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2025年4月26日土曜日

荏原・畠山美術館リニューアルオープン 〜「花ひらく茶と庭園文化展」と新緑美しい庭園・茶室を鑑賞〜

 


リニューアルオープンの荏原畠山美術館(旧畠山記念館)再訪。2019年3月以来しばらく休館していたが、改装工事とともに3階建ての新館が増設され展示スペースが広がった。2024年10月5日新たに「荏原畠山美術館」としてオープンした。私にとっては8年ぶりの再訪である。本館はほぼ元のままだが、そういえば以前は靴を脱いで入館したが、今回は「土足」のままで良い!これは大きな変化だ。折しも新緑が美しい季節。エントランスからのアプローチ、庭園、茶室もその新緑に映えて相変わらず美しく心癒される空間だ。そういえば前回は紅葉の季節に訪問した。8年前の「畠山記念館」時代の訪問記はこちら。2017年11月21日「畠山記念館探訪」

今回は「花ひらく茶と庭園文化」と銘打って、松平不昧(治郷)公(1751〜1818)の茶湯文化の足跡と、茶道具コレクション「雲州蔵帳」、名器油屋肩衡と大師会茶会、彼が開いた名園「大崎茶苑」を偲ぶ豪華な企画展示であった。品川区北品川(大崎御殿山)にあった出雲松江藩の下屋敷。ここは不昧公が隠居後に、二万坪の敷地に11もの茶室を設け、いわば一大「茶の湯テーマパーク」ともいうべき「大崎茶苑」を築いた場所であった。領国の松江にも数多くの名茶室、庭園を設け、高価な茶器を買い入れ、さらに銘菓の開発にも力を入れて不昧流の名を欲しいままにした。財政的に苦しかった松江藩は不昧公の茶の湯三昧で一時破綻に瀕したが、家老や、後継の藩主によって財政再建され藩は存続した。松江では、今でも不昧公は「道楽三昧の暗君」としてではなく、茶道不昧流の開祖にして「文化人」として敬愛されている。もちろん畠山則翁の不昧好みへの思い入れも、「雲州蔵帳」のコレクションの多くを所有していることからもわかる。今回の展示にも所蔵品が一堂に会しその熱意が表れている。松江藩江戸藩邸下屋敷。今はその不昧公「夢の跡」の痕跡も残っていないが、往時を偲ぶ資料が松江歴史館と国会図書館に残されており、今回それらが展示されている。品川、御殿山界隈には維新まで薩摩や土佐、筑後久留米などの大大名の下屋敷があり、出雲松江藩の下屋敷もその一角にあった。しかし黒船騒動による品川台場造成の土取りで、御殿山が切り崩され、また明治の鉄道開通でさらに開鑿され、かつての桜の名所として親しまれた風光明媚な御殿山はズタズタになり、別天地の風情は失われた。そして維新に伴い大名屋敷も無くなったが、明治になると益田鈍翁、原三溪などの財界人にして茶人、近代数寄者がこの地に邸宅を構えた。則翁の邸宅(現美術館)は少し離れた島津山にあるが、この界隈に不昧公の夢の跡があったとは。新しい発見である。何か土地の記憶と空気が、時空を超えて茶人、数寄者を呼びよせるのであろうか。そんなことを考えさせる展示であった。

展示室内部は一切撮影禁止で、畠山即翁や不昧公の茶道具、書画などのお宝をここで紹介することはできないが、新緑が眩しい庭園と茶室は撮影可。この美術館の特色の一つは、7点の国宝を含む充実の収蔵品のほかにも、その立地、佇まい。特に庭園と茶室の配置の美しさにある。日本庭園は自然を重視し、岩や植栽で山や谷、森、清流などを表現する、いわゆる「見立て」が用いられていて美しい。また茶室という木造の「人工物」が経年劣化による美的佇まいを自然の庭園の中に醸し出す姿は、18世紀イギリスで起こったエドモンド・バーク、ウィリアム・ギルピン、ユヴデール・プライスなどの風景論、庭園論で展開された美学論争、「崇高」と「美」、そして「ピクチャレスク」に通じるものを感じ取ることができる。イギリスと日本の美意識は似ている、などと短絡的な議論をするつもりはないが、洋の東西を問わない共通美意識があることに気づくことは嬉しい。ことさら違いを強調して、二項対立を煽る風潮を毎日見せつけられていると、多様な価値観や意識をお互いに尊重し、その中に共感が生まれ、違いを超えた普遍性をそこに意識することがいかに心地よいか。お互いのレスペクトはそこから生まれる。

以前と比べると、今回は外国からの訪問者が多かった。熱心に茶道具や書画、そして庭園や茶室を鑑賞している。こうした美への共感、普遍的価値観を共有する世界の仲間が増える。これも嬉しい。この美術館の再開を心から喜びたい。まさにこれからの日本は、明治以来の「富国強兵」「殖産興業」による「一等国」を目指した時代、そして戦後の「経済大国」、バブル崩壊の時代を卒業して、岡倉天心のいう「茶湯の精神」が評価される「文化一等国」日本に脱皮して欲しいものだ。

荏原畠山美術館HP:https://www.hatakeyama-museum.org/


(参考)

18世紀イギリスのギルピン、プライスの風景論、「崇高」「美」「ピクチャレスク」論とそれに伴う庭園論と、日本の庭園思想との共通点を求めるならば次のような点が見出される。

