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2024年8月28日水曜日

品川歴史館リニューアルオープン!〜新設された「モース・ライブラリー」がおすすめ〜

 

新設された「モース・ライブラリー」

モース博士の原点 腕足類二枚貝の標本

日本庭園を見渡せる


品川歴史館は、関東大震災後に安田財閥の安田善助邸として開かれた屋敷跡。戦後は電通の吉田秀雄邸や、その後記念館を経て、昭和60年に品川区立の歴史館として開館した。その品川歴史館がこの度大幅に改修されて、4月にリニューアル・オープンとなった。今回、常設展示もリニューアルされ、これまでのモース博士の大森貝塚関連の展示や、品川宿のジオラマ展示がメインから、大森貝塚に代表される縄文時代の出土品から始まり、江戸時代の品川宿の繁栄ぶり、仏教寺院関連の文化財、明治の殖産興業の遺構など、系統的でより歴史の流れに即した時系列展示に入れ替わった。さらに特筆すべきはエドワード・モース博士を記念するライブラリー「モース・ライブラリー」が新設されたことだ。モース博士の肖像写真と業績を顕彰する資料(腕足類二枚貝標本も展示されている)の展示はもとより、博士に関する図書、大森貝塚を中心とした考古学著作、資料が保管/展示されている。ただ、以前あったモース博士の代表著作「Japan Day by Day」などの英文原著の展示が見当たらない。どこかへ仕舞われてしまったのだろうか。書架に並んでいるのは和訳されたものばかりで少々物足りない。また、膨大な日本の民俗資料(モースコレクション)を収めているマサチューセッツ州セーラムのピーボディー・エセックス・ミュージアム関連の展示もない。モースは帰国に際し、大森貝塚関連考古学資料と収集した書籍の大半を東京帝国大学に寄付し、現在は東京大学総合研究博物館所蔵、あるいは大学図書館所蔵となっている。したがって残念ながら品川歴史館に保存されているものはごく限られているのだろう。今後の収集と内容の充実を期待したい。

ここには安田善助邸時代の遺構である書院と庭園、そして茶室「松滴庵」が遺されている。今でも区民に開放されていて茶会などのコミュニティー・イベントに使われている。庭園には珍しい水琴窟もあり、その涼やかな音色を楽しむこともできる。美しい日本庭園を望む図書室で、ゆっくり書籍に親しみ、モース博士の業績に思いを馳せながら過ごす体験は至福の時間である。池上通りを鹿嶋神社の杜を左に見ながら、大森方面に少し歩くと「大森貝塚遺跡庭園」もあり、お散歩コースとしても魅力的だ。品川区民としては、近くにまた良い居場所ができたことは嬉しい。



2019年11月6日「安田善助邸、松滴庵」探訪

2021年9月5日「古書をめぐる旅(13):モース博士著「Japan Day by Day」

 2023年12月30日「古書をめぐる旅(42)モース博士著「Japanese Houses and Their Surroundings」



池上通り側の外観

展示内容も一新


夏休み最後の週、小学生が見学に

茶室「松滴庵」





書院


水琴窟


2024年8月15日木曜日

終戦から79年目の夏〜今年もまた酷暑と台風の終戦記念日〜

 



今年も終戦の日がやってきた。79年目の夏である。先の大戦で亡くなられた方々の霊に哀悼の誠を捧げたい。今年の終戦の日は、1ヶ月以上続く猛暑と日向沖地震とそれに続く南海トラフ警戒警報騒ぎ、そして台風の首都圏直撃か?という自然の猛威の中で戦没者追悼式が行われた。去年の8月15日のブログを見たら、ほぼ去年も同じ猛暑と台風下の式典という事情であったことが記されている。年齢を重ねると忘れっぽくなるが、こうした地球温暖化による異常気象が常態化しつつあることに気付かされる。この時期になるといつも戦争に関する反省が繰り返される。誰もが「戦争だけは絶対にいかん!」とお題目のように唱えるが、問題解決への道のりは、戦後79年も経っているのに程遠い。世界は戦争が常態化し始めている。カントは『永久平和論』で「人類の歴史において平和が常態で戦争が非常態なのではない。戦争こそ常態であった」と述べている。平和状態がデフォルトではなく、それは努力しないと維持できないのだと。今年の長崎の原爆死没者慰霊祭には原爆を落としたアメリカとヨーロッパ4カ国の大使は出席しなかった。式典にロシアを呼ばなかったのは良いが、イスラエルを呼ばなかったのはいかん!と。あっちは侵略だが、こっちは自衛だから、と。戦争は皆自衛のため、正義のためという。この戦争は侵略のための戦争だなどとは誰も言わない。ここでは正義とは相対的なものだ。人道主義は地に落ちた。民主主義は危機に瀕しているし、核の脅威はさらに現実のものとなっている。

