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2022年8月19日金曜日

品川駅と品川宿 〜今も昔もお江戸の玄関口〜

 

歌川広重「東海道五十三次・品川」


発展著しい品川駅。東海道新幹線の品川駅が開業して久しいが、それに加えて現在2027年東京、名古屋間の開業を目指してリニア新幹線の品川駅が地下に工事中だ。また昨年は旧品川操車場内に「高輪ゲートウェー」駅も開業。地下鉄延伸計画も持ち上がるなど周辺の再開発が急ピッチで進み、新たな新都心になりつつある。この品川駅にまつわるウンチク話も面白い。まず品川駅の住所は品川区ではなく港区高輪であることはもはや周知の事であろう。これは明治の鉄道開業時に、品川宿を避けて、その北側の高輪に駅を設置することになったことに起因する。その際、高輪の薩摩藩邸や海軍施設を避け、高輪海岸を埋め立てて線路(高輪築堤)を通し「品川駅」をつくった。ではなぜ「高輪」駅でなく「品川」駅と命名したのか。もともと東海道の重要な宿駅である品川宿に新橋から最初の駅を設置するつもりであったため、品川宿の北の高輪を品川と称した。もう一つのウンチク話は、京浜急行で品川駅から各駅停車で南行して横浜方面へ向かうと、最初の駅は「北品川」である。待てよ、品川の南が北品川?!と違和感を感じた人も多いだろう。これは先ほどの「品川」駅開業の経緯と関係がある。すなわち京浜急行電鉄が開業したときに高輪にある「品川」駅を起点としたので、その南に位置する旧品川宿の北側入り口に「北品川」駅を設けた。「品川」駅の「北」という意味ではない。北品川は旧東海道第一番目の宿場町、品川宿の入り口に当たる歴史的にも由緒ある地名だ。

鉄道ウンチク話はこれくらいにして、品川宿の話に入ろう。旧東海道の品川宿は北から「品川歩行(かち)新宿」「品川北本宿」「品川南本宿」と三つの宿場が連なった宿場町であった。「歩行新宿」は、幕府による参勤交代の制、1601年の品川宿指定ののち、享保年間に拡大された新しい宿場地区で本陣は設けられなかった。北南双方には本陣が設けられていた(江戸中期には北本陣だけになった)。品川宿全体は、江戸末期には総戸数1600戸、人口7000人という大きな街であった。また宿場町というだけでなく、近くには桜の名所、御殿山もあり、江戸郊外の行楽地としても賑わった。幕府公認の遊郭も軒を連ねていて、吉原と共に岡場所として栄えた。また江戸前の魚や海苔が名産で、将軍家御用達や江戸町衆の台所ともいうべき「猟師(漁師)町」が海岸べりにあった。日本橋から二里という東海道第一番目の宿場町であったため、多くの歴史的な出来事を見てきたし、その舞台となった。忠臣蔵の物語のステージの一つとしても登場したし、幕末には、桜田門外ノ変の首謀者たちは北品川の旅籠(土蔵相模)に集まり決起した。その後、尊王攘夷の浪士たちもここに集結し、高輪に建設された英国公使館を焼き討ちにした。北品川は幕末動乱期の攘夷派の集結点であった。一方で新撰組は南品川品川寺山門前の幕府御用「釜屋」を定宿とし、戊辰戦争で敗走した新撰組は、ここを「品川屯所」と定め再起を図った。

明治に入り、1872年(明治5年)には徳川幕藩体制下の宿駅制が廃止となり、また新たに鉄道が開通して品川宿はその役割を終えた。明治以降はレンガ工場やガラス工場などが周辺にでき、旅籠やお茶屋跡であったところは工員の宿舎に転換されたり、その周辺は商店街として賑わった。戦後は、残っていた北品川の遊廓が売春防止法施行とともに廃止され、歓楽街としてのかつての賑わいはすっかり影をひそめる。今では東京にある普通の商店街になってしまっている。本陣や大きな宿や、水茶屋などの建物の遺構も消え去り、品川宿の面影をそこに見出すことは難しい。しかし、地元の商店街や有志方々の地道な活動で、品川宿ゆかりの歴史的なスポットや建物跡には案内板が整備され、街歩きを楽しむ人や歴史愛好家向けに休憩所や案内所も設置されている。建物や街の景観は失われたが、旧東海道の痕跡はその道幅に残されている。北品川から南品川、青物横丁、鮫洲、立会川、鈴ヶ森刑場までは、往時のままの道幅を今に残している。