ギルピン、プライスの美的感覚日本文化における共鳴
経年劣化の美                  侘び・寂び、美しい古び
不規則さの価値   枯山水、借景庭園
人工と自然の曖昧さ   庭園における見立てや抽象化

特に、自然に人工物を配する中に「時間の経過が美を深める」という感覚は、日本の美意識と非常に相性が良い。西洋人の日本庭園理解や茶の湯文化への評価に結びつくと感じる。その一方で、日本人の英国式庭園の美意識理解と評価につながっているとも感じる。

参考文献: English Landscaping and Literature 1660-1840 ' by Edward Malins, Oxford University Press, 1966




門から本館へのアプローチ

本館入り口




茶室

新たなしつらえの庭園

石を引き詰め、水の流れに見立てる


館内唯一の写真

「ピクチャレスク」


(撮影機材:FUJIFILM GFX 100RF Fujinon 35mm/4)


2020年6月12日金曜日

古書を巡る旅(2) 〜ラフカディオ・ハーンを訪ねてロンドン、ニューヨーク、東京そして出雲松江へ〜





ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)、本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patric Lafcadio Hearn)。1850年ギリシャの生まれ。父はアイルランド人で英国軍医。母はギリシア人でアラブの血も流れていると言われている。当時のアイルランドはイングランドに支配されていたので英国籍。
ラフカディオはミドルネームで、彼が生まれたギリシャの島の名前に由来する。彼はキリスト教に馴染めず、アイルランドの守護聖人、聖パトリックの名をとったファーストネームを名乗らなかったと言われている。
その後アメリカへ移民し、シンシナチやニューオーリンズで記者をしていた。ニューオーリンズ万博で出会った日本人の話に強く惹かれ、また女性冒険家で世界一周旅行を果たしたエリザベス・ビスランドに強い影響を受けて、日本行きを決意する。その頃イギリス人のバジル・チェンバレンによって英訳された「古事記」に出会い影響を受けたとも言われている。

日本に来てからの略歴

1890年8月30日来日。文部省の服部一三の斡旋で松江尋常中学の教師として松江に
1891年、旧松江藩士の娘、小泉セツと結婚する。
1891年11月、熊本の第五高等学校の英語教師に招聘され熊本に移る
1894年、神戸の新聞社ジャパンクロニクルに就職
1896年、東京帝国大学で英文学講師、日本に帰化、小泉八雲と名乗る
1903年、退職(後任は夏目漱石)
1904年、早稲田大学英文科講師、死去(享年54歳)雑司ヶ谷墓地に眠る

日本人は「外人」が日本をどう見ているかについて異様なほど関心を持っている国民だと感じる。私自身もかつてはそうであった。テレビ番組でも「Cool Japan!」だとか「Youは何しに日本へ?」だとか「ワタシが日本に住む理由」とか、外国人の日本観察番組が大人気だ。書籍でも「青い目の見た...」とか「台湾の若者に人気の...」というようなタイトルの本が溢れている。そしてほぼ例外なく「日本はこんなに素晴らしい!」「こんなにかっこいい!」と礼賛するものばかり。「キミたち日本人は気がついていないだろうが、ワタシたちガイジンは日本のこんなところに感動しているんダヨ」と。こういうのが日本人は大好きだ。まあ自尊心をくすぐられて悪い気はしないのだが、ほんとにそれが日本の姿、日本人なのか。なんで悪いところは言わないのか?ふと疑問に感じる。少なくともロンドンでもニューヨークでも、あまりイギリス人を、アメリカ人を「君たち日本人は我々をどう見てる?」なんて聞かれたことも話題になったこともないし、そんなTVショーを見たこともない。そもそも誰がどう思おうと関係ないという態度だ。日本人は日本を意識し過ぎなのだろうか。これはおそらく明治以降、日本が欧米列強に追いつけ追い越せ、とやっていた頃から始まって、戦後の復興期から高度成長期にそのピークに達したのでは無いかと思う。江戸時代は、鎖国ということもあってかあまり外からどう見られているかなど、少なくとも庶民は考えもしなかったであろう。古代においては中国王朝から蛮夷の国に見られないように意識していた様はよくわかるが、これも庶民レベルでは全く関係ない話だったろう。明治の文明開化、富国強兵、殖産興業というスローガンの下、日本がどれほど「東洋の非文明国」から欧米に負けない「近代文明国家」になったか、「一等国民」になったか、それを検証したくて、特の欧米人はどう見ているのかすごく気になるのであろう。

