」の視点で記録、論評されたものである。といっても、ロシアを共通の仮想敵として締結された日英同盟による「同盟国イギリス」の視点は拭いがたく、また日本軍に従軍して観戦しているので、戦勝国となった日本対する好意的な論評が中心となっている。旅順港閉塞作戦を米西戦争におけるキューバ・サンチャゴ湾閉塞作戦(秋山真之が観戦士官として詳細を報告しており、旅順港作戦に生かされたとされる)、奉天会戦をウォータールーの戦いと比較するなど、戦史に残る戦いであったと評価している。またバルト海から出航したロシア・バルチック艦隊が北海通過の際にイギリスが寄港や補給を拒否したこと、東洋への遠征ルート上でその動きを日本側に提供したことなど、日英同盟に基づく連携が日本海海戦勝利の一因と記述している。コサック騎兵を誇るロシア陸軍の騎兵戦が日本の塹壕戦、機関銃に脆弱であることを示す戦いでもあり、戦史に画期をなすものであったこと。鉄道が兵站にとって重要なインフラであることなども報告されている。そして同じ島国である日本の戦いがイギリス国民にとっては示唆的で興味深いものである点も語っている。このほかにも各地の戦況や作戦の妥当性などの論評が詳しく述べられているが、ここでは詳細には立ち入らない。

確かにこの戦争で日本は善戦し勝利したが、日本の圧勝と言い得る状況でなかったことがわかる。満州における作戦は、ロシア側の士気の低さや作戦ミス、兵站の脆弱性に助けられた薄氷を履むような勝利という面もあると分析している。瀋陽、奉天会戦におけるクロパトキンの撤退は、のちに結果的に日本に有利に働いたが、当初は日本の勝利とはみなされておらず、日本の補給線の限界をついたロシア側の作戦勝ちで、タイムスの分析も日本の敗北と書いている。この報道は世界の金融市場における日本の軍費調達を一時的ではあるが困難にした。しかし、このロシアの伝統的な戦術(撤退して敵を引きつけ反撃する)が、結果的に功を奏しなかったことも指摘されている。日本は多大な損失を被りながら徐々に反転攻勢をかけていった。日本人の勇敢さ士気の高さや、国際法に則った戦い方、敵将に対する敬意など武士道精神にも言及しているが、同時に、日本の外交、諜報、国際世論形成、戦費調達などの戦場の外での活動で優位に立ったと分析している。しかし日本は勝ったものの、多大な人的、物的損失を被り、1年半の戦いで継戦能力を失ってしまっていた。もし奉天から退却したロシア軍が体制を整えて反撃してくれば大敗を喫していただろう。そうなれば軍隊も壊滅し、日本は国家存亡の事態に追い込まれていただろう。もとより当時の日本は国民所得は低く、軍事費を賄うための重税にあえぐ国民の苦境を考えても国力に見合わないギリギリの戦争であった。またロシア国内情勢が不安定化しており、「血の日曜日事件」や革命の匂いがしていたことも日本に有利に働いた。イギリス、トルコとのクリミア・黒海方面での緊張関係で、ロシアが極東に追加派兵する余裕が無くなっていたことも影響した。そんな僥倖の中、日本は米国ルーズベルト大統領の調停で講和となり助かった。これを引き出した日本の官僚たち(栗田慎一郎、高橋是清、金子堅太郎、小村壽太郎など)の外交努力、調略、国際世論対策の結果である。ところが日本国内では、大国ロシアに勝った!との熱狂で有頂天になり、マスコミの報道からは戦争の実情や、国家存亡の瀬戸際に立っているという内実が見えていなかった。ロシアから賠償が取れないと暴動が起きた(日比谷焼打事件)。日清戦争後の「三国干渉」「臥薪嘗胆」を忘れていなかった愛国的心情は理解するも、もはやロシアに対して賠償要求を交渉できる力は残っていなかったのが実情であった。それを一部の政治家や軍人は理解しなかったし、もとより国民は知らされていない。こうした「一等国」になったという興奮と、「一撃講和」の味をしめ外交戦略と国際世論形成の重要性を評価しない外交観、戦争観がこの時形成されてしまった。この後、わずかな戦力でも「大和魂」で一撃を与えれば大国に勝てる、という合理的根拠のない楽観主義により、戦争に突き進む空気を醸し出していった。日露戦争がある意味で明治維新の一つの到達点だとすれば、この朝鮮、満州における戦争が、この後の果てしない泥沼の戦争、そして明治維新が産んだ大日本帝国の破綻への序章であったと言えるだろう。

本書は、イギリスのマスメディアの情報収集/発信能力を具体的な形で示したもので、大英帝国全盛期の力を感じる。英国独自の諜報能力、情報収集能力の高さは驚嘆する。満州における作戦展開、戦況について極めて詳細な情報をどのように入手し配信できたのか。特に、従軍取材とはいえ掲載されている各地での日、時間ごとの作戦行動、部隊配置図、戦況分析図は臨場感がある。これらはタイムズが独自に作成したものであるが、「取材により作成した」と短い注釈があるだけで取材源は記されていない(取材源の秘匿は当然ではあるが)。また、戦争遂行に必要な外交、諜報、世論工作、戦費調達、軍艦などの軍装物資調達など、戦場外での日本の動きについても分析している。事実、栗野慎一郎駐露公使、明石元二郎駐在武官のロシア国内工作、金子堅太郎の米国・セオドア・ルーズベルト大統領工作、高橋是清の米国金融界における戦費調達。小村寿太郎全権代表のポーツマス講和会議での交渉など(ちなみに金子、栗野、明石は福岡藩修猷館の出身)の活動が戦争勝利に大きな影響を与えたことは歴史的にも評価されている。また日本海軍の最新の戦艦や巡洋艦、魚雷艇の調達先についても、すっかり調べがついている。強かな外交、戦争慣れした大英帝国のインテリジェンス能力。それは報道機関の取材力、正確な動向把握能力と情勢分析力にも共通していて印象的だ。この頃にはイギリスは世界を駆け巡る電信網を有しており、タイムス特派員の情報は1日で世界を駆け巡った。世界中に張り巡らされたネットワークによる情報収集、情報発信。海底ケーブル、電信線ネットワークを駆使したロイター通信社の底力。そしてジョン・マレー社の出版と、当時のマスメディア先進国イギリスの役者が揃った感がある。特にタイムスとロイターの戦況報告と分析が世界の世論形成、金融市場にリアルタイムに影響力を持ったことは特筆すべきことである。そして終戦と共に、極東で起きた戦争を即時に「戦記」にまとめ刊行できた本書こそまさにその英国インテリジェンス能力の具体的な証左である。日露両国には厳しい情報統制と、検閲、出版規制が引かれていたが、その中で、イギリスの報道機関がこれだけの情報を新聞紙上に掲載できている事実にも驚かされる。「報道とはそういうものだ」を見せつけられる思いがする。大本営発表、報道発表資料をただ書き直して記事にする「広報」とはえらい違いである。ちなみに、当時、日本側の報道機関がまとめた日露戦争記録のような刊行物は見当たらない。ただ一つの例外は、このタイムス刊の本書を和訳した時事新報社の「日露戦争批評」(森晋太郎訳)である。そのことを本書の巻頭言でも述べている。人々は新聞の華々しい戦果報道によってのみ戦況を知ることができた。一方で、戦死者の家族には悲しい知らせが続々と届いた。国民はそのギャップに戸惑うばかりであったろう。まだまだマスメディアに関しては「一等国」と言える状況ではなかった。この姿は日中戦争、太平洋戦争の時にも変わっていない。日本で日露戦争に関する戦史や関連する資料は、海軍、陸軍、外務省の公文書(国立公文書館アーカイヴ)として残っているものが情報公開されている。日露戦記として個人がまとめたものはいくつかあるが、戦後の半藤一利の「日露戦争記録」が白眉であろう。あるいは司馬遼太郎の「坂の上の雲」のような歴史小説にも描かれて、NHKのテレビドラマ化もされている。しかし日本のマスメディアによる戦争を記録、論評し、歴史的に評価する「戦史」が見当たらないのはいかがなものであろうか。タイムスの日露戦争報道記録はジャーナリズムのあり方を考えさせられるとともに、今や貴重な歴史資料となっている。

本書のライター、編者については署名やクレジットの記述がどこにも見たらない。しかし、調べてゆくと、英国陸軍軍人でボーア戦争(1899-1901)などに従軍した、Charles A Court Repington (1858-1925)という人物がThe Timesの従軍特派員として日露戦争について書き、記事を編集したようだ(英語版Wikipedia)。彼は兵役の経験を有する従軍記者としてイギリスでは名声を得ていたようだ。クレジットはないが彼がおそらくライターであろう。巻頭言で、各方面での詳細な作戦や戦況に関する地図は、東京駐在(おそらくタイムス紙の)のPerry Fisherなる人物の提供によると記されている。このような情報をどのように入手したのかについては書かれていない(取材源は秘匿されるのが常識だが)。またThe National ReviewのMr. L. J. Maxse、The SphereのMr. Clement Shorterの協力に謝意を示しているが、どういう人物かは不明である。先述のように、本書の日本語訳「日露戦争批評」が東京の時事新報社の森晋太郎訳で明治39年出版されている。また、前回のブログで紹介したロシアのクロパトキン元帥の回顧録(2022年3月21日「敗軍の将、兵を語る」)もロンドンのMurrey社による1909年の出版で、本書からの引用が多数見られる。


