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2022年1月22日土曜日

古書を巡る旅(19)「Verbeck of Japan:フルベッキ伝」W.グリフィス著 〜『フルベッキ』とはオレのことかとVerbeck云い〜




「Verbeck of Japan」1900年 New York
William E.Griffis




フルベッキ肖像




表紙

フルベッキ夫妻

幕府の長崎英語伝習所「済美館」門弟との集合写真


大学南校(帝国大学の前身)学生の集合写真


「ギョエテとはオレのことかとGoethe:ゲーテ云い」。戦前の旧制高等学校の学生が西欧人の名前の表記を皮肉った川柳。そのまま今日取り上げるフルベッキにも使える。「フルベッキとはオレのことかとVerbeck:フェルベック云い」。外国人の名前の日本語での読み、発音はなかなか難しい。特に幕末から明治の頃の日本人にとっては聞きなれない名前に大いに戸惑ったことだろう。その時代の人が耳で聞いた「音」なのか、文字を自分流に読んだ結果なのか、思えば奇妙な表記である。本人も「それってオレのこと?」と、びっくりしていることだろう。他にもコンドル先生はConder:コンダー、モース先生はMorse:モールス(モールス信号と同じ)、ヘボン先生はHepburn:ヘップバーン。ともあれ、ここでは歴史教科書で呼び習わしている「フルベッキ」で統一しておこう。

さて、いつものようにインスタ「映える写真」をチラチラと眺めていたら、お馴染みの神田神保町の北澤書店のサイトに、この「Verbeck in Japan」の書影が掲載されているのを見つけた。先述のようにVerbeckといっても誰のことかわからないが、フルベッキといえば幕末明治に活躍したお雇い外国人だと聞いたことくらいはある人も多いだろう。フルベッキ関連の書籍は貴重本だ。あまりネット検索してもお目にかかることはない。後述のように、フルベッキ自身は自叙伝を書いていないし、彼の評伝もその存在があまり知られていない。旧約聖書の和訳という大きな業績はあるが、彼自身については日本語版は研究者向けの専門書が刊行されているだけである。先日紹介した英国公使ハリー・パークス:Harry Parkesの評伝と同様、自分自身の記録を残していない明治の外国人は思ったより多い。早速、書店に出掛けてみた。若店主に「古書店がインスタ使うなんてなかなか撒き餌が上手いなあ。すぐに獲物が食らいついてきたね」と冷やかすと、「一発狙いで見事に釣れました!」と一言。まんまと術中にハマったのだが、釣られる獲物が喜ぶ撒き餌というわけだ。今回、ウィリアム・グリフィスの著作が3冊入ったとのことで、その一冊が「フルベッキ伝」であった。さすが面白い本を見つけてくるものだ。本書は1900年ニューヨークで刊行された初版本である。表紙にはフルベッキが明治天皇から叙勲を受けた旭日章が配されている。


(1)フルベッキの略歴

で、フルベッキとは一体何者? 聞いたことはあるが、実はどのような人物か知らないという人が大方ではないだろうか。まずは略歴を紹介。

 Guido Herman Fridolin Verbeck (Verbeek)(1830〜1898年)

名前の表記は、オランダ式にはフェルベックまたはフェアビーク、英語式にはヴァーベックであるが、日本では「フルベッキ」と表記されている。オランダ人でアメリカに移住。そこで神学教育を受け、宣教師として幕末に来日。そして日本で波乱の生涯を終えた。彼は日本滞在が長く、オランダ、アメリカともに国籍を失い、無国籍となる。この本のタイトルも「Verbeck of Japan A Citizen of No Country:国籍を持たない市民 フルベッキ」となっている。

1830年オランダユトレヒト生まれ。プロテスタント・モラビア派教会で洗礼

1852年 親戚を頼って渡米。ニューヨークへ

1855年 ニューヨークの長老派オーバン神学校入学

1859年 卒業とともにオランダ改革派教会宣教師に叙任され、同年結婚とともに日本へ

1859年(安政6年)11月上海経由で長崎に

日本は五カ国との通商条約は締結されてはいたものの、いまだキリシタン禁教が解かれておらず布教はできなかったため、長崎にて私塾を開きで英語を教えた。この時に大隈重信、副島種臣が教えを受けた。

