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2020年4月27日月曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第二弾) 〜邪馬台国はどこへ行ったのか?〜


魏志倭人伝の記述に加えてに記紀の記述から想定して描いた3世紀の「倭国地図」と朝鮮半島



プロローグ

日本の古代史を探訪するにあたって大きなハードルとなるのは、その文献資料の少なさである。もともと文字を持たない3世紀倭国の時代を探ろうというのだから自ずと限られているわけだ。手掛かりになるのは当時の倭国の模様を記述した中国の史料である。あるいは、考古学的に発掘、発見される石碑や金属製の剣などの威信材や祭祀に用いられる鏡などに刻まれた文字(金石文と言われる)である。一方で8世紀初頭に我が国で編纂された「歴史書」、古事記や日本書紀(記紀と総称されている)は、その成立の経緯から、必ずしも史実を客観的に記述した史書というより、古来から語り継がれた伝承や、口承による神話や物語を、当時の政治的な意思表示(天皇支配の正統性の宣言)の観点から採録、編集、あるは創作し、編纂した文書である。我が国に残る最古の第一級文献資料であり貴重であることは間違いないが、歴史研究の観点からこれをどう取り扱うかは、それ自体が研究対象になりそうなテーマである。したがって記紀資料から当時の歴史的な出来事を追いかけるのではなく、中国の史書や金石文、などの編年体(暦年がわかる)で記録された資料に記述されている出来事を時系列に追いかけてゆき、記録が飛んでいる部分、ミッシングリンクは想像力を駆使して全体を(通史として)俯瞰した上で、記紀の記述に立ち返ってゆく。その中から史実として掬い上げれそうなエピソードを読み取り、照合し検証してゆくという手法をとることにした。したがってこれから先の考察は、証拠に基づく「立証」ではない。証拠となるであろう考古学的資料や文献資料が登場するまでの「推理」である。確かに無謀な試みで、研究者は決して取らないアプローチであろう。怖いもの知らずは素人の特権だ。

なお、以下の考察は、邪馬台国はヤマト王権、大和朝廷のルーツではない。邪馬台国は近畿ヤマト王権とは系譜的なつながりのない、北部九州の(チクシの)王権であるという仮説を前提とする。逆にこの考察を進めていくに従って、この前提が正しいものであることを確信させる結果となるであろうと期待している。

初期ヤマト王権はいかにして成立したのか、彼らはどこからきたのか。一朝一夕には答えの見つからない問いだ。その問いにいきなり食らいつく前に、初期ヤマト王権はいかに三輪山の麓で倭王権として成長し、大王(おおきみ)となり、やがて天皇(すめらみこと)になっていったのか。そして、ヤマト王権とは王統のつながりが無いと考えられる女王卑弥呼、壹与。その邪馬台国(チクシ王権)はその後どうなったのか。ヤマト王権と天皇にとってどのような関わりを持っていたのか。あるいは持っていなかったのか。3世紀から7世紀までの邪馬台国(チクシ王権)とヤマト王権の変遷を年表(タイムライン)を追いながらに整理し、その成立過程を俯瞰してみたい。


3世紀の倭国

概観
北部九州の邪馬台国(仮に「チクシ王権」と呼ぼう)の時代。祭祀の主催者である卑弥呼が女王として倭国30か国を統治。中国魏王朝への朝貢/冊封による倭国統治権威の保持。しかし列島全域をまとめる勢力は未だなく一種の群雄割拠時代。邪馬台国も倭国を代表する勢力ではなかった。列島内には各地に有力な地域勢力(上記の図のように出雲や吉備など)が成立し始め、それぞれが分立、割拠していた。そのなかで奈良盆地にも新たな勢力、すなわち初期ヤマト王権が誕生。

チクシ倭国の出来事(魏志倭人伝の記述による)
227年:邪馬台国女王卑弥呼、魏王朝へ朝貢/冊封、「親魏倭王」の印綬
247年:邪馬台国、狗奴国との戦闘、 魏の告諭
248年:卑弥呼の死
250年:邪馬台国女王壹与、魏王朝へ朝貢/冊封
266年:邪馬台国女王壹与、晋王朝へ遣使(邪馬台国ではないとの説もあり)

ヤマト倭国の出来事(日本書紀、古事記の記述と考古学成果から推定)
3世紀中:纒向遺跡、箸墓古墳(大和古墳群)(初期ヤマト王権の出現)
記紀にある第十代崇神天皇(みまきいりひこいにえ)即位(「三輪王朝」)
三輪山にて大物主祭祀を開始
四道将軍(王族将軍)による、丹波、北陸道(古志)、東海道(尾張)、西海道(吉備)の平定、服属。
外交の記述なし。大陸との通交はあったか?(纒向遺跡の「桃の種」出土:道教の祭祀の痕跡?)魏に対して、呉との通交はあったか?


上図は魏志倭人伝の記述と、記紀による記述とを組み合わせて3世紀当時の倭国(列島)の有様を推定復元してみたものである。3世紀の列島内には国、ないしは小国の地域連合が各地にあった(のちの律令制下でこれらが国や郡になる)。そのうちの有力な国/連合は稲作農耕に適した平野や水利に恵まれ、海や大河のような水運の利便性を享受できるところに成立していた。とりわけ日本海に面した筑紫(邪馬台国連合30か国)や出雲、丹波、高志(越)は直接大陸との通交ができる有利な地域に位置していた。日本海は中華文明の恩恵に浴することができる「文明の海」であった。朝鮮半島南部加耶(狗邪韓国)の鉄資源へのアクセスに有利な地域である。列島内でも、これらの地域は相互に日本海沿岸航海によって鉄や玉、碧玉、稲もみを交易材として交易していたことが考古学的にもわかっている。中でも朝鮮半島に近い北部九州、筑紫は紀元前、弥生時代の初めから大陸文化の玄関口として、あるいは中華文明のフロンティアといて繁栄してきた。ここに後漢に朝貢した奴国や伊都国、そして魏に朝貢した邪馬台国があったことは不思議ではない。3世紀の日本列島は日本海に面した地域が先進的な文化圏であったという地政学的な事実をまず確認しておこう。

ところがそうした時代の地政学的な「常識」の中で、なぜ(海に面していない)山に囲まれた奈良盆地に「大和国」が生まれたのか?そしてなぜこの大和国が倭王権(ヤマト王権)の揺籃の地となったのか。ここには自然発生的に生まれた稲作農耕集落が、やがて村になり、国になっていったという弥生的稲作農耕集落の発展系といった成り立ちとは異なる物語があったように感じる。奈良盆地にも弥生の農耕環濠集落遺跡である「唐古・鍵遺跡」がみつかっているが、これがヤマト王権の中心地であったり、のちに纏向遺跡に移行した形跡はない。奈良盆地の纒向遺跡の方位を意識した計画都市の姿は、全く新しい人工的な「王都」の姿であり、北部九州の吉野ヶ里遺跡に代表されるような環濠集落の姿とは全く趣を異にする。また列島各地から人や物が集まってきた痕跡が検出されている(各地の特色を持った土器が多数見つかっている)。一方で、3世紀以前の地層からは北部九州で見られるような「王権」の存在を窺わせるような遺物(剣、銅鏡、玉のような威信材)は見つかっていない。どうやら3世紀に新たに出現した「王都」らしい。

発掘された纏向居館の主は、おそらく崇神大王(みまきいりひこいにえ)であろう。記紀では第十代天皇とされているが、実在の天皇(大王)の初代は崇神大王であるというのが学界の定説になりつつある。神武以降、事績の記述のない、いわゆる「欠史八代」の天皇は実在しない架空の天皇とされている。崇神は三輪山山麓に拠点を置いた最初のヤマト王権の王であっただろう。記紀でも初代天皇とされる神武天皇と同様に「ハツクニシラススメラミコト」(最初に国を開いた天皇)との和風諡号を持っている。そこで「三輪王朝」の始祖と呼ばれることもある崇神大王だが、彼はどこからきたのだろう。ルーツはどこにあるのか。先述のように、ここに自生した集団、一族というよりは、いわば「無主の地」に移動してきて、ここを拠点に定めた可能性があると考える。記紀にある、出雲大国主命の「国譲り神話」や、筑紫の日向の高千穂の「天孫降臨神話」、「神武東征譚」に何がしか出自のヒントが潜んでいるのだろうか。しかし、これらの神話、伝承は7世紀から8世紀初頭に採録されたものである。400年以上も前の(文字のない時代の)「歴史の記憶」が正確に伝承されていたのだろうか。口承神話、伝承は必ずしも史実に基づくものばかりではないし、記紀の編纂者が、古い伝承や逸話をオリジナルのまま採録しているとも思えない。そこには意図した潤色や編集があるだろう。あるは全く新しく創作したものもあるかもしれない。そこから史実を汲み取るのは極めて難しそうだ。とりわけ神代(神話)の部分はそうであるし、歴代天皇の事績の記述についても、実在が疑わしい天皇が多く含まれていることなどから、編纂時に新たに創出されたストーリーが数多く採録されていることは明らかであろう。したがって初期ヤマト王権のルーツ探しはしばらく保留しておきたい。


4世紀の倭国

概観
倭国に関する文献史料が途絶える、いわゆる「空白の4世紀」。中国は「五胡十六国」の王朝分断時代に入り、朝貢/冊封体制が崩壊。東アジア秩序に大きな激震が走った時代であった。中国に代わって朝鮮半島諸国が倭国の戦略パートナーとなった時代。世紀後半の倭国の姿は朝鮮半島へ出兵する武断国家に。邪馬台国(チクシ王権)にかわりヤマト王権がその中心であった?

朝鮮三国の成立と抗争
313年;高句麗が楽浪郡、帯方郡を滅ぼす
346年:百済が馬韓統一
356年:新羅が辰韓統一、高句麗に従属

朝鮮半島諸国と倭国の結びつき
369年:百済王から倭王へ「七支刀」送る。倭国に軍事援助を求めるためのしるし。
391年:倭国、「渡海」し高句麗に朝貢していた百済、新羅を「臣民」とした。
392〜404年:高句麗との戦いで倭国は大敗を期した(高句麗 好太王碑文)
百済、新羅、伽耶諸国を巡る争い(三国史記)


4世紀前半は、倭国に関する記述が中国の史料から消える空白の時代である。すなわち266年の邪馬台国女王壹与による晋への遣使以降、中国の文献資料に倭国に関する記録が見当たらない。これは、倭国が混乱して朝貢して来なかったからなのか、それとも、そもそも中国王朝自体が分裂混乱の時代を迎え、朝貢/冊封体制が崩壊していたせいなのか。おそらくその両方であろう。次のパラグラフで触れる。ところが、4世紀後半になると倭国は突如、朝鮮半島にその姿を表す。その倭国は100年ほど前とは全く異なる姿に「変身」していた。すなわち中華王朝へ朝貢し冊封を受け、東夷の外藩として「ひれ伏して」いた列島国家。女王の呪術による祭祀により統合されていた未開の匂いのする邪馬台国連合から、武力を蓄え朝鮮半島に出兵する猛々しい男王の倭国に変身していた。まるで全く「別の国」であるかのようなプローフィールの国になっている。何が起こったのか?