参考1:本書に掲載されている各方面の作戦、戦況地図抜粋

The Battle of The YALU 1,2 : 鴨緑江渡河作戦 日本陸軍/ロシア陸軍との初戦



The Battle of The LIAO-YANG plan1~10: 遼陽会戦 日本にとって最初の本格的近代陸上戦



The Battle of The SHAHO plan1~4: 沙河会戦 ロシアの反撃作戦



The Battle of The HEIKOUTAI plan1~4 : 黒溝台会戦 ロシアの反撃作戦



Map of the MUKDEN Battlefield: 奉天会戦の俯瞰図 日本が勝利した日露陸軍最後の大会戦



PORT ARTHUR: 旅順攻防戦  二〇三高地を含む遼東半島俯瞰図


二〇三高地(wikipedia)

陥落後の旅順港(Wikipedia)


The Battle of The TSU-SHIMA: 対馬海戦(日本海海戦)日本海軍/ロシア・バルチック艦隊配置図(いわゆる丁字戦法、東郷ターン)



参考2:本書に掲載されている1904年2月5日〜1905年8月29日の主要な出来事

朝鮮・仁川上陸 宣戦布告と出兵

鴨緑江渡河作戦 日本陸軍の満州へ進軍

黄海海戦 日本海軍、ロシア旅順艦隊を旅順港に閉塞

旅順港閉塞作戦 日本海軍、旅順艦隊撃滅は失敗するが無力化に貢献

金州会戦 日本陸軍の奉天への進軍開始

旅順陥落 乃木将軍の203高地攻略 水師営におけるステッセル降伏

遼陽会戦

沙河会戦

黒溝台会戦

奉天会戦 ロシア陸軍、クロパトキンの撤兵

対馬海戦(日本海海戦)東郷元帥のバルチック艦隊の撃滅

樺太占領

ポーツマス講和会議







2024年7月28日日曜日

古書をめぐる旅(53)『The Mikado's Empire:皇国』ウィリアム・グリフィス著 〜近代日本史学の始まりの書〜





晩年のグリフィス夫妻肖像写真


今回はWilliam Elliot Griffis:ウィリアム・エリオット・グリフィスの著作「The Mikado's Empire:皇国」を紹介したい。著者のグリフィスはアメリカのオランダ改革派教会の宣教師である。ラトガース大学の出身でそこで教鞭を取っていたが、越前福井藩藩校「明新館」に招聘されて来日したお雇い外国人教師である。版籍奉還に伴い福井藩が無くなると東京の大学南校へ移る。彼の略歴、幕末維新時期の活躍、功績についてはこれまでのブログ(後掲)で述べてきたので、それを参照願いたい。本書は彼が日本から帰国したのちの1877年にNew York:Harper & Brothersから出版された第二版。初版は前年の1876年。以降重版を重ね、ラフカディオ・ハーンも来日に際して持参している。

本書『The Mikado's Empire:皇国』は、2部構成となっており、第1部が日本史概説。第2部が彼自身の日本滞在記である。彼の主著ともいうべき重要著作である。今回は第1部の日本史概説を中心に読み進めてみた。日本という国の成り立ちを古代に遡り解説し、そこから現代の(明治の)日本の姿を、「王政復古」「Mikado:天皇」の国の出発という視点で描いている。明治天皇が近代日本を統治する英邁な君主であると敬愛の念を示し、その天皇制のルーツと、その後日本が辿った天皇・貴族・武士との緊張関係の歴史、そして統治権威と統治権力の二元構造を述べている。彼は福井藩に招聘されていたが、版籍奉還、すなわち幕藩体制の崩壊(雇い主の福井藩の消滅)、封建体制からの決別という日本史の大転換期に身を置くこととなった。日本が近代化を進める国家体制として、天皇主権国家としてスタートするという歴史の現場を目の当たりにした。しかし、国学の流れを汲む尊皇攘夷思想に影響された日本人とは異なり、近代科学者、あるいはプロテスタントの合理的神学理解として、この王政復古を見つめている。明治天皇を敬愛するも、一方的な皇国史観や専制君主制を受け入れたわけではなかった。西欧諸国ではこの頃すでに近代的な国民国家が成立しており、国王を戴くイギリスも立憲君主制国家であり、まして独立戦争、南北戦争を経験したアメリカは共和制の人民主権国家である。グリフィスはその世界から日本にやってきた知識人である。特に紀元前660年に遡るとされている皇統の紀元を記述する歴史書、日本書紀と古事記に触れ、その史料批判を行なっている点に興味を惹かれる。彼が歴史学者であるという認識は現代でもあまり共有されていないかもしれないが、以下に述べるように、彼の本書で展開された日本史概説が日本の歴史学研究に与えたインパクトは大きい。そういう点で、この著作は、幕末・維新期にやってきた外国人の数ある日本見聞録の一つと片付けてしまうことはできないと考える。

本書の第一部は、近代的史学研究手法を持ち込んだ最初の日本史概説とも言える。 歴史研究の要諦は歴史資料(古文書や史書など)の記述を鵜呑みにせず、その編纂の時代背景や編纂者の意図などを読み解くことで史実を特定してゆく、いわゆる史料批判が基本である。当時すでに当たり前のこととされていたこの歴史研究姿勢を最初に日本に持ち込んだことに大きな意義がある。その後、帝国大学に史学科ができて、その初代教授にドイツから招聘された御雇外国人が就任した。外国人教師が史学科の初代となった理由は、こうした近代史学研究手法を日本に伝えることにあった。明治日本では、物理や化学、あるいは医学のような自然科学領域においては『科学的手法』『近代合理主義』を取り入れるのに躊躇はなかった。一方で歴史や文学、法律・政治・経済のような人文・社会科学研究領域に『科学的手法』を取り入れるには時間がかかった。こうしたアプローチをとった初期の研究者は外国人であり、いわゆるジャパノロジストを呼ばれたアーネスト・サトウ、ジョージ・アストン、バジル・ホール・チェンバレンなどのイギリス人が名を連ねる。アメリカ人にもその先駆的役割を果たした人物が登場する。その一人がこのウィリアム・グリフィスである。これ以降、久米邦武、津田左右吉(「神代史の新研究」1913年、「古事記と日本書紀の新研究」1919年)など日本人研究者の中に、こうした科学的手法による歴史研究、史料批判が定着し、そうした研究姿勢が主流になってゆく。しかしそれは大正デモクラシーの時代を待つ必要があったし、軍国主義傾向が強まるにしたがって、そうした研究姿勢が筆禍事件の餌食になっていったことを忘れるわけにはいかないだろう。

元々グリフィスの専門は歴史学ではなく、プロテスタントの宣教師であり、かつ化学や物理を教えるために福井藩に招聘された科学者であった。しかし、彼の日本史概説は彼が元々持っていた科学的な研究手法や合理的思考法が日本史研究においても存分に発揮されたものであると見ることができよう。特に、先述のように日本書紀や古事記の神話と歴史の区分の曖昧さ(むしろ神話を歴史的事実であるとする筋立て)は、記紀編纂の時代背景や当時の政治的な環境、為政者の政治的な意思に着目して読む必要がある。結果、「神武は実在しない創作された初代天皇」との見解を明確に示すなど、今では定説となっている記紀解釈を提示した。日本古代史研究における史料批判、科学的史学研究の嚆矢となった。グリフィスは、古い神話を歴史だと信じている人ばかりではなく、今や日本人でも、欧米に留学したり、近代的知識と合理的思考に触れた人なら、同じ答えに辿り着くとしている。日本古代史の研究はこれに続きチェンバレンの1882年(明治15年)の古事記英訳、1887年(明治20年)のアストンの日本書紀の研究に繋がってゆく。しかし、チェンバレンは歴史と神話を区分せず、いわば神話学的な視点から古事記を世界の神話と比較して、そこに日本に固有のストーリーはないと論じるなど、グリフィスの歴史学研究アプローチとは異なっている。1903〜1925年に刊行されたJames Murcoch:ゼームス・マードックの「日本史」全3巻(2022年8月1日 The History of Japan, by James Murdoch )は、ジャパノロジストによる最初の体系的な日本通史と言われているが、ここにはグリフィスと同様の史料批判手法が用いられているほか、日本書紀と古事記を中国王朝や朝鮮半島の歴史書との比較研究を展開している。しかし、グリフィスのこうした明治初期の研究成果は日本の歴史学会からはあまり評価されていないようだ。アジア協会や日本史学会創設に尽力し、多額の寄付をしたにもかかわらず、設立メンバーには選ばれず、いわば学外者として関与するにとどまっている。学会の閉鎖性というべきか。今日でもグリフィスが近代的な日本史研究の先駆者の一人であるという認識は薄いようだ。

彼は幕末・明治期の御雇外国人に関する研究にも力を入れ、招聘者のリスト(今でいうデータベース)を作成した。本人はもとより、その親族や友人、子孫、子弟などからも詳細な聞き取りを行い、日記や手紙、政府内外の記録など文献資料にも当たる網羅的な研究である。これは母校のラトガース大学図書館のグリフィス・コレクションに収蔵されている。その中から前回紹介したフルベッキ伝やタウンゼント・ハリス伝などが生まれている。こうした研究活動や著作発表は、実証的な史料収集と事実(史実)を特定する活動を軸とした歴史学研究の成果というべきものである。現在でも幕末維新史研究の重要な史料となっている。こうした功績から日本政府から叙勲を受けている。グリフィスを明治初期における『お雇い外国人教師』の一人、ジャパノロジストとひとくくりにするのではなく、グリフィスの歴史研究者としての評価をより正しく認識する必要があると思う。そういう意味でもこの『The Mikado's Empire:皇国』は日本史研究の歴史の画期となる著作であると考える。


2022年1月22日「古書をめぐる旅(19)』フルベッキ伝

2024年1月28日『古書をめぐる旅(44)』タウンゼント・ハリス伝









追記:なぜ『日蓮の法難』の図が巻頭に登場するのか?

