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2018年5月24日木曜日

平城宮 佐保路散策 〜平城京一条大路はセレブ通り〜

 新緑の奈良佐保路を散策した。定番のルート、すなわち、不退寺をスタート地点に、一条通を真西に、海龍王寺、法華寺、平城宮跡、さらに西大寺へと歩を進めた。残念ながら秋篠寺までは足を延ばすことはできなかったが、次回のお楽しみに。


1)不退轉法輪寺(不退寺)

 平安遷都後の809年。平城天皇は譲位の後、旧都平城京を懐かしみ、寧楽に御殿を造営した。萱葺き屋根であったため「萱の御所」と呼ばれた。その後、皇太子阿保親王、その子在原業平が引き継ぎ(825〜880年)ここに住んだ。847年、業平は父阿保親王の菩提を弔い、衆生済度を念じて自ら聖観世音菩薩を彫り、仁明天皇の勅願寺「不退転法輪寺」(不退寺と略称)を創建、これを安置した。これより寺勢は大いに栄えた。しかしその後、徐々に衰退し、鎌倉時代以降は西大寺の末寺となり真言律宗の寺となる。今は「花のみ寺」として、四季折々の花が楽しめる大和路ファン憧れの寺となっている。仏道修行の場というより、貴族の邸宅、平安時代のイケメン在原業平の伊勢物語のイメージを彷彿とさせる佇まいだ。この季節はまさに新緑真っ盛り。静けさと共に若葉に包まれた心安らかなる寺である。


不退寺本堂


不退寺南門

多宝塔基部
元は桧皮葺の上層部があった

黄菖蒲は盛りを過ぎていた




2)皇后宮内寺(海龍王寺)

 710年の平城京遷都に際し、藤原不比等が邸宅を構えるため地元の土師氏から土地を譲り受けた。その一条大路の敷地内北東の隅にあった寺院を取り壊さず、邸内に残し隅寺とした。鬼門封じであったのだろう。720年の不比等の死後、娘の光明子(光明皇后)がこの邸宅を相続し皇后宮となった。それに伴い邸内の隅寺を「皇后宮内寺院」とした。
その後、在唐18年、二度の遣唐使で唐から多くの貴重な仏典、仏像を持ち帰った玄昉をその寺の住持に任じ、最新の仏法、鎮護国家思想の基礎となる仏教政策の顧問として邸内に住まわせた。さらに密教にも通じていた玄昉は聖武天皇、光明皇后、聖武天皇生母藤原宮子のための祈祷/祈願を行い病を治し、天皇家に絶大な信頼を得る。その宮廷寺院を聖武帝が寺号を「海龍王寺」とし、遣唐使の渡海安全を祈願させた。やがて、平安京遷都に伴い衰退していった。時を経て鎌倉時代に入り、源平の争いも終わり、荒廃した南都大寺の再建が始まった。この海龍王寺/光明皇后宮内寺院を叡尊が再興し、真言律宗の道場とした。現在も法華寺の一隅をなす寺である。

 その海龍王寺の住持となった玄昉は、留学生仲間の吉備真備とともに橘諸兄政権の中枢をなした。反対勢力も多かったようで、玄昉の権勢を排そうと藤原広嗣が太宰府で起こした乱で失脚しそうになるが乱は鎮圧され広嗣は殺される。しかし、今度は藤原仲麻呂(恵美押勝)らの反グローバル派の攻撃に遭い、太宰府の観世音寺別当に左遷されそこで没する。玄昉には後世様々な怨念話が付きまとう。観世音寺落慶法要の最中に藤原広嗣の怨霊に取り憑かれてその首が都まで飛んで行ったとか、宮廷において宮子や光明子との密通のうわさなど、のちの道鏡やロシアロマノフ王朝のラスプーチンのイメージにオーバラップされるようなスキャンダラスなエピソード(噂話)が絶えない。奈良時代の仏教僧は、当代一の知識人であり、国際人であり、権力中枢に入り込める立場にあったことから、様々に利用され、あるいは政争に巻き込まれた。また密教秘儀により病気を治す「医者」としても重用された。仏教を鎮護国家の法とする聖武帝や孝謙天皇、称徳天皇(重祚)にとっては留学僧は重要なブレーンであった。それだけにその人生の光と陰もコントラストが強かったのだと思う。その玄昉僧正の墓は太宰府観世音寺境内の片隅にひっそりと残されている。花を手向ける人もなく哀れを誘う。