1864年(元治元年)幕府の長崎英語伝習所(のちに済美館)が開設。その英語教師に就任。済美舘では何礼之、大山巌などが学んだ。何礼之は私塾を開きフルベッキの指導を仰ぎながら多くの人材育成に努めた。この頃、勝海舟、小松帯刀、西郷隆盛、桂小五郎、横井小楠などとも長崎で出会っている。

1867年(慶応3年)佐賀藩主鍋島直正が、長崎に藩校「蕃学稽古所」「致遠館」)を設立。そこへ招聘されて英語、政治、経済について講義。大隈重信、副島種臣も受講する。佐賀藩の江藤新平、大木喬任、さらには伊藤博文、大久保利通、加藤弘之なども学んだ。1868年には岩倉具視の子、具定、具経が門弟となる。この藩校の集合写真が、後述の「フルベッキ群像写真」(上野彦馬撮影)として話題になる。

1869年(明治2年)明治政府より招聘されて大学設立に参加。開成所の教頭、大学南校の教頭を務めた。1872年にグリフィスを福井から呼び寄せて化学の講義をさせた。

1871年の岩倉欧米使節団派遣を建議、支援。同年明治天皇より学術への功績に対し勅語を賜る

1873年(明治6年) 政府左院翻訳委員、さらに1878年には元老院に

1874年(明治7年)米国ラトガース大学より神学博士号授与。

1877年(明治8年)叙勲 勲三等旭日章

1878年(明治11年)アメリカへ一時帰国

1879年(明治13年)再来日。官職を退き、宣教師としての活動に専念。

1886年(明治19年)明治学院開学。理事、神学部教授に。

1888年 明治学院理事長就任

1898年(明治31年)東京赤坂の自宅で死去(享年68歳) 青山墓地に埋葬


(2)幕末/明治初期の教育、人材育成に貢献

略歴に述べたように、フルベッキは宣教師として1859年(安政6年)に来日した。開国後の安政五カ国条約が締結された後ではあったが、いまだキリスト教禁教令が解かれておらず、布教活動ができなかった。よって長崎では私塾を開設して英語を教えた。江戸時代を通じて西洋の外国語といえばオランダ語であったが、幕末の世界情勢は、もはやオランダ語が通用する時代ではなかった。幕府にとっては英語の習得が喫緊の課題であった。こうした情勢下ではフルベッキのようなオランダ語と英語の双方を解する外国人は貴重であったことだろう。このように幕末の長崎で、済美館、致遠館で英語や政治、経済、理学などを教え、その教え子が、のちに維新や新政府で活躍する。維新後は、明治新政府の要請で東京へ移り、開成所/大学南校の教師、教頭として教鞭をとった。のちに新政府が海外から雇い入れたいわゆる「お雇い外国人」とは異なり、維新直後には幕末に来日していた宣教師を大学教師に招聘するケースが多かった。明治新政府になってから「お雇い外国人」として欧米からやってきたチェンバレンやコンドル、モースなどは、これからは宣教師ではなく、専門的な知識と実績を有する人材を大学教師として招聘すべきである、として、学界や実業界からの人材を推奨した。しかし、大学創設黎明期にあっては、幕末を知るフルベッキのような宣教師たちの功績は大きく、英語だけではなく、これまでの蘭学の世界を超えた新しい西欧文化の講義は、維新を進めたリーダーたちに大きな影響を与えた。また多くの若手を欧米に留学させた。発展段階に応じた教育人材登用としては適切であったろう。大隈重信はのちにフルベッキを早稲田大学の建学の祖として「彼が来日していなければ今日の早稲田大学はありえなかった」と賛美している。またジェームス・ヘボン:James C. Hepburnとともに明治学院の創設に関わり、神学部教授、理事、のちに理事長となっている。日本におけるミッションスクール創設の先駆けとなった。


