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2022年5月22日日曜日

下田黒船祭り 〜3年ぶりの開催 そして6年ぶりの再訪〜

 

コロナ禍で延期に延期を重ねてきた下田黒船祭りが3年ぶりに開催された。今回は規模を縮小しての開催であったが、普段は静かな街も久しぶりの祭り開催で賑わった。おりしもロシアのウクライナ侵略、北朝鮮の核/ミサイル開発加速、中国の海洋進出、一方的な台湾の武力併合の動きなど、戦後の秩序が武力で変更される動きが、しかも国連憲章を起草した連合国常任理事国による一方的な戦争で、民主主義や自由主義、人権、法の支配という人類が長い苦闘の中で獲得してきた普遍的な価値観が危機に晒される事態になっている。こういう時こそ日米同盟を基軸に専制主義に対抗する民主主義陣営の結束が必要である。とまあ時事ネタ絡みの感想になってしまったが、本来はペリー艦隊の上陸、条約締結、開港という歴史的な出来事をきっかけに下田の街の人々とアメリカ人との交流が始まったことを祝う「お祭り」である。そのお祭りに政治的な意味合いを持たせるつもり全くないのだが、この時期の黒船祭における日米の軍楽隊パレードは新たな意味を感じるものであった。おりしもバイデン米国大統領が今日(5月22日)日本に到着。明日から日米首脳会談が行われる。

これまで何度か黒船祭りには出かけたが、前回このパレードを見に行ったのはつい最近だと思っていたが、なんと6年も前だった。コロナのせいばかりではない。ぼんやりと生活していると時間の経つのは驚くほど速い。昔は忙しくしていると時間がたつのが速いと思っていたが、今では、ヒマになると1日は長いが、一年はあっという間に経つ。こうして「たちまち浦島太郎はお爺さん」になる。無駄に日々を暮らしてはいけない。


第75回黒船祭の模様は下記ブログをご参照あれ。

2014年5月28日最初の開港場 伊豆下田 ペリー提督が歩いた街








ペリーロードはアメリカンジャスミン真っ盛り

ペリー提督上陸地点

下田公園開国記念広場が式典会場

式典会場




下田公園からパレードがスタート



米第7艦隊軍楽隊


じいじとパレード見物








海上自衛隊横須賀軍楽隊




ペリーさんと下田奉行さんもパレードに



(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)


河津バガテル公園再訪 〜3年ぶりの春バラに心洗われるの巻〜

伊豆の河津バガテル公園を訪れたのは3年前のことであった。あれ以来、コロナ禍で外出自粛やらなんやらで伊豆へ足を運ぶことが少なくなっていたし、ましてバガテル公園にバラを愛でる心すら薄れていた。「巣篭もり」ばかりしてネットの世界を徘徊していると「小人閑居して不善をなす」。これは良くない。こういう時は薫風、新緑の伊豆で春バラを見ようと出かけた。ここはパリ、ブローニュの森にあるバガテル庭園の姉妹庭園である。特に春バラは種類が豊富で1000種、6000株が園内にあるという。今年はひときわ見事で心が洗われる気分であった。これは3年ぶりに味わう贅沢な時間のせいであろうか。花にはバラに限らず人の心を癒すだけでなく、心を奮い立たせると力がある。感動を失いがちな怠惰な日々に活力を与えてくれる。さらに世の中パンデミックや戦争で不穏なご時世であるが、新緑に囲まれた庭園の豪華なバラと穏やかな時の流れと5月の薫風が、アパシーの世界で彷徨う自分を我に返らせてくれたような気持ちがした。

バガテル公園についての解説は過去ログをご参照あれ。

 2019年5月27日河津バガテル公園に春バラを愛でる





















温室で栽培される食用のバラ
バラの苗も買える


オープンカフェ


(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-12-/4)

2022年5月12日木曜日

新緑の佐倉武家屋敷通りと竹林の古径を歩く 〜下総佐倉藩十一万石の城下町は格別の趣だった!の巻〜

 

