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2024年9月18日水曜日

古事記は「やまとごころ」の原典? 〜「日本紀の御局」紫式部はなぜ参照しなかったのか〜

 

古事記 神武天皇東征の図


今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」は、平安時代の「源氏物語」の作者、紫式部が主人公の物語だ。NHK大河の主人公といえば戦国武将か幕末維新の英傑、というお定まりのパターンを打ち破る快挙だ。日本の歴史は、軟弱な平安貴族ではなく猛々しい武士によって作られたものだ、と刷り込まれた頭には新鮮な驚きだ。武断的な政治よりも文人政治。武士道よりももののあわれ。剣よりも筆。今年の平安娯楽エンターテイメントには歴史を俯瞰する新たな視座を与えてくれる楽しみがある。そしてまた思いがけない気づきを与えてくれる。

その一つが平安時代の朝廷コミュニティーにおける「日本書紀」(日本紀)の重要性である。源氏物語を読んだ一条天皇は「源氏物語の作者は日本紀の知識を持っているようだ。物語とは別に日本紀を講じてもらいたいものだ」と評したと、紫式部は「紫式部日記」に誇らしげに書いている。そのため彼女は「日本紀の御局」とあだ名をつけられた。この一条天皇の指摘は、源氏物語にはそのストーリーや登場人物のモデルに、日本書紀の隠喩が通奏低音として流れていることを示唆するとともに、日本書紀が正史として重要視され宮廷人の重要な教養科目であったことを明らかにしたものである。平安時代には、男性貴族の間では白楽天や李白のような漢籍、漢詩の素養が重視され、公文書はすべて漢文で書かれたので漢文は必須能力であった。ひらがなは女性の文字とされ和歌や男女間の交歓に用いられた。日本書紀は和書であるが正史であるので漢文で書かれている。主人公の紫式部(まひろ)が和歌だけでなく漢詩の優れた才能を持ち、「女性ながら」漢文で日本紀に通じる才女であった事から、道長に彰子中宮の女御として抜擢されたに違いない

このように日本書紀(日本紀)は正史として、当時の朝廷では、基礎的な知識・素養書として、定期的に文章博士によって講書され読み習わされた。いわば宮廷学の基本テキストという位置付けであった。この事がこのドラマでも描かれている。日本書紀がドラマの中で言及されるとは、さすが倉本宏一先生の時代考証、大石静さんの脚本である。また、源氏物語はモデルとなる人物やエピソードが日本書紀に登場する人物や説話に仮託されていると論ずる著作があり話題となっている(倉西裕子「源氏物語が語る古代史」)。まだ読んでいないが興味深いので今後是非取り上げてみたい。このように平安時代には日本書紀が朝廷における学びの対象になっていたわけだが、その理由の一つは、おそらくその編纂の経緯にあろう。日本書紀の編纂には、藤原一族繁栄の基礎を築いた藤原不比等が深く関わっており、「大化の改新」における不比等の父、中臣鎌足の事績を大きく取り上げるなど、日本書紀には、いわば「藤原史観」が色濃く現れている。藤原一族による摂関政治全盛時代の平安時代に正史、教科書として取り扱われたのも故なしとしない。

一方で、「古事記」の方はどうであったのか。現代人の我々は「記紀」として日本書紀と一括して取り上げることが多いが、意外にも平安時代には古事記が歴史書として論じられることは少なかった。とりわけ古事記で詳細に語られる神代の物語はほとんど公式には取り上げられていなかったようだ。紫式部も源氏物語の中で古事記を引用したり、神話の物語に仮託したりした形跡はほとんど見えない。『紫式部日記』に言及のあった、一条天皇の「日本紀」は明らかに日本書紀のみを指している。そもそも古事記は日本書紀とは異なり、漢文ではなく漢字を音に用いた和語(いわゆる「変体漢文」)で書かれており、公式な書籍という理解ではなかったようだ。さらに当時は稗田阿礼の実在性や太安万侶という人物への懐疑などがあり、古事記が勅撰の歴史書かどうかも疑わしいと考えられていたのだろう。その内容も編年体で書かれた日本書紀と比べると、神話(神代の物語)が全体の三分の一を占め、日本書紀には記述のない高天原神話や出雲神話に多くの紙幅が費やされているなど内容が大きく異なっている。「女子供が好む有象無象の物語」(酷い言い方だが)と考えられていた節がある。せいぜい日本書紀の副読本的な位置付けで学者に読まれたことはあったようだ。そもそもこの頃になると万葉仮名で書かれた「万葉集」が解読困難になっていたように、「古事記」の変体漢文も解読できる人が限られていた可能性もある。その後は時代を経るにつれ、さらに顧みられることが少なくなり徐々に朝廷の表舞台から姿を消してゆく。鎌倉時代には、一部の公卿家や神道の卜部家、吉田家などで秘本扱いで書写が行われたが、世間の日の目を見る機会はなかった。室町時代には現存する最古の写本である真福寺本が登場する。江戸時代に入ると、一部の研究者によって古事記は偽書であるとしてその存在と内容の信憑性を疑う意見まで登場する。

