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2015年7月3日金曜日

今年の大河ドラマ「花燃ゆ」はどう? 〜あらためて尊皇攘夷とは〜

 今年のNHK大河ドラマは「花燃ゆ」。吉田松陰の妹、文(ふみ)の生涯を描いたドラマ。女性が主人公になる大河はヒットする、との伝説がNHKにはあるそうだ。しかし、今回はどうも視聴率が低迷していると聞く。主人公を演じる井上真央が「私の力量不足で申し訳ない」と語っているとか。そんなことはないと思う。しっかりとした演技で好感が持てるし、役者として大きく成長していると感じる。視聴率低迷は役者のせいではない。「大河」というセッティングとのミスマッチかな?

 そもそも視聴率などという前世紀的評価基準でドラマの良し悪しを論ずること自体、如何なものかと思う。しかし、「大河ドラマ」というと、私のような中高年の歴史好きが、ワクワクしながら毎週楽しみにしてる「日本史教科書」の復習というステロタイプのイメージがつきまとう。昨年の「軍師官兵衛」など、主人公の演技はともあれ、影のヒーローのストーリー展開に引き込まれた。黒田官兵衛自体はこれまであまり歴史ドラマの主人公になったことはなくて、常に戦国の脇役で登場する人物であった。信長、秀吉、家康という誰もが知る超大物歴史主人公の知られた戦国乱世ストーリーの中で、「実は」という、官兵衛の立ち回りにワクワクさせられた。そういった観点から見ると、「花燃ゆ」は、激動の長州藩という舞台で血気にはやる男たちに比し、主人公の文が脇役のように見えてしまうのに、いちいち彼女の言動がドラマのストーリ展開の主題になっているからなんか場違い感を感じてしまう。別の言い方をすると、妻として母として、女としての心情が歴史の激流の中でメッセージとして伝わっていないように感じる。ホームドラマとしては面白いのかもしれない。現に、これまで「大河ドラマ」を観なかった連れ合いが「花燃ゆ」だけはしっかり観ている。連れ合いの評価は私とは全く違っているようだ。


 さて、テレビ批評はさておき、かつてものした一文をこの際、アーカイヴから引っ張り出してきて「再放送」してみたい。改めて「尊皇攘夷」とはなんであったのか?

 維新胎動期の「尊皇攘夷」運動を観ていると、ある意味でテロリズムそのものに見える。桜田門外で大老(今でいう首相のようなものだ)を暗殺したり、都に武装して押し入って、恐怖を煽るために無差別に人を殺傷したり、放火したり、海峡を通行する外国商船を砲撃したり。徳川幕藩体制という現状を破壊しようとする過激な反体制テロリズムだ。あるいは幕府の開国政策に反対し、開国によって混乱する国内経済に対する民衆の不満を背に、外国人襲撃を決行する民族主義的テロリズムだ。このドラマに登場する久坂玄瑞は、最初に武力で馬関海峡を通過する外国船を砲撃し(攘夷決行)、帝のおわします京で禁門の変を起こし(反幕府/攘夷派を武力で朝廷に直訴するという)町の多くを焼失させる。この頃の活動だけを取り上げると「尊皇攘夷」をスローガンとするテロリストということになろう。そうした過激な尊皇攘夷運動は、やがて近代化という流れの変化の中で、彼に続く高杉晋作の倒幕運動、そして彼らを乗り越えた桂小五郎や伊藤俊輔、井上聞多等が明治新政府の要人となって維新を成就させてゆく訳だが、初期の頃の長州藩の来島又兵衛に代表される藩に横溢する感情的な攘夷の声に押されて(声の大きなものに押されて)しまって、尊王のはずが朝敵にされてしまった悲劇の久坂玄瑞だ。こうしたことから彼は過激なテロリストとして描かれることが多い。

 テロリズムは常にネガティブなイメージで捉えられる。テロリストというレッテルが貼られると社会から排除され、抹殺の対象となる。手段が目的化してしまった殺人集団もテロリストにカテゴライズされている。しかし、テロリズムの定義は極めて多義で、しかも歴史という時間軸のなかでは相対的。かつてはマハトマガンジーもネルソン・マンデラも体制側からはテロリストと呼ばれていた。現状を壊し、体制を打倒しようとする動きの初期に発生する活動は社会の安寧を脅かす「過激」「危険」な不穏分子の「恐怖を煽る」違法活動、すなわちテロリズムと見なされる。やがて目的が成就し、新たな秩序が生み出されると、歴史にその破壊活動の意義が認められ革命家になる。歴史とは皮肉なものだ、勝てば官軍、負ければ賊軍。勝てば革命家、負ければテロリスト。

