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2023年2月14日火曜日

古事記の神話は「稲作の起源」をどのように語っているか? 〜「豊葦原瑞穂国」はどこから来たのか?〜

 

豊葦原瑞穂国
田植えに始まる稲作農耕

日本最古の稲作農耕集落跡「板付遺跡」


上空から見る「板付遺跡」
都市化した環境にわずかに残る初期の環濠集落の痕跡



前回のブログ(https://tatsuo-k.blogspot.com/2023/01/blog-post_11.html)では、古事記の神話は「人の起源」をどのように語っているか、について考察してみた。今回は、日本の文化の基層をなす稲作の起源について見てみたい。稲作農耕文化はどこから来たのか?古事記はどのように語っているのか。

文明や文化は古来、大陸や半島から海を渡ってやって来た。そして人の移動に伴ってやって来た。海で隔てられた列島への到達には船を操る海の民の存在が必須だ。したがって農耕文化の伝来にも漁労民、海洋民の介在があった。あるいは海洋民が定住して農耕民になっていったこともあるだろう。列島においては、まず大陸に近い沿岸部にそうした文明のフロンティアが成立した。それが列島内部に徐々に展開してゆく。そうした外来の文明や文化を「受容」し「変容」させて独自の文化を生み出していった。それをまた海を経て発信していった。それが日本である。

稲作農耕文化も例外ではない。まず最初は種籾を持った大陸の人々が小さな船で海を渡り列島に稲作を伝えた。文明や文化そのものを伝えることが目的であったわけではない。様々な事情で危険な海を渡り、大陸から船でやって来た。そして生活のために列島に定着して、その種籾を撒き稲作を始めた。それを見た列島の人々が、その種籾をもらい、耕作のやり方を習って稲作を始めた。徐々に従来の縄文的なコミュニティーが、外来の農耕定住コミュニティーの影響を受け、それを「受容」し、列島風に「変容」していったのが弥生時代である。文明や文化はこうした人々の通交、交流の中で伝搬し定着し、また還流してゆく。考古学的には、大陸に近い北部九州の福岡の板付遺跡、江辻遺跡、唐津の菜畑遺跡など紀元前930年頃の水耕稲作遺跡が日本最古の稲作の痕跡ととされている。稲作はこの頃大陸から伝わったのであろう。これが狩猟・採集や小規模な栽培を生業とする縄文的な人々の社会に変革をもたらし、定住して農耕を営む弥生的なムラ、クニが生まれ、やがて国になった。これが日本の先史時代の姿であった。もっともこうした縄文から弥生への変遷は、フェーズ転換やパラダイムシフトというような急激なものではなかったことも、最近の研究で明らかになっている。それでも大陸からもたらされた稲作農耕が、日本列島の住人に大きな変化をもたらし、日本の文化に大きな影響を与えたことは事実だ。このことは7世紀の古代日本人の記憶の中にもはっきりと生きており、それがその時代に記述され編纂された古事記や日本書紀、万葉集などに表現されている。