品川宿を町としてみると興味深い構造をしている。本街道を一歩入ると。西側にはずらりと寺社が立ち並んでいる。東海寺や海晏寺といった将軍家にゆかりの大寺だけでなく、各宗派、大小の寺院、神社が軒を連ねており、さながら寺社町の様相を呈している。これは江戸の守りを固めるために東海道の玄関口に寺社を集めたことに始まる。大坂における大坂城防備に対する平野町や下寺町の役割と同様だ。また城南の桜の名所、御殿山へ向かう横道も残っている。元々は将軍家の御殿であったが、吉宗の時に庶民の行楽の場所として開放し、桜の季節には大勢の江戸っ子たちが御殿山で花見をして品川宿でどんちゃん騒ぎ、という行楽のスタイルを生み出した。さぞや賑わったことであろう。1853年の米艦隊ペリー来航を機に、江戸防衛が急務となり、品川沖に台場(砲台)を造成することになった。このため御殿山が切り崩されてその土砂が台場建設に使われた。品川宿に隣接する海岸にも台場(品川台場)が造成され、埋め立てられてしまった(現在の台場小学校あたり)。明治になると、先述のように鉄道建設のために、御殿山はさらに東西に開削されてしまい消滅する。品川宿も、先述の通り宿駅制廃止に伴い、かつての賑わいを失ってゆく。

今品川宿跡を歩くと、こうした往時の街の区割りがよく残っていることに気づく。東海道を軸にして東西に横丁が伸びており、一部は先述の寺社仏閣への参詣道になっている。この辺りの通りや横丁は今でも確認できる。また東海道はかつては海沿いに通っており品川宿の東は漁師町であった、しかし幕末のお台場建設や、明治期の工場用地埋め立て、港湾整備に伴い漁師町品川の面影も失われてゆく。戦後の高度経済成長期には品川沖は次々と埋め立てられて、天王洲アイルや品川シーサイドなどとして再開発も進み、すっかり品川宿は内陸の街になってしまった。もちろん京浜運河、天王洲運河のほか海は見えない。このように品川宿を歩くと、その道筋や区割りに往時を偲ぶことはできるが、以前訪れた鈴鹿の関宿のように、歴史的な街並みがまるでタイムカプセルのように現存し、そこに現代の日常生活が息づいているようなわけにはいかない。まして伝統的建物群保存地区(伝建地区)に指定されているわけでもない。何しろここは東京なのだから。スクラップアンドビルドが日常の街なのだから。心の中でかつての殷賑な街を妄想するしかない。メタバースの世界に蘇る歴史的景観になってしまうのだろう。


江戸切絵図(嘉永3年版)の東海道品川宿
品川歩行新宿、品川北本宿、品川南本宿の地名を見える

ケンペル「日本誌」に掲載されている東海道品川宿付近の地図(17世紀頃)
オランダ商館長の江戸参府に同行したケンペルが描いた
Takanawa, Shinagawa, Suzugamori,Omoriの記述が見える

開業間もない頃の品川駅(鉄道古写真集より)

(同上)


現在の品川駅

JR品川駅港南口
こちらは品川区だ

京浜急行「北品川」駅

旧東海道品川宿


品川北本宿の本陣跡



京都から江戸へ下った明治天皇もここを行在所としたことから
「聖蹟公園」と呼称されている。今は広場になっている


目黒川にかかる品川橋
品川北本宿と品川南本宿の境

南品川の青物横丁から鮫洲方面




建築物コレクション

ほとんどの古い町屋建築物は消滅しており、街並みはマンションとプレハブ建築が連なる今風の「商店街」の風情である。地域おこし活動で地元の人々が品川宿由来の場所に表示板を出したり、案内所や休憩所を設けて、訪問客をもてなしている。かろうじていくつかの古民家、町屋が残る。しかし江戸時代のものではなく、明治、大正、昭和初期のもの。多くは関東大震災後の防火建築、看板建築である。伝建地区指定もないので、建物の修景保存の補助金も出ない。資本の論理かまかり通る中での歴史的街並み保存がいかに困難な取り組みであるか思い知らされる。