 一方、松陰の「草莽崛起」は、身分や藩といった旧弊な立場を乗り越えて、民衆、日本という枠組みで社会を捉え直そうというのはまさに革命的であった。だがその旗印が「攘夷」であることにいつも違和感を感じる。もちろん松陰自身は、幕府の拙速な開国に批判の矛先を向け、まずは欧米列強に伍すことのできる日本の体力固めを説いているのだが、その弟子たちは、当初、急進的な攘夷行動テロ集団になっていった。これが倒幕、新政府、殖産興業、富国強兵へと繋がって行くには高杉晋作やそれを継ぐ、次世代「維新の志士」たちの出現を待たなければならないわけだ。現代の日本の閉塞感の中で、吉田松陰のような維新胎動のイデオローグが待望される、という気分に満ちているが。これからは日本という枠組みを乗り越えて国境なきグローバリズムへと向かいつつある時代に、まさか「攘夷」ではあるまい。彼の思想の何を学ぶのか、これに続く志士たちのどのような考えと行動に学ぶのか。これは意外に現代の日本が置かれている状況(幕末明治期とは異なる)を考えるとそう単純ではないような気がする。あるいはグローバル化するにつれ国家ではなく市民や私人の時代に向かいつつある現代、イデオローグ松陰の妹で、久坂玄瑞の妻であるこのドラマの主人公。家族愛に生き、女性の果たすべき役割を示そうとする文(ふみ)こそが時代のヒロインなのかもしれない。そう考えさせるのが「花燃ゆ」のメッセージなのだとすれば、これは稀代の名作と言ってよいだろう。その表現に成功していうかどうかは別だが。

以前のブログ:

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 「尊王攘夷」は日本の近代化スローガンだったのか?: 明治維新は、鎖国政策を基本とした旧弊な幕藩体制を倒して、近代的な国家を建設しよう,とした動きだと捉えられている。その運動の初期のスローガンは「尊王攘夷」であった。しかし、「尊王攘夷」はどう見ても近代的な国家建設のための政治経済社会体制の変革を進める「革命」のスローガンには見え...


松下村塾の吉田松陰像

松下村塾

萩の城下町
ほぼ当時のままの町割が残っている

上空から見た城下町萩
日本海に接する小さな町だ
ここに押し込められた毛利の怨念が250年後に爆発する





2014年6月9日月曜日

「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 下関・長府散策 ー長門國國府のその後ー

「尊王攘夷」に関連して、2012年に訪問した下関・長府で、「攘夷」決起の史跡を散策した時のブログを再掲します。


「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 下関・長府散策 ー長門國國府のその後ー: 長府は今や下関市の一部になっているが、その名の通り、奈良時代に長門國の国府がおかれた所で、府中とも呼ばれた時代もある。この町には思った以上の多彩なドラマと豊かな時間が流れている。  戦国時代の中国地方の覇者、毛利家は、関ヶ原の戦いではで石田三成の西軍に立っていた。毛利輝元は西...




2014年6月8日日曜日

「尊王攘夷」はなぜ日本の近代化スローガンだったのか?



 明治維新は、鎖国政策を基本とした旧弊な幕藩体制を倒して、近代的な国家を建設しようとした動きだと捉えられている。その運動の初期(幕末期)のスローガンは「尊王攘夷」であった。しかし、「尊王攘夷」はどう見ても近代的な国家建設のための政治経済社会体制の変革を進める「革命」のスローガンには見えない。いやむしろ極めて保守的で国粋的なスローガンである。「尊皇」とは日本古来からの天皇を尊び、(天皇の臣民でしかない)武家の幕府政権を倒そうというスローガン。一方、「攘夷」は外国人を排除し、鎖国を継続すべし、というもの。換言すれば「外国人を排除して古代の王政に戻れ」という反動ナショナリズムそのものだ。

 明治維新の英訳は「The Meiji Revolution」ではなく「The Meiji Restoration」だ。決して「革命」ではない。あくまでも「復古」である。なんの「復古」なのか?「王政復古」なのだ。1200年前、まだ脆弱であったヤマト王権がようやく、豪族多頭支配体制から脱して、「大王:おおきみ」の統治権威と権力を確立した、いわゆる「大化の改新」、天武持統帝の「大宝維新」の時代に戻した、という事だ。こうして「尊皇」スローガンによる「倒幕」は達成できた。600年以上続いた武家政権は終わった。しかし、「攘夷」はどうであろう?