グリフィスは、本書の巻頭に『日蓮の法難』の図を掲げている。これは、鎌倉龍ノ口で役人が日蓮を処刑しようとしたが、突然現れた輝く光が刀を砕いて斬首できなかったというエピソードを描いたものだ。日蓮の受難と超自然パワーを表すもので、いわばキリストの受難と復活を彷彿とさせるものがあると感じたのであろうか。彼は日本の仏教史における日蓮の存在を高く評価している。日本の仏教は、6世紀の伝来以来長く庶民の信仰からは遠い存在であった。難解な教義や哲学的思索などを説いた仏典の理解には、サンスクリット語や漢文が解読できることが必須で、インド・中国から渡来した高僧や、中国で学んで帰国したエリート留学僧によって学ばれ、伝達され、国家統治の思想(鎮護国家思想)として天皇をはじめとする政治的支配層に共有された。グリフィスは、のちに空海の出現を一つの日本仏教の画期とし、同時期の最澄の、いわば『比叡山スクール』に育てられた弟子たちの出現(のちの鎌倉仏教の開祖たち)に着目している。グリフィスは「仏教はキリストのいないカトリックである」と書いている。すなわち救世主がいない教義(ドグマ)というわけだ。面白い表現だ。かつては聖書はギリシャ語やラテン語で書かれていて、カトリック修道院で学んだ僧だけが、教義を解し教えを布教した。そういう点では仏教もカトリックも庶民は経典や聖書を読むことができなかった。仏教ではその教えを庶民に説く布教者も限られていたので、仏教が庶民の来世の救済や現世利益への信仰というコンテクストで受容されることもなかった。13世紀の鎌倉時代に入って現れた革命的な宗教者で、比叡山スクール出身の日蓮は、既存宗派を論破し、法華経こそが仏教の最高の経典であり、庶民は難しい経典を読まなくても「南無妙法蓮華経」を唱えれば成仏できる(救済を得ることができる)と説いた。既存の観念を打ち破る画期的な論法は、民衆の心を捉え、そして時の権力者に恐れられるのが常である。日蓮は権力や他宗派による弾圧にも屈せず宗旨を貫いた。グリフィスは、日蓮を「仏教中興の祖」であるとしている。16世紀のキリスト教伝来の時にもイエズス会宣教師にとって最大の難敵は日蓮宗のBonzu:坊主・僧侶であったし、今でもキリスト教布教にあたって越えるべきハードルのひとつだと考えている。一方で、親鸞を日本仏教のプロテスタントだと見做していることも興味深い。浄土宗の開祖である法然も「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽往生できると説いている。いずれも比叡山に学んだ新仏教宗派の開祖であり、来世の「救済」を説いたことで仏教の新たな地平を開いた。キリスト教プロテスタントの宣教師らしい評価なのであろうか。宗教改革のリーダーであるルターやカルバンの姿を投影したのかもしれない。

その一方で、グリフィスの日本の宗教、仏教や神道に関する眼差しは、この時期に日本にやってきた外国人のそれとはことなっていることに気づく。すなわち、キリスト教以外の宗教をエキゾチックではあるが野蛮な信仰、習俗と見る。『文明開花』とは『キリスト教化』することであって日本の『文明開花』は単なる西欧の模倣であると見る。すなわち外的なものが変わっても内的なものが変わらねば単なる模倣である。いわば『キリスト教vs異教徒』という二項対立の視点である。いわゆるジャパノロジストの中にも多かれ少なかれこのような深層理解が潜んでいることが多い。しかし、グリフィスはプロテスタントの宣教師であるにもかかわらず、仏教や神道を相対化して理解することができるジャパノロジストの一人である。先ほどの日蓮、親鸞論などもその象徴であろう。こうした観点で日本に接した人物のもう一人は、ラフカディオ・ハーンである。彼の眼差しとグリフィスの眼差しには共通するものがあるように思う。どちらも日本人の宗教観や日常の宗教行事に親近感と慈愛の目を持って接している。いやむしろ宗教や信仰の問題というよりは日常生活に根ざした習俗の中に自然に対する畏敬や祖霊に対する敬いの心を見出した。ただ、二人の違いは、グリフィスがキリスト教宣教師であるのに対し、ハーンはキリスト教に懐疑的、ケルト的である。グリフィスとハーン。この二人の日本観。またチェンバレンやサトウのそれについてはまた別の機会に詳しく比較考察してみたい。


『日蓮の法難の図』が巻頭に掲載されている


2024年5月1日水曜日

古書をめぐる旅(49)『Japan Story of Adventure of Ranald MacDonald:ラナルド・マクドナルド伝』 〜幕末の日本に密入国したアメリカ人の物語〜

 日本は隣国。自分のルーツは日本人。そう信じ、日本に強い関心を抱いていた男が19世紀、日本の幕末、アメリカ西海岸にいた。彼の名はラナルド・マクドナルド:Ranald MacDonald。ついには鎖国下の日本に遭難を装って密入国する。そこで彼が見たものは。今回は発掘された彼の自伝原稿をもとに編集した、「ラナルド・マクドナルド評伝」:Ranald MacDonald The Narrative of his early life on the Columbia under the Hudson's Bay Company's regime; of his experiences in the Pacific Whale Fishery; and of his great Adventure to Japan; with a sketch of his later life on Western Frontier 1824-1894.を紹介したい。本書の後半部がマクドナルド自身のオリジナル原稿「日本冒険記」:Japan Story of Adventure of Ranald MacDonald  First Teacher of English in Japan A.D. 1848-1849となっている。東ワシントン州歴史協会:The East Washington State Historical SocietyのWilliam S. Lewisと東京外国語学校校長の村上直次郎の共同編集である。1923年の初版で1000部の限定出版である。


1893年のオリジナル「自伝」原稿表紙
晩年のRanald MacDonaldの写真(1891年7月5日撮影)
彼の姪が所有していたものだという

1923年に東ワシントン州歴史協会編集の評伝表紙


彼の教え子
一人は森山多吉郎(出典はハイネ「ペリー艦隊日本遠征記」)

マクドナルド自作の日英語彙集

ラナルド・マクドナルド:Ranald MacDonald(1824−1894)は、イギリスの北米植民会社、ハドソン湾会社幹部で毛皮商人、アーチボルト・マクドナルド(エジンバラ大学出のスコットランド人)を父に、地元チヌーク・インディアン族長コム・コムリーの娘を母に生まれた。ハドソン湾会社の開拓植民地であったコロンビア(現在のカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州、アメリカワシントン州)で生まれた。当時はこのような入植者と地元有力者が共同して開拓、事業経営を行うために婚姻関係を結ぶことは一般的であった。ラナルドは一族の族長からの言い伝えで、チヌーク族は日本人がルーツであると聞かされてきた。これにより、まだ国を閉ざしていた未知の日本に大いなる興味を持ったと、のちに書いている。人類学的にこの日本人ルーツ説が正しいかどうかは定かではないが、現在ではアメリカ大陸の原住民/ネイティヴ・アメリカン、インディオは、ホモサピエンスのグレートジャーニーで3〜4万年前にアジアからベーリング海峡を渡って移動してきた一団がルーツであることは知られている(彼らにはモンゴロイド・アジア人に共通する蒙古斑がある)。こうしたグレートジャーニーの記憶が、チヌーク族の中で伝承されてきたことじたい大変興味深い。

また彼は、日本の漂流民がイギリスハドソン湾会社のテリトリーであったブリティッシュ・コロンビアに辿り着き。地元部族に捕らえれれて奴隷にされて、ハドソン湾会社に売られた話を聞いている。彼らの一部はロンドンに連れて行かれた。これは以前紹介したジョン・マシュー・オットソン:John Mathew Ottoson:山本音吉の漂着(1832年)の話である。マクドナルドは子供の時にこの日本人漂流民のことを聞かされ、日本に関心を持つきっかけの一つとなったと書いている。

彼は、父の勧めで勤めていた銀行を辞めて、捕鯨船の乗組員として太平洋に出た。1848年、ついに憧れるだけでは済まず、日本に密航することを決断し実行した。当時は外国艦船の接近に異常な反応を示していた鎖国日本にである。アメリカの捕鯨船プリムス号に乗り込み、蝦夷地の焼尻島付近を航海中、単身でボートをおろし遭難を装って上陸。しかし人がいないので再びボートで利尻島に向かい上陸。日本では密航だと死罪。遭難なら悪くとも投獄、送還と聞かされていたからだという。利尻島で(幸運にも)役人に捕まり松前から長崎に連行された。日本密航の動機は、色々と記述されている。同じルーツの日本への憧れ。日本人に親近感を持たれるのではという期待。西欧教育を受けているので日本でしかるべき仕事に就くことができるのではという期待。そういった夢想から、彼が経験した人種差別、失恋といった現実的な問題、等々。無鉄砲な若者の冒険は思慮深い判断からは生まれない。

