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2021年3月1日月曜日

東山魁夷の京都 その今は(2)日比谷同友会会報掲載版

 川端康成が「今のうちに京都を描いておいて欲しい。そのうち京都は無くなる」とある画家に懇願したのが昭和30年代後半1965年頃だと言われている。その画家とは東山魁夷である。東山魁夷は大自然の中の静寂と優しさの世界をモチーフとする風景画家としてその名声を博していた。その代表作は1982年に描いた「緑響く」である。東山魁夷といえば思い浮かべるのがこの作品だろう。川端康成はその世界に陶酔し、ぜひ東山魁夷に古都の情緒を後世に残して欲しいと思った。

 

一方で、東山魁夷はその「国民的風景画家」としての名声に反して自分の中では葛藤に苛まれていたという。川端康成が「懇願する」、人の手が入った都市、日本の文化のエッセンスに満ちた京都を描くことに逡巡していたという。結局、心を決めて京都へロケハンに出かけ、幾つかの名作を生み出すことになる。新しい東山魁夷ワールドを開くことになったわけだ。その旅の最後に描いたのがこの「年暮る」である。町家の甍に深深と降り積む雪。晦日の京都は歩く人の姿もなく、わずかに町家の窓から漏れる明かりと、道路端に駐車する一台の車が、この静かな雪の大晦日を過ごす人々のこの町にあることを示唆している。町に漂う静けさ。こういう京都という町の描き方もあるのか。東山ブルーの極致である。ただよく見ると軒下の壁は青緑で描かれていて、雪景色と町家の甍のコンビネーションから来る雪あかりの町にほどよい引き締め効果を与え、全体に独特の落ち着きを醸し出している。東山魁夷は、この界隈の風景を描くにあたって江戸時代の与謝蕪村の描いた「夜色楼台図」に着想を得たのではないかと言われている。しかし、その構図には空もなく、山もない。ただ雪降りしきる町屋の甍が連なる光景が切り取られている。何点かの習作が残されているが、やはり山種美術館所蔵の「年暮る」だろう。

 私は京都に行く時はホテルオークラ京都を定宿にしている。かつての京都ホテルである。その東山側の部屋からは鴨川を隔てて東山一帯が展望できる。カメラのファインダーで覗くと、まさに「年暮る」に描かれた要法寺を含む町の一角を切り取ることができる。東山魁夷もこの旧京都ホテルの屋上(旧館)からこの街並みをスケッチしたと言われている。「年暮る」を見た瞬間、京都ホテルからの景色を思い出したのも宜なるかなである。




東山魁夷「年暮る」
1968年(昭和43年)
(山種美術館蔵)

2016年(平成26年)2月
ホテルオークラ京都(旧京都ホテル)から
同じアングルで筆者撮影





 「年暮る」が描かれてから半世紀。今、同じ場所に建つホテルの窓から東山界隈を見回すと、川端康成がいみじくも予見した通り、京都はその伝統的な町の景観を失ってしまった。時代の流れと言って仕舞えばそれまでだが、東山魁夷が描いた京都の町屋の滔々たる甍の波は消え去り、形も高さも不揃いな現代建築物に置き換わってしまっている。わずかに要法寺の甍にその痕跡を残すのみだ。東山魁夷は、川端康成が危惧したように家並みは失われても、この寺は残るのだろうと予想して画の上部に据えたのかもしれない。ちなみにこのホテルオークラ京都、建て替えの時に景観論争を引き起こし、ここの宿泊客の拝観を拒絶するという「寺社側の強行策」にまで発展したことがあった。あれから何年経っただろう。周囲にはマンションが立ち並び、ホテル周辺の景観自体がこのように激変してしまった。あの論争は何であったのか。記憶の彼方に薄れつつある。