ではこの稲作の起源を、古事記はどのように語ってるのだろう。結論を先にいうと、「どこから来たのか?」というよりは、この葦原中国においては稲作が「所与」のものとして扱われているのではないか、ということである。まず、高天原から葦原中国に稲作と農耕をもたらす上で重要な役割を果たしたのはスサノヲであるとされているように見える。とは言っても、スサノヲが稲作をもたらした、と明確に語られているわけでもない。曖昧である。古事記の神話では次のように語られている。高天原を追放されて放浪している途中、スサノヲは食べ物を求めて女神、オオゲツヒメカミ(大宜津比売神)と出会った。オオゲツヒメカミは体の穴という穴から食べ物を生み出してスサノヲに提供した。しかし、スサノヲはこれを穢れたものとして殺してしまう。そのオオゲツヒメカミの体からは蚕や五穀が生まれ、その中からカムムスヒノミオヤノミコト(神産巣日御祖命)が穢れを祓って穀物の種をスサノヲに与えた。これが葦原中国における稲作農耕と養蚕の起源であるとされている。やがて出雲にたどり着いたスサノヲは、そこでクシナダヒメ(櫛名田比売)に出会い、ヤマタノオロチを退治してヒメと結婚する。後にスサノヲの子孫であるオオクニヌシ(大國主命)が国を栄えさせた、これが地上の国の始まりであると。いわゆる「出雲神話」前半である。ここに登場するクシナダヒメは、クシ(奇し)イナダ(稲田)ヒメ(女性)、尊い稲田の女神、すなわち稲作の女神であると解釈される。高天原から追放されたスサノヲが地上の国、出雲に稲籾を持ってやってくる前にすでに稲作の女神がいるのである。では、その前に登場する先述のオオゲツヒメカミとはどのような神なのか。この話は、出雲神話のヤマタノオロチ退治やクシナダヒメとの結婚の前に、唐突に現れた話で、古事記のストーリーに一貫性がない例の一つであるとされてきたが、このオオゲツヒメカミの物語は、稲作起源譚にとって重要なエピソードであるという説を唱える研究者もいる(三浦佑之説)。すなわち、この神は体内からあらゆる食物が出てくる、すなわち大地の恵み、生命力を宿した神「大地母神」のような神であるとする。しかし、これは栽培・耕作といった秩序だった生産活動をイメージするものではなく、狩猟・採集をむねとする混沌とした生産の女神である、すなわち縄文的な女神であり、弥生的な稲作の女神ではない。この縄文の女神が殺された話が、弥生時代への転換を象徴的に示唆しているとする。そして、スサノヲが出雲で出会ったこのクシナダヒメが稲作の女神であり、これが弥生の女神の出現だというわけだ。

興味深い解釈だ。しかし、これは、稲作伝来を契機とした縄文時代から弥生時代への変遷という歴史を知っている後世だからこそ、そのように解釈したのではないかと考える。むろん古事記の作者には、オオゲツヒメカミは「縄文的」女神、クシナダヒメは「弥生的」女神という区分認識はなかったであろう。またスサノヲがカミムスヒから得た種は稲だけではなくて、五穀の種と養蚕である。そのなかでクシナダヒメという稲作の女神と結婚することで稲作が別格な農耕であることを示したにすぎないのではないだろうか。古事記では明確な稲作の起源譚が語られず、クシナダヒメの存在が示唆するように、稲作は高天原(天の国)からもたらされたものではなく、葦原中国(地上の国)に既に存在しているものとして描かれているように読める。ただ、確かにこのエピソードからは、「縄文的」な混沌とした生産の時代(狩猟採集の時代)から、「弥生的」な秩序だった生産活動の時代(稲作農耕の時代)への変遷があった、という認識を古事記の作者が表明したものであるようにも読める。7世紀の倭人いや日本人の心の基底に、縄文的な時代の記憶が受け継がれていて、稲作農耕がその時代を大きく変えたと認識し、それがやがては「治天下大王」である天皇を生んだ、という理解が示されている。これは必ずしも稲作=天皇という明確な図式ではないにしても、稲作農耕社会の登場が、狩猟採集社会とは異なる天皇のような統治者の出現を想定していた。8世紀に表された古事記にこのような上古の日本人の記憶の基層にある「歴史観」の表明があるとするとこれは興味深い。

ちなみに、このオオゲツヒメカミの物語に類似の神話は、インドネシアや、太平洋島嶼地域、メキシコやペルーに広く伝承されている。すなわち、生きている間は、人間に食料を与え、殺されてから、その死骸のあちこちから穀物(芋、豆、とうもろこし、稲など)などの栽培作物を生み出した女性(女神)の物語である。農耕や作物の起源神話の一つの類型、「ハイヌウェレ型」(インドネシアに伝わるハイヌウェレ神話に原型を求めたドイツの民俗学者の類型)と言われるものである。これに類する民間伝承や昔話は、「山姥」話のように日本のあちこちにも伝わっている。オオゲツヒメカミ神話もその典型的な事例で、古事記がこうした外来の神話の影響を受けていることを示唆している。その中でも、さらに「稲」に特別な意味を持たせたのがクシナダヒメやスサノヲの物語であったのだろう。