(3)大隈重信と岩倉使節団とフルベッキ

フルベッキは長崎「致遠館」以来の大隈重信との信頼関係が強かった。のちに彼は「私の友人の中には大日本帝国の首相とした活躍した大隈重信がいた」と手紙に書いている。フルベッキが大隈重信に対して条約改定建白書を提出していたのを岩倉具視が知ることとなり、これを契機に欧米との条約改定再交渉を目指す使節団派遣が前へ進んだと言われている。しかし、フルベッキの門下生が多かった佐賀藩出身の大隈、江藤などの使節団への参加はなく、大久保、木戸などの薩長出身者で固められた。留守政府を預かった大隈、江藤、西郷などが、岩倉の言い置きを守らずに、留守中に朝鮮開国交渉やさまざまな改革断行を進めたことが政変のトリガーを引き、留守政府要人の多くが下野し、やがては江藤新平の佐賀の乱、西郷隆盛の西南戦争に繋がってゆく。このことはフルベッキを驚愕させた。また、この使節団には多くの留学生が同行した。彼らは欧米の政治思想、啓蒙主義や、哲学を学んで帰ったものも多く、中江兆民のように自由民権思想を学んで「東洋のルソー」と称された思想家も生まれた。これもフルベッキの考えた新しい日本の姿の一つであったはずだが、薩長藩閥政府にとっては歓迎されないものであった。明治14年の帝国憲法制定の草案論争では、伊藤博文主導のプロイセン型憲法草案が主流となり、イギリス流立憲君主制やアメリカ型の自由主義的な色彩が盛り込まれることはなかった。結局、大隈も副島も下野してしまい、フルベッキも二度と政府の官職にはつかなかった。彼はこののち布教活動とミッションスクールの創設に傾倒してゆく。


(4)もう一人のジャパノロジスト、ウィリアム・グリフィス

William Elliot Griffis (1843~1928)


フルベッキ自身は自叙伝や評論を出しておらず、書簡以外は著作も少ない。本書も彼の大学の後輩であるウィリアム・グリフィス:William Elliot Griffisによる評伝である。もしグリフィスがこの評伝を書かなかったらフルベッキの明治日本における功績は忘れ去られていたかもしれない。彼は本書の冒頭で「フルベッキ無くして今の日本はありえない」と言い切っている。幕末期から英語を教え、帝大創設期に教鞭を取り、欧米への視察、留学に尽力し、日本にミッションスクールを創設するなど、近代日本を担う若き日本人の育成に多大な功績を残した。こうした記録と評伝を後世に残したグリフィスの功績をも高く評価したい。

このウィリアム・グリフィス(1843〜1928年)も明治期のジャパノロジストの一人である。日本に関する多くの著作を残しており、The Mikado's Empire, Japanese Fairy World, Japan: In History, Folk-Lore, and Artなどがある。他にもペリーやハリスの評伝を表している。彼は帝国大学で教鞭を取り、多くの門弟を輩出している。アメリカ・ペンシルバニア州フィラデルフィア生まれ。ニュージャージー州のオランダ改革派教会系のラトガース大学卒業。そこで教鞭を取る。福井藩士で幕末に幕府留学生としてラトガース大学に留学していた日下部太郎の縁で、1871年(明治4年)日本に渡り、福井藩藩校「明新館」で1年間理科(化学と物理)を教えた。版籍奉還で福井藩が無くなると、1872年(明治5年)フルベッキの要請で大学南校へ移籍。物理と化学を教えた。帰国後は宣教師となり、日本に関する著作の執筆や講演に精力的に取り組んだ。「The Mikado's Empire;皇国」は彼の代表的な著作である。グリフィスの功績の一つは、幕末/明治期の「お雇い外国人」の記録を後世に残すべく、1858〜1900年の間に日本政府に雇われて来日した外国人の資料を収集し整備したことである。このために本人だけでなく、その子孫や親族、教え子や友人などの関係者を巡り、聞き取りや手紙、日記などの資料収集に努めた。本書、Verbeck of Japanもそうした研究をまとめた著作の一つである。この一連の資料と、グリフィスが収集した膨大な日本関係資料が、母校ラトガース大学図書館に保管されている。