武家屋敷通り(鏑木小路)
土塁、生垣、屋敷林、茅葺き屋根が連なる美しい通りだ



私のような西国育ちの歴史好きにとって関東で城下町巡りすることになるとは少し意外であった。小田原城を別にすれば、関八州の城は、江戸城防備のための徳川の「支城」的な役割、徳川親藩、譜代の比較的小ぶりな城(あるいは館、陣屋、あるいは代官所)というイメージであった。したがって、姫路城や熊本城、大阪城、名古屋城、金沢城とは言わないまでも、西国の外様大名達が徳川幕府の目を気にしながらも権威を誇示するような天守閣だったり、一国一城の主として藩府には見事な城下町を形成するのを見てきた西国城下町ファンは、「関東に城なし城下町なし」などという偏見を持っていたことを告白しなければならない。ところが品川からなんと乗り換えなしで1時間10分。こんなにアクセスの良い千葉の佐倉に壮大な城と城下町があったとは。私にとっては新しい発見であったとともに、なんとも不勉強を恥じ入るばかりである。と同時に俄に猛烈な興味と知的欲望が湧き起こってきた。これからは関東の城巡りだ!ここは下総国佐倉藩十一万石の城下町だ。佐倉城は徳川譜代の土井利勝により、江戸の東方の守りために鹿島山(と言っても標高30メートルの台地)に1616年(元和2年)に築城された。しかしこの城は江戸時代に入ってから築城された城としてはユニークな作りで、戦国時代の山城さながらの土塁を巡らした城である。そう近世城郭の象徴とも言える石垣がないのである。そのユニークさからか日本百名城の一つに選定されている。外堀の内外の台地上に曲輪と出丸と武家町、町屋を配した縄張りとなっており、現在も当時の町割りがよく残っていることにも驚いた。本丸や二の丸跡は現在は佐倉城址公園となっている。また上級藩士屋敷があった地区には、現在は全国有数の文献史学、考古学、民俗学研究機関である国立歴史民族博物館がある。こっちの方も圧巻で、全部は見切れないのでまた別途ゆっくりと探訪して見たい。一方、大手門のあった外堀の外側には宮小路町、鏑木小路といった武家屋敷地区がある。関東八州の諸藩は親藩、譜代大名で固められていて大きな石高の藩は少ないが、その中で佐倉藩は十一万石の大藩。幕末の藩主は老中首座を務め、米国公使のタウンゼント・ハリスと日米修好通商条約を締結した堀田正睦である。明治になって建てられた堀田家の別邸が市内にある。佐倉城内には堀田正睦とタウンゼント・ハリスの銅像が並んで建っている。また堀田家は蘭学を重んじた家系で、蘭方医学の伝習を目的とした順天堂がある。これも佐倉オリジンだったのか。ちなみに長嶋茂雄はここ佐倉高校の出身だ。

今回は佐倉城をゆっくりと見学する時間がなかったことと、堀田邸、順天堂には足を伸ばすことができなかった。それは次回のお楽しみにするとして、まずは歴史的景観地区ともいうべき武家屋敷街をじっくり探訪した。


1)武家屋敷通り 

鏑木小路の武家屋敷通りには現在、旧河原家住宅、旧但馬家住宅、旧武居家住宅、そして元武家屋敷跡を散策地として開放した「さむらいの杜」がある。他の武家町には見られない、土塁を設けた門、生垣、屋敷林、茅葺き屋根が特徴的である。鏑木小路沿の外構は両側に土塁を設け、その上に生垣を張り巡らせる連続的な景観が独特で美しい。それが現在もよく手入れされて残されていることに感動だ。ただこの通りは歴史的景観地区にもかかわらず無電柱化されておらず、それが独特の佇まいを損ねているのが残念だ。旧但馬家住宅以外は移築されたものであるという。小路の両端には薬師坂、ひよどり坂が、そして真ん中にはくらやみ坂がある。このことからここが台地の上であることがわかる。こうした武家地が台地上に連なる城下町の区割りと佇まいは、かつて訪れた豊後杵築の城下町を彷彿とさせる。杵築も徳川譜代の能見松平家の城下町だ。ただ杵築の城下町は海に面しており開放的な感じであるが、佐倉の武家屋敷街は海からは遠く高台にあるとは言ってもは鬱蒼たる竹林や森に覆われているので眺望は効かない。土井利勝が城下町を開いた頃は、上級藩士は城内、中・下級藩士は城外、と居住地区が分かれていたようである。しかし佐倉は代々譜代大名の城下町で、時代と共に藩主が度々入れ替わる(転勤する)。そのたびに家臣団の出入り、増減が激しく、堀田家が藩主であった時代には大手門外にも家老などの上級武士の居宅が設けられた。この宮小路、鏑木小路にも上級、中級藩士が住んだ。現在の佇まいはその頃の名残だ。


