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2022年1月22日土曜日

古書を巡る旅(19)「Verbeck of Japan:フルベッキ伝」W.グリフィス著 〜『フルベッキ』とはオレのことかとVerbeck云い〜


「Verbeck of Japan」1900年New York
William E.Griffis


フルベッキ肖像

表紙

フルベッキ夫妻

幕府の長崎英語伝習所「済美館」門弟との集合写真


大学南校(帝国大学の前身)学生の集合写真


「ギョエテとはオレのことかとGoethe:ゲーテ云い」。戦前の旧制高等学校の学生が西欧人の名前の表記を皮肉った川柳。そのまま今日取り上げるフルベッキにも使える。「フルベッキとはオレのことかとVerbeck:フェルベック云い」。外国人の名前の日本語での読み、発音はなかなか難しい。特に幕末から明治の頃の日本人にとっては聞きなれない名前に大いに戸惑ったことだろう。その時代の人が耳で聞いた「音」なのか、文字を自分流に読んだ結果なのか、思えば奇妙な表記である。本人も「それってオレのこと?」と、びっくりしていることだろう。他にもコンドル先生はConder:コンダー、モース先生はMorse:モールス(モールス信号と同じ)、ヘボン先生はHepburn:ヘップバーン。ともあれ、ここでは歴史教科書で呼び習わしている「フルベッキ」で統一しておこう。

さて、いつものようにインスタ「映える写真」をチラチラと眺めていたら、お馴染みの神田神保町の北澤書店のサイトに、この「Verbeck in Japan」の書影が掲載されているのを見つけた。先述のようにVerbeckといっても誰のことかわからないが、フルベッキといえば幕末明治に活躍したお雇い外国人だと聞いたことくらいはある人も多いだろう。フルベッキ関連の書籍は貴重本だ。あまりネット検索してもお目にかかることはない。後述のように、フルベッキ自身は自叙伝を書いていないし、彼の評伝もその存在があまり知られていない。旧約聖書の和訳という大きな業績はあるが、彼自身については日本語版は研究者向けの専門書が刊行されているだけである。先日紹介した英国公使ハリー・パークス:Harry Parkesの評伝と同様、自分自身の記録を残していない明治の外国人は思ったより多い。早速、書店に出掛けてみた。若店主に「古書店がインスタ使うなんてなかなか撒き餌が上手いなあ。すぐに獲物が食らいついてきたね」と冷やかすと、「一発狙いで見事に釣れました!」と一言。まんまと術中にハマったのだが、釣られる獲物が喜ぶ撒き餌というわけだ。今回、ウィリアム・グリフィスの著作が3冊入ったとのことで、その一冊が「フルベッキ伝」であった。さすが面白い本を見つけてくるものだ。本書は1900年ニューヨークで刊行された初版本である。表紙にはフルベッキが明治天皇から叙勲を受けた旭日章が配されている。


(1)フルベッキの略歴

で、フルベッキとは一体何者? 聞いたことはあるが、実はどのような人物か知らないという人が大方ではないだろうか。まずは略歴を紹介。

 Guido Herman Fridolin Verbeck (Verbeek)(1830〜1898年)

名前の表記は、オランダ式にはフェルベックまたはフェアビーク、英語式にはヴァーベックであるが、日本では「フルベッキ」と表記されている。オランダ人でアメリカに移住。そこで神学教育を受け、宣教師として幕末に来日。そして日本で波乱の生涯を終えた。彼は日本滞在が長く、オランダ、アメリカともに国籍を失い、無国籍となる。この本のタイトルも「Verbeck of Japan A Citizen of No Country:国籍を持たない市民 フルベッキ」となっている。

1830年オランダユトレヒト生まれ。プロテスタント・モラビア派教会で洗礼

1852年 親戚を頼って渡米。ニューヨークへ

1855年 ニューヨークの長老派オーバン神学校入学

1859年 卒業とともにオランダ改革派教会宣教師に叙任され、同年結婚とともに日本へ

1859年(安政6年)11月上海経由で長崎に

日本は五カ国との通商条約は締結されてはいたものの、いまだキリシタン禁教が解かれておらず布教はできなかったため、長崎にて私塾を開きで英語を教えた。この時に大隈重信、副島種臣が教えを受けた。

1864年(元治元年)幕府の長崎英語伝習所(のちに済美館)が開設。その英語教師に就任。済美舘では何礼之、大山巌などが学んだ。何礼之は私塾を開きフルベッキの指導を仰ぎながら多くの人材育成に努めた。この頃、勝海舟、小松帯刀、西郷隆盛、桂小五郎、横井小楠などとも長崎で出会っている。

1867年(慶応3年)佐賀藩主鍋島直正が、長崎に藩校「蕃学稽古所」「致遠館」)を設立。そこへ招聘されて英語、政治、経済について講義。大隈重信、副島種臣も受講する。佐賀藩の江藤新平、大木喬任、さらには伊藤博文、大久保利通、加藤弘之なども学んだ。1868年には岩倉具視の子、具定、具経が門弟となる。この藩校の集合写真が、後述の「フルベッキ群像写真」(上野彦馬撮影)として話題になる。

1869年(明治2年)明治政府より招聘されて大学設立に参加。開成所の教頭、大学南校の教頭を務めた。1872年にグリフィスを福井から呼び寄せて化学の講義をさせた。

1871年の岩倉欧米使節団派遣を建議、支援。同年明治天皇より学術への功績に対し勅語を賜る

1873年(明治6年) 政府左院翻訳委員、さらに1878年には元老院に

1874年(明治7年)米国ラトガース大学より神学博士号授与。

1877年(明治8年)叙勲 勲三等旭日章

1878年(明治11年)アメリカへ一時帰国

1879年(明治13年)再来日。官職を退き、宣教師としての活動に専念。

1886年(明治19年)明治学院開学。理事、神学部教授に。

1888年 明治学院理事長就任

1898年(明治31年)東京赤坂の自宅で死去(享年68歳) 青山墓地に埋葬


(2)幕末/明治初期の教育、人材育成に貢献

略歴に述べたように、フルベッキは宣教師として1859年(安政6年)に来日した。開国後の安政五カ国条約が締結された後ではあったが、いまだキリスト教禁教令が解かれておらず、布教活動ができなかった。よって長崎では私塾を開設して英語を教えた。江戸時代を通じて西洋の外国語といえばオランダ語であったが、幕末の世界情勢は、もはやオランダ語が通用する時代ではなかった。幕府にとっては英語の習得が喫緊の課題であった。こうした情勢下ではフルベッキのようなオランダ語と英語の双方を解する外国人は貴重であったことだろう。このように幕末の長崎で、済美館、致遠館で英語や政治、経済、理学などを教え、その教え子が、のちに維新や新政府で活躍する。維新後は、明治新政府の要請で東京へ移り、開成所/大学南校の教師、教頭として教鞭をとった。のちに新政府が海外から雇い入れたいわゆる「お雇い外国人」とは異なり、維新直後には幕末に来日していた宣教師を大学教師に招聘するケースが多かった。明治新政府になってから「お雇い外国人」として欧米からやってきたチェンバレンやコンドル、モースなどは、これからは宣教師ではなく、専門的な知識と実績を有する人材を大学教師として招聘すべきである、として、学界や実業界からの人材を推奨した。しかし、大学創設黎明期にあっては、幕末を知るフルベッキのような宣教師たちの功績は大きく、英語だけではなく、これまでの蘭学の世界を超えた新しい西欧文化の講義は、維新を進めたリーダーたちに大きな影響を与えた。また多くの若手を欧米に留学させた。発展段階に応じた教育人材登用としては適切であったろう。大隈重信はのちにフルベッキを早稲田大学の建学の祖として「彼が来日していなければ今日の早稲田大学はありえなかった」と賛美している。またジェームス・ヘボン:James C. Hepburnとともに明治学院の創設に関わり、神学部教授、理事、のちに理事長となっている。日本におけるミッションスクール創設の先駆けとなった。


(3)大隈重信と岩倉使節団とフルベッキ

フルベッキは長崎「致遠館」以来の大隈重信との信頼関係が強かった。のちに彼は「私の友人の中には大日本帝国の首相とした活躍した大隈重信がいた」と手紙に書いている。フルベッキが大隈重信に対して条約改定建白書を提出していたのを岩倉具視が知ることとなり、これを契機に欧米との条約改定再交渉を目指す使節団派遣が前へ進んだと言われている。しかし、フルベッキの門下生が多かった佐賀藩出身の大隈、江藤などの使節団への参加はなく、大久保、木戸などの薩長出身者で固められた。留守政府を預かった大隈、江藤、西郷などが、岩倉の言い置きを守らずに、留守中に朝鮮開国交渉やさまざまな改革断行を進めたことが政変のトリガーを引き、留守政府要人の多くが下野し、やがては江藤新平の佐賀の乱、西郷隆盛の西南戦争に繋がってゆく。このことはフルベッキを驚愕させた。また、この使節団には多くの留学生が同行した。彼らは欧米の政治思想、啓蒙主義や、哲学を学んで帰ったものも多く、中江兆民のように自由民権思想を学んで「東洋のルソー」と称された思想家も生まれた。これもフルベッキの考えた新しい日本の姿の一つであったはずだが、薩長藩閥政府にとっては歓迎されないものであった。明治14年の帝国憲法制定の草案論争では、伊藤博文主導のプロイセン型憲法草案が主流となり、イギリス流立憲君主制やアメリカ型の自由主義的な色彩が盛り込まれることはなかった。結局、大隈も副島も下野してしまい、フルベッキも二度と政府の官職にはつかなかった。彼はこののち布教活動とミッションスクールの創設に傾倒してゆく。