緑深い海龍王寺参道

海龍王寺山門

本堂

国宝・五重小塔
重文・西金堂
堂内に五重小塔が安置されている
光明皇后宮内に残る唯一の奈良時代建造物







3)法華滅罪寺(法華寺門跡)

 光明皇后の発願による門跡寺院。平城宮に隣接する不比等の邸宅であったところで、それを承継した娘の光明子/光明皇后の邸宅に開かれた寺である。「法華滅罪の寺」と称した。仏法を国家鎮護の基本と考えた聖武天皇の勅命により、東大寺を総国分寺として全国の国分寺を配したのに対し、光明皇后の法華寺は総国分尼寺という位置付けであった。これまでの光明皇后宮内寺院を「法華寺」と称した初見は747年である。隆盛を極めた法華寺も、やはり平安遷都以降、寺勢が傾き、荒れ果てた。源平争乱の時代には平重衡の兵火により東大寺、興福寺などとともに大きな被害を受けたが、鎌倉時代に入って、東大寺を再建した重源の手で法華寺も再建された。さらに西大寺を再建した叡尊により真言律宗の門跡寺院として整えられ、再び栄えることとなった。1999年以降真言律宗から独立し、光明皇后にちなんで光明宗としている。
法華寺は現在でも不退寺や海龍王寺に比べると広大な寺域を有していて、さすが光明皇后邸宅跡を実感させるものがある。境内には庭園がいくつもあり、光明皇后があらゆる人に開放して使わせたという浴室(からふろ)、今でいう薬用サウナのような施設や、古民家光月亭が残されている。すぐ西は平城宮跡に直接つながっていて、平城京一条大路というその立ち位置を見てもかつての藤原不比等、光明子の権勢を今に伝える境内であることがわかる。比較的静かな佐保路散策にあって、ここだけは観光客が多い。


法華寺門跡

法華寺本堂

江戸時代初期の「仙洞うつし」庭園
浴室(からふろ)
光月亭










4)西大寺

 764年、孝謙上皇/称徳天皇重祚により金銅四天王の造立が発願されたのが始まり。鎮護国家の法を守る東大寺と双璧をなす西大寺として780年まで造営が続けられた。父の聖武天皇勅願の東大寺に並ぶ規模をほこり、西の官大寺とし百十数宇の堂宇が甍を連ねる大伽藍であった。創建に当たっては、当時の孝謙上皇・称徳天皇に重用されていた道鏡の影響があったものと考えられている。その背景には藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱や疫病の蔓延といった社会不安があり、平城京に不穏な空気が漂う時代であった。さらにその後の天皇の道鏡の寵愛に関連した宇佐神宮御宣託事件や和気清麻呂の活躍などの奈良時代の終焉を予感させる時期の創建であった。やがて、都が平安京に移り、広大な寺域を誇った西大寺は荒廃したが、鎌倉時代に興正菩薩叡尊により再興され、真言律宗の本山となった。
現在は近鉄西大寺駅から歩いて5分ほどの所にある。この辺だと西の京の薬師寺や唐招提寺が人気の寺。あるいは秋篠寺の伎芸天に憧れる人々が多い。駅に近い西大寺はあまり観光客が押しかける寺ではなくて静かな境内である。しかし奈良時代という時代を知るには外せない寺だ。


