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2024年10月27日日曜日

古書をめぐる旅(56)The War in The Far East 1904-1905 〜英国タイムス紙従軍記者が見た日露戦争〜

 

The War in The Far East 1904-1905




明治天皇

明治天皇への献辞


海軍戦力比較

表紙

ロシア皇帝ニコライ2世

大山巌元帥

クロパトキン元帥

東郷平八郎提督

リニエヴィッチ将軍、乃木希典将軍、


今回取り上げる古書は1905年出版の、"The War in The Far East 1904~1905" by The Military Correspondent of The Times,:「極東における戦争 1904−1905」。英国タイムス紙の日露戦争従軍特派員報告/論評である。出版社はロンドンのジョン・マレー社:John Murray。ポーツマス講和条約締結の年1905年に早くも出版された。

 イギリスを代表する高級紙タイムス:The Timesの日露戦争従軍記者の記事を中心に、他誌からの記事、東京特派員、北京特派員による記事や作戦情報、外交戦略報告を加えた総合的な日露戦争レヴュー(論評)となっている。また開戦(宣戦布告)から終戦(ポーツマス条約)までの出来事が日付ごとにリスト化されている。明治天皇、ニコライ皇帝ほか大山巌、クロパトキン、乃木希典、ロジェストヴィンスキー、東郷平八郎など日露双方の将軍の写真、旅順攻略戦や日本海海戦などの作戦地図をふんだんに用いて、1904年2月5日から1905年8月29日までの各地での作戦、戦闘の詳細が全50章で解説されている。特に後世にも名を残す「旅順攻防戦」「瀋陽会戦」「奉天会戦」「対馬海戦(日本海海戦)」については、あらたな情報を加え全面的に書き直したとある。日刊紙の記事としても十分に詳細報道であるが、それを時系列的に並べただけでは、十分な戦況分析、論評ができないので、他の情報源からの入手資料を加えて本書のために編集している。日本が宣戦布告するに至る東アジア情勢、満州、朝鮮をめぐる緊張状態については冒頭に一章設けて解説。さらに当時の日本の国力、軍事力、政治情勢、並びにロシアの国力、軍事力、政治情勢を解説している。ただ、なぜか現地からの写真は一枚も掲載されていない。それにしても終戦の年1905年には「戦記」としてまとめられて刊行されるという速さである。巻頭言で筆者は、過去に多くの歴史家、戦史研究者が優れた「戦史」を残しているが、本書は、読者にこの戦争の現状を報告する「戦記」として編集した」と書いている。1905年刊行という生々しいタイミングから見ても、これは歴史というよりは時事報道であり、無闇に歴史家ぶらないジャーナリストとしての妥当な自評であろう。この戦争を歴史として論評するにはもう少し時間が必要だ。

本書は、交戦国の日本側の視点でも、ロシア側の視点でもない、「第三者イギリスのジャーナリスト」の視点で記録、論評されたものである。といっても、ロシアを共通の仮想敵として締結された日英同盟による「同盟国イギリス」の視点は拭いがたく、また日本軍に従軍して観戦しているので、戦勝国となった日本対する好意的な論評が中心となっている。旅順港閉塞作戦を米西戦争におけるキューバ・サンチャゴ湾閉塞作戦(秋山真之が観戦士官として詳細を報告しており、旅順港作戦に生かされたとされる)、奉天会戦をウォータールーの戦いと比較するなど、戦史に残る戦いであったと評価している。またバルト海から出航したロシア・バルチック艦隊が北海通過の際にイギリスが寄港や補給を拒否したこと、東洋への遠征ルート上でその動きを日本側に提供したことなど、日英同盟に基づく連携が日本海海戦勝利の一因と記述している。コサック騎兵を誇るロシア陸軍の騎兵戦が日本の塹壕戦、機関銃に脆弱であることを示す戦いでもあり、戦史に画期をなすものであったこと。鉄道が兵站にとって重要なインフラであることなども報告されている。そして同じ島国である日本の戦いがイギリス国民にとっては示唆的で興味深いものである点も語っている。このほかにも各地の戦況や作戦の妥当性などの論評が詳しく述べられているが、ここでは詳細には立ち入らない。