マクドナルドは長崎の牢(崇福寺の末寺)に繋がれた。彼に与えられたスペースは格子はあるがいわゆる座敷牢で待遇はそれほど悪くはなかったと書いている。ペリー艦隊来航の5年前である。当時その牢にはアメリカやハワイの漂流民14名が収容されていた。彼らは長い投獄生活で疲弊していたようだ。彼は取り調べの中で、「踏み絵」を踏むよう促されたと書いている。最初それが何かよくわからなかったが、どうも聖母子像であったようだ、と回想している。自分はカトリックではないので踏むことに躊躇はなかったとも書いている。しかし、入牢中、彼は聖書を手元に置きたいと要求。最初は拒否され、2度と聖書の話を持ち出さぬよう役人から釘を刺されたが、次第に彼が聖公会プロテスタントで、キリシタン(カトリック)では無い(?!)ことがわかり、聖書を手元に置くことが許されるようになったと回想している。プロテスタントとカトリックの区別はオランダ人からすでに聞いていたのであろうが、それにしても当時の扱いが苛烈なものではなくなっていた様子がわかる。

マクドナルドはハドソン湾会社のコロンビア植民地で英語での教育を受けていたので、長崎奉行所役人から英語の指南を期待され、そこで14名の幕府通辞に英語を教えた。当時の通辞はオランダ語のみで、英語はオランダ商館を通じて入手した書籍で多少学んだものがいるくらいで、しゃべれるものがいなかった。しかし、幕府も時代はオランダ語ではなく英語であることは認識していた。中でも、のちにアメリカのペリー艦隊、イギリスのエルギン卿使節団との交渉の通訳を務めた森山多吉郎(栄之助)を育てたことが大きい。そうしたことから日本で初めて英語を教えたアメリカ人:「First teacher of Einglish in Japan」と、本書では紹介されている。森山は当初マクドナルドの取り調べを担当していたが、彼から英語を学ぶことになる。マクドナルドによれば、森山たちは蘭英辞書を入手していて英語の文法や語彙はかなり勉強していたようだ。ただネイティヴと話したことがないことから発音、アクセントがダメだったと述懐している。したがって彼の英語教授は口頭での発音練習に集中した。森山は教え子の中でも、最も優秀で、発音、アクセントをのぞくとほぼ完璧に英語をマスターしていたと驚嘆している。

マクドナルドが牢で作った手書きの「和英語彙集」のコピーが本書に掲載されているほか、活字化した語彙集が数ページにわたって紹介されている。彼が耳から得た日本語の発音をそのまま書き取っているためか、かなり意味不明な日本語もある。当時の日本人のしゃべり言葉をそのまま英字にしたのだろう。またどの程度正確に聞き取れたかも疑問がある。しかし興味深い資料だ。面白いのはマクドナルドが聞き取った語彙のなかに多くの長崎弁が混じっているのがご愛嬌だ。例)Cheap=Yaska:安か、Pain=Itaka:痛か、Dark=Kuratka:暗か、Dirty=Eswashy:えずわしい、Entertain=Omosiroka:面白か、など九州出身者には懐かしい、あるいは今は使わない方言が入っているのが興味深い。また森山:Moriyamaをなぜか最後までMurayamaと記している。こうした間違いを指摘するものもいなかったのだろう。本書では編集者がこうした彼が聞き取った日本語の読みと、現在使われる正しい読みを併記している。

1849年、10カ月ほど長崎に滞在し、そのうち7ヶ月を英語教授に費やしたのちに、漂流民の引き取りに長崎に寄港したアメリカ艦プレブル号で、他の漂流民とともに帰国する。短い滞在であった。しかしこの日本での体験は彼にとって貴重で好ましいものであったようで、生涯を通して彼は親日家であった。のちに彼は、帰国の5年後の出来事である、ペリー艦隊の日本遠征、日米、日英の条約締結と日本の開国を感慨深げに振り返っている。自分がそうした歴史的な事件に幾許かの貢献ができたことを誇る気分が行間に満ちている。また日本にいた時の「教え子」、森山多吉郎ほか14人の消息を求めて、カナダの有力者や、エジンバラ大学に留学した日本人、日本人ジャーナリストなどのツテを頼って調べようとしたことが縷々記述されている。しかし、森山多吉郎は1871年にすでに他界していることを知り、そのほかの多くの教え子も他界したか、消息が途絶えていたかで連絡が取れた教え子はいなかった。彼は終生「日本での教え子」のことを想い続けた(「二十四の瞳」ならぬ「十四の口」か!)。なぜか朝日新聞の創業者村山氏を森山の子息である、と誤解し続けている。MoriyamaとMurayamaをここでも混同しているようだ。編者が脚注で、この二つの名前は別の家族で、村山は森山の子孫ではないと注記している。

マクドナルドが密航時に考えた「日本で自分に何かできることがある」は、英語を教えることである程度達成できたようだ。それが5年後の日米、日英の条約締結、日本の開国につながったことを考えると大きな成果であり夢が叶ったといえよう。しかし、「日本人と血が繋がっている」は、彼の記述の中でもそれにまつわるエピソードは出てこない。ちょっと期待が外れたのだろうか。日本人を共感する(?)には滞在期間が短すぎ、交流する人にも限りがあっただろう。思ったより早くアメリカから救出船がやって来てしまったのかも。ちなみにこの頃すでに、漂流民救出目的とはいえアメリカ艦船が長崎に入港していたことになる。その10年ほど前の1838年には日本人漂流民(あの山本音吉:オットソンたち)を送ってきたアメリカ商船モリソン号を浦賀沖で砲撃して追い返していた(モリソン号事件)というのに。ペリー来航の4年前、すでに日本列島周辺には多くのが外国船が航行しており、特にアメリカの捕鯨船が多かった。日本の港に入港して薪水炭の補給や、乗員の休養、漂流民の救助、送還などが求められていた。マクドナルド自身も捕鯨船でやってきた。ペリー来航と日本の開港要求の目的の一つがこの北西太平洋上の航路上のアメリカ捕鯨船の安全確保であったことは既に述べた通りである。

それにしても、日本の開国というこの歴史的な出来事の陰に、彼のような若い(無鉄砲な)冒険者の存在があり、その冒険が森山多吉郎のような英語通訳を育てることに一役買い、森山たちが日米交渉、日露交渉、日英交渉の重要な裏方を担ない、条約締結、開国という大きな成果につながったことを知った。歴史は決して表舞台の登場人物だけが作り出したものではないことを実感する。1923年のこの書籍の出版まで、マクドナルドの事績が後世に伝わることもなく、彼は全く未知の人物であった。またアメリカにおいても漂流民からの日本に関する聞き取り証言記録が議会に残っているが、それ以外はほとんど公的な記録が残されていない。しかし、彼の個人的な回想録原稿が地元コロンビア(現在のワシントン州)で発掘され、彼の冒険物語が初めて明らかになった。また本書の編者によって当時のアメリカ側の海事関係記録や新聞記事、日本側の松前藩、幕府、長崎奉行の記録も発掘され、翻訳されて彼の行動を立証する証拠として本書に提示されている。ペリーとの交渉に活躍した森山多吉郎(栄之助)については「ペリー艦隊日本遠征記」:Narative of The Expedition of American Squadron to China Sea and Japan in1854に肖像画と記述があり(下記写真)、森山が「アメリカ人漂流民であった航海士に英語を習った」と書かれている。しかし、その航海士の名は記されていないので、マクドナルドの存在はこれまで伝わっていなかった。帰国後のマクドナルドの後半生は、さまざまな交易事業に従事し、オーストラリアやインドに旅したようだ。先述のように、晩年に至り回想録を書くにあたって、かつての日本の「教え子」の消息を、さまざまなツテを通じて尋ねている。また日本での経験物語を日本の新聞社に送ったりしていたようだが、行き違いもありあまり注目を浴びなかったようだ。日本の開国後、あれほど憧れて密航までした日本の姿を見てみようと、再訪を試みた様子も書かれていない。彼の晩年は貧しく、70歳での没後は彼の生まれ故郷のネイティヴ・アメリカン居留地(現在はワシントン州)に埋葬された。先述のように彼の記録が発見された事で、あらためて歴史の隅っこから日の当たる場所へと登場することとなり、彼の事績が再評価されるようになった。改めて「記録を残す」ということの重要さを認識する。1923年の本書の出版が、マクドナルドの顕彰事業の一つであり、また顕彰碑がカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州、アメリカ・ワシントン州と長崎、そして上陸した利尻島にある。


(参考)「ペリー艦隊日本遠征記」に掲載された森山多吉郎(栄之助)の肖像と彼の署名入り公文書翻訳写し







追記:

ちなみにマクドナルドは何人なのか?国籍は?表題には「アメリカ人」と書いたが、彼が生まれたアメリカ北西コロンビア植民地は、当時はイギリスのハドソン湾会社の入植地で、彼は父のイギリス国籍を引き継いでいることになる。しかし地元のチヌーク族の母の血を引くことからネイティヴ・アメリカンとも言える。またこの一帯は、イギリス人とアメリカ人の雑居地域で、現在のブリティッシュ・コロンビア州も、カリフォルニア州もオレゴン州もワシントン州も未だ成立していない。したがってアメリカ国籍でもなく、ましてカナダ国籍でもない。のちにはアメリカ合衆国ワシントン州、オレゴン州の一部になり、彼の墓はワシントン州にある。彼自身も自伝の巻頭言ではアメリカ合衆国ワシントン州在住と書いている。今ではこの両州もカナダも彼を地元の歴史上の偉人として扱っている。本書も東ワシントン州歴史協会が出版している。このように19世紀半ばの北米西海岸はまだ国境が確定せず、州の成立も、ましてカナダという国家も成立していない時代であった。彼は、国籍などこだわらなかったのだろう。そういう意味でも自他共に認める無国籍人だったのかもしれない。