この日下部太郎も、留学前に長崎の「済美館」でフルベッキに英語を学び薫陶を受けている。しかし、ラトガース大学留学中に結核で夭折。グリフィスはその才を惜しみ、名誉学位を授け、卒業生名簿にその名を残した。彼の墓はニュージャージーにあり「日本国福井藩士日下部太郎墓」と日本語で墓碑銘が刻まれている。歴史の表舞台でハイライトを浴びる英傑ばかりが近代国家建設の黎明期に活躍したわけではないこと、志半ばで異国の土となった若き「命」があったことを改めて知る。奈良時代の遣唐留学生で、唐土に短い人生を終えた井真成(いのまなり)のことをふと思い出した。ここでも彼の才を惜しんだ唐人によって墓碑に刻まれた「日本国留学生井真成墓」の文字と、彼を讃える玄宗皇帝の勅辞が見つかっている。


(5)いわゆる「フルベッキ群像写真 維新の英傑が全員集合」とは

フルベッキといえば、テレビの「歴史探偵モノ」番組や、幾つかの「トンデモ歴史本」で話題になった「フルベッキ群像写真」が知られている。ネットで「フルベッキ」で検索すると、ズラリとこの種の集合写真関連記事が出てくる。「幕末明治維新の志士揃い踏み写真発見!」とか、「フルベッキを囲む集合写真の名前が解明された。なんと!ここに写っているのは全員、誰もが知る維新英傑である」といった類のハナシ。「西郷隆盛の顔写真ついに発見!」なんてキャッチや、実はフルベッキはフリーメーソンで、これはその集合写真だという「陰謀論」めいたハナシ、果ては、若き明治天皇も参加していて写っていた!etc,etc,etc... 全員の名前を記した写真が新聞紙上を賑わしたり、お土産屋で売られたりしたこともある。詳細をここでこれ以上説明するつもりはない。写真はリアルだが、この「全員集合」バナシはフェイクである。この写真は先述の長崎の佐賀藩藩校「致遠館」の生徒の集合写真で、1867年(慶応3年)ないしは1868年(明治元年)に上野彦馬が長崎で撮影したものである。したがって、そもそも高杉晋作や坂本龍馬が写っているはずがない。人物が特定できるのは大隈重信、副島種臣、岩倉具視の子息二人だけである。もっとも最近の研究で幾人かの佐賀藩士が追加で特定されており、明治新政府に出仕して活躍した人物であることがわかっている。ちなみにこの写真は本書には掲載されていない。代わりに、同じ場所(上野彦馬の長崎のスタジオであろう)で撮影された幕府学問所「済美館」生徒の集合写真(上記写真参照)が掲載されている。もし「致遠館集合写真」が本当に「維新群像揃い踏み」写真であれば、グリフィスは必ず本書に取り上げていたはずだ。掲載しなかったということは、少なくとも彼は、この集合写真がそのような「貴重な」写真であるという認識は無かったことになる。歴史の世界には面白おかしい「トンデモ話」が創作され、それがさもホントのように出回りがちであることを知っておくべきだろう。そんなことで有名になっているフルベッキ。草葉の陰で泣いていることだろう。この際、あらためて彼の本当の姿を知ってもらいたいものだ。

    「この写真、オレの写真かと西郷云い」

以上。


佐賀藩長崎藩校「致遠館」集合写真

維新群像写真として名前を記したフェイクリスト

長崎市に残る「致遠館」跡





2017年11月4日土曜日

仏教伝来とキリスト教伝来 〜グローバル化の受容と拒絶〜

(未定稿)

「仏教伝来」:538年/552年、(百済聖明王より仏像、仏典が倭欽明大王に。仏教公伝)
「キリスト教伝来」:1549年(イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル鹿児島上陸。布教開始)