日本のリーダー、責任者不在の意思決定プロセスという組織風土も相変わらずである。今年はその典型的な出来事があった。終戦の日の前日、岸田首相が突然、次期自民党総裁選挙には出馬しないことを表明した。この突然の退陣発表で、自民党の中でも大混乱しているらしいが、早速それなら次は私が俺が、が出て来て騒がしい。一国のリーダーとして責任を最後まで取る気概はあるのか。岸田氏の退陣は、安倍前首相の暗殺で、自民党のカルト集団旧統一教会とズブズブの関係が露呈し、さらに派閥ごとの政治資金の裏金横流しの常態化という金まみれの自民党の実態が白日の下に晒され、ついに岸田内閣の支持率は20%を切ってしまった責任をとる形だ。しかし、岸田氏が総裁を辞めたからと言って、自民党が変わるのだろうか。日本の政治が主権者である国民の付託に応えうるものになるのだろう。自民党内部のロジックでまた総裁が決まる。分裂した野党には政権担当能力がない。戦局が悪化して本土が米軍の空襲で脅かされるようになったので責任をとる、として内閣総辞職した東條英機首相を思い出す。「責任を取って辞める」は、ある意味「投げ出す」のと同じだ。反省していない。あるいは反省はしているが反省にはなっていない。責任者はいるが責任はとっていない。これが日本のリーダーの姿と組織風土だ。

そんな今年の終戦の日。戦没310万同胞は彼岸でどのように思っているだろう。今の日本、再び「やむをえず」「仕方なく」戦争に突き進んだ戦前の時代を繰り返すような予感がする。あの時、ずるずると起きてしまった戦争を収束する決断力も行動力もない。明らかに継戦能力が壊滅したにも関わらず、一億総特攻とか一撃講和とか言って戦争を止めようとしなかったのはなぜか。また1945年6月22日に終戦の聖断が下されたにもかかわらず、無条件降伏が8月15日まで引きずったのはなぜか。この2ヶ月の逡巡の間に原子爆弾が広島、長崎に落とされ、和平交渉の仲介を期待したソ連が中立条約を破って満州に侵攻し、連日の本土の無差別都市空襲が繰り返された。死ななくてもよかったはずの人が何十万人もこの間に死んだ。誰も戦争をやる決断もしないが止める決断もしない。その総括はしたのだろうか。声のでかい奴が勝つ。他は沈黙して声を上げない。そしてその声のでかい奴は責任を取らない。沈黙した奴らは、悪いのはあいつだ!と指をさし、沈黙の責任を取らない。結局は原爆とかソ連参戦といった外部条件(外圧)によって意思決定が促されないと(追い詰められないと)決めない。「待機主義」「傍観主義」である。だからアメリカの歴史教科書では今でも「原爆投下」が戦争を終わらせたのだと書かれている。戦争を始めた軍部や戦争を止めなかった政府は自ら終戦の意思決定せず、最後は天皇の聖断を持ち出す。外圧や超越的権威がないと動かない。しかも意思決定プロセスにおける国民不在が決定的だ。いや「国体護持」が、日本側のポツダム宣言受諾の唯一の条件であったことは、権威主義が民主主義を凌駕していたことの証左であろう。戦後はマッカーサーが天皇を上回る超越的権威・権力であり全てを決める。「国民主権」を謳う日本国憲法は「マッカーサーに押し付けられた憲法」だと言う人がいるが、あの時日本人が民主的な憲法を自らの手で生み出し得たのか。戦後79年、様々な幸甚が重なり、日本は戦争に巻き込まれなかったし、急速な経済成長で明治維新以来念願の「一等国」になったが、そのバブル終焉もあっけないほど早かった。どこかに「あの時の不安」が息を潜めて潜んでいるような予感がする。それはある時突然表に現れる。国が経済的に潤っているときは良いが、その富の分配が国民全てに行き渡らなくなると話は変わってくる。