(4)もう一人のジャパノロジスト、ウィリアム・グリフィス

William Elliot Griffis (1843~1928)


フルベッキ自身は自叙伝や評論を出しておらず、書簡以外は著作も少ない。本書も彼の大学の後輩であるウィリアム・グリフィス:William Elliot Griffisによる評伝である。もしグリフィスがこの評伝を書かなかったらフルベッキの明治日本における功績は忘れ去られていたかもしれない。彼は本書の冒頭で「フルベッキ無くして今の日本はありえない」と言い切っている。幕末期から英語を教え、帝大創設期に教鞭を取り、欧米への視察、留学に尽力し、日本にミッションスクールを創設するなど、近代日本を担う若き日本人の育成に多大な功績を残した。こうした記録と評伝を後世に残したグリフィスの功績をも高く評価したい。

このウィリアム・グリフィス(1843〜1928年)も明治期のジャパノロジストの一人である。日本に関する多くの著作を残しており、The Mikado's Empire, Japanese Fairy World, Japan: In History, Folk-Lore, and Artなどがある。他にもペリーやハリスの評伝を表している。彼は帝国大学で教鞭を取り、多くの門弟を輩出している。アメリカ・ペンシルバニア州フィラデルフィア生まれ。ニュージャージー州のオランダ改革派教会系のラトガース大学卒業。そこで教鞭を取る。福井藩士で幕末に幕府留学生としてラトガース大学に留学していた日下部太郎の縁で、1871年(明治4年)日本に渡り、福井藩藩校「明新館」で1年間理科(化学と物理)を教えた。版籍奉還で福井藩が無くなると、1872年(明治5年)フルベッキの要請で大学南校へ移籍。物理と化学を教えた。帰国後は宣教師となり、日本に関する著作の執筆や講演に精力的に取り組んだ。「The Mikado's Empire;皇国」は彼の代表的な著作である。グリフィスの功績の一つは、幕末/明治期の「お雇い外国人」の記録を後世に残すべく、1858〜1900年の間に日本政府に雇われて来日した外国人の資料を収集し整備したことである。このために本人だけでなく、その子孫や親族、教え子や友人などの関係者を巡り、聞き取りや手紙、日記などの資料収集に努めた。本書、Verbeck of Japanもそうした研究をまとめた著作の一つである。この一連の資料と、グリフィスが収集した膨大な日本関係資料が、母校ラトガース大学図書館に保管されている。

この日下部太郎も、留学前に長崎の「済美館」でフルベッキに英語を学び薫陶を受けている。しかし、ラトガース大学留学中に結核で夭折。グリフィスはその才を惜しみ、名誉学位を授け、卒業生名簿にその名を残した。彼の墓はニュージャージーにあり「日本国福井藩士日下部太郎墓」と日本語で墓碑銘が刻まれている。歴史の表舞台でハイライトを浴びる英傑ばかりが近代国家建設の黎明期に活躍したわけではないこと、志半ばで異国の土となった若き「命」があったことを改めて知る。奈良時代の遣唐留学生で、唐土に短い人生を終えた井真成(いのまなり)のことをふと思い出した。ここでも彼の才を惜しんだ唐人によって墓碑に刻まれた「日本国留学生井真成墓」の文字と、彼を讃える玄宗皇帝の勅辞が見つかっている。


(5)いわゆる「フルベッキ群像写真 維新の英傑が全員集合」とは

フルベッキといえば、テレビの「歴史探偵モノ」番組や、幾つかの「トンデモ歴史本」で話題になった「フルベッキ群像写真」が知られている。ネットで「フルベッキ」で検索すると、ズラリとこの種の集合写真関連記事が出てくる。「幕末明治維新の志士揃い踏み写真発見!」とか、「フルベッキを囲む集合写真の名前が解明された。なんと!ここに写っているのは全員、誰もが知る維新英傑である」といった類のハナシ。「西郷隆盛の顔写真ついに発見!」なんてキャッチや、実はフルベッキはフリーメーソンで、これはその集合写真だという「陰謀論」めいたハナシ、果ては、若き明治天皇も参加していて写っていた!etc,etc,etc... 全員の名前を記した写真が新聞紙上を賑わしたり、お土産屋で売られたりしたこともある。詳細をここでこれ以上説明するつもりはない。写真はリアルだが、この「全員集合」バナシはフェイクである。この写真は先述の長崎の佐賀藩藩校「致遠館」の生徒の集合写真で、1867年(慶応3年)ないしは1868年(明治元年)に上野彦馬が長崎で撮影したものである。したがって、そもそも高杉晋作や坂本龍馬が写っているはずがない。人物が特定できるのは大隈重信、副島種臣、岩倉具視の子息二人だけである。もっとも最近の研究で幾人かの佐賀藩士が追加で特定されており、明治新政府に出仕して活躍した人物であることがわかっている。ちなみにこの写真は本書には掲載されていない。代わりに、同じ場所(上野彦馬の長崎のスタジオであろう)で撮影された幕府学問所「済美館」生徒の集合写真(上記写真参照)が掲載されている。もし「致遠館集合写真」が本当に「維新群像揃い踏み」写真であれば、グリフィスは必ず本書に取り上げていたはずだ。掲載しなかったということは、少なくとも彼は、この集合写真がそのような「貴重な」写真であるという認識は無かったことになる。歴史の世界には面白おかしい「トンデモ話」が創作され、それがさもホントのように出回りがちであることを知っておくべきだろう。そんなことで有名になっているフルベッキ。草葉の陰で泣いていることだろう。この際、あらためて彼の本当の姿を知ってもらいたいものだ。

    「この写真、オレの写真かと西郷云い」

以上。


佐賀藩長崎藩校「致遠館」集合写真

維新群像写真として名前を記したフェイクリスト

長崎市に残る「致遠館」跡





2022年1月16日日曜日

東西文明のファースト・コンタクト 第三章「ドクトルの世紀」 〜「出島の三学者」の日本見聞録〜

 

ケンペル「日本誌」掲載の「長崎出島図」

将軍謁見図
立っているのがケンペル


「ドクトルの世紀」とは?

「バテレンの世紀」から「カピタンの世紀」へと変遷してきた日欧のファーストコンタクトは、いよいよ第三章へ。その主役は、布教を目的とした宣教師(バテレン)や、交易/商業活動を目的とした商館長(カピタン)から、未知の世界の観察/研究を目的とした研究者、博士(ドクトル)となる。これを「ドクトルの世紀」と名づけておこう。人間の止まるところを知らない「欲望」は、ついにキリスト教による世界制覇や、莫大な貿易利潤による市場支配といった野望を超え、人間の知的好奇心の充足へという、より高みに立つ「欲望」に止揚される。しかしてその実情は、出島という監視された閉鎖空間にて、細々と珍しい動植物を観察収集し、珍しい風俗、風土を研究するしかなかった。しかし、その成果は日欧双方にとって大きな意味を持つものとなっていった。彼ら「出島の囚われ人」には協力者がいた。それは日本人のオランダ通詞であり、また蘭学を志す若者達であった。また監視役であったはずの長崎奉行所の役人や、長崎勤番警護の肥前藩や筑前藩でもあった。こうした情報交換や研究協力関係は、オランダ人にとっての一方的便宜であるより、むしろ日本側に大きな意義を持っていた。医学、植物学(本草学)、地理、天文学は双方に関心のあるテーマでもあったし、「オランダ風説書」でもたらされる海外の最新動向は、オランダというフィルターがかかった情報であるが、日本にとって垂涎の的であったことはいうまでもない。幕府の周到なコントロール下での情報交換と協力関係ではあるが、それだけではなく、知的好奇心と探究心に満ちた若き日本の蘭学者や、通詞による自発的な交流が実は重要であった。例えば、ケンペルの「日本誌」の多くは若きオランダ通詞、今村源右衛門による協力がなければ成立し得なかった。テュンベリーの「日本植物誌」は桂川甫周や中川淳庵などの若き蘭学者との交流がなければ成立し得なかったし、こうした協力関係が後の杉田玄白の「解体新書」を生み出していった。特にシーボルトの時代になると、より一層の日欧の研究交流が盛んになり、幕府の許可により出島外に設立された鳴滝塾が蘭方医学、蘭学の研究センター/教育機関となった。ここから高野長英などの多くの有為の人材が生み出されたことは知るとおりである。さはさりながら、基本的には色々と制約の多い出島での「幽閉生活」を強いられる彼らにとって、年一回の江戸参府はまたとない日本見聞の機会であったし、それだけにその旅は新鮮であったことだろう。彼らの江戸滞在中は、宿所の日本橋本石町の長崎屋には、幕府の牽制、規制にもかかわらず江戸の蘭学者が大勢訪問し、質疑応答をおこなった。これが将軍謁見という外交的な儀礼よりも、日欧文化交流におけるより実質的な意義を持っていた。こうした日蘭の知的交錯がこの時代を特色づけることになる。

