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2016年6月18日土曜日

杵築を散策する 〜高低差ファン垂涎の城下町〜



城下町杵築は坂の町


 杵築は国東半島の南の付け根に位置する小さな城下町だ。高山川と八坂川に挟まれて守江湾に面した要害の地。江戸時代は豊後杵築藩3万2千石。徳川譜代の能見松平家の城下町で明治維新まで続いた。国東半島の南半分が領国。戦国時代には大友氏の家臣であった木付氏の所領地であったが、豊臣政権下で主君大友何某の失態で主家が滅び、それに伴って木付家も滅びた。江戸時代以降は幾つかの領主の変遷ののち1657年徳川の譜代大名能見松平家の所領となった。その地名も「木付」から「杵築」に変わった。そもそも大分県はその名の通り、大友宗麟以降、豊後一国を領有する領主がなく、岡藩の7万石が最大で、2〜3万石ほどの小藩が分国割拠していた。隣には豊前小笠原藩、筑前黒田藩、肥後細川藩、薩摩島津藩などの外様の大藩が控える土地だ。譜代で固めて九州を監視する役目であったのだろう。

 杵築は「日本の美しい街並み」ファンの私には憧れの町であった。なかなか訪れる機会に恵まれなかったその憧れの杵築に、今回ついにたどり着くことができた。博多からJR九州の特急ソニックで2時間弱。小倉で進行方向が変わってバックする(したがって座席を方向転換しなくちゃいけない)ものの直通で行ける。宇佐神宮最寄駅の宇佐(USA)の次だ。意外に便利。もっとも杵築駅は市街地からは離れたところにあるので、駅前からバス(平日一時間に二本)に乗り、杵築バスセンター(と言っても小さな待合室があるだけの鄙びたバス停)まで約15分。それでも途中乗り降りする客はオバアチャン一人だけ、というチョーローカル路線バス。不便?いやいや別に急ぐ必要はないしこのゆったりした時間の流れがとても癒しになる。この時間尺度の中で生活すれば良いのだ。

 この城下町の特色は、何と言ってもその地形にある。城は海に面した高台に設けられ、天守閣破却後も藩主御殿がその高台にあった。城下町はその西の台地に展開している。その台地は、北台と南台に谷筋を隔てて別れており、北台には家老屋敷や藩主の休息屋敷、藩校学習館がある。反対の南台はかなり広い面積を有していて、上級武士の屋敷が連なっている。台地の南西には寺社町と中・下級武士の屋敷を配して城下の防御としている。北台と南台を分けるのが谷筋の町人町。元々は小さな川があって川沿いに町家が並んでいたが、今は暗渠化して道路も拡幅され、昔日の面影はなくなったそうだ。それでも伝統的な商売を今に伝える老舗が並んでいる。この谷あいの町人町から、台地の武家屋敷街までの坂が、有名な酢屋の坂、志保屋の坂、勘定場の坂、飴屋の坂、番屋の坂などとなっている。こうした町割りは今でも、かなり明確に残っており、これが杵築の城下町を独特の景観の町にしている。特に武家屋敷街の土塀はよく保存手入れされていて、歩いてみるとまるで江戸時代の城下町にタイムスリップしたような感じがある。しかもかなり広範囲にわたって延々と続いているのは圧巻だ。確かに、塀の中の邸宅は、今風に改造されたり、建て替えられたものが多いように見受ける。しかし落ち着いた邸宅街の佇まいをよく残している。きっとこの土塀が町の景観を守っているのだろう。静かな町であまり人と出会うことがないが、生垣を手入れしているご婦人や道端の掃き掃除をしているお年寄りなどとすれ違うと「こんにちわ」と丁寧な挨拶をしてくれる。美しい街には美しい人が棲む。

 坂はこの町の重要なアクセントだ。しかもどの坂も美しく石畳で覆われていて、町を重厚で、かつしっとり落ち着いた雰囲気に仕上げている。鬱蒼とした木立に覆われた番所の坂を上り、門をくぐると、目の前に広々とした北台の武家屋敷街と青空が広がる。感動的な景観だ。その武家屋敷街の先の勘定場の坂は藩の重臣が住む北台からお城、藩主邸宅へ続く坂。ここからは天守閣(模擬天守閣だが)が展望できる。一番人気は酢屋の坂、志保屋の坂。杵築を代表する景色だ。北台と南台をつなぐ下り上りのアップダウンがこの城下町の景観を優雅で伸びやかなものにしている。その昔、坂の下の角に酢を扱う商家があったことから「酢屋の坂」。その向かいに塩を商う商家があったので「志保屋の坂」と名付けられているそうだ。今は老舗の味噌屋が暖簾を掲げている。あの「酢屋」の末裔だそうだ。飴屋の坂は曲線の美しい石畳の坂。かつては飴屋があったのだろう。まさに山の手と下町が出会うクロスポイントだった。