一方で、日本書紀では異なる稲作起源譚を示している。スサノヲではなくツキヨミが、オオゲツヒメカミではなくトヨウケを殺して、その死骸から生えた稲と穀物をアマテラスに献上したとする。しかしアマテラスはこれに怒り、ツキヨミとは今後一切同じ時間を過ごすことなく、アマテラスは昼間を、ツキヨミは夜を支配することとなった。これも、前出の「ハイヌウェレ型」であるとともに、太陽と月が昼夜で入れ替わる起源を説明している。また、「一書に曰く」で、アマテラスが高天原で育てられた神聖な稲籾を孫のニニギに託し、そのニニギが葦原中国を統治するために高天原から葦原中国の筑紫の日向に降臨するときに、この稲籾を携えて降りてきた。これが地上に稲作が始まった起源であるとする。この日本書紀の稲作起源説明のほうが、古事記のそれよりも明解で、しかも霊性があり神話としての説得力があるように思える。また、この「穀霊神の降臨」という神話は朝鮮半島にも伝わる。国外にも説得力を持つ神話として受け入れられることを狙ったのかもしれない。したがってアマテラス、ニニギの子孫たる天皇はその稲作に関わる祭祀の主宰者として権威を有し、皇室祭祀において稲作と養蚕が深く係る起源がここにあるとする。この、稲作がニニギによって地上にもたらされたとする点と、天皇の祭祀と稲作の強い結びつきを主張している点が、古事記の説明とは異なる。

差はさりながら、日本にとって稲作が特別なものとして受け止められていることは古事記でも日本書紀でも共通である。五穀の中でも稲が大八州、葦原中国の原初的な作物であり、日本は高天原からやって来た天孫族がもたらした稲作文化の国であり、それ故に、日本は「葦原中国」、「豊葦原瑞穂国」などと表現されている。ここには、海の向こうの大陸からもたらされた外来の作物、外来の農耕文化が根付いたものであるとの認識は表明されていない。この主張は、これまでも考察してきたように、日本が中国の華夷思想(大宇宙)、朝貢冊封体制から脱して、高天原の神々の子孫である天皇を頂点にいただく日本という小宇宙を形成する、という思想、国家観の表明と同根である。天武、持統期の新たな律令制国家樹立、「大王(おおきみ)」から「天皇(すめらみこと)」へ、自分が名乗ったわけでもない「倭(わ)」から「日本(ひのもと)」へ国号変更と同様、「豊葦原瑞穂国」もこの時代の国家アイデンティティー表明のエピソードのひとつなのだ。日本書紀は外国(中国)を意識して編纂された国の「正史」であるが、古事記は外国を意識していない分だけ、稲作農耕=天皇祭祀といった図式が明確に表明されていない。ただ日本文化の基底にある稲作文化は、天から与えられ、大八州に独自に始まり開花した文化だと説明している。このように古事記は日本書紀とも異なるストーリーを展開しているわけだが、どちらがより正確に日本における「稲作」の起源を説明しているかといった解釈論争してみてもそれは無意味であろう。稲籾を、スサノヲが持ってきた。いやニニギが持ってきた。その違いは神話の世界では重要かもしれないが、歴史の世界では史実とは別の「物語」でしかない。

こうした稲作の起源をめぐる捉え方一つを見ても、古事記は、客観的な史実、あるいは過去の出来事の記憶を基にして編纂された「歴史書」ではなく、かと言って古来より伝わる伝承や口承神話を積み上げて文字化した「神話集」でもなく、7世紀後半から8世紀前半という「日本国家」形成期において、最初から或る意図を持ってストーリーを作り(いくつかの撰録された伝承や神話に仮託して)記述された作品としての「物語」であるという性格が明らかになるであろう。語り継がれる神話や伝承を取捨選択して「文字化する」時点で、その撰録と、後世に残ることを見据えた文章表現には編纂を命じた為政者の意図が明確に表明され、作者がその意図に沿って物語として完成させる。まさに序文に言うところの「帝紀・旧辞をよく調べただし、偽りを削り、真実を定めて撰録し、後世に伝えよう」とした物語、すなわち「天皇の物語」なのである。そのように読むことで古事記の奥深さがより味わえるのだと思う。まさに古事記の解釈に関する定説は、「成立論的解釈」から「作品論的解釈」へと変わってきている。