昭和初期まであったという北品川「相模屋」いわゆる「土蔵相模」の古写真
(品川観光協会HPより)
その後ホテルとなっていたが、昭和50年に取り壊され現在はマンションとコンビニになった
尊王攘夷の志士たちの集結宿になっていたところで史跡となるべき建物であった

現在の「土蔵相模」跡(品川観光協会HPより)

看板建築の代表例
古い町屋を改造し、防火壁面とした例

丸屋履物店 創業150年
建物が慶応年間のものかどうかは不明だが古い町屋構造がよくわかる例


お休み処
いかにも古民家風に再現しないところに何か主張があるのだろう
ちなみにお盆休み中。

昭和4年のコンクリート建築の交番を利用した観光案内所

珍しく二軒が続いて残っている
かつてはこのような平入りの町屋建築の連なりが街の景観を形成していたのだろう

これも断面が町屋建築の構造をよく表している
下屋は改造されているが平入り商家建築の典型だ。
両側の建物は鉄筋コンクリート化されている

畳屋さん
これは二階がない
大正時代の創業だそう

耳鼻科医院
明治40年の洋風建築

立会川にある老舗の煎餅屋「大黒屋」さん
建物は改装されているのだろうが平入り町屋構造を踏襲している

看板建築
関東大震災後にできた類焼防止の建築様式
こうした戦前の家並みもわずかしか残っていない。

昔のアパートなのか

こうなると品川宿の面影とはほど遠くなるが、これも今に生きる街の姿


寺社町の景観

こうした寺社街の形成には江戸の西の守りを固める目的があったのであろう。品川宿周辺には大小の神社仏閣が建ち並んでいる。本街道に面して山門を開く寺もあるが、多くは本街道から一歩外側に分け入ったところに山門を設けている。神社も同様である。今でもほぼ往時の面影を残しているのでタイムスリップすることができる。


一心寺 1855年創建 井伊直弼公創建
街道筋に面している

荏原神社


目黒川にかかる荏原橋
荏原神社の参道になっている
「海徳寺」
街道筋を一歩入ると寺が立ち並んでいる

本街道からはこのような参道が続く

天妙国寺参道(鎌倉時代からの古刹)

八幡神社

品川寺(ほんせんじ)
東海道本街道に面している




南品川「品川寺」山門向かいにあった幕府御用「釜屋」跡
新撰組の定宿で、戊辰戦争では「品川屯所」となった

海晏寺の塔頭の一つ「海雲寺」(1251年創建の古刹)




品川の路地

東海道を軸に東西に横丁と路地が伸びている。かつては東側の路地を抜けると、もうそこは海であった。今でも防波堤の名残が数カ所見れるが、かつての海岸線は道路になり「元なぎさ通り」と命名されている。現在ではこの路地の先が海であったことを感じさせる景観はない。埋立地は天王洲アイルや品川シーサイドといった再開発も進み京浜運河と天王洲運河に囲まれた人工的な街になってしまった。西側の路地を進むと、先ほどの寺社が立ち並ぶ地区となる。この横丁と路地に下町の風情を感じるのだが。





路地の突き当たりは神社だ

(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)



2022年8月12日金曜日

古書を巡る旅(24)チャールズ・ディケンズ全集 〜なぜ文豪ディケンズの邦訳全集は出なかったのか?〜

 


The Works of Charles Dickens 16 volumes
Chapman & Hall, Ltd.,London
1890-1891

田辺洋子訳「ディケンズ全集」第一回配本(萌書房)


2021年1月に日本語訳ディケンズ全集が刊行開始された。出版社は2001年に奈良で創立された萌(きざす)書房(白石徳浩社長)。同社の創立20周年記念事業として企画された。チャールズ・ディケンズは、『オリヴァー・トゥイスト』や『二都物語』など,今なお世界中の多くの人に親しまれ,映画・演劇・ミュージカルとしても知られる作品群を生み出したイギリスの国民的作家。そのの個人訳による本邦初の全集である。そう、「本邦初」なのである。

訳者は英文学者で現代ディケンズ研究の第一人者の田辺洋子氏。広島大学院文学博士で広島経済大学教授である。これまでもディケンズ作品を翻訳し三つの出版社から出しているが、今回、訳者によってこれまで邦訳出版された全小説や寄稿集を修正・改訳したものに、これまで翻訳されていなかった書簡集などを加え、全30巻に及ぶ全集として刊行を開始した。第1回目の配本は,小説家として地歩を固める前後までの,友人知人や出版社・編集者,後に妻となるキャサリン・ホガースらとの交流を物語る1,061通を収める書簡集。続いて2021年に「ドンビー親子(上巻)、2022年に「ドンビー親子(下巻)」と第2回、第3回配本がなされている。