4世紀初頭、中国では漢王朝の末裔を自認する魏王朝、晋王朝が倒れ、統一王朝を欠く「五胡十六国」の混乱の時代となった。これは朝貢/冊封による中華世界の秩序が壊れ、周辺の諸国の統治権威が揺るぎ、政治的に不安定な状態が起きたことをも意味する。また諸国の王権の象徴である中華先進文化、統治権威が入らなくなっていったことをも意味する。この影響は東アジア全体に及んだ。その混乱の中、朝鮮半島では中華王朝の植民地であった楽浪郡、帯方郡がツングース系の高句麗によって滅ぼされ、半島南部では百済が部族国家馬韓を統合して、また新羅が辰韓を統合して新国家を樹立した。そしてこの朝鮮三国が互いに争う事態が出現した。この東アジア激震の波は海を隔てた倭国にも及ぶ。中華王朝の朝貢/冊封体制下にあった邪馬台国(チクシ王権)にとって、この混乱と政治的不安定化は致命的であっただろう。たちまち倭国における統治権威の失墜、政治的影響力を弱める結果となったに違いない。その倭国にとって中華王朝に代わって大陸文化の源泉となったのは先ほどの朝鮮半島諸国であった。半島三国の抗争を背景に、百済は倭国に接近し、同盟を結び、新羅は高句麗に降って、これに対抗しようとしていた。百済は後進国であった倭国に、中華王朝に代わって大陸の先進技術や統治制度、文化を伝え、同盟国の強化(教化)を進めた。この時の倭国の相手は(古来より中国の漢、魏、晋王朝に朝貢していた)北部九州の邪馬台国(チクシ王権)ではなく、奈良盆地に起こった大和(初期ヤマト王権)であった。これがチクシ王権の衰退、ヤマト王権の興隆を招いた象徴的な出来事であった可能性が高い。こうして軍事的にも「近代化」された倭国(ヤマト王権)は、百済の誘いに応じて半島の抗争に引きずり込まれてゆく。古来より倭国は鉄資源を加耶/任那地域に依存しており、倭人コミュニティーもあったと言われている。こうした「鉄資源権益」を守る必要もあり、これ以降朝鮮半島への進出、軍事的な関与を深めてゆくことになる。この倭国の朝鮮半島戦略は260年後の百済の滅亡、663年の白村江の大敗戦まで続くことになる。

こうした倭国の姿は、百済王から倭国王(ヤマト王権)に贈られた「七支刀」(物部氏の石上神社所蔵)に刻まれた銘文(369年)や、戦前、鴨緑江近くで発見された高句麗好太王碑文(391年)によりうかがい知れる。いわく「倭国は百済に加勢して高句麗を攻め大敗した」。高句麗の大王、広開土王(好太王)の事績を華々しく語る碑文の記述である。このころ倭国が朝鮮半島で新羅や百済と朝貢関係(実際には「贈答」による外交関係という意味だろう)を結び存在感を増していった様子が語られている。この碑文のほか、後世12世期の朝鮮側の史書「三国史記」にもこれを示す記述がある。その史料の史実としての正確さには疑問なしとはしないが、いずれにせよ倭国が朝鮮半島情勢に深く関与していったことは間違い無いだろう。邪馬台国壹与の晋への遣使から100年の空白期間を経て、暦年が確認できる資料(金石文)の登場である。ただ4世紀でも前半の期間の記録がなく、いぜん「空白」でこの間の列島情勢が見えない。すなわちチクシの邪馬台国(3世紀末の女王壱与の晋王朝への朝貢の記録を最後に姿を消す)はどうなっていたのか?近畿のヤマト王権はどのように勢力を伸ばしたのか?その実態を窺い知ることが困難である。8世紀初頭に日本側で編纂された日本書記、古事記、さらには12世紀になって編纂された朝鮮王朝の「三国史記」の記事を読み解くしかない。

この4世紀後半の倭国の朝鮮半島への進出は、記紀にはどのように記述されているのか。どの天皇の事績なのか特定が困難である。神功皇后による「三韓征伐」のエピソードがある。しかし神功皇后の実在性には疑問があるし時代の特定もできない。こうした記述は、4世紀後半の半島出兵や、後述する5世紀の「倭の五王」の朝鮮の軍事支配権の要求、伽耶/任那をめぐる百済、新羅との外交関係、そして663年の「白村江の敗戦」までの約300年の長きにわたる時間に起きた出来事を、8世紀初頭の記紀編纂時点で倭国(日本)独自の朝鮮史観(朝鮮半島は列島だけでなく天皇の支配する「小中華帝国」の外藩である)に基づき「神功皇后の英雄譚」として取りまとめて創出したものだろう。時代考証を経て記述された歴史というよりは天皇が支配する「小中華帝国」の正統性を描き出すためのエピソードとして編集、脚色された政治的な主張である。

では朝鮮半島へ渡海したのはチクシ勢力か?ヤマト勢力か?この頃はチクシ勢力(邪馬台国勢力)は中華王朝の朝貢/冊封体制の崩壊で力を失い、かわってヤマト勢力が百済との連携で勢力を伸ばしてきた時期である。したがって渡海を主導したのはヤマト王権であろう。だとしても、実際に兵を徴発し出兵したのは大陸に近い北部九州のチクシ勢力であった可能性が高い。のちの「倭の五王」の二人目の珍が438年に「倭隋等十三人」(倭王に繋がる有力者)に将軍号を要求し認められているが、その一人の西征将軍はチクシ王ではないかと考察する研究者もいる。この頃のチクシ勢力(旧邪馬台国)は、列島内で勢力を拡張してきたヤマト王権と同盟関係に入り、その連なりのなかで地域の支配権を維持していた可能性がある。しかし、その首長(チクシ王)は大陸との歴史的、伝統的関係からヤマト王権内でも依然として優勢な地位を維持していただろう。外交戦略や半島への出兵はおもにチクシ勢力が担っていたと考えられる。


5世紀の倭国

概観
「倭の五王」の時代。中華王朝への朝貢(遣使)再開。朝鮮半島の軍事的支配権の主張が目的。ヤマト王権による列島内の統合が進む「大型古墳時代」に。やがて「治天下大王」を名乗り朝貢/冊封体制からの離脱へ。

主な出来事
413〜502年:「倭の五王」(讃、珍、済、興、武)による中華王朝(宋、斉、梁、陳)への遣使。「安東将軍」や「征東大将軍」などに叙任される。
応神天皇陵、仁徳天皇陵など河内の大型前方後円墳(「河内王朝」)
稲荷山古墳、熊本江田船山古墳の鉄剣。


5世紀に入ると、中国の王朝の混乱もようやく収拾に向かい南北朝時代に入る。倭国の王たちは懸案の朝鮮半島の軍事的支配権を認めさせる目的で、中華王朝へ遣使する。実に邪馬台国女王壹与以来150年ぶりの朝貢(遣使)である。

478年の倭王武(雄略天皇)の宋の皇帝への上表文によれば「ソデイ甲冑を貫き、山川を跋渉し、寧所にいとまあらず云々」として倭国内を東から西まで平らげ、さらには海北を渡り朝鮮半島までその支配圏を広げ「もって皇帝の東夷の藩塀として帝国の繁栄と安寧をお守りする所存です」という趣旨のことを上表している。国内の平定はともかく、朝鮮半島における軍事的な支配権の承認(「安東将軍」などの軍郡号)を求めている。これは朝鮮半島における権益(伽耶地方の鉄資源を巡る権益)を巡っての百済、新羅、高句麗などとの支配権争いを中華皇帝の権威で決着をつけようというものである。この倭国内平定を経て、海北を平らげ、朝鮮半島を「ヤマト王権の天下」に併合、という「小中華思想」の始まりと考えられる。以降、「朝鮮は倭国/日本の朝貢国である」という、一方的な認識、「朝鮮史観」が記紀においても表現されるようになる(先述の神功皇后の「三韓征伐」譚など)。

しかし、一方で、中華王朝に朝貢し冊封を受けるという統治権威の承認のプロセスは、力を持ち始めたと自認するヤマト王権にとっては見直しの時期に来ていた。朝鮮半島における軍事支配権の承認は別にしても、倭国内の統治権を中国皇帝に承認してもらう必要はないとして、自ら「治天下大王」すなわち「小中華の皇帝」を名乗り始める。478年の武(雄略)の入貢を最後に、以降1世紀にわたって(遣隋使まで)遣使を行うことはなかった。遣隋使や遣唐使は冊封を求めていないので、倭国(日本)は朝貢/冊封体制からこの時に離脱してと言って良いだろう。

またこの頃さかんに、列島内では(応神天皇陵)や大仙古墳(仁徳天皇陵)などの巨大な大王墳墓が造営される。こうした前方後円墳(河内の古市古墳群、和泉の百舌鳥古墳群)は、難波津から河内や飛鳥の都に向かう外国使節の目を意識した巨大な構造物で、倭国の権勢を誇示する目的があったと考えられる。ヤマト王権が、諸国(朝鮮を含む)の「王」の「王」(King of Kings)、すなわち「大王(おおきみ)」であることを国内外に知らしめるモニュメントであった。一方、この頃の地方の有力者古墳築造に、大和の大王墳と同様の形式(前方後円墳)をコピーすることを認め、ヤマト王権が地方豪族に「統治権威」を与えるシステムができていた。さらに、そうした地方の古墳からは雄略大王の統治の様子を窺わせるものが出てきた。埼玉稲荷山古墳、熊本江田船山古墳から出土した鉄剣銘(ワカタケル大王、「典曹人」や「杖刀人」などの官職名、「治天下大王」の文字)から、雄略大王(ワカタケル、倭王武)が官位官職制度により地方豪族に官職を与えた様子が窺える。これはのちの姓(かばね)制度の先駆けとなるものである。また「治天下大王」を名乗り始めた様子がうかがえる。ヤマト王権が中華皇帝の統治手法を取り入れていったのであろう。