「この道はいつか来た道」


2024年8月10日土曜日

古書をめぐる旅(54)『フランシス・ベーコン書簡集』(1) 〜偉大なる哲学者と卑しむべき政治家〜

『ベーコン書簡集:Letters of Sir Francis Bacon』1702年初版

ジェームス1世治世時代の書簡集

国王ウィリアム3世への献辞


『学問の発展:Advancement of Learning』1605年初版 

1829年刊
"Dove's English Classics"シリーズとして刊行された小型本



美しい革装の手帳サイズ小型本

Sir Francis Bacon (1561~1626)  (Wikipediaより)
1618年大法官就任の頃の肖像か


「偉大なる哲学者」ベーコン:

 フランシス・ベーコン:Sir Francis Bacon(1561〜1626)は、ルネ・デカルト:Rene Descartes(1596〜1650)と共に17世紀を代表する哲学者である。「知識は力なり:Scientia est potentia:Knowledge is power」という言葉で知られるイギリス経験主義哲学の祖、そして科学の父である。自然の動きを観察、思索し、そこから導き出される知識を理性の道具として実利に活用する。すなわち実験や観察を用いた科学研究の重要性を説いた。そうした外部から得られる経験知、そこから真理を引き出すという帰納法による認識論を出発点とする経験論哲学の祖である。ベーコンは近代哲学と科学の発展に大きな影響を与え、ホッブス、ロック、ヒューム、ニュートン、スミスなどイギリス啓蒙主義思想の源流ともいうべき人物である。中でもロックはベーコンの経験主義哲学を体系化した(2024年2月10日ジョン・ロック全集)。ベーコンの代表的な著作に『学問の進化』1605年、『随想録』1612年、『ノヴム・オルガヌム』1620年、没後に発表された『アトランティス』1627年、などがある。また、ベーコンは生前にその知の体系化に挑んだが未完であった。しかしその挑戦はのちのボルテールやディドロなどの百科全書派に影響を与えた。一方のデカルトは絶対的な真理を求めるために全てを疑ったのちに残るもののみを真理とした。代表的な著作が『方法的懐疑』である。「我思う故に我あり:Cogito ergo sum」という有名な言葉に代表されるように人間の内なる理性を出発点とする演繹法による合理論哲学の始祖とされる。しかしどちらも真理の認識の根源を、中世のスコラ哲学的な『神の摂理』や『信仰』という人間の外的権威ではなく、『理性』や『感覚』という人間自身の内面に見出した。こうして真理の認識が宗教の呪縛を脱し、近代哲学、科学が始まった。そういう意味でもベーコンは17世紀イギリスが産んだ、世界を変えた『偉大なる哲学者』である。


ベーコンのもう一つの顔とは?:

しかし、ベーコンにはもう一つの顔がある。それは絶対王政時代のエリザベス一世、ジェームス一世の側近にして大法官まで上り詰めた宮廷官僚、極めて世俗的な政治家としてのそれである。イギリス絶対王権からイギリス革命へと向かう激動の時代、王位継承闘争、カトリックと国教会とピューリタンの血みどろの戦い、コモン・ローと議会と王権の戦いの中で、徹底して王権に追従する毀誉褒貶の多い政治家であった。最後は汚職の罪でロンドン塔へ送られ解任される。