しかし、この全集が「本邦初」であるというのは如何なることなのか。もちろんこれまでも文庫本や「世界文学全集」的な刊行物にディケンズは収録されてきたが、ディケンズほどの英国を代表し、世界中で愛されている偉大な文豪の日本語訳全集が、これまでなかったことは世界の不思議の一つと言って良いくらいである。なぜなのか?全集は売れないという理由からなのか。日本の出版文化の重要な欠落部分であったのではないか。世界的な名著を、作家の全仕事を各国語の翻訳し残してゆくことは歴史的な文化事業であり、採算性よりも、後世に残すべきレガシーとして取り組むべき事業であろう。またそういう外国作品を求める読者、研究者が数多くいることがその国の文化的な層の厚さと知的なパースペクティブを示すものであろう。そういう意味においても、東京の大手出版社ではなく、謂わば地方の新興出版社である萌書房の企画と刊行には敬意を払いたい。白石社長は刊行にあたり、この全集が全国の大学図書館、公立の図書館に配備されることを願うとしている。今回の邦訳ディケンズ全集の刊行は単にディケンズファンとしてだけでなく嬉しいニュースだ。萌書房の出版人として、文化人としての矜持に拍手を送りたい。

神保町の古書店でも、最近は全集ものはなかなか売れないという。ディケンズのオリジナル英文全集も、かつては大学や図書館からの注文があって、必ず仕入れ、在庫していた定番作品であったものが、最近は引き合いがないので在庫として置いていないと、老舗洋古書店店主は嘆いていた。これは図書館の危機、書籍の危機、出版文化の危機、いや知的な欲求の衰退という危機である。コンテンツがオンラインで公開されているので直接原典にあたらない読者や研究者が増えているからだという。しかし「本」そのものが歴史的な作品であり、貴重な史料であることが忘れられている。逆に、今回の邦訳ディケンズ全集の出版が引き金となって、原書であるディケンズ全集が神田神保町の書肆の棚を飾り、全国の大学/図書館に並ぶことができれば嬉しいことである。大学図書館はディケンズくらい揃えておけよ!と。

ところで、今回紹介するのは、オリジナルのディケンズ全集である。1890〜91年にロンドンのチャップマン&ホール社:Chapman & Hall, Ltd.から出版された革装の16巻からなる全集だ。巻頭にはディケンズ自身の言葉でチャップマン氏からの作品の出版にあたっての熱心な勧奨と支援があったことに謝意を示している。またいくつかの作品の冒頭に、彼自身による作品を執筆するにあたっての経緯や意図についてコメントした巻頭言が記されている。したがって初版はおそらくディケンズ存命中(1870年に他界している)の1860年代と思われる。手元には同社から1865年、1866年に刊行されたディケンズ作品の「ピックウィックペーパー」」と「我らの共通の友」2巻があるので、この頃から継続して版を重ね続けたロングセラーと考えられる。この全巻揃いの全集は神田神保町の老舗洋古書店にも問い合わせたが見つからず、バラバラの状態で何巻かが英文学の棚に確認できる程度であった。先述のように、最近は英文学の定番中の定番とも言えるディケンズ全集を店頭で見かけることは少なくなった。この全集はネット検索で地方のある古書店で見つけた。見知らぬ土地の古書店の現物を見ない取引になるので不安があったが、問い合わせに対して、店主には丁寧に写真付きメールで対応していただいた。このシリーズはディケンズのオリジナルの全集の一つで、出版人による改訂の記述はなく、初版と内容は同じであること。読書家、愛蔵家の好みに応じて装丁を変えたり、収録作品の選定を変えたシリーズがいくつか出されており、これはその一つであること。革装はオリジナルであることなどと説明してくれた。ちなみに店主によると、最近はネットと宅配があるために地方でも日本全国、世界中と古書商売ができると言っていた。確かにロンドンやニューヨークの馴染みの古書店も、今は店舗なしで世界中とネットで取引している。地方の古書店にとっては新しい流通チャネルの出現だろう。古書ハンター側から見るとこうした地方古書店は穴場かもしれない。