記紀には雄略大王の国内平定物語(倭王武:獲加多支鹵の宋への上表文に記述されるような)が、ヤマトタケル(景行天皇の皇子)の物語として記述されている。ここでは熊襲平定(狗奴国の末裔)、出雲平定、東夷(東海道、東山道)平定、蝦夷平定が取り上げられており、先の崇神大王の王族将軍「四道将軍」の平定譚とあわせ、ほぼ倭国の全体をヤマト王権が支配統合したことになる。しかしそのなかに筑紫(旧邪馬台国)平定の話は出てこない。なぜなのか?先述のように4世紀の朝鮮半島出兵で筑紫がヤマト王権の兵站を担っていたらしいことでチクシ勢力(邪馬台国残存勢力)はヤマト王権に服属(同盟)したかに見える。しかし先述のように王権内で隠然たる勢力を温存していて最終決着はつかなかった可能性がある。雄略の国内平定物語も、その内実は必ずしも武力による完全制圧ではなく、地域豪族や畿内豪族との交渉や懐柔、調略による同盟関係(アライアンス)であった。上述のように、その同盟の証として剣や玉などの威信材を「下賜」する、大和型前方後円墳による埋葬儀礼を承認する、王権の官職をあたえる、などの「小中華皇帝」然とした統治形態を取った。したがって筑紫のような有力地域の豪族(王)は、服属を誓い同盟関係に入ったとはいえ、王権内に抱える隠然たる勢力であっただろう。この最終決着は次の世紀に持ち越される。



6世紀の倭国

概観
継体/欽明朝へ。王統の断絶から血統による「世襲王族制」の誕生。筑紫磐井との戦いで筑紫(旧邪馬台国連合)の完全統合。しかし朝鮮半島政策の挫折。

主な出来事
507年:高志国のヲヲド王の即位「継体大王」楠葉宮にて
512年:百済に加耶四県を渡す
526年:大和入り(即位から20年後)
527〜529年:筑紫の磐井(邪馬台国の政治的末裔)との戦い。
532年:加耶金官国が新羅に奪われる
538年(あるいは552年):欽明大王の時、百済聖明王より仏教伝来。百済との結びつきが倭国の海外戦略の基本となる。
554年:百済王、新羅に殺される。百済救援のため出兵
562年:加耶、新羅に滅ぼされる
593年:聖徳太子摂政に

ヤマト王権は、これまで血縁による王統の世襲などという王位継承システムは確立しておらず、崇神大王の「三輪王朝」から応神/仁徳大王の「河内王朝」への交代、その「河内王朝」も武烈で途絶え「継体王朝」へと、王統の断絶、交代があったと考えられている。継体大王は、応神大王から数えて十一代目、雄略大王から五代目とされるが、応神から130年ほど、雄略から50年弱しか経過しておらず、そもそもこの間の天皇が全てが実在のものか疑わしい(平均するとおのおの10年足らずの在位期間しかない)。ここでヲヲド王(継体大王)を担ぎ出し「王統の継続」を演出するにはそれなりの理由があったのだろう。王権に連なる大伴金村や、物部麁鹿火などの畿内氏族の役割が大きいが、この時代から王統を「持続可能な」安定的なものにしようという政権周辺の思惑があったのではないかと考える。ヲヲド王は近江、越前を基盤とし、尾張つながりの地方豪族である。応神天皇五世の子孫という傍系で、武烈の姉である手白香皇女との婚姻を通じて本流の血統を継承したとしているのである。

ヲヲド王/継体は高志(越)の首長であった時代から独自の朝鮮半島との交渉ルートを持つ人物で、日本海、琵琶湖、淀川水系、伊勢湾の水運を掌握していたとみられる。これがヤマト王権の盟主になった。しかし、これは北部九州を基盤とし、伝統的に大陸との通交に大きな実績と影響力とを持っていたチクシ勢力(旧邪馬台国の末裔)にとっては由々しき事態である。その首長である筑紫磐井は現在の福岡県八女地方(邪馬台国に比定地にもなっている)に本拠を置き、九州の北半分、筑紫、肥、豊の三カ国を支配下に置く大豪族(チクシ王)である。さらに配下の海人族である安曇族や胸形族を通じて大陸、朝鮮半島との通交を支配していた。300年前の「邪馬台国の政治的末裔」と言って良い。対半島政策/外交路線で混迷していたヤマト王権内において、この筑紫磐井と大王についた高志出身のヲヲド王/継体との対立が鮮明になっていった。すなわち継体の百済との同盟に基づく朝鮮半島への出兵に際し、磐井が新羅と手を結んで対抗した。このように「筑紫磐井の乱」は、継体/百済 vs  磐井/新羅の戦いである。そもそも先述のように朝鮮半島への出兵にあたって兵士の徴発や、武器や物資調達、輸送などの兵站はほぼ全て筑紫にゆだねられていたから、磐井にとっては自分の外交ルート、同盟関係と合わない継体や物部の指示には従うわけにはいかなかった。

このように継体と磐井の戦いは、「大和朝廷」支配下の一地方役人「国造」(そもそも国造は7世紀後半以降ん創設された地方官職である)の「反乱」などではなく、ヤマト王権内部の朝鮮半島問題をめぐる対立、ひいては長年、根っこで燻り続けるチクシ王権とヤマト王権の対立によるものであったと考えるべきだろう。筑紫磐井は3年にわたる戦いでついに征討将軍物部麁鹿火に敗れ、殺された(生き延びたという伝承が風土記に残っている!)。ヤマト王権がようやくチクシ勢力を服属させ、倭国統合を完成させた(王権の直轄地である「屯倉」を置く)。すなわち「邪馬台国の終焉」である。磐井の息子、葛子は「粕屋の屯倉」を王権に差し出して「反乱罪」の連座を逃れる。そしてそのまま筑紫の支配を任される。敵を殲滅するのでなく取り込んで既存勢力による現地支配を認めるという、地方の統合過程でよく用いられる手法がここでも使われた。しかしこうした歴史の記憶が、現在まで続く九州(筑紫)人の底流にある根強い反中央意識の根元となっている。「邪馬台国の亡霊」が今も生きている。

ちなみに、この時、弥生時代から大陸との通交に重要な役割を果たしてきた筑紫の海人族は明暗を分けることになる。筑紫磐井側についた海人族「安曇族」(志賀海神社)は、磐井の滅亡と共に、筑紫の地を去り流浪の民となる。一部は信州安曇野(穂高神社)に一族の拠点を移し、あるいは全国のアズミ/シカ由来の地名(熱海、渥美、滋賀など)が残る地域へ移動していった。のちにヤマト王権に参加した安曇比羅夫は白村江の戦いで戦死する。一方もう一つの海人族「胸形族」(宗像大社)は戦いの時にはヤマト王権側に加勢し、戦後は本領安堵され、支配地域は王権にとっても神聖な宗像神郡となる。倭王権内の重要な豪族宗像氏として天武天皇の妃を出す宗像徳善などの実力者を出す。奉祭する宗像三女神はアマテラスとスサノヲとの誓約(うけい)から生まれとされ、皇祖神アマテラスより「天皇を助けよ」との神勅を得て、海北道(すなわち大陸への通交)国家祭祀を受け持つ一族として日本書紀に記述されるまでになった(沖ノ島遺跡が世界遺産)。

こうして、邪馬台国の末裔は歴史の表舞台からは消え、ヤマト王権の統一事業の完成となった。中央集権的な王権の確立。血統による世襲制の「大王家」の創出という基礎がこの時できた。また継体大王は天照大神を大王家の祖神として祭祀を行なった最初の大王である。すなわち崇神大王(三輪王朝)の大物主(大国主の別神で国津神)祭祀に代わる天津神祭祀である。これが7世紀〜8世紀の「天皇制」「律令制国家」「皇祖神祭祀」「「日本」建国へとつながっていった。

しかし、一方で継体大王は「百済同盟」路線により任那三国を新羅に奪われ、朝鮮半島政策に失敗する。これが以降の朝鮮半島における倭国の利権喪失の第一歩となる。磐井は草葉の陰から「だから言っただろう!もう手遅れじゃ」と嘆いているかもしれない。まさに「歴史にタラレバは無い」であるが。



7世紀の倭国

概観
大帝国隋/唐の成立、遣隋使/遣唐使派遣、「白村江の戦い」で史上最大の敗戦、朝鮮からの撤退。国内体制の立て直し「近代化」。天皇制、律令制、倭国から「日本」建国の世紀へ

主な出来事
603、604年:冠位十二階、十七条憲法制定
607年:遣隋使派遣
639年:遣唐使派遣
645年:乙巳の変(蘇我宗家滅亡)
646年:改新の詔
662年:阿部比羅夫を百済救援のため派遣、しかし百済滅亡
663年:百済復興の白村江の戦いで、唐/新羅連合軍に大敗、朝鮮半島からの撤退。
664年:筑紫太宰府に水城、大野城、基城構築
672年:壬申の乱で天武天皇即位、天武/持統体制へ
689年:飛鳥浄御原令(700年の大宝律令へ)
694年:藤原京遷都
律令制、公地公民制、天皇制、藤原京、記紀編纂、国号を「日本」へ


この時代の天皇の事績、出来事を改めてここで再考察することが本稿の目的ではないのでこれ以上の探訪は止めるが、ようやく3世紀中葉の崇神大王以来、400年のヤマト王権の全国制覇の戦いは、「天皇制」の国家「日本(ひのもと)」の建国という形で実を結んだことは間違いない。この世紀にこの古代史の画期を大きく後押ししたのは「白村江の戦い」での大敗により朝鮮半島から撤退するという国家の危機であった。倭国は391年の半島への渡海以来、270年の長きにわたって同盟国であった百済を失い、倭国の安全保障と「核心的利害」の中心にあった朝鮮半島における権益と政治的立ち位置を放棄せざるを得なくなった。それどころか唐/新羅による列島侵攻の危機に直面する。しかし、この国難をきっかけに(あるいはこれを奇貨として)、豪族が力を有する(豪族に擁立された大王、私地私民制)政治体制から、天皇中心の中央集権的な国内統治体制の強化(天皇制、公地公民制、律令制、記紀編纂、皇祖神創出、仏教の鎮護国家思想化など)を押し進めた。「倭国」から「日本(ひのもと)」へ、「大王(おおきみ)」から「天皇(すめらみこと)」へ。後世の「明治維新」に準えて言うならば、いわば「大宝維新」である。これをリードし完成させたのが天武/持統天皇である。そしてこの天武天皇の命により編纂されたのが古事記であり日本書紀である。


