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2026年2月7日土曜日

古書を巡る旅(75)イザーク・コメリン『東インド会社の起源と発展』〜ウィリアム・アダムスの日本への航海はどのように記録されているか?〜



表紙
初版本を正確に復元したファクシミリ版

オランダ連合東インド会社社章



アジアの女神の足元で、ポルトガル人と争う姿(左)と魅力的な財物に群がるオランダ人(右)が描かれている

イザーク・コメリン:Isaac Commeline (1598〜1696年)

「東インド会社の起源と発展」:Begin Ende Voortgangh van de Oost Indische Compagnie 全4巻1644初版〜1646年三版

編者のコメリンはアムステルダムの著述家であり出版事業者である。本書は、オランダ人の数々の航海を年代順に編纂したアジア航海記録集とオランダ東インド会社の内部資料に基づく活動記録集である。前者はすでに刊行されていたものを含むが、後者は、非公開であったはずのオランダ東インド会社の内部文書が含まれている。いわば「オランダ東インド会社40周年記念誌」的な記録集となっている。しかし、本書の巻頭にこの本の成立に関する事情を説明した記述はない。また東インド会社が正式に出版したものではないし、本書刊行にあたってそのような承認や協賛をした記述もない。いわばコメリンという出版を生業とする人物の企画出版物と見做されている。印刷は地図制作でも著名なヤン・ヤンソニウス。注目すべきは日本に関する記録が豊富であること。特にヘンドリック・ナーゲルの「東インド紀行」で引用されている東インド会社内部資料や、初代平戸商館長スペックスの駿府参府記録や、リーフデ号乗組員の日本での活動記録、平戸商館長カロンの「日本大王国誌」始め、内部文書引用に基づく詳細でかつ質の高い日本関連記事が収録されている。

第1巻は北回り航路(北極航路)探検記録。ヘンリー・ハドソンによる探検航海記(ハドソン湾発見など)。後半は東周りで初めてアジアに至った(バンタムに到達)コルネーリス・デ・ハウトマン艦隊(1595年)の旅行記ほか。1598年のヤコブ・ファン・ネック艦隊のアジア遠征(莫大な利益で成功)記録が掲載されている。オランダでは1595〜1602年の間で65隻がアジアへ向かい、このわずか5〜6年でアジア香辛料貿易で大きなシェアーを占めるようになった。

第2巻には、西回りマゼラン海峡経由で東洋へ向かう各艦隊の航海記録。中国、日本が新たなターゲットとなり、リーフデ号が参加したマフー艦隊の航海(1598年ロッテルダム出航)、ファン・ノールト船隊の世界一周航海記録「世界一周紀行」(1598)などが掲載されている。ノールト艦隊の日本船との遭遇記録がある。ただしマフー艦隊の記録は、航海を断念してロッテルダムに帰投したベールトの記録を元にしているため、リーフデ号の日本到着の記事はない。

第3巻はハーゲン艦隊、フェルフーフ艦隊の日本航海記録、1602年に連合東インド会社が設立され、日本とも1609年に正式国交が成立(朱印状交付)、平戸に商館が開設された。1611年の初代平戸商館長ヤン・スペックスの駿府参府日記や、リーフデ号乗組員クワッケルナック、サントフォールトの日本での活動に関する記録が収録されている。この中で「master Adams」という記述が現れる。これがウィリアム・アダムスの事であろう。彼に関しては、彼自身の手紙やオランダ・イギリス商館の記録が、その存在と活動を確認できる一次史料であり、本書の記事はこうした一次史料に基づく引用であり、その限りにおいてウィリアム・アダムスを想起させる人物が登場する。。

第4巻には日本向けの荷物のリストや、詳細な取引記録が掲載されている。出典は東インド会社の社内記録である。部外秘のはずの社内記録がどのようにして公開されることになったのかは不明であるが興味深い資料である。最後にはヘンドリック・ハーゲナールの「東インド紀行」が掲載されている。ハーゲナールは1634年から3回日本に渡り平戸に一年以上滞在し、江戸参府にも同行している。その付属資料として、5点が収納されている。その一つが平戸オランダ商館長フランソワーズ・カロンの「日本大王国誌」の元となったバタビア商務総監向け日本報告書(1645年)。ガイスベルトゾーンの「日本殉教史」、クラーメルの「後水尾天皇行幸見聞記」などが掲載されている。このように、第4巻は東インド会社の記録をもとに日本に関する重要で質の高い情報が記載されている。


イギリス人航海士ウィリアム・アダムスとオランダ・マフー艦隊の悲惨な航海

このようにウィリアム・アダムス個人に関する詳細な活動記録は見つけることができないのだが、彼が航海士を務めたリーフデ号、所属マフー艦隊の航海については上述のように記録されている。ここでイギリス人航海士ウィリアム・アダムス所属のオランダ、ハーゲン船団のマフー:Mahu艦隊の航海を振り返っておきたい。日本とオランダ、イギリスとの出会いは、このオランダ船に乗船していたイギリス人の初めての日本上陸に始まる。このマフー艦隊は、イギリスのキャベンディッシュ:Cavendish艦隊の世界就航、その私掠船活動から上がる莫大な利益という「海賊モデル」に刺激され、オランダの投資家の資金で編成された船団の一つである。1598年、ロッテルダムを出港して、西回りでマゼラン海峡経由で東洋を目指すという、当時のオランダとしては画期的な航海であった。しかし、その結果は悲惨な航海であった。マフー艦隊は次の5隻から構成されていた(これらの艦隊航海の記録は本書「東インド会社起源と発展」イザーク・コメリン編著に詳説されているが、他の資料からの情報を加えて振り返ってみよう)。

ホープ:Hope号(希望)500トン、130人、船長ジャックス・マフー:Jaques Mahu(艦隊司令官)旗艦。

リーフデ号:Liefde(愛)350トン、110人、船長シモン・デ・コルデス:Simon de Cordes(艦隊副司令官) (旧船名:エラスムス号)

へローフ号:Gheloove(信仰)350トン、109人、船長ヘリット・ファン・ブーニンゲン:Gerrit van Beuninghen

トラウ号:Trauwe(忠実)250トン、86人、船長ユーリアン・ファン・ボックホルト:Ieauriaen van Bockhout

ブライデ・ボートスハップ号:Blijde Boodschap(福音)150トン、56人、船長セバルト・デ・ヴェールト:Sebalde de Weert

途中、指揮官マフーは出港後3ヶ月でアフリカ西岸のベルデ岬付近で熱病に感染し病死。副官のコルデスが指揮官となり、艦隊の指揮系統の再編が行われる。航海士のウィリアム・アダムスはホープ号からリーフデ号に乗り換えた。リーフデ号に乗船していたディルク・ヘリツゾーンはブライデ・ボートスハップ号の船長になり、セバルト・デ・ヴェールトはへローフ号船長となる。こうして再出発したものの、航海中に多くの乗員が熱病や壊血病で死亡したり、敵対的な先住民、ポルトガル人との戦闘で乗員の命が失われた。マゼラン海峡通過は、猛烈な嵐に見舞われ困難の連続で、艦隊はバラバラになってしまう。出港後10ヶ月、5隻のうちマゼラン海峡を通過して太平洋に出て再会を果たしたのはホープ号とリーフデ号だけであった。難破状態であったへローフ号はオランダのファン・ノールト艦隊とマゼラン海峡で遭遇し、救助と支援を要請したが、ノールト艦隊にも余裕がなく拒否される。へローフ号は乗員の反乱がピークに達したため船長のヴェールトはロッテルダムへの帰投を決断した。この時点の生存者は36名と、出港時の三分の一に減っていた。このヴェールトの航海記がコメリンの「東インド会社起源と発展...」第2巻に掲載されている。この他、トラウト号は単独でマゼラン海峡を越えモルッカ諸島に到達したが、現地のポルトガル人に捕らえられて多くが処刑されたが、捕虜として生き残りオランダに帰れたもの数人いる。ディルク・へリツゾーンのブライデ・ボートスハップ号は航行不能となりスペイン支配下のバルパライソ(ペルー)に入港し全員が捕虜となった。そのうち11名はその後オランダに帰還した。ちなみにこのディルクはアジアに24年滞在し、ポルトガル人に雇われて長崎にも2年滞在していたことがあった(この時の体験をリンスホーテンに語り、それに基づくと思われる日本の記述が「東方案内記」に掲載されている)。今回の航海で、初めて母国の船で日本を再訪する事を夢見ていたが叶わなかった。ホープ号は太平洋ハワイ諸島付近で嵐に巻き込まれ行方不明になり、結局リーフデ号だけが1600年3月、日本に到達する。そのリーフデ号の豊後到達も「漂着」といった方がふさわしい有様で、出港時110人いた乗員はこの時点で24人になっていた。3人が到着翌日に死亡。その後病死した3人があり、結局18人(14人という説も)が生存していたが、到着時に立ち上がることができたものは7人だけだった。船長のクァッケルナックは到着時には衰弱激しく、代わってアダムスが日本の役人に対応し、大阪へ連行された。

このようにマフー艦隊の航海は悲惨なものとなり、利益を上げるどころではなかった。出港時に491人いた乗員のうち、再び祖国の土を踏めたのは50人ほど。そのうち36人は途中で引き返したへローフ号の乗員で、捕虜となって帰還できたのは14名ほどしかなかった。また皮肉なことに、日本に到達し、誰一人捕虜にならなかったリーフデ号の乗員14人は、誰も帰国していない。こうした航海事業への投資は、多くの人命と船舶を失う究極のハイリスク投資で、「ハイリターンか、無一文か」という過酷なものであった。それでも欲望に駆られて、一攫千金型ハイリターンの僥倖を狙う執念というか、人間の業の凄まじさを感じる。冒険者とはそういうものである。記述の通り、コメリンの「東インド会社起源と発展」には、途中でオランダに引き返したヴェールトの航海記録が掲載されているためリーフデ号の日本到達の記録は出てこない。オランダ船隊として初めて世界一周に成功し、故国に帰還できたたファン・ノールト艦隊が、航海途中ボルネオ沖で日本船と遭遇し、そこでリーフデ号の日本到達と乗員の生存を知り、ノールと艦隊帰国と共にオランダへ伝わった。



第二巻冒頭にマフー艦隊の5隻が紹介されている
途中でオランダに帰還したへローフ号船長セバルト・デ・ウェールトの航海記録が元になっているので、リーフデ号の日本到着は記述されていない。

大西洋 アフリカ西海岸・ベルデ岬に集結し、ポルトガルのプライア砦を攻撃する艦隊

大西洋 ギニア湾 ポルトガルのアンノボン砦を攻撃する艦隊1609年

太平洋 南米チリ、サンタマリア島(スペイン領)沖を通過
5隻の艦隊はバラバラとなり、ホープ号とリーフデ号だけになっている
ここから5ヶ月かけて太平洋を横断してリーフデ号だけが日本に漂着する(本書には記載されていない)

 ノールト艦隊が遭遇し襲撃しようとした日本船

ボルネオで出会った日本のサムライ(傭兵か?)


リーフデ号の人々

リーフデ号とその乗員については、先述の通りクァッケルナック、サントフォールト、アダムス、ヤン・ヨーステンなどの名前が本書で確認できるが、そのほかの乗組員の名前や消息については、コメリンの本書には記録がない。またリーフデ号航海記録などが失われているので、アダムスが日本から同僚や家族に宛てた手紙の中で語られているものや、オランダ商館やイギリス商館の記録、手紙などに出てくる記述を拾い集める必要がある。。アダムスの手紙によると、先述のように出港時110人であったリーフデ号乗員は、18人(14人説も)が生存して日本で生活始めたことになる。

我々の歴史の教科書で知っているリーフデ号生存者で後世に名前が残っているのはアダムス(三浦按針)のほか、ヤン・ヨーステン(耶揚子)くらいだが、他にも、先述の漂着時にリーフデ号の船長であったヤコブ・クワッケルナック、書記であったメルヒオール・サントフォールトがおり、この二人の日本での活動についてははコメリンの本書にも登場する。その活動は次のようなものであった(本書に記録されているもの以外のソースから)。家康の許可を得て、バタニのオランダ東インド会社に向かい、貿易許可書を渡し、日本への来航を促そうとしたが、バタニ商館はポルトガルとの争いで忙しく、十分な商業活動がまだ開始されておらず、日本に向かう余裕がなかった。二人は虚しくバタニを離れ、クッケルナックはその後、現地でオランダ艦隊に加わり戦死する。サントフォールトは日本に戻り、長崎で商人として活躍。幕府やオランダ商館とは一定の距離を置きつつも、日蘭の交流史の中では重要な役割を果たした。アダムスよりもはるかに長い40年を日本で暮らした。リーフデ号生き残りの中では一番長い。その後バテレン追放令に伴い台湾へ、そしてバンタムへ移り住みそこで亡くなった。こうした活動は、オランダ商館やイギリス商館の記録、手紙などで窺い知ることができる。この他にも日本に定住した元乗員がいる。多くが平戸や長崎、堺などを拠点に貿易、航海に携わり、東アジアや東インドを舞台に活躍していた様子が伝わる。彼らの帰国を願い出る手紙や、故国に残してきた家族への想いなど、本国への帰国を願う気持ちも読み取れるが、それでも「神によって与えられた新天地」で、新たな活躍の場を得た「海の男たち」の挑戦者としての意気込みが感じられるのが感動的である。「人生至る所青山あり」。

リーフデ号乗員については、「リーフデ号の人々」ー忘れられた船員たちー 森良和著 学文社 に紹介されている。上記のウィリアム・アダムス、ヤンヨーステン、メルヒオール・ファン・サントフォールト、ヤコブ・ヤンツゾーン・クワッケルナックの消息、日本での活動状況について詳しく紹介されているほか、他の10名の知りうる限りの消息が記載されている。またクレインス桂子氏の記事にはこの本に紹介されていないもう一人のリーフデ号船員の消息が紹介されている。拙ブログ「2020年9月15日「ヤン・ヨーステンとは何者か? リーフデ号の生き残りとその後」を参照いただきたい。


ウィリアム・アダムスの生い立ち

1564年、イギリス南部のケント州ギリンガム生まれ。この頃のイギリスはプロテスタントの女王エリザベス一世が王位についたが、強大なカトリック国スペインの脅威に慄く辺境の島国であった。国内ではカトリック勢力による王権簒奪の危機にさらされていた。一方、イギリスはこの頃から徐々にローリーによる北米大陸への進出、植民地化が始まり、ホーキンスやドレイクといった私掠船船長(海賊)が海上でスペイン船を襲い財物を略奪するという荒っぽい活動を起こしている時期で、大国スペインとの戦争の危機が迫っていた。アダムスはこんな時代に幼少期から青春時代を過ごした。かれは上流階級出身ではなく庶民階級の出である。しかし子供の頃に学校には通わせられて読み書き計算は教わっている。当時の庶民の識字率は極めて低く、学校に行くケースは稀であったので、それなりの教育を受けさせることのできる家庭であったのであろう。12歳でロンドンの東、テムズ河畔のライムハウスで船大工のディンキンス親方の工房に弟子入りし修行を積む。この頃のイギリスはスペインとの戦争や海外進出の時代で、大型の外洋船建造ニーズが非常に高まっていたので船大工は人気の職業となっていた。しかしこれがやがて日本で役に立ち彼が三浦按針として家康に取り立てられる基礎となる。