1000年の時を隔てて日本に伝来した二つの世界宗教。その時代の世界文明の波をどのように受け止めたのか。異文化の受け入れには紆余曲折があろうことは容易に想像できるものの、結果的には異なる道を歩むこととなる。仏教は受け入れられ、古来からの原始神道(自然崇拝/祖霊崇拝)との融合が進み、以降日本文化の基盤をなすこととなる。一方のキリスト教は受け入れられず、伝来半世紀にして禁教令、バテレン追放、キリシタン弾圧、そして200年の鎖国時代を迎えることとなる。西欧流の近代文明が日本文化へ大きな影響を与えるのは開国後に持ち越されることとなる。いわば日本は歴史上二つの大きなグローバル化の波を受けたが、その対応は大きく分かれた。

何がこのような異なる結果を生んだのか。幾つかの切り口で考察開始!

1)国内時代背景

仏教:6世紀半ばの倭国、有力豪族による争い。ヤマト王権による列島平定に向けての戦い、国家創世の時代。倭から日本(ひのもと)誕生の約150年前。

キリスト教:16世紀後半の日本、有力戦国大名による争い、中世から近世への転換期、戦国時代の終焉から天下統一の時代。

2)国際情勢

仏教:古代東アジア的世界秩序形成期。秦、漢統一王朝が崩壊し、三国時代、南北朝時代へ。中国に大乗仏教が伝わり北魏では雲崗、龍門に石窟寺院が創建され、南朝梁でも仏教が支持された。朝鮮半島にも中国から仏教が伝来。朝鮮三国で仏教ブーム。百済と新羅と高句麗の対立。百済による倭国との同盟の一環で、最先端の思想、学問である仏教が伝えられた。

キリスト教:中世から抜け出て近世ヨーロッパが世界進出する大航海時代。「新大陸発見」、アメリカ、アフリカ、アジアの植民地獲得競争、帝国主義の始まり。カトリック国(スペイン、ポルトガル)と新興のプロテスタント国(イギリス、オランダ)の対立。植民地競争にカトリック/プロテスタント対立が投影される時代へ。

3)宗教の持つ性格の違い

仏教:在来宗教/思想/習俗との親和性。古来からの古神道(自然崇拝、のちに豪族氏族ごとの祖霊崇拝)の持つ多神教的世界観にはまる。神仏習合、本地垂迹という形、理解で融合してゆく寛容性があった(大乗仏教だからか)。当初は、蛮神として排斥する氏族と、これを積極的に受け入れる氏族が争ったが、後者が勝利した。信仰よりも、大王が天皇としての支配権を確立してゆく上での国家指導理念(鎮護国家の法)、さらには緊迫する国際情勢の中、世界文明を受け入れた「近代国家」であるとの対外アピールとしての宗教、思想、哲学として権力中枢に受容(国家管理)されていった(神道における最高神、皇祖神アマテラスの創設と合わせて進められたところに特色)。個人の救済、現世利益、来世願望の信仰としての仏教の受容は、奈良時代後期の宮廷、平安時代の貴族、平安末期の武士、そして民衆へと言うプロセスを経ながら移行してゆく。

キリスト教:一神教的排他性。進出先の既存宗教との融合というよりは対立、征服という歴史。野蛮な異教徒を教化して文明化するという目線。中世以前からヨーロッパでは強大なイスラム教勢力との戦いの歴史(ユーラシア大陸的俯瞰で見ると、イスラム教が世界的な広がりと文明の中心としてのポジションを占めていて、キリスト教はローマ帝国から西の大陸西端に圧迫されていた、いわばローカル宗教であった)。やがて聖地エルサレムを巡ってイスラム教徒の戦いの歴史に(十字軍遠征)。イスラム世界の外側(東側)にキリスト教徒がいる(プレスタージョンの伝説)という伝承から、東方世界への進出意欲。しかし、陸路はイスラム世界だったので、海洋ルートでの東方世界への進出を企図。さらにはカトリックとプロテスタントの対立。大航海時代のポルトガル、スペインの海外進出。「新大陸発見」南北アメリカ大陸への進出、マヤ、アステカ、インカなどの地域文明の征服、植民地化、キリスト教化。さらに希望峰経由でのアジア進出。やがてはイギリス・オランダの覇権に、という時代背景。日本における布教は、最初は南蛮文化の受容、渡来品獲得という権力者の意向に沿って始まった。しかし、信仰と言う意味では戦国時代という背景に民衆の苦しみ救済、来世の約束から入っていった。カトリックの戦闘的布教集団イエズス会の役割が大。民衆を取り込み、地元の君主を君主と思わぬ反権力志向。植民地化、帝国主義的海外進出の尖兵。一向宗的。