このように見てくると、日欧関係発展のモチベーションは、「グローバル宗教」の野望や「グローバルエコノミー」の野望という側面よりも、未知の世界の探検、未知の文明との遭遇という「知的好奇心」へと移り変わった。ファーストコンタクトで新しく「発見された」日本は一度は行ってみたい魅惑のワンダーランドになった。これは皮肉にも日本側が、ヨーロッパ側による「信仰の、市場の世界征服」の野望を挫いた結果だったと言えるのではないか。一方で、「鎖国」日本にとって出島のオランダ商館は、西欧諸国の最新情報を得る唯一のウィンドウとして貴重であった。時代が降るにつれてむしろオランダ側よりも、日本側にこうした交流にメリットがあったといえよう。日本が国を海外に向けて閉ざしている間に、ヨーロッパでは啓蒙主義の時代、科学の時代、産業革命の時代へと進み、その動向をわずかに開かれたウィンドウから覗き見る時代になっていった。

ここで、これまでのブログで取り上げてきた日欧の「ファースト・コンタクト」時代の変遷を整理してみたい。これらはあくまでも、敬愛する渡辺京二氏の著作「バテレンの世紀」をパクった筆者の勝手なネーミングに基づく時代区分であり、歴史学としてのそれではない。言わずもがなではあるが念のため。

(1)「バテレンの世紀」16世紀後半〜17世紀前半

        目的:キリスト教布教/交易がセット

        主役:宣教師(バテレン)/ポルトガル商人

        主たる情報源:イエズス会記録(ローマ教王庁)

(2)「カピタンの世紀」17世紀 

        目的:商売/交易

        主役:オランダ/イギリス商館長(カピタン)

        主たる情報源:商館長日記、手紙、報告書(オランダ公文書館、大英図書館)

(3)「ドクトルの世紀」 17世紀終期〜19世紀前半

        目的:動植物学/博物学研究 日本の総合的研究

        主役:商館付きの医者/植物学者/博物学者(ドクトル)

        主たる情報源:研究報告書、刊本著作(大英博物館、ライデン大学、ウプサラ大学)


「出島の三学者」とは?

(1)ケンペル(1651〜1716)

    滞在期間:1690〜1692年 江戸初期(元禄3〜4年)

    主要著作:「廻国奇談」、「日本誌」1718年

    ヨーロッパにおける「日本学」の開祖。かれの「日本誌」は、長く日本を知るための体系的手引書として重用され、ディドロの「百科全書」にも引用された。幕末のペリー来航時にも指南書となった。オランダ通詞の今村源右衛門の役割が大きいと言われている。

(2)テュンベリー(1743〜1828)

    滞在期間:1775〜1776年 江戸中期(安永4〜5年)

    主要著作:「日本植物誌」1784年 

    スウェーデンの世界的植物学者リンネの高弟。帰国後は母校ウプサラ大学の教授、学長になる。わずか一年ほどの滞在であったが、桂川甫周、中川淳庵、多くの蘭学者との交流、オランダ通詞が植物学、薬学、医学の習得するなど、多くの若き知性に影響を与えた。杉田玄白「解体親書」へとつながる。

(3)シーボルト(1796〜1866)

    滞在期間:1823〜1830年 江戸後期(文政6〜12年)、2回目の来日(1859〜1862年)(開国後、安政6〜文久2年)

    主要著作:「日本」1832、51,52、58、59年分冊出版、「シーボルト日記」

    ドイツの医学の名門の家系に生まれる。日本の総合的/科学的調査研究が使命/目的 セカンドコンタクトへの橋渡し。2度の来日経験。高野長英など多くの門弟を輩出し、日欧交流に大きな影響を与えた来日外国人の第一人者。

「出島の三学者」については、以降のブログを参照願いたい。2017年5月30日 時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 「出島の三学者」 ケンペル、ツュンベリー、シーボルト:  

3人の共通点は、オランダ商館付きの医者、植物学者。博士号を保有する「ドクトル」であること。しかもオランダ人ではなく、ケンペルとシーボルトはドイツ人。テュンベリーはスウェーデン人である。彼らは医学の専門家であると同時に、植物学者であり、本草学(薬学)や博物学の研究者であった。医者としての勤め、動植物研究にとどまらず、日本および日本人を総合的、学術的に調査研究することが主要な目的と使命であった。したがってヨーロッパにおいては「日本学」の権威となった。この歴代の三学者は、日本学の開祖、ケンペルに始まり、植物学の泰斗テュンベリー、そして幕末の日本に大きな影響を与え、セカンド・コンタクトの扉を開いたシーボルトへと、その経験と成果が引き継がれていった。しかし、先述のように、彼らだけでそのような成果を上げられたわけではない。その陰には多くの日本側の協力者や弟子たちがいた。すなわち、彼らの周囲にはオランダ通詞や門弟となった蘭学者がいた。また医者であることから、日本人の患者を見ることもあり、漢方医学が主流であった日本に西欧流の医学を持ち込み、治療に効果を上げ(テュンベリーによる梅毒治療の例)、評価され、それが蘭方医学として日本に受け入れられたことも大きい。また3人ともいわゆる学級肌で、若い頃から哲学、地理学、医学、薬学、植物学、博物学を学び知識欲旺盛な人物であり、高い洞察力と理性を併せ持つインテリ、知性派であった。しかし彼らの研究姿勢は実践的で、「象牙の塔」に閉じこもる学究の徒に止まるのではなく、大いに旅行し現場へ出かけ、危険を顧みず未知の世界の探検に志願して出ていった。いわゆる「行動する知性」であった。当時、オランダ東インド会社は、そうしたヨーロッパの「行動する知性」のファシリテーターとしての役割を果たしていたと言えよう。特に医官のポジションはまさにうってつけであった。

こうして、本国においても、当代一流の若手学者、研究者が、日本を目指し、滞在し、そこでの体験、研究成果を提げて帰国した。西欧諸国における絶対主義の時代から自由主義の時代、啓蒙主義、さらには産業革命、アメリカ独立戦争、フランス革命の時代へと続く近世西欧文明に新しい風を吹き込んだ。ちなみにイエズス会は1773年に解散している。一方でアダム・スミスが「国富論」1776年を出し、重商主義から自由主義市場原理を示し、産業革命という「技術イノベーション」と「神の見えざる手」が資本主義の時代を生み出していった時代である。1810年にオランダはナポレオンのフランスに併合される。こうした動きに乗じて1810年には海外植民地がイギリスに奪われるが、やがてナポレオンの嵐がすぎると英蘭は条約を結び、1814年にはオランダ領東インドは返還された。このようにオランダが衰退してゆく中、長崎オランダ商館だけはオランダの旗を掲揚し続けた。シーボルトの役割は、オランダが日本との貿易関係を再構築するために、総合的に日本を研究することであった。日本側も、西欧事情の収集と蘭学を通じた最新の思想や科学技術の習得が喫緊の課題であり、オランダとの関係は以前にもまして重要であった。19世紀になると日本近海にはロシアやアメリカなどの新たな異国船が頻繁に来航し、世界情勢が大きく変わっていることが肌身で実感された。これに対応するべく、海防、外交上の情報分析と的確な判断が喫緊の課題であったことは言うまでもない。こうしたことから幕府はシーボルトを重用するが、シーボルト事件で彼は国外追放となり、大事な「外交顧問」を失ってしまう。一方、シーボルトは帰国後は「日本学」の権威の一人として各方面から信頼を寄せられ、アメリカのマシュー・ペリー提督は日本への航海を前に、ケンペルの「日本誌」を事前に研究するとともに、シーボルトから多くの助言を得ている。

ケンペル、テュンベリー、シーボルトと続く「知の系譜」は、ヨーロッパに多くのものをもたらしただけでなく、日本にとっても重要な西欧文明研究の底流となった。そして多くの蘭学者、蘭方医を育てた。そのオランダ語による蘭学の系譜と知識の受容が、のちの幕末、明治の時代の英語やドイツ語、フランス語によるそれへの道筋をもたらした。ヨーロッパの意欲に満ちた若き知性と、日本の意欲に満ちた若き知性の遭遇。これがこの「ドクトルの世紀」を特色づけたと言える。そして、忘れられた「ファースト・コンタクト」の時代を、衝撃の「セカンド・コンタクト」の時代へと繋ぐ道筋が、「鎖国」の時代に、細々とではあるがしかし確かに形作られていた。


追記:

歴史資料として見るとこの頃の「日本誌」などの記録は、その前の時代(バテレンやカピタンの時代)の記録とは異なる性格を持っている。すなわち、バテレンやカピタンによる布教活動や貿易/商業活動を通じた組織内の報告書、あるいは個人的な見聞録としての記録から、学者、研究者としての目で見た「客観的」な観察、分析と評価に基づいた記録となっている。形式としては日誌や報告書等の時系列記録というよりは、テーマ別、項目別の事物、出来事の記録である。逆に言えば、市井の人々の日常の生々しい記述や、筆者の情感のこもった描写やその印象記録は影を顰める。再び、そうした視点での日記や紀行文が出てくるのは、セカンド・コンタクト以降の、幕末/明治の来日外国人(お雇い外国人、横浜の貿易商、ジャーナリスト、旅行者など)の「日本見聞記」「旅行記」が盛んに出版される時代になってからである。



ケンペル「日本誌」に掲載されている動植物
日本の茶


日本の鳥類
架空の鳥「鳳凰」

日本のセミ

日本の貝類


テュンベリー「日本植物誌」
(Wikipediaより)

シーボルト鳴滝塾
(長崎大学図書館蔵)



参考:過去のブログ

                                      

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2017年5月23日時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 大航海時代と日本 〜「長崎出島」は「鎖国」の象徴か?〜:   ベランの「長崎の街と港」図 1750年 南北が逆になっている 日本の版画「肥州長崎之図」 1800年ころ ケンペルの「出島の図」  私の古書、古地図探訪の旅が終わらない。「時空トラベラー」は、古代倭国を飛び出して、大航海時代のジパングにも...



2022年1月8日土曜日

東西文明のファースト・コンタクト 第二章「カピタンの世紀」 ②   〜英吉利人の日本見聞録〜



 

日本の「カピタンの世紀」は1600年のオランダ船「リーフデ号」の豊後漂着に始まった。このリーフデ号の航海は、オランダの商業資本ハーゲン船団による東インド、中国、日本を目指したマフー艦隊の一員としてのそれであったことは前回のブログで述べた通りである。ロッテルダムを1598年に出港した時には5隻であった艦隊のうち、わずか1隻が日本にたどり着いた。こうしてポルトガル人、スペイン人に続きオランダ人が日本にやってくることになった。しかし、歴史の面白いところは、このオランダ船「リーフデ号」で豊後に上陸したのはオランダ人ばかりではなく、航海士として乗り組んでいたイギリス人もいた事である。この頃のオランダはスペインやポルトガルという共通の敵を持つイギリスとは同盟関係であったばかりでなく、1588年のイギリスのキャベンディッシュ艦隊の世界一周航海の成功に刺激され、一攫千金を狙って海外進出を加速していた。同じ1588年のイギリスによるスペイン無敵艦隊撃破という大事件もあってか、イギリス人航海士は経験豊富な人材として盛んに雇用された。こうした事情から奇しくもオランダ船に乗り組んだイギリス人が、これまた奇しくも日本に到達(漂着)し、海外進出を企画していた徳川家康に重用されて、新しい日欧関係を開くキーパーソンとなる。彼の名はウィリアム・アダムス:William Adams。彼こそ日本に来た初めてのイギリス人なのである。スペインの無敵艦隊とのアルマダ海戦にも参加したイギリスの海の男である。彼については、過去のブログでも度々取り上げてその事績について紹介してきた。今回は、アダムス(三浦按針)の残した手紙、イザーク・コメリンの「東インド会社起源と発展」に掲載されたマフー艦隊の航海記録から、そのロッテルダムを出て、日本に到着するまでの航海を振り返ってみた。そしてリーフデ号の日本到達、アダムス他の乗員の生存を知ったオランダは平戸にやってきて商館を開いた。これに続いてアダムスの母国イギリスも国王ジェームス1世(エリザベス1世は1604年に没す)国書を携えて日本にやってきた。ジョン・セーリスの登場である。彼とアダムスとの出会い、そして相反。その二人の物語を航海記録と日本滞在記から紹介する。しかし、イギリスは東インド市場、日本市場におけるオランダとの争いに敗れ、わずか10年で日本から撤退する。「まるで日本には来たこともないように」跡形も残さず姿を消す。一方で、時間を少し巻き戻すと、オランダの海外進出の動きに刺激を与えたイギリスのキャベンディッシュ艦隊の世界就航。スペインとのアルマダの戦いの勝利(スペイン無敵艦隊撃滅)、ドレイク、ホーキンス、ローリーなどの海賊たちの活躍に始まるイギリスの大航海時代の幕開けがあった。実はこのキャベンディッシュの航海には日本人との出会いがあった。このことは意外に知られていない。ファーストコンタクト第二章「カピタンの世紀」の第二弾はこうしたイギリス人の「日本との遭遇」の歴史を取り上げ、その出会いと、そして予期せぬ別れを描いてみたい。


(1)イギリス人航海士ウィリアム・アダムスとオランダ・マフー艦隊の悲惨な航海

まずはイギリス人航海士ウィリアム・アダムス所属のオランダ、ハーゲン船団のマフー:Mahu艦隊の航海を振り返っておきたい。やはり、日本とイギリスとの出会いは、このオランダ船に乗船していたイギリス人の初めての日本上陸に始まる。このマフー艦隊は、イギリスのキャベンディッシュ:Cavendish艦隊の世界就航、その私掠船活動から上がる莫大な利益という「海賊モデル」に刺激され、オランダの投資家の資金で編成された船団の一つである。1598年、ロッテルダムを出港して、西回りでマゼラン海峡経由で東洋を目指すという、当時のオランダとしては画期的な航海であった。しかし、その結果は悲惨な航海であった。マフー艦隊は次の5隻から構成されていた(これらの艦隊航海の記録は、前回紹介した「東インド会社起源と発展」イザーク・コメリン編著に詳説されている)。

ホープ:Hope号(希望)500トン、130人、船長ジャックス・マフー:Jaques Mahu(艦隊司令官)旗艦。

リーフデ号:Liefde(愛)350トン、110人、船長シモン・デ・コルデス:Simon de Cordes(艦隊副司令官) (旧船名:エラスムス号)

へローフ号:Gheloove(信仰)350トン、109人、船長ヘリット・ファン・ブーニンゲン:Gerrit van Beuninghen

トラウ号:Trauwe(忠実)250トン、86人、船長ユーリアン・ファン・ボックホルト:Ieauriaen van Bockhout

ブライデ・ボートスハップ号:Blijde Boodschap(福音)150トン、56人、船長セバルト・デ・ヴェールト:Sebalde de Weert

途中、指揮官マフーは出港後3ヶ月でアフリカ西岸のベルデ岬付近で熱病に感染し病死。副官のコルデスが指揮官となり、艦隊の指揮系統の再編が行われる。航海士のウィリアム・アダムスはホープ号からリーフデ号に乗り換えた。リーフデ号に乗船していたディルク・ヘリツゾーンはブライデ・ボートスハップ号の船長になり、セバルト・デ・ヴェールトはへローフ号船長となる。こうして再出発したものの、航海中に多くの乗員が熱病で死亡したり、敵対的な先住民、スペイン人との戦闘で乗員の命が失われた。マゼラン海峡通過は、猛烈な嵐に見舞われ困難の連続で、艦隊はバラバラになってしまう。出港後10ヶ月、5隻のうちマゼラン海峡を通過して太平洋に出て再会を果たしたのはホープ号とリーフデ号だけであった。難破状態であったへローフ号はオランダのファン・ノールト艦隊とマゼラン海峡で遭遇し、救助と支援を要請したが、ノールト艦隊にも余裕がなく拒否される。へローフ号は乗員の反乱がピークに達したため船長のヴェールトはロッテルダムへの帰投を決断した。この時点の生存者は36名と、出港時の三分の一に減っていた。このヴェールトの航海記がコメリンの「東インド会社起源と発展...」第2巻に掲載されている。この他、トラウト号は単独でマゼラン海峡を越えモルッカ諸島に到達したが、現地のポルトガル人に捕らえられて多くが処刑されたが、捕虜として生き残りオランダに帰れたもの数人いる。ディルク・へリツゾーンのブライデ・ボートスハップ号は航行不能となりスペイン支配下のバルパライソ(ペルー)に入港し全員が捕虜となった。そのうち11名はその後オランダに帰還した。ちなみにこのディルクはアジアに24年滞在し、ポルトガル人に雇われて長崎にも2年滞在していたことがあった(この時の体験をリンスホーテンに語り、それに基づくと思われる日本の記述が「東方案内記」に掲載されている)。今回の航海で、初めて母国の船で日本を再訪する事を夢見ていたが叶わなかった。ホープ号は太平洋ハワイ諸島付近で嵐に巻き込まれ行方不明になり、結局リーフデ号だけが1600年3月、日本に到達する。そのリーフデ号の豊後到達も「漂着」といった方がふさわしい有様で、出港時110人いた乗員はこの時点で24人になっていた。3人が到着翌日に死亡。その後病死した3人があり、結局18人(14人という説も)が生存していたが、到着時に立ち上がることができたものは7人だけだった。船長のクァッケルナックは到着時には衰弱激しく、代わってアダムスが日本の役人に対応し、大阪へ連行された。