やがて彼は24歳でイギリス海軍に入り、1588年のドレイク艦隊のアルマダ海戦(スペイン無敵艦隊を撃破した海戦)に補給船ウィリアム・ダフィールド号の船長として参戦。イギリスの、いや世界の歴史を変えた海戦の当事者として戦場を経験した。戦後、海軍を退役すると、西アフリカとの貿易を執り行うバーバリー商会に入るが、おそらくもっと大きな夢を求めていたのであろう、オランダの世界就航プロジェクトに応募。ビーテル・ファン・デル・ハーゲン船団のマフー艦隊の航海士として参加することになる。造船技術と航海術、海戦経験を有する貴重な人材であった。若きアダムスの人物形成過程はこのようなものであった。これが彼の苦難の航海と、その末の日本での数奇な人生の始まりであった。



2025年10月10日金曜日

古書を巡る旅(70)The Voyages And Adventures of Ferdinand Mendez Pinto  〜「種子島に鉄砲を伝えた」と自称するポルトガル人メンデス・ピントの『遍歴記』英訳版〜

1897年「The Adventure Series」の一冊として復刻されたもの。装丁は「冒険小説」をイメージさせるものとなっている。
 London, T.Fisher Unwin刊行である。

フェルナン・メンデス・ピント (1509~1583)(Wikipedia)

これまで「古書を巡る旅」でも、18世紀のイギリスで刊行されたデフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』(古書を巡る旅(62)『ロビンソン・クルーソ』)やスウィフトの『ガリバー旅行記』(古書を巡る旅(68)『ガリバー旅行記』)などの冒険小説を取り上げた。この二つの作品は、ノンフィクションの体裁をとったフィクションであったり、奇想天外な架空の国々に仮託した風刺小説:Satierであったり、要は旅行記と言いながら文学作品である。今回紹介する17世紀のポルトガル人の「冒険物語」は、16世紀後半の大航海時代に実際に冒険者が体験した、未知の国々での出来事、実在の偉人の事績を語るノンフィクションである。作者は自分の数奇な冒険旅行体験を一人称で語り(自伝)、あるいは自分の目で見たり伝え聞いた珍しい話を語る(見聞録)。と言いながらも事実の中に存在の不確かなロマンを盛り込み、空想も真実の延長だだと言わんばかりの、検証不能なストーリーを随所に散りばめた、いわば「虚実ないまぜの物語」でもある。「大航海時代」という時代空気を反映した、未知の世界に船出した冒険者たちの真実と空想のハイブリッドストーリー。そしてこれを書き残すことで「オレは歴史を作った」という自己主張のナラティヴである。間違いなくこの16世紀のポルトガル人冒険家の記録は、18世紀のイギリス人作家が「ロビンソン」や「ガリバー」を着想する原点となったであろう。


ピント『遍歴記』とそのインパクト

その「冒険物語」とは、16世紀のポルトガル人の冒険家、商人、著述家、フェルナン・メンデス・ピント:Fernao Mendes Pinto(1509〜1583)『Peregrinacam:遍歴記』である。彼がどんな人物であったのか詳細な経歴は不明であるが、インドから東洋を股にかけ、20年余にわたって旅した冒険商人であった。これはその自伝であり東洋見聞録である。ピントは旅から帰国すると、その記録を1569年頃から書き始め、1578年に全文を書き終えたとされる。この時ピントはほとんど無一文の貧困状態であったと言われている。その写本が出回り人気博したようだが、なぜかピントの生前には刊行されず、彼の死後31年経った1614年にポルトガルで初版が刊行された。その後『遍歴記』はヨーロッパ各国語に翻訳され、イギリスでは1663年にHenry Coganによって英訳刊行された。今回紹介する『メンデス・ピントの航海と冒険:The Voyages and Adventures of Ferdinand Mendez Pinto』である。彼自身の実体験をもとに書かれたという点では先述のデフォーやスウィフトの架空の冒険小説とは異なる。ただ、かなり粉飾された誇張や創作が含まれるフィクションだとの評価がある一方で、東洋の現地に出向いた実体験をもとに書かれた記録で、必ずしもホラ話や想像による記述とも言えない説得力を持っているという評価もある。常にフィクションなのかノンフィクションなのか論争がつきまとう厄介な作品である。

この英訳版が出された時期は、ヨーロッパ各国で16世紀の「大航海時代第一ステージ」の、スぺインやポルトガルによる航海、海外での植民地獲得や商業活動や、キリスト教布教活動の記録が多くの言語に翻訳され刊行された時期である。もちろん国家や教団としての公式記録は門外不出で、少なくとも当時は情報規制があったが、商人や冒険者個人の記録は比較的出回ったようだ。東洋への関心が高いものの情報量が限られており、ポルトガルの商人でマカオ拠点に活躍したトメ・ピレスの『東方諸国記』(1515年)が初めてのアジアに関する体系的な記録で、1595年のオランダ人リンスホーテンの『東方案内記』が出るまで長く唯一の東洋関連情報源であった。ピントもこの『東方諸国記』を読んだのであろう。そしてこのピントの『遍歴記』もそうした「東洋情報ハングリー」な「大航海時代第二ステージ」の新興国イギリス、オランダ、フランスにとって注目の情報源となった。英訳版が刊行された1663年は、ちょうどイギリスは「王政復古」の時代であり、大航海時代のポルトガルやスペインの記録、文献の研究翻訳が進められた時代である。イギリスはオランダとの海洋覇権争いに勝ち、撤退を余儀なくさせられていた東インド、日本への再進出を試みた時期である。ジェームス2世は1673年に日本に東インド会社のサイモン・デルポーを使節として送り、1623年に撤退した平戸(あのウィリアム・アダムスの仲介で開いた)にかわり長崎での交易再開交渉を行った。結局はこの交渉は失敗するが、改めてアジアへの挑戦が始まり、その研究が進められた時期と重なる。ジョン・ドライデンの英訳『ザビエル伝』は1688年の刊行。その元ネタとなったドミニク・ブーフのフランス語訳は1682年の刊行である。オランダ人地理学者にして著述家のアルノルドス・モンタヌスがイエズス会報やポルトガル/スペイン人の著作や手紙、オランダ商館長の江戸参府報告などをもとに『東インド会社遣日使節報告』を著したのが1669年。その翌年1670年には早くも英訳が刊行された。ちなみにモンタヌスは日本にも東洋にも行っていない。イギリスやオランダなどの後発「海外進出国」がスペイン/ポルトガルの「大航海」「大発見」時代の足跡を辿ることで、海外情報キャッチアップしようと翻訳本が盛んに出版された。イギリスやオランダの海洋帝国への道は、先行するスペイン、ポルトガルによって地ならしされたと言っても過言ではない。2021年11月17日古書を巡る旅(17)聖フランシスコ・ザビエル伝:ドライデン英訳021年12月12日東西文明ファーストコンタクト第一章「バテレンの世紀」ポルトガル人、スペイン人の日本見聞録


日本渡航関係記事

ヨーロッパ人にとって東洋進出のメインターゲットは、インド、東インド(東南アジア)、そして中国であった。そこはヨーロッパにはない香料や銀、綿、茶、絹織物や陶磁器など豊かな財物の宝庫であり、一攫千金を求める冒険商人が群がる開かれた市場であった。その中で「偶然に発見」したのが日本であった。13世紀マルコポーロが「黄金の国ジパング」として紹介し、大航海時代の幕開けのきっかけになったとさえ言われたジパングは、16世紀にはすでに「おとぎばなし」として冒険的商人に忘れられた存在となっていた。インド、マラッカ拠点に中国沿岸や琉球で交易に参画していたポルトガル人が偶然に漂着した島が種子島であり、初めてヨーロッパ人が日本に出会った。これをきっかけに日本本島にもポルトガル人、スペイン人が訪れることになる。まさにこうした「日本発見」という歴史的出来事を記述したのがピントの『遍歴記』なのである。今回入手した英文版の中から特に日本渡航関係に絞ってその要点を整理してみた。ピントは合計で4回日本に渡航したとしている。


第一回:
中国人海賊のジャンク船で種子島に漂着した3人のポルトガル人の一人として登場する。「ここがあの幻の「ジパング」か!われこそ初めてそのジパングに上陸したヨーロッパ人だ!」と「日本発見」の瞬間を興奮気味に記述している。種子島の王Nautaquim(種子島時堯(直時)のことか?)は好意的で歓待してくれた。漂着したポルトガル人の一人Diago Zaimotoが鉄砲と火薬を種子島の王Nautaquimに売却。王は夢中になり瞬く間に自分たちで鉄砲も火薬も製造することができるようになり、5ヶ月半の滞在中に600丁の鉄砲を製造したとある。やがて日本中に鉄砲が広まったと書いている。種子島滞在中、豊後王の使いが来て会いたいというので、ピント一人がそこから豊後に渡り王に会い歓待を受けた。王の次男のArichandono(誰のこと?)が大いに鉄砲に興味を持ち勝手に取り扱って事故に巻き込まれる。この事件でピントは罪に問われそうになるが、許されて無事豊後を離れる。この後琉球:Lequio島への航海を経てマラッカに戻る。ポルトガル人の種子島来航、鉄砲伝来は1542ないしは43年と考えられているが、ピントの記録によれば1544年とある。

第二回:
マラッカから種子島経由で日本へ第二回目の渡航。第一回の渡航(漂着)から帰って後、Liampoで「私たちが発見した日本には、大量の銀があり、中国で得た商品と交換し大儲けした」という話を広め、日本渡航を企てるポルトガル人が殺到するが、ほとんどが嵐で日本に辿り着けず琉球で捕虜になったものもいたという。その中でピントはアジア諸国を巡った後、再び種子島経由で日本渡航に成功し豊後府内に向かう。しかし豊後の王一族の騒乱(1550年の大友家の内紛「二階崩れ」のことか?))に巻き込まれて命からがら脱出。豊後での商売は失敗する。しかし鹿児島で大儲けができた。1547年1月16日に2人の逃亡日本人を連れて鹿児島、中国経由でマラッカへ。そこでイエズス会インド布教区のフランシスコ・ザヴィエルと出会う。鹿児島から連れてきた日本人「Anjiro:あんじろう」を改宗させ、ザヴィエルに引き合わせたとしている。

第三回:
ザヴィエルの日本渡航と布教活動の話が中心となる。ザヴィエルは「あんじろう」と共に1549年8月15日鹿児島上陸。平戸、ミヤコ(公方様:Cubuncamaに謁見するため)へ布教の旅に出る。ミヤコは戦乱で荒廃していて布教活動の成果があがらなかったので平戸へもどり、山口で布教活動。3000人を改宗させた。さらに豊後に向かい1551年に豊後王(大友義鎮/宗麟)に謁見。ボンズ:Bonz(仏教僧)と宗論を展開し説き伏せた。王は政治的理由で結局この時はは改宗しなかった(1578年に改宗するが)。ここではピントはザヴィエルに同行したのではなく、豊後で出会ったように書かれている。その後、ザヴィエルは日本布教のためにはまず中国布教が重要と考え日本を離れ中国Sanchao(三州)へ渡航。ピントは別れてSanchao経由でマラッカに向かった。1552年12月2日ザヴィエルはSanchaoで病を得てそこで没す。遺体をマラッカへ移送。ピントは生きているかのようなザヴィエルの遺体を目撃したと記述。1553年12月23日ゴアへ、壮麗な葬儀が執り行われた。ピントは豊後王からインド副王への親書を手渡し、布教のための神父派遣を要請したとする。  
ザヴィエルの日本における布教活動の事績はイエズス会記録や書簡に詳細に記述されており、このピントの記録のどこまでがこうした記録からの引用でどこからが実体験なのか不明な点が多い。

第四回:
ザヴィエル亡き後、イエズス会Belchior神父(メルシオール・デ・フィゲイレド(Melchior de Figueiredoのことか?の日本渡航に随伴したとする。ピントはこの時インド副王:Francisco Barretの大使という重要な役目で日本に向かった。ここは一人称単数でその模様が記述されている。ピントの第四回目の渡航である。1554年4月16日ゴア出発。1556年5月7日苦労の末に豊後府内到着 臼杵にいた豊後王が府中に戻り謁見。インド副王の親書を手渡した、神父一行は王に大いに歓待されたが、しかし王の改宗には至らず1556年11月4日に離日。ゴアに戻る。この頃ピントはイエズス会に多額の寄進をしており、そのことはイエズス会の記録にもある。この記述は実体験によるものと考えられている。

その後、ピントは1558年9月22日にポルトガルに帰国。インド副王による彼の業績を讃える証明書とともに、東洋での彼の活動業績、母国への貢献を訴える手紙を国王に上奏し、恩賞/年金を請求するが認められなかった。ちなみにポルトガル船の長崎来航は1567年、織田信長のルイス・フロイス謁見は1569年。大友宗麟の受洗が1578年。天正遣欧使節1582〜90年である。晩年のピントはこのような(彼が切り開いたとする)日欧の交流の進展をどのような思いで聞いたのであろう。1578年に「遍歴記」の筆を置き、貧困のまま1583年に没している。


『遍歴記』の史料としての評価

彼は、1543年(天文12年)に「自分は種子島に漂着した(日本を発見し上陸した)ポルトガル人の一人である」「日本に鉄砲を伝えたポルトガル人である」。さらには1549年に「アンジロウをザビエルに引き合わせ日本布教を助けたのは自分」と主張している。日本史の画期となる出来事に悉く立ち会っているというわけだ。マルコ・ポーロの「ジパング伝説」以来忘れられていた日本。ピントのその「日本再発見」という臨場感あふれる「証言」はヨーロッパにインパクトを与えたことだろう。彼自身が日本に来たのは事実で、イエズス会の布教活動を支援したのも事実であると考えられている。イエズス会記録(後述のジョアン・ロドリゲス『日本教会史』など)や書簡にも彼の名前が登場する。イエズス会に入会し、多くの財産を寄進したこと。またマカオでザビエルの遺骸に出会い、そのまるで生きているかのような姿に涙したこと。これらはピント自身の体験をもとにした記述であろう。しかし、ザヴィエルの日本における布教活動に関する事績などはやはりイエズス会記録などに基づく伝聞であろうし、鉄砲伝来譚などは、後述するがポルトガル側の記録や書簡があまり残っていないので、誇張や、事実と異なるエピソードも多く含まれていると思われる。ドライデン英訳『ザヴィエル伝』には「あんじろう」との出会いの記述があるが、日本から何らかの罪を問われて逃亡してきた人物とされている点は一致するが、誰が引き合わせたかという記述はない。

『遍歴記』はピントの帰国後の1569〜1578年頃に執筆されたものと考えられており、この時には既にイエズス会記録や書簡などの先行資料は入手可能で、執筆にあたって参照、引用(借用)できた事だろう。1614年の出版後はヨーロッパで『遍歴記』は冒険物語として多くの読者にもてはやされたが、本国では「法螺吹きピント」とあだ名をつけられ、「ピントのような嘘をつく」という言葉が流行ったという。1620〜1634年頃まとめられたイエズス会通辞ジョアン・ロドリゲス(ルイス・フロイスの後任として日本で20年以上にわたり布教活動に携わり『日本文典』などの著作もある)の『日本教会史』ではポルトガル商人ピントと彼の『遍歴記』に言及している。そのなかで彼が日本に来ていたことは認めているが、彼の話(種子島鉄砲伝来当事者である、豊後でのザヴィエル布教活動に関する一連の行事に関する記述)は作り話で娯楽のために後に創作したと思われると書いている。ロドリゲスは20年以上の日本(長崎)滞在経験から、ピントの記述を仔細にみると、実際の現地の地形や街の様子、人々の風習などを知らない者が書いたものとしか思えない、と実証的に「史料批判」を行っている。こうしたことから、常にこのピントの『遍歴記』にはその内容の信憑性について論争がつきまとう。たしかに史実を裏付ける一次史料としては信頼できない部分が多いが、全体としては彼のアジアでのリアルな体験、見聞に基づく記述が含まれており、東西交流史の側面史として、また歴史研究の二次的史料として無視し得ない著作であると考える。また当時のヨーロッパ人の東洋観、日本観、認知度合いが描かれている点でも貴重な著作だ。「歴史書か文学書か」という問いは置いておいて、その内容はユニークかつ極めて興味深い。


「鉄砲伝来」その時ピントは種子島にいた?