エピローグ

これまで見てきたように倭国のあり方は、東アジア情勢と切っても切れない。列島内、まして近畿大和盆地での王権(のちの大和朝廷)の動きだけを見ていても全体像は掴めない。初期においてはその影響を直接的に受けたのは大陸と海峡を隔てた一衣帯水の北部九州のチクシ倭国、すなわち奴国、伊都国、邪馬台国のような国々であった。いや、むしろこれらの国々は中華文明の列島におけるフロンティアであった。大陸から多くの人々が、いろいろな事情で列島にたどり着き、稲作農耕を持ち込み、鉄器を持ち込み、気象や灌漑/土木の技術を持ち込み、思想や習俗を伝えた。そうした人々のコミュニティーが大きな力を有していた地域であっただろう。そうでないと文字も外交プロトコルも知らない「倭人」が中華王朝と通交することもできなかった。しかし、やがて時代を経るに従って(上に見てきたように)、倭国の中心は大陸に近いところから、東の列島中央部に移っていった。より列島全体を統治するに便利な場所、列島内の経済や流通の中心となる地域、あるはより大陸から一定の距離を置いた安全な地域へと移っていったのだろう。文明と富が東に遷移し列島各地に行き渡り始めたからでもあろう。そして倭国自体が成長するに従って、その統治権威や統治権力は、大陸(中華王朝の権威)とは距離を置きながら独自に発展し認知されていった。中華思想の日本版「小中華思想」である。それが日本の外交や対外戦略にいどのような影響を与えたのか。4世紀の朝鮮半島への出兵に始まり、7世紀の白村江の戦いでの大敗北と権益の喪失に終わる、外交下手、戦争下手の歴史はこの頃からの日本独特のものであろう。歴史は繰り返されるのである。歴代中華王朝や朝鮮半島諸国などと異なり、島国であったことから古来外敵が侵入することも少なく、王権が外国勢力に簒奪されたり、王族が殺されて王統が途絶えたりしたこともない。中華王朝のような「易姓革命」による王朝交代という政治思想は、天帝思想の導入にあたって日本では丁寧に取り除かれ、皇帝自身が天神の子孫であるから打倒されることはありえないとした。「万世一系」の皇統というフィクションを統治権威として持続可能な制度にしてゆくことが我が国の「国体」となった。7世紀末から8世紀初頭の「日本建国」「天皇制創設」時にあっては、「脱・朝貢/冊封国家 邪馬台国」はヤマト王権のスローガンだった。その決意と、それに基づく「天皇の物語」が古事記であり、「統治の正統性の政治的表明」が日本書紀である。



参考書籍:

「戦争の日本古代史」倉本一宏著 講談社現代新書
「内戦の日本古代史」倉本一宏著 講談社現代新書

どちらも戦争、内乱などから古代日本の形を描き出そうとする意欲的な書である。
また「大学の日本史 巻一(古代)」佐藤信編 山川出版の2章から6章までの筆者の記述が参考になる。いずれも私が今まで読んだ古代史に関する文献、書籍のなかでもっとも自分の分析と説に近く、意を強くさせてくれ、大きな影響を与えてくれたものとして紹介したい。




2020年4月15日水曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第一弾)〜邪馬台国位置論争は「北部九州説」で決着?〜

三輪山山麓の纒向遺跡全貌
左に居館跡、右には箸墓古墳
背後には三輪山
(桜井市HPより)

2009年の纏向居館跡(王宮?)発掘現場
九州佐賀の吉野ヶ里遺跡復元建物
邪馬台国の姿を彷彿とさせる佇まい
「三国志魏志東夷伝倭人条」


日本の古代史の謎に関わる論争の一つに「邪馬台国位置論争」がある。毎度マスメディアなどでこの話題が出るたびに、専門家、古代史愛好家、素人を含めて大いに盛り上がる。あまりにも史料が少ないので「素人歴史探偵」も参戦しやすく、持論が罷り通りやすい論争でもある。しかし「どこにあったか」という問いそれ自体はそれほど意味のあるものではない。3世紀の日本列島の有様、倭国はどのような姿であったのか、どのようにしてヤマト王権、統一王権が近畿地方に成立したのかを解明する上での一テーマとして論ずるべきだと考えてきた。考古学的な出土物が出るたびに「やっぱり近畿だ」、「やっぱり北部九州だ」と。もういい加減にしてくれと言いたいし、これ以上やるつもりはないのだが、最近、変な決着をつけたがる論調が勢いを増してきているので看過できないと思い筆を取った。


邪馬台国は近畿にあった?

最近、邪馬台国論争には一定の決着がついたとする論者が増えてきたようだ。すなわち纒向遺跡の発掘が進むにつれ、ここが邪馬台国の女王卑弥呼の宮殿であったことが確かになってきたと主張する。すなわち邪馬台国近畿説が正しい、「これで決まり」と断ずる空気が横溢している。これはマスコミに登場する考古学者に多い。白黒決着つけたがるマスコミの責任が大きいのだが、本当にそうであろうか?何を根拠にそう断定するのか?纒向遺跡は古代史を解明する上で重要な遺跡であることは言を待たないが、何故それを「邪馬台国」、「卑弥呼」にすぐに結び付けようとするのか。どうも議論の飛躍がある。それは邪馬台国を近畿、奈良に誘致したい人の「思い」であって、研究者の「真実解明の姿」ではない。あるは古代の日本は邪馬台国に始まり、それが初期ヤマト王権、天皇制に繋がって行った、というナイーブなシナリオに基づく「思い込み」である。そもそも邪馬台国が近畿(奈良盆地)にあって、大和のルーツ、天皇のルーツなら、何故、日本の成り立ちを記述したとする正史「日本書紀」や、天皇の記である「古事記」は、古代中国の正史に記載されている邪馬台国にも卑弥呼にも一切言及していないのか?この問いにどう答えるのか。それだけでも、纒向遺跡の宮殿跡(居館跡)を見ただけで安易に問題解決とする姿勢には疑問を感じざるを得ない。むしろ現地の発掘責任者の方が慎重で、マスコミの誘導尋問(「ここが卑弥呼の宮殿ですね?」という)にもバイアスのかかった見解を絶対に示さない。正しい実証的な研究態度だろう。


いや邪馬台国は北部九州にあった。

結論を先に言えば、文献史学的、すなわち歴史学的には邪馬台国は北部九州にあったことは明確であろう(具体的な場所の特定は未だできていないが)。むしろそういう意味では邪馬台国九州説ですでに決着済みと言って良いかもしれない。そもそも邪馬台国、卑弥呼に関する初見は中国の史書「魏志倭人伝」(三国志魏書東夷伝倭人条)で、他に邪馬台国や卑弥呼に言及した史料は中国にも日本にもない。のちの中国側の史書に登場する場合も魏志を引用、あるいは参考にした記述となっている。先述のように日本側の史料、すなわち日本書紀や古事記には一切の記述がない。したがって謎の解明は魏志倭人伝をどう読み解くか以外に方法はない。限られた文字数(2000字ほど)で不正確な記述も多いが、この時代の記録としては「唯一」のものであるし、当時の倭国の様子を知る一級の史料である。これを素直に読めば邪馬台国が九州にあったことはあきらかである。考古学的発見は傍証の役割を果たすことはできるが、その全体像を解明するにはあまりにも「点」としてのカバレッジしかできていない。


なぜ邪馬台国が近畿にあったと言い切れないのか?

1)纒向遺跡からは卑弥呼の存在を証明するものも、邪馬台国の存在を窺わせる証拠も一切出ていない。わかってきたのは居館(宮殿)の構造と建物の年代とその規模。東西軸という方位に則った居館の配置。桃の種が大量に1カ所から出土したことから、中国の神仙思想の影響を受けた祭祀が行われていたらしいこと。出土する全国から集まってきた土器の多様性。纒向遺跡が弥生の環濠集落とは異なる都市的な構造を持っていること。築造された前方後円墳、箸墓やメスリ山古墳が最初期型の古墳であること。そのどれもが年代測定法により3世紀半ばの構造物らいしいことであることである。確かに3世紀だと魏志倭人伝に記述のある卑弥呼が魏に朝貢し「親魏倭王」の印綬を受けて冊封された(238年)時代と符合する。しかし、時代が同じ(年代測定法が信頼できる前提で)であるというただそれだけのことだ。繰り返すが纏向遺跡が「邪馬台国」の遺跡であるということを証明する考古学的な証拠は一個も見つかっていない。いわば同年代であるという状況証拠による「推定」に過ぎない。ここから卑弥呼がもらったという「親魏倭王」の金印か、封泥のような「物証」が出れば話は別だが。
2)一時期、奈良の田原本町の黒塚古墳から出土した大量の三角縁神獣鏡が、これこそ卑弥呼に贈られた魏の銅鏡100枚の一部であると話題になったことがある。これぞ邪馬台国、卑弥呼の存在を証明する「物証」と騒がれたが、その後の研究でこれらの多くは仿製鏡(列島内で作られた)ものであること、大量に生産された二級品であること(あちこちで出土し合計で500枚を超えている)、肝心の中国国内では三角縁神獣鏡は一枚も発見されていないことが判明。ちなみにこれらの鏡は呉からの渡来工人が近畿地方内で制作したとの研究も発表された。むしろ北部九州の伊都国の平原遺跡王墓や三雲南小路遺跡からは数多くのオリジナルの前漢鏡、後漢鏡、魏鏡が大量に出土していることなどから、3世紀以前においては、北部九州の方が中国製の鏡の出土数が近畿を圧倒していることがわかっている。すなわち考古学的にも、邪馬台国が近畿にあったとする証拠は出ていないことになる。
3)文献史料による説明が困難な近畿説、これはパラグラフを改めて次に説明しよう。


なぜ邪馬台国は北部九州にあったと言えるのか?

文献史学的なアプローチである。これは先述のように、現存する唯一の史料である「魏志倭人伝」(2000字ほどの記述)をどう読み解くか、その史料をどのように評価するか、ということに尽きる。この読み方には様々な解釈、議論があり、まさにこれが「邪馬台国論争」を生んでいるのだが、異説、奇説は数あれど大方の歴史研究者の間では九州説が有力である。最近、複数の中国、台湾の研究者(歴史学者、古代中国語研究者)による魏志倭人伝の解読の結果が日本で紹介されているが、これらの解説によると、共通しているのは「邪馬台国は九州にあったとしか読めない」と結論づけている。その根拠は...