ディケンズ肖像




チャールズ・ディケンズ:Charles John Haffum Dickens (1812-1870)とは何者か?ディケンズはビクトリア朝。パクスブリタニカの申し子である。と言っても輝かしい帝国の版図拡大や、産業革命と科学の時代、資本主義の成果を誇る側ではなく、それによって生じた社会の矛盾と経済格差に苦しむ庶民、新しく生まれた労働者階級の側に立ち、社会風刺や理不尽を描いた作家としてである。謂わば帝国の「光と陰」の陰の立場に立ってビクトリア朝時代を描いた。それを英国人特有のユーモアとウィットで描いた。サムエル・ジョンソンのようなオックスフォードやケンブリッジのインテリ層、上流階級や有産階級ジェントルマンのBritish sense of humourとは少し違う辛辣なジョークの使い手である。しかし、概して結末は丸く収まる(ハッピーエンド)で読み手を安心させる手法も取り入れ、モチーフの重さとは裏腹に読後の爽やかさがあり人気があった。ディケンズの作品は、作品の筋だてやストーリー展開が、時に意外な方向に進んだり、途中で筆致が変わったりすると批評家から指摘される。その理由は、当時の新聞や雑誌に連載された彼の作品が元になっており、また発表形式としても月刊分冊であったことに起因するようだ。連載中に読者の評判や、人気、売れ行きに影響されて筋を変えることがしばしばあったためだと言われている。また最後は「めでたしめでたし」で終わるパターンも晩年の作品まで踏襲されていった。こうしたことから、ディケンズは通俗作家として、芸術至上主義的な文壇からは批判されていたが、一般大衆の人気は衰えることはなかった。彼は国民的人気作家として英国でもてはやされるだけでなく、世界中の人々に愛される作家でもあった。トルストイはディケンズを英国が産んだシェークスピア以上の歴史に名を残す作家であると評している。ディケンズ自身は中産階級の出身であるが、幼い時から貧困と両親によって与えられた理不尽な生活環境で育った。「リトル・ドリット」に出てくるマーシャルシー債務者監獄は実際に彼の父が収監されていたし、彼もひどい環境の工場での労働を強いられ、精神的なダメージを受けてもいる。「デビッド・コッパーフィールド」は彼自身がモデルになっているとも言われる。「オリバー・ツイスト」の悲惨な孤児としての半生や、「大いなる遺産」のピップの半生にも彼の経験や社会への眼差しが込められている。一方で、上流階級やインテリ層と言われる人々の滑稽さや悲哀も描いて見せて、人間としての共感も示している。彼は若い頃に高等教育を受ける機会に恵まれていないが、法律事務所の事務員や新聞社の記者(モーニングクロニクル社)などの経験を活かしジャーナリストとして活動した。この時に「ボズのスケッチ帳」というエッセイを新聞と雑誌に連載し、それが注目されて1836年に第一作目として出版された。この時、この作品に注目し出版を薦めたのがチャップマン氏であったことは、彼の巻頭言に記載されている。以降、ロンドンのチャップマン氏の出版社「チャップマン&ホール社:Chapman & Hall, Ltd.」が彼の作品を一手に引き受けて、ついにはディケンズ全集を出版する。今回手に入れた全集もこのシリーズの一つである。