参考文献:

「古事記」神話から読む古代人の心 三浦佑之 NHK出版

日本古典文学全集「古事記」 山口佳紀、神野志隆光 小学館

参考過去ログ:



2012年9月26日水曜日

日本最古の稲作環濠集落 板付遺跡 ー弥生のクニのルーツー

 日本に稲作が伝わってきたのは何時か?狩猟採集が生活の基盤であった縄文時代は、どのように水稲農耕生活の弥生時代に変遷して行ったのか。縄文時代と弥生時代では人種の交代があったのか。縄文時代から弥生時代へのフェーズ転換は、考古学上の論争が活発なテーマの一つである。

 従来、弥生時代は紀元前500年頃に始まるとされてきたが、最近の研究ではさらに500年ほど遡り、紀元前1000年頃ではないかという説が有力になっている。これは大陸から水稲農耕の技術、農耕文化が日本列島に入ってきた時期を問うことでもある。シロウトには考古学にまつわる様々な科学的な年代測定法の詳細は分からないが、どうも弥生時代は我々が習ったよりも早い時期に始まり、長く続いたようだ。

 しかし、古代史好きの私がなぜ弥生時代にこだわるかと言うと、後漢書東夷伝や魏志倭人伝に登場する紀元1〜3世紀の奴国や伊都国、邪馬台国は、こうした稲作農耕を生活の中心にした弥生のムラ、クニであった。そうした個々のクニはどのように発生、形成、発展し、さらに全国に展開していったのか、さらに、どのように倭国連合に発展し、古墳時代、大和王権に時代に突入していったのかを知るには,弥生時代の歴史、とりわけ水稲農耕が西から東へ伝搬して行った足跡を知っておく必要があると考えた。「日本文化の東遷」伝説の考古学的な検証だ。大陸から伝搬したと言う農耕は最初、北部九州に根付き、チクシ時代を築く。それが200年足らずのうちに近畿へ倭国の中心が遷り、大和王権の確立という、いわばヤマト時代へと移行する。その変遷の謎を解くヒントもそこにあるかもしれない。

 詳細は省くが、最近、研究者によって、農耕の東遷は考えられている以上にゆっくりしたものだったという見解が示されている。特に九州南部や東北地方に農耕文化が伝搬するのには様々な時間経過と紆余曲折があったという。言ってみれば縄文型の狩猟採集文化から弥生型の農耕文化へは、スパッと切り替わった(いわゆるフェーズ転換)訳ではなく、長く縄文型生活は継続し、徐々に、あるいは部分的に弥生型が入って行った地域(主たる食料生産ではない園耕地型というそうだ)と、農耕が入って行ったがまた縄文型に戻ってしまった地域(例として、東北の寒冷地域等で稲作に失敗して)もあると言う。ただ北部九州から近畿への伝播は割に短期間に進行したとも言われている。その場合、近畿へ遷る過程で、その途中の中国地方や四国地方での大型農耕集落があったのだろうか。後の出雲や吉備はそういった弥生型のムラ、クニの発展形だったのだろうか。この辺りの考古学的な検証はまだのようである。

 また人種的にも、北部九州では、縄文人の特性を備えていない、別人種の人骨が弥生遺跡から発掘されているケースがあるが、いわば原日本人(縄文人)が、外来の人々との交流、混血の中で徐々に農耕を取り入れて行った様子がうかがえるという。すなわち、イギリスブリテン等におけるゲルマン人の進入や、不断の異民族の進入、そしてノルマンの征服により,原住民ケルト人がブリテン島辺境に追いやられて行った歴史とは異なり、大陸から別人種が大量に入り込んできて原日本人を征服したり、人種が入れ替わったわけではないようだ。