西大寺正門

西大寺講堂

西大寺の塔基壇


 さて、ここまでそれぞれのお寺の故事来歴を並べてみると、佐保路の寺にはいくつかの共通点があることに気づかれたであろう。

① 平城京南北一条大路に並び建つ寺である。すなわち平城宮内裏に近く、西大寺を除き、平城宮の左京(東郭)に位置する。
② 皇族や藤原氏の邸宅、皇后宮に創建された寺である。すなわち名家の居並ぶ高級住宅街に開かれたセレブ寺であること。
③ やがて平安遷都などにより荒廃するが、鎌倉時代以降、すべての寺が叡尊により真言律宗の寺として再興されている。

 こうした3つの共通点は、平城京の性格を物語っていると思う。平城京の地図(下記図参照)を見てみると藤原京や平安京と異なり、平城宮大極殿、大内裏の東に大きく郭外条坊が張り出している。ここには藤原氏の邸宅や藤原氏の氏寺である興福寺、聖武帝(藤原不比等の娘婿)勅願の東大寺、光明皇后の法華滅罪の寺(その一角に海龍王寺が位置する)、さらに郭外の春日山の麓には藤原氏の祖霊神を祀る春日大社が鎮座している。元興寺は蘇我氏由来の寺。紀寺は紀氏由来の寺であるが飛鳥から平城京移転を認めたのは藤原氏だと言われている。すなわち平城京左京は藤原氏のための都であったと言っても過言ではない。現在の奈良市の中心も、観光客で賑わうエリアもこの平城京左京、すなわち奈良公園(かつての興福寺境内)、東大寺、春日大社のあるエリアで、特に東に飛び出した外郭であったところである。かつての平城京の中心であった平城宮跡、朱雀大路跡といえば、つい最近まで田園地帯で、今でも近鉄電車が国史跡平城宮跡を横切る光景を見てもわかるように茫漠閑散とした町外れだった。

 話はそれるが、平安京の大内裏、大極殿も、平安遷都のころは今の二条城の北あたりにあった。現在の京都御苑(京都御所)は平安京の朱雀大路の東、すなわち左京に位置している。京都市の中心もいまや鴨川寄り、すなわち東寄りのの中京、左京に移っている。また「遠の朝廷(とおのみかど)」筑紫の太宰府も、奈良時代、平安時代の太宰府政庁や朱雀大路があったところは、その後、平城宮跡と同様、田畑になり、明治時代まで、長く都府楼政庁の位置が明確には確認されていなかった。太宰府の中心はいつしか都城の東郭に移り、鎌倉時代の鎮西総督府は現在の五条あたりにあったと言われている。現在は太宰府天満宮のある東の郭外であったところが市の中心となっており、観光客で賑わう様は奈良を彷彿とさせる。都の中心は時代とともに東へ遷移する。不思議だ。これは偶然か?

 平城京に話を戻すと、左京/東郭に対し、右京/西郭の重要施設は、藤原京から移転してきた天武/持統帝の薬師寺と、唐僧鑑真の唐招提寺である。藤原氏色が比較的薄い地区である。その右京/西郭に、東大寺と双璧をなす西大寺を建立した意味があるのではないかと考える。すなわち藤原一族(特に仲麻呂、のちに紫微中台恵美押勝)の影響から脱して、新たな鎮護国家思想を打ち立て、天武・持統帝時代の天皇親政に戻ろうとした。しかし、現実はその手段として道鏡を政権に近づけるなど、孝謙上皇/称徳天皇は揺れ動き、混乱をもたらした。結局は藤原氏、仏教勢力が跋扈する都、平城京を捨て山城国葛野の地へ新たに平安京を造営し遷都することになるのだが。時代が下って鎌倉時代、興福寺の学僧、叡尊が、真言宗の権力迎合、堕落を批判し、真言密教と律宗の基本に戻るべく、蜜律不二の真言律宗を立てた。叡尊は荒廃していた西大寺を再興し真言律宗の拠点にした。興福寺を中心とする強大な南都仏教勢力が、大和の政治/経済という世俗権力の中心として支配力を誇る中、叡尊が西大寺を再興し、真言律宗の本山とし、全国300末寺を有することとなった意味は大きい。かつての不退転法輪寺(不退寺)、皇后宮内隅寺(海龍王寺)、法華滅罪寺、そして西大寺が、真言律宗の寺として再建されたほか、浄瑠璃寺、白毫寺、元興寺など大和路の古刹が真言律宗の寺として今に法灯を守り続けている。我々の時空旅を可能ならしめていることにも感謝したい。