私も、明治以降、日本にやってきたお雇い外国人が書いた日本に関する著作が取り上げられ、翻訳され日本人に愛読されるのもそのせいだと考えていた。しかし彼らは別に日本人に読ませようとして書いた訳ではなく、世界に向けて未知の日本を語り、自分がいかに貴重な体験をしたかを記録したのである。その中で日本がいかに素晴らしい、欧米とは異なる神秘的な「もう一つの文明国」であるかを強調した。それを読んで日本人が感動した...「日本はこんなに素晴らしいところなのか」と。そういう視点でラフカディオ・ハーンを見てみると、彼はなぜ「怪談」とか「神話」とか「民間伝承」に拘ったのか。もう少し日本が力を入れている「近代化」を評価して欲しいものだと。確かに近代化していく日本の強みや、西欧諸国との違いや優位性についても観察し触れているが、しかし神秘的で、心穏やかで、控えめな日本人の姿から、富国強兵で、日清戦争に勝ち、傲慢さを身につけ徐々に大事なものを失いつつある日本人の姿を感じ取り始め記述している。しかし彼は基本的に霊魂や妖(あやかし)といった非現実的な世界に日本人の霊的体験と精神性を見ている。「耳なし芳一」や「雪女」などの怪談話は、日本古来からの伝承であるが、我々はむしろハーンの「怪談」の日本語訳でそれを知ったようなところがある。そういう意味でこれも「外人が見た日本」のもう一面だと感じてきた。しかし、このような「日本人」と「外人」、「ウチ」と「ソト」という日本人に特有の二分法思考による視点が必ずしも物事の本質や人間の普遍性を正しく認識し説明してくれないことに気づくことななる。

私がロンドンやニューヨークで古書店を巡るとき、そうした「外人が見た日本」的なテーマで本を探したものだった。ところが、まずロンドンで感じたのは日本はイギリスから見ると「Far East」極東であり、旧大英帝国版図にあるインドや香港やオセアニア地域に比べると馴染みが薄い、ということであった。大英図書館やLSE図書館でも、「日本」は「アジアその他」ないしは「極東」のカテゴリーで取り扱われ、書籍の数も世界の他地域に比べ相対的には少なかった。であるから古書店を歩いても日本関係の古書に遭遇する確率には限りがあった。ラフカディオ・ハーン、いや小泉八雲についても日本人には有名で馴染みがあるが、イギリス人にはどうなのかと半信半疑であった。しかし、意外にもハーンの著作は比較的遭遇する頻度が高いことがわかってきた。イザベラ・バードやアンナ・ハーツホーンの著作にも出会った。古書店主に聞くと、ハーンは、いわば著名なジャパノロジストで、英国においては日本研究者だけではなく読書家にも人気のある著者である。したがって古書もよく出るとのことであった。見つけるのもそれほど困難では無いとのことである。イギリス人は大英帝国時代以来の「World Grand Tour」の伝統があり、世界旅行が好きな国民だ。これに出かける人がよく買ってゆくという。この辺がミシュランやトマスクックの旅行ガイドブックだけに頼らない、イギリス知識人の知性と教養の片鱗が見え隠れする点だ。こうしてチャーリングクロスやセシルロードの古書店街を徘徊しハーンを探した。結局シティーのど真ん中のロイヤルイクスチェンジに店を構えるAsh Rare Booksでは「怪談」と「心」を見つけて購入した。

数年後、ニューヨーク勤務になった時に、やはりハーンを探して古書店を巡った。ニューヨークはロンドンほど古書店が多くはないが、これも意外なほど簡単に見つかった。住んでたアパートの近くのマディソンアベニューのComplete Travellerは、その名の通り旅行、地理関係の古書、古地図が豊富であった。ハーンの著作は初版本ばかりではなく種類も多い。ロンドンと同じで、店主はハーンはアメリカでも人気だという。大学でも研究されているし、学校の図書館にも並んでいて、それが古書市場に出てくると言っていた。この店でJapan an InterpretationとOut of the Eastを入手した。

このように英米においては日本人の間で知られる日本贔屓の「外人」ラフカディオ・ハーン、いや「日本人」小泉八雲としてではなく、著名な作家として根強い人気がある。それに奇妙な東洋趣味や、神秘的な不思議の国日本といった関心からだけではなく、欧米文化とは異なる日本人の内なる心情や、日本文化の内面に迫る、そういう知的な関心を寄せる人たちのバイブルである。また人間に内面に潜む不可解や神秘への憧れ、といった普遍的な心情を愛する一般の読書人の読み物としても、説話短編集、あるいは評論集なので読みやすく面白いのであろう。こうして私の「外人が見た日本」というベンチマークでの本探し、換言すれば「日本人」「外人」、「ウチ」「ソト」という二分法視点がいかにロンドンやニューヨークの古書店では通用しないかを悟った。

古書の楽しみの一つに、以前の所有者の痕跡を探すことがある。この古書が辿ってきた歴史と、その背後に見え隠れする所有者たちの物語がある。蔵書票やメモ書きやメッセージ、また栞が挟まっていたり、メモ用紙が挟まっていることもある。鉛筆での下線やチェックは、その読者が何に興味を抱いたのかを知る手がかりになる。ロンドンで入手した「怪談」には個人の蔵書票があり、その横に万年筆で「To ... From...」が記載されている。誰にプレゼントしたのだろう、息子、娘なのか、恋人なのか、友人なのか... 想像が膨らむ。「怪談」をエキゾチックな極東の日本の伝承物語として興味を持ったのか、あるいは日本を理解する一助としたのか... またニューヨークで手に入れた「神国」には「愛する可愛い妻へ」と書かれている。日本に強い興味を抱いていたであろう妻にクリスマスのプレゼントとして贈ったらしい。その夫の心を思う。また神田神保町で手に入れた「骨董」には「1930年東京の英国大使館にて」とノートがある。日本が戦争の時代に突入する満州事変が起きた前年だ。この所有者はやがて、この本を残し、交戦国となった日本を退去したのだろう。どんな思いでハーンの描いた精霊の国日本を離れたのであろうか。イギリスでもアメリカでも、かつて日本と戦争した国の人々が、愛を込めて妻や子供や友人に、ハーンの日本に関する本を贈り愛読した。その痕跡がありありと残されている。戦後日本の連合国GHQによる統治を指揮したダグラス・マッカーサーと、その書記官であったボナー・フェラーズはハーンを読んで日本を研究した。とりわけボナー・フェラーズはハーンの愛読者で何冊もの著作を所有し日本滞在中も手放さなかったという。そこから得られた日本と日本人への内省的な理解が、GHQの民生統治の基層にある。かれは滞在中、ハーンの遺族を訪ね交流を深めたという。