 しかし、そもそも武士が山手、町人は谷筋の下町、と住む場所が燦然と区分けされたこの城下町の構造は、封建的身分制を自然の地形を利用して具現化したものだ。にもかかわらず、街全体がどこか開放的で、伸びやかな広がりを感じるのは何故なのだろう。不思議だ。城下町独特の鍵の手の道筋がなく、広い通りが一直線に連なる北台、南台の武家屋敷街。高台なので見通しが良く海も見えるし、坂の上から眺めるとなにより空が広く見える。下町にしても狭隘な谷筋に押し込められている感じではなく(もっとも最近の道路拡幅のせいかもしれないが)、随所に設けられた高台の住宅街に通ずる石畳の坂が武家屋敷街との街としての一体感を演出している。こうした高低差をうまく利用した区分けと、その上での調和がこの封建的城下町を開放的で自由な雰囲気にしているのかもしれない。

 こうした古くて美しい佇まいを残した町は大体、重要伝統的建造物群保存地区に指定されているものだ。が、なぜか杵築は重伝建地区指定を受けていないのだそうだ。きつき城下町資料館の方の話だと、町人町の道を拡幅したり曳家をしたのが原因の一つだろうと。しかし、この町は北台・南台の武家屋敷の土塀がよく残り、しかも広範囲にわたって素晴らしい城下町の景観が保存されている。しかも石畳の坂がよく残されて町に独特の景観を生み出している。なぜ指定されないのか?なにか役所独特のロジックが指定できない理由になっているのだろう。先ほどの資料館の方の説明によると、武家屋敷街の土塀の修景保存には市の補助金支援があるそうだ。それでも資金的に厳しい状況で、ボランティアや寄付を募っているという。こうした地域の人々の努力でこの素晴らしい景観が守られていることを知る。こんな珠玉のような町を壊してほしくない。静かで美しい街並み、優しくて素敵な人々。杵築を訪ねると日本は捨てたものではないと確信する。しかしそれを維持して行くのにはいろんな課題も山積しているように思う。

 杵築は期待を上回る素敵な城下町であった。久しぶりに「時空旅行人」の心の琴線に触れる街を旅することができた。興奮して写真を撮りすぎてしまったが。そして、この台地と河川と海の織りなす地形は、高低差ファン、河岸段丘研究会メンバー垂涎の城下町だ。次回「ブラタモリ」推薦候補間違いなし!

(追記)東京湾上の米戦艦ミズーリ号上で降伏文書に署名した外務大臣重光葵はこの杵築の出身。
番所の坂
この坂を上ると北台武家屋敷街が広がっている。
かつては番所があり武家屋敷街への出入りをチェックしていた。