Ranald MacDonald
1853年に撮影されたとされるダゲレオタイプの肖像写真


森山多吉郎(栄之助)(1820−1871年)

幕府オランダ通辞。代々オランダ通辞の家に生まれ、ペリー来航やプチャーチン来航時の首席通訳を務めたほか、初代アメリカ公使タウンゼント・ハリスとも頻繁に会談している(「ハリス日記」にもしばしば登場する)。1850年には幕府の命令で和英辞書の編纂に取り組んだ。1862年の文久遣欧使節団(兵庫開港延期交渉)の首席通訳としてイギリス公使オルコックの船で渡欧。帰国後は江戸で英語塾を開き人材の育成にも努めた。門下生には津田仙(津田梅子の父)、福地源一郎(ジャーナリスト)、矢野二郎(東京高等商業学校校長)などがおり、明治期に活躍した多くの逸材を育てた。また福沢諭吉も折々に彼をたづね指導を仰いだ。しかし、維新後は明治新政府には出仕せず、市井の人として東京で生涯を終えている。長年の激務がたたり、晩年はかなり体調を崩していたようで、明治4年、51歳で没した。


幕府主席通辞、森山多吉郎(栄之助)Wikipedia

長崎からマクドナルド等14名のアメリカ/ハワイ漂流民を乗せて本国へ帰還した米艦プレブル号(英語版Wikipediaより)

長崎のマクドナルド顕彰碑


参考図書ほか:

ラナルド・マクドナルド「日本回想録」〜インディアンの見た幕末日本〜 刀水書房1979年:本書の日本語訳。この副題はちょっとミスリーディングなように思うが

吉村昭「海の祭礼」文春文庫1986年初版:マクドナルドと森山の出会いを描いた長編歴史小説

NHKドラマ「わげもん」2020年:長崎通辞の物語 森山と漂流民マクドナルドが登場する歴史ドラマ


2024年4月7日日曜日

古書をめぐる旅(48)The Narrative of A Japanese:「ある日本人の物語」by Joseph Heco 〜漂流民「ヒコ」が見た幕末維新〜



The Narrative of A Japanese:「ある日本人の物語」

表紙

遭難船「栄力丸」と救助船「オークランド号」の出会い
物語はここから始まった



面白い本を見つけた。Joseph Heco:ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の自伝、The Narrative of A Japanese:「ある日本人の物語」である。ジョセフ・ヒコは江戸時代末期に日本人漂流民としてアメリカ商船に救助され、アメリカにわたり市民権を得た初めての日本人(日系アメリカ人第一号)である。カトリックの洗礼を受け、洗礼名がJosephである。1859年(安政6年)、日米通商航海条約締結で、タウンゼント・ハリスが下田の領事から駐日全権公使(Minister)に昇格したことに伴い、神奈川に新設されたアメリカ領事館の通訳として日本に赴任(帰国)した。その後、日本初の日本語新聞を発刊したり、商社を立ち上げたり、長州、薩摩や肥前などの維新を主導した人々と人脈を築いた。故国日本に、日系アメリカ人として戻り幕末維新という激動の時代に活躍した人物の物語である。ピアーズ、ブキャナン、リンカーンと三代のアメリカ大統領に謁見した初めての日本人でもある。漂流民といえばジョン・万次郎が有名であるが、このヒコ:「アメリカ彦蔵」ももう一人のアメリカ帰りである。そのジョセフ・ヒコが書き残した自伝原稿を編集、出版したのが本書である。編者は、大著History of Japan:「日本史」を著した明治期のジャパノロジスト、James Murdoch:ジェームス・マードックである。以前のブログでも紹介した。

マードックは序文で、''Mr. Heco had unusual opportunities of seeing and hearing things from two stands-points, from the native as well as the foreign; opportunities of which he seems to have availed himself with no mean measure of shrewdness. ' 「ヒコ氏は二つの視点、すなわち日本人として、外国人として、激動の幕末維新を見聞する貴重な機会を得た」と紹介している。ジョン万次郎が「開国前」の日本に帰国したのに対し、ヒコは「開国後」の日本に「アメリカ人」として帰国(赴任)した、という違いがある。これについては後述する。

本書は全2巻合冊版で、1890年に初版として出されたものの再版(1950年)である。第1巻は、彼の生い立ち、生まれから漂流、渡米、そして神奈川領事館通訳として日本赴任と馬関戦争従軍まで。第2巻は、領事館辞任以降、長崎、兵庫、横浜での商社立ち上げ、新聞発行を通じた幕末維新録である。西南戦争、大津事件の記事で終わっている。

全体を通読して感じたのは、14歳の時に遭難、漂流という過酷な出来事に遭い、やむを得ず故国を離れ異国の地に過ごした9年間ののちに帰国する、という数奇な運命に翻弄されたにしては、9年ぶりに見る故国の姿に感無量で涙する、開国、激動の日本に戸惑う、などの感情表現が少ないことである。読み手からすると、艱難辛苦の末、ようやく帰り着いた故国がどのように見えたのか。それを知りたと思うのは人情だろう。かといって、すっかりアメリカ人になっていて、遠い記憶の中でしか確かめられない日本という国での「異文化体験」、といった目線や心のゆらめきものも表されていない。赴任途中にかつてアメリカ領事館があった下田に寄港し、ハリスとともに下田奉行と会った時に、初めて日本語で会話したと書いているが、だからどうという感想も書かれていない。内容もさることながらこれが通読後の第一印象であった。これまで見てきた「外国人ノン・ネイティヴ」視点の幕末・維新の日本見聞録とは異なる、「日本人ネイティヴ」の視点のそれは、編者のマードック先生の上記のコメントにもかかわらず、意外にも色濃く表現されていないような印象だ。ヒコはバイリンガルであったが、書く方は和文が辿々しくなっていて英文の方が達者であったという。その英語表現はネイティヴのそれであるが、一方で、我々ノン・ネイティヴにもわかりやすい文体で書かれている。その英文で記述された「アメリカの外交官」然とした日本観察記録のようにも感じる。この点ではサトウやミットフォード、ハリスの記録と共通性があるようにも思う。編者のマードックは、序文で、ヒコのオリジナルの原稿には手を入れていないと書いているが、ただ私的な出来事やストーリーに関連のない記述は採録を省略した、と書いているので、多少編者の意図に沿った取捨選択があるかもしれない。そこにヒコ個人の故国を思う感情表現があったのかもしれない。あるいはこの時代の日本人に特有の私情を吐露しない気質の現れなのか。彼は武士階級出身ではなく庶民の出であるが、天保生まれである。幕末に活躍した維新の志士、偉人には天保生まれが多い。明治になると「天保老人」と呼ばれ、尊敬もされたが、煙たがられもしたようだ。後述する、同じ漂流民、Ottoson(山本音吉)も、John Mung(中浜万次郎)も天保生まれである。「天保老人」恐るべしである。

本書は、維新史に名を残した重要人物からの書簡(和訳。英訳)や、重大事件や世相を表した新聞記事(英文)を多数引用しており、また、多くの人物の名前が登場するので、当時の出来事を知る記録としては興味深い。ヒコの記録には、当然ながら彼の上司であるタウンゼント・ハリスの名がたびたび出てくる。一方の「ハリス日記」にはヒコの名が一回も登場しない。これはハリス日記が1858年(安政5年)6月9日(日米通商航海条約締結交渉中)で終わっているからである。ハリスがヒコと出会ったのは、条約締結後の1859年(安政6年)。新たに駐日全権公使に昇格し、静養先の上海から日本に帰任するときである。ここでヒコを新設された神奈川領事館のドアー領事:E.M.Dorrの通訳として採用し、同じ船で横浜に赴任している。以前のブログで、ハリス日記の1858年2月末日以降の空白部分を補う記録として、ヒュースケン日記に期待したが、これもなぜか条約締結交渉中で日記が中断(1858年6月8日)していることも述べた。したがって、このヒコの自伝が、条約締結前後の記録欠如部分を補完する可能性があるとも言えるのであるが、当然ながらヒコ赴任前の出来事である条約締結交渉の経緯については記述がない。さらに、仔細に読んでみても彼は神奈川領事館通訳としての立場で書いているので、ハリスやヒュースケンが江戸の公使館で幕閣や他国公使などと直接やりとりした出来事とは多少異なる。ヒュースケン暗殺に関しては記述がある。ハリスとヒコが時間を共有していたのは1年余で、ヒコは一時アメリカに戻り、再び日本に戻った時にはハリスは退任してアメリカに帰国している。なかなか条約締結過程とその後の履行に関する混乱の「空白の日記」を埋める資料の発掘は、ハードルが高いことを改めて認識させられた。


以下に、主に本書の記述に従ってジョセフ・ヒコの経歴を紹介する。なお本文中の年月日表示には、なぜか多くの部分で年の記録が抜けているので、吉川弘文堂の「日本史年表」と照合した。


 Joseph Heco,(浜田彦蔵)

播磨國(現在の兵庫県播磨町)出身 灘五郷の酒を江戸に運ぶ大型廻船の乗組員 1837年(天保8年)〜1897年(明治30年)

1850年(嘉永3年)14歳の時に「栄力丸」で、江戸から兵庫への帰途、遠州灘を航行中、暴風で遭難、漂流。アメリカ船「オークランド号」に救助され、ハワイ、サンフランシスコへ