ところが江戸時代、寛政年間になると、本居宣長が、賀茂真淵の影響を受けて(いわゆる「松坂の一夜」)、日本の古典を学び直し、「やまとごころ」を思い起こせよと、古事記や源氏物語をを取り上げて解題、注釈しようという古典研究活動が始まった。とりわけこの頃、解読不能になっていた変体漢文(和語)で書かれた古事記の写本を集め、読みを確定し、意味を正し、文脈を読み解く研究が続けられた。そして、苦心の末に古事記の注釈書として、「古事記伝」が完成し、1798年(寛政10年)に刊行された。宣長は「古事記伝」の冒頭で、日本書紀は漢文で書かれ「からごころ」を意識したもので日本の本当の姿を表していない。和語で書かれた古事記こそが「やまとごころ」を表した古典である。として日本書紀を排除している。しかしのちには、古事記は日本の「心」と「姿」を描いたもので、日本書紀は日本の「歩み」を描いたものである。として日本書紀の重要性も否定していない。本居宣長は仏教や儒教といった外来の宗教や思想を「からごころ」として排し、日本古来の思想や神道を「やまとごころ」として重視した。古事記を。いわば「やまとごころ」の原典として尊重し、そこに日本人の精神があるとした。神道に関しても従来の「からごころ」の影響を受けた仏家神道や儒家神道を批判し、日本古来の神典である古事記によるべきであるとした。この研究と著作の発表により、長きにわたって忘れられていた古事記が俄かに脚光を浴びることとなり、こうした研究が国学の隆盛を導き、やがて水戸学が起き、幕末の「尊皇攘夷思想」、維新の「王政復古」、そして「万世一系の天皇」「皇国史観」の流れを産んだ。古事記はこうして、いわば「皇国史観の神典」「神道の聖典」に祭りげられていった。もっとも本居宣長自身は必ずしも上古の制度の復活を勧めたわけではない。国学という呼び方にも異議を唱え「古学」と称した。すなわち「やまとごころ」の源流を辿る古典研究を目指したものであった。

ちなみに、宣長は「源氏物語」の注釈も行なっていて、一連の講義を開いている。それをまとめたものが『源氏物語玉の小櫛」である。現代でも源氏物語の解説書として重視されしばしば引用される。ここで宣長は源氏物語を「もののあわれ」の文学と説明し、その根底に「やまとごころ」があると断じている。ただ、紫式部は漢籍に通じる才女であり、また「日本紀の御局」と称せられたくらいで、「源氏物語」も漢籍(白楽天、李白など)からの引用や、仏教の教え、漢文で記述された日本書紀からインスピレーションを得ている。すなわち漢詩の「からごころ」と和歌の「やまとごころ」を習合した作品でなのである。「蛍の巻」で光源氏が玉鬘と物語論を語る場面がある。日本紀のような歴史書は物事の一面しか語っていないが、虚構である物語は物事を多面的に描き、結局より多くの真実を語っている、と語っている。北村季吟の『湖月抄』は漢文で書かれた日本紀と和文で書かれた物語を重ね合わせた物語が源氏物語であると注釈しているのに対し、宣長は「からごころ」の日本紀の影響を無視する。「やまとごころ」の物語こそ「もののあはれ」を描くものであると、かなり強引な解釈を示している。