 京都はその1200年の歴史の中で、度々の戦乱や災害で町が焼かれ、破壊され、荒廃した。しかし、その度に再建され、日本(ひのもと)の都(みやこ)として繁栄を続けてきた。そしてその伝統的な街並みや景観は、つい最近まで継承されていた。しかし、先の大戦(といっても京都人が言う「応仁の乱」ではない)で戦火に巻き込まれることもなく生き残ったこの町が、戦後の平和と経済的繁栄を謳歌した時代に、これほどまでに破壊され変貌を遂げてしまうとは。戦争も騒乱も人間のなせるワザであるが、「資本の論理」で街の有様を変容させるのも人間の業なのだろう。物欲煩悩止まるところを知らず、か。


これまでの人生の中で、ヨーロッパやアジアの街を旅してきたが、古い伝統の街並みを大切に残す営みは、長い歴史を誇る街に住む人々に共通しているように感じる。ドイツやイギリスでは戦争で破壊された街で、もとの古い建物を忠実に復元し、街並みを再建したところを見た。台湾では古い日本家屋群がそのまま保存修景されてアートコンプレックスとして生まれ変わったところを見た。単なる古いものへのノスタルジアではなく、自分たちの生活様式、価値観、そこから生まれる文化、そうしたアイデンティティーの表現形態の一つに、家屋、その連なりである街並み、コミュニティーがあるはずだ。それを壊してしまって何の変哲もない「経済合理性」という価値観だけが強調された街区に変容してしまう。それでは寂しい限りだ。日本を代表する古都、京都においてすらこのような有様であるから、まして東京も地方の大都市も、狭い土地にぎっしりと小さなビルが無秩序に建ち並ぶ特色のない街に変貌してしまった。日本ではいつの間にか建築物は「不動産」ではなく「動産」、あるいは「耐久消費財」になってしまったようだ。建物は工場で製造されて、現場で組み立てる規格品(プレハブ製品)になってしまった。その方が材料費も建設費も安く上がる。できるだけ頻繁に建て替えることで経済が回るようにした。築100年、200年の建物なんぞお目にかからなくなってきている。日本のあちこちを旅すると皮肉なことに経済発展の恩恵に浴することの少なかった地域に古い街並み、町屋や古民家がひっそりと残されているのを発見する。よく地方の古い街並みを「どこどこの小京都」と形容し、これを観光キャッチフレーズとして押し出している自治体や観光協会がある。しかしこの言葉が嫌いだ。そこは京都ではないし、「近代化」された京都より古いものがよく保存されていることだってある。かつてはその地方の独特文化の栄えた、城下町であったり、宿場町であったり、在郷町であったりする。地元の人々はそれを大事に守っているのだ。しかし本家の京都より「どこどこの京都」にそうした伝統の街並みが残っていることは皮肉だ。

 

川端康成の危惧は的中し、東山魁夷は「年暮る」を残した。これからの日本、大事なものを失わないように、文化的な感度を高めてゆく、そんな大人の国になって欲しいものだ。「文化財、守れる人が文化人」。奈良の今井町に掲示されていた標語が今も心に響く。

 

2020年10月23日金曜日

久しぶりの嵐山/嵯峨野散策 〜GoToトラベルで東京都民、京都に参上!.〜

 

大堰川と渡月橋

例年の紅葉シーズンの渡月橋(2010年)


紅葉の時期にはまだ早いが、京都の嵐山、嵯峨野散策に赴いた。「そうだ、京都行こう」じゃないが、前日に思い立って突然出かけることにした。鬱々とした「巣篭もり」の反動で突然弾ける。天気予報は幸いこれから二日は秋晴れだという。雨続きでうんざりもしていたこともある。GoToトラベルが東京都民にも適用されることになりこれが後押しした。宿泊料30%割引。地域共通クーポン6000円分付き。悪くない!「割引」キャンペーンは、金は無いが時間はたっぷりあるリタイア世代に、こんな果断な決断と行動をさせるものだ。