1853年(嘉永6年)マカオに移り、上海からペリー艦隊の日本遠征航海に便乗してで帰国予定。しかし叶わず、アメリカ定住を決意。カトリック系ミッションスクールへ、サンフランシスコの商社などで勤務

1858年(安政5年)アメリカ市民権取得(帰化)、カトリック洗礼 Joseph Hecoと名乗る。日本へ帰った時に厳しい処置が待っていることを予見したためとも言われる。この年ハリスの交渉成果である「日米通商条約」(安政五カ国条約)締結

1859年(安政6年)上海で、新たに駐日全権公使として赴任するタウンゼント・ハリス、神奈川領事E.M.ドアーと会い、新設された神奈川領事館通訳に採用。日本人ではなくアメリカ国籍であることを確認した上で、共にミシシッピー号で日本へ。下田経由(ヒュースケンと会う)で横浜上陸。この時上海でデント商会にいた漂流民の山本音吉:John Matthew Ottoson(後述)と会っている。また、広東で、同じく日本に赴任する駐日英国公使オルコックと会っている。またこの時同じ「栄力丸」の乗組員であった「Dan」と再会。彼はイギリス広東領事館(オルコック)に雇用されていた。オルコックからイギリス領事館の通訳にならないか、とオファーを受けたが、すでに仲間が通訳になっていること、自分はアメリカの友人から良いオファーを受けていることを理由に、丁寧に断っている。

同年、神奈川・本覚寺にアメリカ領事館開設 ハリスは江戸・善福寺に公使館開設

1860年(万延元年)ポーハタン号と咸臨丸の幕府遣米使節団派遣のため、艦隊を率いるブルック艦長の通訳を務める。出港前に正使木村摂津、勝海舟、中浜万次郎と会う 万次郎とは30分ほど話したとあるが何を話したか記述はない 

1861年(文久1年)離日再渡米 公式の外交官として任命を受けるための運動でワシントンへ

1862年(文久2年)3月12日 ワシントン・大統領官邸でリンカーン大統領に面会。 シーワード国務長官の紹介で 南北戦争(1861〜1865)

同年、10月13日に再び外交官として日本、神奈川赴任。この年にハリスは帰国し、駐日公使はロバート・プリュイン(1862年5月17日着任)に交代。この第二回目の赴任前には、アメリカ公使館のヒュースケン暗殺(1860年)、イギリス公使館襲撃(1861年:第一次東禅寺事件)、御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ち(1862年)など攘夷の嵐吹き荒れる。生麦事件が起きる

1863年(文久3年)5月 アメリカ艦が関門海峡で長州の艦船から砲撃を受ける事件発生。その翌年(1864年8月)四国艦隊下関砲撃。アメリカ艦艦長マクドゥガルの通訳として米艦ワイオミング号に乗船し下関へ。長州側と砲火を交える。

同年、生麦事件に端を発する「薩英戦争」勃発(1863年7月)。生麦事件の経緯、薩英戦争交渉の模様を新聞を引用して詳しく紹介している。「ジャパン・ヘラルド」ジョン・ブラック主筆がメインの情報ソース。やがて自分で日本語新聞を発行を志す。

1864年(文久4年) 領事館を辞し、横浜、兵庫、長崎で商社活動開始。岸田吟香と「海外新聞」発刊。2年しか続かなかったが、初の日本語新聞で、のちに「日本の新聞の父」と称されることに。南北戦争など海外ニュースのほか、綿花相場、生糸相場の「今日の値段」を知らせる新聞であった

1865年(慶応元年) 幕府に新たな国家構想、国政改革案(いわゆる「国体草案32ヶ条」をまとめた建言書を提出。しかし無視。アメリカ憲法を下書きにした、わが国最初の憲法草案とも言える。

1867年(慶応3年)6月 木戸/伊藤と面会 長州藩の長崎代理人に。グラバー商会を通じて武器調達を図ったものか。この時、倒幕、天皇の政府樹立計画を聞かされる。長州人脈を形成。先の「国体草案」を示す。

同年 肥前鍋島侯の英艦への乗艦視察斡旋。グラバー商会と肥前藩を仲介し、高島炭鉱開発。結果的にはうまくいかなかったが、これがきっかけで肥前藩との人脈形成

1868年(慶応4年)1月 戊辰戦争(鳥羽伏見〜東北諸藩〜箱館戦争)

同年3月25日「五箇条の御誓文」発布 明治維新新政府樹立  明治元年となる

1871年(明治4年)岩倉遣米/遣欧使節団出発 この時は長崎にいた。

1872年(明治5年)大蔵卿井上馨の勧めで東京へ出て大蔵省出仕。渋沢栄一のもとで国立銀行条例案策定、貨幣、税金に関する改革企画書作成。秩禄処分、廃藩置県に伴う国庫の資金難で、海外での資金調達に携わる。造幣局設立にもかかわる

1877年(明治10年)西南戦争勃発、西郷の最期、木戸の他界

1888年(明治21年)東京・根岸に転居

1894年(明治27年)日清戦争

1897年(明治30年)横浜で没す。青山の外人墓地に埋葬。

和訳本として、「アメリカ彦蔵自伝」中川努/山口修訳 平凡社東洋文庫刊


以下に、本書に記述された興味深いエピソードをいくつか紹介したい。

(1)アメリカ大統領ピアース、ブキャナン、リンカーンとの面会

Chief of Nation:「アメリカの主人」に会わせてやるからと、サンダース税関庁長官に連れられてピアーズ大統領と会った時の印象が面白い。「アメリカの主人」の居館は特に豪壮な城や宮殿ではなく、普通の建物で、その簡素な部屋に座っている平服の男がChief of Nationであった、と驚いている。これが国民の入れ札(選挙)で選ばれたPresident:「大統領」で、しかも4年経ったら普通の人に戻る!これがChief of Nation,すなわち日本で言えば大君(将軍)であるということが信じられなかったと回想している。次のブキャナンには、日本でのアメリカ代表部でのポジションを頼んだ。これはうまくいかなかったが、上院の有力者の推薦で外交官としての領事館通訳のポジションを得ることができた。ちなみにペリー来航時の大統領はピアースで、その親書を大君(将軍)に奉呈。ブキャナンは咸臨丸の遣米使節一行が謁見した大統領。ヒコは日本人として最初にアメリカ大統領にあった人物である。

次に、1862年にウィリアム・シーワード国務長官の紹介でリンカーンと面会した時のエピソードがいかにもアメリカ的でこれまた面白い。リンカーンは、長身痩躯で、髭を蓄え黒い服を着た人物。一見物静かで威厳はあるがとても「大君」には見えなかったと印象を記している。しかし、暖かな性格で、誰にでも気さくに話しかける人物で、たちまちファンになったと書いている。その時、大統領執務室には先客がいて、何か大統領に必死で頼み込んであるようで、椅子にかけてそれを聞かされている大統領は不機嫌そうであった。やっと話が終わってヒコが紹介されると、忽ち上機嫌で握手し歓迎してくれた。きっと、ヒコが就職を頼みに来たわけではないことがわかっていたからだろう、と皮肉っぽく書いている。アメリカは、上級官僚ポジションが猟官制の国で、大統領や国務長官、上院議員などには、常に就職斡旋依頼の陳情が多かったようだ。しかし、それだけではなく、ヒコが大統領に面会できたのは、アメリカにとってペリーやハリスの努力で日本が開国したこと、欧州諸国に先駆けたアメリカのアジア戦略にとって日本の重要性が増していたこともあり、日本におけるヒコの役割に期待したための面会(謁見)であったろう。リンカーンにとっても初めて会う日本人で、新たに開国した未知の国に非常な関心を持っていて、ヒコに矢継ぎ早に質問した。しかし、この頃のリンカーンの最大の政治課題は国内問題。すなわち内戦の勃発(1861年の「南北戦争」)であった。したがって、このことがハリスの帰国以降、アメリカの対日戦略に影がさすことになる。ヒコは1865年(慶応元年)にリンカーン暗殺の報を日本で聞き、ショックを受け、同じく重傷を負ったシーワード国務長官にお悔やみの手紙を送っている。リンカーンがヒコに与えた一種のカルチャーショックは、日本に帰ってからの彼の考え方や仕事にも大きな影響与え、後述の「国体草案」などに生きてることになる。