4)国内権力闘争の構造(内憂外患への対応)

仏教:ヤマト王権の全国統一事業の途中。有力豪族の勢力争い。蘇我氏、物部氏・大伴氏、中臣氏の対立。渡来系勢力の文化、先端技術を取り込んで権力基盤とした蘇我氏(崇仏派)。その中の仏教という「世界文明」の受容して権力基盤の確立を図った。一方、古来からの価値観、思想を基盤とした物部氏/中臣氏を打倒。しかし、やがて「乙巳の変」によりその蘇我氏が排除され藤原氏(中臣氏)が権力中枢に。やがて倭国は唐新羅連合軍に白村江の戦いで敗れ、大陸からの侵攻という対外的な危機を迎える。侵攻はなかったものの国家意識が芽生え「近代国家」体制の整備を急ぐ。そこで東アジアの「先進国」が導入している「世界文明」である仏教を鎮護国家思想として位置づける。律令制などの政治システム整備、大王から天皇へと支配強化、「日本」という国号と合わせ、いわば「大宝維新」「国家近代化」のイデオロギーとして取り入れられて行く。対外的に「文明開化した国」であることをアピール。

キリスト教:戦国時代を終わらせる天下統一事業の最終章。織田氏はキリスト教を仏教勢力(比叡山、一向宗など)を屈服させるための新たな思想として、新しい国家指導理念に取り入れようとした形跡。それ以上に鉄砲などの「近代兵器」入手、南蛮貿易利権志向。しかし道半ばで頓挫。続く豊臣、徳川政権も貿易利権に魅力。九州を中心とした大友氏のような大名もこうした観点から熱心に布教を支援。しかし豊臣vs徳川の対立構図のなかで、大坂城/秀頼+キリシタンが徳川政権から危険視され排除。背景にオランダが。
また対外的にキリスト教を国家宗教として導入し、統治支配の権威付けを行ったり、対外危機を乗り切るため「近代国家」を標榜する動機も意図もなかった。そういう国際情勢でもなかった。むしろ、南蛮/切支丹勢力の伸張こそが対外危機とみなした。仏教受容の背景との違い。

権力者の思惑、権力の確立に利用できるか否かという視点は共通。仏教は利用可。キリスト教は利用不可、あるいは利用の必要性ないと。民衆の信仰による救済という視点はいずれものちになってからのもの。

5)「近代化」への貢献:

仏教:古代における中国、朝鮮半島諸国と遜色ない「近代国家」の創造。律令制や唐風都城建設などと一体化されて受容されていった。異国風の寺院建築や美しい仏像などに魅了され憧れられ、それらを生み出す技術を積極的に受け入れてゆく。

キリスト教:戦国乱世を終わらせ天下統一の仕上げ。鉄砲伝来により戦いの形態が激変。外来文化、技術をいち早く取り入れた方が優位に。さらに南蛮交易による利権獲得のために切支丹に改宗する大名。最後は、禁教令、鎖国政策/出島管理貿易による貿易と宗教の分離。

