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2010年6月23日水曜日

久米寺の紫陽花



このブログ「時空トラベラー」を始めて、ちょうど一年が経った。

振り返ってみると、第一号が「大阪四天王寺の紫陽花」第二号が「矢田寺の紫陽花」。
6月の梅雨時に「創刊」しただけに紫陽花特集で始まったこの時空トラベル。

この一年、主に奈良のあちこちを歩き回って楽しませてもらった。しかし、この時空トラベル、奥深くてなかなか終点が見えない。3次元、4次元の世界をさまよい歩くが目的地の先に、また新たな謎の路が続いている。
こうして果てしない時空旅、迷宮旅は続く。

一周年特集号は「久米寺の紫陽花」というわけだ。

久米寺は奈良県橿原市、近鉄橿原神宮駅のすぐ横にある寺。
久米の仙人、そう、空中飛行しているとき川で洗濯する美しい娘の白い足を見て、通を失って墜落した、あの普通のオヤジの原点のような仙人で有名な寺だ。

寺自体は、真言宗御室派の寺院でご本尊は薬師如来。創建は聖徳太子の子、来目皇子と言われるが、由来は不明であるらしい。発掘によると奈良時代初期の瓦が出土していることからその時代の創建ではないかと言われている。

しかし、なんと言ってもこの久米仙人の話がユーモラスだし、人間臭くていい。実在のモデルがいたのだろうか。

この話の後日談を知ってる人はどれくらいいるだろう。この仙人、結局還俗してこの娘と愛でたく結婚したそうな。煩悩を解脱するのでなく現世利益を得た訳で、めでたしめでたし。

今は紫陽花とツツジで有名な名所になっている。この日も「あじさい祈祷」で大勢の善男善女、老若男女が押し掛けて、本堂で紫陽花の花が描かれたお札を頂く順番を待っていた。
関西では、人々にとって歴史的な寺院も単なる観光の対象ではなく、祈りという日常の生活の中の一部になっていることをここでも発見することが出来た。人々の顔が朗らかに見える。煩悩を解脱した聖人のそれではなく、久米仙人のようなそれだ。
















2010年6月22日火曜日

鎮守の森

 日本の農村の原風景は、広い田圃にこんもりした森。そこには小さな鳥居とお社。
童謡の世界で刷り込まれた日本人の原風景。

「村の鎮守の神様の
今日はめでたい御祭日
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
朝から聞こえる笛太鼓」

 東京と大阪を新幹線で往復する道すがら、車窓を流れる田園風景の中に、こうした「鎮守の森」を発見する。とくに米原と京都の間の近江地方の田園、里山にこのようなこんもりとした森と鳥居を多く見ることが出来る。

 最近は里山の破壊が問題になっている。里山はその昔には、村人の生活に必要な薪や落ち葉、キノコなど自然の恵みを生み出してくれる共有の場所(入会地)であった。しかし、エネルギー源としての薪に頼る時代ではなくなり、その経済的な価値が薄れると、徐々に里山が放置され、荒れ果て、やがては開発の波にのまれて消えてゆく道をたどりつつある。

 しかし、一方このような「鎮守の森」は信仰の場であることもあり、むやみに破壊してはいけない(バチが当たる、祟りがある)という抑制が働くのであろうか。東京や大阪のような都会のビルの谷間にも突然鳥居とお社が残されていることがある。こうして、田舎ヘ行けば行く程、田んぼの中に木立が残されている光景を目にすることが出来る。そこに日本人の信仰が引き継がれ、古代から今日にまで続く土地の人々の信仰と祭りの軌跡がまさに時空を超えて存在し続けていることに感動を覚える。

 ところで「鎮守の森」というのは、Wikiによると、「かつては神社を囲むようにして、必ず存在した森林のことで杜の字をあてることも多い。」と説明している。神社を遠景から見ると、たいていはこんもりとした森があり、その一端に鳥居がある。鳥居から森林の内部に向けて参道があり、突き当たりに境内や本殿が設けられている。森林の中央部が位置するようになっていて、森の深い方に向かって礼拝をする形になっている。鎮守の森は里山と並んで日本の原風景である。

 現在の、神社神道(じんじゃしんとう)の神体(しんたい)は本殿や拝殿などの、注連縄の張られた「社」(やしろ)に鎮座ましましており、それを囲むものが鎮守の森であると理解されているが、本来の神道の源流である古神道(こしんとう)には、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰があり、森林や森林に覆われた土地、山岳(霊峰富士など)・巨石や海や河川(岩礁や滝など特徴的な場所)など自然そのものが信仰の対象になっている。

 神社神道の神社も、もともとはこのような神域(しんいき)や、常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境と考えられたエリア、神籬や磐座のある場所に建立されたものがほとんどで、境内に神体としての神木や霊石なども見ることができる。そして古神道そのままに、奈良県の三輪山を信仰する大神神社のように山そのものが御神体、神霊の依り代とされる神社は今日でも各地に見られ、なかには本殿や拝殿さえ存在しない神社もあり、森林やその丘を神体としているものなどがあり、日本の自然崇拝・精霊崇拝でもある古神道の姿を今に伝えている。