 16世紀、スペイン/ポルトガルに始まる大航海時代の波は、19世紀になると、新興のオランダ、イギリス、フランスといった西欧列強諸国によるアジアの植民地化にまで進んでしまった。日本がスペイン/ポルトガルなどカトリック国から国を閉ざす鎖国をして250年もの平和を楽しんでいる間に、いつの間にか周りからスペイン人もポルトガル人もいなくなり、世界は様変わりしていた。

大和五條の天誅組本陣跡
幕府五條代官所を襲撃するが
鎮圧され壊滅する


しかし、時の政権担当者であった徳川幕府は、必ずしもただ「太平の眠り」についていたわけではなく、「鎖国」という管理貿易、外交政策により幕府が一元的に情報と貿易と外交を管理し、オランダという偏った窓口を通じてとはいえ、現実的な世界情勢の収集、分析がある程度は出来ていた。少なくとも京都の公家よりは日本を取り巻く現状の認識があった。外国船を追い払い、鎖国政策を維持したいが、もはやそれも時間の問題だとの認識も生まれつつあった。特に清朝中国の現実、衝撃的なアヘン戦争の結末、欧米列強によるアジア諸国の植民地化。日本沿岸に押し寄せる外国船と海防の必要性。押しとどめることの出来ない西欧優位の近代化の流れ。徳川幕府はそれ等の情報を入手しておいた。長崎という狭い窓ながら情報はかなり入って来ていた。何より蝦夷地や琉球、日本列島近海に頻繁に出没する外国船の実態を見れば嫌でも「鎖国は祖法である」などと言っておれない時代が来たことを認識せざるを得ないかった。

 一方、京都のお公家さんたちは、そうした現実から隔絶され、あるいは眼をそらせ、京都盆地に引きこもり、古来からの「有職故実」に明け暮れる世界から一歩も出なかった。薄々聞こえてくる海の外で起こっている現実にも、出来れば関わりたくない、という消極的姿勢で貫きとうしていた。孝明天皇の「異国嫌い」「鎖国継続」に象徴される空気が京都に横溢していた。「京に異人を入れるやなんてもってのほかや」が究極の本音であったろう。最後の最後まで「攘夷はいつやるのや?」と十四代家茂、十五代慶喜に外国人排斥決行を迫っていた事実からも,「とにかく神國から異人を追い払え」であった。それが「攘夷」であった。これに討幕を意図する長州や、国学・水戸学発祥の地の水戸は呼応し、「尊王攘夷」で決起しようといた。しかし幕府は「攘夷」が現実的でないことも知っていた。

 一方、幕府も現実を見た開国方針が拙速で、世論をうまく纏めることが出来なかった。幕府はペリーとの日米和親条約締結にあたって、土壇場になって「朝廷の勅許」などという責任転嫁を画策し、それが間に合わず締結が先行したので、国内保守勢力、すなわち「尊王攘夷」勢力は倒幕へと向かった。それに対する弾圧(安政の大獄)が、さらに「尊王攘夷」「討幕」の火に油をそそいだ。開国は時代の流れであったが、もちろん幕府はすでに米中心の重農主義経済終焉に直面し、それに伴って財政破綻に瀕しており、新しい世界秩序に対抗するのに旧態依然たる幕藩体制ではどうにもならないことは自明であった。いずれ倒幕につながるのは避けられなかっただろう。