北台武家屋敷街
北台から酢屋の坂、志保屋の坂を望む

北台武家屋敷街
正面はお城へ向かう勘定場の坂

勘定場の坂
木立の向こうに天守閣がチラリと見える

藩校学習館





家老大原家邸宅

大原邸
大原邸
酢屋の坂、志保屋の坂

北台武家屋敷街

「きものが似合う歴史の街並み」がキャッチフレーズ!
ちょうど通りかかったお二人を撮らせてもらった


志保屋の坂から見た酢屋の坂
右は大原邸
南台中根邸

南台中根邸
きつき城下町資料館

南台本丁武家屋敷街

南台裏丁武家屋敷街
飴屋の坂

酢屋の坂遠景
上の土塀に囲まれた屋敷が大原邸

志保屋の坂

ここは山手と下町のクロスポイントだ

酢屋の坂の麓の老舗綾部味噌
両側が北台・南台の武家屋敷街
谷筋のこの道沿いが商人町


杵築城模擬天守閣
城から見た南台武家屋敷地区
高台にお屋敷が並んでいる
南台展望台からの杵築城

杵築市観光協会の散策マップ
日本唯一の「サンドイッチ型城下町」「きものが似合う歴史の街並み」




保存保存

2016年6月17日金曜日

梅雨の太宰府はアジサイの里だった


 
観世音寺の紫陽花


 遠の朝廷、太宰府の梅雨の季節はアジサイが真っ盛り。太宰府といえば梅を思い起こす。あるいは都府楼の桜。あまりアジサイのイメージがなかった。しかしこんなに古都の季節を彩っていたとは、元・地元住民の私も気づかなかった。きっと最近の事なのだろう。世界各国からの観光客で賑わう太宰府天満宮のざわめきを離れ、本来の太宰府都城の中心部であった観世音寺から戒壇院、太宰府政庁跡(都府楼跡)あたりの散策はいつ来ても楽しい。古刹に官衙の遺構、万葉歌碑、いわくありげな杜や塚、都城を守る山城。古代史を物語るセッティングが用意されている。このあたりの佇まいは、かつての栄華を思い起こさせるのに十分だし、静けさが時間を巻き戻してくれる。どの季節に来ても良いものだが、雨のそぼ降る梅雨の太宰府もまた風情があって良い。煙霧にけぶる四王寺山(大野城)を背景に瑞々しい緑をまとった太宰府政庁跡の広大な敷地、観世音寺の杜、戒壇院の土塀、学校院跡の田んぼ。山上憶良、小野老や大伴旅人などの筑紫歌壇のトップスターたちの歌碑。それにアジサイが彩りを添える。なかなかの風情ではないか。太宰府のもう一つの季節の味わいを知った。歩き慣れたところだが訪れるたびに新たな発見がある。



戒壇院

戒壇院山門

戒壇院の紫陽花

観世音寺講堂
講堂横の紫陽花



観世音寺宝蔵の菖蒲

観世音寺の裏手は太宰府散策のゴールデンルートだ

僧坊跡の紫陽花が見事!


里では田植えが始まっていた
戒壇院

学校院あたりも田植えが

太宰府政庁跡(都府楼跡)

都府楼から四王寺山(大野城)を望む





歩き疲れたら
光明禅寺門前の茶屋で「梅が枝餅」を

水城小学校・学業院中学前の案内




2016年6月4日土曜日

浜離宮恩賜庭園 梅雨入り間近の大名庭園散策


 都内大名庭園めぐり。今日は浜離宮恩賜庭園。徳川将軍家の浜御殿から皇室の浜離宮へ。そして都民の公園へ。

 元は甲府宰相の江戸屋敷であったが、将軍家に移された。四方を掘りに囲まれ石垣があり、徳川将軍家の唯一の別邸である。しかしその構造から見て、江戸城の出城として造営されたことがわかる。江戸時代には鷹狩りが行われた。ほかに2箇所の鴨場があり、今でも皇室行事の鴨狩が行われる。

 庭園の中心にある池は、都内に残る唯一の潮入池、すなわち海水を引き込んだ池だ。ボラがジャンプするのが見える。どうりで、日本庭園なら典型的な池畔の菖蒲などの淡水生植物が見えない訳だ。菖蒲は池から離れたところの密集して植えられている。橋に繋がれた中島の御茶屋は公開されていて、この日も外人観光客の人気をさらっていた。このほかにも、当時の茶屋が次々に復元されている。2010年(平成22年)松の御茶屋、2015年(平成27年)燕の御茶屋が再建された。明治になって迎賓館として利用されのちに取り壊された延遼館も、2020年に再建され、再び迎賓館として使用される予定。

と、ガイドブック的な説明はできるが、なぜか「時空トラベラー」としてウンチクを語るエピソードがない。あまり歴史的な出来事の舞台となった形跡がない庭園だ。将軍家の御殿でいわば禁断の園だったからかもしれない。延遼館は元は新政府の海軍練習所として建てられた石造りの建物で、これを改修し迎賓館として利用した。英国皇太子や米国グラント大統領などが滞在したそうだ。いまは荒れ果てた空き地が虚しく広がっているだけだ。浜離宮庭園はいまや汐留の再開発に伴い、高層ビル群に囲まれた大名庭園という独特の都市庭園の景観と成っている。その現代と江戸時代のコントラストが人気となっていて、皇居周辺と並んで外国人観光客が多い。ちなみに再開発された汐留操車場跡は新橋停車場のあったところ。当時の駅舎が復元されている。

 西日本は梅雨に入ったようだ。関東も明日からいよいよ梅雨入り。その直前の晴れ間に菖蒲が咲き誇る。紫陽花はもう少し先だろうか。帰りに歩いた銀座の電通通りの歩道沿いの花壇に紫陽花が咲き誇っていた。気がつかなかったが、ここは意外な紫陽花の散歩道だったんだ。




現代と江戸時代の景観コントラスト

富士見山から眺める潮入りの池

松の新緑が目にしみる

菖蒲が盛りに



紫陽花はもう少し先




平成22年に復元された「松の御茶屋」
平成27年に復元された「燕の御茶屋」前のツツジ

「中島の御茶屋」

以下はおまけの写真。Finally but not least. 銀座の紫陽花が綺麗だった。意外な紫陽花ストリートに感激!