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2014年3月27日木曜日

蔵の街「栃木」散策 〜さらにちょっぴり古代「毛野国」訪問〜

「関東の小京都」、「小江戸」、「関東の倉敷」、などと称される栃木。美しい蔵の街だ。この憧れの街についに足を踏み入れた。しかし、古い街並を訪ねるたびに思うが、こうした地方に残された昔ながらの美しい町を、安易に京都や江戸や倉敷になぞらえるのは,「いかにも」な観光キャッチだと思う。栃木はその歴史的経緯から観ても、地理的な立ち位置から観ても、その町の果たした役割から観ても、京都でも江戸でも倉敷でもない。江戸時代は案外、地方が繁栄していた時代だったのかもしれない。すくなくとも経済の東京一極集中、文化の京都一極集中、なんてことはなかった。それぞれの藩がある意味独立し、独自の経済圏、文化圏を誇っていた。そうした地方分権体制が、実は徳川幕藩体制の実態であっのかもしれない。地方には必ずその地域の中心として栄えた街があった、それは城下町であったり、在郷町であったり、宿場町であったり、農村の物資の集散地であったり,門前町や寺内町であったり。

そうしたかつて栄華を誇った「田舎町」は、時の流れの中で起こった「都会一極集中」のせいで、人がいなくなり、忘れ去られ、もぬけの殻になった。しかし、皮肉にも、その繁栄の記憶と、美しい町並みはタイムカプセルに閉じ込められ、奇跡のように今に残った。そのタイムカプセルを開けるワクワク感。時空の扉を開けて一歩中に入る瞬間、中から、長い時の経過とともに熟成された濃厚な景観が姿を現す。「田舎」と「都会」という二分法。「衰退」と「繁栄」の代名詞のように語られる二分法である。しかし、そうかな? 時の経過、価値観の大きな変化とともに、そろそろ人の流れが変わりつつある。

栃木は、巴波川(うずまがわ)を利用した舟運により物資の集散地として栄えた。室町時代には城下町であった事もあるそうだが廃れた。その後に日光東照宮造営に際し、江戸や全国から運ばれた材木や,建築資材が利根川、渡良瀬川、巴波川を通じて栃木に陸揚げされ、日光へと運び出される物流拠点として発達した。さらには、造営なった東照宮へ、勅使が通行する日光例幣使街道の宿場町としても発展し、水運、陸運双方の流通拠点として繁栄した。今では,静かな地方都市だが、当時は豪商が軒を連ね、見世蔵が立ち並ぶ殷賑な商都であったことだろう。往時の繁栄が偲ばれる蔵の町並みであるが、耐火性に配慮した建物は、幕末の動乱期に水戸浪士(天狗党)により街が焼かれた教訓から建替えられたもので、現存する約200棟の蔵や40棟の見世蔵などの多くは比較的新しいもののようだ(といっても幕末から、明治、大正の頃だが)。

豪商がいれば、芸術文化のパトロンがいるのは古今東西共通のならわし。江戸時代も後半になると、江戸や全国から絵師や俳人などが栃木に集まっていたという。あだち好古館には多くの浮世絵や錦絵の原画が濃密に展示されている。最近の話題は、喜多川歌麿が描いた晩年の大作で、しばらく行方不明になっていた、「深川の雪」が発見されことだ。歌麿は度々栃木に招かれ,長逗留をしては数々の作品を残したらしい事が分かっている。「深川の雪」は「品川の月」「吉原の花」とで3部作になっており、江戸の代表的遊里と自然の美を組み合わせる粋な趣向の3作品は、明治半ばフランスに流出。「品川の月」「吉原の花」がさらにアメリカへ渡っている。「深川の雪」だけ日本に戻ったが、戦後行方不明となっていたもの。その3部作,実は栃木で描かれたものではと言われている。当時、華美禁止、風紀粛正でにらまれた歌麿が、幕府の追求の眼を逃れて栃木に潜伏して描いたと考えられているのだ。当時の栃木という土地のステータスを物語るエピソードだが、真相は依然謎のままだ。現在、この3部作の原寸大のレプリカが、栃木市役所に展示されている。発見された本物は、箱根の岡田美術館に展示されている。