ベーコンは、熱心なプロテスタントの家庭に生まれ、父はニコラス・ベーコンで、ヘンリー8世、エリザベス1世の国璽尚書、大法官という宮廷の高官を務め、母は名門貴族出身でカルバン主義のプロテスタント。いわば二世政治家である。ケンブリッジのキングスカレッジに進むがギリシャ哲学より自然研究に傾倒し中途退学。法律家になるためにグレイ法曹学院へ。在籍中に駐フランス大使に伴われ、フランスに3年滞在。帰国して法律家になり、23歳でエリザベス女王治世下で下院議員となる。女王の側近の一人秘書官フランシス・ウォルシンガムの下で諜報活動に携わる。やがて女王の寵臣エセックス伯爵の庇護を受け顧問となるが、1601年にエセックス伯が失脚して処刑されると、一転してエセックス伯を断罪する側に回る。しかしエリザベス治世時代には議会における失策で女王の不興を買い出世できなかった。1603年、スコットランド王であったスチュワート家のジェームス6世がイングランド王に即位してジェームス1世になると今度は、この王権神授説を唱えカトリックの王に取り入ろうとする。スコットランドからやって来てイングランドで半ば孤立していたジェームス1世の熱心なサポーターとなった。ベーコンは国王大権を重視する絶対王政擁護の立場に立ち、絶対君主で啓蒙君主がベーコンの法律家たちに支えられる体制が一番効率的であると考えた。しかしこの主張は非現実的であまり広く受け入れられたとは言えない(ウィンストン・チャーチル「英語諸国民の歴史」)。ベーコンは、コモン・ローによる「法の支配」、議会を重視するエドワード・コークという政敵と対立した。やがてコークを司法界から追い落とすと1618年には最高位の大法官(Lord High Chancellor)に任ぜられ、ヴェラム男爵に。続いて1621年にはセント・オルバンス子爵に叙任され国王の寵臣となって出世する。しかし、同年に議会から汚職の罪で告発され、罰金、ロンドン塔送り、公職追放、たった3年で大法官解任となる。国王の救済により4日で出獄するが、公務に復帰することなく閑居して執筆活動や科学実験に没頭した。ある雪の日にロンドン・ハイゲートで帰宅途中、鶏肉を雪の中で保存できないかという実験を思いつき、その場で地元の農夫から鳥を買ってきて実験した。その時の風邪がもとで1626年にこの世を去った。あくなき探究心と実践の人であったというエピソードとして後世に伝えられている。哲学者ベーコンの実業は宮廷官僚、法務官僚、政治家であった。


「卑しむべき政治家」?:「ベーコン書簡集」に見る彼の実像

こうしたベーコンの徹底して王権に追従する姿勢と、終生猟官運動に身をやつした世俗的な功利主義者としての生き様を窺い知る資料の一つに、今回紹介する『ベーコン書簡集』がある。この「書簡集」は王室歴史家のRobert Stephens(1665-1733)によって、ジェームス1世治世下の宮廷官僚ベーコンの手紙やメモが採録編纂され、没後76年の1702年に初めて公開、出版されたものである。ベーコンは前述のように、後世に影響を与えた著名な著作を多く残しているが、この1702年初版の書簡集は意外にもあまり取り上げられる事が少なく、極めて貴重な古書である。彼の思想を知る上だけでなく、当時のイングランドの政治情勢、イギリス法の成り立ちとその後の『イギリス革命』につながる時代背景を知る史料としても貴重なものである。また興味深いのは、本書は『名誉革命』後の立憲君主制の時代に上梓されたもので、オランダからイングランド王位についた国王ウィリアム3世への献辞がある。ベーコンの書簡やメモを振り返って、これまでのイングランド王室の事績を知り、現在、未来を考える参考になるものと信じる旨の言葉が添えてある。出版のタイミングと、この献辞の存在により、この書簡集の歴史的価値が明確になる(ちなみにウィリアム3世の死去に伴い、この献辞を取り除いた版があるようだ)。そこにはベーコンの国王ジェームス1世や国王の寵臣バッキンガム公など宮廷諸侯に対する、国政や法律、人事に関するさまざまな意見やアドバイスなどが書簡や覚書の形で記録されていている。政敵であるエドワード・コークへの手紙も掲載されていて興味深い。しかし、その行間ににじむのは、彼の哲学思想に通底する『知識は力なり』の意は、政治思想的には「知識(知性・理性)を持った人物(王)が力(権力)を持たねばならない」という絶対王権の擁護(啓蒙君主への期待を含め)の論理に見えてしまう。そのベーコンの姿は、偉大なる哲学者のイメージというより、国王への追従と処世術にたけた世俗の政治家、法律家というイメージである。また、1605年に国王ジェームス1世に献呈された『学問の発展』:Advancement of Learningにも、科学の発展に如何にジェームス1世のような英邁かつ開明的な国王が貢献しているか、を繰り返し強調するなど、ここでもとめどなく王権にへつらう姿が見える。こうしたベーコンの姿勢を、「最も輝ける、最も賢明な人物、そして最も卑しむべき人物」と、イギリスが誇る詩人で風刺家のアレキサンダー・ポープは評している。現代でもこのポープの評価が定着しているようで、日本における政治思想研究者である原田鋼も、ベーコンの人物像を「科学的思索力と世俗的な適応力との間のズレをこれほど顕著に示した思想家は数少ないであろう」と評している(『西洋政治思想史』)。近代哲学・科学の祖とは言え、日本ではデカルトほどの人気がないのはこのせいなのであろうか。また、ヘンリー8世時代、1529年に処刑された大法官トマス・モアが、国王権力に対してコモン・ローの独立を主張した硬骨漢として歴史に名を残し、支配階級トップの大法官という地位にありながら、庶民的な視点とヒューマンな精神を失わなかったとの評価に比べ、どう見てもベーコンは道徳的に優れた人物には見えない。偉大なる哲学者」、「卑しむべき政治家」。どちらもベーコンの実像であるが、この両者に矛盾はあるのだろうか。バートランド・ラッセルは、「ベーコンは当時の人物としては特に他者に比べて劣った人物であったわけでないし、かといって優れた人物であったわけでもない。言ってみれば道徳的には普通の人物であった」(『西洋哲学史』)と評している。当時の宮廷内では王権へのへつらいや政敵を貶める陰謀、賄賂など普通のことであったから、それだけで特に卑しむべき人物というわけではないということのようだ。ただラッセルは、ベーコンのこうした極めて世俗的な政治家としての生き方が、ベーコンの哲学者としての功績に一定の影響を及ぼしたと批判的評価をしている。ラッセルはベーコンの主治医で血液循環論を打ち立てたハーヴェイの「彼は大法官のように哲学を書いている」という言葉を引用し、「ベーコンが世俗的な成功に対する関心がもう少し無かったら、哲学者としてもっと優れたことがやれたであろう」と評している。