本書で最も話題となるピントの「鉄砲伝来譚」をもう少し詳しく見てみよう。ポルトガル人の種子島上陸(ヨーロッパ人による「日本発見」、日本人の「初めてのヨーロッパ人遭遇」)と鉄砲伝来に関する記録は、日本側では、南浦文之(なんぼぶんし)の『鉄砲記』1606年があり、ヨーロッパ側では、アントニオ・ガルバン『世界新旧発見史』1563年などがある。いずれも伝聞による後代の記録であり、現地におけるリアルタイムな出来事を伝える史料ではない。種子島家に伝わる『種子島家譜』には時堯が鉄砲を買ったことが記録されておりこれが唯一のリアルタイム記録である。『鉄砲記』は江戸時代初期に刊行されたもので、これによると100人ほどが乗船する異国船が種子島の海岸に漂着。ほとんどが中国人で、その一人の儒学者王直(明国の倭寇の頭目のことか)と筆談で会話したとある。数人の明らかに中国人とは異なる風体の異人がいて、かれらはポルトガルから来た商人であると王直に説明されたとある。その後ポルトガル人からの鉄砲、火薬の入手の経緯や製造方法の習得に関する詳細な記述があり、全国に瞬く間に広がって行った経緯についても書かれている。これが現在では鉄砲伝来に関するもっとも信頼される史料であると考えられている。ここでは鉄砲伝来は1543年となっている。その時ピントはそこにいたのか?しかし少なくともピントらしき人物の名前は出てこない。しかしピントの記述にある鉄砲を売ったポルトガル人の同僚Diago Zeimotoは、ガルバンの『世界新旧発見史』1563年にも登場する。ピントがその場にいた目撃者であったかの印象を与えるが、記述の年代から見てガルバンの記事の引用かもしれない。無論ピントが(彼の死後に刊行された)日本の『鉄砲記』を参照したことは考えられない。

先述のジョアン・ロドリゲスも、この話はピントの娯楽を目的とした作り話だとしているが、彼が日本にいたことは認めている。『遍歴記』そのものは、自身の東アジアでの島嶼部探検の実体験に基づくもので、東シナ海ではポルトガル人は中国人倭寇と一体となって密貿易や海賊行為に従事していたことが仔細に記述されている。したがってピントが中国船ジャンクで琉球や日本沿岸を航行し、「鉄砲伝来その時」に種子島にいなかったとしても、その途中で種子島に上陸し、さらに日本本土に渡航したとしても不思議ではない。フランシスコ・ザビエル、イエズス会宣教師達もこうした中国ジャンク船で鹿児島に渡っている。ピントの「ホラ話」の中の誇張や、「盛った」話を丁寧に取り除いてみれば、そこに史実を読み取ることができる。考えてみれば「歴史書」や「記録」というものは、事実だけを客観的に記述したものではなく、編纂者や記録者の意図が反映され多かれ少なかれ粉飾があるものである。それは国家の正史であれ、社史であれ、個人史であれ同じである。歴史研究にあっては、常に史料批判の対象となるわけだが、事実はともあれ話としては「その時ピントは種子島にいた!」の方がワクワクする。そして「歴史的事件の目撃者」としての報告は、それが「フィクション」でも「臨場感を感じる。それがまさにピントの狙いであったに違いない。


1663年ヘンリー・コーガンの英訳版表紙
ポルトガル人が用いた最新鋭のフスタ船

アジア人

インド以東のアジア図 日本は左上に位置する


以下に掲載するのは、ピントのポルトガル語オリジナル版1614年刊行の復刻書籍である。

こちらは「遍歴記:Peregrinacam」1614年リスボン刊
天理図書館善書復刻版

「遍歴記」表紙


参考過去ログ:

2025年2月10日月曜日

「アンボイナ事件」とは? 〜17世紀イギリスとオランダの海洋帝国覇権争いと日本〜

 

17世紀のアンボイナ島(Wikipedia)

17世紀のアンボン砦(Wikipedia)

現在のアンボイナ島(Wikipedia)

モルッカ諸島全域図
中心にAmbon(アンボン)とBanda Islands(バンダ諸島)の地名が見える


アンボイナ事件

1623年、香料の一大産地であったモルッカ諸島のアンボイナ島で起きた事件は身の毛もよだつ凄惨なものだった。イングランドの商館長と館員、日本人傭兵が、オランダ商館のオランダ人によって拷問の末に処刑された。その拷問は書くのも憚られるような執拗で残忍なもので、その模様が図入りで記録として残されている。この商館員達の無惨な死がイングランドに伝えられた時には、国王ジェームス1世をはじめ国民全体が大きなショックを受ける。それまで友好国だと思っていたオランダに対する強い憎悪と非難が沸き起こった。この事件は、イングランドが東インド諸島(現在のインドネシア)の香料スパイス交易のサークルから撤退を余儀なくされた事件として記憶され、以降アジア進出のターゲットがインド亜大陸に向かうこととなる一大転換点となる。オランダはその東インド交易の覇者になるが、これがイングランドとオランダの間で3次ににわたる戦争を引き起こすきっかけとなり、さらに両国のその後の海洋帝国の明暗を分けることになる。

事件が起きたアンボンは、「香料諸島」として知られるモルッカ諸島のアンボイナ島の中心都市。現在でも同地域の州都である。戦時中は日本の海軍も駐留していた。イエズス会のフランシスコ・ザビエルも布教に訪れたことがある。最初にやってきたヨーロッパ人はポルトガル人で、1513年に香料の原生林獲得を目指して入植、原住民を駆逐して砦を築いた。のちに1605年にはオランダ人ステファン・ファン・デア・ハーゲンが入り、ポルトガル人を追い出し、多くのポルトガルに協力した原住民を殺害して砦を構築。1610〜1619年までオランダ東インド会社の拠点とした。のちに拠点は1000キロ離れたバタビアへ移転するが、オランダがナツメグ、クローブなどの香料交易を独占した。やがてイングランドとオランダの本国では、英蘭両東インド会社での共同開発の合意がなされ、1615年にイングランドはアンボンの近郊カンベロに居住地を設置した。しばらくはオランダのアンボン砦の一角を占めるなど共存していたが、香料争奪戦の激化に伴って対立が始まるのは時間の問題だった。本国における上層部の合意が現地まで上命下達で直ちに浸透するような時代ではない。現地で一攫千金、蓄財を狙う冒険的商人の個人的な欲望、利害や野心で物事は動く時代である。まして本国と現地の間のコミュニケーションは、実際の人の移動による書簡、報告書によるしかなく、往復に何ヶ月、あるいは何年もかかった。アンボイナ事件はこうした背景のもとで起こった。

この事件は日本人傭兵がオランダ砦の邏卒に砦の詳細を質問したことに端を発すると言われている。この日本人はオランダの砦を攻撃しようと計画しているイングランドのスパイだということで拷問にかけられる。彼は「七蔵」といい、傭兵として砦を警備するのに必要な質問をしただけであったが、苛烈な拷問でオランダの筋書き通りの自白を強要される。すなわちイングランド人は砦を攻撃してオランダ人を殺害する計画を立てているというもの。その結果、オランダのアンボイナ総督ヘルマン・ファン・スプールトは、イギリス商館長ガブリエル・タワーソン初め10人のイングランド人、9人の日本人を捕えて激しい拷問を加えた挙句に処刑してしまう。これが「アンボイナの虐殺」:Amboyna Massacreである。この事件は生き延びて本国に帰還できた2名のイングランド商館員によって報告されたことで明るみになった。イングランドでは、上述のように激しい反オランダ感情が燃え上がった。当のオランダ本国でもこの残虐行為が問題になっていたが、これは現地の商館員と傭兵が行ったもので上層部は預かり知らぬものとして黙殺した。しかし、現場におけるこのような残虐行為はこの事件だけではなく、現地人に対しては頻繁に起きていた。またバンタムのイングランド商館は絶えずオランダ人の襲撃の恐怖に怯えていた。案の定、アンボイナ事件はのちにオランダのバタビア総督ピーテル・ヤンスゾーン・クーンの、個人的野心からくるイングランド排除の謀略であったことが明らかになっている。彼は現地人やイングランド人や日本人が殺されることに何の痛痒も感じない冷酷な男であった。日本人傭兵「七蔵」はその陰謀に利用されただけであった。もっともこの時代の「冒険商人」とはそのような殺し合いを生き延びたものたちのことであった。


日本人傭兵の存在

ところでこの事件では日本人の存在が重要な鍵となっている。日本人がなぜこの時代にこのようなところにいたのか?それには当時の日本の国内事情が大きく関わっている。1615年に「大坂の陣」が終わり、主家を失った西軍の大量の浪人が発生していた時期である。浪々の身となったサムライの一部は、海外に流転して新たな生きる道を模索した。戦国時代から商人やキリシタンだけでなく、奴隷狩りで売られた農民や、多くの「敗残兵」たるサムライが海を渡り、ルソン、アユタヤなどで日本人街を形成し、やがて山田長政のように現地で勢力を誇った人物も現れる。またジャンク船を仕立てて東インド海域で交易/海賊を行ったものも記録されている(例えばオランダのファン・ノールト艦隊の「世界一周紀行」にも記録されており、この時、日本のジャンク船からリーフデ号の日本到達の情報を得ている)。オランダ人やイングランド人にとっては、よく切れる刀を持ち鉄砲も扱える、屈強で従順に仕事をする日本人のサムライは格好の傭兵候補であった。また「流浪のサムライ」にとっては、このような海外の修羅場はやり場の無い不満の捌けどころで、サムライとしての実力を発揮する機会とも捉えていたことだろう。こうした浪人がポルトガル船、オランダ船で東南アジアに送られた。事件のあったアンボイナ島にもまとまった数の日本人がいて、砦の中には少なくとも30名の日本人傭兵がいたと記録に残っている。日本人傭兵はオランダ、イギリス双方で雇われており、戦いの時は日本人傭兵同士が戦った。彼らは主に西軍の残党であったと言われる。このアンボイナ事件の発端は、先述のようにオランダに捕えられた「七蔵」なる人物の自白がきっかけとなっている。彼の出自についての記録はないが、一説に平戸の出身であるとも。アジア各地に進出してきた「南蛮人」「紅毛人」にとって「流浪のサムライ」が商館の護衛、敵対勢力からの防衛、さらには攻撃に大きな役割を果たしていたことがこの事件からもわかる。この時代、我々の想像以上に日本人が海外に出ていたし、しかしその多くは日本側の記録には出てこない。

ちなみに、このアンボイナ事件が起きた1623年には、イングランドは日本の平戸商館を閉鎖して撤退している。これは東インド市場からの撤退と軌を一にするが、この事件とは直接の関係はない。平戸は平戸で大きな問題を抱えていた。それは商館の財政破綻だ。すなわち先行するポルトガルやオランダに大きく遅れをとり、売るものがなく商売にならなかった。本国や東インドの拠点バンタムから荷を積んだ船の来航する頻度が減り、やがてはバンタムから撤退する。仕入れがなくなり、商売が見込めなくなっていった。こうした事態を見て本国では東インド市場からの撤退に合わせ、平戸商館閉鎖を決断した。最後まで撤退に抵抗した平戸商館長リチャード・コックスもついに断念し、商館員全員が日本を後にした。日英関係構築の先駆者である三浦按針(ウィリアム・アダムス)も手がなくなっていた。一方のオランダも平戸商館の業績は思ったほどではなく、やはり本国では撤退の議論があった。特に家光の鎖国政策で、オランダが平戸商館を破却して、長崎出島に押し込められることになった時には、本国は撤退を決断した。しかし商館長フランソワ・カロンの抵抗で留まることになり、結果的に240年後の開国まで、唯一のヨーロッパ世界の対日窓口として残ることになった。オランダ商館は、独占的に日本との交易ができたが、一方で商館長の江戸参府、「オランダ風説書」などの商売とは無関係な幕府への情報提供の義務も負っていた。初期の頃のビジネスは主にオランダの東インド交易の後方支援であったと言われている。先述のように、奴隷、日本人傭兵(敗残浪人)の植民地獲得戦争の最前線への供給はオランダにとって有益であった。オランダが「儲からない」平戸/長崎の商館を維持した背景にはこのような事情もあった。東南アジア交易圏における日本人の存在についてはさらなる研究が必要だ。


ファン・ノールト艦隊がボルネオ沖で遭遇した日本のジャンク船
(イザーク・コメリン「オランダ東インド会社史」1644年より)

ファン・ノールトが出会った日本人サムライ(傭兵と思われる)
(イザーク・コメリン「オランダ東インド会社史」1644年より)


