8月は多くの魂があの世とこの世を彷徨う月。仏教でいうお盆の時期であり、先祖の霊魂が帰ってくる月である。しかしそれだけではない。8月は終戦の月である。先の大戦の最末期のひと月で大勢の人々が亡くなった。6日の広島原爆投下(9〜12万人が即日死、19万人が4ヶ月以内に死亡)9日の長崎原爆投下(7万4千人が即日死)、9日のソ連軍満州侵入(50万人の難民、死亡者不明)。その前の3月から6月の沖縄戦(捨て石作戦)で20万人、沖縄県民の4人に一人が死亡。3月10日の東京大空襲では一晩で10万人の市民が焼死している。そのほとんどが子供や母親や老人を含む一般市民であった。大勢の無辜の民が亡くなった。前線で戦い、戦死し、病死し、特攻で亡くなった人々も、もともと徴兵された普通の市民や学生である。戦没者慰霊の季節。
開戦の判断と意思決定の是非と共に、終戦の判断と意思決定は時宜を得たものであったのだろうか。この時期になるといつも近現代史研究者や評論家やジャーナリストが、当時の講和の判断が迷走した事情をいろいろに分析しているが、少なくとももう一ヶ月終戦の判断が早ければこの何十万の一般市民は死ななくてよかっただろうと思う。国民を守るという判断基準がなかったのだろうか?国民を守らない国、軍隊とは何なのか?戦争指導者の責任の重大さを思わざるを得ない。これほどの負け戦(いくさ)を負けと認めず本土決戦に持ち込む方針を堅持し、「此の期に及んで」特攻攻撃による一撃講和で有利な条件で講和する道を模索していたという。その根拠のない楽観主義、あるいは現実を見ようとしない自己肯定主義。その間に人類にとっての最終兵器、禁断の原爆が使用され、何十万人も死に、ソ連の火事場泥棒参戦を許すことになった。結局、最後は無条件降伏。日本の戦争指導者の判断は正しかったと言えるのか。 なぜこのような日本有史以来の破滅を体験しなくてはならなかったのか。その総括はしたのか。中国や韓国に言われるからではなく、300万人とも320万人とも言われる自国民を犠牲にした戦争の歴史を忘れる事なぞ出来るのか。
戦後70年目の終戦の日の安倍首相の談話が、彼の個人的な世界観、意思とは別のメッセージにならざるを得なかったことは皮肉だ。彼の内閣の支持率の凋落を考えての政治判断であったことだろう。しかし、もういい加減に謝罪し続けるのはやめにしたい、というメッセージも忘れずに付け加えられたところに本音が見える。当然、中国や韓国や旧連合国の反応は好意的とは言えない。どんなに謝ったって「許す」というメッセージは出さないだろう。少なくとも加害者側から言い出す話ではないというのが彼らの言い分だろう。もっとも彼らの反応自体も、それぞれの国の指導者が自国で置かれている政治的立場を反映した、自国民を念頭に置いた政治的なメッセージなのだ。常に外部に敵を作り、内政の矛盾から国民の目をそらせるのは、古今東西変わることなく続いてきた為政者の常套的国民支配術なのだ。そもそも国家・支配者の思惑と国民・市民の思いは必ずしも一致しない。戦勝国、敗戦国を問わず、否応無く国家の思惑で戦争に巻き込まれていった国民の悲惨な記憶は、もっと長い時間の中でしか咀嚼されて行かないだろう。自ら、あるいは親兄弟の体験に基づく感情が昇華して知恵になるには70年は短すぎる。
明治維新以来、太平洋戦争の惨めな敗戦までの77年は、欧米の植民地化への脅威から、近代国家確立を急ぎ、殖産興業/富国強兵を国是とし、結果的に対外戦争を繰り返してきた年月であった。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変に始まる泥沼の日中戦争、南部仏印進駐、真珠湾攻撃、太平洋戦争。そして敗戦。有史以来初めて外国に全土を占領され独立を失うに至った。明治維新の掲げた理念の結末はこういうことだったのか?これに対し、戦後の70年は幸いにも戦争のない平和な年月であった。振り返ってみると、明治維新以前の江戸時代の260年も対外戦争に関与しない、巻き込まれない平和な時代であった。太閤秀吉の朝鮮侵攻、明国侵攻などという国策は荒唐無稽で無謀なものであることを理解していたし、大航海時代の南蛮人、紅毛人との争いにも巻き込まれないように鎖国という外交政策で国を守ってきた。それ以前の歴史で対外戦争に出かけたのは663年の唐・新羅連合軍との朝鮮半島白村江の戦いだ。倭国は惨敗して逃げ帰ってきた。日本という国は対外戦争に懲り、自ら出かけて行って戦争する事を避けてきた歴史を持っているはずなのだが。ある意味、明治維新はその歴史を変えてしまったのかもしれない。今更このグローバル時代に鎖国などという選択肢はないことはいうまでもないが、さればこれから日本は本当はどういう国を目指していけば良いのだろう。軍事大国でもない、経済大国でもない。どのような世界から尊敬される国を目指すのか。
「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。--------- もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。」
夏の盛りに花を愛でることなく劫火に倒れた人々に一輪の芙蓉を捧ぐ |