やがて、明治維新後の廃藩置県では、栃木県庁は栃木町に置かれた。現在残る明治期の近代建築、栃木市役所別館(旧栃木町役場)のあるところが県庁所在地であった(今も県庁堀が残っている)。その後、隣の宇都宮県を合併し、新たに栃木県となるが、いろいろな経緯で県庁は宇都宮に移った。栃木の商都、地域政治の中心としての役割は徐々に終焉に向う。こうした地方の常で、明治の近代化や、戦後の高度経済成長に取り残された街には,「破壊」の魔手が及ばず、美しい町並みが残る。とはいえ、栃木市は今でも人口8万を数える地方中核都市だから、過疎に悩む町村とは異なる。同じ蔵の街として有名な、川越のように、東京に近くて、週末毎に大勢の行楽客が押し掛ける訳でもなく、蔵の街大通りもゆったりとした歩道が整備されていて,散策が楽しい。ごった返す歩行者の横を車の列がすり抜けて行くせわしなさはない。

平成24年、栃木市の嘉右衛門町地区が「重要建造物群保存地域」に指定された。日光例幣使街道の宿場町として発展した地区だ。名主であった岡田家の邸宅や陣屋跡、別邸などがよく保存、整備されている。補助金が出るようになって、街道沿いの建物の修復工事が至る所で進められている。かなり壊れてしまった町家や、完全に今風に建替えられてしまった建物も多く、早急な修景保存が必要であったのだろう。一方で、550年続く名家の岡田家のように、子孫の方々の努力で(あるいは財団法人化し)、広大な建物や敷地を維持し、一般公開して入場料収入でなんとか繋いで行っている。しかし、こうした個人の努力には限界があるだろう。巴波川沿い、大通りの豪邸、商家、見世蔵も大変なんだろうと思う。建物の維持保存だけではなく、そこに住み、代々続く商売を維持しながらの生活、ここには別の形のsastanabilityやbusiness continuityの問題がある。いつも感じる「景観/修景保存」につきまとう課題だ。

これまでに、佐原、川越、大和今井町、宇陀松山、大和五条新町、富田林、近江八幡、伊勢関宿、えひめ内子町、土佐赤岡、筑後吉井、八女福島、筑前秋月、日田豆田町、播州竜野、倉敷、津和野と古い町並みを巡った。「時空トラベラー」冥利に尽きるタイムカプセル探訪だ。そして、いつも感じるのは、そこに住む人々の鷹揚で、暖かい「もてなし」の心だ。その町が人をそうさせるのであろうか? ここ嘉右衛門町でも、地図を持ってウロウロしていると、すれ違う御婦人が「岡田記念館はこの先ですよ〜。ゆっくりしていってくださいね〜」と声をかけてくれる。岡田記念館の御婦人は、丁寧に丁寧に中を案内してくれる。最後に、いかにこうした施設を文化財として保存、維持してゆくことが大変かを、微笑みながら話してくれる。愚痴めいた話ではなく、誇りを感じている話し振りである。慌ただしく急ぎ足で巡ることは出来ない。地元の方々とコミュニケーションする時間を充分に用意しておく事だ。ここには別の時間がゆっくり流れているのだから。こうしたちょっとした非日常体験に、忘れていた我を取り戻すことも出来る。不思議な「時空」だ。これからも,未知の町を求めて探訪を続けたい。




『ここで話題を変える。タイムマシーンを加速して、時代をぐ〜んとさかのぼろう。』

私のもう一つの「時空旅」のテーマである、稲作農耕文化が広まった弥生時代や、その後のヤマト王権確立プロセス、すなわち「倭国」の時代には、栃木県や群馬県は、どのような歴史を歩んだ地域だったのだろうか? 西日本中心の古代史観では,関東地方、東国は、遥けき「遠国」、歴史の霞の中にたゆたっている。