このようにマフー艦隊の航海は悲惨なものとなり、利益を上げるどころではなかった。出港時に491人いた艦隊の乗員のうち、再び祖国の土を踏めたのは50人ほど。そのうち36人は途中で引き返したへローフ号の乗員で、捕虜となって帰還できたのは14名ほどしかなかった。また、日本に到達し、誰一人捕虜にならなかったリーフデ号の乗員14人は、誰も帰国していない。皮肉なものだ。こうした航海事業への投資は、多くの人命と船舶を失う究極のハイリスク投資で、「ハイリターンか、無一文か」という過酷なものであった。それでも欲望に駆られて、一攫千金型ハイリターンの僥倖を狙う執念というか、人間の業の凄まじさを感じる。冒険者とはそういうものである。コメリンの「東インド会社起源と発展」には、途中でオランダに引き返したヴェールの航海記録が掲載されているためリーフデ号の日本到達の記録は出てこない。前回のブログで紹介した通り、オランダ船隊として初めて世界一周に成功し、故国に帰還できたたファン・ノールト艦隊が、航海途中ボルネオ沖で日本船と遭遇し、そこでリーフデ号の日本到達と乗員の生存を知り、帰国と共にオランダへ伝わった。


(2)リーフデ号の人々

リーフデ号とその乗員の名前やその後について知るには、航海記録などが失われているので、アダムスが日本から同僚や家族に宛てた手紙の中で語られているものや、オランダ商館やイギリス商館の記録、手紙などに出てくる記述を拾い集める必要がある。。アダムスの手紙によると、先述のように出港時110人であったリーフデ号乗員は、18人(14人説も)が生存して日本で生活始めたことになる。

我々の歴史の教科書で知っているリーフデ号生存者で後世に名前が残っているのはアダムス(三浦按針)のほか、ヤン・ヨーステン(耶揚子)くらいだが、他にもリーフデ号の船長であったヤコブ・クワッケルナック、書記であったメルヒオール・サントフォールトがいる。この二人は比較的記録によく現れる。その活動は次のようなものであった。家康の許可を得て、バタニのオランダ東インド会社に向かい、貿易許可書を渡し、日本への来航を促そうとしたが、バタニ商館はポルトガルとの争いで忙しく、十分な商業活動がまだ開始されておらず、日本に向かう余裕がなかった。二人は虚しくバタニを離れ、クッケルナックはその後、現地でオランダ艦隊に加わり戦死する。サントフォールトは日本に戻り、長崎で商人として活躍。幕府やオランダ商館とは一定の距離を置きつつも、日蘭の交流史の中では重要な役割を果たした。アダムスよりもはるかに長い40年を日本で暮らした。リーフデ号生き残りの中では一番長い。その後バテレン追放令に伴い台湾へ、そしてバンタムへ移り住みそこで亡くなった。こうした活動は、オランダ商館やイギリス商館の記録、手紙などで窺い知ることができる。この他にも日本に定住した元乗員がいる。多くが平戸や長崎、堺などを拠点に貿易、航海に携わり、東アジアや東インドを舞台に活躍していた様子が伝わる。彼らの帰国を願い出る手紙や、故国に残してきた家族への想いなど、本国への帰国を願う気持ちも読み取れるが、それでも「神によって与えられた新天地」で、新たな活躍の場を得た「海の男たち」の挑戦者としての意気込みが感じられるのが感動的である。「人生至る所青山あり」。

リーフデ号乗員については、「リーフデ号の人々」ー忘れられた船員たちー 森良和著 学文社 に紹介されている。上記のウィリアム・アダムス、ヤンヨーステン、メルヒオール・ファン・サントフォールト、ヤコブ・ヤンツゾーン・クワッケルナックの消息、日本での活動状況について詳しく紹介されているほか、他の10名の知りうる限りの消息が記載されている。またクレインス桂子氏の記事にはこの本に紹介されていないもう一人のリーフデ号船員の消息が紹介されている。拙ブログ「2020年9月15日「ヤン・ヨーステンとは何者か? リーフデ号の生き残りとその後」を参照いただきたい。


「東インド会社起源と発展」イザーク・コメリン編 1646年 第二巻にセバルト・デ・ヴェールトの航海記として掲載されている


表紙


第二巻冒頭にマフー艦隊の5隻が紹介されている
途中でオランダに帰還したへローフ号船長セバルト・デ・ウェールトの航海記録が元になっているので、リーフデ号の日本到着は記述されていない。


大西洋 アフリカ西海岸・ベルデ岬に集結し、砦を攻撃する艦隊

大西洋 アフリカ赤道ギニアのポルトガル領を攻撃する艦隊

太平洋 南米チリ、サンチャゴ(スペイン領)沖を通過
5隻の艦隊はバラバラとなり、ホープ号とリーフデ号だけになっている


(3)ウィリアム・アダムスの生い立ち

1564年、イギリス南部のケント州ギリンガム生まれ。この頃のイギリスはプロテスタントの女王エリザベス一世が王位についたが、強大なカトリック国スペインの脅威に慄く辺境の島国であった。国内ではカトリック勢力による王権簒奪の危機にさらされていた。一方、イギリスはこの頃から徐々にローリーによる北米大陸への進出、植民地化が始まり、ホーキンスやドレイクといった私掠船船長(海賊)が海上でスペイン船を襲い財物を略奪するという荒っぽい活動を起こしている時期で、大国スペインとの戦争の危機が迫っていた。アダムスはこんな時代に幼少期から青春時代を過ごした。かれは上流階級出身ではなく庶民階級の出である。しかし子供の頃に学校には通わせられて読み書き計算は教わっている。当時の庶民の識字率は極めて低く、学校に行くケースは稀であったので、それなりの教育を受けさせることのできる家庭であったのであろう。12歳でロンドンの東、テムズ河畔のライムハウスで船大工のディンキンス親方の工房に弟子入りし修行を積む。この頃のイギリスはスペインとの戦争や海外進出の時代で、大型の外洋船建造ニーズが非常に高まっていたので船大工は人気の職業となっていた。

やがて彼は24歳でイギリス海軍に入り、1588年のドレイク艦隊のアルマダ海戦(スペイン無敵艦隊を撃破した海戦)に補給船ウィリアム・ダフィールド号の船長として参戦。イギリスの、いや世界の歴史を変えた海戦の当事者として戦場を経験した。戦後、海軍を退役すると、西アフリカとの貿易を執り行うバーバリー商会に入るが、おそらくもっと大きな夢を求めていたのであろう、オランダの世界就航プロジェクトに応募。ビーテル・ファン・デル・ハーゲン船団のマフー艦隊の航海士として参加することになる。造船技術と航海術、海戦経験を有する貴重な人材であった。若きアダムスの人物形成過程はこのようなものであった。これが彼の苦難の航海と、その末の日本での数奇な人生の始まりであった。


(4)アダムスが日欧交流史において果たした役割

アダムスの事績については過去のブログで折々に紹介してきた。また「さむらいウィリアム」とか「青い目のサムライ」とか、度々、小説や映画の主人公として取り上げられてきたことも述べた。この辺りは過去のブログを参照願いたい。ここでは彼の日欧関係史において果たした役割を考えてみたい。

最近、アダムスの日本到達で、オランダやイギリスの日本進出が始まった、とする定説に疑問を呈する研究が出ている。日文研のフレデリック.クレインス教授もその一人である。その論旨は、彼がオランダ、イギリスの日本進出のきっかけを作ったことは否定しないし、歴史上の役割を過小評価するものではないが、日本への進出の意思決定を支配した理由は必ずしも彼の存在だけとは言えないというもの。オランダは東インド、モルッカ諸島での香辛料取引で、ポルトガルとの戦いに手間取り日本進出に着手することができなかった。また中国との絹織物の取引を目指していたので、日本はほとんど眼中になかったと言われる。オランダが日本との通商を開始した(朱印状を受け、平戸に商館を開設した)のはリーフデ号到達、アダムス上陸1600年から9年後。ファン・ネック艦隊の報告から6年後である。アダムスの存在がきっかけとはなったが、日本進出の意思決定は、スペインとの一時的な平和条約締結と、モルッカ諸島でのポルトガルとの戦いがほぼ決着したことが大きく、アダムスの進言が直ちに日本進出となったわけではないとする。確かに、アダムスの進言を受けて家康の朱印状を持って日本への進出を促すために、オランダ東インド会社の拠点があったバンタムに出かけたリーフデ号の生き残りクァケルナック、サントフォールトの二人も、バンタムで東インド会社幹部と会うことができず虚しく引き上げている。また1609年に平戸にやってきたオランダ船(アブラハム・ファン・デン・ブルック、ニコラス・ボイク)は、オランダ総督の国書を持ってきたのだが、マカオから長崎に入港するポルトガル船を追ってきた(中国の絹を略奪しようと?)が、タイミングを逸して平戸に到着したものであった。これをアダムスの計らいで家康からのの貿易許可と商館設置許可を得ることができたが、アダムスは家康謁見には立ち会っていない。オランダは平戸に商館を開設し、ジャックス・スペックスが初代商館長となり交易が始まった(アダムスの1611年の手紙)。しかし平戸商館開設当時は、売るものがなく、ほとんど売り上げ/利益を得ることができなかったので、東インド会社本部取締役会は商館閉鎖を決議した。しかし、スペックスは、平戸からオランダ東インド会社の活動拠点、バンタム、アンボイナの支援、ロジスティックス(食料補給、資材輸出、傭兵、大工、人夫などの人材輸出など)の役割を果たし、徐々に利益を出すようになっていったため存続が認められた。一方のイギリスの日本進出については、オランダの時よりはアダムスの役割が大きかった。ただ、彼の手紙がロンドンのイギリス東インド会社総督に届くのは(オランダ人の妨害もあって)アダムス日本上陸の10年後のことである。それまでも日本にイギリス人の同胞がいることは、アジアに進出していた多くの船乗りからの情報により伝わっていたが、イギリスが行動を起こすのはずっと遅れ、後述のように、1613年になってようやく、イングランド王の国書を待ってジョン・セーリスのクローブ号が平戸にやってきた。このときはアダムスが家康謁見に立ち会っている。オランダとの競争で遅れを取ったイギリスにとっては、その巻き返しが一番の意思決定要因であった。このように進出のタイミングにさまざまな事情があり、「アダムスの存在=直ちに日本進出」、とはつながらなかったとする。また日本が(中国に比べて)魅力的な市場であるとも見えていなかった。とはいえ、アダムスの本国への進言と仲介努力、彼の日本の最高権力者、家康への影響力がオランダ、イギリスの日本への進出を可能にしたことは否定し得ない。