魔術から科学へ:

実はベーコンという人物は今なお謎に満ちたところがある。シェークスピアはベーコンのペンネームであるとか、『薔薇十字団』という秘密結社の会員として暗躍したとか、ハイゲートの実験の時の風邪で死んだのではなく、生きて密かにドイツへ逃亡した、といった伝承がまことしやかに語られている。これは彼が生きた時代は、暗い中世から光溢れるルネッサンス、そして科学的合理性の近代への通過地点で、ベーコンのような知性が経験した複雑で矛盾に満ちた『境界の時代』であったという背景を理解する必要がある。ラッセルの批判にこういうのがある。「ベーコンは学問の進化の中で数学を十分に説いていない。あえて避けているようである。また科学的アプローチを重視したが、当時科学がなしつつある多くのものを見落としている。コペルニクスを無視し、ケプラーすら無視している。これは科学に対する怠慢である」(『西洋哲学史』)と。経験論(実験、観察による)と数学という哲学的問題が潜んでいるが、実は17世紀初頭のイギリス社会はまだ『魔女狩り』が盛んに行われていた。ともすれば科学が錬金術と同義であったり、数学が占星術や魔術と同一視されたルネッサンス期の考えを引きずっていた時代であった。まさにベーコンが開こうとした『魔術から科学へ』の時代の前夜であった。彼が仕える国王ジェームス一世も、即位前に「悪魔論」1598年を著して『魔女狩り』や『火焙り刑』を支持していた。さらに神の意思による王権の絶対性を主張する『王権神授説』(フィルマーが唱導し、ロックが「政府二論」で批判した)の信奉者でもあった。こうした時代の空気の中、知識人や思想家が魔術や妖術と関わることを避け、そのような嫌疑をかけられることを恐れた。ベーコンはそんな『魔女狩りパラノイア』が蔓延する17世紀初頭のイギリスで科学的学問の進歩の重要性、人間の理性に基づく真理を説いたのだが、それには多くの困難と危険が伴い、その中で慎重に進めなければならなかったに違いない。まして国王に追従する廷臣としては、処世術としてもその言動には慎重を期したことだろう。ベーコンの汚職の告発と投獄、大法官解任は、身内優先、情実政治で議会の反発を受けていた国王の寵臣、バッキンガム公の宮廷内のスキャンダルのスケープゴートにされたものであるが、こうした「魔術から科学へ」というセンシティヴなコンテクストの中で理解すべきであるとする見解もある。しかし、ベーコンが世俗の処世リスクを恐れず果敢にそのような妄執の時代に挑戦していたら、「科学への怠慢」とか「道徳的には普通の人物」とか「哲学者としてもっと優れたことがやれたはず」などというラッセルの批判は受けなかったことだろう。ベーコンは、彼の代表的著作『ノヴム・オルガヌム』の中で、『知識』こそが『イドラ』(偶像)、すなわち間違った先入観や妄想を排除して真理にたどり着く源泉である、とした経験論哲学を唱導したにもかかわらず、彼自身が『イドラ』に取り囲まれ、脅かされて、それに沈黙を強いられた人物になってしまった。