話を戻すと、このように古事記が日本人の思想の基本的な神典として脚光を浴びたのは、18世紀末という比較的新しい時代の出来事であったことを思い起こす必要がある。古事記は712年(和銅5年)の元明天皇への献上以来、一貫して日本の歴史の原典、皇国史観の神典、神道の聖典として表舞台で取り上げられたわけではないのだ。それまで長く忘れ去られていた古籍がこのように本居宣長によって発掘されたことで、やがて幕末維新の尊皇攘夷思想、討幕運動、そして王政復古へとつながっていった。さらには廃仏毀釈、皇国史観による「万世一系の天皇」「現人神」「神国日本」「八紘一宇」といったスローガンも、こうした寛政年間に再発見された古事記に起源を求めることができる。しかし、寛政年間といえば、天明の飢饉を乗り越え、社会が安定し、平和が続き経済も安定していた江戸幕藩体制の爛熟期であった。なぜそうのような時代に盛んになった古典研究たる国学が、やがて幕末維新という国の近代化の時期に尊皇攘夷や討幕といった「革命思想」につながっていったのか。古事記がその聖典になったのか。明治維新の持つ二面性がその背景にあるように思う。明治維新(文明開花、殖産興業、富国強兵)は国の近代化、西欧化を進める一大国家事業であったが、同時に650年続いた武家政権、260年続いた徳川幕藩体制の解体と国家再建事業でもあった。国の近代化もハードルが高いのだが、この長く続いた武士の世を終わらせることのハードルは途方もなく高かった。このために国学が果たした思想的役割は大きい。そして古事記に語られる「皇国史観」の再認識が、すなわち「天皇中心の政治体制への回帰」が、社会の基層に岩盤のように存在する「武士の世」を終わらせる新思想となり、新国家建設のロジックとして活用された。したがって「明治維新:Meiji Restoration」は「革命: Revolution」ではなく「王政復古:Restoration」なのである。西欧諸国に伍した国の近代化のために古事記の古代世界に戻る必要があった。なんと皮肉なことであろう。これは必ずしも本居宣長の目指した国学/古学の帰結ではなかったかもしれないが、後世において「王政復古」のイデオローグとして担ぎ出されたことになる。天皇が主権者として支配する国家。それは大日本帝国憲法第一条に明文化された。ただそれは古代の統治制度をそのまま踏襲するのではなく、イギリスの立憲君主制のようでいて、ドイツの専制皇帝制のようでもあるという、日本の古代天皇制(まさに古事記が成立した8世紀初頭の)に、西欧の近代君主制と議会制を潤色したような「王政復古」であった。しかしその理念である「皇国史観」だけはしっかりと根付かせた。その根拠としての古事記をいわば聖典化して、皇民はそこに書かれていることは史実であると、戦前まで教育されそう信じてきたのである。

戦後は民主化政策に伴い、「皇国史観」の否定が行われ、天皇が自ら人間であることを宣言し、「国民主権」が憲法に謳われる。天皇は「国民統合の象徴」となる。そして古事記も「聖典」の呪縛から解き放たれ、自由な研究が進められるようになった。しかし、いまだに古事記に関しては国家創世神話へのノスタルジア、日本古来の歴史書の存在というプライドから、意識無意識のうちに書かれていることは史実であると信ずる(信じたい)という心情から抜け出せていない。しかもこれは仏教や儒教や、まして西欧思想などの外来思想の影響を受ける以前の日本独自(やまとごころ)の姿だという理解に心動かされる人も多い。そうした歴史観、国家観が披瀝されている著作を今でも目にすることがある。これはもはや合理的な史実認識というより、超越的なストーリーへの信仰である。歴史書というからには、書いてある物語を鵜呑みにするのではなく、その背景を理解し史実を確定するために批判的に解読するという、科学的文献研究姿勢が不可欠であることは言うまでもない。また日本の文化が、大陸からの稲作農耕伝来に始まる様々な外来文化を受容し、独自に変容してきたものであることは紛れもない事実である。元来、文明や文化というものは人の交流に伴って伝搬し、受容され、変容されてその地域に根付いていったものである。この古事記もそうした外来思想の影響の例外ではない。古事記編纂は仏教も儒教も伝来後の所為であるし、そこに展開された多神教的神話は世界中の神話にその痕跡が読み取れるし、多くの伝承も大陸や南方のそれに「祖型」を見ることができる。多分に儒教的思想も随所に表れている。そこで宣言された国家観は明らかに華夷思想の受容と日本的変容である。大陸の王朝の存在を強く意識しつつもう一つの「中華世界」の存在を主張している。それを記した文字自体が外来の漢字を受容し変容させたものではないか。あるいは、古事記が日本精神の神典、神道の聖典であると言うのであれば、それは聖書がキリスト教の聖典であるのと同じである。聖書は歴史書ではない。そこに記録された神の教義を信仰しその奇跡を信じても、それは人間の歴史を語ってはいない。神話と歴史、神の摂理と人間の理性。神学と哲学。信仰と科学。17世紀のベーコンやデカルトが開いた近代合理主義哲学思想と科学の発展の恩恵を共有するならば、そして科学的合理主義を明治期に受容し近代化を図ってきたことを自負するならば、神話と歴史を分けて考えなくてはいけない。本居宣長が言うように、古事記に記述されているのは「日本のあゆみ」:歴史ではなく神話に仮託された「やまとごころ」である。古事記は、世界から伝わった思想、伝承や習俗といった多様な文化の受容と、日本独自の多神教的習合、変容から生まれた稀に見る古典遺産であり、「やまとごころ」はそのようにして育まれた。そのような視点で古事記を読むべきであろう。そうしたものであるが故に翻訳され(ウェイリーやサイデンステッカ)世界の人々に広まり愛されているのである。文化の持つ普遍性である。





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