1)記述されている「距離」は中国の古代文献に関してはあてにならない。西域へのルートの記述にもあいまいなものが多く、結局ははるけき遠くという印象を与える記述が多い。実際に見聞し、まして自分の足で測ったわけではない。魏志倭人伝の「水行陸行」の道のり記述はそうした蛮夷の国、地域がいかに遥けき遠国の地であるかという印象を与えるためのものである。従って、仔細に分析することは無意味である。
2)これは当時の中国の徳治思想、華夷思想の表現形態である。すなわち皇帝の徳が中華世界を遥かに超えて、蛮夷の民にも行き渡っている。そのはるか辺境の蛮族の民からも慕われて朝貢してくるのだ。それが遠ければ遠いほど徳が高い皇帝である。まして大陸国家である中国にとって、はるか東の海中の倭国から朝貢してくるということは如何に魏の皇帝の徳が世界に行き渡っていて(呉や蜀よりも優越した)「正当な」漢王朝の後継者であるか、ということを強調したかった。
3)しかし、距離に関しては誇大に記述することはあっても方角を間違えることはない。倭国内に関しても(倭人からの伝聞であったとしても)誤った記述をしているとは考えられない。従って近畿説論者が強弁する「南「は「東」の間違いだ、という「解釈」はありえない。邪馬台国は奴国、不弥国の南にあり、狗奴国は邪馬台国のさらに南にあり、「全て倭種である」国々が邪馬台国の東にあるという記述は正しいだろう。
4)魏志倭人伝はこのように邪馬台国の東にも倭人の国々が存在することを認めている。すなわち倭は(列島は)邪馬台国女王卑弥呼の支配地域だけではないとの認識を記述している。
5)邪馬台国女王卑弥呼が治める30国は全て北部九州内としか読めない。地名や当時の国の規模(戸数や、のちの律令制の郡に相当するサイズ)の記述からそう読むのが自然である。また邪馬台国だけが、北部九州にある奴国や伊都国、不弥国などの国々からはるか遠く離れた東(近畿)に存在しているとは読めない。不自然である。
6)「邪馬台」とは和人の音の当て字だが、古代中国語によれば「山」という意味である。朝鮮半島の狗邪韓国から渡海し、海上から展望した倭国(すなわち北部九州)の山がちな風景を描写したものだ。
7)そもそも歴史書としての「三国志」は魏書しか残っておらず、その限られた史料だけで、ましてはるか東海中に浮かぶ列島の倭人の国の全容(邪馬台国以外の国々)が解明されると考えることには無理がある。消えてしまった文献資料や未発見の史料もあるはずだ。そこには魏志倭人伝とは異なった視点で描かれた倭人の世界がある可能性がある。

これまでも多くの日本の古代史研究者による文献史学的考察からも同様の解釈、指摘がされて、それゆえに「九州説」が有力とされてきた。興味深いことには、戦後の日本では東洋史学から入った研究者は九州説。国史学から入った研究者は近畿説となる傾向があるという。倭国のあり様を東アジア的な視野で見る姿勢と、「大和朝廷」ありきの視点からスタートする姿勢で答えが違ってくる。もっとも戦前には有名な東京帝国大学白鳥庫吉(九州説)と京都帝国大学内藤湖南(近畿説)の論争があり、双方とも東洋史学の研究者であった。同じ東洋史学者であった橋本増吉は「近畿に大和朝廷ありき」の研究姿勢を批判している。私は一国の成り立ちやその発展が、世界史的なスコープ抜きで考えられるものではないという立場を取るので、この結論の違いは非常によくわかる。この考え方を補完するような今回の中国、台湾の研究者たちの論考。私にとってはやはりそうかと納得する。また、これまでの日本国内の「近畿、九州誘致合戦」のような「オラが国」論争から離れたそういう第三者評価が新鮮である。邪馬台国九州説が新たな視点による解読で一歩証明に近づいた感じがする。


「邪馬臺国」位置論争にはどういう意味があるのか?

そもそもそれを考えなければ、単なる各地域の「邪馬臺国誘致合戦」になってしまい論争する意味がないだろう。要するに3世紀当時の日本列島の政治勢力図はどうなっていたのか?という問題につながる。すなわち「近畿説」に立てば、すでに3世紀初頭には奈良盆地に存在した邪馬臺国によってほぼ列島全域が統一的に支配されており、この邪馬臺国や女王卑弥呼は後のヤマト王権、「大和朝廷」、天皇家の始祖である、ということになる(日本書紀や古事記にそのような認識を示す記述はないが)。一方「九州説」に立てば、3世紀当時は列島にはまだ統一的な政治支配勢力は成立しておらず、各地域勢力が分立し併存した状態にあった。邪馬臺国や女王卑弥呼は北部九州(チクシ)を中心とした有力な勢力ではあるものの列島全域を統一するまでには至っていなかった(地方王権であった)ということになる。さらに「九州説」はこれ以降の邪馬臺国の運命について大きく次の二説に分かれる。近畿へ「東遷」して奈良盆地に入り、後のヤマト王権の元となったとする説。奈良盆地に発生した「ヤマト」勢力、初期ヤマト王権の支配下に入り消滅したとする説(この時期については諸説あり)。これらに説にもまたそれぞれに異説が様々に存在する。

先述のように「邪馬台国論争」は、ともすれば邪馬台国の地元誘致合戦になりがちである。近畿、九州以外にも様々な候補地が上がっていて百家騒鳴状態だ。自分の住んでいるところや故郷にあればいいのにという期待感でいっぱいだ。しかし私は福岡出身であるが、以前は邪馬台国が北部九州にあったとは全く考えてなかった。福岡県山門郡女王山(ぞやま)や朝倉郡八女(やめ)、甘木の郷土史家の先生方には悪いと思うし、そこにあったら面白いのになあと考えてみたことはあったが、それはロマン/妄想であって史実ではないと考えていた。日本の発祥の地である奈良盆地の大和(音からみてもヤマトじゃないかという素直な解釈)に決まっている。九州説は異説であり少数意見だと思っていた。また学校で教わった「日本史」では、近畿の「大和朝廷」が早くから日本を統一した政治勢力であることを疑いのないものとして説明していた。しかし、のちに古代史を俯瞰し、東アジア視点で倭国を見つめ直し、かつ各文献史料(魏志倭人伝、日本書紀、古事記など)の成立過程やその編纂の背景を子細に研究し直すに従って、近畿説には無理があると考え始めた。また考古学的には「近畿説」が有力とされているものの、実は決定的な考古学的証拠はなにもないこともわかった。特に大阪勤務時代に足繁く大和路散策に出かけ、飛鳥や三輪山山麓を巡るにつれ、またそれに刺激されて、我が故郷福岡の糸島市や春日市、筑後山門郡、八女の磐井の古墳、佐賀吉野ヶ里を再訪するにつれ、古代史における国家成立の歴史は「邪馬台国」「卑弥呼」をルーツとして一本調子で単純な道を歩んできたのではないことがわかってきた。日本列島に統一的な王権(それを教科書では「大和朝廷」と教えてきた)が成立するのは「邪馬台国」卑弥呼の3世紀の時代からさらに降った5〜6世紀、さらには古事記/日本書紀が成立した7〜8世紀であったことがわかってきた。換言すれば、後述するように3世紀時点では魏志倭人伝が認識した「邪馬台国」が列島に存在した(あるいは代表する)唯一の国家、王権ではないと言うことでもある。当時の列島、倭国は統一王権のいまだ存在しない、いくつかの地域連合や国が分立する状態であった。その中で邪馬台国は北部九州の地域国家連合(チクシ王権)であった。そう考えると奈良盆地という山に囲まれた内陸部の大和がなぜ日本の中心になったのか不思議にすら思えてきた。中華文明のフロンティアが、北部九州の筑紫から東へ遷移して行ったことは想像できるし、ある程度考古学的にも証明されているが、いつ、どのように、なぜ大和に至ったのか。そこになにか国家成立の秘密を解く鍵があるように感じた。


では大和の纏向遺跡はいったい何の遺跡なのか?

結論を先に言うと、これは「初期ヤマト王権」の遺跡である。初めての王宮遺跡であり、ヤマト倭国の王都の遺構である。これが見つかったことは画期的である。のちの奈良盆地内を点々と移転した「大王の居館」「天皇の宮/朝廷」の始まりがここであろう。この纏向の居館にいた初期ヤマト王権の王は誰であったのか?これはまだ解明されない。古事記や日本書紀にある、最初の実在の「天皇」と言われる「はつくにしらすすめらみこと」「みまきいりひこいにえのみこと」(崇神天皇)であったかもしれない。いわゆる「三輪王朝」である。ここからヤマト王権が伸長し、地域豪族を配下に治め、あるは豪族に擁立されて「大王(おおきみ)」となり、大和を中心とした倭国/列島の統一が進み、やがて「天皇」を中心とする統合政権(かつて「大和朝廷」と称された)が生まれて行った。そういう意味で日本の古代史解明に一歩近づく歴史的な遺跡の発見である。しかし、繰り返すが、その初期ヤマト王権と邪馬台国は別物である。ここは邪馬台国の女王卑弥呼の宮殿ではない。


邪馬台国と初期ヤマト王権とはどのような関係だったのか?

3世紀の列島内の状況を見てみよう。これまで何度もブログで論じてきたように、この頃はまだ倭国全体(日本列島全体)を統治する政治勢力は成立していなかった。北部九州には邪馬台国を中心にチクシ倭国(地域連合)が、山陰には出雲が、そして瀬戸内の吉備、北陸の越、東国の尾張、関東には毛野などがあった。列島のあちこちに大小のムラ、クニから発展した国、地方豪族の支配する国が並立していた。徐々に地域ごとに国と国が連合する動きが出始めて、地域連合を形成し始める。その一つが筑紫の邪馬台国連合(30カ国から構成された)である。大陸に近く、列島における中華文明のフロンティアーであり、渡来人コミュニティーも大きく、先史時代から稲作の伝来などの大陸の影響を直接受けてきた地域だからこそ、奴国王や伊都国王が後漢に、そして邪馬台国女王が魏へ使者を送り朝貢し冊封を受け「王」を名乗った。当時は「王権」を主張する以上は中華王朝への朝貢/冊封が必須で、中華皇帝による支配権威の認証があってはじめて「王」を名乗ることができた。その記録が魏志や後漢書に残ったということだ。邪馬台国が当時の先進的で有力な地域連合王国であったことは間違い無い。しかしだからと言って邪馬台国が(卑弥呼が)倭国全体、列島全体を支配下に置いていたと考える必要は全くない。あるは列島全体を代表して中華王朝に朝貢していたと考える必要もない。魏志倭人伝にも記述されているように邪馬台国の他にも、その東には「すべて倭種」の国々があった。むしろ他地域勢力と争っていた可能性がある(狗奴国との戦いなど)。「倭国大乱」の余燼は燻っていただろう。だからこそその統治権威を得るために中華皇帝に朝貢し冊封を受け「王」を名乗った。列島内には先述のように、他にも様々な地域勢力が存在していて、統一された状態にはなかった。ある意味「群雄割拠」状態であった。争いもあったであろうが、並立する地域勢力の間に、徐々にアライアンスを結び力をつけてくる勢力が現れたと考える。その中に(九州の邪馬台国連合に対抗して)勢力を伸ばしてきた国や地域連合があっただろう。それが出雲であり大和であっただろう。彼らは大陸との交流も試み、邪馬台国女王に対抗して、中国の王朝(魏と対立する呉)に朝貢し、冊封を得た(得ようとした)可能性がある。この間の事情は、後述のように記録として残っていないので、今となっては証明のしようがないが、巨大な古墳を造営する大和勢力が大陸となんらかの通交関係を持っていた可能性は高い。「王」を名乗った可能性も否定できない。ともあれ列島がある程度統一状態に移行するのは4世紀末から5世紀の「倭の五王」の時代である。それがヤマト王権である。では邪馬台国はどうなったのか?