日本人が外人からどう見られているか、という一方的な関心事や、戦前の「敵性外国語」書籍だから読まない、といった、そんな偏狭なものの見方ではなく、広く深く人間のうちなる精神を読み取ろうとする試みに、多くの人々が共感し、その感動を共有したのだ。その心は、文字通り、洋の東西を問わず、国家同士の非人道的で非生産的な戦争に左右されることもなく、深い普遍的な人間の物語として読み継がれてきたことを知る。そこには著者とその著作にまつわる物語だけでなく、その書籍を読み継いできた所有者が記したメッセージやノートやチェックなどの痕跡に、その心情、家族や友人との交流の物語を発見することができる。これこそ古書をめぐる旅の面白さだ。



古書店巡りクロニクル

1)Ash Rare Books ロンドン(1993〜96年に訪問)
 もとはCityのRoyal Exchangeにあったが、ネットで調べると現在はSouth Bankに移転し盛業中のようだ。旧店舗は歴史的建築物の中にあり、ここに居るという体験自体が「時空トラベル」で、いつまでも佇んでいたい素晴らしい空間だった。古地図も豊富で、16世期のベルギーの地図製作者ヤン・ヤンソンの日本地図をここで手に入れた。額装までやってくれた。

 Kokoro「心」: 
 1896年ロンドン初版本 神戸時代の著作
 Kwaidan「怪談」:
 1904年ボストン/ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作

2)Complete Traveller Antique Bookstore ニューヨーク(2003〜06年に訪問)
 Madison Avenueにある。現在はオンラインのみとなってしまったが、旧店舗は「古書の大海」に揺蕩う、という言葉がぴったりの智のラビリンス、時空のワンダーランドであった。店主は趣味人、教養人がメガネかけて、パイプ燻らしているという、如何にもこの場にぴったりの人物であった。「用事があれば声かけてくれ」という人と人との距離感。質問すると丁寧に調べて答えてくれる誠実さ。何時間でも過ごすことのできる心地よい空間であった。こうして店舗が街中から消えてゆくのは寂しい。

 JAPAN An Interpretation「神国」:
 1904年ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作
 Out of the East「東の国から」:
 1895年ボストン/ニューヨーク初版本 神戸時代の著作 熊本での話が描かれている

3)北沢書店 東京(2019年〜)
 神保町の老舗洋古書店。「巣篭もり」中、オンラインで購入。本業はもちろん欧米古書を扱う伝統的な老舗店であるが、それだけでなく最近は店主の代替わりに伴ってDisplay Booksという、インテリア要素を入れた古書シリーズを提案している。しかもオンラインショップで受け付けている。古書のイメージをガラリと変える新しい感覚の「アンティークショップ」と言って良い、今注目の「古書店」だ。エドモンド ・マローンのシェークスピア全集やチェスウィック版シェークスピア文庫集など、美術品とも言える美しい古書をここで手に入れることができた。

 KOTTO「骨董」:
 1927年ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作 
 1930年2月14日British Embassy Tokyoの個人の所有
 Japanese Miscellany「日本雑記」 :
 1901年ボストン初版本 東京帝国大学英文学講師
 1982年Yushodo Booksellersからの復刻版(300部限定)


怪談(KWAIDAN)1904年初版本

雪女の挿画

耳なし芳一


心(KOKORO)

ロンドン、ニューヨーク、東京と
それぞれの都市で出会ったハーンの著作
どれも個性的で美しい装丁だ


出雲松江散策 (2008年に訪問)

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はまるで出雲に長く住まったような印象があるが、実は一年ほどしか滞在していない。また滞在中には本を出していない。しかし松江での日本生活の第一歩は彼に大きなインスピレーションを与えた。後に出版した「Glimpses of Unfamilier Japan」に書かれている、松江大橋を渡る人々のカラコロという下駄の音で目が覚める朝のシーンが印象的だ。物売りの声、臼の響きなどの生活音、彼は音に感性を刺激された。文字を用いないサウンドスケープ(音景)の世界を感じていた。これが彼が夢見た日本の現実(リアリティー)であった。夢と現実は、時として大きな乖離があるものだが、彼にとってここ松江で目にし耳にする日常的な現実は、まさに夢見た通りであった。特に妻の小泉セツの語る怪談話や民間伝承がのちの著作の基層になっている。松江では本を出さなかったが、この松江での生活と体験が、あの代表作「怪談」や「心」などの名著を生み出した。松江という街が彼の抱いていた日本のイメージとぴったり一致していたのであろう。大きな感動を与えた。