ロンドン塔投獄は偉人への道?:

このように偉大なる哲学者であるベーコンの実人生は、宮廷官僚、政治家として王権力への追従と、政敵との争いという世俗の垢にまみれたものであったのだが、世俗の混沌の中でもがいた人物は彼だけではない。以前のブログ(2022年9月12日ウォルター・ローリーのエッセイ集で紹介したウォルター・ローリー:Walter Reighleyも、同じ時代を生きた廷臣の一人である。ローリーは政敵やスペイン大使の讒言によりロンドン塔に13年間幽閉され、その獄中で『世界史』(History of the World)や論考集などの後世に残る名著を書いている。またロンドン塔内にマラリアの治療薬を開発するために実験施設を設け研究に勤しんだ。科学の時代の到来を示唆するエピソードを残している。それは彼の新大陸植民地開拓にかけた情熱の冒険者、宮廷における知性、詩人として人望を集めた実人生の集大成ともいうべきものであった。断頭台に立ったローリーは、首切り役人に斧を見せるよう求めて、「よくキレる斧は劇薬だが、全ての病を解決してくれる」と述べて颯爽と冥界へ旅立った。その死刑執行はスペイン王の圧力によるものであったが、その適法性をイングランドのコモン・ローで根拠付けをしたのは他ならぬ法務長官ベーコンと主席判事コークであった。またベーコンに先立つ100年前にヘンリー8世のカトリック離脱に反対した、時の大法官トマス・モア:Thomas Moreは、コモン・ローの王権からの独立を主張し、大法官を辞任。国王の怒りをかい1529年に死刑判決を受けた。彼は従容として残虐な処刑に赴きつゆと消えた。モアは、先述のように大法官という宮廷官僚のトップに立つ高位高官であったにもかかわらず、庶民の目線を持ち続けたヒューマニストでもあった。人々が自由で平等に暮らす、社会主義的な理想国家「ユートピア」を描き出したことが彼の思想を表している。ベーコンも科学の発展した国、理想国家「アトランティス」を描いて見せたのは偶然ではないだろうが、モアとは違いその目線の先に絶対王権の安定以外の地平は見えていなかった。科学の発展は誰のものだと考えていたのか。王政復古後の専制的な王権に抵抗した啓蒙思想家でホイッグ党(議会派)の創始者の初代シャフツベリー卿:Lord Shaftesburyもロンドン塔へ送られ、保釈中にジョン・ロック:John Lockeと共にもオランダへ亡命し、やがて帰国して名誉革命に繋げた。ベーコンも政争に巻き込まれて、最後はロンドン塔に送られるが、日頃の国王への追従が効き、国王に救出されて3日で出獄している。絶対王権と闘いロンドン塔、断頭台、亡命、が後世に『偉人』と評価されるための通過儀礼だとすれば、ベーコンが王権に抵抗して亡命するか断頭台のつゆと消えていたら、もっと彼の評価が上がったのかもしれないというのは妄想だろうか。ちなみに彼の政敵、エドワード・コーク:Edward Cokeも絶対王権と戦い続け、失脚、ロンドン塔投獄ののち、1628年歴史的な「権利の請願:Petition of Right」を起草し、イギリス法制史、政治史に名を残した。当時はこのような血生臭い宮廷内の政治闘争の物語は枚挙にいとまがないが、その苛烈な人生を歩んだ人物が何を成し遂げ、後世にどのように評価されてきたかには違いがある。