アダムスの手紙によると、家康とアダムスはイギリスとの交易開始に際して、あるプロジェクトの相談をしている。それは日本からイギリスへの北西航路の開拓である。これは家康がアダムスに意見を求めたようだが、アダムスがこれに乗る形で話が進んだ。すなわち、松前、蝦夷を経由して北極海航路を開拓し、バレンツ海、北海へ出て直接イギリスと結ぶというもの。南回りに比べて距離が短く、しかも先行競争相手がいないというメリットが大きかった。これは、実はすでにイギリスやオランダが、比較的早い時期から(南回り航路で先行している)ポルトガルやスペインに対抗して東洋へ出る航路として検討し、探検を繰り返していたルートである(ヘンリー・ハドソンによる北ルート探検航海記がコメリンの「東インド会社起源と発展」第1巻に掲載されている)。若き日のアダムスは父とこの探検航海に参加したことがある。アダムスは家康の構想にピンと来た。日本側とイギリス側双方から探検、開拓を共同して進めれば、大きな成果を期待できると。そして、その航路の拠点港として、アダムスは九州の平戸ではなく、江戸に近い浦賀を提案し、イギリス商館を設置することを家康に進言した。家康はこれに満足を示している。また家康は北方の海域を航行できるような外航船の建造の可能性についてアダムスに意見を求め、その建造を命じた。実際に複数の洋式帆船を伊豆伊東で建造し航海に成功している。この建造にはリーフデ号の乗組員であった人物が複数関わっており、日本人船大工に、その建造技術を伝えた。また、航海も日本人船員と共に行い、外洋航海技術を伝えた。このような技術伝承が大きな成果を挙げたことを忘れてはならないだろう。一方、「北西航路」開拓プロジェクトの方は、アダムスはイギリス東インド会社と情報交換することを提案するなど、自分自身が積極的にこのプロジェクトに関与するい意思表明をしている。残念ながら、結果的にはこの壮大なプランは、日本側、イギリス側双方とも実現しなかった。しかし、家康はこのような革新的なアイデアをどこで思いついたのか。実現しなかったとはいえ、イギリス人やオランダ人と同様の構想を、ほぼ同じ時期に温めていたことは驚きである。

結局、アダムスの最大の役割は、ポルトガル/スペインの脅威、イエズス会カトリック布教活動の脅威を家康に説き、家康のオランダ/イギリスとの交易へのシフトを促した点である。これが新興国オランダ、イギリスに追い風となった。一方で幕府のキリスト教禁教への意思決定を促す結果となった。当然ながらイエズス会宣教師やポルトガル/スペイン人はアダムスの存在を懸念、警戒していた。まずアダムスを「商人ではなく海賊である」。「危険な国から来た危険人物であるから処刑すべき」と主張し続けた。彼らから見れば、まさに「敵対国」の「異端の新教徒」で「海賊」であった。しかし、家康の判断はより戦略的であった。家康は彼の後継者たちとは異なり、積極的に日本からも海外へ進出することを企図するグローバルな視野を持った人物であった。海外事情に極めて高い関心を示し、そして様々な情報ソースを持って冷静に判断する高い能力を備えている様子が見える。日本側の資料だけだと、家康は鎖国のトリガーを引いた排外的で保守的な指導者としての姿しか描かれていないが、アダムスの手紙や、オランダ商館、イギリス商館の記録などの資料からは全く逆の姿が見えてくる。家康はオランダやイギリスを積極的に誘致して交易を起こそうとしていたし、ポルトガルやスペインも一方的に排除するのではなくの交易相手としての評価も慎重に行っている。日本人商人だけでなくアダムスなどリーフデ号生き残りの船員たち(ヤンヨーステン、クァッケルナック、サントフォールト)にも貿易許可証である朱印状を出し、シャム(タイ)、フィリピン、コーチシナ(ベトナム)、カントンとの交易を進めている。またスペイン領のヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)との交易航路を開くことを目指し、アダムスに外洋船の建造を命じている。このように、アダムスは家康の海外進出についてのアドバイザーとしての役割(それが結果的にはオランダ、イギリスとの交易を優先させることになるのだが)、洋式帆船建造、外洋航海などの技術、知識伝播という、日本の外交戦略に影響を与えた重要な人物であることは否定できない。しかし、アダムスは決して英雄的な人物ではない。故郷に残してきた家族のことを絶えず心配する普通のイギリス人であった。ただ日欧関係の歴史を動かす格好の時期に格好のポジションに身を置いていた。そしてその僥倖に応えうる能力、センスと世界観を有していた。それが彼にとって幸運なことであったのか、不幸なことであったのか。アダムスは「神の意志」として受け入れたのであろう。いずれにせよ彼の知識や経験が家康にとっては格好のものであったことは間違いないし、アダムスの登場が家康という稀代の為政者の国際人としての姿を浮き彫りにする役割を果たしたとも言えるだろう。一方のオランダ、イギリスにとっても「渡りに船」のチャンスとなったことも否定し得ない。しかし、家康の死後、アダムス、ヨーステンともに二代将軍秀忠になってから、徐々に側近としては退けられてゆく。「鎖国政策」への傾倒、内向きの政策へシフトしてゆき、リーフデ号の生き残り達は不遇の時代を過ごし、失意のうちに日本を去るか、故郷に帰ることなく日本で生涯を終えることとなる。そして日本のグローバル化は急速にフェードアウトし、「内向き日本」「島国日本」の江戸時代200年が形成されてゆく。後述する。


2020年9月5日「ウィリアム・アダムスの江戸屋敷跡を探す」

2020年7月12日「世界史」と「日本史」の遭遇

2009年12月28日「ウィリアム・アダムスの生きた時代」


ウィリアム・アダムス(三浦按針)像


「Will Adams」
William Dalton 著1861年
小説として出版された
史実に基づいた伝記というよりは物語としての面白さを重視している


家康(左)に拝謁するアダムス(右)
跪いているのは通訳のイエズス会宣教師
アダムス等を海賊だから処刑すべきと主張した


「Samurai William 」2002
Giles Milton著2002年
映画化されたジェームス・クラベルの「Shogun」よりははるかに歴史資料を読み込み、史実に忠実であろうとした力作である。邦訳版もある。