新幹線はジパング倶楽部でこれも30%割引。「のぞみ」には乗れないが、時間はたっぷりあるので「ひかり」で十分だ。新幹線はそこそこの乗車率。サラリーマン出張組が多い。「ガンバレ、サラリーマン諸君!」。「スマンがわれわれは遊びに行く!」。一車両の後列は団体用にGoToで旅行代理店が押さえているらしい。もっとも結局ほとんど埋まらなかったが。往時に比べりゃ席は空いている。

京都駅では、どこかの県みたいに「東京都民は京都には来ないでください!」とバリケードが張られ、防護服にマスク姿の府庁職員が立っているのではないか(?)と、恐る恐る降り立ったが、「入国検査」も「検疫」もなかった。思ったより観光客もいて、なんと修学旅行の一団まで!黒い制服の生徒たちが駅前広場のかたすみに腰を下ろして先生の指示を聞いている。街は賑わいを取り戻しつつあるものの、人出はイマイチかな。ホテルに到着すると、思いもかけず列を作ってチェックイン待ち。GoToが始まったので客が戻ってきたとのこと。ホテル業界にとっては良い兆候なのだろう。ここは以前から京都での定宿なのでチェックイン自体は簡単。体温検査はあったが「東京からですね?』などと余計な念押しもなし。街へ出て寺町新京極あたりを徘徊すると、地元の人(観光客らしくない人)で賑わっている。錦小路や先斗町へ足を伸ばすと、閉店してしまった店が多いのに驚く!やはりコロナは観光業中心の地元経済に大きな影響を与えているようだ。なんと言っても中国、韓国の観光客がいないのだから、ビフォーコロナのあの雑多な賑わいを求めるのは無理。「爆買い」などもはや過去の言葉になってしまった。しかし、この日本人だけでそれなりに賑わっている京都の街も悪くない。かつてのバブル時代の日本、すなわち物価高と円高で、海外からの旅行者には敬遠されていた時代に戻ったようだ。街中では日本語しか聞こえてこないし、慣れない着物着て自撮り棒振り回す「チャイニーズ・ゲイシャ」の一団もいない。なつかしさがこみ上げてくる。昔の京都はこんなんだったなあ!と。

京福電鉄嵐山線、いや「嵐電」で嵐山へ向かう。新入社員時代(初任地は姫路)、デート時代、新婚時代、大阪時代と頻繁に出かけた。嵐山、嵯峨野のブログもいっぱい書いた。地下鉄太秦天神川で乗り換えてコンプレッサーの音も懐かしいチンチン電車に乗車。車内はそれなりに席が埋まっているが、雰囲気的には地元の乗客が多いようだ。嵐電嵐山駅につくと駅前の人出は閑散としている。もちろん紅葉にはまだ早いし、ウィークデーであることもあるが、かつてのように駅前の通りが観光客で溢れている感はない。ここでも閉まっている店が多いのに驚く。なかには看板下ろした店も。もちろんインバウンドも姿を消した。コロナの影響は大きい。なんかあの渡月橋が落下するんじゃないかと思うほど人が溢れていた時代の嵐山じゃないような気がする。

嵯峨野にいたっては、かつての嵯峨野散策コース入口、竹林地区が人の波で大渋滞して先へ進めなかった時代が嘘のよう!そこそこ観光客はいるが閑散としている。都会の人人人の生活に疲れてやってきた嵯峨野で、観光客の喧騒の渦に巻き込まれるなんてイヤじゃあ〜りませんか。静かに散策する本来の環境が戻ってきたようで少し嬉しくなった。ゆったりと秋風を感じながら竹林を抜け、野の宮神社、山陰線の踏み切りを渡り、落柿舎、常寂光寺へと散策する。ここから先は二尊院、祇王寺、化野念仏寺、そして鳥居本へと続く。こんなに静かな小径だったかと驚く。かつても念仏寺を過ぎると歩く人も急に少なくなってゆっくり散策できたものだが、今は落柿舎あたりも人が少なくやけに秋空が広い。ここは一人旅の女性の姿が良く似合う。一眼レフ下げて歩く「カメラ女子」にも出会った。嵯峨野は今も昔も「女子」に人気だ。「女ひとり」とういうデュークエーセスの歌が流行ったっけ。