確かにこの戦争で日本は善戦し勝利したが、日本の圧勝と言い得るのであろうか。満州における作戦は、ロシア側の士気の低さや作戦ミス、兵站の脆弱性に助けられた薄氷を履むような勝利という面もあると分析している。奉天会戦におけるクロパトキンの撤退の不可思議さなど、ロシアの伝統的な戦術(撤退して敵を引きつけ反撃する)が功を奏しなかったことも指摘されている。日本人の勇敢さ士気の高さや、敵将に対する敬意など武士道精神にも言及しているが、同時に、日本の外交、諜報、国際世論形成、戦費調達などの戦場の外での活動で優位に立ったとも分析している。しかし日本は勝ったものの、多大な人的、物的損失を被り、1年半の戦いで継戦能力を失ってしまっていた。もし奉天から退却したロシア軍が体制を整えて反撃してくれば大敗を喫していただろう。そうなれば軍隊も壊滅し、日本は国家存亡の事態に追い込まれていただろう。国力に見合わないギリギリの戦争であった。またロシア国内情勢が不安定化しており、「血の日曜日事件」や革命の匂いがしていたことも日本に有利に働いた。イギリス、トルコとのクリミア・黒海方面での緊張関係で、ロシアが極東に追加派兵する余裕が無くなっていたことも影響した。そんな僥倖の中、日本は米国ルーズベルト大統領の調停で講和となり助かった。これを引き出した日本の官僚たち(栗田慎一郎、高橋是清、金子堅太郎、小村壽太郎など)の外交努力、調略、国際世論対策の結果である。ところが日本国内では、大国ロシアに勝った!との熱狂で有頂天になり、戦争の実情や、国家存亡の瀬戸際に立っているという内実が見えていなかった。ロシアから賠償が取れないと暴動が起きた(日比谷焼打事件)。日清戦争後の「三国干渉」「臥薪嘗胆」を忘れていなかった心情は理解するも、もはやロシアに対して賠償要求を交渉できる力は残っていなかったのが実情であった。それを一部の政治家や軍幹部は理解しなかったし、国民は知らされていない。こうした「一等国」になったという興奮と、「一撃講和」の味をしめ外交戦略と国際世論形成の重要性を評価しない外交観、戦争観がこの時形成されてしまった。この後、わずかな戦力でも「大和魂」で一撃を与えれば大国に勝てる、という合理的根拠のない楽観主義により、戦争に突き進む空気を醸し出していったように感じる。日露戦争がある意味で明治維新の一つの到達点だとすれば、この朝鮮、満州における戦争がこの後の泥沼の戦争、そして破綻への序章であったと言えるだろう。

本書は、イギリスのマスメディアの情報収集/発信能力を具体的な形で示したもので、大英帝国全盛期の力を感じる。1902年の日英同盟で共有される情報に限らず、英国独自の諜報能力、情報収集能力の高さは驚嘆する。満州における作戦展開、戦況について極めて詳細な情報をどのように入手し配信できたのか。特に、従軍取材とはいえ掲載されている各地での日、時間ごとの作戦行動、部隊配置図、戦況分析図は臨場感がある。これらはタイムズが独自に作成したものであるが、「取材により作成した」と短い注釈があるだけで取材源は記されていない(取材源の秘匿は当然ではあるが)。また、戦争遂行に必要な外交、諜報、世論工作、戦費調達、軍艦などの軍装物資調達など、戦場外での日本の動きについても分析している。事実、栗野慎一郎駐露公使、明石元二郎駐在武官のロシア国内工作、金子堅太郎の米国・セオドア・ルーズベルト大統領工作、高橋是清の米国金融界における戦費調達。小村寿太郎全権代表のポーツマス講和会議での交渉など(ちなみに金子、栗野、明石は福岡藩修猷館の出身)の活動が戦争勝利に大きな影響を与えたことは歴史的にも評価されている。また日本海軍の最新の戦艦や巡洋艦、魚雷艇の調達先についても、すっかり調べがついている。強かな外交、戦争慣れした大英帝国のインテリジェンス能力。それは報道機関の取材力、正確な動向把握能力と情勢分析力にも共通していて印象的だ。この頃にはイギリスは世界を駆け巡る電信網を有しており、タイムス特派員の情報は1日で世界を駆け巡った。世界中に張り巡らされたネットワークによる情報収集、情報発信。海底ケーブル、電信線ネットワークを駆使したロイター通信社の底力。そしてジョン・マレー社の出版と、当時のマスメディア先進国イギリスの役者が揃った感がある。極東で起きた戦争を即時に「戦記」にまとめ刊行できた本書こそまさにその具体的な証左である。日露両国には厳しい情報統制と、検閲、出版規制が引かれていたが、その中で、イギリスの報道機関がこれだけの情報を新聞紙上に掲載できている事実にも驚かされる。「報道とはそういうものだ」を見せつけられる思いがする。大本営発表、報道発表資料をただ書き直して記事にする「広報」とはえらい違いである。ちなみに、当時、日本側の報道機関がまとめた日露戦争記録のような刊行物は見当たらない。ただ一つの例外は、このタイムス刊の本書を和訳した時事新報社の「日露戦争批評」(森晋太郎訳)である。そのことを本書の巻頭言でも述べている。人々は新聞の華々しい戦果報道によってのみ戦況を知ることができた。一方で、戦死者の家族には悲しい知らせが続々と届いた。国民はそのギャップに戸惑うばかりであったろう。まだまだマスメディアに関しては「一等国」と言える状況ではなかった。この姿は日中戦争、太平洋戦争の時にも変わっていない。日本で日露戦争に関する戦史や関連する資料は、海軍、陸軍、外務省の公文書(国立公文書館アーカイヴ)として残っているものが情報公開されている。日露戦記として個人がまとめたものはいくつかあるが、戦後の半藤一利の「日露戦争記録」が白眉であろう。あるいは司馬遼太郎の「坂の上の雲」のような歴史小説にも描かれて、NHKのテレビドラマ化もされている。しかし日本のマスメディアによる戦争を記録、論評し、歴史的に評価する「戦史」が見当たらないのはいかがなものであろうか。タイムスの日露戦争報道記録はジャーナリズムのあり方を考えさせられる。