古代、「毛野国(けぬこく、けのこく)」という国があったと言われている。北関東(群馬、栃木一帯)あたりにあった、というのが定説のようだ。しかし、筑紫、日向、出雲、吉備、大和など、記紀に神話の時代から登場し、記述されている国々と違って、おぼろげな姿しか見えない。東国である事は間違いないだろうが、果たして「毛野」はどこにあったのか。「けぬ川」流域の国だとする説明もある。現在の鬼怒川である。魏志倭人伝にある「狗奴国」に比定する説もある。宋書「倭国伝」に「東は毛人を制する事云々」という記述から、毛野の存在を推定する説もある。しかし我が国の史書には明確な記述がない。律令時代になり、上毛野国/上野国(こうずけ。ほぼ現在の群馬県)、下毛野国/下野国(しもつけ。ほぼ現在の栃木県)に分かれたことが明らかにされている。このころ、正式に大和政権から国として認知されたようだ。しかし、分国する前の「毛野国」に関する記述はない。またヤマト王権が地方に及んだ古墳時代以前の、クニと呼ばれるような大規模な弥生集落や都邑の痕跡も見つかっていない。崇神天皇の四道将軍、景行天皇の日本武尊の東征などの伝承の中にも明確な記述が無い。「毛野国」は謎の国だ。

時代は下って7世紀後期、天武天皇/持統天皇の時代に、下野国に下野薬師寺が創建された。地元の豪族下毛野君の創建との説もあるが、この時代、藤原京薬師寺にならって全国に薬師寺が建立された。やはり天皇発願寺であったのだろう。8世紀、奈良時代に入ると、大和平城京東大寺、筑紫太宰府観世音寺とならぶ三戒壇の一つがおかれた。ここが大和政権にとって、陸奥の多賀城とともに、東国経営の重要な拠点である事を示す証拠であろう。その場所はJR宇都宮線自治医科大学駅近くにあった。しかし東大寺や観世音寺のように現代まで存続せず,その法灯は大安寺に引き継がれているものの、歴史の流れの中で消えていった。今は遺跡としてその痕跡を残すのみである。西国の古代風景とは大きく異なる東国の古代風景である。


(栃木は、日光例幣使街道の宿場町と、巴波川(うずまがわ)を利用した舟運で発展した商都であった。栃木を代表する景観ビューポイントだ。)


(巴波川沿いに、延々と120mに渡って黒塀と白壁土蔵が続く塚田家。江戸時代後期に材木回船問屋として栄えた豪商である。現在は「塚田歴史伝説館」として公開されている)



(両側に大谷石造りの蔵を備える、珍しい両袖切妻造の横山家住宅店舗。麻問屋と銀行業を兼業していた。裏には見事な庭園と、小さいが瀟洒な洋館がある。)




(ガス灯がシンボルの横山家。美しい佇まいだ。現在は「横山郷土館」として公開されている)



(およそ200年前に建てられた土蔵三棟を改修して「とちぎ蔵の街美術館」として一般公開している。)



(かつて日光例幣使街道であった「蔵の街大通り」には,今でも数多くの見世蔵、土蔵、明治以降の近代建築が残されており、独特の景観が眼を楽しませてくれる。広い歩道が整備されていて散策しやすいのが嬉しい。)

(撮影機材:Nikon Df + AF Nikkor 28-300mm 趣のある蔵の街撮影散策にベストなコンビだ)