脱線話 大伴家持のこと:

最後に話が脱線するが、偉人といえば思い起こすのは、日本の奈良時代における偉大なる万葉歌人、大伴家持のことである(2023年4月10日大伴家持と万葉集)。ベーコンの時代を遡ること900年前の人物であるが、彼は万葉集に多くの秀歌を残し、最終的には万葉集の集大成を行なった人物として歴史にその名が記憶されている。しかしその実人生は、名門の大伴一族の当主として、宮廷官僚として、皇位継承争いや藤原一族との激しい権力闘争に巻き込まれ、出世栄達、失脚、左遷、復活、そして死後の官位剥奪。そして復権という、これでもかという浮き沈みの激しい人生であった。ベーコンの場合との違いは、彼のような処世術にたけた政治家ではなく、むしろ宮廷権力闘争に翻弄されつつも、隠忍自重して一族の名誉と国家的な文化遺産だけは守り通した点であろう。しかし、ベーコンにしても家持にしても、このような俗世における権力闘争や世渡り人生の中から、どうしてこのような世界に大きな影響を与えた哲学思想や、今なお心に響く文学作品が生まれるものなのだろうか。心身ともにストレスフルな日常から、しばし逃避し、哲学的思索に耽ったり、自然の観察や実験に没頭したり、詩歌の世界に身をゆだねたりすることは心のカタルシスを得る上でも必要なことであったのかもしれないと凡夫は思うのだが。不本意な失脚ののち、残された人生を思索と著作活動に当てることは波乱の人生を観照し総括する上でも有意義であろう。偉大なる思想や文学作品はそんな徒然のなせる技だったのか。それにしても人間はまだまだ不思議な存在だ。『偉大なる哲学者』と『卑しむべき政治家』という二面が一人の人格に具現する。経験論的にも合理論的にも認識し得ない真理があるようだ。西田幾多郎のいう、第三の認識、超理性的認識論による説明が必要なのか。ベーコンの人生は彼の経験論哲学、科学的手法、帰納法では説明できない。


参考文献:

この機会に学生時代の教科書や参考文献を引っ張り出してきて、50年ぶりに読み返してみた。学生時代には理解が及ばなかったことや、資本主義的合理性の中で実利を求めて駆け足で過ごし、世渡りに終始する社会人人生で、看過したり、取りこぼしてきたことが如何に多いことかとあらためて気付かされる。特にラッセルを読み返してみると、当時としても学生にとってはわかりやすい筆致で哲学を解説する書として人気があったが、そのわかりやすい文章の中に深淵なる真理が語られていることに気付かされる。読み物風に通読するのでなく、あらためて問題意識を持って熟読玩味したい。『パンのための学問』から離れて少しゆっくりこうした古典や歴史に触れる時間が持てることに感謝し勉強し直してみたい。ベーコンや大伴家持ほどではないが、誰の人生にもそれなりの波乱とストレスがあった訳だし、凡夫たる自分自身も彼等に倣って残された時間を先人の境地に立ち返り、知識を再整理し、思索し、駄文にまとめてみるのも悪くないだろう。「小人閑居して善を為さず」の所業となるかもしれないが。

西田幾多郎 『哲学概論』岩波書店 京大の哲学講義教科書

原田剛 『西洋政治思想史』学生社 これは学生時代の必読書であった

バートランド・ラッセル 市井三郎訳 『西洋哲学史』みすず書房 当時一番影響を受けたイギリスの哲学者

この「ベーコン書簡集」:Letters of Sir Francis Bacon 1702年刊行の初版は、ネットで検索してもヒットしない。現在古書市場ではなかなか見当たらない。かつて米国の古書店で取り上げられたことがあるが現在では削除されているようだ。英米の大学図書館に「ベーコン書簡」として検索できるものはあるが、後の時代に編纂されたベーコン全集に収録されたものか、ほとんどが20世紀に入ってからの研究者による論文による引用だ。和訳本も見つからない。日本の大学図書館で1702年『書簡集』初版本を収蔵しているのは岡山大学図書館だけである(国立情報学研究所CiNii Books)。本書の稀覯性が気になる。