「東インド会社」というビジネスモデル

オランダとイングランドは、ともにプロテスタント国で、カトリック国のスペイン/フランスに対抗する点で利害が一致する同盟国同士であった。オランダは長くスペインの植民地であったが独立したのは1579年。それまでもアムステルダム、ロッテルダムやアントワープ(現在のベルギー)などの海洋交易都市を抱えていたし、スペインの海外進出に伴われて活躍するオランダ人商人も多かった。一方のイングランドがスペイン無敵艦隊を撃退したのが1588年。島国であるイングランドはスペインの海洋覇権を脱して活発に海に出るようになる。ウィリアム・アダムスがオランダのマフー艦隊の航海士として乗組、日本に到達した例でも分かる通り、イングランド人とオランダ人はともに協働して、スペイン、ポルトガルの後を追うように海外に出ていった。やがて国家として組織的に海外進出を行うために特許会社(国営企業ではなく独占権を与えられた私企業)を創設するようになる。その一つがアジア方面の事業を独占的に扱う「東インド会社」である。エリザベス1世は1600年にイングランド東インド会社を創設し、これに倣って1602年にオランダでも東インド会社が設立される。東インド会社は、世界初のジョイントストックカンパニー(株式会社)であった。海外進出当初の事業形態は、船主の出身地域やスポンサーごとにバラバラに船団を組み、一回の航海ごとに資金を集め、帰ってくると出資金を返還し利益を分配して解散する方式であった。しかし、アダムスのマフー艦隊の例のように、事業として悲惨な結果に終わることが多く、航海によって当たり外れが大きいまるでギャンブルのような事業であった。こうした問題を解決するために、オランダは資本を温存し航海ごとのリスクを分散させるために共同出資方式の連合東インド会社( 都市、地域をまとめた全国ベースの)を設立する。出資金も会社が解散しない限り返還しないので安定的に資本金を保有することができる。これが成功モデルとなり、大規模な船団で継続的な航海ができるようになった。一方のイングランドは、こうした経営改革が進まず、資金不足で規模の拡大ができず、遠洋航海に耐える大型船の建造も進まず、海外拠点の確保もうまくゆかず、なかなか収益を上げることができずに苦戦した。アンボイナ事件はこうした時期にイングランドのオランダに対する劣勢の象徴のような出来事として起きた。こうしたイングランドの劣勢を救ったのは、清教徒革命で王権を倒したオリヴァー・クロムウェルであった。彼がイングランド共和国護国卿になると、オランダ他外国船を海上輸送ルートから排除するための航海条例(1651年)を定めイングランドの航海権益を守るとともに、1656年には東インド会社の再建(株主総会制導入と株主へは配当のみで資本は返還しない)と船団の強化を支援。オランダとの競争力を高めていった。

この頃の交易は、イングランドやオランダが商船で自国産の毛織物などの交易品を持ってアジアに売りに行き、圧倒的に豊かなアジアの富、すなわち香料や、絹、貴重な皮革や、陶磁器や刀剣など高価な工芸品を手に入れる、というものであった。しかし、熱帯や温暖なアジアで毛織物は売れなかった。一方、先行するスペインやポルトガルは、本国の商品を持ち込むのではなく、南米のポトシや日本の石見の銀を手に入れて現地で買い付け、現地で売る、という中国、日本、琉球、東南アジアとの三角貿易で成功していた。このスペインやポルトガルの商圏に割って入る事ができなかった後発のイングランド、オランダは、結局はその「お宝を満載した」商船を襲って財物を強奪する、すなわち「海賊モデル」で利益を得ることになる。このため、商船といえども船団を組み大砲や鉄砲で武装し、また戦闘員も乗船するなど臨戦体制で出航していった。またエリザベス女王から私掠船:Privatiers(要するに海賊行為)許可を得て、いわば「王室公認の武装海賊」として海外に出かけた。東インド会社設立前ではあるが、ドレイクやホーキンス、ローリーが活躍した時代である。同じくキャベンディッシュ艦隊の世界就航で、アカプルコからルソンに向かうスペイン船を襲撃して莫大な財宝を奪い、ロンドンに凱旋して女王に献上した事例や、日本に到達したアダムスの乗船したオランダ船リーフデ号に武器弾薬が満載されていたのもそういった船団の実態を示すものである。日本でキリスト教の布教活動をしていたイエズス会宣教師が、イングランド人やオランダ人は海賊である、アダムスを処刑すべきである、と家康に訴えたのも、単なる反プロテスタント・プロパガンダというだけではなかった。実際そうした事実があったからだ。

しかしこうした「海賊モデル」「私掠船モデル」はいつまでも続くはずもなく、結局はオランダもイングランドも、王権主導の交易独占という重商主義貿易政策を維持しつつ自由主義貿易政策へと移行してゆく。といっても、トランプが保護関税を武器にして壊そうとしている今の自由貿易ではない。東インド(現在のインドネシア)、インド、西インド(現在のカリブ海諸国)北米大陸、の植民地化による資源と市場の収奪を旨とする、いわば「帝国主義的自由貿易」である。東インド会社は、そうした「植民地収奪モデル」の受け皿となっていった。まさにアンボイナ事件は、そうした東インド会社の現地出先である商館(砦)同志の、現地そっちのけの植民地争奪戦であった。そういう意味においては日本の長崎「出島」のオランダ東インド会社「日本支社長崎出島支店」は、日本側の統制下に置かれるという稀有な形の商館であった。またイングランドの東インド会社は、18世紀にはインドの綿布で大儲けするという、いわゆる「キャラコバブル」を経験する。この時の東インド会社総督が、重商主義経済学者としても知られるジョサイア・チャイルドである。自身もインサイダー取引で莫大な蓄財をしている。南海泡沫事件のようなバブル崩壊を経て、独占緩和による自由主義貿易政策へ転換してゆく。一方で18世紀末から19世紀に入ると、東インド会社の役割、機能が大きく変質し、国家に代わって立法権、徴税権、裁判権、軍事力を持って植民地経営を請け負う、いわば「インド統治アウトソーシング会社」化していった。これが1858年まで続いた。東インド会社の歴史的役割についての考察は、また別の機会に譲ろう。


「ナツメグからビッグ・アップル」へ イングランドとオランダの歴史の分かれ道

話を「アンボイナ島」に戻そう。そもそもヨーロッパにおける大航海時代の始まりのきっかけの一つが、この貴重なモルッカ諸島にしか自生しない香料を手に入れることであった。ナツメグやクローブなど貴重な香料を巡るポルトガル、オランダ、イギリスの争奪戦である。これらの香料は、ヨーロッパでは単なるスパイスではなく疫病の治療に有効と信じられていた。他にも肉の保存剤や、解毒薬として重用され、大量の金と交換され莫大な利益を上げることができた。この「スパイス戦争」が展開されたアンボイナ島、バンダ諸島の小さなルン島(上記地図参照、といっても地図にも記述されないほどの小島)は、全島がナツメグの自生地で、争奪戦の主要ターゲットであった。

しかし歴史は時に国家を皮肉な方向へと導くことがある。アンボイナ事件を契機に香料をめぐる東インド市場(現在のインドネシア)から撤退したイングランドは、インドまで後退することを余儀なくされたが、そこで思わぬチャンスを掴む。扱い商品が香料から綿へと変異してゆく過程で、綿の戦略的価値に気づく。以降、イングランドはインドの綿糸/綿布、北米の綿花栽培とアフリカの奴隷貿易を主軸とするようになる。これが、やがてアメリカ植民地での綿花栽培をアフリカからの奴隷労働で賄い、イングランドで加工して綿製品にし、インドという一大消費地に売る、という「グローバル加工貿易モデル」を打ち立てて成功する。このサイクルが製糸、綿織物工業、エネルギー、動力、輸送に必要な技術革新を促し、「産業革命」をリードする世界の工場の地位を確立してゆく。すなわち大英帝国への道を歩み始める。「ナツメグから綿へ」「災い転じて福となす」「転んでもただで起きない」である。

一方のオランダは東インドの香料貿易の覇権を確立したことで、これまた思わぬ運命を辿ることになる。アンボイナ事件をきっかけとするイングランドとの3度にわたる戦争が起き、最初はオランダ優位に進んだが、フランスの介入など度重なる対外戦争でオランダ本国の凋落が始まる。それに伴い東インドなど海外植民地を一時的にイングランドなどに奪われることになるが、やがてそれを取り返す。その象徴とも言える「取り替えっこ」ディールがあった。第二次英蘭戦争終結の1667年ブレダ条約で、先述のバンダ諸島のルン島(ナツメグの一大産地)がイングランドからオランダに返還され、代わりに北米大陸のマンハッタン島(ニューアムステルダム砦)がイングランドに割譲される。この時点では、オランダは念願の香料産地を取り戻すことができ、イングランドはナツメグの産地を放棄して、寒冷で不毛の島、マンハッタン島を手に入れるという残念な取引:Dealであった。英蘭戦争は必ずしもイングランド優位の戦いではなかったことがわかる。しかし、周知の如くこの不毛のニューアムステルダム砦は将来のニューヨークとなる。そして先述のような綿花生産、貿易での北米植民地の発展という大化けにつながることになる。この取引:Dealを、イギリスのノンフィクション作家のジャイルズ・ミルトンは、彼のベストセラー小説「スパイス戦争」Natherniel's Nutmegの中で、「ナツメグからビッグ・アップルへ」と表現している。さらに香料は、イングランド人がその種子をモルッカ諸島から持ち出してシンガポール、セイロン島など他の交易に適した場所のプランテーションでの栽培を可能にした。モルッカ諸島領有の戦略的重要性が失われ、香料そのものの希少性も薄れて市場価値が急落することになる。「スパイス戦争」の時代が終わりを迎えようとしていた。

16世紀末から17世紀初めには手を携えてスペイン、ポルトガルに立ち向かって海外に進出したイングランドとオランダ。イングランドがこの後大英帝国への道を歩むことになるのとは対照的に、オランダ海洋帝国の覇権は衰えを見せ始める。17世紀の3度の英蘭戦争と、18世紀のアメリカ独立を支援するオランダとの第4次英蘭戦争。さらにフランス革命後はフランス共和国の支配を受け、バタビア共和国に。やがてフランス第3帝政のルイ・ナポレオン時代にはフランスの衛星国オランダ王国に。そして1810年にフランス直轄領ネーデルランドとなる。ちなみに、19世紀の長崎オランダ商館は、正式にはフランス領・ネーデルランドの出先であった。日本人がどの程度までそうしたオランダの実情を認識していたかは不明であるが。オランダはその後再び独立を獲得し、第二次大戦までオランダ領東インドとして植民地支配をし続けた。そして第二次世界大戦では(あのオランダ人に嵌められて虐殺された日本人傭兵「七蔵」の故国)日本に占領される。日本の敗戦で植民地を回復したものの、この日本のオランダ駆逐がきっかけとなって、インドネシアの独立運動でオランダの300年余にわたる苛烈な植民地支配は終わりを迎える。ちなみにこの独立闘争に日本人現地残留兵が参加している。


付記:イングランドの17世紀

17世紀のイングランドは、チューダー朝最後のエリザベス1世、スチュアート朝ジェームス1世、チャールズ1世、清教徒革命でクロムウェル護国卿、王政復古でチャールズ2世、ジェームス2世、名誉革命によるウィリアム3世/メアリー2世と100年間に目まぐるしく君主/元首が変わった。カトリック、国教会、非国教会プロテスタント(ピューリタン、プレスビテリアン)という宗教対立。イングランド、スコットランド、アイルランドの「三王国戦争」という激動の時代であった。一方、上述のように、対外的にはスペイン、フランスというカトリックの大国の脅威のもと、プロテスタント国で同盟国であったはずのオランダと、やがて海外進出をめぐって激しい覇権争いを展開し、3度にわたって戦争した時代であった。しかし、第3次英蘭戦争終決の手打ちの証として、1677年に政略結婚したオランダのウィレム3世とイングランドのメアリー2世が、1688年にはイングランドの共同統治者としてロンドンに凱旋する(いわゆる「名誉革命」)。なんとも皮肉というか理解に苦しむ英蘭関係だ。こうしたイングランドを取り巻く複雑に絡み合った国内外のカオスが大英帝国萌芽の時代を形作っていたのであった。我々日本人は古事記の創世神話になぞらえて、「天沼矛(あめのぬほこ)」でこのカオスをかき混ぜると、その矛先から滴り落ちた雫の中から、近代国民国家、民主主義、自由貿易体制、そして帝国主義が生まれたのだと理解することにしよう。



参考(1)英蘭戦争とは

イングランドとオランダの海洋覇権をめぐる争いで、基本は艦隊同士の海戦であって陸上戦はなかった。また18世紀になってアメリカ独立戦争をめぐるオランダとの戦争が起こるが、これを第四次英蘭戦争とみる歴史家と、これは別の出来事と見る歴史家に分かれる。


第一次英蘭戦争(1652〜1654)

クロムウェルの航海条例によるオランダ船の輸送ルート排除とこれに抵抗するオランダとの戦い ジェームス1世時代のアンボイナ事件の補償を求める ウェストミンスター条約で停戦

第二次英蘭戦争(1665〜1667)

王政復古後のチャールズ2世の時代 国王の弟ヨーク公(のちのジェームス2世)参戦 フランスがオランダと同盟 しかしペスト、ロンドン大火で厭戦 ブレダ和約で終戦 イングランドはバンダ諸島放棄、代わりに北米ニューアムステルダム割譲(「ナツメグからビッグ・アップルへ」)

第三次英蘭戦争(1672〜1674)

フランスのオランダ侵攻 チャールズ2世はフランスに加担して参戦 国民の戦争反対、議会の親仏路線への抵抗 ウェストミンスター条約でオランダと和睦 その証として1677年にオランダ・ウィレム3世にヨーク公(のちのジェームス2世)娘メアリー(のちのメアリー2世)政略結婚 皮肉にもこれが「名誉革命」の布石となった


第一次英蘭戦争

第二次英蘭戦争



参考(2)ジョン・ドライデンの詩劇「アンボイナ」。

事件から50年後の1673年、チャールズ2世がフランスのオランダ介入を助けるために参戦した第三次英蘭戦争の只中、反オランダ機運を盛り上げる「アンボイナ事件」を題材にした悲劇をドライデンが発表し話題になった。古書を巡る旅(60)ドライデン劇詩集。しかし、議会は国民の不満を背景にこの戦争に反対し、1674年にウェストミンスタ条約で停戦した。その和睦の証がウィレム3世とメアリー2世の結婚であった。




おすすめ文献:

「17世紀のオランダ人が見た日本」フレデリック・クレインス著
「さむらいウィリアムス」ジャイルズ・ミルトン著
「スパイス戦争」ジャイルズ・ミルトン著




2024年10月15日火曜日

徳川家康に使節を送った英国王ジェームス1世とは 〜「最も賢明にして愚かな王」?「平和王」?〜




ジェームス1世


2013年発行の日英交流400周年記念金貨
イギリス東インド会社から発行された



「古書をめぐる旅」でベーコンを二回にわたって紹介した。2024年8月10日「ベーコン書簡集」2024年9月1日「ベーコン書簡集」(2) 特に(2)ではベーコン/コーク論争については少し立ち入って「法の支配」の歴史を辿ってみた。そこで、そもそもベーコンやコークが活躍した時代、すなわち国王ジェームス1世治世とはどういう時代だったのか。ともすればヘンリー8世やエリザベス1世というチューダー朝の国王/女王のカリスマ性の陰に隠れて印象が薄いイメージがあるジェームス1世とはどのような国王であったのか。少し振り返ってみたい。