 特に、江戸時代末期のこの時期には下級武士層の徳川幕藩体制への憤懣は臨界点に達していたから、彼等にとって、全く住む世界の違う人々であっても、天皇や朝廷、その側近集団である公家が長い歴史の中で,政治の世界からすっかり遠ざかり、京都で歌舞音曲、詩歌をたしなむ生活に日々を過ごすようになって久しかろうとも、幕府に替わる政権交代スローガンとして「尊皇」を旗印として担ぎ出す。「大義」を得て自らが「勤王の志士」となる事に何の躊躇もなかった。そして、その皇祖神天照大御神を頂点とし、その子孫で万世一系の天皇が連綿と統治する世界に稀な「神國日本」を蹂躙する夷狄(外国人)を排除する。「攘夷」を「尊皇」と不可分の旗印とすることは何も不思議な事ではない。政治スローガンとは,国内の矛盾と外からの脅威を分かりやすく言い表す「四文字熟語」のようなものだ。

長府にある高杉晋作像
長州藩内の勤王派クーデタ
「回天義挙」の碑も近くにある



先に述べたように、「尊王」はもともと天皇の征夷大将軍,即ち武家の棟梁で在る徳川氏の幕府政権を倒し、大政奉還させ、日本古来の天皇中心の政治体制に戻す、すなわち「王政復古」(restoration)である。天武持統天皇時代の天皇親政、公地公民、律令体制に戻すことだ。天照大神を皇祖神とし、記紀の神話を史実とした神国日本の再現だ。江戸時代後期の国学の流行により、分国化された藩とそれを束ねる幕府(幕藩体制)という構造から、ようやく日本(ひのもと)という国家としてのアイデンティティーとナショナリズムを意識し始めた事が大きく影響している。この「王政」は、維新後制定された明治憲法では、こうした「皇国史観」に基づいた天皇を国家の主権者とする擬似立憲君主制(英国式ではなく、プロイセン式の)という形をとることで、太平洋戦争に敗北するまで生き残った。戦後も「象徴天皇制」が新憲法に規定され「国体は護持された」のである。

 一方、「攘夷」は、まさに夷荻(野蛮な外国人)を排除する、早くいえば排外主義だ。もともと古代から続く中華思想・華夷思想に基づく選民思想で、清国の義和団などと通じる国粋主義的なスローガンだった。鎖国の方が良い,と言ってる訳だから、開国交渉などもっての他である。欧米列強の帝国主義植民地化により独立を失ったアジア諸国の実情を見るにつけ、神国日本の心ある志士たちの心情はそうであっただろう。しかし、そういった後ろ向きの排外主義では,もはや通用しない事を認識させられることになる。やがて「攘夷」は西南雄藩の開明的な君主や若き武士たちによって修正されて行く。特に薩英戦争や,馬関戦争で「攘夷」が非現実的なスローガンである事を身を以て体感した。やがて「攘夷」は、西欧列強に追いつけ,追いこせ、「富国強兵」「殖産興業」という「西欧化」に向けたスローガンへと変換してゆくことになる。「日米通商修好条約」締結では遂に天皇の勅許が降り、「攘夷」の名目も無くなった。

長州の前田砲台を占領するフランス軍。
長州藩の「攘夷決行」は、
四国艦隊との圧倒的な力の差を見せつけられて挫折する


 しかし、古来より日本人のDNAとしての「異なる人、モノ」に対する警戒感、外来思想に対する違和感と、排除の心理がぬぐい去られた訳ではない。稲作農耕文化の伝来、仏教伝来、キリスト教伝来、西欧文化伝来、黒船来航、敗戦、日本はシルクロード交易の時代においても、大航海時代でも、常に「文明の終着点」であった。文明が頭の上を通過して行く事はなく、入ってくるものは国内に留まる。だから都合の悪いものは、はじめから入れないようにしなくてはならない。また都合良く入って来たものは自分たちが古来から守って来たものと矛盾が生じないように咀嚼改変する。ある意味で自分流に解釈し作り変えることで独自の世界を守って来た。まさに外来文化の「受容」と「変容」の歴史である。