2014年3月17日月曜日

上野公園は近代建築の宝庫だ 〜上野公園の謎〜

 前回のブログ「謎の芝公園」でも述べたように、上野公園は明治6年の太政官布達で指定された東京5大公園の一つである。しかし、ここは他の公園と異なり、明治新政府の「近代化」への意気込みを象徴するかのように、西欧風の文化施設、それに相応しい近代建築がひしめき合っている。帝室博物館(現在の東京国立博物館)、博物館表慶館、帝室図書館(現在の国立こども図書館)、黒田記念館、音楽学校奏楽堂(保存建築)、美術学校の陳列館、正木記念館、赤煉瓦校舎、京成電鉄博物館動物園駅舎(現在は閉鎖中)など、さながら東京「明治村」「明治たてもの園」の様相を呈している。

 かつては、現在の上野公園全体が、江戸幕府徳川総家の菩提寺、霊廟、東叡山寛永寺境内であった。いわば徳川家にとって芝の増上寺と並び、宗家鎮護の寺があった場所だ。江戸期のはじめ、天海僧正により、天台宗の寺院として創建された寛永寺は、平安京、京のみやこの鬼門封じの比叡山延暦寺にならい、江戸の鬼門封じとして創建された。山号も、東の「叡山」である東叡山、寺の名前も、延暦寺が天皇勅許で創建年号を用いたのと同様に、寛永年間の創建であることから「寛永寺」とした。京都の清水寺の舞台を模した清水観音堂、五重塔を配し、おまけに不忍池は琵琶湖を擬したという念の入れよう。

 今、上野公園に、創建当時の壮大な寛永寺の面影を見出すことは難しい。しかし、かつてこの敷地がすべて寛永寺境内であったと知ると、その広大さに驚く。今では国立博物館敷地の右側に、わずかに堂宇が残り、あるいは再建されている。博物館裏手には再建された根本中堂、寛永寺墓地があり、ここに綱吉霊廟門などの遺構が保存されている。また、大仏様(上野大仏)は寛永寺のシンボルであったが、幾多の火災で現存しておらず、公園内にわずかにお顔がレリーフのように保存されているのみだ。かつて、現在の大噴水広場には根本中堂がそびえ立ち、国立博物館敷地には本坊が、左右に五重塔も並ぶ壮麗な伽藍配置であったが、ご存知の通り、幕末の戦乱で、ことごとくこれらの堂宇は失われた。

 最後の将軍、徳川慶喜が謹慎して寛永寺に蟄居した折、将軍を官軍から守ろうと幕臣や佐幕派の浪人たちが「彰義隊」を結成し寛永寺に結集した。しかし、江戸城無血開城、慶喜の寛永寺退去後も寺にたてこもる抵抗勢力、彰義隊を官軍は徹底して壊滅させる。いわゆる戊辰戦争の上野戦争である。このとき寛永寺は灰燼に帰した。官軍総司令官の西郷隆盛の銅像と、彰義隊墓碑が並んで建っているところが上野公園の歴史を物語っているような気がする。

 明治維新後、新政府は焼け野原となった寛永寺境内、上野の山一体を帝室御料地とし、医科大学の敷地などに使おうとしたが、オランダ人医師ボードウィンの提言により,日本初の公園に指定した。これが現在の上野公園の始まりだ。公園には、これまでの徳川幕藩体制のシンボルであった寛永寺に変わり、明治近代化のシンボルとも言える、数々の近代西欧建築が建ち並ぶことになる。江戸から東京へ、時代の変遷を物語る上野の景観のドラマチックな転換である。今の東京に江戸の町並みの痕跡を探し出すのが困難であるように、上野のお山から徳川幕府時代の痕跡は消し去られてしまった。そこに、まるでテーマパークのように、当時の人々の日常からは隔絶した異空間が出現したのであろう。御料地である公園は、1923年に宮内省から東京市に下賜され、「上野恩賜公園」と呼ばれるようになった。

 <上野の近代建築遺産コレクションをご覧下さい。江戸の名残も少しだけ...>



 (国立博物館本館。明治14年にジョサイア・コンドルが設計、竣工の帝室博物館本館は、その後の関東大震災で大きな損傷を受け、建替えられた。昭和12年(1937年)に現在の本館である「復興本館」が完成した。「日本趣味を基調とした東洋式」だそうだ。という事はこの建物には西洋近代建築的要素はない,という事なのか。設計は公募で選ばれた。)