リンカーンに会った当時の雑誌に掲載されたヒコ

リンカーン暗殺の報を聞いたヒコのお悔やみ状に対する
元国務長官シーワードの自筆の礼状


(2)馬関戦争参戦と攘夷の恐怖

1863年、アメリカ船が関門海峡を通過中に長州藩の艦船から無警告に砲撃された事件がきっかけとなり、翌年に四国艦隊が下関を攻撃し砲台を占拠した事件が起きた。いわゆる「四国艦隊下関砲撃事件」すなわち「馬関戦争」である。この時、最初のアメリカ船への砲撃に対抗するために横浜を出撃した米艦ワイオミング号(マクドゥガル艦長)に、領事館通訳としてヒコは乗船し下関に向かう。マクドゥガル艦長は、出航にあたって、長州側と交戦状態になるだろうと予想し、江戸の公使ロバート・プリュインの判断を待つために出港を予定より2時間遅らせたが、ついに公使が来なかったので、独自の判断で出航することになった(横浜帰投後、ヒコが「この非常時になぜ公使は来なかったのか」と、神奈川領事に詰問した時、ニヤリとして「体調不良のため」と答えたと書いている)。マクドゥガル艦長は出撃に当たって、ヒコに長州側の出方や、その後の幕府側の反応についてアドバイスを求めている。長州側は軍艦、商船に関係なく砲撃してくるので、応戦しても問題ない。アメリカ側に国際法上、交戦国としての不利益にはなることは無いと説明している。ヒコはこうした状況判断ができる知識と能力を持っていた。案の定、関門海峡に入るといきなり砲撃を受け、たちまち交戦状態となる。彼にとって初めての戦闘参加で、砲火を交えるなか命の危険にさらされている。長州側に大打撃を与えるがアメリカ側にも死傷者が出て、この時の艦内の緊張感が記録されている。同時期にイギリス、オランダ、フランスの艦船も長州から砲撃を受けており、その翌年の共同歩調行動となる。この事件はアメリカが砲艦外交をリードした初めての事件であったことが分かる。翌年の連合艦隊の行動は迅速かつ圧倒的で、連合艦隊の優位は明らかで、長州側の砲台をたちまち占拠。降伏させる。長州藩はこの事件で欧米列強の軍事力を見せつけられ、攘夷の無謀さを悟るきっかけとなる事件となった。この歴史的事件に、アメリカ側の領事館員として日本人(日系アメリカ人)が参加していたことを彼の自伝で初めて知った。のちに木戸、伊藤と会見した時に、長州といえばあの事件、と回想している。しかし、あえてこの馬関戦争に参加した話はしなかった。長州はこの事件を転換点に攘夷から近代化に舵を切ったからだ。その結果としてこうして木戸、伊藤に会っているのだからと。彼らと会見したのは維新成就が間近な1867年のことである。

しかし、ヒコは戦火を潜って横浜に帰ってからも気が休まらなかった。というのも攘夷の嵐が吹き荒れるご時世で、横浜居留地の外国人にとっては危険極まりない状況であった。同じ年に、生麦事件をきっかけにイギリス艦隊が鹿児島に押しかけ砲撃戦になったこと(「薩英戦争」)。彼の留守中の1861年にはイギリス公使館襲撃事件(第一次東禅寺事件)で一等書記官オリファントが重傷を負って帰国を余儀なくされたこと、その翌年には御殿山に建設中のイギリス大使館が焼き討ちされたこと、その前の年の1860年には、同じアメリカ公使館の、いわば同僚と言っても良いヒュースケンが江戸の路上で暗殺されたことも生々しい記憶として脳裏に蘇った。彼は神奈川・横浜に在住する自国民(アメリカ人)の保護のために出された、ハリスやイギリスのオルコックの回状を引用し、ヒュースケン暗殺の衝撃を伝えている。また、ヒコ自身にも身辺警護の指示が来たと書いている。馬関戦争でも、四国連合艦隊の出撃を手引きをしたとして、ある日本人が殺害され、京都に生首がさらされる事件が起きた。その張り紙に「夷狄に協力した不逞の日本人を一人成敗した。もう一人いるので必ず成敗する」とあった。この「もう一人の日本人」は自分のことだと悟ったと回想している。日本人として帰国していれば、幕府の厳しい詮議が。しかし、アメリカ人として帰国(来日)してもこのような危険な目に遭うのだと覚悟した様子が、「日系アメリカ人」ヒコの複雑な心情を物語っている。


「馬関戦争」の長州側砲台と連合艦隊の配置図


(3)「国体草案」の行方と木戸、伊藤、五代、渋沢との出会い

1867年、先述の長州藩の木戸、伊藤との出会いが面白い。初めてこの二人がヒコを訪ねた時、彼らは自分たちを薩摩藩士だと自己紹介した。しかし薩摩訛りが全くない、と周りの人たちが口を揃えていうので、のちに二人に正したところ、素性がバレた。彼らは長州藩士で、幕府を倒し、天皇中心の政治体制に変えようとしているので手を貸して欲しいと、本心を明かしたという。この頃は長州人はその身分を隠して行動せざるを得なかった様子がよくわかる。ヒコは長崎においてグラバー商会などと取引関係があり長州藩の代理人、海外窓口として活動して欲しいというわけだ。情報収集だけでなく最新の武器の調達を期待したものだ。今でいう「外国の代理人」!である。こうして彼らとの活動を共にすることとなる。維新成就の一年前のことである。

この前の年に、ヒコは神奈川の幕府役人の勧めで、国家構想、国政改革案(いわゆる「国体草案32ヶ条」をまとめた建言書を幕府に提出した。わが国最初の憲法草案とも言えるものだ。ヒコは日本語文章能力が乏しく、周囲の仲間が起草を手伝ったと言われている。これはアメリカ合衆国憲法に範を取り、新しい国家像、政治体制を構想し、提言したものである。しかし、江戸の幕府は全く聞く耳を持たずうやむやにされてしまった。これに愕然としてヒコは、木戸、伊藤など新政府樹立を目指すグループに見せて議論したという。ヒコは彼自身がアメリカ大統領リンカーンに会い、大統領は、普通の市民の中から入れ札(選挙)で選ばれた国家元首であり、4年経つと普通の市民に戻ることなどを木戸や伊藤に話した。このように合衆国憲法について話すと、木戸はアメリカの政治制度に驚いた様子であった。また木戸の紹介で長崎で坂本龍馬と会って、国体草案について話したとも言われている。龍馬の「船中八策」はこれに影響を受けたものであるとする説もあるが、ヒコの伝記には龍馬との面談の記述はなく、それを窺わせる確かな資料もないので根拠の不確かな推測であろう。一方、確かに木戸はヒコの「国体草案」の趣旨を理解し影響を受けたが、彼らが抱いていた天皇中心の新政権構想に、自由主義、人権尊重、人民主権の思想はなかった。結局、アメリカ合衆国憲法に範をとった「国体草案」が、どこまで新政府の国家方針に影響を与えたのかは不明であるが、ヒコによってこのような構想が維新の志士の間である程度共有されていたことは間違い無いだろう。。

維新後のヒコは、長州の木戸。伊藤の他に、薩摩出身で大阪を拠点にしていた五代友厚とも、長崎のグラバー商会を通じて繋がっていたし、また新政府の大蔵卿井上馨とも懇意であった。井上の紹介で渋沢栄一と共に税制、通貨制度改革、国立銀行条例案の作成に携わった。また肥前の鍋島公とも高島炭鉱の経営に参画するなどの人脈を築き上げていった。こうして長州人脈、薩摩人脈、肥前人脈を形成して、新政府の中でも活躍の場を得ていった。


木戸孝允肖像

伊藤俊輔肖像

伊藤俊輔からの英文の手紙

桂小五郎(木戸孝允)からの手紙

1870年12月25日に肥前・鍋島公からグラバー経由でヒコに贈られた大判



参考:

ヒコの自筆のサインが入った書籍が偶然、神保町の北澤書店で見つかった。北澤社長が見つけて取り置きしてくれたものだ。アメリカで刊行されたShakespeare's Complete Works: 「シェークスピア全集」で、見開きに「Joseph Heco Nagasaki Oct.12th 1867」と彼の蔵書である事を示す書き込みがある。。

1867年といえば、長崎で木戸、伊藤と長州藩代理人契約を結び、グラバー商会を通じて長州、肥前と取引をしていた年である。1864年にニューヨークで出版された総革装、天金の豪華な書籍である。誰かからの贈り物なのか、購入したものなのかは不明だが、彼が確かに長崎にいた証拠がここにある。貴重な書籍である。彼はシェークスピアを愛読したのであろうか。だとすれば、日本で最初にシェークスピアを原文で読んだ日本人ということになる。

ヒコの自筆サイン
1867年10月12日 長崎にて

ヒコ所有の「シェークスピア全集」総革装の豪華本
The Works of William Shakespeare
by Alexander Chalmers in 1864
published in New York and Boston




付録:漂流者列伝

江戸時代末期、記録されているだけで15人の漂流民がいたと言われている。しかし、これは生還し、記録を残すことができた人々の数で、これ以外におそらく把握できていない遭難者、行方不明者が多数いたと思われる。そしてそのほとんどが太平洋で遭難している。小型の沿岸航海用の平底船ばかりで大型外航船の建造を禁じた幕府の鎖国政策のなせる技である。しかも、漂流民を救助しても外国船は打ち払い、入港禁止。漂流民は運よく生還できても、国禁を犯した(?)罪で、入牢/過酷な取り調べ、という理不尽な時代であった。日本人だけではない。長崎には外国人漂流民用の牢があり、15名のアメリカ人漂流民が収容されていた(日本に密入国したラナルド・マクドナルドの記録:Japan Story of Adventure of Ranald MacDonald 1848-1849)。過酷な扱いを受けていた様子がアメリカでも新聞等で報道されていた。この頃、アメリカでは捕鯨が油を取るための一大産業になっており、捕鯨船がが日本近海にも多数出没しており、遭難する船もあった。ペリーが日本に開国を要求した背景には、捕鯨船の寄港地確保や遭難者の救助、保護、帰国などの必要性が高まっていたこと、それに対する日本の対応が国際社会から見ると、とても受け入れがたい状況であったことがあった。日本人漂流者中で、最も著名な人物は、ジョン万次郎:中浜万次郎であろう。そして今回紹介した、ジョセフ・ヒコ:浜田彦蔵、アメリカ彦蔵。それに意外に知られていないのが、ジョン・オットソン:山本音吉である。以下にヒコ以外の二人の経歴を紹介してみたい。


山本音吉:John Matthew Ottoson:

尾張国(現在の愛知県知多半島美浜町)出身 1819年(文政2年)〜1867年(慶応3年)