本書のライター、編者については署名やクレジットの記述がどこにも見たらない。しかし、調べてゆくと、英国陸軍軍人でボーア戦争(1899-1901)などに従軍した、Charles A Court Repington (1858-1925)という人物がThe Timesの従軍特派員として日露戦争について書き、記事を編集したようだ(英語版Wikipedia)。彼は兵役の経験を有する従軍記者としてイギリスでは名声を得ていたようだ。クレジットはないが彼がおそらくライターであろう。巻頭言で、各方面での詳細な作戦や戦況に関する地図は、東京駐在(おそらくタイムス紙の)のPerry Fisherなる人物の提供によると記されている。このような情報をどのように入手したのかについては書かれていない(取材源は秘匿されるのが常識だが)。またThe National ReviewのMr. L. J. Maxse、The SphereのMr. Clement Shorterの協力に謝意を示しているが、どういう人物かは不明である。先述のように、本書の日本語訳「日露戦争批評」が東京の時事新報社の森晋太郎訳で明治39年出版されている。また、前回のブログで紹介したロシアのクロパトキン元帥の回顧録(2022年3月21日「敗軍の将、兵を語る」)もロンドンのMurrey社による1909年の出版で、本書からの引用が多数見られる。


参考1:本書に掲載されている各方面の作戦、戦況地図抜粋

The Battle of The YALU 1,2 : 鴨緑江渡河作戦 日本陸軍/ロシア陸軍との初戦



The Battle of The LIAO-YANG plan1~10: 遼陽会戦 日本にとって最初の本格的近代陸上戦



The Battle of The SHAHO plan1~4: 沙河会戦 ロシアの反撃作戦



The Battle of The HEIKOUTAI plan1~4 : 黒溝台会戦 ロシアの反撃作戦



Map of the MUKDEN Battlefield: 奉天会戦の俯瞰図 日本が勝利した日露陸軍最後の大会戦



PORT ARTHUR: 旅順攻防戦  二〇三高地を含む遼東半島俯瞰図


二〇三高地(wikipedia)

陥落後の旅順港(Wikipedia)


The Battle of The TSU-SHIMA: 対馬海戦(日本海海戦)日本海軍/ロシア・バルチック艦隊配置図(いわゆる丁字戦法、東郷ターン)