彼はなぜそのように怪談、幽霊、精霊などの日本固有の民間伝承や神話の世界に惹かれたのか。古事記に出会ったことがきっかけとも言われるが、その前に、少年期の体験、すなわちカトリック学校の教えに馴染めず、次第にアイルランドに古くから伝わるケルトの精霊信仰に興味を持っていったことがあったようだ。そのようなキリスト教伝来以前のケルト源教の心霊説話に親しんだ幼少時代の影響で、日本の、やはり仏教伝来以前の自然崇拝、精霊信仰、祖霊信仰の基礎にした神話、民間伝承に強く惹かれたのであろう。特にバジル・チャンバレンの英訳「古事記」に影響を受けたのも事実だろう。彼とは来日後も親交を深めた。このように日本人の祖霊信仰に共感を覚え、神道のような経典もなく教えも説かない宗教を邪教と考えるキリスト教的な宗教概念に違和感を感じたのも、このケルトの体験があったのかもしれない。こうして小泉セツの語る怪談、伝承、や「雨月物語」「今昔物語」の中の説話を題材とした「再話集」を次々と書いていった。

しかし、彼は松江を去り、熊本、神戸、東京と移り住むに従って、徐々に日本の美しい内面ばかりではなく、文明開化や富国強兵により近代化を果たしてゆく日本に、何か大事なものを失ってゆく姿を見るようになる。時代は1894〜95年の日清戦争の勝利を経て、1904年の日露戦争へと、日本が大陸へ、戦争へと突き進み、念願の「一等国」への道を歩き始めた時期である。彼は徐々に日本に幻滅していったとも言われている。岡倉天心が「茶の本」で「西欧諸国は日本が平和な文芸にふけっていたときには、野蛮国とみなしたものである。しかるに満州の地で大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。それならば日本は喜んで野蛮国に甘んじよう」と書いた。この心情をハーンも共有したに違いない。この辺りの評論は晩年の著作に現れている。こうした心境の変化は時代背景があってのことではあるが、彼が最初に暮らした松江の思い出はひとしおであったことだろう。1896年に日本に帰化したとき(この時は東京にいて東京帝国大学に教職を得た)、かれは日本名を妻の姓「小泉」と、出雲の美称(枕詞)である「八雲立つ出雲」の「八雲」を採り小泉八雲と称した。こうして松江は彼の原点となり小泉八雲とは切ってもきれない関係となった。


「八雲立つ出雲」の夕景
穴道湖大橋
松江大橋
ハーンが橋を渡る人々の下駄の音で目が覚めた松江最初の朝のことを書いている

松江城
松江城天守

天守から松江の街を展望す
武家屋敷街にある「小泉八雲旧居」
その並びに記念館が開設されている

武家屋敷
現在は美術館になっている
塩見縄手









2020年2月16日日曜日

「出雲と大和」展@東京国立博物館 〜なぜ出雲は古事記神話の中で重要視されているのか?〜



加茂岩倉遺跡銅鐸埋納状況復元模型
(数少ない写真撮影可能な展示物)


今、東京国立博物館で「出雲と大和」展をやっている。古代史ファンである「時空トラベラー」としては見逃すわけにはいかない。特に、倭国の実態、あるいはヤマト王権の成立過程、「日本(ひのもと)」建国過程における出雲の役割と位置付けには未知の部分が多い。これまで筑紫/チクシ倭国の実態や古代日本成立における役割については色々と書籍を読み研究し、またゆかりの遺跡、歴史の現場を探訪してきた。すなわち魏志倭人伝にその姿が叙述されている「邪馬台国」「卑弥呼」の時代のことである。しかし、同時代に列島内に存在し、大きな勢力を誇ったであろうと考えられる出雲については、この時代(紀元前1世紀〜紀元3、4世紀)の文献資料として唯一残されている中国の史書(漢書、後漢書東夷伝、三国志魏志東夷伝、晋書、宋書など)に記述が全く見えない。一方で、8世紀初頭に倭国/日本で編纂された史書、すなわち古事記、日本書紀においては、中国王朝と朝貢冊封関係にあったという卑弥呼の邪馬台国と筑紫倭国30カ国の記述はほぼ見当たらないのに対し、出雲に関しては多くの紙幅を費やして様々なエピソードが詳細に記述されている。この差はなんなのか?大和にとっての出雲の位置づけと、筑紫の位置づけには大きな違いが見て取れる。記紀編纂の経緯に何か隠された謎がある様な匂いがする。


1)文献史料に見る「出雲」

たとえば、古事記(712年)の神話の記述のほぼ3分の1が「出雲神話」で占められていおり、「大国主命の国譲り」が大きな出来事として記述されている。また正史として編纂された日本書紀(720年)には「出雲神話」としては記述が少ないが、「神代」の部分で出雲が大己貴命(大国主命の別名)によって地上の国として建国され、天上界の国に「国譲り」した経緯が記述されている。もう一つの文献資料である出雲國風土記(733年)も、他の地域の風土記の多くが散逸し、ほぼ完存する風土記はこの出雲風土記だけである。ヤマト王権の正史に記述されない地元の伝承や神話(国引き神話など)が記述され今に残っている。このほかに出雲国計会帳(正倉院文書)も完存しており、日本の古代史を物語る文献史料の多くが散逸したり、部分的にしか残っていなかったりする中、出雲に関しては多くの古代文献が残されている。それだけ古代史研究において出雲がハイライトを浴びることになってきたわけだ。しかし、それにも関わらず謎の多い「古代出雲」である。それはエピソードの多くが「神話」の世界として描かれているいて、史実との関係が曖昧だからだ。その「神話」、古事記に記述のある「出雲神話」および「天孫降臨神話」の要旨は次のとおりである。