1832年(天保3年)千石船で江戸へ向かう途中遭難、漂流し、北米沿岸バンクーバー付近に漂着 13歳であった。インディアン(エスキモーとも?)に救助されるも奴隷にされ売り飛ばされ、イギリス・ハドソン会社へ、イギリス船でロンドンへ。(「Japan Story of Adventure of Ranald MacDonald 1848−49」121ページにその記述がある) ロンドンに行った初めての日本人?と言われる(実際には、以前のブログで紹介した通り、16世紀末のキャベンディッシュ隊のクリストファーとコスマスがいる)

1835年(天保6年) マカオへ移り、帰国の機会を待つ。そこでドイツ人宣教師とともに「ギュツラフ版聖書」の和訳に取り組む。

1837年(天保8年)イギリス商船モリソン号で帰国を試みるも、浦賀沖で「異国船打払令」により砲撃され果たせず断念(モリソン号事件)。上海へ移りそこで定住することを選ぶ。

1840年(天保11年) アヘン戦争にイギリス兵として従軍したのち結婚。しかしのちに妻子と死別。上海でヒコが乗っていた栄力丸の生き残りと会っている。

1849年(嘉永2年)浦賀へ向かったイギリス艦マリーナ号の通訳として日本へ。さらに1854年(嘉永7年)にイギリス艦ウィンチェスター号の艦長スターリングの通訳として長崎へ。日英和親条約締結交渉の通訳として活躍した。帰国を勧められたが上海に戻ることを選択。

1859年(安政6年)上海でデント商会に勤務。2度目の結婚で家族を持つ。この時、日本に赴任する途上のヒコと会う。

結局、帰国を選ばずイギリスに帰化(正式にJohn Matthew Ottosonに改称)。上海の治安悪化(太平天国の乱など)に伴い、家族でシンガポールへ移住。彼の地で没す。子孫が明治になってから帰国している。

シンガポールで幕府の文久使節団一行と会い、福沢諭吉と面談している(後日、福沢が著作の中で言及している)

彼の生涯をモチーフにした小説、三浦綾子「海嶺」がある。


オットソンといわれる肖像画


中浜万次郎/ジョン万次郎:John Mung:

土佐国幡多郡中の浜出身の漁師 1827年(文政10年)〜1898年(明治3年)

1841年(天保12年)遭難、沖ノ鳥島に漂着。14歳の少年であった。アメリカ捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されてアメリカへ。ホイットフィールド船長は万次郎をマサチューセッツ州ニューベッドフォードに連れて帰り養子とする。小学校で英語を学び教育を受け、捕鯨船員として職を身につけた。こののち、その腕を見込まれて1846年、捕鯨船フランクリン号に乗り組み、副船長まで務める。この間世界を2度回った。

1848年(嘉永元年) アメリカ船で琉球に立ち寄り、帰国を試みたが果たせず、ホノルルへ。

1849年(嘉永2年) ニューベッドフォードへ戻る。同年、カリフォルニアへ、そこでゴールドラッシュ金掘りで帰国資金を貯める。ホノルルへ。帰国準備。同じ頃ヒコが遭難してアメリカへ(この時は会ってはいない)。

1851年(嘉永4年)在米10年で日本に帰国。上海行きのアメリカ商船で琉球に上陸(途中下船)、捕えられて薩摩に送られた。島津斉彬に厚遇され、外国事情の聞き取り、藩士への講義が行われた。その後長崎の幕府役人に引き渡されて長期の入牢、踏み絵、尋問を受けた。その後土佐藩に引き渡され、入牢し尋問を受ける。帰国して合わせて18ヶ月にわたる事情聴取を受けた。しかし、その知識経験が求められる時期が到来。土佐藩や幕府に重用されることに。

1853年(嘉永6年)のペリー来航。この時の通訳としては採用されなかった。まだ幕府内で外交交渉に万次郎を使うことに警戒感があったため徳川斉昭が反対(阿部正弘vs徳川斉昭)。

1860年(万延元年) 旗本に取り立てられ、幕府遣米使節団に通訳として随行、咸臨丸で渡米。出発前に神奈川領事館にいたヒコと出会っている。アメリカでは10年ぶりにホイットフィールド船長一家と再会している。

帰国後は、英語書籍の出版、教育者として開成所教授や、小笠原開拓などで活躍。しかし新政府で重用されることは無かった。

1898年(明治3年) 東京で没す。雑司ヶ谷霊園に埋葬


中浜万次郎肖像
晩年のもの


3人の漂流者の比較考察:

① ヒコはオットソンより18歳年下。ジョン万次郎より10歳年下。

② オットソンの遭難が一番古く1832年(天保3年)、続いてジョン万次郎が1841年(天保12年)、ヒコが1850年(嘉永3年)。それぞれ9年の時間差がある。

③  漂流時は3人とも13、14歳の少年。これは偶然の一致。物事の分別がつく年齢になっていたし、この若さが10年にわたる異国生活への適応、英語や異文化吸収に役立ったであろうことは想像に難くない。

④ オットソンは帰国を果たせず、イギリスに帰化。シンガポールに眠る。

1837年(天保8年)にイギリスの商船モリソン号で帰国を試みるが果たせず断念。その後イギリスの通訳として1849年、1854年に来日(日英和親条約締結の時)するも帰国せず。

⑤  ジョン万次郎は、開国前の日本に帰国を果たす。東京・雑司ヶ谷に眠る。

1851年(嘉永4年)帰国時は、ペリー来航(1853年)前、すなわち開国以前の「鎖国日本」であったため、入牢、踏み絵など長期にわたる取り調べを受けた。しかし、のちに幕府通訳として活躍、幕府遣米使節団に随行 新政府でも活躍。

⑥ ヒコは、帰国を果たせず、アメリカに帰化しカトリックに改宗。しかし開国後にアメリカ人として帰国(来日)。青山の外人墓地に眠る。

1853年(嘉永6年)のペリー日本遠征艦隊に便乗して帰国を試みるが果たせず。1859年(安政7年)すなわち開国後(日米通商条約締結後)に、日系アメリカ人として帰国(来日)したためジョン万次郎のような幕府の詮議は受けなかったが、攘夷派の襲撃対象にされた。

この3人は年齢も遭難時期も、帰国時期もそれぞれ10年ほどの時間差があるが、その10年の差が、この3人に異なった運命を与えたように感じる。変化スピードが速い激動期であったことを物語る。しかし、想像以上に当時の日本人は、異文化/海外適応能力が高い(そうせざるを得なかった事情を割り引いても)ことと、コスモポリタンなデラシネの資質を持っていることに気づかされる。16〜7世紀、戦国時代、大航海時代にも日本人がさまざまな事情で海外に進出していたことと(あのアンジロウやクリストファーとコスマス、またアンボイナ事件の日本人傭兵のような)合わせ、長い鎖国の時代のまどろみにあっても、一旦、島から出ざるを得なくなったら、覚醒しそこでサバイブする逞しさがDNAの深層に保存されていたをことを知り勇気づけられた。日本人は決して島国根性のガラパゴスではない!と。元来、海洋民族なのだ。


最後になってしまったが、今回のブログも神田神保町の北澤書店に大変お世話になった。貴重な書籍の発掘、紹介に改めて謝意を示したい。



2024年12月5日追記:

最近入手した、The Black Ship Scroll by Oliver Statler「黒船絵巻」で、日本にやって来たぺリー艦隊に日本人漂流民が一人乗っていた事が判明(ペリー艦隊日本遠征記に記述あり)

その人はSam Patch と皆から呼ばれた。著者のスタットラーは本名がMato Sanpachiではないかと書いているが、当時の庶民に苗字はなく、仙太郎(1832年天保3年〜1874年明治7年)という船乗りだった事がわかった。

仙太郎は彦蔵(ヒコ)と同じ栄力丸の乗組員で5歳年上。遭難ののちに彦蔵らと共にアメリカからマカオ、香港へ移されたが、彦蔵はペリー艦隊とは同行せず、仙太郎だけが香港からペリー艦隊サスケハナ号に乗船して日本へ。艦隊では簡単な通訳や乗員のサポートとしてよく働いたようだ。日本到着後、幕府側森山栄之助からの帰国許可、身の安全の保障を得たにも関わらず、死罪を恐れて帰国しなかった。ペリー艦隊と共にアメリカへ戻り洗礼を受ける。のちにミシシッピ号の乗員であったジョナサン・ゴーブル:Jonathan Gobleがバブテスト教会の宣教師として日本に渡るときに同道し、1860年帰国を果たす。しばらくは横浜外国人居留地から一歩も出ずにに暮らした。横浜パブテスト教会の創立メンバー。その後渡米、あるいはクラークに伴われて静岡や東京に移った。日本で死去。法華宗の寺に葬られる。

「ペリー艦隊日本遠征記」に、唯一の日本人漂流民の乗員、Sam Patchとして登場する。のちに宣教師として日本にSam Patchを伴ってやってくるジョナサン・ゴーブル:Jonathan Goble (1827-1891)も乗員の一人として名前が出てくる。この二人が下田に上陸したアメリカ人として日本人絵師に描かれている(下記参照)。

当時の漂流民が、いかに帰国を熱望しながらも、帰国後の処刑を恐れて帰国をギリギリで忌避した様子がよく分かる。自らの責任で漂流民となった訳でもないのに、彼らの置かれた理不尽な立場に同情を禁じ得ない。




「黒船絵巻」の日本通詞マトウこと
日本人漂流民Sam Patch:仙太郎

「黒船絵巻」のゲベルこと
のちに来日する宣教師Jonathan Goble