紅葉の名所、常寂光寺を目指した。ここは1561年(永禄4年)開山の日蓮宗の寺だ。この緑濃い寺は、信仰と修行の場というよりは、俗世を離れて静かに隠棲して仏道に精進する場なのであろう。この辺りはかつて藤原定家の山荘があった場所だ。小倉山の中腹にありここから京の都を展望することができる。今はまだ錦繍の紅葉シーズンには早いが青紅葉が美しい。陽の光にモミジと苔の緑がキラキラ輝いている。しかしこの寺の苔がこのように見事であることに今まで気づかなかった。これも慌ただしい観光客の群れに巻き込まれず、ゆったりと時を過ごすことができるお陰だろう。何か忘れていたものを取り戻した感じがした。内外の観光客に人気なのも良いが、オーバーツーリズムはやはりなんとかせにゃいかん。観光業を生業にしている方々には申し訳ないが、こうした静かな佇まい、ゆったりとした時間を取り戻すのも悪くない。そういう時間と空間に価値を見出す生活。コロナを機会にもう少し豊かさをは何かを考えてみたいものだ。


京福電鉄嵐山線
またの名を「嵐電」
渡月橋のたもと、金木犀が芳香を放っている

渡月橋

大堰川堰堤

秋晴れの天気

むらさき芋スイーツ
嵯峨野の竹林




野々宮神社
コロナ退散を祈願

落柿舎
秋の空が大きく広がる

常寂光寺山門

仁王門

本堂

多宝塔

紅葉と苔のコラボレーション


仁王門


苔むす庭

境内から東山方面を展望

藤原定家の小倉山荘跡



嵐電嵐山駅前の人出の比較写真をご覧いただきたい。それにしても例年の紅葉シーズンの嵐山は凄まじいほどの人出で、紅葉狩りどころではなかった。今回は紅葉シーズン直前の平日であったことを割引いても、閑散とした佇まいだ。店仕舞いしたところもありかつての賑わいは感じられない。どちらが良いのか...

(現在)

嵐電嵐山駅前の通り
人力車も余裕で走れる

閑散とした駅前通り
店仕舞いしてしまったところもある


(10年前)

例年の紅葉シーズンならこの賑わい!
嵐電駅前の通り(2010年)

2010年頃の天龍寺曹源池庭園まえ

(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60/3.5-5.6 ただし以前の写真三枚を除く)







2018年12月13日木曜日

北野天満宮 御土居の散りもみじ そして上七軒花街












 師走の10日にもなるとさすがの京都も紅葉狂騒曲は終焉を迎え、紅葉見物の観光客でごった返した名所旧跡は静けさを取り戻す。先週に引き続き、年末恒例の大阪での仕事の帰りに冬枯れの京都を訪ねてみた。先週は12月にしては暖かく紅葉も真っ盛りであったが、今週は急激に寒くなり落葉。一週間でこうも違うものか。北野天満宮の御土居「モミジ苑」も、シーズン中は入場に列をなす状況であったそうだが、今は散策路は閉鎖され、全く人気がない。ほとんどのモミジ樹木が逆さ箒のような有様だ。時々、老年のカップルが「ついこの間まで見事だったんだろうね」などと語り合いながら迷い込むように入ってくる。「来たぞ」という証拠写真を一枚撮ってそそくさと引き返してゆく。すれ違い様に私の顔を見て「こんな時期に来て残念でしたなあ〜」という顔をしている。しかし、この人気のいなくなった時期の紅葉残照、というか散りモミジというか、この静寂の時間がまたなんとも美しい。色を失った逆さ箒の合間に密やかに輝く紅葉、黄葉。敷き詰められた落ち葉の錦。そこに美を見つけ出すのが「時空トラベラー」だ。かなり偏屈な人間だし、人気の少ない閑散としたところが好きなのだから仕方がない。敷紅葉あり、残色あり。黄紅葉あり。結構楽しめる。