 もちろん大陸との間には多くの人の行き来があったのは間違いない。今のように国境という概念も国民国家概念も無い時代であるから、倭人と漢人と韓人との区分けもそれほど明確な訳ではなかったことだろう。しかし、大陸からの征服民族が日本列島に侵入してきて(もう少し後の時代のヤマト王朝騎馬民族説のような)縄文とは全く異なる弥生時代に塗り替えてしまった、という考古学的な証拠は出ていないようだ。

 福岡市の板付遺跡はつい最近まで、日本最古の稲作環濠集落跡として考古学上の画期的な遺跡とされてた。子供の頃の歴史の教科書でもそう習ったような気がする。年代測定法で紀元前500年くらいの遺跡であるとされている。しかし、その後、福岡市周辺には江辻遺跡や菜畑遺跡といった、さらに古い稲作遺跡が見つかり、先述のような弥生時代の始まりがさらに500年遡ってしまう事となった訳だ。

 さは然り乍ら、この板付遺跡の重要性はいささかも揺るぐ事は無い。紀元前500年頃に既に高度な稲作が行われていたり、二重環濠による集落を形成し(後の時代の吉野ヶ里や唐古鍵の原型のような)、墓制についても有力者とその他の墓では副葬品が異なっている等の,既に身分の差が確認されていたり、倭国の時代にさかのぼること500年前に既にその原型が現れていた事に驚く。いわば弥生倭国のルーツである。さらにいえば現代に至るまで,稲作農耕文化を引き継ぐ日本の原点と言ってもいいだろう。

 現在板付遺跡は、福岡市の手で環濠や竪穴式住居が復元保存されている。また近くの福岡市埋蔵物文化財センターには出土品の保存展示がされている。しかし、両方とも訪問には不便なロケーション(街中にも関わらず)で、旧国道3号線沿いの福岡空港近辺に位置している。周りは国道沿いのカーディラーと大規模公営住宅団地が立ち並ぶ、という、観光客が気軽にアクセス出来るロケーションではない。現に、埋蔵物文化財センターのその日も、誰も訪問者はいなかったし、訪問記帳を見ても日に数人(しかも県外の訪問者は稀)程度。係の人も居るに居るが、説明する風でもなく、デスクに座ってパソコン観ているだけ。案内窓口の女性は愛想が良くて板付遺跡への道順等丁寧に説明してくれた。しかし壁のタイルがはげ落ちているなど、寂れた感じだ。

 板付遺跡の方はさらに寂しくて、ちょうど復元環濠内の雑草刈りをやっている最中であった。かなりの量の雑草が積上げられていた,という事は、昨日まではかなり雑草に覆われていたということか。弥生展示館は縦穴住居を模した立派なハコモノ行政の産物であるが、こちらは人が誰もいない。「こんにちわ」の声もむなしく、応答が無いので中へ勝手に入ると、電気が消されていて真っ暗。目が慣れてくると、遺跡のジオラマや出土品の弥生土器や、比較的有名な弥生人の足形等が展示されている。最初から最後まで、途中でモップもって入ってきた掃除のおばさん以外、人に会う事は無かった。

 福岡市はこうした日本の国家や文化の起源ともいうべき遺跡や、出土品の宝庫であるが、あまりそのように認識されていない。もっと脚光を浴びていいような気がするが...  別に観光資源としてもっと活用すれば,というつもりは無いが、近畿地方の古代史ファン向けのサービス(展示施設、参考資料、ボランティアの説明員(時々熱が入りすぎる嫌いもあるが)、散策コースの整備等)がそれぞれの自治体ごとに充実しているのに比べるとかなり寂しい。

 板付遺跡のすぐ近くには1世紀の奴国の都跡であると言われる比恵/那珂遺跡や、南に行くと奴国王墓やハイテク工場跡が見つかった須玖/岡本遺跡がある。福岡市やその南の春日市は弥生時代、倭国の時代の遺跡が広く分布しており、いかにも日本の先進地域であった事を彷彿とさせる。いかんせん、都市化による遺跡破壊と発掘の難しさに直面しており、なかなか全貌を解明するまでには至っていない。それにしても,日本の国家/文化の発祥の地である事は明らかにされているのだし、いわばチクシ時代の遺跡に満ちあふれている事をもっとアピールしたらいいのに,と思ってしまう。また、歴史学においても考古学においても、日本の原点である「チクシ時代」をもっと研究する必要があると思う。