一方、中国の歴史書、三国志の方も「魏書」は後世に残った(編者の陳寿は魏、晋の官僚である)が、魏、晋に滅ぼされた蜀、呉の正史(列伝だけが残る)は残っていない(正史「三国志」に採録されていない)。したがって倭国に関する記録は魏志倭人伝だけが後世に残され、倭国の様子を物語る唯一の信頼できる文献資料として残った。三国のうちの「呉」は建業(建康のちの南京)を根拠地とし、長江河口から海上交通を支配し、夷州(台湾?)や琉球、フィリピン、ベトナムと交流していた痕跡が残っている。その呉は、邪馬台国以外の倭国、南九州の狗奴国や近畿奈良盆地に拠点を置く大和国(初期ヤマト王権)と通交していた可能性はないのか?大和と呉の通交の証は、中国側、日本側ともに文献資料としては残っていない。しかし大和古墳群や鏡(倭国で呉の工人が制作したと思われる)、日本に伝わる風俗や言語などにその痕跡を窺わせるものがある。歴史のミッシングリンクである。

こうして邪馬台国女王と初期ヤマト王権は、同時代(3世紀〜)に並存していた可能性がある。いつまで並存していたのか、いつどのようにヤマト王権がチクシ王権(邪馬台国)を凌駕して行ったのか不明であるが、6世紀のヤマト王権のヲオド王(継体大王)によるチクシ王権の筑紫磐井王の打倒(「筑紫磐井の乱」として記紀に記録されている事件)まで、邪馬台国の影響力は残っていたと考えられる。一方でチクシから邪馬台国勢力が東征して近畿奈良盆地に初期ヤマト王権を開いた、とする歴史研究者もいる。しかし、このように邪馬台国と初期ヤマト王権とは同時代に並存していた勢力であるとすれば、その説は取ることができない。もっとも、ヤマト王権が奈良盆地に自生した勢力(土着の勢力)が発展したものとも考えられない。弥生時代の奈良盆地の唐古・鍵遺跡の環濠集落が纏向の「王都」に遷移した形跡は見つかっていない。また3世紀以前の国や王権の存在をしめす遺構や威信材(鏡、剣、玉など)も見つかっていない。おそらく初期ヤマト王権は「無主の地」に他地域から移動してきた勢力が立てた王権である可能性が高い。それがチクシ(2〜3世紀初め「倭国大乱」の結果)から移動してきた勢力なのか(神武東征神話)、出雲勢力(国譲り神話)なのか、それとも... このあたりの動向は一切不明である。ここで古事記や日本書紀を引っ張り出してどのようにして初期ヤマト勢力が発生し、初期ヤマト王権が成立したかを議論し始めるわけであるが。これは邪馬台国論争とは別の大きな歴史上の謎である。記紀が本当に史実を元に編纂されているのか。あるはその記述が何かしらの歴史の記憶をもとに脚色されたものなのか。もう一つの論争の渦に足を踏み入れることになる。


邪馬台国と初期ヤマト王権の違い

ところで話を戻す。3世紀当時のチクシの邪馬台国とヤマトの初期ヤマト王権とを比較してみると、同時代の王権にもかかわらずその性格が全く異なることに気づく。このこと自体が邪馬台国が近畿にあって、のちのヤマト王権につながって行ったという近畿説を覆すもう一つの証であるとも言える。

1)墓制
邪馬台国は墳丘墓、甕棺墓中心で、王墓の副葬品は大陸由来の威信材に溢れている。ヤマト王権は独特の景観を有する巨大な古墳である。しかし副葬品は仿製鏡などのコピー材。巨大な古墳の多くが「陵墓指定」されているので調査出来ず未解明である。
2)都市の形態
邪馬台国は、魏志倭人伝にも記述があるような柵に囲まれ、楼閣を有する環濠集落(吉野ヶ里、板付など北部九州に典型的な弥生の農耕集落的な様子を持つ)であるのに対し、大和は纏向型の東西軸(のちには南北軸)という、一定の都城設計思想に基づく計画都市、生活感のない人口都市である。
3)政治と統治体制
邪馬台国は政祭両立性(ヒメ・ヒコ制)。巫女の呪術を主とした体制(卑弥呼は女王というよりは最高位の巫女)。一種未開の匂いを残す統治権威(祭)と統治権力(政)の分化が見られる。大和は祭祀による権威も重視したが基本は男王による武断的な統治権力体制。
4)中華王朝との関係
邪馬台国は朝貢/冊封体制により統治権威を保障してもらい「王」「女王」を名乗っていたが、ヤマト王権は、どのような大陸との通交関係があったのか不明である。中華王朝への朝貢/冊封の証拠たる威信財もほとんど見つかっていない。先述の呉との通交があり、呉王朝からの統治権威づけがあったかもしれないがその証は見つかっていない。むしろそれに依存するよりは自力で(武力とヤマト王権自身の権威)で列島統一を図る「武断的性格」を持っていたのではないか。4世紀になると武蔵の稲荷山古墳、筑紫の江田舟山古墳出土の鉄剣「ワカタケル大王」「杖刀人」「典奏人」と言う役職名を地方豪族に与えて統治権威を保障するやり方(治天下大王という小中華思想)が見られる。のちの天皇制につながる朝貢/冊封体制からの離脱の萌芽があったかもしれない。

このように邪馬台国は列島が「群雄割拠状態」にあった時代に北部九州にあった地域王権(チクシ倭国)である。そして近畿の初期ヤマト王権(ヤマト倭国)とは繋がらない。だからこそ、7世紀末から8世紀初頭に編纂された日本の正史「日本書紀」にも、天皇の記録である「古事記」にも、「邪馬台国」「卑弥呼」に関する記述、言及がない。記紀編纂時の中国の唐帝国を意識した日本(倭ではなく)建国の事情、天皇制宣言という政治的メッセージ、国家アイデンティティー表明に鑑み、かつて中華王朝に朝貢し冊封を受けていた邪馬台国のような「地方王権」を、日本のヤマト王権の(天皇朝廷)のルーツとして記述するわけにはいかなかった。


その初期ヤマト王権はどのようにして生まれたのか?

以上のように考えると、彼らはどこから来て、何者なのか?これを知る手がかりは実は意外にも少ない。邪馬台国論争以上に文献史料が少ない。ここで古事記、日本書紀をいう文献史料を持ち出すことになるのだが、これまで(明治維新王政復古以降、敗戦まで)記紀こそ(神話を含め)史実を記述した我が国建国の正史であると位置付けられてきた。しかし、戦後はこうした皇国史観による史料評価が徹底して批判され、一転して歴史資料的価値の低いフィクション、創作神話的扱いがされた。史実とは思えない記述に溢れた神話の世界、8世紀の、天皇宣言、日本建国という政治的な動きの中で生まれた政治文書、天皇の物語。この中から物語に込められた「歴史の記憶」を洗い出し、これをどう読み解き、そこから国の成り立ちに関わる史実をどのように読みだすか。記紀資料の解読はなかなか困難を伴う歴史旅となる。ヤマト王権は何處より来たりしものぞ。終わりのない旅の始まりだ。


参考ブログ:


2014年10月7日「みまきいいりひこいにえのみこと 〜崇神天皇の三輪王朝と邪馬台国〜」

2018年1月17日「纒向遺跡の居館はなぜ東西軸なのか?」

2019年9月9日「三国志の時代 〜その時倭国は?〜」



2020年4月10日金曜日

古書を巡る旅(1) 〜漱石「漾虚集」「こころ」そしてTHE CHISWICK SHAKESPEAREとの出会い〜

ロンドン郊外のクラッパムにある夏目漱石旧居に掲げられたBlue Plaque


古書をめぐる徘徊では、ときに思いがけない出逢いに驚かされることがある。それは時空を超えて起きるのでますますワクワクする。手に入れてから家に帰って、あれこれと調べるうちに思いがけない「物語」がその古書に潜んでいることを発見するのが楽しい。

新橋駅前で開かれる恒例の古書市は楽しみの一つである。ある時ふと立ち寄ったテントで、夏目漱石の「こころ」の大正9年第3版(大正3年の初版)、岩波書店から出版されたものを見つけた。かなり古ぼけていて、背表紙も一部が破れている。今で言う文庫本サイズで、それにしては装丁がなかなか魅力的で思わず手にとってみた。布製の表紙に荀子の言葉を引用したデザイン、見開きに題字、朱印、検印も独自にデザインされたものである。奥付きには象形模様が施されたれたなんとも素敵な本である。今では文庫本というとハードカバーもなく活字だけの簡素な「普及版」というイメージだが、こんなに凝った意匠の文庫版は初めてだ。しかも大正時代の本だ。序を読むとこの装丁は漱石自ら手がけたと書かれている。これにも驚かされた。あの漱石は文豪であるだけでなくクラフトデザイナーでもあったのか、と。この本自体が文学だけではない一個の芸術作品を目指したものであると言えるような出来栄えである。即行ゲットした。なんと千円で...


夏目漱石「こころ」大正9年第3版 岩波書店


また別の時に、同じ新橋駅前の古書市でやはり漱石の短編集「漾虚集」(ようきょしゅう)を見つけた。いまでは「漾虚集」という名称で出版されている作品は見当たらないので、一瞬、漱石の未発見の作品集かと思ったが、中身を見ると馴染みの短編が収録されている。ジャンク箱に入っていて探し出した時は驚いた。復刻版は戦後にも出版されてたらしいがオリジナル版は珍しい。この短編集は漱石の初期の出版で、ロンドン留学から帰国後の英国土産としての「倫敦塔」「カーライル博物館」など現在お馴染みの作品が収録されている。明治39年初版で、のちに版を重ねて大正7年大倉書店印刷で第4版として発行されたものが手元にあるものだ。こちらも文庫本サイズで表紙デザイン、装丁に凝り、題字や挿画が丁寧に施された魅力的な書籍である。こちらは装丁家にデザインを依頼したようで、序で謝辞を述べている。それにしても漱石は書籍の装丁には並々ならぬ関心を持っていたようだ。これはなんと五百円でゲットした。

江戸時代には挿画が豊富な読み本は多かったようだが、表紙や題字、各章のレタリングや書籍自体の装丁、意匠にこだわる動きはまだ珍しかったのではないかと思う。明治以降は書籍の装丁にも変化が現れたのだが、デザインにこれほど凝ることがあったのか。イギリス帰りの漱石はこうした本という「作品」のデザインに大いにこだわっていたようだ。