徳川家康とジェームス1世

 ジェームス1世は実は日本との関係が深く、イングランド国王(在位1603年〜1625年)として初めて徳川家康に使節を送り、日英の交易を始めた国王である。1600年、豊後に漂着したオランダのリーフデ号の航海士であったイギリス人、ウィリアム・アダムス(三浦按針)が家康の側近、外交顧問として活躍した時代である。アダムスはイギリス東インド会社を通じて国王に手紙を送り、日本との通商を勧めた。この手紙が国王に届くまでには10年の時間を要したが、ついにイギリス東インド会社のバンタム所属のジョン・セーリス率いる第二艦隊(グローヴ号を旗艦とする)が、国王ジェームス1世の使節として日本に派遣されることとなる。1613年、セーリスは無事に日本に到着し、徳川家康に謁見してジェームス1世の親書を渡した。イギリスは貿易許可証である家康の朱印状を得て平戸に商館を開設し、日英の交流と通商活動が始まった。

ジェームス1世は、先行するポルトガルやスペイン、あるいは新興国オランダとの対抗上、東洋との北西航路(北極海経由ルート)開拓に強い関心を持ち、アダムスもこれを強く支持した。というのも徳川家康も同じ構想を抱いていたからだ。イギリスと日本を直接結ぶルートができれば最短コースとなることから競争優位に立てるし、スペインを刺激することも少ないと考えた。家康もスペインやポルトガルがすでに確保している南回りよりもヨーロッパとの最短コースである北西航路の方が優位と考えた。これは多分にアダムスの助言によるものと考えられ、家康は彼に外洋船の建造、イギリスとの交易のハブ港として浦賀港築造を命じた。しかし、イギリスはこののちオランダとの東インド交易をめぐる争いに敗れ(アンボイナ事件)、1623年には東インド市場から撤退し、平戸の商館も閉鎖して日本から撤退する。これ以降はアジアはインドに集中することになるが、この時のジェームス1世は、高価な陶磁器や絹、刀剣などの工芸品を買い付けできる日本、中国との交易にこだわったという。ジョン・セーリスの「日本航海記」を繰り返し愛読したと言われている。1673年、彼の孫であるチャールズ2世(王政復古後の)の時代に再度日本に使節(サイモン・デルポー率いるリターン号)を送るが、この時は幕府側によって拒絶されている。以来、250年後の幕末の安政五カ国条約の時まで日英の正式な国交はない。この時にジェームス1世から家康、秀忠に贈られた献上品(望遠鏡、茶器セット、毛織物等)は現存しない。また家康、秀忠から贈られた金屏風10隻は行方不明だが、甲冑2式はロンドン塔に展示されている。

2023年8月23日「家康の駿府外交」


ジェームス1世の事績

このように日本に関心を抱き、交易を目指した英国王ジェームス1世だが、彼はイングランドではどのような国王であったのだろう。そもそも王位継承から波乱含みであった。エリザベス1世崩御後、女王に子供がいなかったのでスコットランド王であったジェームス6世(処刑されたスコットランド女王メアリー・スチュアートの息子、ヘンリー8世の姉の子孫)が、1603年にイングランド王位を承継し、ジェームス1世として即位した。母のメアリー・スチュアートはフランスに亡命していたが、帰国してスコットランド女王に即位したが、イングランド貴族のダンリー卿と結婚し一子を設ける。それがジェームスである。メアリーはカトリックで、イングランド王位の正当な承継者であることを主張してエリザベス1世の王位を継承することを主張していたが、スコットランド国内でのプロテスタントの反乱や、宮廷内の陰謀(ダンリー卿謀殺の疑い)に巻き込まれてイングランドに亡命。エリザベスの庇護を求めた。しかし、エリザベスへの叛逆の疑いあり、という陰謀により1587年に処刑される。ジェームスはこの悲劇のスコットランド女王メアリーの息子である。そしてイングランド王となり、スコットランド王を兼ねる。イングランド、スコットランド同君連合の始まりであり、チューダー朝からスチュアート朝に代替わりした最初の国王である。その在位中の事績を振り返ってみよう。


1)スコットランドとイングランドの統合問題

両国の王を兼ねているため、即位早々、統合に熱心で、議会の協力を得ようとするが、イングランド、スコットランド双方からの抵抗でうまくいかない。しかし、同君連合を象徴すべく、1604年にはグレート・ブリテン王:King of Great Britainを自称した。また1606年にはユニオンジャック旗(現在も使われている旗の原型、アイルランドが入っていない)を制定した。アイルランドは以前からイングランドの植民地とされ、各地で反乱が起きたがスコットランドのプロテスタントを入植させ(アルスター、ロンドンデリー)、カトリックの土地を奪い、公職から追放するなど、アイルランドの抵抗運動を徹底的に弾圧した。

2)宗教政策

ジェームス1世はカトリックであった。かといってローマ教皇にひれ伏すカトリック教徒ではない。王権神授説(Divine Right of Kings)の信奉者で国王自身が神の付託を受けて統治を行なっていると信じている。国王は神のみに責任を負い、そのほかの権威、すなわち議会、ローマ教皇に影響を受けることはないと主張した(後述の著作「The Works of James I」)。また「欽定訳聖書」(英語訳)を1611年に出し、イギリスではこれで典礼、儀礼を行なった。カトリックと国教会と非国教会プロテスタント(ピューリタン)の融和を図ろうとするが、これもそれぞれから抵抗を受け、結局は両極端のカトリックとピューリタンを排除する。このためカトリック過激派からは命を狙われ、議会に仕掛けられた爆発物で暗殺されそうになる(Gun Powder Plot:ガイフォークス事件1605年)。またピューリタンは圧政を逃れ、新大陸に移住する集団が現れる(メイフラワー号、ピルグリム・ファーザーズ1620年)。この間スコットランドでは長老派プロテスタントが勢力を伸ばす。

3)議会対策

無視はしなかったが相互不信関係にあり、議会は開催したものの(彼の子のチャールズ1世は議会を開かず無視したが)、たびたび国王大権侵害を主張して解散した。そもそも王権神授説を固く信奉する彼はイングランドの議会(Parliament)が王権に優越するものだとは思っていない。議会とは対立した。特に王妃の浪費癖と贅沢三昧は民衆の非難の的となり議会でも問題視された。また寵臣バッキンガム公の身内優先、情実政治への議会の反発も激化し、大法官ベーコンの失脚につながる。さらに議会を無視した課税や資産の売却などがやがては国王に対するコークらの「大抗議:Protestation」1621年へと発展する。この議会の反王権闘争は、その子チャールズ1世の専制政治に対する「権利の請願:Petition of Right」へ、そしてついには清教徒革命(1642〜1649年)へ。反王党派のオリバー・クロムウェルによって国王チャールズ1世が裁判の上、公開処刑される事態につながってゆく。

4)コモン・ロー/司法の独立

イングランド伝統のコモン・ロー優位「法の支配」(Rule of Law)を受け入れず、王権神授説に立って「国王は法の上にある」「裁判官は国王の廷臣である」として国王大権の優位を主張して司法とも対立する。大法官フランシス・ベーコンは一貫して国王大権擁護にたち、コモン・ロー優位を主張するエドワード・コークと対立する。結局コモン・ロー裁判所のトップ、コークを罷免するが、コークは議会に論争の場を移して王権に抵抗する(コーク/ベーコン論争)。また大陸法/ローマ法のスコットランドとの統合にはコモン・ロー側からも強い抵抗があった。最後までイングランドのコモン・ローの法思想を受け入れない「スコットランドから来た王」のままであった。

2024年9月1日「ベーコン/コーク論争」

 

5)海外進出、交易拡大

エリザベス時代と異なり、スペインに対する融和策(弱腰姿勢)で、海軍力強化を怠り、私掠船を禁止するなど交易活躍が停滞した。これを批判するウォルター・ローリーを政敵の密告により投獄、やがてはスペイン王の圧力に屈して処刑する。1604年にはエリザベス1世時にアルマダ海戦でスペイン艦隊を撃滅したにもかかわらずスペインと和解。スペイン艦隊復活を許してしまう。さらに、反スペインで関係を強化していたオスマン・トルコ帝国とも対立するなど東方貿易に支障をきたす事態を招いた。また同じく、反スペインアライアンスでこのころ海洋進出を活発させていたオランダの後塵を排する事態となっていた。一方で、新大陸、北米植民地開拓事業はバージニア会社(1606年)設立し、ジェームスタウンの建設、ロンドンからの移住植民地が建設されたが、南米ギアナでの金鉱山探索にはスペインとの確執で失敗に終わる。先述の通りスペインとの戦闘を口実にウォルター・ローリーを処刑する。東インド(アジア)には強い憧れを持っていたが、香料をめぐる争いの中、先述の通りポルトガルを駆逐したオランダに先行を許し、ついにはモルッカ諸島のアンボイナ島で起きたイギリス商館のイギリス人、日本人、ポルトガル人がオランダ東インド会社のオランダ人に殺害された事件(アンボイナ事件1623年)がきっかけとなってオランダとの東インド海洋覇権をめぐる競争に敗れ撤退する。同年には平戸のイギリス商館も閉鎖して日本からも撤退する。これ以降、イギリスはインド亜大陸に主軸を移す。しかし英蘭の海洋派遣をめぐる争いは激化し、イギリスはクロムウェルの航海条例でオランダと戦争状態となり3度にわたり英蘭戦争(1652〜1677)を戦い、チャールズ2世の時代に英蘭戦争に勝利したのち、再度東インド、日本への進出を進めるが、日本(徳川幕府)は勝手に平戸商館を閉鎖したことを咎めこれを拒絶されている。

2022年9月12日「ウォルター・ローリー著作」


英国史における評価:「最も賢明にして愚かな王」?「平和王」?

ジェームス1世の国王として事績をこのように列挙すると、まるで失敗続きの暗君にしか見えない。概して評価の高い国王とは見做されていないようだが、英国史の中でその評価は必ずしも定まっていない。エリザベス1世というカリスマ性を持った君主の後継者としてその権威を維持しようと苦労した。ベーコンやシェークスピアを育み、自らも多くの著作を残す知性ある啓蒙君主であるとする評価もあるが、「王権神授説」の熱烈な信奉者として国王大権を振りかざす余り、伝統的に議会とコモン.・ローが優位なイングランドにあって、「イギリス革命」の時代の幕開けを果たした王として記憶されることになる。その結果として国王大権の強化どころか「君臨すれども統治せず」という立憲君主制が生まれることになる。こうしたことから「最も賢明にして愚かな国王」と揶揄された。ただし在位中、対外戦争をしなかったので「平和王」などと称されることもあるが、むしろスペインの挑発や威嚇に対する「弱腰外交」というべきであろう。エリザベス1世時代に築いたイングランドの世界進出のポジション(特に対スペイン)を拡大させるどころか、スペインに譲歩し、スペインから独立を勝ち取った新興国のオランダとの競争にも負け、停頓の時代の国王となってしまった。彼の長男であるヘンリーはウォルター・ローリーにも薫陶を受けた英明な皇太子で人望があり議会からも将来が期待されていたが、18歳で夭折。跡を継いだ次男のチャールズは、父親の専制主義をそのまま引き継ぎ、さらに議会を無視してフランス、スペインとの戦争のために税金を課し戦費の借金する。これに抵抗するものは逮捕監禁処刑するという暴君ぶりを発揮。ついには反王党派のオリバー・クロムウェル率いる議会勢力と衝突、戦闘になり国王軍が敗北。1649年捕えられて公開処刑される(清教徒革命)。歴史にたらればはないというがが、もしヘンリー皇太子が次期国王になっていたら、イギリスはどのような歴史を歩んでいたのだろう。

ジェームス1世は、王権神授説の信奉者という中世的な一面を持ちつつも、最新の科学や海外情報に関心を持つ知的で啓蒙君主的な一面もあった。この時代はジャコビアン(ジェームスのヘブライ語名ジェイコブ)と言われた。自身も多くの著作も残している(スコットランド王時代の「悪魔論」や、王権神授説に基づいた政治論、宗教論集である「The Works of James I」がある)。フランシス・ベーコンはジェームス1世の絶対王権を支持する大法官であった一方、この時代が産んだ経験論哲学、科学の祖であり、ジェームス1世も彼を重用すると共に彼の著作にも影響を受けた。また、エリザベス時代の精華とみなされているウィリアム・シェイクスピア(1616年没)もジェームス1世時代には国王が劇団のパトロンとなり、「国王一座:The King's Men」、すなわち宮廷官として厚い庇護を受けた。一方で、コモン・ローの守護者で、ジェームス1世に抵抗した主席司法官:Chief Justice(コモン・ロー裁判所所長)エドワード・コークもこの時代の人物である。彼は国王の裁判所長を罷免され、議会に移ってからは王権の専制に抗議する「大抗議:Protestation」のリーダーとなる。また「権利の請願:Petition of Right」の起草者であり、名誉革命:Glorius Revolutionの「権利章典:Bill of Rights」に引き継がれるなど、近代法思想の原点である「法の支配」(Rule of Law)を確立した法律家として歴史に名を残している。これもジェームス1世という「王権神授説」の専制君主という、いわば反面教師があったればこそである。皮肉なことであるが。イギリスが産んだ世界の歴史に名を刻む偉人たち。ウィリアム・シェイクスピア、ベン・ジョンソン、フランシス・ベーコン、エドワード・コーク。いずれもジェームス1世治世下の人物である。そして彼らに影響を受けたトマス・ホッブスやジョン・ロック、アイザック・ニュートン、さらにはデヴィッド・ヒューム、アダム・スミスを産むことになる。イギリス啓蒙主義の始まりである。時代は中世から近代へと転換する過渡期であった。しかし、そういった変化の時代にも、中世的な思想と姿勢を引きづり、近代的な啓蒙君主として存在感を示すことはできなかった。また彼は、終生スコットランド人であり、イングランドのコモン・ローの精神や、議会の優位性を理解しようとも尊重することもなかった。彼の国王としての理念の基礎にあったのは「王権神授説」に基づく専制君主の思想である。やはり「最も賢明にして愚かな王」であったと言わざるを得ないだろう。


「ファースト・コンタクト」の250年後の「セカンド・コンタクト」

徳川家康とジェームス1世。徳川家康が磐石の徳川幕藩体制(封建領主体制)を打ち立て、また徹底した管理貿易体制(いわゆる「鎖国政策」)をとって250年の(平和な)江戸時代を築いた一方で、ジェームス1世はむしろ絶対王政から立憲君主制へと移行する時代の入り口にいた。それは彼が積極的にその歴史の歯車を回す役割を果たした、あるいはその歴史的転換を受け入れたと言う意味においてではなく、彼の専制主義的支配と混乱を、息子のチャールズ1世に引き継ぎ、「イギリス革命」の発火点となったという意味においてである。そして立憲君主制の大英帝国繁栄への道を歩む第一歩の時代を皮肉な形で築いた。この徳川家康とジェームス1世の「ファースト・コンタクト」から250年後、その日本とイギリスは再び出会うことになる。日本にとっては、この「セカンド・コンタクト」が「ファースト・コンタクト」以上に衝撃的な出会いであったことは言うまでもない。かたや「七つの海を支配する大英帝国」。かたや「太平の眠りから寝覚めたばかりの日本」であった。ただ皮肉なことにその閉ざされた日本の門を最初に叩きこじ開け、西欧文明との「セカンド・コンタクト」の第一歩を記したのはイギリスではなく、ジェームス1世の時代にはイギリスのバージニア植民地であったアメリカであった。


2022年1月8日「ファースト・コンタクト」カピタンの世紀(イギリス編)



ジェームス1世の徳川家康宛の親書(「英国ニュース・ダイジェスト」より)

ロンドン塔収蔵の家康/秀忠からの甲冑(「英国ニューズ・ダイジェスト」より)

北西航路(北極航路)図(「英国ニューズダイジェスト」より)



2024年9月1日日曜日

古書をめぐる旅(55)『フランシス・ベーコン書簡集』(2) 〜続編:フランシス・ベーコン VS. エドワード・コーク〜



Edward Coke and Francis Bacon
National Portrait Gallery


前回のブログで、このベーコン書簡集が、「偉大なる哲学者」としてではなく、王権への追従と処世術に長けた「卑しむべき政治家」としてのベーコンの姿を知る上で貴重な資料だとして紹介した。しかし、この書簡集の価値はベーコンの名声を貶めることにあるわけではない。その重要性は、王権に対する議会の優位性、コモン・ローの優位性と『法の支配』というイギリスの立憲君主制の成立の歴史、世界に影響を与えた近代政治思想、憲政史の成立経緯を知る上での貴重な歴史文献であるという点においてである。この書簡集に度々登場する彼の政敵エドワード・コーク:Edward Cokeとの法律論争、政治対立にそれを知ることができる。

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 古書をめぐる旅(54)『フランシス・ベーコン書簡集』 〜偉大なる哲学者と卑しむべき政治家〜: 『ベーコン書簡集:Letters of Sir Francis Bacon』1702年初版 ジェームス1世治世時代の書簡集 国王ウィリアム3世への献辞 『学問の発展:Advancement of Learning』1605年初版  1829年刊 "Dove's ...