ディケンズの作品は今更列挙し、解説するまでもないが、こうして全集を概観してみると、意外に日本では限られた作品しか人々に浸透していないように思う。おそらく誰でも知っているのは「クリスマスキャロル」であろう。これはまず児童文学として取り上げられた(村岡花子などにより)。そう、子供の頃に聞かされたお話として記憶している。「オリバー・ツイスト」も映画や演劇作品で馴染みがあろう。あとは「二都物語」「大いなる遺産」くらい。しかし、それ以外は、その膨大な作品量からか、ロンドンの下町英語表現や独特のジョークの難解さからか、日本語に翻訳された作品は限られており、翻訳された作品も小説として親しむよりは、むしろ海外からの映画や演劇、ミュージカル作品を通じて知った、というのが多いのではないだろうか。明治期や大正デモクラシー、昭和の時代にディケンズを研究し、日本に積極的に紹介した研究者や文豪は意外にも知られていない。日本の国民的作家、「日本のディケンズ」とも言うべき夏目漱石も、英国に留学時代にディケンズを読んだようである(しかし漱石の遺した蔵書にはディケンズが少ないとも言われる)。ディケンズに言及した漱石の論文(漱石全集「文学論」)はあるが、あまり高い評価をしたり、彼の文学に影響を受けたりした形跡がない。一方で「坊ちゃん」は「ニコラス・ニクルビー」の影響を受けているとする研究者もいる。しかし漱石がシェークスピアーを英文学の原点と捉え、作品を多く読み、研究した。また17世紀のローレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ氏の生活と意見」の影響を「吾輩は猫である」に遺しているとする研究者はいるが、漱石がロンドンに滞在していた頃にすでに人気作家であったディケンズの影響を受け、彼の作品を日本に紹介した形跡は少ない。ディケンズはいわば漱石にとってイギリスの通俗的な「現代作家」であり、古典作家ではなかったからだろうか。こうした漱石のディケンズへの眼差しが象徴するのか、戦前の日本でディケンズを研究し全集の翻訳に取り組もうという人は少なかった(少なくとも文壇や研究の表舞台で活躍することにはならなかった)のかもしれない。まして、大手出版会社で邦訳全集が企画されることがなかった。先述のようにこれは文学の世界の不思議の一つであろう。ちなみにシェークスピア全集は明治期の坪内逍遥の大作をはじめ、小田嶋、松岡和子の個人訳が筑摩書房から出ている。トルストイ全集もドストエフスキー全集も、ゲーテ全集も大手出版各社から出されている。そういう意味で、あらためて今回の萌書房のディケンズ全集刊行は画期的であると思う。また、広島で長年ディケンズ作品に熱意を持って取り組んでこられた田辺洋子教授の地道な努力と成果に、全身全霊で敬意を示したい。遅まきながら...とは言えである。

ちなみに「ディケンズ・フェローシップ日本支部」という同好会、研究団体がある。1970年英国の本部から日本支部として認証されたという。

以下はこの全集に収録されている作品の中から、私がかつて読んだことがあるか、映画やミュージカル、ネット動画で見たことがある馴染みの作品をリストアップしてみた。

出世作は「ボズのスケッチ集」:Sketches by Bos

「オリバー・ツイスト」:Oliver Twist
「デービッド・コッパーフィールド:David Copperfield
「大いなる遺産」:Great Expectation
「クリスマスキャロル」:Christmas Carol
「二都物語」:Tale of Two Cities
「リトル・ドリット」:Little Dorrit
「荒涼館」:Bleak House
「我らの共通の友」:Our Mutual Friends
「ピックウィックペーパー」:Pickwick Papers
「骨董屋」:Old Curiosity Shop
「ニコラス・ニクルビー」:Nicholas Nickleby

これらの作品の映画化、TVドラマ化、さらには演劇、ミュージカル作品化されたものなど、どれも秀逸な出来である。このほかにBBCのドラマ「ディケンジアン」が面白い。ディケンズのそれぞれの作品に登場する人物がロンドンの下町に集うオムニバス風のドラマ。ディケンズが現代のイギリスのドラマ作品や演劇に与えた影響の大きさを感じることができる。脚本、構成、演出、フィルムワーク、もちろん出演俳優の演技とセリフ。どれをとってもイギリスの文芸、演劇、映像表現の豊かさ、奥深さが感じられ、エンタメ/娯楽作品とはいえその上質さが際立っている。これもディケンズのレガシー(遺産)であることは間違いないだろう。シェークスピアのレガシーに重層化されて息づいている。こうした現代の映像作品を見てからディケンズの原典に立ち返る。これもまた楽しからずや。イギリスはやはり面白い。



ディケンズのデビュー作「ボズのスケッチ集」表紙



「偉大なる遺産」表紙



「オリバー・ツイスト」「二都物語」表紙


「ピックウィック・ペーパー」表紙

「リトル・ドリット」表紙

「デビッド・コッパーフィールド」表紙


革装の背表紙


マーブルプリントの背表紙

ディケンズ生誕100周年(1812−1912)の記念シール
が各巻に貼られている。おそらく所有者が貼ったものであろう。


ロンドンのディケンズ博物館
ディケンズが住んだ場所というのがあちこちにある
ここは大英博物館近くのホルボーンの住居跡
(ディケンズ博物館HPより)

ディケンズの書斎
『ディケンズ博物館HPより)

LSE近くに現存するThe Old Curiosity Shop


そこでゲットしたお土産マスタード入れ!