 神道は仏教伝来以降の神仏混合や、天皇制による公地公民制の国家樹立の為に伊勢神宮を神の頂点にに位置づける動きや、さらには明治以降の国家神道の考え方に基づく廃仏毀釈、神仏分離、神社統合により、日本の土地に根ざした古神道の姿が見えにくくなってしまった。農耕を中心とした村、クニの守り神としての神道、産土神とか鎮守神とかいった土地に根ざした信仰、あるいは信仰以前の風習が、様々に変容してしまった為に、原始自然崇拝、精霊信仰としての神道がどのようなものであったのかわかりにくくなっている。

 このような神道の基本は縄文時代以来の自然崇拝、精霊崇拝であり、一木一草に神が宿る、八百万の神々といった多神教的な信仰である。そこには宗教的な教義や「教え」を記す書(仏典、聖書、コーランのような)はなく、一神教的なカリスマ指導者(仏陀、キリスト、ムハンマドのような)もいない。このような自然崇拝、精霊信仰は決して珍しくない(ケルト、ネイティブアメリカン等)が、それが形を変えつつも神道という宗教として現代まで続いているのは珍しいという。

 今、世に名高い神社や、由緒正しき官幣社など、明治維新後に格付けされた神社以外に、日本の各地にかろうじて残っている「鎮守の森」を訪ねると、こうした古神道の姿が時空を超えて蘇って来るような気がする。

 下記の写真は奈良県橿原市の本薬師寺跡近くの「鎮守の森」だ。見渡せば畝傍山や遠く金剛、葛城の峰峰、東山中の山並みに囲まれたヤマト国中。田植えを終えたのどかな田園地帯の真ん中に、こんもりとした、しかし小さな木立が残る。「春日神社」の石柱。木立の中には石造りの鳥居と狛犬二体。石灯籠二本。土塀に囲まれた小さなお社の前面に木造の拝殿が立っている。拝殿には奉納された絵馬がいくつか掲げられている。昭和8年建立と記されているから、比較的最近の再建だ。おそらくこの森は古代から守られ残されて来た神域なのだろう。そこに代々の農耕にいそしむ村人が代々、祠や社を建てて村の繁栄と安全と豊作を祈り続けたのだろう。

 農耕の民として自然を敬い畏れる、祖先を敬い、村落共同体の守り神を崇拝する、そのような原始宗教の祈りの場が今に伝えられていることを目の当たりにして、あらためて心が熱くなる。「鎮守の森」こそ、古代へワープする時空トラベルの入口だったのだ。






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2010年6月19日土曜日

藤原鎌足を巡る明日香の旅(2)多武峰談山神社

今年はまだ談山神社に行っていない。ちょうど一年前の田植え時、桜井からバスで談山神社へ行き、そこから明日香、石舞台まで歩いたことを思い出す。ヤマト国中を見下ろしながらのケモノ道、暗雲たれ込める二上山に大津皇子の怨念を感じ、権謀術数渦巻く飛鳥の地がなんとのどかで平和な里であることか。一番印象的な時空散策であった。

ここ談山神社は多武峰とよばれ、藤原鎌足を祀る神社だが、元々は妙楽寺という寺であった。
明治期の廃仏毀釈の動きなかで、僧侶は還俗、寺は神社となった。

しかし、境内に立ち入るや否やその建物の配置、たたずまいは伝統的な神社のそれではなく、仏教寺院のそれであることが見て取れる。ご神体を祀る本殿や鳥居は後の創建であり、藤原鎌足像を祀る拝殿は、明らかに仏教寺院の本堂。ランドマークの桧皮ぶき十三重塔はまさに仏教のシンボルだ。ご本尊はどこかへ移されてしまったのだろう。
廃仏毀釈という「文化大革命」の痕跡はここ談山神社にも残されている。

談山神社の背後には御破裂山というすごい名前の山がそびえている。
名前が示すように、太古には火山であった。時々天変地異や争乱の前に山が揺れた、と語り継がれた山で、いかにも鎌足ゆかりの多武峰にふさわしいおどろおどろしい山である。

ここは、いわゆる「大化の改新」の談合を行った場所として語り継がれており、中大兄皇子と中臣鎌足が密議をかわした峰が山頂近くに残っている。また、鎌足の墓もある。

この御破裂山に登り頂上の古墳から明日香が一望できる。なるほど、宮廷クーデタを語るには良いロケーションだ。西には二上山が望め、ヤマト国中が手に取るように見渡せる。飛鳥の宮の背後にそそり立つ場所であり、鎌足生誕の地、大原のさとからも近い。この倭国ヤマトという小さな世界の中での歴史的な出来事を思い起こさせるには絶好な舞台設定だ。それにしても箱庭的風景であることよ。

御破裂山を下り、明日香石舞台方面へ、向う。ちょうど田植えの時期で、明日香を見下ろす傾斜地の棚田はどれも水を張って鏡のように美しい。豊かな明日香の山里を彩る花々も美しい。所々で何かを燃やす煙が立ち上っている。
青い山と水を張った棚田のグラデュエーションがまことに美しい。

うまし國ぞ安芸津島ヤマトの国は...
