フランシス・ベーコンとエドワード・コーク:

この書簡集で最も興味を惹かれるのは、フランシス・ベーコン(Attoney General:法務長官)とエドワード・コーク(Chief Justice of Court of Kings Bench:王座裁判所首席裁判官)という二人のライバルの熾烈な戦い、すなわち絶対王権擁護派とコモン・ロー/議会優位派の争いにまつわる書簡である。世に言う「ベーコン vs コーク」論争という歴史上の司法権論争、政治闘争の顛末が、ベーコン側の視点で描かれていることである。具体的な裁判事案において、国王大権を重視した判決を求めるベーコンと、コモン・ローに基づく判決を出そうとするコークの法律論が生々しく記述されている。ベーコンは国王やその側近のバッキンガム公(当時はまだサー・ジョージ・フィラー:Sir George Villier)へ盛んに手紙やメモを送り、国王への忠誠と、法律論争における自説の正しさを強調している。またコークに対する長々とした意見書が残されており興味深い。後世の英米法の歴史、政治思想史を知るものとしては、ここに表出するベーコンの主張が「法の支配」「立憲君主制」「議会制民主主義」の持つ価値観への対抗概念としての「国王大権の優越」として描かれている点で興味深い。一方のコークの反論はベーコン書簡集には採録されていない。しかし、彼の思想と理論は彼の著作と判例集に明確に表明されており今に伝わっている。コークは国王からの「王は法律の枠外だ」という叱責に対して「国王といえども神と全ての法律の下にある」という、13世紀の著名なローマ法学者ヘンリー・ブラクトン:Henry de Bractonの法諺を引用して反論している。これは「法の支配:Rule of Law」「法の優位性:the Supremacy of Law」として近代憲法の基礎となる法理論である。この時ベーコンは国王の法務長官として、『国王大権の優位:the Authority of the Crown』を支持し、コモン・ローの優位は王権を危うくする法理だとしてコークを激しく叱責している(詳しくは後述)。結局、コークは敗れて王座裁判所主席判事を解任される。こののちコークは法曹界を離れ政界に転じ、議会の中心的人物として絶対王権に対峙することとなる。一方のベーコンは国王の信任を得て大法官へと大出世する。さらに子爵、男爵に叙せられる。まさに彼の処世術が功を奏し、念願の宮廷官僚トップに登り詰め、貴族に列せられた瞬間であった。しかし、そのベーコンに思いがけない結末が待っていた。司法界で失脚させられたコークは議会をリードし、ついにベーコンを収賄の罪で告発して、大法官解任、ロンドン塔送りにという劇的な幕切れとなる。国王に救済されてロンドン塔を出獄したもの、ベーコンはこののち公職には復帰せず、余生を執筆活動と自然観察、科学の実験に没頭する。大法官ベーコンのキャリアは終わり、哲学者、科学者ベーコンはこうして生まれた。

一方のコークは、こののちジェームス1世の息子で王位を継いだチャールズ1世に対し、1628年「権利の請願:Petition of Right」を起草し、「清教徒革命」の起点となった。イギリス憲政史、政治史に残る「立憲君主制」、すなわち王権に対する議会とコモン・ロー優位、「法の支配」という現代につながる憲法思想、政治思想の登場である。やがて議会により1688年にオランダからイングランド王に招かれたオレンジ公ウィリアム(即位してウィリアム3世)とメアリー2世はこれを受け入れ、「権利章典:Bill of Rights」に署名する。これが名誉革命である。この『ベーコン書簡集』は、1702年に出版され、この国王ウィリアム3世に献呈された。こうした歴史の上に成立した王権であることを認識すべしという趣旨なのであろう。まさにこの書簡集の出版と国王への献呈自体が歴史的な出来事と言っても過言ではない。このようにベーコンは政治的敗者となり、コークは憲政史上に名を残すこととなった。これが「偉大なる哲学者」ベーコンのもう一つの姿であった。ただこの書簡集の編者であるロバート・スティーブンス:Robert Stephensは、「コークはあまりにも有能で偉大なる法律家であった。ベーコンは法律家としてはそれには及ばなかったが、偉大な哲学者で科学者であり、その政治的な敗北にもかかわらず、払われるべき敬意に変わりは無い」と解説している。


「ベーコンVS.コーク論争」その要点と顛末:

論争の要点をまとめると、ベーコンの、国王大権を絶対視(the Authority of the Crown)。王権神授説を支持し絶対王政擁護という立場。すなわち議会と裁判所は国王大権の下にあるという考えに対し、コークは中世以来のイングランドの伝統であるコモン・ローと裁判所の独立、議会/庶民院の優位(the Suprimacy of Law)を主張。王権といえども法の下にある、すなわち議会と裁判所は王権の下にはないとした。イングランドは13世紀の「大憲章:マグナカルタ」以来、スペイン、フランスなど大陸諸国に比べ、議会に対して王権が相対的に弱いという歴史を歩んできた。しかし、とはいえ王権と議会の間には常に緊張関係が続き、この17世紀初頭のチューダー朝からスチュアート朝への転換期という絶対王政下の議会と司法、その王権との関係に改めて論争を巻き起こしたのが、この『ベーコン vs コーク論争』であった。

ことの発端は裁判所の管轄争いであった。1606年コークは民事高等裁判所主席判事:Chief Justice of Common Pleasに就任し、コモン・ロー重視を鮮明にした。コークはコモン・ロー裁判所として民事高裁、王座裁判所、財務府裁判所の権限を拡大。エクイティ/衡平法裁判所である大法官裁判所:Court of Chancelie、国王の行政部裁判所である星室庁裁判所:Court of Star Chamber、、国教会の裁判所である高等宗務官裁判所:Court of High Commissionなどのコモン・ロー以外の裁判所の権限拡大の動きと対立した。また「コモン・ローに反する制定法は無効である」とし、王権よる恣意的な立法に対する違法性(違憲性)を主張した。また国会の立法権に対するコモン・ロー裁判所の優位も主張した。これはのちにイギリスでは踏襲されなかったが、アメリカ合衆国憲法に定める(日本国憲法にも定めがある)「違憲立法審査権」につながる法理である。そもそもスコットランドから来た国王ジェームス1世は「王権神授説」の信奉者であり、イングランドの伝統であるコモン・ローを理解しようとしていなかった。ベーコンは国王大権擁護の立場に立ちこうしたコークの法思想を批判。国王ジェームス1世に議会や裁判所との関係について法的な助言送り支援した。ジェームス1世は、1613年にはコークを王座裁判所主席裁判官:Chief Justice of  Court of King's Benchに昇進させた。これは一見栄転のようでいて、コークを自分の目の届くところに置くとともに、無報酬に近い名誉職ポジションへの異動させた左遷であった。一方ベーコンは国王直下の権力ポストである法務長官:Attoney Generalに昇進する。

1616年、国王の側近サマセット伯爵ロバート・カーの殺人事件裁判では、ベーコン(国王の法務長官:Attoney General)とコーク(コモン・ロー裁判所としての王座裁判所主席裁判官:Chief Jastice of the Court of King's Bench)は、最初は協力して、訴追、裁判手続きを進めたが、その裁判過程で「裁判所は国王大権の擁護者たるべし」というベーコンと、「裁判所は国王と人民の調停者たるべし」とするコークの思想的な対立が鮮明になってゆく。また国王が裁判に介入しようとする動きに対し、コークは「法解釈は国王ではなく裁判官に任せるべきだ。なぜなら彼らは法律の専門家であり、イングランドの慣習法、判例法に関する知識と経験を有しているから」と反撃した。また、ベーコンは、裁判官は国王によって任命されるのだから、いかに強力な権限があると言っても他の廷臣と同様に国王の指示に従うべきである(「君主の下の獅子:Lion under the Throne」論)と。さらに、そもそも王権は神の意思に由来するもの(王権神授説)であり、「法は国王が作るもの」したがって「国王は法律の上にある」とした。これに対し、コークは裁判官が国王の恣意で解任されるようなら公正な裁判はできないとその独立性を主張。また、先述のように「国王といえど神とすべての法律の下にある」(ヘンリー・ブラクトンを引用)、なぜならば「法が国王を作った」と反論した。ベーコンは、コークの法理論、コモン・ロー裁判所の独立は国王大権を危うくする危険思想であるとして非難。この論争は法律問題ではなく、コークが政界における権力の増大を図ろうとする政治闘争だとして個人攻撃にまで発展した。結局ジェームス1世はベーコンの助言を聞き入れ、コークは王座裁判所主席裁判官を罷免され司法界を追放される。前述の通り、ベーコンはその後、国王の絶大なる信頼を得て1616年には枢密顧問官、1617年には国璽尚書、1618年には宮廷官僚のトップ大法官:Lord Chancelorと順調に出世階段を駆け上る。ベーコンは「人間の理性による真理」を説く経験論哲学の開祖であるが、同時に「神の啓示のよる真理」も否定しなかった。『科学』と『宗教』の二元論。これは彼の哲学的思索から生まれた論理的帰結なのか、それとも政治的処世術の中で培われた功利主義的帰結なのか。

ただ、コモン・ロー裁判所に対するエクイティー(衡平法)裁判所という司法の二重構造はイングランド独特のものであり、元々は中世以来のコモン・ローによる法の固定化と、判断結果の妥当性に関する不満(特に商業活動の活発化・資本主義の伸長に伴う)に対する対策として、大法官裁判所が国王の慈悲や調整を求める「請願」を受け付ける場として現れたことに始まる。国王の行政部裁判所(星室裁判所など)もチューダー朝時代にはそのような「衡平」の観点から運用されていた。したがってエクイティー裁判所自体が反動的な裁判所であったわけではなく、むしろ法の進化に伴う産物であったことは注意しておかねばならない。しかし、チューダー朝時代にうまく機能していたエクイティー裁判所や行政部裁判所が、スチュアート朝のジェームス一世、チャールズ1世になって、「王権神授説」に基づく国王大権の絶対性擁護の場として利用され始め、コモン・ロー裁判所と対立するに至った。国王大権の専横への臣民の不満がこのような争いに発展した。それがベーコン vs コーク論争の実態であった。

先述のようにコークは司法界から追放された後、活躍の場を議会:Parliamentへ移し、下院:House of Commonの議員(MP)として王権と対峙してゆく。当時の下院は、ジェントリー層(平民の地主)出身者で占められており、王権に対する議会の持つ憲政上の立場をよく理解していない議員が多く、またコークのような法律の専門家が少なかったことから、彼はメキメキと頭角を表してゆく。そしてジョン・ピム:John Pym(のちにコークの後継者となる)、ジョン・エリオット:John Eliot(のちに投獄され獄死する)などの有力議員の信頼を得て支持者を増やし議会をリードする。国王ジェームス1世の失政を糾す「大抗議:Protestation」を起こし、ピムと共に投獄される。やがて、1628年にジェームス1世の後任、チャールズ1世の時代になると、国王の専制主義的統治に異を唱え、「権利の請願:Petition of Rght」をピム等の議員と起草。議会を無視した課税、借金、法律に寄らない逮捕、拘束に対し抵抗など、王権の専横を止める動きに出た。1642年のピューリタン革命の引き金を引いた。コークは、1215年にジョン王が署名した歴史的な「大憲章:Magna Carta」を貴族や聖職者の権利を守るためだけのものではなく、すべての臣民を守るためのものであるとして、歴史的なドキュメントに再び光を当てた。「大憲章はその上に王を持たない」と論じた。この思想が『権利の請願:Petition of Right』を生み出した。彼は1634年に亡くなり、生前に清教徒革命も王政復古も名誉革命も見ることはなかったが、彼の思想と行動は1688年の名誉革命の時に国王ウィリアム3世が署名した『権利章典:Bill of Rights』につながった。ただ、コークは王権そのものを否定することはなく、彼の死後に起きたクロムウェルの共和制のイデオローグとはならなかった。むしろ王政復古:Restoration後の『立憲君主制』への道に導く役割を果たした。コークが近代法において「法の支配:Rule of Law」の原則を打ち立てた功績は大きい。ジョン・ロックと並ぶ近代民主主義の父と言って良いだろう。


ベーコン書簡集に滲み出る臨場感:

ベーコン書簡集には、政敵エドワード・コーク宛の手紙が2通採録されている。1通は長々とした手紙で、貴族らしく極めて婉曲で、トーンとしては親愛なる友への助言という形をとっているがかなり厳しい論調の手紙になっている。三つの問題点を指摘しているが、基本は、先述の論争ポイントにあるように、国王大権を守れ、それが国王に任命された裁判官の務めであるという主張で貫かれている。またコモン・ロー体系の判例集としての不完全さと、法としての客観基準とするための整備、編集の必要を述べている(のちにコークの「判例集」に対抗してベーコンとしての判例集」Report編纂を試みている)。さらに、法律家としての敬意は払うが間違いを放置すると好ましくない結果が自身に跳ね返るだろうと、婉曲ではあるが警告に近い助言をしている。長文ではあるがこの書簡からだけでは、後世に整理された「ベーコンvsコーク」の論点は美文の中に埋もれていて、現代の凡人にはクリアーに理解できないのが悲しい。一方で、国王への手紙では、裁判所の管轄権をめぐる争いについて自説を展開し、いかに自分が国王に忠誠心を持っているか、国王大権の擁護者であるかを繰り返している。コモンロー裁判所と大法官裁判所の管轄権についても、コモンロー優位の危うさ、さらに「その危険思想に対する警戒感」を申し立て、コークの罷免を助言するなど、生々しい攻防のありさまが描かれている。これらの書簡を読むと、歴史の現場にタイムスリップして「ベーコン vs コーク論戦」をライブで観戦する感がするが、17世紀イングランド宮廷における論争とはこのようなレトリックで行われていたことを知ることができる。現代でもイギリスのインテリや教養人は論争で大声をあげたり感情的に相手を誹謗中傷することは品格に欠けることと考えているが、その中身は辛辣で強烈な皮肉に満ち溢れている。その伝統のルーツを見る感がした。