参考2:本書に掲載されている1904年2月5日〜1905年8月29日の主要な出来事

朝鮮・仁川上陸 宣戦布告と出兵

鴨緑江渡河作戦 日本陸軍の満州へ進軍

黄海海戦 日本海軍、ロシア旅順艦隊を旅順港に閉塞

旅順港閉塞作戦 日本海軍、旅順艦隊撃滅は失敗するが無力化に貢献

金州会戦 日本陸軍の奉天への進軍開始

旅順陥落 乃木将軍の203高地攻略 水師営におけるステッセル降伏

遼陽会戦

沙河会戦

黒溝台会戦

奉天会戦 ロシア陸軍、クロパトキンの撤兵

対馬海戦(日本海海戦)東郷元帥のバルチック艦隊の撃滅

樺太占領

ポーツマス講和会議







2024年10月21日月曜日

武蔵國荏原郡大井村 鹿嶋神社の秋祭り

 今日20日は鹿嶋神社の秋の例大祭。

「村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日。ドンドンヒャララ、ドンヒャララ🎶朝から聞こえる笛太鼓」

ここ武蔵國荏原郡大井村は江戸近郊の農村だった。今の東京都品川区大井である。東海道からは少し離れていて、海岸べりの品川宿からは坂を登った高台に位置している。縄文時代の遺跡である大森貝塚(大井町にあるのだが)や弥生集落遺跡も多く検出されていて、先史時代から海にも山にも近い立地の集落として栄えていたようだ。律令時代には、一時みやこから下向した武蔵國の受領が館を構えたこともあるそうだ。鎌倉往還沿いには来迎院という平安時代開基の天台宗寺院がある。天台宗ということは平将門の乱平定と関係があるのだろうか。江戸時代には三代将軍家光の鷹狩りの休息所「お茶屋敷」に利用されたという。鹿嶋神社は来迎院の域内社として常陸国鹿嶋神宮から勧請された。現在は明治初期の神仏分離令で別れてしまったが今でも隣り合わせ。大井村はこの辺りでは結構大きな村だった。かつては海岸段丘にあり今でもあちこちに湧き水が出ていて水神様の祠や井戸がある。だから地名が「大井」なのだと土地の古老は言う。そうした水場は江戸に出荷する野菜の洗い場だったとか。明治になると伊藤博文の別邸など、政財界の大物の別邸が設けられた。それにつられるように帝都東京郊外の閑静な住宅街として官僚や軍人、会社員が住んだ。さらに鐘紡、日本光学、三共製薬などの工場も進出してきて賑わい、人口も増えて東京市の一部となっていった。関東大震災の被害が少なかったせいで、震災後は急速に住宅地化していった。昭和7年(1947年)には東京市の行政区画が15区から35区に組み替えられ、旧大井村は品川区になった。戦後は23区に再編され品川区である。品川というと品川駅が中心だとを思いがちだが、あそこは高輪(旧芝区、現在は港区)。品川区の中心は大井町で区役所も最寄駅は大井町駅である。ちなみに京急北品川駅は品川駅の南にある。五反田駅、目黒駅は品川区にある。ああ、ややこしや、ややこしや。












































2024年10月15日火曜日

徳川家康に使節を送った英国王ジェームス1世とは 〜「最も賢明にして愚かな王」?「平和王」?〜




ジェームス1世


2013年発行の日英交流400周年記念金貨
イギリス東インド会社から発行された



「古書をめぐる旅」でベーコンを二回にわたって紹介した。2024年8月10日「ベーコン書簡集」2024年9月1日「ベーコン書簡集」(2) 特に(2)ではベーコン/コーク論争については少し立ち入って「法の支配」の歴史を辿ってみた。そこで、そもそもベーコンやコークが活躍した時代、すなわち国王ジェームス1世治世とはどういう時代だったのか。ともすればヘンリー8世やエリザベス1世というチューダー朝の国王/女王のカリスマ性の陰に隠れて印象が薄いイメージがあるジェームス1世とはどのような国王であったのか。少し振り返ってみたい。


徳川家康とジェームス1世

 ジェームス1世は実は日本との関係が深く、イングランド国王(在位1603年〜1625年)として初めて徳川家康に使節を送り、日英の交易を始めた国王である。1600年、豊後に漂着したオランダのリーフデ号の航海士であったイギリス人、ウィリアム・アダムス(三浦按針)が家康の側近、外交顧問として活躍した時代である。アダムスはイギリス東インド会社を通じて国王に手紙を送り、日本との通商を勧めた。この手紙が国王に届くまでには10年の時間を要したが、ついにイギリス東インド会社のジョン・セーリス率いる第二艦隊(グローヴ号を旗艦とする)が、国王ジェームス1世の使節として日本に派遣されることとなる。1613年、セーリスは無事に日本に到着し、徳川家康に謁見してジェームス1世の親書を渡した。イギリスは貿易許可証である家康の朱印状を得て平戸に商館を開設し、日英の交流と通商活動が始まった。