平城京
(平城宮国営公園HPより)

平城宮東院御苑





朱雀門

朱雀門から大極殿をのぞむ
途中を近鉄電車線路が横切っている

朱雀門から真東に若草山・春日山展望

平城宮跡からは大量の木簡が出土
公式文書資料と異なり、当時のリアルな社会の実態を垣間見ることができる。
新装なった「平城宮いざない館」に展示

広大な平城宮跡
まだまだほんの一部しか発掘されていない

(撮影機材:Leica SL + Vario Elmarit 24-90 ASPH)






2018年5月22日火曜日

多武峰妙楽寺に新緑を愛でる 〜なぜ談山神社なのか〜



 談山神社として知られる多武峰の妙楽寺は、645年の乙巳の変の功労者、中臣鎌足、のちの藤原鎌足の菩提を弔うために、唐から帰国した鎌足の長男、定慧(俗名:中臣真人)が678年に創建した仏教寺院である。

 実は、こんな短い説明の中に、我々が習った日本史の常識を覆す様々な矛盾やエピソードが潜んでいる。まず、第一に何故、仏教寺院がいま神社と呼ばれるのか。次に、何故、崇仏派の蘇我氏を滅ぼした廃仏派の中臣氏の鎌足の菩提を弔う「寺」なのか。そして、乙巳の変の功労者、鎌足の長男がなぜ仏僧になったのか。

 この三つの「何故?」を説明しよう。

 1)創建以来、妙楽寺はずっと仏教寺院であった。神仏習合で境内に社が設けられていて、江戸時代にいまの本殿に改修されてはいるが、基本は寺であった。「神社」になったのは明治の廃仏毀釈、神仏分離令以降のことである。神社としてはとっても新しい。社格は別格官幣社。すなわちここは1200年仏教寺院であった。しかし仏僧たちは還俗し、妙楽寺は突然「談山(たんざん)神社」となった。その「談山」の由来は、中大兄皇子と中臣鎌足がここ多武峰の山頂でクーデターの密議を交わしたことから「談らい山」すなわち「談山」と後世呼ばれたことに発する。仏塔である十三重塔や講堂、金堂のある伽藍配置など、どう見ても神社には見えない作りはこうした事情による。しかし、ご本尊はどこへ行ったのか?明治の廃仏毀釈で破却されてしまったのだろうか。

 2)蘇我氏=崇仏派、物部氏/中臣氏=廃仏派、と二分法で対立軸を描く歴史を学ばされた我々は、神祇職の家系で廃仏派の中臣一族。その鎌足の「菩提寺」妙楽寺と言われた途端、理解できなくなる。しかし、世の中は、そんな二分法で説明できるほど単純ではない。確かに鎌足の属する中臣氏には中臣鎌子のように蘇我氏と対立した強硬な廃仏派がいた。しかし鎌足自身はどうであったのか。蘇我入鹿の専横に反発して、中大兄皇子に接近して、クーデターを実行したのは間違いない。しかし、彼が廃仏を主張していた証拠はない。少なくとも天智帝の時代に彼が廃仏派であったとは考えられない。その長男、定慧は仏門に仕える身となっているし、さらに次男、不比等は、平城京における聖武帝の東大寺の造営、法隆寺の再建、藤原一族の氏寺興福寺造立などを支援する、奈良時代の仏教文化のパトロンといっても良い。ちなみに蘇我氏も蝦夷、入鹿という蘇我宗家は乙巳の変で滅ぼされたが、同じ蘇我氏でも蘇我倉山田石川麻呂は鎌足に誘われて中大兄皇子につき、のちに孝徳帝の右大臣にまで昇進している。むかし教科書で習った「常識」をそのまま鵜呑みにしてはいけない。その多くが新事実発見により書き換えられている。