(板付遺跡の空撮敢行!? 福岡空港(板付空港)離陸するとすぐ右手に見えるのです。)































(撮影機材:NikonD800E, AF Nikkor 24-120mm)

2012年9月17日月曜日

吉野ヶ里遺跡 ー魏志倭人伝に描かれた倭国の風景ー

 佐賀県神埼郡の吉野ケ里遺跡は、弥生時代(紀元前5世紀〜紀元3世紀)における日本最大規模の環濠集落遺跡だ。弥生前期、中期、後期全ての遺構が同一場所で確認されたユニークな遺跡だ。また、周囲2.5キロのV字型の外壕に囲まれた敷地面積40へクタール(福岡ドーム6個分)の大型集落がこのような完全な形で発掘され復元されている例は珍しい。現在でも穀倉地帯である広い佐賀平野(広義には筑紫平野)のど真ん中だからこそ、破壊もされず1700年も地下に埋もれていたのだろう。

 昭和51年に佐賀県が神埼工業団地の造成を始めるために地下を掘ったところ,このような巨大な弥生のムラ、クニの跡を発見したわけだ。その後、県は工業団地開発を中止し発掘調査と史跡としての整備に切り替えた。バブル真っ盛りの時期としては苦渋の決断であったのだろうが、バブル崩壊後、空白の20年が過ぎた今となっては正しい決断だった。観光資産の少ない佐賀県としては貴重なお宝が隠れていたわけだ。工業団地だと、今頃電力不足問題と、グローバル化に伴う生産の空洞化で、廃墟になっていたかもしれない。

 現在、史跡公園として再現、整備されている環濠集落遺構や98棟におよぶ建物群は、集落が最盛期を迎える弥生後期、3世紀初めのものである。すなわち、あの魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の邪馬台国、倭国の時代である。当時の集落内にはおよそ300人が暮らし、周辺のムラを合わせるとクニ全体では約5,400人が住んでいたと推定されている。邪馬台国が8万戸、奴国が5万戸、伊都国が1.5万戸というから、それに比べると小振りなクニであった事になる。発見当時は、吉野ヶ里は邪馬台国ではないか,と騒がれたが、これはチクシ倭国のクニの一つであろう。美祢国ではないか,という説もある。

 いずれにせよ、弥生時代後期の邪馬台国の時代のクニがこのような形で発掘され、当時の魏志倭人伝で描かれた倭国のクニやムラの姿が、より具体的なイメージとして捉えることが出来ることに興奮を覚える。奈良県の唐古鍵遺跡や、福岡市の比恵、那珂遺跡、須玖岡本遺跡等は、現代の都市化のなかで、その原型を留める事無く、かつ発掘も道路や家、ビルの建設改築工事にともなって、部分的にトレンチを掘って確認する事しか出来ないので、全体像を把握、可視化するのは容易ではない。それに比べると吉野ヶ里は奇跡に近い。

 いよいよ中に入り,史跡を見学すると、水稲農耕を基軸とした弥生のムラ、クニの生産、流通、政治、祭祀、そして人々の生活の姿がコンパクトなジオラマのようにまとまっている。まず、逆茂木と深い壕と高い木柵に隔てられた環濠内、その入口の門には木製のトリが3羽ととまっている。奈良県の唐古鍵遺跡の望楼にも再現されている。青銅器祭祀具とともに何らかの霊的な意味があったのだろう。現在の神社の鳥居はここから来ているのだろうか。

 南内郭は王の一族と有力支配階級の居住地区。木柵に囲まれ、高い望楼により防備を固めた一角だ。しかし,その住居は竪穴式住居で、意外に粗末。権力者であるが故に所有できたであろう鉄製品が出土していることから、王の家とされている。それにしても高床式の宮殿のような建物を想像していたのだが。