ジェームス1世は、先行するポルトガルやスペイン、あるいは新興国オランダとの対抗上、東洋との北西航路(北極海経由ルート)開拓に強い関心を持ち、アダムスもこれを強く支持した。というのも徳川家康も同じ構想を抱いていたからだ。イギリスと日本を直接結ぶルートができれば最短コースとなることから競争優位に立てるし、スペインを刺激することも少ないと考えた。家康もスペインやポルトガルがすでに確保している南回りよりもヨーロッパとの最短コースである北西航路の方が優位と考えた。これは多分にアダムスの助言によるものと考えられ、家康は彼に外洋船の建造、イギリスとの交易のハブ港として浦賀港築造を命じた。しかし、イギリスはこののちオランダとの東インド交易をめぐる争いに負けて(アンボイナ事件)、1623年には東インド市場から撤退し、平戸の商館を閉鎖して日本から撤退する。これ以降はアジアはインドに集中することになるが、この時のジェームス1世は、高価な陶磁器や絹、刀剣などの工芸品を買い付けできる日本、中国との交易にこだわったという。ジョン・セーリスの「日本航海記」を繰り返し愛読したと言われている。1673年、彼の孫であるチャールズ2世(王政復古後の)の時代に再度日本に使節(サイモン・デルポー率いるリターン号)を送るが、この時は幕府側によって拒絶されている。以来、250年後の幕末の安政五カ国条約の時まで日英の正式な国交はない。この時にジェームス1世から家康、秀忠に贈られた献上品(望遠鏡、茶器セット、毛織物等)は現存しない。また家康、秀忠から贈られた金屏風10隻は行方不明だが、甲冑2式はロンドン塔に展示されている。

2023年8月23日「家康の駿府外交」


ジェームス1世の事績

このように日本に関心を抱き、交易を目指した英国王ジェームス1世だが、彼はイングランドではどのような国王であったのだろう。そもそも王位継承から波乱含みであった。エリザベス1世崩御後、女王に子供がいなかったのでスコットランド王であったジェームス6世(処刑されたスコットランド女王メアリー・スチュアートの息子、ヘンリー8世の姉の子孫)が、1603年にイングランド王位を承継し、ジェームス1世として即位した。イングランド、スコットランド同君連合の始まりであり、チューダー朝からスチュアート朝に代替わりした最初の国王である。フランスにいたメアリー・スチュアートは帰国してスコットランド女王に即位する。メアリーはイングランド貴族のダンリー卿と結婚し一子を設ける。それがジェームスである。メアリーはカトリックで、イングランド王位の正当な承継者であることを主張してエリザベス1世の王位を継承することを主張していたが、スコットランド国内でのプロテスタントの反乱や、宮廷内の陰謀に巻き込まれてイングランドに亡命。エリザベスの庇護を求めた。しかし、エリザベスへの叛逆の疑いあり、という陰謀により1587年に処刑される。ジェームスはこの悲劇のスコットランド女王メアリーの息子である。そしてついにイングランド王となり、スコットランド王を兼ねる。その在位中の事績を振り返ってみよう。


1)スコットランドとイングランドの統合問題

両国の王を兼ねているため、即位早々、統合に熱心で、議会の協力を得ようとするが、イングランド、スコットランド双方からの抵抗でうまくいかない。しかし、同君連合を象徴すべく、1604年にはグレート・ブリテン王:King of Great Britainを自称した。また1606年にはユニオンジャック旗(現在も使われている旗の原型、アイルランドが入っていない)を制定した。アイルランドは以前からイングランドの植民地とされ、各地で反乱が起きたがスコットランドのプロテスタントを入植させ(アルスター、ロンドンデリー)、カトリックの土地を奪い、公職から追放するなど、アイルランドの抵抗運動を徹底的に弾圧した。