また、この書簡集には、やはり国王ジェームス1世宛の手紙が多数採録されている。公務に関して書簡(報告、連絡、相談、許可、同意)を送ることは宮廷官僚の業務執行上の義務でもある。まして王権に追従する廷臣としては不思議なことではないだろう。ベーコンが国王と議会と裁判所の関係を調整しようとする努力の跡が見える。興味深い書簡に、ベーコンが自分の著作『Novum Organum』を国王ジェームス1世に献呈した時の書簡と、それに対するジェームス1世の礼状がある(1620年10月)。ベーコンは、この前の著作『Advancement of Learnings』でも述べているが、本書でもいわば『科学立国政策』を国王に提言している。そのような中世的な神学の世界から脱した科学的な革新国家が、英邁な君主によって導かれる姿を理想として描いている。ジェームス1世はベーコンの著作のファンであった様子が返信からわかる。王権神授説の信奉者で、魔女狩りを支持する『悪魔論』を書いた王であるが、ベーコンの語る、科学の可能性に興味を示す合理主義的なインテリ国王の側面を覗かせている。また、ベーコンもそんな国王を「史上稀なる(伝説のソロモン王にも劣らぬ)英邁で開明的君主」と持ち上げることを忘れていない。国王への追従はとどまるところを知らぬ。文字通り「陛下の慎ましやかなるしもべ:Your humble servant」、「最も従順なる家臣:Your most obedient subject」ベーコンである。

またベーコンの後ろ盾であり、ジェームス1世の寵臣であったジョージ・フィラー:Sir George Villier(のちにバッキンガム公爵)宛の手紙も数多く採録されている。これもベーコンが宮廷内で出世し生き延びてゆくには欠かせないコレスポンダンスであることは言うまでもない。よく知られる『ベーコン政治マニュアル』は数回の手紙に分かれている。ベーコンは1618−1620年にバッキンガム公宛に、国政運営、議会対策、裁判所対策など広範な国政に関する留意点をまとめ、バッキンガム公が国王中心の政治を担うに相応しい政治家になるよう助言する、いわば国政指南書を贈り続けた。しかしバッキンガム公はこのベーコンの助言を十分に理解せず、国王の寵愛をいいことに派閥政治、情実政治、身内優先の特権政治に終始し議会と対立。コークがリードする議会から弾劾を受ける。結果としてベーコンもこれに巻き込まれることとなる。先述の通りベーコンは1621年、議会から収賄の罪で告発され、有罪となってロンドン塔送り、大法官解任となるが、彼の失脚は、こうしたバッキンガム公の政治スキャンダルが引き金となり、スケープゴートにされてしまったとも言われている。この書簡集の背景で蠢いていたベーコン失脚のシナリオが徐々に透けて見えるようでスリリングだ。

書簡は、政治や公務にとって重要なコミュニケーション媒体であり、公的な記録としての性格も持っている。また引退後に書く自伝的な著作とは異なり、まさに現役真只中のリアリティーと臨場感に溢れている。この「ベーコン書簡集」は、さらに名誉革命で即位したウィリアム3世に献呈されており、二重の意味で歴史研究に欠かせない重要史料である。ベーコンの書簡は、ギリシャ哲学、スコラ哲学、ラテン語の人文系素養と科学的知識を持った知性と教養の人、上流階級ならではの表現で書かれており、多くの格言、詩、偉人の言葉の引用が散りばめられている。また、婉曲な表現や暗喩、尊敬語や謙譲語が多用され、国王を持ち上げ、へり下り、バッキンガム公を持ち上げ、コークをこき下ろす内容が美しい修辞法によって綴られている。それはあたかも一編の詩のようである。しかし、現代の人間にとっては一読しただけでは意味不明な表現が多く、加えて17世紀初頭の古文書の英語解読には難儀する。もっとも現代の役所の公文書も繁文縟礼あるいは玉虫色表現で、結局何をいっているのか意味不明なものが多いのでそういう点では似たり寄ったりとも言えなくはない。それにしても古文献解読には訓練と古典に関する知識、教養が不可欠だ。よく、報告書やプレゼンテーションは「アナログで書くのではなくデジタルで書け」などと諸先輩方にご指導賜った現代の組織人にとっては、そもそもアナログで書く文章とは、凡人の筆による「言語明瞭意味不明」な文章ではなく、このような「美文」のことであったかと、妙に感心させられおかしい。若き日に携わった労使交渉の記録や妥結書の玉虫色の表現を「労働文学」などと揶揄していたのをふと思い出す。



参考文献:

1)ウィンストン・チャーチル「英語諸国民の歴史:A History of English Speaking Peoples」1956年刊 第2巻「The New World」2024年7月5日「古書をめぐる旅(52)」チャーチル「英語諸国民の歴史」

第2巻の『ジェームス1世時代』のパラグラフで、ベーコンとコークの論争が現代的視点で解説されていてわかりやすい。ベーコン書簡集の17世紀英語と修辞法に難儀すると、このチャーチルの著作が良き解説書に見える。チャーチルはコークの役割をより高く評価している。ここではベーコンを経験論哲学/科学の父というより王権擁護派の宮廷法務官僚と看做している。概してイギリス、アメリカの憲政史、政治史的視点で見るとコークの果たした役割の方が重要視されており、このチャーチルの評価が定説なのであろう。「ベーコンにお会いしたければ哲学の部屋へお越しください。こちらではちょっと...」と言っているようで。

2)英米法概説』田中和夫 有斐閣 昭和46年初版、48年改訂

学生時代の英米法に関する基本書である。第3章の「法の支配」でエドワード・コークの紹介と、コーク vs ベーコン論争が取り上げられている。第6章の「コモン・ローと衡平法」で歴史的背景、論点が詳細に解説されている。




エドワード・コークに対する助言、意見

バッキンガム公への政策提言

国王ジェームス1世への「Novum Organum」献呈

国王ジェームス1世からのベーコンへの礼状




エドワード・コーク:Edward Coke略歴:

Edward Coke (1552-1638)

法律家。政治家にして、コモン・ロー・議会の国王権力に対する優位性を理論化し、『権利の請願』を起草したイギリス憲政史を飾る功労者。法律家、政治家としてはベーコンよりもコークの方が歴史(近代法制史、政治史)に名を残している。

1552年 ノーフォーク、ノリッジに生まれる(ベーコンは1561年生まれ)
1567年 ケンブリッジ、トリニティー・カレッジ卒業  オックスフォードと異なりプロテスタント色が強い
1572年 インナーテンプル法曹学院卒業
1578年 法曹資格取得
1589年 下院議員にHouse of Common
1592~1594年 法務次官:Soliciter General
1606-1613年 民事高裁主席裁判官:Chief Justice of Court of Common Pleas 
コモン・ローの優位を説く
1613−1616年 王座裁判所主席裁判官:Chief Justice of Court of King's Bench 
1614年 ケンブリッジ大学 High Steward(副学長)
1616年 国王、法務長官:Attoney General ベーコンとの対立で解任。
同年 ベーコンは大法官:Lord Chancelorに
1620年 ピューリタン、アメリカへ移住開始(ピルグリム・ファーザーズ)
1621年 法曹界を去り議会:House of Common議員(MP) 王権と対峙。
同年 ベーコンは議会からの汚職告発で大法官解任 引退
同年 国王に対する議会の「大抗議」Protestation」 同志のジョン・ピムと共に投獄
1626年 ベーコン死去
1628年 新国王チャールズ1世に対し、『権利の請願:Petition of Right』起草 議会の承認無き課税、法律無き逮捕を禁ずる。イギリス革命:Civil Warの口火を切る
1629年 政界を引退
1634年 死去(82歳) 彼の後継者ジョン・ピムが『反絶対王権』闘争を継続
1640年 チャールズ1世 短期議会 議会無視を続ける
1642−1649年 ピューリタン革命 国王チャールズ1世処刑、クロムウェルの共和制
1660年 王政復古 チャールズ2世即位
1688年 チャールズ2世追放 名誉革命 ウィリアム3世/メアリー2世即位 『権利章典:Bill of Rights』に署名


主要な著作:

『判例集全13巻』:Reports 1600-1615,1656 イギリス慣習法の基礎をなす
『イギリス法提要全4巻』:Institute of the Law of England 1628-1644

文学のシェークスピア、哲学のベーコン、法律のコーク。



2024年7月5日金曜日

古書をめぐる旅(52)『A History of the English-Speaking Peoples:英語諸国民の歴史』Winston S. Churchill:チャーチル著 〜 イギリスはヨーロッパなのか?第二弾〜


Winston S. Churchill  A History of English-Speaking Peoples, London, 1956~58

Sir Winston S. Churchill (1874~1965)
(Wikipedia)



今日、イギリスは総選挙の結果が明らかになり、労働党が大勝し14年ぶりに政権交代となった。首相となるキア・スターマー:Kier Starmerは労働者階級出身で中道左派。専制主義と極右ポピュリズムの亡霊が世界を覆う世の中で、議会制民主主義の母国イギリスで中道政権が圧倒的な票差で選ばれたことは意義深い。ただ、イギリスでも大敗した保守党の票の一部をファラージ率いる民族主義新党Reformが奪い議席を確保した。内政問題山積のイギリスで、スターマーが外交にどれほどの力量を発揮できるのか未知数だと言われている。外交政策はヨーロッパとの関係を重視する立場ではあるが、労働党政権になっても保守党政権時代に国民投票で決まったBrexitは変わらないだろう。ただアメリカでトランプが大統領になると英米関係には大きなギャップが生まれることだろう。これをどう乗り越えるのか。これからイギリスはどこへゆくのか?そして迷走のアメリカこそどこへゆく?

2019年3月26日のブログ、 時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : イギリスはヨーロッパなのか?: のなかでウィンストン・チャーチルの著作『英語諸国民の歴史』に言及した。まさにこの時世に合わせたように、その全4巻を入手することができたので紹介したい。この混沌とした時代にチャーチルの歴史観と政策の現代的意義を噛み締めてみたい。1956年に初版がロンドンで刊行された。チャーチルは政治家としてだけでなく、著述家、歴史家としても名を残しており、『第二次世界大戦回顧録全6巻』1948~54やこの『英語諸国民の歴史全4巻』1956~58などの大著を世に出しており、1953年にはノーベル文学賞を受賞している。もっとも本人は文学賞ではなく、政治家として平和賞を望んでいたそうだが。


本書の構成:

イギリスという国の成り立ちから、エリザベス一世の絶対王政、イギリス革命の時代、大英帝国の成立、ヴィクトリア朝まで、旧大英帝国とその植民地、自治領(ドミニオン諸国)、すなわち英語を共通言語とする国々の歴史を4巻にまとめた、いわばパクスブリタニカ通史である。

第1巻:ブリテンの誕生:The Birth of Britain
第2巻:新世界:The New World
第3巻:革命の時代:The Age of Revolution
第4巻:偉大なる民主主義:The great Democracies

ブリテン島は古代ローマ時代にはケルト人やゲール人が住む辺境の島であった。その後、ローマ帝国に征服されブリタニア属領になるが、ゲルマン人の移動や、バイキング(デーン人)の侵入、さらにはノルマン人の侵入など、大陸からの絶え間ない異民族の侵入にさらされてきた島であった。ようやく11世紀、1066年の『ノルマンの征服』で大陸から侵攻してきたノルマンディ候ウィリアムが、土着のサクソン王ハロルドを破り、ノルマン王朝を打ち立てイングランドを統一した。これ以降ブリテン島に異民族が侵入し王朝が交代するする歴史に終止符が打たれた。しかしブリテン島はヨーロッパ大陸の周縁部という地理的、地政学的な立ち位置から、絶え間なく大陸との人の出入りがあり、イングランド王がブリテン島と大陸に領地を持ち、その攻防を繰り返し、その過程でフランスの領土を失った失地王ジョンが、貴族の議会によりマグナカルタを認めさせられるなど、近代につながる政治思想、政治制度、法治主義という文化と歴史の発祥の地となった。16世紀後半にはチューダ王朝のヘンリー八世、エリザベス一世の時代にイングランドは強力な絶対王政を確立し、ローマカトリック教会から離脱して英国国教会(プロテスタント)を立てる。さらにはスコットランド王メアリーを処刑して、イングランド王がスコットランド王を兼任する。さらには当時、大航海時代を切り開いた大国スペインの無敵艦隊を破り、ヨーロッパの辺境国から七つの海を支配する世界帝国への道を歩み始めた。新大陸アメリカ植民事業を進め、アフリカからの奴隷貿易により北米植民地の綿花を輸出商品に育てた。1600年にはインド植民事業を担う東インド会社を設立した。17世紀には王政の廃止で共和政移行、王政復古、ピューリタンによる革命など、『イギリス革命』の時代となり、名誉革命、権利の章典で立憲君主制への道を歩み始める。18世紀にはアメリカの独立でカナダ以外の北米植民地を失うことになるが、産業革命と植民地獲得により地球の東へ遠征を進めてゆく。こうして19世紀になるとヴィクトリア女王のもとイギリスは大航海時代における覇者となり、オランダから奪った南アフリカ、西インド諸島、中東、インド、ビルマ、マレー、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、さらには香港を中国から割譲され植民地化して「日の沈まぬ大英帝国」全盛時代を誇った。帝国主義、いわゆるパクスブリタニカの時代だ。

そして本書には記述されていないが、そのイギリスの時代(パクスブリタニカ)は20世紀に第二次世界大戦で勝利したにも関わらず、多くの植民地が独立し、アメリカの時代(パクスアメリカーナ)を迎えることとなり終焉を迎える。そして冷戦時代をアメリカと共に生きてゆく道を歩み始める。チャーチルはそのイギリスがたどった歴史を俯瞰する中から、戦後のイギリスの立ち位置を指し示してきた。


『アングロ圏構想』という妄想?