土塁、生垣、屋敷林、茅葺き屋根
他の城下町の武家屋敷に多い「黒板塀」「築地塀」でないところが独特だ

巨樹がこの町の歴史を物語っている




こんな歴史的景観地区なのに無電柱化がなされていないことに驚く

ひよどり坂

薬師坂

くらやみ坂


2)現存する武家屋敷 

この武家屋敷群の大部分は藩が資材や造作を用意して建てたいわば規格住宅であった。さしずめ現在でいえば官舎、社宅に近いと考えても良いかもしれない。江戸時代には武家屋敷の規模や様式は、居住する藩士の家格や役職によって異なる、いわばステータスを象徴するものであった。佐倉藩の場合も、1833年(天保4年)に「天保の御制」という居住の制を定め、それに則って城下の武家屋敷を建設、整備したと言われる。この制度による類型で言えば、旧河原家住宅は大屋敷、旧但馬家住宅は中屋敷、旧武居家住宅は小屋敷にあたると言われる。建物の大小はあれど、先述のように各屋敷は一軒一軒、外構は土塁、生垣、屋根は見事な茅葺で統一されている。建物は簡素で、敷地も豪壮とは言えないが、巨大な屋敷林に囲まれて威風堂々とした佇まいがあり、街並みに統一感がある。気がつかなかったが、なんと旧河原家住宅の向かいに児玉源太郎宅跡があった。生垣に目立たない看板表示があるだけ。若き日の児玉源太郎中佐が佐倉第二連隊長であった時に住んでいた官舎だったそうだ。陸軍の佐倉演習で児玉の連隊が乃木の連隊を破った話は後世の語種だとか。のちに満州軍総参謀長として日露戦争勝利に貢献した功労者ゆかりの場所のはずだが、もう少し案内に工夫があって然るべきと思うが、どうなのだろう。ちなみにこの辺りは陸軍佐倉連隊の幹部が多く住んでいたようだ。


    旧河原家住宅(県指定有形文化財)、

1835年(天保6年)に同じ鏑木小路内で現在地に移築されたと記録がある。建築年代は1845年(弘化2年)で、ここでは最も古い屋敷だとされている。格式からは「大屋敷」に分類されるもののようだ。オリジナルの建物は玄関間と次の間が取り壊されていたそうだが、移築に際して復元されている。



玄関(移築時に復元された)



おくどさん


茅葺き屋根の曲線が美しい





    旧但馬家住宅(市指定有形文化財)、

建築年代は特定されていないが、1821年(文政4年)から1837年(天保8年)の間に建てられたものだとと推定されている。格式では「中屋敷」に分類されるという。明治期にこの屋敷を購入した但馬家の人々が、比較的近年まで居住していたそうで屋敷、庭園ともによく整備されている。1992年(平成4年)に一般公開された。




見事な茅葺き屋根
玄関

玄関の一輪挿し

中庭

居間

居間から門、前庭を望む



裏庭には菜園が


    旧武居家住宅(国登録有形文化財)、

建築年代は不明であるが、構造から見て江戸時代末期(19世紀前半)のものと見られている。「天保の御制」に基づく建築様式に忠実で、現存する小規模な武家屋敷の典型的な例として貴重なものだそうで国登録有形文化財に指定されている。ここもオリジナルは茅葺き屋根であったが今は銅板葺に改変されている。ただ屋敷内から茅葺き屋根の構造がよく観察できる。「小屋敷」とはいえ外構は他家と変わらず土塁/生垣で風格に遜色はない。



銅ぶき屋根

小ぶりな居間
幕末期の佐倉藩士の古写真が

台所も小ぶり

茅葺屋根の内側が再現されている

居間からは生垣を隔てて隣家が見える

隣家から見ると緑濃い木立に佇む風情のある建物だ


    「侍の杜」元武家屋敷跡

元武家屋敷が二軒あったところを屋敷林と植物園散策コース「侍の杜」として整備し、一般に開放した。屋敷は公開されていない。幕末。明治の文化人、西村茂樹の「修静居」跡の碑がある。戦前は城跡にあった陸軍佐倉連隊の将校などが借家として住んでいたそうだ。先述の児玉源太郎宅跡もこの並びにあり、陸軍の幹部がこの通りには多く住んでいたようだ。


明六社の創設メンバーの一人であった佐倉藩士西村茂樹の「修静居」跡

外構は他の屋敷と同様の作り




3)さむらいの古径(こみち)「ひよどり坂」

武家屋敷通り、鏑木小路の三坂、「薬師坂」「くらやみ坂」「ひよどり坂」の中でも、この「ひよどり坂」が最も美しく幽玄ですらある。竹林に覆われた坂道が武家屋敷通りに誘う。京都嵯峨野の竹林より坂道がある分より趣がある。まして坂のある城下町はどこか風情がある。このような竹林を抜けて向かう台上の邸宅。そこにはどのような人生があるのか。藤沢周平の時代小説を思い起こさせる。地元では「さむらいの古径(こみち)」と呼ばれている。ここを散策するだけでも訪問する価値がある。





結構な坂道が続く






4)城内を少しだけ紹介


安政六年の佐倉城地図。鏑木小路は右下大手門外に見える。
NPO法人「まちづくり支援ネットワーク佐倉」より
国立歴史民俗博物館

佐倉城本丸跡

姥ヶ池







城内にも大きな高低差が

空堀跡

藩主 堀田正睦公像

米国公使タウンゼント・ハリス像

宮小路にある佐倉藩藩校「成徳書院」跡

JR佐倉駅から
正面の台地上が武家屋敷、佐倉城址公園



(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4 この一択で全写真を撮影)