6)文化への貢献

仏教:飛鳥、白鳳、天平文化に代表される日本の文化基盤を形成。

キリスト教:南蛮文化。安土桃山文化に影響。しかし日本文化の基層とはなり得なかった。

7)民衆の姿

仏教:初期には国家的宗教/思想/哲学。民衆の信仰とは無縁。わかりにくい教義。奈良時代後期から平安時代初期に入ると空海、最澄により教義解説、日本における新しい宗派誕生。貴族層、さらには武家層に受け入れられてゆく。民衆に受け入れられる現世利益、来世信仰は平安時代末期以降。

キリスト教:戦国時代にあって民衆の救いから一挙に30万人の信者を獲得。苦しい現世よりも来世の約束。反権力、殉教礼賛。皮肉にも支配層からは危険視されることに。禁教、弾圧、隠れの時代へ。


日本史における仏教とキリスト教を巡る動き。

仏教:

対峙した在来宗教はアニミズム/自然崇拝/祖霊崇拝(のちに神道へ)
インド/中国/朝鮮半島に置ける世界宗教/世界文化の受容による倭国の「近代化」
寺院建築、仏像、仏典などの「近代文明」の可視化。
崇仏派と廃仏派の対立
蘇我氏という渡来人をバックに有する権力集団による受容。
大王/天皇家による受容。やがて外来の統治システムである律令制、冠位十二階、班田収授法などとともに、仏教を鎮護国家の法として位置づける。国家統治理念にしてゆく。東アジアにおける中華的「近代国家としての成り立ち」に必要な思想としての仏教。
古来からの自然崇拝/祖霊崇拝の祭祀である原始神道との融合。神仏習合。本地垂迹。
外来文化、技術、科学の受け入れと権力との結びつき。渡来人集団の役割。
遣唐使による学問僧のの留学。空海、最澄による仏教教義導入、世界観の日本化。
鑑真招請による唐招提寺建立。授戒による僧の育成、普及
民衆に受け入れられる現世利益、来世信仰の宗教となるのは平安時代以降のこと。
空海による密教解釈、最澄による民衆宗派の始祖、親鸞や道元や日蓮や法然の育成。
明治維新後の一時期、国家神道隆盛の中で廃仏毀釈の蛮行により、多くの仏教寺院、仏像が破壊された。この時期に多くの文化財が海外に流出した。

キリスト教:

対峙した在来宗教は仏教各派、神道(神仏習合)
大航海時代、近世ヨーロッパ文明/文化の受容。
キリスト教の内部抗争。ローマカトリックとプロテスタントの対立。ポルトガル/スペインとオランダ/イギリスの対立。ローマカトリック教会の信徒獲得のためのアジア進出。その尖兵であるイエズス会の活躍。
権力者による南蛮文化受容の変遷(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)だんだん警戒。
当初は南蛮貿易による利益を重視。鉄砲、大砲などの近代兵器獲得。
キリシタン大名もほとんどが貿易利権志向。
戦国時代の権力者の対立構造。関ヶ原以降、西国大名/豊臣秀頼(大坂城にキリシタン結集)と関東の徳川家康政権の対立。
初期の仏教のような国家統治の思想/法としてではなく、戦乱に明け暮れる時代に、来世の救いを求める民衆に瞬く間に広がった30万人の信徒。やがてこれが権力者にとって脅威となる。一向宗のような反権力抵抗集団になる恐れ。それに乗じたスペインによる侵略警戒、脅威論など。特にプロテスタント国オランダ、イギリスによる反カトリックプロパガンダが徳川政権の意思決定に影響。鎖国へ。植民地化されて行くアジア諸国という現状認識に基づく。
イエズス会の役割、マカオにいたフランシスコ・ザビエルが日本人に会い、日本での布教に大いに関心を抱く。鹿児島に上陸し、豊後府内、博多、山口、京都と回る。信長の布教許可を得る。セミナリオ/コレジオなどの神学校を各地に創設。日本での布教に大きな役割を果たした。先行してやってきたイエズス会と異なり、その後やってきたドミニコ会、フランシスコ会の布教方針は教条主義的。原理主義的。在来宗教である仏教、神道との対立。寺社、仏像の破壊、仏教徒の排斥。これが秀吉の禁教令の発端に。(例:大友宗麟はキリスト教による神の王国を豊後に作ろうとした。領民にキリスト教を強制。仏教徒を弾圧)
一方、バテレン司祭は南蛮人。しかし日本人司祭がなかなか生まれない。日本人信徒の不満。キリスト教の日本化に一定の限度も。
天正遣欧使節派遣。イエズス会のプロパガンダ。ローマ法王/カトリック教会の苦悩。プロテスタントとの争いでイギリス、ドイツなどで信徒を失う。イエズス会が遠い東方の国に異教徒のキリスト教改宗者発見!東方の三博士の聖書説話再来。4人の少年のその後の運命。中浦ジュリアンの殉教。
仙台伊達藩からメキシコ(ノバエスパニア)派遣された支倉常長。さらにスペインに向かい皇帝に謁見するがなんの成果もなく帰国。
1614年徳川幕府による禁教令に伴いバテレン司祭がマカオに退去(一部は日本に残り潜伏)。日本人信者が取り残される(許しの秘儀、来世救済ができなくなった)、一方で、日本人信者もマカオへ追放。日本人の帰国を許さず。