 (博物館表慶館。明治41年竣工。大正天皇が皇太子時代のご成婚記念に建てられた。片山東熊の設計。)




 (国立こども図書館。明治39年(1906年)に竣工の旧帝国図書館。当初は博物館と並び近代化に必要な国家の文化施設として企画されたが、日露戦争による財政難で、本来はロの字型の壮大な建物となる予定が、全体の四分の一に縮小され、前面一列部分だけが竣工した。明治ルネッサンス様式の美しい建築だ。今見ても正面ファサードは壮大だが、横から見ると平べったい壁のような建物だ。今は安藤忠雄による補強保存改修がなされ、オリジナリティーを残しつつも耐震構造とし、安全かつ使い心地の良い施設に生まれ変わっている。)




 (旧音楽学校奏楽堂。明治23年日本初の木造洋風コンサートホール。山田耕筰、滝廉太郎、三浦環が演奏した舞台や、日本最古のパイプオルガンが残る。大学構内から現在の場所に移設保存されている。)




 (東京芸大陳列館。昭和4年(1929年)竣工。岡田信一郎設計。スクラッチタイルが美しい。芸大美術館本館が出来るまではこちらが本館として使用されていた。)




 (東京芸大正木直彦記念館。美校校長を35年務めた同氏を記念してたてられた。昭和10年(1935年)竣工。金沢庸治設計。和様式の門と建物のコンビネーションがなかなか瀟洒。この奥のGeidai Art Plazaはコージーで楽しい。背後は陳列館。)



 (黒田記念館。黒田清隆の作品をおさめる記念館として昭和3年(1924年)岡田信一郎設計により建てられた。現在は国立博物館の施設の一つとなっている。路面に展開しているコーヒーショップの看板が一寸雰囲気壊してるか。)




 (京成電鉄「博物館動物園駅」駅舎。左手は黒田記念館。昭和8年(1933年)地下を走る京成本線の公園地上出入口としてもうけられたが、平成9年(1997年)営業休止。平成16年(2004年)廃止となり、現在は使用されていない。地下を走る電車の音だけが聞こえてくる廃線マニア好みの鉄道遺産だ。建物は国会議事堂を彷彿とさせる重厚なもの。ちなみに国会議事堂よりは古い創建。)




 (因州池田家江戸屋敷表門。丸の内の鳥取藩上屋敷から移設されたもの。建築時期は江戸末期とされている。明治期には東宮御所に移されていたが、現在は国立博物館敷地に移設保存されている。入母屋造、唐破風屋根の左右の番所など、当時の大名屋敷がいかに壮大であったか、そのよすがを知ることができる。東京大学赤門(旧加賀藩邸)と並ぶ大名屋敷遺構。近代建築、モダン建築で満たされた国立博物館の敷地空間に佇む武家屋敷門、という唐突感にもかかわらず、辺りを制する存在パワーが際立つ。)




 (徳川綱吉霊廟門。徳川幕藩体制の栄華を物語る華麗な作りだが、それだけにその時代の終焉がいかに侘しいものかを如実に物語っているようだ。この地に残る数少ない寛永寺の遺構の一つは、訪れる人も少ない国立博物館の裏手の墓地に保存されている。)

上野公園マップ:





2014年3月7日金曜日

増上寺と芝公園(1) 〜芝公園の謎〜

東京で「芝公園」と言えば知らない人はいない。しかし、どこが芝公園?どこからが増上寺? 芝公園のシンボルはなに?東京タワーは芝公園? 地下鉄の駅に「芝公園」があるが、駅の表示に「芝公園はあちら⇨」はない。上野公園や代々木公園や日比谷公園ならまとまった敷地がはっきりしていて「公園」を認識出来るが,芝公園の敷地はどこなのだろう。東京の不思議の一つだ。