2)宗教政策

ジェームス1世はカトリックであった。カトリックと国教会と非国教会プロテスタント(ピューリタン)の融和を図ろうとするが、これもそれぞれから抵抗を受け、結局はカトリックとピューリタンを排除する。このためカトリック過激派からは命を狙われ、議会に仕掛けられた爆発物で暗殺されそうになる(Gun Powder Plot:ガイフォークス事件1605年)。またピューリタンは圧政を逃れ、新大陸に移住する集団が現れる(メイフラワー号、ピルグリム・ファーザーズ1620年)。この間スコットランドでは長老派プロテスタントが勢力を伸ばす。

3)議会対策

無視はしなかったが相互不信関係にあり、議会は開催したものの(彼の子のチャールズ1世は議会を開かず無視したが)、たびたび国王大権侵害を主張して解散した。特に王妃の浪費癖と贅沢三昧は民衆の非難の的となり議会でも問題視された。また寵臣バッキンガム公の身内優先、情実政治への議会の反発も激化し、大法官ベーコンの失脚につながる。さらに議会を無視した課税や資産の売却などがやがては国王に対するコークらの「大抗議:Protestation」1621年へと発展する。この議会の反王権闘争は、その子チャールズ1世の専制政治に対する「権利の請願:Petition of Right」へ、そしてついには清教徒革命(1642〜1649年)へ。反王党派のオリバー・クロムウェルによって国王チャールズ1世が処刑される事態につながってゆく。

4)コモン・ロー/司法の独立

イングランド伝統のコモン・ロー優位(法の支配)を受け入れず、「王権神授説」に立って「国王は法の上にある」「裁判官は国王の廷臣である」として国王大権の優位を主張して司法とも対立する。大法官フランシス・ベーコンは一貫して国王大権擁護にたち、コモン・ロー優位を主張するエドワード・コークと対立する。結局コモン・ロー裁判所のトップ、コークを罷免するが、コークは議会に論争の場を移して王権に抵抗する(コーク/ベーコン論争)。また大陸法のスコットランドとの統合にはコモン・ロー側からも強い抵抗があった。

5)海外進出、交易拡大

エリザベス時代と異なり、スペインに対する融和策(弱腰姿勢)で、海軍力強化を怠り、私掠船を禁止するなど交易活躍が停滞した。これを批判するウォルター・ローリーを政敵の密告により投獄、やがてはスペイン王の圧力に屈して処刑する。1604年にはエリザベス1世時にアルマダ海戦でスペイン艦隊を撃滅したにもかかわらずスペインと和解。スペイン艦隊復活を許してしまう。さらに、反スペインで関係を強化していたオスマン・トルコ帝国とも対立するなど東方貿易に支障をきたす事態を招いた。一方で、新大陸、北米植民地開拓事業はバージニア会社(1606年)設立し、ジェームスタウンの建設、ロンドンからの移住植民地が建設されたが、南米ギアナでの金鉱山探索にはスペインとの確執で失敗に終わる。先述の通りスペインとの戦闘を口実にウォルター・ローリーを処刑する。東インド(アジア)には強い憧れを持っていたが、先述のように日本に進出するが、アンボイナ事件でオランダとの競争に敗れ、日本、東インドから撤退する。

2022年9月12日「ウォルター・ローリー著作」


英国史における評価:「最も賢明にして愚かな王」?「平和王」?

ジェームス1世の国王として事績をこのように列挙すると、まるで失敗続きの暗君にしか見えない。英国史の中でその評価は必ずしも定まっていないが、概して評価の高い国王とは見做されていないようだ。エリザベス1世というカリスマ性を持った君主の後継者としてその権威を維持しようと苦労したがうまくいったとは言えない。ベーコンやシェークスピアを育んだ知性ある啓蒙君主であるとする評価もあるが、「王権神授説」の熱烈な信奉者として国王大権を振りかざす余り、伝統的に議会とコモン.・ローが優位なイングランドにあって、さらに王権を制約する「イギリス革命」の時代の幕開けを果たした王として記憶されることになる。こうしたことから「最も賢明にして愚かな国王」と揶揄された。ただし在位中、対外戦争をしなかったので「平和王」などと称されることもあるが、むしろスペインの挑発や威嚇に対する「弱腰外交」というべきであろう。エリザベス1世時代に築いたイングランドの世界進出のポジション(特に対スペイン)を拡大させるどころか、スペインに譲歩し、スペインから独立を勝ち取った新興国のオランダとの競争にも負け、停頓の時代の国王となってしまった。彼の長男であるヘンリーはウォルター・ローリーにも薫陶を受けた英明な皇太子で人望があり議会からも将来が期待されていたが、18歳で夭折。跡を継いだ次男のチャールズは、父親の専制主義をそのまま引き継ぎ、さらに議会を無視してフランス、スペインとの戦争のために税金を課し戦費の借金する。これに抵抗するものは逮捕監禁処刑するという暴君ぶりを発揮。ついには反王党派のオリバー・クロムウェル率いる議会勢力と衝突、戦闘になり国王軍が敗北。1649年捕えられて公開処刑される(清教徒革命)。歴史にたらればはないというがが、もしヘンリー皇太子が次期国王になっていたら、イギリスはどのような歴史を歩んでいたのだろう。