 3)藤原氏の始祖は中臣鎌足(のちの藤原鎌足)であるが、その一族繁栄の基礎を築いたのは藤原不比等である。いわば、現代まで続く藤原ファミリー創業者ともいうべき不比等は鎌足の長男ではなく次男である。長男、定慧は僧になり、遣唐使に随行する留学僧として唐に渡る。なぜ鹿島神宮、香取神宮の神官の家系と言われ、天智帝政権の内臣であった鎌足の長男が仏僧になったのであろうか。なぜ藤原氏の家督を継がなかったのか。諸説あるが、鎌足が先進文化を取り入れることのできる遣唐使になるには留学僧になるのが一番だと考えたからとする説がある。すなわち鎌足が天智朝の内臣として外交に携わったことから息子を唐に出し、一族の権力基盤を強固なものにしようとしたと説明する。しかし、どうも納得できる説明ではない。天皇親政を目指した天智帝の時代は、同時に唐/新羅との白村江の戦いの敗戦で国家存亡の危機に瀕した時代であった。鎌足はその臨終の床で天智帝の見舞いに、武人として国家に貢献できなかったことを詫びたという。彼は、次男の不比等のような朝廷内で権勢を振るう藤原一族を夢見てはいなかったのではないかと思う。鎌足にとって不比等はある意味では不肖の息子だったのかもしれない。むしろ学問僧となった長男、定慧こそ自分が思い描いた跡取りの姿だったのかもしれない。

 いま、談山神社、多武峰は新緑が美しい。見事としか言いようがない。秋の紅葉も美しいが、この5月の風薫る談山神社はさらに美しい。日本の古代史の画期となった事件の密議の場として、その企ての功労者の菩提を弔う寺として、今に名を残す多武峰妙楽寺/談山神社であるが、いまは緑の大海に揺蕩う数々の堂宇の朱色がただただ美しい。そこは仏も神霊も共におわす無辺の宇宙。この穏やかで、心洗われる景観のなかに佇む自分が、時空を超えて旅する人間の一人であることを感じざるをえない。

 このあと、そんな神域をあとにして、険しいけもの道を下り、権謀術数渦巻く現実世界、飛鳥に向かった。中大兄皇子も鎌足も、かたらい山でのクーデタ計画密議ののちこの道を下ったのだろう。上集落、細川集落あたりまで来ると、ようやく里の風景となる。本来ならそろそろ棚田に水を張り田植えの季節と成るのだが、今年はまだ早かったようだ。田おこしを始めたばかりのようだ。稲渕方面を展望してもまだ棚田に水面は見えない。やがて蘇我氏の奥津城、石舞台古墳、都塚古墳のある飛鳥に降りてくる。あのクーデターの現場となった飛鳥板蓋宮はすぐそこにある。日本の古代史における国家創生の胎動はこの狭い奈良盆地の南東の一角、多武峰山麓で起こった。



藤原不比等像
藤原鎌足像




























多武峰から飛鳥へ

けもの道途中の野仏群

気都和既神社
上集落「もうこの森」

細川集落

棚田に水が張られ始めた

伝統的な大和棟の古民家
アザミ
飛鳥の都塚古墳
最近の調査で蘇我稲目の墓ではないかと言われている。
近くには蘇我馬子の石舞台古墳がある



岡寺

(撮影機材:Leica SL + Vario-Elmarit 24-90 ASPH)