出雲神話 国譲り神話
スサノヲの子孫大国主命が葦原中国(あしはらなかつくに:すなわち地上の国)を治める(「天津国」のスサノヲの子孫であるが「国津神」とされる)。しかし天上界にいるアマテラス「天津神」に国譲りする。その代わりに大国主命は高殿を建てて奉斎されることになる(出雲の杵築大社:出雲大社の由来)。また大和三輪山神、大物主命(出雲系大国主の別神)を大和に祀る(日本書紀では大国主命ではなく大己貴命となっている)。

天孫降臨神話 神武東征伝承
その「葦原中津国」を治めるために、筑紫の日向に「天津国」からアマテラスの孫、ニニギが「三種の神器」とともに降臨し、その子孫、神武が東征して、同じく天孫族の子孫である饒速日命一族を排して大和に入り初代天皇として建国する。

こうした記紀神話の記述から、出雲勢力が治めた国が大和に征服された(ないしは反対に出雲が大和に進出した)。後にその大和は筑紫から来た勢力に征服された。これが記紀神話の底流にある日本建国の物語だとする歴史研究者もいる。「神話」がそのまま「史実」であるとの考え方は、戦後はさすがに否定されたが、こうした「神話」の物語が、なんらかの「史実」の投影ではないかと考える研究者がいる。「国譲り神話」と「天孫降臨神話」、「神武東征」(こちらは神話としてではなく初代天皇の事績として記述されている)はなんらかの史実の反映なのか。遠い時代の歴史的「記憶」の反映なのか。

そもそも、この「神話」の物語はいつの時代の「記憶」をテーマにしたものなのか、それ自体が不明である。すくなくとも紀元1〜3世紀の日本列島はまだ統一国家、統一王権は存在せず、各地にいくつかの勢力が並存していた時代である。その一つが筑紫の邪馬台国連合であり。また出雲であっただろう。あるいは吉備、越(古志)、尾張などに有力な国、地域連合がいわば列島内で割拠していた状況であったと考えられる。筑紫や出雲と大和だけが歴史の主人公であったわけではないし、まして「倭国」全体を対外的に代表していたわけでも無い。ようやく近畿の奈良盆地や河内あたりにヤマト王権らしき、他地域に優越する勢力の姿が垣間見えるのは5世紀の中国の史書に見える「倭の五王」の時代になってからだ。その前の4世紀頃(倭人が朝鮮半島に出兵したという記録がある高句麗の好太王碑文や百済から伝来した七枝刀の時代)に徐々に各地域勢力が合従連衡の動きを示し、やがて近畿のヤマト王権に収斂していったのであろう。近畿の大型古墳がそれを物語る考古学的な証左であろうが、しかしそのプロセスを叙述する歴史的資料は見つかっていない。中国王朝の分裂、混乱の時代(五胡十六国時代)であったため正史が整っていない。すなわち「謎の4世紀」と言われる所以である。したがって4〜5世紀頃の出雲の姿も文献史料上見えてこない。

一方で、我が国初の歴史書、正史である日本書紀、古事記は、ようやく8世紀初頭になって編纂されたものである。天武/持統帝の天皇制宣言、新国家「日本」建国事業の一環として編纂されたものである。すなわち大王(おおきみ)/「天皇」の統治権威の正統性を内外に宣言する政治的な文書として編纂された。各豪族による「私地私民制」から天皇による「公地公民制」へ、律令制による豪族の官僚化。その過程ではヤマト王権に統合してゆく各地方豪族、有力氏族をいかに納得させ、「合理的に」秩序立てて、天皇家の臣下と位置づける。これは換言すれば、いかに各豪族の祖霊神を皇祖神天照大神の下に体系化させるか、という難事業であった。その中の「出雲の扱い」、「筑紫の扱い」である。その記紀のなかで出雲は、ヤマト王権にとって大国主命の神話の出雲大社と大和の大神神社をかかえる王権/天皇の祭祀における重要な存在として記述された。一方の筑紫は、宗像三女神の神話が中心で、ヤマト王権の大陸との通交を可能とする海北道中(大陸への交通路)を守る存在と記述されることでヤマト王権の中枢に位置付けられた。しかし、中国の史書に記述のある朝貢冊封国家たる筑紫の倭国の邪馬台国や奴国、伊都国に関する言及は無い。

しかし、ヤマト王権と各地の勢力との交流は、出雲、筑紫に限らず多面的に展開されていたはずだ。先述の通り、当時の日本列島の様子は、地域ごとに国、豪族、地域連合が併存しており、統一的な王権や国家を形成するには至ってなかった。出雲や筑紫が記紀において重視されて記述されたのは、ヤマト王権が記紀編纂にあたって、皇祖神を頂点とした各豪族の祖霊神、地域氏神を体系化する中で、より王権/天皇家に近い、あるいは無視しえない「有力豪族」の物語(多くはその豪族から提出された)が採録された結果だと考える。すなわち、出雲氏や宗像氏のヤマト王権における発言力や、貢献度、あるは「近しさ」が影響していたと思われる。そういう点で中国皇帝に朝貢し冊封を受けていた筑紫の邪馬台国や奴国、伊都国は、中華皇帝に対抗して「天皇」(東アジアにもう一つの皇帝を宣言)を名乗るヤマト王権/天皇にとって、「近しい」どころか、王権/天皇家のルーツと考えたく無い国々だったのだろう。正史と言っているが史実とは必ずしも無関係な政治的な文書なのだ。