ジェームス1世は、王権神授説の信奉者という中世的な一面を持ちつつも、最新の科学や海外情報に関心を持つ知的で啓蒙君主的な一面もあった。自身の著作も残している。フランシス・ベーコンはジェームス1世の絶対王権を支持する大法官であった一方、この時代が産んだ経験論哲学、科学の祖であり、ジェームス1世も彼を重用すると共に彼の著作のファンであり影響を受けた。また、エリザベス時代の精華とみなされているウィリアム・シェイクスピア(1616年没)もジェームス1世時代には国王が劇団のパトロンとなり、「国王一座:The King's Men」、すなわち宮廷官として厚い庇護を受けた。一方で、コモン・ローの守護者で、ジェームス1世に抵抗した主席司法官:Chief Justice(コモン・ロー裁判所所長)エドワード・コークもこの時代の人物である。彼は国王の裁判所長を罷免され、議会に移ってからは王権の専制に抗議する「大抗議:Protestation」のリーダーとなる。また「権利の請願:Petition of Right」の起草者であり、名誉革命の「権利章典:Bill of Rights」に引き継がれるなど近代法思想の原点である「法の支配」を確立した法律家として歴史に名を残している。これもジェームス1世という「王権神授説」の専制君主があったればこそである。皮肉なことであるが、やはり「最も賢明にして愚かな王」であった。イギリスが産んだ世界の歴史に名を刻む偉人たち。ウィリアム・シェイクスピア、フランシス・ベーコン、エドワード・コーク。いずれもジェームス1世治世下の人物である。そして彼らに影響を受けたトマス・ホッブスやジョン・ロック、アイザック・ニュートン、さらにはデヴィッド・ヒューム、アダム・スミスを産むことになる。イギリス啓蒙主義の始まりである。時代は中世から近代へと転換する過渡期であった。しかし、そういった変化の時代に啓蒙君主として存在感を示すことはできなかった。


「ファースト・コンタクト」と「セカンド・コンタクト」

徳川家康とジェームス1世。徳川家康が磐石の徳川幕藩体制(封建領主体制)を打ち立て、また徹底した管理貿易体制(いわゆる「鎖国政策」)をとって250年の(平和な)江戸時代を築いた一方で、ジェームス1世はむしろ絶対王政から立憲君主制へと移行する時代の入り口にいた。それは彼が積極的にその歴史の歯車を回す役割を果たした、あるいはその歴史的転換を受け入れたと言う意味においてではなく、彼の専制主義的支配と混乱を、息子のチャールズ1世に引き継ぎ、「イギリス革命」の発火点となったという意味においてである。そして立憲君主制の大英帝国繁栄への道を歩む第一歩の時代を皮肉な形で築いた。この徳川家康とジェームス1世の「ファースト・コンタクト」から250年後、その日本とイギリスは再び出会うことになる。日本にとっては、この「セカンド・コンタクト」が「ファースト・コンタクト」以上に衝撃的な出会いであったことは言うまでもない。かたや「七つの海を支配する大英帝国」。かたや「太平の眠りから寝覚めたばかりの日本」であった。ただ皮肉なことにその閉ざされた日本の門を最初に叩き「セカンド・コンタクト」の第一歩を記したのはイギリスではなく、ジェームス1世の時代にはイギリスのバージニア植民地であったアメリカであった。


2022年1月8日「ファースト・コンタクト」カピタンの世紀(イギリス編)



ジェームス1世の徳川家康宛の親書(「英国ニュース・ダイジェスト」より)

ロンドン塔収蔵の家康/秀忠からの甲冑(「英国ニューズ・ダイジェスト」より)

北西航路(北極航路)図(「英国ニューズダイジェスト」より)