 北野天満宮は言わずと知れた菅原道眞公を祀るお社。筑紫の太宰府天満宮と並ぶ天満社だ。どちらが天満宮の本宮なのか意見が分かれるが、わたしにとってはどちらでも良い。境内は太宰府天満宮の方が広いようだ。本殿は両社とも桧皮葺の荘厳なものである。奉納されている牛は太宰府の方が多いかな?飛梅が北野天満宮にないのはいた仕方ないだろう。北野天満宮の方は元は筑紫野太宰府に左遷され無念の死を遂げた菅原道眞の怨霊封じの社であったが、後世には、文章博士菅原家の知性にあやかろうと学問の神様として崇敬を集め、今では勉学受験の神様として受験生の絶大な人気を集めている。その人気は太宰府天満宮と双璧をなす。12月だというのにこの日も修学旅行の中高生が全国から集まってきていた、ひと組は埼玉から、もうひと組は神奈川からと言っていた。そしてもう一組は明らかに九州から。九州男児クン達の傍若無人で声高なバカ話につい耳を傾ける。「ふるさとの訛なつかし天満宮」。御土居は(つい間違えて『御居処』といってしまうが)豊臣秀吉が京都の市街地を守る為に築いた高さ5メートルほどの土塁の跡。洛中洛外をわけることが目的であったとか、防衛上の目的があったとかいわれているが判然としない。ここ北野天満宮の西側にもわずかに残っている。京都という街は中国の紫禁城や西安城などの羅城と異なり、城壁のないみやこであったとおもっていたが、秀吉さんが、こんな土塁を市中にめぐらしていたんだ。しかし、後世には破壊がすすみ、市中に何箇所か史跡指定され残っている。ここ北野天満宮境内の御土居もその史跡の一つ。そこが今や秋は紅葉の名所となり大層賑わう。先週までは入場チケットを買わないと入れなかったそうだが、今日は人っ子一人いない。







 上七軒は天満宮の東側に展開している花街だ。歴史は古く、室町時代に再建された天満宮社殿の残材を用いて東門前に七軒の茶屋を設け参詣者の接待を行なったことに始まるという。また太閤の北野の大茶会が催された際にはこれらの茶屋が茶菓を提供し、太閤のたいそうなお気に入りとなった。その後花街として発展していった。神仏参詣の後のお楽しみはお茶屋で。八坂神社界隈には祇園の花街が、北野天満宮界隈には上七軒の花街が成立したというわけだ。寺社仏閣と花街、茶屋町というのは昔から共存共栄のエコシステムを形成してきた。さらにここ上七軒は西陣が近いこともあって、かつては羽振りのいいダンさん達でたいそうな賑わいであったそうだが、西陣の織物産業の不況とともに上七軒も徐々に賑わいを失い芸妓、舞妓の数も減少してしまったという。それでもちゃんと上七軒歌舞練場もあるし、毎年春には「北野をどり」が催される。ちょうど、芸妓さんが三人、綺麗に着飾って、賑やかにタクシーに乗ってお出かけであった。昼間からお座敷なのだろうか。あたりが華やいだのも一瞬、タクシーが行ってしまうとまた、静かな石畳の小路の町並みに戻り、自転車のおばちゃんが通り過ぎてゆく。内外の観光客が押しかける祇園花見小路と比べ、この静寂と落ち着いた佇まいがなんともいい。

 散りモミジの余韻の美、残照に見る有終の美。静かな花街に芸妓三人。自転車。冬の京都は奥深い。










(撮影機材:Leica CL + Vario Elmar 18-55 ASPH, Apo-Vario Elmar 55-135 ASPH)