出雲氏は、ヤマト王権に臣従する代わりに、王権の国家祭祀/儀礼を担う。これが「大国主命(皇祖神天照の弟スサノヲの子孫とする)の「国譲り神話」「出雲大社創建」という形で記紀に記述された。一方の、筑紫の宗像氏はヤマト王権に臣従する代わりに、大陸との交流を一手に引き受ける「制海権」の保証と「海北道中」を守る国家祭祀を担う。これが宗像三女神(天照とスサノヲの誓約から生まれたとする)として記紀に記述された。ちなみに筑紫には、ヤマト王権に臣従しない強力な勢力があった。これがチクシ王権の盟主磐井氏である。新羅と組んで徹底的にヤマト王権と戦ったが、ついに滅ぼされた。これは記紀に「神話」の世界の話としてではなく、継体天皇の「事績」としての「筑紫国造磐井の乱」として記述されている。このとき宗像氏は筑紫のチクシ王権、磐井には味方せず、大和のヤマト王権側についたことから本領安堵され、大陸との通交の制海権も獲得できた。


2)考古学資料に見る「出雲」

ここですこし考古学的に出雲を振り返って見てみよう。出雲では近年驚きの弥生遺跡が次々と見つかっている。大量の銅剣、銅鐸が埋納されて見つかった荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡:弥生時代の青銅器祭祀遺跡(紀元前後の時代)があり、一方で、弥生時代から古墳時代への過渡期を示す四隅突出型墳丘墓という特異な墳墓形式を持つ西谷墳墓が見つかっている。加茂岩倉遺跡から発掘された大量の銅鐸は、銅鐸文化=近畿、銅剣文化=北部九州という「定説」を覆す発見であった。また荒神谷遺跡の大量の銅剣と銅矛は、銅剣は祭祀用に出雲で鋳造されたものであるが、銅矛は北部九州産であることがわかっている。これらの考古学上の発見は、出雲が弥生時代後期には大和と筑紫と交流し古墳時代初期において特異な文化を誇る有力な地域勢力であったことを物語っている。おそらく魏志倭人伝に記述のある「邪馬台国」の時代(3世紀〜4世紀)には、すでに日本海沿岸に「出雲国」が栄えていたのだろう。しかし魏志倭人伝には一切記述がないが。

こうした弥生の出雲文化はある時期に一斉に消滅してしまう。青銅器祭祀文化の途絶である。大量の銅鐸、銅剣、銅矛の埋納という行為そのものが、なんらかの理由で祭祀の形態をガラリと変えた事を示していると考えられる。その理由は明らかにはなっていないが、これをもって出雲勢力が大和勢力に屈服して消された(国譲り神話の根拠)考古学的な証左であるとする見解がある。しかし、こうした弥生の遺跡は記紀神話が編纂される700年も前の時代のものである。8世紀初頭に編纂された記紀の「出雲神話」「国譲り神話」の背景にある歴史的な事件として「記憶」されたとは考えにくい。

またヤマト王権がほぼ全国に勢力を及ぼしつつあった古墳時代に入ると、出雲地域にも多くの古墳が造成された。しかしそれらの古墳は規模の点で100mを超えるものは一基もなく、大和の大王クラス、蘇我氏などの有力豪族クラス、筑紫の岩戸山古墳(筑紫磐井の墓)や宮地嶽古墳(宗像氏の胸形徳善の墓)クラスの古墳はない。古墳の規模が政治勢力の規模を示す指標だとするならば、出雲には大和や筑紫に匹敵する有力な豪族がいた証拠はないということになる。また大和型の前方後円墳が圧倒的で、畿内の古墳に準じたものである。当時の出雲以外の各地域に検出する古墳の形態と同じであり、特に出雲が何か突出した特色を持つというものはない。そもそも大和を中心に形成された古墳という墳墓形態、葬送儀礼は、各地域の墳墓、葬送儀礼を吸収、統合しながら形成されたものと考えられている。ヤマト王権による一定の列島支配の姿が見えるようになった古墳時代には、全国にいわば「大和型」の古墳が広がった。出雲もそのワンオブゼムということになる。しかし、一方で古墳形態とは別に、祭祀の形式、葬送儀礼のあり方に出雲独自のものがこの頃にも残っており、これがヤマト王権の祭祀に大きな影響を与えたとする研究がある。また、霊力があるとされた玉類(勾玉や管玉)の生産は6世紀以降になると出雲でほぼ独占的になされていたことから、ヤマト王権/天皇家の国家祭祀や王統/皇統の権威材(三種の神器)供給にも影響を与えたであろう。8世紀初頭における記紀編纂事業(豪族の体系化)のなかで、こうした祭祀のルーツや権威材の供給地である出雲が他地域と異なった扱いになったのであろうと考える説が唱えられている。