本書で描かれたこの七つの海を支配した大英帝国の栄光の歴史はイギリスの人々の記憶から消え去ることはない。かつてあのローマ帝国の属領であったブリタニアが、そのローマ帝国をも遥かに凌駕する世界帝国になったという歴史の記憶がイギリス人の国家意識の基層にある。そして英語が世界の共通言語になったという自負。Brexitは、そんな栄光のイギリスはヨーロッパの一国となってEUのルールのもとでこじんまりと余生をおくる老大国でいいのかという思いは意外に強い。そういったノスタルジアだけでなく、かれらはヨーロッパの大陸諸国よりも、英語を母国語とする人々、共通の君主をいただく立憲君主制、自由主義に基づく議会制民主主義、コモンロー、英国風のライフスタイルに共感してくれる人々、国々との連帯感の方が強い。そういう意味でイギリスはヨーロッパ、EU:European UnionではなくBC:British Commonwealthなのだ。すでにかつての植民地は独立していても、その共通言語英語と共通の自由主義的、民主主義的政治制度、共通の文化的バックグラウンドという紐帯は、地理的に近いヨーロッパ地域との紐帯よりも強いのである。そんな心情がイギリス人の底辺に潜んでいる。こうした考え方は、戦後これまでも多くのイギリスの政治家や政治思想家によって夢想されてきた。いわゆる「アングロ圏:Anglosphere」という概念あるいは構想だ。同じような構想にCANZUK:Canada/Australia/New Zeeland/United Kingdomというのもある。すなわちイギリスとイギリスからの移住植民地(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)、すなわち旧自治領・ドミニオン諸国(British Dominion)。それにアメリカ合衆国を加えた、いわば「アングロサクソン共栄圏構想」である。これには大英帝国の属領としての南アフリカ、西インド諸島、インドやビルマ、マレー半島、香港は入っていない。白人中心の移住植民地、あるいはそこから独立した国の集まりである。あまり現実的な構想であると思われてはいないようだが、今でもそういうレトリックが語り継がれているところに、この構想(妄想)の根強さがある。

ウォルトン作曲の『英語諸国民の歴史のための行進曲』という曲がある。これはウインストン・チャーチルの『英語諸国民の歴史』を堂々たる行進曲にしたものだ。英語を共通言語とする世界、すなわち大英帝国の歴史を高らかに歌った作品だ。ロンドンのロイヤルアルバートホールで毎年夏に開催されるクラシック音楽の祭典、プロムス:Promsで必ず演奏される曲である。このプロムスは単なる音楽祭ではない。大英帝国の栄光をみんなで共有し、思い起こし、讃えようという一種の国威発揚イベントだ。参加者全員がユニオンジャックを打ち振り、感涙に咽びながら声を合わて「威風堂々」「Rule Britannia !」を斉唱する。戦争に負けた日本にはあり得ない愛国的高揚感が堂々と披瀝されている。この辺が戦勝国イギリスと敗戦国日本の違いだ。歴史に対する悔悟の念も遠慮も感じられないこのストレートな愛国表現には違和感も感じるが、少なくとも負ける戦争は絶対すべきではないと感じさせられる。

この様な戦後のイギリス人の心情の底辺にうごめくかつての栄光へのノスタルジアや愛国心に基づく観念を読み解くと、Brexitは必ずしも不思議な動きではないことを理解させられる。たしかにかつての大英帝国構成地域(英連邦とドミニオン諸国)の現在の市場規模は依然としてイギリスにとって無視できないだろう。しかし、現在の地政学的環境の変化、経済活動や市場のグローバル化、アジア地域の経済躍進の時代に、時間を巻き戻してかつての大英帝国時代の観念に戻ることはない。肝心のアメリカは再びトランプが大統領になった時点で、自国中心主義:America Firstを取り、どこの国・地域であれ二国間貿易協定を主張して譲るつもりはないし、ヨーロッパの安全保障を請け負うつもりもない。カナダは大西洋を隔てたイギリスやフランスよりも、国境を接したそのアメリカとの二国間自由貿易連携にしっかりと取り込まれてThe Americasの国として生きている。オーストラリアやニュージーランドは発展するアジア経済圏の中で生き残る道を、白豪主義の放棄、移民政策の転換も含め突き進んでいる。安全保障はイギリスではなくアメリカに依存している。かつての移住植民地は遠く離れた母国イギリスとの歴史的、文化的、精神的、そして言語的な紐帯はともかく、それぞれの地政学的な立ち位置を認識して新たな生き方を歩み始めている。そういう21世紀の時代にナショナリズムを前面に出して物事を整理、理解、決定してゆくやり方は、結局アメリカのトランプのAmerica First, Make America Great Againとなんら変わりはない。あるいはヨーロッパ大陸諸国におけるナショナリズム、反移民を謳う極右政党が多数の支持を獲得しポピュリズム政治に傾斜してゆくのと同じ道ではないのか。ロシアや中国の様な専制主義国家が国際的な融和と協調よりも、自らの支配権力の確立と自国利権優先主義を、武力行使を含めて推し進めていることに危機感を覚えるが、それ以上にこれに対抗するはずの『自由と民主主義のアライアンス』が崩壊の危機に瀕する事態を見たくない。人類がその歴史の中で血で贖いながら築き上げてきた『普遍的価値』が音を立てて崩れていくのを看過するわけにはいかない。イギリスはその『普遍的価値』を生み出してきた国ではなかったか。アメリカはその『普遍的価値』を新大陸に実現するために独立戦争を戦った国ではないのか。


チャーチル『英語諸国民の歴史』が伝えるものは?:

ウィンストン・チャーチル著『英語諸国民の歴史』(1956~58年刊)が、こうした『アングロ圏構想:Anglosphere』の元祖のように取り上げられがちである。しかし彼がこれを表した時代は1956年、冷戦真っ只中という時代である。単純に大英帝国の夢よもう一度!などというナイーブな愛国的妄想を抱くほどチャーチルは未熟でも愚かでも懐古趣味でもない。アングロサクソンの栄光の歴史を賛美しつつも、通史として英語諸国民が築き上げ、引き継いできたレガシーを振り返ることで、彼は、今差し迫っているソビエト共産主義国家の脅威に対抗するために、これからのイギリスとコモンウェルス諸国が生き残る道を説いているのである。とりわけ、イギリスの目の前に立ちはだかっているアメリカ合衆国(イギリスから生まれた)との付き合い方について示唆しているのである。英語諸国民のレガシーとは何か。アメリカとそれをどのように守り継いでゆくのかということである。

チャーチルは『英語諸国民の歴史』のなかで『アングロ圏:Anglosphere』という概念を使わず,『英語を使用する諸国民:English-Speaking Peoples』という概念を用いている。彼は、英語を使用するアングロサクソン民族の政治的・文化的業績を賞賛している。アングロサクソンは絶えず戦争に勝ち,貿易を拡大し,自由・安全保障・福祉を促進したが,それらはすべて自由主義的な政治文化と制度のおかげであると述べる。彼は,アングロサクソンの文化的優位性を信じていたが,他の民族に対して人道的に振る舞う義務があるという自由主義的な信念も持っていた。それゆえ,彼はナチス・ドイツによるアーリア人の優越性や反ユダヤ主義を鋭く批判し,イギリスはヒトラーに対して最後まで戦うと宣言したのである。第2次世界大戦が勃発すると,チャーチルはアメリカがヨーロッパ戦線に参加するように説得した。しかし、アメリカがイギリスに対して行った支援は,イギリスの戦争遂行を支えるために必要な政策であると同時に,アメリカが自由主義的な国際秩序の形成を推進し、大西洋憲章に示された民族自決の原則をヨーロッパの帝国主義国,特にイギリスに尊重させるために必要な政策でもあった。アメリカはイギリスの戦争遂行を支援する一方で、イギリスはアメリカによってその帝国主義的野心を放棄するよう圧力をかけられる。ここでチャーチルは英米が共有する歴史的紐帯を思い起こさせるためにためのレトリックとして英語諸国民の共通の歴史と将来の団結について言及した。チャーチルにとって、英語を共通言語とする英米の深い歴史的関係を強調することは,植民地帝国は解体に向かうが、イギリスの利益を保護し,アメリカの野心を尊重する新しい国際秩序を形成するための基礎であり,西側諸国の安全保障と繁栄を守り,自由主義的文明の新時代を築くために必要なものであった。そして、本書ではその歴史的根拠を語っているのである。

チャーチルが英米の特別な関係を初めて公にしたのは,戦後の1946年3月5日にアメリカで行った歴史的な「鉄のカーテン」演説であった。この演説のなかでチャーチルは「英米は議会制民主主義や自由主義、コモンローという共通の遺産によって結びつけられており,それは数世紀にわたって進化し,これまでの幾世代の移民によって世界各地に伝道されて来た」と壮大な叙事詩をアメリカ国民に語りかけたチャーチルのこの歴史観は人々の心を打つものであったし間違ってはいない。脱植民地化は大英帝国を崩壊させたが,自由,民主主義,法の支配といった『普遍的価値』を共有する緩やかに結合した共同体を残したからである。「鉄のカーテン」演説は,英語使用諸国民がナチス・ドイツのファシスト枢軸に対して勝利し,彼らが新たに直面するソビエトの共産主義に対する戦争(冷戦)に乗りだす時に行われた。まさに戦後レジームを創造した重要なリーダーの一人がチャーチルであった。

チャーチルは戦後レジームの中でのイギリスの勢力圏を次のように示した。第 1の勢力圏は英連邦:British Commonwealth,第 2の勢力圏はドミニオン諸国とアメリカ,いわば『アングロ圏:Anglosphere』、第3の勢力圏は連合ヨーロッパ( United Europe)であり,イギリスはそれらの勢力圏の結節点にあると主張した。しかし,チャーチルにとって,連合ヨーロッパ、のちのEUへの関与は,冷戦下におけるイギリスの安全保障と英米同盟への関心に比べれば 低くならざるをえなかった彼にとって核心的な問題は、ソ連、共産主義の侵略の可能性があるなかで、アメリカが西ヨーロッパに防衛的な関与を続けるか否かであった。現代のNATOの置かれた状況に類似する。一方で、確かに 1960年代になると,アングロ圏やコモンウェルス市場はイギリスにとってそれほど大きな経済的利益を生まなくなり,イギリスが連合ヨーロッパの一員となって再出発することを望む声が大きくなった。そしてEUに加盟することとなった。しかし,アングロ圏構想は消え去ることなく冷戦終結後に復活することになるのである冷戦終結後の世界においても、依然としてソ連の残滓であるロシアの専制主義と領土的野心の危険性は薄れておらず、むしろウクライナ侵略に見られるような剥き出しの軍事力による脅威が増している。そんな中イギリスとその仲間達にとって安全保障の観点からアメリカが(ヨーロッパ諸国よりも)、以前にも増してより重要であるという認識が生まれることも不思議ではない。その重要性を強調し、アメリカの繋ぎ止めに、チャーチルが用いた『英語諸国民』が共有する普遍的価値観というレトリックとして強調してみせることの重要性が再認識されている。アメリカには今も昔も、基本的にはヨーロッパや他国のことに関心を払わない自国優先の伝統がある。トランプの『America First』は今に始まった話ではない。しかし、アメリカは民主主義と自由、法の支配、自由貿易という『普遍的価値』を共有する国として、戦うべき相手が現れた時には勇猛果敢に登場してきた(ナチスドイツ、ファシズム、共産主義との戦い)。それは、その登場を促したチャーチルのような有能な政治家にして歴史思想家がいたからとも言える。残念ながら今のトランプを『普遍的価値』や自由のための戦いに引っ張り出せる現代のチャーチルはいるのだろうか。新首相スターマーにそれを期待したいが、トランプを大統領に選んでしまうアメリカ人の心を打つレトリックで『普遍的価値』に基づく紐帯を語れるのか。もはやチャーチルの『英語諸国民』というレトリックは、『deal』を叫ぶトランプには通用しないだろう。そもそも『普遍的価値』をトランプは共有しているのだろうか。世界は新たな局面に入りつつある。


日本への眼差し:

ところで、チャーチルは本書で日本をどのように位置付けているのだろうか。もちろん日本は「英語諸国民の国」ではないし、大英帝国の植民地であったこともないので、本書の主題の一つではない。索引で見ると「Japan」は全4巻通じて2箇所しか出てこない。日露戦争と第一次大戦後の建艦競争と軍縮交渉の場面だけだ。日英両国の歴史の17世紀のファースト・コンタクトも19世紀のセカンド・コンタクトにも触れられていない。それにしてもチャーチルは日本に関する知識も関心もはそれほど高くなかったようで、そもそも極東の外交課題には多くの関心を寄せていなかったようだ。しかし日英関係の長い歴史、イギリス王室と日本の皇室の交流を重視しており、彼の意識の中では東洋における国の中で日本は別格の扱いであった。現実の外交政策では、もっぱらヨーロッパやクリミアにおける対ロシア政策において日英同盟が極東側からロシアを牽制するのにちょうど良い同盟であると考えていた。日本が引き起こした満州事変についても、大英帝国がインドでとった帝国主義的な手法と共通するものであって理解を示し、日本の利権確保がイギリスの利権に影響を与えるものでない限り、非難する意図はなかったと言われている。またアジアにおける旧移住植民地・ドミニオン諸国(オーストラリア、ニュージランド)の安全保障の観点からも日英同盟は重要であった。しかし、満州権益、アジアの自由貿易確保に強い利害を有し、日本の帝国主義的な大陸進出に懸念を抱いていたアメリカ(そしてドミニオン諸国の一員であったカナダ)からの強力な圧力を受けて、アメリカとの関係を重視する立場から1921年イギリスは日英同盟を破棄した(更新しなかった)。さらに満州事変から日中戦争へと事態が拡大してゆく中で、中国におけるイギリス利権に脅威が感じられるとアメリカに背中を押され反日政策に転換していった。もともと歴史上も日英両国は良好な関係にあったし、ユーラシア大陸の東西両端に位置する島国という共通点もあり、ロシアという共通の仮想敵を抱え、利権をめぐって対立する関係でもなかった。それだけにチャーチルにとっては、日本を敵対国と見ることには抵抗があり、戦争直前まで日本融和策を取ろうとしていた(駐英大使重光葵の回想)。ホームであるヨーロッパにおいてナチスドイツやソ連の共産主義のような脅威に備えることと、第一次世界大戦後、急速に力をつけてきたアメリカとどのように安全保障上のアライアンスに組み込むか、といった問題こそチャーチルの核心的課題であり、それに比べると日本は良くも悪くもプライオリティーの高い課題になりにくかった。しかし、日中戦争の拡大で中国におけるイギリスの権益が脅威にさらされ、資源を求めて南方進出して来た日本にアジアの帝国植民地が攻撃されるに至っては、アメリカと歩調を合わせざるを得ない所へ追い込まれた。ダメおしはイギリスの正面の敵ナチス・ドイツと日本が同盟を組むに至ったことである。のちにチャーチルは「回顧録」で日英同盟を破棄したことは間違いであったと回想している。日本の親英米派を見捨てて、日本を孤立させナチスドイツに走らせてしまった。歴史にタラレバはないというが、あのとき、チャーチルを含め日英両国の指導者にもう少し歴史を振り返り、将来に向けて俯瞰的な視野があれば、その後の歴史は変わっていたかもしれない。明治維新以来の同盟関係にあった日英両国。イギリスを味方につけることが出来なかった日本。アメリカに唆されて日本を見放したイギリス。敗戦国のリーダーとして処断された親英米派の広田弘毅や近衛文麿の悲劇とともに、戦勝国のチャーチルの政治家、歴史家としての評価も、この点においては減点されなければなるまい。


Volume I: The Birth of Britain

Volume II: The New World

Volume III:  The Age of Revolution

Volume IV:  The Great Democracies

ヘンリー8世時代のヨーロッパ

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