 北内郭は政治、祭祀を執り行うクニの中枢地区。主祭殿は高床式の巨大な建物。このクニの中心的なランドマークだ。厳重な柵は、外から中の様子をうかがえないように板が隙間無く建てられており、さらに門から中へは曲がりくねった通路を通らねば行き着かない。ここでは農耕に必要な暦や作業を決めたり、祭祀を執り行ったり,王や有力者、周辺のムラの長等が集まり,クニの重要な意思決定が行われた。その際,物事の判断の重要な根拠となるのは、神懸かりとなって祖先の霊や神の意志を伝える巫女の言葉であった。すなわち魏志倭人伝に言う「鬼道」であろう。すなわちヒコ(男の王)とヒメ(女の巫女)による政祭一致の体制だ。

 南には農耕に携わる人々の生活の場、ムラが。ここは壕等の特別な施設に囲まれておらず、竪穴式住居数戸に高床式倉庫という塊が散在する,日本各地で発掘されている一般的な弥生住居跡と同様の形式となっている。環濠の外側には赤米や黒米などの古代米の水田が広がっていた。

 また生産物を保管したり、他のクニや外国との交易を行う倉と市の広場は、クニの富の蓄積と、流通による富の交換、新たな価値の創造が行われた重要な場所である。弥生の時代も後期になると、単に採集生活から定住農耕へ移行した時代から、生産手段の所有と富の占有、流通、交易、これを取り仕切る権力者、クニが出現した時代となった。ここはその事を示す場所である。

 中のムラには、祭祀や農耕に必要な鉄器や青銅器、ガラスなどを生産する特別な技能を持った工人達がいた。多くは大陸から何らかの理由で倭国へ渡来したハイテク技能集団と、その倭国の弟子たちだったのだろう。

 そして北の果ての郭外には、王が埋葬されたという北墳丘墓を中心とした甕棺墓地。この墓地と神殿は南北軸上にある。しかし、奴国や伊都国などのチクシ倭国でも見られるこの甕棺を主体とする集合墓の形式が,その後の北部九州で古墳へと繋がる痕跡は無い。少なくとも近畿大和地方に見られる3世紀の巨大古墳のイメージに繋がるリンクは見つからなかった。

 こうして見ると、この吉野ヶ里環濠集落には、北には祖霊を祀る神聖な地、その軸上に祭祀を行う主祭殿、そして南に人民が住む一般居住地、という中国式の南北軸思想が現れているようにも思われる。大和の纏向遺跡の神殿跡とおぼしき建物が、三輪山/二上山を結ぶ東西軸上に配置されている事と対照的だ。なぜだろう。後の6〜7世紀の飛鳥の宮殿はみな中国式の南北軸配置に変わって行くのだが。

 吉野ヶ里が、典型的な弥生後期の(倭国の時代の)ムラ、クニであるとすれば、纏向遺跡は(同時期の集落遺跡であるとしたら)かなり異様だ。方角もそうだが、環濠もなく、農耕の跡も無く、人々の生活臭は全く感じない。この弥生時代の環濠集落とはかなり趣の異なる遺跡だと感じる。また祭祀を行ったとされる主祭殿の形式も、吉野ヶ里と纏向ではかなり異なる。吉野ヶ里規模のクニでさえ,主祭殿は高床式の三層構造の巨大な建物であるのに、もしも纏向が邪馬台国の首都であったのだとすると、その神殿とされる建物は、柱も細く,低層の(簡素な?)建物である。むしろ後世の宮殿の建物(飛鳥の板蓋宮等のような宮殿を彷彿とさせる)の形式に近いような感じがする。

 ところで、この吉野ヶ里のクニはその後はどうなったのだろう? ある日こつ然と姿を消してしまったと言われている。環濠は埋められ、耕作は放棄され、何らかの理由で住人がムラを捨てたようだ。奈良県の弥生遺跡、唐古鍵環濠集落は,その後も比較的長い間形を変えて、村落として続いたようだが、吉野ヶ里は何故姿を消したのだろう。新しい謎がまたわき起こってきた。



















(吉野ヶ里公園HPより転載)

















































































(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm)


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