夏目漱石「漾虚集」大正7年第4版 大倉書店


しかし、話はここで終わらない。その後不思議な接点を英国に発見することになる。

神保町に北沢書店という洋書の古書専門店がある。このオンラインショップでTHE CHISWICK SHAKESPEAREを見つけた。1900〜92年ロンドンのChiswick Press発行の、いわば文庫本版シェークスピア全集である。全巻で39巻あったようだがその一部が出ていた。ウィリアム・モリス(William Morris)のアーツ・アンド・クラフツ(Arts and Crafts)運動の影響を受け、たいへん美しく魅力的な装丁の本である。英国のデザインの先駆者の一人であるバイアム・ショー(Byam Shaw)が装丁を手がけた。表紙は布製で金箔押し(Gilt)のモリス調の植物模様が施され、中にはリトグラフによるイラストが数多く挿入されている。題字から「終わり」まで凝ったデザインの版画プリントが散りばめられている。シェークスピアの文学的な作品としての魅力ももちろんであるが、本そのものがビジュアルアート作品としての魅力にあふれたものである。古書としても人気のあるシリーズで、ロンドンのCharing Cross RoadやTottenham Court Roard, Cecil Courtあたりの古書店で時々見かける。一冊£35〜70程で取引されているようだ。全巻揃い踏みだととんでもない値がつくのだろう。これを東京の神保町で見つけるとは。不思議な縁を感じる。北沢書店もこれに目をつけるとはさすが大したものだ。このうちボチボチ買い揃えて6冊ばかり入手した。


THE CHISWICK SHAKESPEARE Chiswick Press, 1900


しばらくこれらの古書コレクションは我が家の書棚に並んでいたが、ある日ふと考えた。まてよ、漱石が文部省の在外研究員としてロンドンに留学していたのは1900年10月から1902年12月。The Cheswick Shakespeareシリーズがロンドンで刊行されたのは1900−91年。そう!まさに漱石のロンドン滞在中ということになる。しかも漱石は英文学を研究するために渡英し、ロンドン大学(University College)のシェークスピア研究者であるクレイグ(Creig)先生による個人指導を受けていた。漱石の日記によると。まだこの頃はノイローゼにはなっておらず、足繁く、先述のCharing Cross Roadあたりの書店街、古書街をめぐって本を買い集めてた時期であった。まさに出版されたばかりのTHE CHISWICK SHAKESPEAREの美しい装丁の文庫本全集にも書店で出会っていたに違いない。クレイグ先生の勧めもあってシェークスピア関連の著作を多く購入していたようだから、その中にはこのChiswick Pressのシリーズがあったかもしれない。そう思って、先述の「こころ」、「漾虚集」の装丁を眺めていると、そのこだわり意匠のルーツはロンドンで出会ったTHE CHISWICK SHAKESPEAREシリーズにあるのではないかと妄想し始めた。しかも、漱石はシェークスピアだけではなくウィリアム・モリスの信奉者であり彼の詩集を愛したことでも知られる。そうなるとますますこの「ひらめき」の接点を探ってみたくなった。

ちなみに漱石はロンドンで何回か下宿を替わっている。そのうちロンドン南西郊外のクラッパム(Clapham)に下宿していた頃の住宅に、イギリスの歴史上の著名人の旧宅に掲げられるブループラーク(Blue Plaque)が、日本人で唯一掲示されている。近くに「漱石記念館」開館したが、残念ながら資金難から閉館してしまった。あの時行っておくべきであったと後悔している。今は個人の方が自費で離れた場所に再建したと聞く。新たに開館した記念館には漱石関連の書籍が多く収蔵されているそうだ。そこにこのChiswick Press版のShakespeare全集が並んでいるのではないかと期待しつつ、いつの日にか訪ねてみたい。「文化財 守れる人が 文化人」奈良の今井町に掲げられていた標語を思い出す。

話を「漾虚集」とThe Chiswick Shakespeareに戻す。岩波文庫やネットなどで色々調べてみたが、シェークスピアや漱石の研究者、文学者の著作の中で漱石がChiswick Shakespeare全集に言及したり、これを引用したような形跡はどうも見当たらない。もちろん素人なので全ての評論や文献をあたってきたわけではないので、どこかにそうしたつながりを示唆する記述があるのかもしれない。漱石の持ち帰った蔵書の中にそれがあるのかも興味深い。

そう思っていると最近、ネット検索で英国在住の日本人のアンティークショップのサイトにこの関係を想起させる記述がみつかった。イギリスのレディング(Reading)にある「英国アンティーク英吉利物(いぎりすもん)屋」というアンティックショップの店主のブログだ。この店主は1900年版のChiswick Shakespeareの装丁を見て、それが漱石に与えた影響を直感的に感じている。そして「漾虚集」のなかに採録されている「倫敦塔」の戦後版岩波文庫の解説のなかで江藤淳氏が記述した部分を引用し、漱石が本の装丁に凝っていた様を指摘している。下記に再引用させていただく。

「この本の版元に二つの書店が名を連ねているのは、ちょっとおかしな感じがするが、それは『漾虚集』が着色版の扉や挿絵入りのなかなか凝った本だったからだろうと考えられる。つまり、大倉書店が本文を、服部書店がイラストを担当するいうかたちで、この本ができ上がったものと推定されるからである。漱石はその出来栄えに大層満足であった。 
「漾虚集」をこういう凝った本にしようとしたのは漱石自身の意図で、彼はこの本をその頃英国でウィリアム・モリスらによってさかんに試みられていたような、文学と視覚芸術の交流の場にしたいと考えていたのである。(下線は筆者) そういう由来を振り返ってみると、この文庫版が漱石の本文だけで、扉も挿絵も付いていないのは少々残念のような気がしないでもない。」(以上、江藤淳氏の解説から引用) 

そこで店主は「漾虚集」初版本がどのような装丁であったのか、国会図書館のデジタルアーカイブスの画像とChiswick Shakespeareのそれとの比較をしている。その結果、漱石が試みたデザインは、おそらくこのChiswick Press版からきているのであろうと推理している。たしかに見比べるとそうとしか思えない。たいへん面白い論考だ。まさに私の「ひらめき」を見事に解説してくれていることに感謝したい。不覚にも私は江藤淳による岩波文庫の説明文には気がついていなかった。

ところで私が新橋の古書市で入手した「漾虚集」は大正7年版(1918年)で、上述の明治39年(1906年)の初版本よりはかなり後年のものである。国会図書館のデジタルアーカイブスで見る限り、初版本の装丁は確かにChiswick Shakespeareのそれに大きな影響を受けたであろうことが見て取れる。しかし大正9年版は、初版本とはとはかなり異なっていて、装丁がより簡素になっている。とは言っても、形押し模様の入ったハードカバーと、美しくデザインされた版画による題字。それぞれの短編作品のタイトルにも挿画と装飾文字が使用されて、Chiswick版のバイアム・ショー(Byam Shaw)の影響が表れている。さらに先述の、大正3年(1914年)に岩波書店から刊行された漱石集の「こころ」の装丁(漱石自身がデザインを手がけたという)はまさにこのモリスそしてショーの影響によるものであろう。おそらくは1902年に英国留学から帰ったばかりの漱石は、モリスの詩集だけではなく、「生活と芸術を一致させる」というアーツ・アンド・クラフツの考えに共感し、このChiswick Shakespeare全集の意匠に大きな影響を受けて、それを自分の著作集に取り入れようとしたのであろう。それが1906年の「漾虚集」の初版本であった。しかし、「漾虚集」は版を重ねるごとに出版社側の事情(デザイン担当したの服部書店が抜けた?)もあり、徐々に簡素なデザインになっていったようだ。それに漱石自身は飽き足らず(序で装丁作家に謝意を表してはいるが)、「こころ」に見られる岩波版文庫著作集では自ら装丁デザインを手がけたのであろう。表紙はモリス調の植物模様ではなくて、荀子の引用や古代漢字をデザインした模様をあしらっており、日本的、東洋的なテイストである。しかし本を文学表現の印刷媒体に止めるのではなく、ビジュアル的に魅力を持つ「作品」に仕上げることに配意している点はアーツ・アンド・クラフツ運動の精神の現れであろう。序文で自分の出来栄えに満足した様子が語られているのがご愛嬌だ。

漱石は英国留学で何を得てきたのか。何を日本にもたらしたのか。様々な評論がなされているが、この書籍の装丁を大事にする。すなわち江藤淳のいう「本を文学と視覚芸術の交流の場にしたい」という考え方はあらためて見直されるべきと考える。とりわけ現在のデジタルトランスフォーメーションの波が文学作品の書籍にも及び、Kindleのような電子書籍が出現する時代にあって、文字情報だけを伝えれば良いというトレンドに抵抗するような反応が出始めている。すなわち「本そのものが総合芸術作品である」という考え方、書籍への回帰ムーブメントである。そんな時代だからこそなおさら、その源流にあたる考え方を漱石が持ち帰ったことは大きな功績であり、それを振り返る必要があると考える。ヴィクトリア朝末期、産業革命末期のイギリスに起こったウィリアム.モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動が与えた影響は大きかった。漱石はまさにその時ロンドンにいてその時代の空気を吸っていた。しかし、そのモリスの芸術やデザインの根底には日本の浮世絵や琳派の影響が現れていること、そしてそのモリスは漱石や芥川龍之介、宮沢賢治、そして柳宗悦の民芸運動に大きな影響を与えたことを考えると、なかなか意味深長である。時代や国を超えて、文化は相互に交流し接点を増やし進化してゆく。




写真解説


1)夏目漱石著「こころ」(大正3年初版、大正9年第3版 東京神田神保町 岩波書店)





表紙を含む装丁デザインは漱石自身の手になるもの

荀子の言葉を掲載した題字
布製のカバーに古代中華文字のデザイン
奥付

題字と朱印

巻末のデザインにも凝った漱石



2)夏目漱石著 「漾虚集」(明治39年初版、大正7年第4版 東京日本橋 大倉書店 秀英舎印刷)


初版本に比べるとやや簡素なデザインとなった第4版
型押しによる模様が見えるハードカバー版


奥付きのデザインも素敵だ
題字は凝ったシールで

「倫敦塔」

「カーライル博物館」


3)The Chiswick Shakespeare (1900-91, Chiswick Press,  Chancery Lane, London)


Byam Shawデザインの表紙
William Morris調の金地型押しのイラストが美しい



版画プリントが随所に用いられ視覚的にも楽しめる




挿画も豊富だ

「おわり」のシールにもこだわる



全巻で39冊あったようだ



4)今回取り上げた三冊の比較



ほぼ同じ文庫本サイズ
コンパクトで携帯にも便利
どれもこだわりの装丁

ロンドンのセシルコートの古書店街
東京の神田神保町のようなところ
古地図も豊富でその場で額装までしてくれる。
週末の散策にうってつけ
Cecil Court, London