2010年6月14日月曜日

明日香に藤原鎌足の足跡を訪ねる(1)八釣小原の里

 今年の遅い梅雨を目前に、最後の晴れ間を利用して明日香に出でて逍遙す。
いろいろあったが久しぶりにつかの間の時空散策を楽しめるようになった幸せをかみしめながら。

明日香は田植えのシーズンだ。田んぼに水が張られ、水路には豊かな水が滔々と流れる。美しく豊かな日本の原風景だ。不動産バブルによる乱開発から、景観を守る為に設けられた土地利用、建築の様々な規制は、住む人達に多くの不便を強いているのだろう。また皮肉にも日本がそのような経済合理性優先の時代を通り過ぎて20年。経済の停滞が田舎を守る。明日香は独特の日本の原風景を残し、それが新たな資産となって地域を潤す循環に入っているように思える。

今回歩いた八釣、大原は明日香のメインストリートから東に外れた山あいの道沿いに点在する静かな里。藤原鎌足にゆかりの土地だ。その藤原鎌足(生前は中臣鎌足)は中大兄皇子を助け、大化の改新を断行した人物として歴史の教科書に名を残している。しかし、その実像にはかなり不明な点が多い。

伝承によれば、鎌足は東国に派遣された神官と大伴夫人との間にうまれた子。鎌子だとされている。その生誕地は(これにも諸説あるようだが)奈良県高市郡大原、すなわち現在の小原の地(大原の里にある大原神社)だとされている。

後に奈良時代、平安時代を通じて天皇家に寄り添い、姻戚関係を持って権勢を振るった藤原一族の始祖、とされるがその人物像は不明。彼の子供である藤原不比人が実質上の藤原家の権力基盤を築いた人物で、それを権威づける為に、大化の改新やその中での鎌足の偉業を後世脚色した、という見解もある。

生誕地である大原の里はいまは静かな山里で小原という地名になっている。ここには鎌足生誕地として苔むした大原神社が存在。すぐ近くには母親の大伴夫人の墓(円墳)がある。そして、その背後には鎌足を祀る談山神社と大化の改新を談合したと言われる御破裂山がそびえる。また、少し南へ下ると大化の改新の舞台となった飛鳥板蓋宮伝承地が。ここからは、かの蘇我氏の館があった甘樫丘が北西に望める。また北に蘇我氏創建の飛鳥寺(法興寺)が見える。

645年の「大化の改新」の歴史的意義は最近の研究で大きく改めらた。その名も「乙巳(いっし)の変」として宮廷内クーデターの一つとして認識されている。「大化の改新」が天皇を中心とした律令国家の確立のマイルストーンとされた理解は修正され、その政治的国家的大変革にはさらに時間を要し、683年の壬申の乱の終結、天武親政を待たねばならぬことは以前に述べた通りだ。

こうして見ると藤原鎌足がなぜ、天皇制確立の立役者であった、と後に評価されるようになったのかがよくわからなくなる。先ほど述べたような事情が後の藤原一族にあったのかもしれない。歴史書は後世に、しかも勝者によって書かれるものであるから、時代背景、時の権力者の意向などを斟酌しながら批判的に読み解いてゆかねばならない。

いずれにせよ、当時の倭国を取り巻く東アジア情勢は緊迫しており、特に朝鮮半島における百済と新羅の攻防は、倭国内を二分する争いになって行った。百済救済のためとして出兵した倭国は朝鮮半島白村江の戦いで唐/新羅連合軍に大敗する。斉明大王、中大兄皇子がここ飛鳥の地で、グローバルな視野で情報を収集分析し、新しい国家のビジョンを構想し、それに基づいた国内外の政策決定を的確に行っていたいたのであろうか。この出兵の失敗は何を物語っているのか。

まして鎌足が、彼の死の床を見舞った天智大王(中大兄皇子)に「私は戦では何の貢献も出来なかった」と語っていることが物語るように、この箱庭的ステージでの権力闘争に明け暮れ、そこで培われた世界観では、「倭国」の存在を中華帝国、唐に認識させるだけのパワーはうまれなかった。「日本」へのマイグレーションにはさらに試練を経る必要があった。

飛鳥は、多くの渡来系の氏族が割拠し、シルクロードの東の終点として、朝鮮や中国を始め、遠くはペルシャやローマ、ギリシャの文化の影響を残す地である。飛鳥の国際性をうたう文献が多いが、なぜかそのようなグローバルなパースペクティブの中に身を置いている実感がなかったのではないか。この飛鳥ののどかで、平和な心地よい囲まれ感を体感すると。日本人のDNAにこの日本の箱庭的な原風景と世界観が刻まれているような気がする。