 明治維新以後の近代国家化のなかで「攘夷」という排外主義スローガンは表向きは消えていった。むしろ、「近代化」とか「欧化政策」というスローガンに変えたとたん、「舶来」を積極的に導入し、新たな解釈を加え、日本化して我がものにして行った。しかしその背後には依然として「内」と「外」、「国内」と「国際」の二元論が生きている。そして、常に「攘夷」をモヤモヤとした暗黙知とする「国内派」が近代化を主導するのである。経済、市場がグローバル化している今日ですら、「外国かぶれした危険な国際派」に勝手にさせるかとヘゲモニーの保持に躍起になる。「国際派」をある時は利用しつつ、イザとなれば排除しながら良いトコ取りする。そういう「国際化」だ。常に「国内」ロジックが優先される。もちろんどこの国でも多かれ少なかれ事情は変わらない。国を開かねばならないが、自国の経済も守らねばならない。一国の経済規模が大きければ大きいほどその傾向は強い。しかし、今の日本はそういった「内なる攘夷」が歪んだナショナリズムと結びつき、再び「内なる鎖国」に向う恐れはないのか。「内向き思考」という反グローバリズムが。

司馬遼太郎は、明治維新という「革命」には思想がなかった。あるのは「尊王攘夷」だけであった。少なくともそこに「民権」という視野はなかった。と語っている。



2012年1月22日日曜日

下関・長府散策 ー長門國國府のその後ー

長府は今や下関市の一部になっているが、その名の通り、奈良時代に長門國の国府がおかれた所で、府中とも呼ばれた時代もある。この町には思った以上の多彩なドラマと豊かな時間が流れている。

戦国時代の中国地方の覇者、毛利家は、関ヶ原の戦いではで石田三成の西軍に立っていた。毛利輝元は西軍総大将に祭り上げられていたが、戦況を模様眺めて、家康軍と一戦を交える事は無かった。しかし、戦後は、その敗者としての処分を受け、長門、周防二国の領主に減封されてしまう。藩庁は,大内氏が築いた小京都、山口ではなく、日本海側の萩に置いた。この時、長門の国府,長府は、毛利分家の知行地、長府藩として成立。面白いものだ、長門國の国府が長州藩の支藩として幕末まで続く事になる。

長府は武家屋敷街の続く美しい町だ。毛利家の長府屋敷はじめ長府庭園、毛利家の墓所がある功山寺、忌宮神社(長門國國府趾ではないかと言われる)など、武家の町としての歴史が今に息づいている。町を歩いてみると、古い武家屋敷はかなり改装されて、今風の建物に立て替えられている所が多いようだが、昔の土塀が復元され、あるいは修復されて、武家屋敷街としての景観がよく保たれている。萩ほど観光客が押し掛ける所ではないが、俗化されていない風格のある町だ。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」で出てくる、乃木希典将軍はここ長府藩の出身であり、隣の徳山藩出身の児玉源太郎との203高地攻略を巡る確執、いや友情?が話題になっている。地元の人に言わせると,司馬遼太郎の乃木像は少し納得がいかないようだ。ここに乃木将軍の幼少時代を過ごした旧邸が保存されている。2部屋に土間が付いた質素な家屋だ。ここで父母から漢籍の薫陶を受ける稀典の少年時代の姿が人形で復元されているが、あの頃の日本人は、このような極めて質素、いや貧乏な生活の中でも、漢籍の素養を身につけ、武道に励み、来るべき時に備えて日々、身辺簡素に生きていたのだ。資料館には乃木将軍ゆかりの品々が陳列されている。

この旧邸の隣には有志により、乃木神社が創建されており、今では地元では学問の神様としても崇敬されているという。このように長州藩の中にあっても、その支藩のあまり恵まれたポジションにあったとは言えない乃木であったが、こういう境遇の中から明治日本を引っ張るエネルギーが生まれてきた,その原点を知ることが出来たような気がする。まさに坂の上に雲があった時代の立身出世物語だ。

長府には功山寺という禅寺がある。鎌倉時代の創建と言われ、鎌倉の円覚寺にも似る唐風仏殿を持つ寺である。
ここは毛利家の墓所であるが、明治維新前後ののいくつかの重要な出来事の舞台となった所でもある。まず、高杉晋作が、藩内の俗論派に対して決起したその場所である。功山寺決起、回天義挙と呼ばれている。有名な高杉晋作の馬上像はここにある。そしてもう一つは、幕末、三条実美など政変で京を落ち延びた七卿のうち五卿がこの寺にかくまわれた。その後、さらに七卿は筑前太宰府へ落ちる事となる。いわゆる七卿落ちの舞台だ。