2020年4月3日金曜日

「言挙げせぬ国」日本 〜「言霊の助くる国」は今 〜


「磯城島の大和国は 言霊の助くる国 ま幸くありこそ」
柿本人麻呂


日本人は、議論が下手だ。人に説明するのが下手だ。自分の考え方や意思をはっきりと相手に伝えることが得意でない。このグローバル時代、多様な価値観、異なる文化的背景を持つ人々とともに共生していかねばならない時代、以心伝心でコミュニケーションができる場面ばかりではない。日本人はやっていけるのだろうか。またSNSなどで蔓延するの怪しげなFake Newsや誹謗中傷、それを喝破する眼力も論破する胆力もない。これを避ける回避行動のみやってれば済むのだろうか。今回の新型コロナウィルス感染対策についてもそうだ。国民にきちんと対策の根拠を説明しない。世界に「日本はこうしてるんだ」と説明しない。なぜ日本だけがPCR検査を絞っているのか、人口100万人あたりの死亡率がなぜこんなに日本だけ低いのか?ドイツは感染者数に対する死亡者の比率の低さが医療体制の充実による先進例として高評価を得ている。台湾の国民皆保険制度と徹底した情報公開が国民を冷静で落ち着いた対応を可能にしている、と世界から高く評価されている。日本は情報公開を別にすれば医療体制、国民皆保険制度にしてもけっして先進諸国に劣っていない。感染症の世界的な専門家も数多くいて、今回の第一フェーズの感染対策では大きな成果をあげてる。しかし誰も評価していない。それはおろか日本はPCR検査数を絞って感染者数の少なく見えるようにしている。オリンピックを強行しようとしている。経済優先で国民の命なんかどうでもいいのだ、などと批判されている。なぜきちんと説明しないのだ?「日本モデル」はこれだ!と。なぜ情報公開と説明を徹底して国民の理解と信頼を獲得しないのか?どこの国も未曾有の事態に試行錯誤しながら目に見えないウィルスと戦っているのだから、積極的に説明し情報発信していれば各国と批判的(建設的)意見交換、経験交流もできる。国民の協力(行動変容といっているもの)も進む。政府や自治体の「発信力」は残念ながら極めて劣る。市民への「不要不急の外出自粛」要請、繰り返される「重要局面」宣言ばかりで、なぜ、どのようにしようとしているのかの説明が一人一人に届いていない。これでは政治/行政への不信感が高くなっても仕方がない。さらにマスメディアの怠慢と批判精神の劣化も看過できない。

これで思い出すのは去年、カルロス・ゴーンが保釈中にレバノンに逃亡し、日本の司直の手の届かないところで「日本はいかに人権を無視した不当な国、刑事司法が歪んだ国であるか」と、好き勝手に世界のジャーナリストを前に何時間もしゃべり続けたことも記憶に新しい。会社の金を私物化し、会社やステークホルダーに多大な損害を与えておいて、問題をすり替えて自己中心的な言い訳と自己弁護を延々と(本当によく喋る!)し続ける男を前に、日本は言われっぱなしではなかったか。この「巧言令色仁少なし」を前にして何か有効な反論をしたのだろうか。

この日本人の議論下手、説明下手、発信力不足はどこからきているのだろう。相手を納得させる力の弱さはどうしたことなのか。相手からの一方的な主張に直面したときに極めて脆弱である。黙ってすごすごと引っ込んでしまう。あるいは無視という回避行動をとる。無視はときには必要で有効な対応であるが、場合によっては「不作為による消極的敗北」に繋がる。こうした我々日本人に共通する行動やメンタリティーについて考えているときに、ふと「巣篭もり中」に読んだ万葉集の中に思い当たる歌を見つけた。

万葉集巻の十三の中に次のような柿本人麻呂の歌がある。
(小学館刊 日本古典文学全集より引用)

「葦原の瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国.... 」

訳:日本という国は言葉に神意(霊)があるのでに多くを語らない国なのだ、と

反歌
「磯城嶋の大和国は 言霊の助くる国ぞ ま幸くありこそ」

訳:大和は言葉に魂が宿っていて神が助けてくれる国だ 幸多くお元気で、と。

「言挙げ(ことあげ)」とは「自分の意思をはっきりと声に出して言うこと」
「言霊(ことだま)」とは「言葉に宿る魂」すなわち「言語の神霊化」である(金田一京介)

すなわち、日本という国は言葉に神の魂が宿っているのだから言葉を大切にする。であるから軽々しく語らない。くどくどと説明をしない。言い訳をしない。みだりに大きな声をあげて自分を主張しない。これは、心が通じ合う人、言葉の大切さを知る人には多くを語る必要はないという日本の言語思想を表していると言われている。思考は言葉でなされるので、これが日本人の思考様式と言っても良い。古事記にも、ヤマトタケルノミコトが伊吹山で遭遇した神に「言挙げ」して、その怒りをかい、世を去ることになったというエピソードが語られている。これは古代の日本人が「言霊」に対して、いかに畏敬と畏怖の念を持ち、「言挙げ」を戒めるているのかを語るものだ。

この自分の意思をはっきりと説明しない、する必要がない、とする考え方。また「良いこと、めでたいことは言っても良いが、悪いこと、いまわしいことを言ってはならない」、「あってはならないことを指摘することで悪いことが実際に起きる」という「言語思想」が、近代日本における民主主義の伸長過程で「言論・表現の自由」を損なうことにつながっているという(山本七平)。すなわち「問題点を指摘してはならない」「議論してはならない」。それが災いを呼び込んでしまうと言う考え方は、正常な民主主義の理解と発展を阻害するし、有効なコミュニケーション能力の育成を妨げるという訳である。

のちの時代に中国の論語の「巧言令色鮮仁」「剛毅木訥仁近」の影響が加わって、さらに日本人は、口が達者な人、多く喋る人や、異論反論を提起する人を嫌う傾向にある。寡黙で感情を表に出さず、口数の少ない高倉健のような人間が好きだ。「言い訳をするな」という躾は各世代の基層にある価値観、道徳観の表明である。たしかに見苦しい言い訳は聞くに耐えないが、しかし正当な自己弁護は否定されてはならない。極東裁判でキーナン検事やパール判事が無罪だとして救済しようとした広田弘毅も、自らは一顧の弁明もせず絞首台に立った。日本人はこういう人物に美学を感じる。武士道精神を見る。魂の高潔さを見る。しかし「無言」は罪を認めたことになる。確かに広田弘毅自身も、自らの意思決定ではなかったにしろ、軍部の理不尽さに抗しきれなかった自分には「不作為による関与があった」としている。日本人のそうした美学、価値観、道徳観と、その外側にいる人たち(先述の某自動車会社元トップなど)のそれとの間には大きなギャップがあることがある。欧米でもBig Mouth(大言壮語、大口を叩く人間)は嫌われるが、かならずしも道徳的に非難される訳ではない。

日本の言葉の美しさと霊性は否定しない。過度に自己主張しない「けん虚な」人間が好きだ。言外の意味に込められる情感や、言わずもがなで共感出来る人が好きだ。「みなまで言うな」で通じる空間が心地よい。しかし、現代の世の中では価値観を共有しない相手や、異なる文化的背景、多様な価値観を持つ人々とも交渉し、説得し、自己主張することを迫られる。そうして共生してゆく多様性の社会に移っていっている。また誰もがSNSなどで「自己主張」の機会をたやすく手にすることができるようになったので、ネット上で口から出任せに嘘や暴言を吐く人が現れる。そうした現状は決して好ましいことではないし、こうした相手への誹謗中傷がいかに「言霊の宿らない」「美しくない言葉」かは言うまでもない。だから黙っていろ、無視して相手にするな、多くを語るな、ということにはなるまい。こうした時代に「言霊」を大切にする日本人の「言挙げをしない」言語思想を世界に広めることは容易ではないように見える。しかし本当に「言霊」「言挙げせず」は人と人との率直なコミュニケーションを妨げる言語思想なのか?

先述の人麻呂の歌の全文を最後まで読んでみよう。以下の通りである。

「葦原の瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我がする 言幸く ま幸くませと つつみなく 幸くいまさば 荒磯波 ありてむ見むと 百重波 千重波にしき 言挙げす我は 言挙げす我は」

訳:葦原の瑞穂の国は神意のままに 言挙げしない国です それでも 私は言挙げをします お元気に ご無事でいらっしゃいと つつがなく お元気であられたら (荒磯波)ありてもそのうちにまた逢えようと 百重波 千重波のように繰り返して 言挙げをしますわたしは 言挙げをしますわたしは...

これは遠国に旅立つ友を送る歌であろう。この歌は「言挙げをしない国」「言霊の助くる国」にあっては言葉に命があり、それの重さを知っている。しかしそれでも「私は言挙げをするんだ」と言っている。友の無事を祈る心を隠すことはできない。そこでは友を思って無事であれかしと「言挙げ:自己主張」をするのを抑えられないのだと。神意に違わない心であれば災いを招くことなどないのだと。したがって繰り返し繰り返し何度でも「言挙げ」をします。あなたの無事を祈り、また会えることを祈っています...と歌っている。

神道の世界(神ながらの道)では「議論をしない」「神学論争はしない」のだそうだ。他宗教のような宗派対立がないのだと言う。しかし実際の生活においては自己主張も議論もしなくてはなるまい。それは避けて通れない。それが「神」の「意」に反しない限りは。人麻呂もここでは誠意をもった主張、心情の吐露を遠慮なく歌い表している。その「神の意」とは一神教的な「神の意思」ではない。西欧哲学で言う自然法的なものだと考える。私は宗教学者でも神官でもないのでここでの「神学論争」はもとより本意ではないが、もともとの日本原初の神は自然崇拝/アニミズムによる八百万神で、後世に観念された祖霊神や首長神、地域産土神や氏神ではない。まして皇祖神や国家神道の唯一神/最高神的神でもない。まさに「自然法の神」「神に依拠する自然法」なのだ。人間の自然な心、すなわち自然の一部として共に生きるという思想や、人々の間で共有できる倫理観が生み出した「神」なのだ。だからこそ言葉に霊が宿り、言葉が大事なものであると考える。その理解に反する「言挙げ」を戒める。こうした「言霊」の宿る言葉を大切に用いた心情の吐露、自己主張や議論は決して禁じられたり、避けられたりするものではなく、むしろ大いになされるべきものであると考えられる。この考え方にこそ排他的で偏狭さに陥っている一神教的な教条主義や不寛容を打ち破る普遍的で強い「神意」が存在すると考える。それをもって日本人は堂々と説明責任を果たし、議論し、自己主張をしてゆけば良い。日本人が超えられない思考様式の壁だなどと考える必要はない。とりわけ政治こそ言葉の持つ重みが極めて大きい世界であるのだが、そこが一番発信力と説得力に欠けるとなると、日本(ひのもと)は「言霊の助くる国」とはならないだろう。


大神神社から大和国を眺める
大和三山、金剛山、葛城山、二上山を背景に

大神神社の大鳥居と夕陽

(写真は2017年3月に奈良県桜井市の大神神社で撮影したもの)