リーフデ号の軌跡

長崎ハウステンボスの復元リーフデ号


(5)トマス・キャベンディッシュ艦隊の世界一周航海とイギリスに行った最初の日本人

おそらく、アダムスがオランダの世界一周プロジェクトであるマフー艦隊に参加する動機となったのが、1588年のこのイギリス・キャベンディッシュ艦隊の快挙であっただろう。先述のように、イギリスは大国スペインに圧迫され、ビスケー湾から自由に外洋に出ることのできないでいた島国であった。しかし、こうした閉塞状況を打ち破るべく海外への進出を加速していった。海洋進出の基本モデルは「私掠船:privateer」。海軍力の不足を補完するものとして商船に敵国船の攻撃、略奪を許可するもの。すなわち先行するスペインやポルトガルの船舶を海上で襲撃、拿捕して積荷を奪い売り捌く。さらには海外植民地・プランテーションを襲って財物、資源を略奪する。したがって商船とは言っても武装しており、いわば「女王陛下公認の海賊」とも言える。こうした私掠船で活躍したのがフランシス・ドレイク(1540−1596)、ジョン・ホーキンス(1532−1595)、トーマス・キャベンディッシュ(1560−1592)である。中でもフランシス・ドレイクはゴールデン・ハインド号でイギリス人として初めて世界一周航海(1577年〜1580年)に成功した英雄/海賊で、アルマダ海戦でも艦隊を率いて大活躍してイギリスを勝利に導いた。この成功の陰に隠れて知名度が低いものの、キャベンディッシュ艦隊はイギリス人として2番目に世界一周航海を果たした(1586年〜1588年)ことで知られている。このキャベンディッシュ艦隊は、太平洋上でマニラを出てヌエバ・エスパーニャのアカプルコに向かうスペインのガレオン船サンタアナ号を拿捕し、大量の金と財物を略奪した。この襲撃は予想以上の大儲けで、女王エリザベス一世に多額の財物を献上し、莫大な配当を実現した。キャベンディッシュはナイトの称号を得た。この時、キャベンディッシュは、このスペイン船に乗船していた二人の日本人の若者と出会い、イギリスに連れ帰った。クリストファーとコスマスと呼ばれた日本人である。この二人がどのような出自の日本人なのかは不明であるが、当時20歳と16歳の若者で、日本語の読み書きができることが評価されて(当時は読み書きできることは貴重な能力であった)イギリスへ連行されている。それほど身分が高いわけではないが、日本人は将来の東アジア進出に備えた有益な「戦利品」であった。スペイン船には中国通のポルトガル人、フィリピン人の少年やマレー人、など様々な出身の船員が乗り組んでいた。その内、役に立ちそうな「人財」を拉致していったわけだ。

1588年9月、キャベンディッシュの旗艦デザイアー号はプリマスに凱旋帰国を果たした。この時、この二人の日本人もイギリスに上陸した。この2ヶ月前の1588年7月にはアルマダ海戦でイギリスのドレイク艦隊がスペインの無敵艦隊を破り、いやが上にもこの歴史的な勝利に湧き上がっていたタイミングであった。イギリスを挙げて世界に向けて進出する機運に満ち溢れたまさに絶頂期と言っても良いだろう。先述のようにウィリアム・アダムスもフランシス・ドレイク艦隊の補給船の船長としてアルマダ海戦に参戦しており、こうした時代の潮目の変化に「チャンスが巡ってきた」と興奮していたことであろう。

1584年には天正遣欧使節のニュースが、イギリスの聖職者で地理学者のリチャード・ハクルートを通じて本国に報告された。一行は1585年グレゴリウス13世に謁見し、この模様は全欧州に伝わった。1580年以前は、イギリスには中国や日本に関する情報はほとんどなく、スペインやポルトガル、イエズス会経由で入るわずかな情報でしか知ることがなかった。したがってキャベンディッシュが連れ帰った日本人は貴重であった。この年は、ウォルター・ローリーによりアメリカのバージニア植民地開拓が始まった年でもある。ホーキンス、ドレイクの活躍に続き、イギリスがヨーロッパの弱小な島国から世界へ雄飛する時期であった。さらには東洋、中国、日本への関心が高まっていた。そうしたタイミングでのキャベンディッシュ艦隊の凱旋帰国である。ハクルートはこの快挙を、「イギリス国民の主要航海記」第1巻の冒頭で取り上げ賛美している。そしてキャベンディッシュが「インド」(この頃はアジア全体が「インド」と捉えられていた)から連れてきた二人の日本人との出会いを感動的に記述している。「この日本人は珍しい東洋のことを英語で語ることができる。なんと感動的ではないか!」と。短期間に英語を習得し、流暢に喋る二人の日本人に驚いている様子がわかる。ちなみにこのキャベンディッシュの世界就航記は第3巻に収録されている。

こののちクリストファーとコスマスは、キャベンディッシュの部下となり、1591年の2度目の航海(キャベンディッシュ最後の航海)にも同行している。日本にも向かうつもりであったのだろうか。この航海日誌にこの二人の活動に関する記録があり、イギリス人やポルトガル人とともに乗組員として活躍していた日常の様子が記述されている。しかしブラジルのサントス攻撃に参加したところまでは記録があるがその後の消息については不明である。出港地のアイルランドへ戻った記録もない。まして日本に帰り着いた記録もない。英雄キャベンディッシュも厳しい航海の最中、大西洋上でドラマチックな人生を終えている。おそらく二人はブラジルで命を落としたのか。いや彼の地に根を張って逞しく生きていったと考えたい。あるいはそこからポルトガル船に乗って新たな航海に出たか。空想が膨らむ。

この頃は多くの日本人が海外へ出ているもとにも驚かされる。その事情はまちまちであった。一攫千金を狙う冒険商人である場合もあったが、戦乱や飢餓を避けたり(難民的な)、食いあぶれた敗軍のサムライ(浪人や野武士)であったり、あるいは日本を逃れたキリシタンであったり。当時は大量の日本人奴隷がポルトガル商人によって海外へ運ばれ、それをイエズス会も黙認した時代であった。秀吉が奴隷貿易禁止を命じたほどだ。その中には女子供もいたという。天正遣欧使節乗船の船にも日本人奴隷が乗せられていた記録がある。ともあれ様々な事情で海外に出て行った日本人の多くは倭寇になったり、傭兵となったり、下級船員として働かされたりであったようだ。その中にはポルトガル、スペイン、イギリス、オランダの船で世界を巡った日本人がいたことを、このキャベンディッシュ艦隊航海記は示唆している。

一方、まだ無名のアダムスが、このキャベンディッシュ艦隊の快挙に刺激されてオランダ船の航海士として東洋への航海に出たのは1598年のことである。このキャベンディッシュが連れ帰った日本人クリストファー、コスマスとアダムスが接触した形跡はないが、1588年9月にはテムズ川で凱旋航行パレードがあり、エリザベス1世他大勢の観客が艦隊を迎えたとある。この時に、世界周航の数々の成果の一つとして、珍しい東洋の異教徒としての日本人の若者が披露された可能性は高い。この頃アダムスは、アルマダ海戦から帰国直後であり、テムズ河畔のステプニーで結婚して居を構えていた。その勝利の余韻も冷めやらぬままにこの凱旋航行を見物した可能性は大いにある。まさに「イギリスに来た初めての日本人」と「日本に来た初めてのイギリス人」がロンドンのテムズ川に時間と空間を一瞬共有していたかもしれないと考えるとロマンチックだ。



トマス・キャベンディッシュ(1560〜1592年)


「イギリス国民の主要航海記」1〜3巻 1599〜1600年 リチャード・ハクルート編


(6)ジョン・セーリスの日本への航海

ウィリアム・アダムスの日本到達と、彼が日本の為政者、家康に重用されているというニュースは、アダムスの母国イギリスにも伝わっていた。この頃のイギリス東インド会社はバンタムに商館を構え、ポルトガルやオランダと競いながらモルッカ諸島の香辛料貿易に集中していた。しかし、彼らが本国から持ち込んだ毛織物を売り捌くためには、もっと寒冷な地へ赴かねばと考え日本に向かうことと企画していたという。アダムスの日本到達から10年、ようやく彼からの手紙がイギリス東インド会社総督トーマス・スマイス卿へ渡った。それは日本でのイギリスの交易開始を進言し、アダムスがその仲介を引き受けるとの内容であった。これに対しスマイス卿は「直ちに日本へ船を派遣し、商館を開設したい」と回答してよこした。アダムスはこの喜ばしい報告を駿府にいた家康に届け、イギリスとの交易について長い時間をかけて意見を交わしたと言われている。こうしてバンタムにいたジョン・セーリス:John Sarisが指揮官に指名されクローブ号:Cloveで平戸へ向かうこととなった

クローブ号は1613年、平戸に入港。セーリスとアダムスの感動的な対面が実現した。アダムスはクローブ号に九発の祝砲で迎られ、13年ぶりに会うイギリス人同胞に大歓迎を受けた。しかし、セーリスは、イギリスの同胞とようやく会えたことをアダムスはもっと歓喜するだろうと考えていたが、少し期待が外れたようだった。アダムスは懐かしい故国のことよりも、日本のことばかり話した。あまり日本を称賛するのでアダムスは日本に帰化したのだとさえ思った。また貿易の話に入り、積荷の毛織物はオランダ人とスペイン人が大量に持ち込んでいるので価格が暴落していること、香辛料は日本では期待されていないことなど、扱い物資に関する意見を伝えた。これはセーリスの期待を裏切る答えだった。セーリスのアダムスに対する、長年異国で苦労してきたであろう同胞への労りと敬意の表明に対しても実にそっけなかった。アダムスは故国への懐かしさよりも現在の日本における彼の立場(家康からの禄を食むサムライであること)と、一方で母国の価値観にとらわれない「自由人」としての振る舞いを重視した。愛国心や形式的な敬意を苦手とする彼の態度にもセーリスとの生い立ちの違いがあるように思える。どうもこの辺りから、国王陛下の代理人たる威厳を重視するセーリスと相容れないアダムスの性格上の違い明らかになっていったようだ。また、アダムスが、競争相手のオランダ人や宿敵であるはずのスペイン人、ポルトガル人の商人とも親しく付き合っていたことにもセーリスは違和感を覚えた。アダムスは商売上の関係を愛国心に優先させたし、友人を大事にした。セーリスはそれでも日本での交易を成功させるためには彼の支援が必要であった。