功山寺の境内には下関市立長府博物館があり、ここでも明治維新にまつわる興味深い展示が目を引く。坂本龍馬の「船中八策」、「日本を今一度洗濯いたし候...」の原文が特別展示されていた。また、一昨年の大河ドラマで、坂本龍馬が京都で長州藩の用心棒に護衛されていたとして、長府藩出身、槍の三吉慎蔵の名が出ていたが、ここの展示資料によると、彼は龍馬の単なる護衛ではない。長府藩が生んだ維新の志士の一人である、という解説が,延々と書き記されていた。維新後の三吉慎蔵は故郷の長府へ戻り、大官を望まず静かな余生を送ったとされる。

大河ドラマ「龍馬伝」は司馬遼太郎の作ではないが、戦後の司馬遼太郎史観が、まるで日本史の常識、定説であるかのように受け止められている事についてはいろんな異論、反論、オブジェクションが出されている。例えば、薩長連合についても、当時の尊王攘夷運動の急先鋒の一つであった筑前福岡藩(筑前勤王党)の役割はほとんど看過されている。加藤司書、月形洗蔵、野村望東尼など筑前勤王党の名は何処にも出て来ない。福岡藩内の佐幕派に粛正され,ほぼ抹殺された彼等の活躍と、維新に果たした役割は歴史の表舞台から消えかかっている。長府藩という長州の中でも比較的小さな藩の視点から見ても、維新の立役者の位置づけについていろいろな意見があるのであろうと思う。

関門海峡は、平家が滅亡した壇ノ浦や安徳帝を祭る赤間宮。宮本武蔵/佐々木小次郎が戦った巌流島などの各時代の名所が多い。日清戦争後の講和会議を行った下関の料亭春帆楼もこの近くだ。時空トラベラーにとっては思った以上に訪ねたいスポットが多い所だが、なにしろ出張ついでの通過では時間に限りがあり、次回に。

が、一つ思いを馳せるのは、目の前に広がる、彦島だ。幕末の尊王攘夷運動の急先鋒であった長州藩が、下関で関門海峡(馬関海峡)を通過する四国艦隊に砲撃を加え、逆襲されて敗戦したいわゆる「馬関戦争」の現場である。フランス、イギリスの戦争博物館には様々な彼等の帝国主義戦争で獲得した戦利品の数々の展示があるが、その中に日本からの戦利品も並んでいる。一つはこの四国艦隊砲撃事件の時、下関砲台を占領した連合国が奪った長州藩の大砲。もう一つは薩英戦争時の薩摩藩の大砲。日本人にとっては歴史の激動を複雑な気持ちで見ることとなる展示だ。しかし,これを境に長州も薩摩もナイーブな攘夷運動から、一段止揚された近代化による列強との対抗へと、歴史が動いた事件である。薩長が幕府に先駆けて軍備の近代化を進めれたのも,この苦い経験があるからだ。

この馬関戦争の終戦交渉時に、連合国側は、長州藩に対して、この彦島の租借権を主張した。これを、断固拒否したのが交渉に参加していた高杉晋作だったいう。高杉晋作は、自ら清國、英領香港を幕末に訪れており、日本がこのような欧米列強の植民地になる事を最も恐れたと言う。このときの現場感覚が、彦島租借要求をナニが何でも拒否しなくては、という強い思いに繋がっていたのだろう、と、伊藤博文が後日回想している。確かにその時これに同意していたら、彦島は香港島、下関半島は九龍半島になってしまい、下関が香港になっていたかもしれない。もっとも、当時の欧米列強のアジアの植民地経営の現状から見ると、中国と比べて,さらに遠い極東の日本にどれほどの植民地としての魅力を感じていたかは不明だが。

この話は,伊藤博文による後日の脚色もあるのかもしれないが、しかし、清國の現状を目の当たりにした明治の若者にとって、「植民地化」に対する強烈な恐怖心と危機感があった事だけは確かだろう。いずれにせよ、下関は、他国の領土となる事無く、捕鯨とフクと港町で有名な日本国の本州再西端の町として栄える事になる。

ふくの季節、唐戸市場で新鮮な海の幸を堪能し、小さなフェリーで、寒風吹きすさぶ関門海峡を渡り門司港へ。週末なので電車で博多へ行こうと思ったが、小倉で下車。神戸に向けて新幹線で帰途についた。

故郷の筑前博多は遠かった。

長府功山寺にある高杉晋作騎馬像