2018年12月1日土曜日

2018年紅葉探訪 〜京都南禅寺界隈編〜






 去年の秋は上洛かなわず、今年こそは京都の紅葉を!と切望していた。ちょうど11月の最終日に大阪で会合があり、この出席に合わせて念願の京都の紅葉を一目見てゆこうということになった。時期的には今が紅葉真っ盛りだが、やや、見頃過ぎて枯れている木もある。でもまあ良いタイミングといって良いであろう。紅葉の季節の京都は兎に角人が多い。東福寺、永観堂、北野天満宮御土居など、有名どころの寺社は早朝から門前に列をなし、この時期限定の拝観料を払って、中ではもみくちゃになりながら紅葉を見る。人を見に来たのか紅葉を観に来たのかわからない状態だ。本来なら静謐な環境の中で、心を落ち着かせて入山し、鮮やかに燃える紅葉見て初めて心ときめかす。こうありたいのだが、そうはいかない。鉄道会社の「そうだ京都 行こう!」などのキャンペーンに誘われて人が溢れ返る。私もその一人なのだから仕方がない。今回は時間の制約もあるので、アクセスが良く、さっと行って、さっと空気を吸って帰れるところを選んだ。そうすると南禅寺とその界隈ということになる。なんども来ていて様子がわかっている。何よりも拝観料がいらない。お隣の永観堂には足を伸ばさず、そのまま、野村碧雲荘、清流亭などの南禅寺界隈別荘群地区へ流れて、無鄰菴へ足を運んだ。人も多かったが、南禅寺は広大な寺域を有しスペースもあるので、自分のペースで、好きなアングルで紅葉を楽しむことができる。そこが好きだ。イチョウは散ってしまっていたが山門の紅葉はまだ紅色。特に個人的に好みのアングルは山門脇の紅葉越しの逆光ショット。門前の人出も、この場合この季節の京都らしい点描になるので、むしろ避けずに積極的に画面に入れてみる。これが南禅寺だ。賑わいが表現されて悪くない。以前、ここから永観堂、真如堂、金戒光明寺と回った時も、それぞれに美しくて感動したが、今回はショートカット版で我慢することにした。野村碧雲荘は、以前、冬の季節に庭園を見学させてもらったが、今回はもちろんノーアポで外から眺めるだけ。一本の紅葉が生垣越しに鮮やかであった。最後に山県有朋の別荘、無鄰菴に立ち寄る。こちらは公開庭園である。普段は人も少ない落ち着いた庭園も、この時期は人で溢れていた。紅葉も鮮やかだ。帰りは、京阪東山三条駅まで歩いた。途中、あの東山魁夷が描いた「年暮る」の京町家の甍連なる(かつて連なっていた)地区を抜けた。要法寺は健在だが、街並みはやはりすっかり変わり果ててしまっていて、東山魁夷の世界の面影はない。ところどころ町家の痕跡が残ってはいるが、周囲のマンション、プレハブ住宅の波に早晩飲み込まれてしまうだろう。残念だ。まあともあれ駆け足であったが東山、南禅寺界隈の紅葉を堪能することができた。これで心置きなく正月を迎えることができそうだ。
















 以下は、南禅寺界隈別荘群地区。ここまで来ると観光客は激減し、静かで落ち着いた佇まいのお屋敷外周を見物させてもらうことができる。もとは南禅寺の塔頭が軒を並べていた地区だが、明治以降それが廃絶となり、別荘地として売りに出された。琵琶湖疏水を引き込む庭園を造営できるということが人気となり、政財界の大物たちが競って別荘を構えるようになった。どこも非公開だが、無鄰菴だけは公開されている。

新築の邸宅も周囲の環境によく調和させている

野村碧雲荘

無鄰菴庭園








(撮影機材:Leica CL, Vario-Elmar-T 18-56 ASPH,  APO-Vario-Elmar-T 55-135 ASPH,  Super-Vario-Elmar-TL 11-23 ASPH)