3)大和王権祭祀における「出雲」の役割

一方、律令制下においては出雲国造が宮都における任命儀礼や、天皇に対する「神賀詞」(かむよごと)奏上儀礼を執り行うなど、出雲氏/出雲臣の王権中枢/朝廷における役割が重視され、ヤマト王権/天皇家の国家祭祀に大きな影響力を持っていた。こうした国家的な祭祀を執り行うために出雲国造は定期的に上京していた。律令制下の地方官僚、出雲の国造となった出雲氏/出雲臣と、ヤマト王権/朝廷の律令制の神祇官僚である伴造で出雲国守であった忌部宿禰子首とのつながりが無視できないと言われている。この。いわば中央官僚である忌部氏は記紀編纂において大きな影響力を行使したと言われ、出雲国造の祭祀/儀礼が天皇家の「国家儀礼」との因縁浅からぬものである事を、記紀に記述させる役割を果たしたのだろうと考えられている。

すなわち「出雲神話」「国譲り神話」は、弥生時代に起きた古代日本の(倭国の)成り立ちの歴史(文献資料的には中国歴代王朝の正史に記述された倭国情勢)とは関係なく創作されたストーリーであろう。スサノヲの子孫、大国主命が建国し支配した「葦原中国」すなわち出雲が、天照大神の「天津国」すなわち大和に軍事的に屈服した歴史的記憶が「国譲り」と記述されたわけでもなく、その後に「筑紫の日向の高千穂」に天から降臨してきた天孫族のニニギとその子孫、神武天皇が筑紫から東征して大和攻め込み、橿原で即位し新たな大和を建国したわけでもない。8世紀の記紀編纂時における上記の様な王権内/朝廷内の政治事情や、氏族/豪族との勢力バランスが大きく関わってると思われる。

これまで幾度も述べてきた様に、記紀の記述は、史実を客観的に述べているわけではない。白村江の敗戦、壬申の乱後の内憂外患の7世紀を経て、8世紀初頭の天皇制国家「日本(ひのもと)」建国プロセスの中、ヤマト王権が「天皇」として律令国家を形成する過程で、畿内の氏族や各地に勢力を張っていた有力豪族を統合するプロセスを「神話」という形で記述したものだ。それは、これまでの多くの氏族・豪族の祖霊神が並立するという多神教世界に、大王/天皇の祖先である皇祖神天照大神を頂点とした一神教的な秩序と体系化を目指す営みと連動させたものだ。それぞれの神と皇祖神天照との関係をストーリーとして明確にすることが求められた。そのプロセスの中で、出雲氏は無視し得ない有力な地方豪族であったのだろうが、それは国家祭祀に強い影響を有する祭祀/儀礼の担い手という点であり、決して出雲勢力が大和に軍事的に進出して建国したり、それを筑紫から東征してきた勢力に滅ぼされたり。あるいは出雲勢力が大和勢力に滅ぼされたり、と言った暴力的な武力闘争があったと考える必要はなさそうだ。したがって、それ故に歴代天皇の事績の中に記述されるのではなく、神話や神代の出来事として記述されたのだろう。


まとめ

今回の「出雲と大和」展には、出雲の古代日本建国プロセスに関わる役割、「邪馬台国」に象徴される「倭国」の時代の出雲国の姿など、私にとっての基本的な疑問に答える展示は残念ながら少なかった様に思う。出雲に関しては、以前に出雲大社を参拝した時に、発掘された心御柱や宇豆柱、出雲大社本殿模型を現地で見学させてもらった。また加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡から出土した青銅器祭祀の膨大な数の銅剣、銅鐸が埋納されていた事に驚いたことを思い出す。大和の方は大阪赴任中の5年間に毎週の様に通った奈良、大和路で見学して回る機会があったものが多く展示され、それぞれに再会を果たすことができたことはうれしい。感動は石上神宮の「七枝刀」の現物が展示されていた事だ。通常は門外不出。石上神宮でも滅多に公開されない「秘宝」である。したがって私にとって、ここでの拝観が初めてである。島根県と奈良県からそれぞれの歴史的文献や考古学的に貴重なお宝を持ち寄って展示したという点では豪華な展示会であった。しかし、かつて大和路,筑紫路、そして短時間であったが出雲路を散策した時に常に抱いていた疑問。すなわち中国の史書にしか記述が残っていない「倭国」の実態や、そこからどのようにヤマト王権が列島の統一を果たし、やがては「日本」が建国されていったのか。記紀の「出雲神話」や「天孫降臨神話」「神武天皇東征物語」が語るエピソードのなかに、客観的な史実はあるのか。そう期待して見て回ったが、展示の中にそれらを垣間見させる様なヒントはなかなか見えてこなかった。文献史料としての記紀による歴史研究にはやはり限界がある。記紀に出雲に関する記述が多くとも、神話というストーリーの底流に流れているものは「史実」ではなく、編纂当時の王権の「政治的なメッセージ」である。なにがしかの歴史の記憶が潜んでいるとしても、それを証明する文献史料も、それを補う考古学的な発見も限られている。展示会の「日本のはじまりここにあり」とのキャッチコピーにも関わらず、そういう意味では残念な展示会であった。もっともこの展示会のために発行された「図録」のなかで、東京大学の佐藤信名誉教授と島根県立八雲立つ風土記の丘の松本岩雄所長が寄せられた解説になるほどと思うヒントがあったことが収穫であった。やはり展示物を眺めているだけでは見えてこないことがある。いや、まだまだ歴史のミッシングリンクは見つかっていないことを確認したと言うべきか。日本の成り立ちを探る旅はまだ始まったばかりである...か。