駿府参府。イングランド国王ジェームス1世の親書を携えて大御所家康との謁見。この時セーリスは家康に直接国王の親書を手渡そうとした。しかし、それはできないとアダムスから嗜められてセーリスが怒り出す。彼はイギリス国王の体面を守ろうとしたのに対し、アダムスは家康への儀礼を守ろうとした。結果的には側近の本田正純がセーリスの手から親書を奪い取って家康の渡したことでその場は収まった。ここでもセーリスにアダムスに対する不信感が募った。彼はどちらの立場に立っているのかと。そんなプロトコル上のいざこざはあったが、アダムスは家康のジェームス一世の親書を翻訳して説明、大変に好意的な内容であることに家康は大いに満足した。アダムスの言語能力だけでない異文化間の情報伝達能力の高さを示した。家康はセーリスを歓迎し、朱印状を交付する(正式国交と貿易許可)。アダムスの尽力によりオランダに続き、イギリスも日本との交易関係を樹立することができた。

こうしてセーリスの日本訪問はアダムスのおかげで成功し、目的を達することができた。もっともアダムスは、先述のような理由(北回り航路構想)があって、平戸よりも江戸に近い浦賀にイギリス商館開設を提案したが、実現しなかった。その理由はいろいろ言われているが、一つは平戸の藩主松浦公が強力な誘致工作をしたからとも言われている。ともあれ、セーリスにとってはまず来航目的を達成できたわけだが、アダムスとの不和はますます広がっていった。セーリスはクローブ号にアダムスの帰国用の船室が用意されていることを告げるが、アダムスはこれを拒否して帰国しなかった。 日本のサムライになったアダムス、三浦按針とイギリス王室代表のセーリスという、お互いの立場と性格の相違によるすれ違いが明確になった瞬間であった。1614年、セーリスは、リチャード.コックスを平戸の初代イギリス商館長として、リチャード・ウィッカム(江戸、駿府駐在)、ウィリアム・イートン(京都、大坂、堺駐在)を商館員として日本に残してバンタムに向け出港していった。この時平戸で15名の日本人乗組員を雇用し、イギリスのプリマスまで連れていったと記録されている。やがて彼らは日本に戻ったとされているが、その詳細や以降の消息は記録が残っておらずわかっていない。セーリスはこの後二度と日本に来ることはなかった。この日本への航海で大きな富を得たセーリスは、ロンドンのフラムに居を構え晩年を過ごし、1643年、ここで人生を終えた。彼の墓はオール・セイント教会にある。

しかし、イギリスにとってその後の対日交易の現実はなかなか厳しいものであった。イギリス東インド会社は平戸に商館を開いたものの、日本での商談は進まず利益を上げることができなかった。1623年、結局わずか10年でイギリスは平戸商館を閉鎖し、日本から撤退した。さらにはアンボイナ事件によるオランダとの対立が激化し、イギリスの東インドからの撤退と続く。以降、イギリスはアジアではインド、ビルマ、マレーに集中、あるいは北米植民地、アフリカに集中。オランダは東インド(インドネシア)、日本と、両国の棲み分けがなされることとなる。



ハクルート協会叢書
The Vayage of John Saris to Japan
アーネスト・サトウ編

1900年版の表紙
明治のイギリス公使アーネスト・サトウの編集による


ジョン・セーリスのサイン


オランダ人リンスホーテン「東方案内記」の東インド地図を利用している(南北が左右に)

日本の拡大図 
Firando(平戸)が見える



(7)その後のイギリスの日本遠征(リターン号来航)

結局、イギリスはウィリアム・アダムスという稀有な人材を日本に見出すという僥倖に恵まれたにも関わらず、それを十分に生かすことができず、オランダとの競争に敗れ、1623年には日本から撤退していった。その後、日本再進出計画が持ち上がったものの実現せしなかった。一方、17世紀後半に入るとヨーロッパでは英蘭関係に大きな変化が生じていた。すなわち、オランダとイギリスが貿易利権拡大をめぐり関係が悪化。ついには1651年開戦、そしてイギリス優位のうちに1654年に講和。さらにその後も1665〜67年、1672〜74年と3次にわたる戦争で、オランダの海上覇権は揺らいで行った。そんな中、オランが独占的地位を占めていた対日貿易に、イギリスが再び参入を試みる。1673年にイギリス東インド会社のリターン号:Return(帰ってきたイギリス船!)が長崎に入港。船長のサイモン・デルボー:Simon Delboeは国王チャールズ2世の親書を携えて貿易再開を求めた。長崎奉行岡野貞明は、ポルトガルやスペイン船ではないことからこれを受け取り、江戸の幕府に上申する。しかし詮議の末、大老酒井忠清はこれを拒絶。以降のイギリス船の渡航も禁止する旨伝達してきた。その理由としてはイギリス国王チャールズ2世がポルトガルの王女カタリナと婚姻関係にあることが挙げられている(「オランダ風説書」により、イギリスに関する情報が入っていた)。また、家康の朱印状にもかかわらずイギリスが一方的に交易関係を破棄したことへの抗議とも考えられている。いずれにせよ、長崎奉行から拒否回答を通告されたサイモン・デルボーのリーターン号は、長崎を出港していった。その後、幕末のエルギン卿使節団来航まで、180年余りイギリス船が公式に日本に現れることはなかった。ちなみに、この時の幕府からイギリス側への質問と回答の記録が日英双方に残っている。また、このやりとり(Q&A)の詳細を、のちのアメリカ艦隊のペリーは、日本への渡航の前に綿密に研究しており、その過程が「ペリー艦隊日本遠征記」に記録されている。

日英関係は以降何の進展もないまま、ジョン・セーリス来航から240年ほどの時が経過する。幕末には新興国のアメリカに日本の開国交渉で先を越され、通商条約でも後塵を拝することとなる。しかし、そんな日本側からの視点ではまるで敗者に見えるイギリスも、彼らの側から見ると全く違った歴史が見えてくる。すなわち、17世紀後半からは、北米植民地の開拓、オーストラリアの探検、アフリカ植民地支配、インド植民地化、ビルマ、マレーを手中におさめ、やがて中国へと食指を伸ばすなど、「七つの海を支配する」大英帝国を建設する。そして19世紀ビクトリア朝にその最盛期を迎える「パクスブリタニカの時代」である。スペインやポルトガル、オランダも凌駕して海洋帝国の覇者となった。彼らにとってもはや極東の日本は、ほぼ眼中には無くなってしまっていた違いない。オランダは、その後ナポレオン戦争の時にフランスに占領されその支配下に入り、また一時、海外植民地をイギリスに奪われるが、ナポレオン没落後には返還される。オランダ海洋帝国は東インド(すなわちインドネシア)を植民地として確保し、長崎出島を拠点として維持し独占的な活動を続けるが、その勢いは大きく削がれていった。その日本は、グローバルビジョナリー・リーダー、家康を失い、その後継者は、皮肉にも「鎖国」は「祖法(神君家康公の法?)」であるとして、200余年の眠りにつくことを選択する。あのファースト・コンタクトの時代、とりわけ家康が力を入れた海外戦略展開という事績、歴史の記憶は抹殺されてしまう。こうして幕末を迎え、ロシアの蝦夷出没、新興国アメリカの「黒船」来航に驚き、ふと目覚めて辺りを見回すと世界の景色はすっかり様変わりしていた。イギリスは中国に迫り、日本の脅威(攘夷の対象)としての姿で現れる。しかし明治維新後は、新政府の近代化を支援し、領土的な野心を剥き出しにするロシア帝国を共通の仮想敵とする新生日本の同盟国となった。この間、家康は「鎖国」をリードした保守的な権力者として、そのプロフィールは塗り替えられ、ウィリアム・アダムスは日欧の歴史から忘れられた存在になっていた。彼の名前が人々に再び思い出されるのは、このセカンド・コンタクトの時代、すなわち幕末/明治になってからのことだ。横浜在住のイギリス人ジャーナリスト、ジョン・レディー・ブラックが「伝説のイギリス人さむらい」ウィリアム・アダムス(三浦按針)の軌跡を辿り、横須賀の逸見に彼の墓を見出した時に始まる。江戸日本橋の「あんじんちょう」は、「異人のあんじんさんが住んでいたところだった。それがウィリアム・アダムスだったわけか」と再認識される。こうしてあの時のファースト・コンタクトの時代が蘇ることとなる。


参考図書:

「リーフデ号の人々」ー忘れられた船員たちー 森良和著 学文社

「ウィリアム・アダムス」ー家康に愛された男・三浦按針ー フレデリック・クレインス著 ちくま新書

「三浦按針11通の手紙」田中丸栄子 企画編集 長崎新聞社

「日英関係史」1600〜1868 横浜開港資料館 編集 原書房