 その疑問を解く鍵の一つはその成り立ちにありそうだ。東京は意外にも公園が多い日本の街の一つで,その総面積は74.4㎢(東京デズニーランドの146倍)だそうだ。これは明治の東京遷都時に、欧米流の「公園(Park)」の概念を政府がいち早く導入し、その場所を指定した事が始まりだと言う。明治6年の太政官布達で指定された公園は、上野、浅草、芝、深川、飛鳥山、の5カ所。いずれも上野(寛永寺境内)、浅草(浅草寺境内)、芝(増上寺境内)、深川(富岡八幡境内),飛鳥山(王子権現境内)と、寺社の境内であり、今で言う公園のイメージではない。ようするにまとまった土地が確保出来る寺社地を「公園」に指定した。特に廃仏毀釈の機運が強く、まして賊軍徳川幕府縁の寺社は狙われたのかもしれない。既知の通り、上野寛永寺も芝増上寺も徳川家の菩提寺、霊廟であったところだ。,幕末に彰義隊が立てこもって抵抗した寛永寺は、上野戦争で灰燼に帰し、跡地は帝室博物館や美術学校、音楽学校となり、上野恩賜公園として整備された。

 一方、芝公園の方は、その境内が太政官政府により接収され、上記の通り公園指定がなされた。そのうえでその敷地が増上寺に貸し出されたという。こうした公園と寺院境内の区分が判然としない状態が芝公園の始まりであった。しかし,上の寛永寺と異なり、幕末混乱時期にも増上寺は境内、建物は残ったのでしばらくは「芝公園」(=増上寺境内として)はまとまった形で存在した。その後、先の大戦の空襲では寺の堂宇がことごとく灰燼に帰した。戦後、敷地は増上寺,徳川家に返還されたが、公園/旧境内は様々な経緯で,秩序無くバラバラになってしまう。徳川家霊廟が整然と並んでいたところは、不動産開発会社に売却され、東京プリンスホテル、芝ゴルフ場(現在のプリンス・パークタワーホテル)となり、本堂裏手の旧境内地には東京タワーが建設された。

 このような明治期の境内の接収と公園指定、戦後の返還と土地権利関係の混乱、こうした事情が現在の東京タワー/ホテル/芝公園/増上寺というカオスな佇まい、景観を作り出した。結局、芝公園は、一体何処が「公園」なのか?という有様になってしまった。かといって、増上寺の大伽藍が並んでいる訳でもなくて、その寺域も判然としない。堂々たる三解脱門と戦災後再建された本堂は鉄筋コンクリート造りの威容を誇っているが、他は徳川将軍家霊廟の痕跡を留める台徳院惣門、有章院二天門がわずかに残っているだけである。それもあるべき場所にない唐突さ、かつ荒れ果てて哀れな有様だ。

 東京タワーを背にした増上寺の風景が、東京をシンボライズする観光絵ハガキの一枚になってしまったというのは,こういう経過を知るとまことに皮肉としかいいようが無い。今日も海外からの観光客がここを訪れ、増上寺山門辺りでしきりに記念写真を撮っている。彼等はここを芝公園(ShibaPark)、それとも増上寺(Zoujouji-Temple)だと思って写真撮っているのか?誰か説明してあげて下さい。「お・も・て・な・し」ですよ。



(東京都公園協会HPによれば、この薄皮饅頭のような緑地帯が現在、東京都が管理している「芝公園」だそうだ。)




(東京タワーを背景にした増上寺。東京を代表する観光絵はがき的風景。しかしそこには複雑な経緯があった)




(でも,これはこれで結構画になる)



(堂々たる三解脱門。江戸時代にはこの山門の階上から海が見渡せたと言う。)



(梅の花の蜜を吸いにきたメジロ。都会にも春の訪れを感じさせる場所がある。これぞ「芝公園」)