既存宗教、仏教、神道との関係、一神教的な排他性。野蛮な異教徒を改宗させることが正義。一向宗の結束に例えられるキリシタン。一方で仏教僧侶の腐敗堕落もあり。
弾圧=殉教者を聖人として礼賛。権力者には脅威。
最終的には島原の乱を機にキリシタンは徹底弾圧され、地下に潜伏(隠れ切支丹)し、日本の歴史の表舞台から姿を消す。

禁教令から200年後、近代欧米流の「信教の自由」という新しい文明、思想の受容(不平等条約改正という動機があった)により明治政府により禁教令が廃止されキリスト教は受け入れられた。「長崎にキリシタン発見!」の報。しかし、その後の近代日本におけるキリスト教徒の数はそれほど増えず、人口の1%程度。


共通点と相違点の総括:

ユーラシア大陸の東端の海中にあった日本は、押し寄せる古代の中華文明、近世の西欧文明といったグローバリズムの波に対応してゆかねばならないという地政学的なポジションにある。仏教もキリスト教も、異民族/異教徒による征服による強制改宗ではなく、外から押し寄せる文明の波を受けて、受容するか否かを自ら決定するというプロセスを経ることが特色。常に既存の価値観からパラダイムシフトするリスクへの覚悟と相克を経験する。古来からの価値観、習俗との融合、受容と変容。あるいは対立/相克、あるいは受け入れられないものの排除。二律背反のせめぎ合いのなかでの一神教同志のイスラム教とキリスト教の戦い歴史を経験していない世界であった。二者択一ではなく、融合、咀嚼、変容のプロセス。あるいは「同化」できるか否か。そのなかで一神教的、排他的な宗教観は受け入れられない?多神教的(アニミズム/祖霊崇拝)、縄文以来の自然との共生という原始神道のDNAに適合する宗教観に拠って立つ志向が出来ていたか。そういう点ではアニミズムを基盤とするケルト族の原始キリスト教の受容の関係に類似するかもしれない(ただし多神教としての神仏習合のようなことが起こったのかはわからない)。ただ大航海時代に「新大陸」に繁栄したインカ、アステカ、マヤなどの太陽神信仰/アニミズムはスペインからの侵略者に滅ぼされ、征服され彼らが持ち込んだキリスト教への改宗を迫られた。

時の為政者、権力者の外来宗教、文化の受容をめぐる逡巡。「自らの権力基盤の構築、強化に役立つか否か」その一点。結果、仏教はYes。キリスト教(カトリック)はNoであったということ。特にキリスト教(カトリック)は帝国主義的な海外進出の尖兵として出てきたとの認識で警戒され拒否された(プロテスタント側のプロパガンダに乗ったにせよ)。ただし宗教と切り離して海外との交易利権の独占(幕府の出島における管理貿易、薩摩藩の琉球貿易、松前藩のロシア貿易)を図ろうとした。

どちらも、時代の相違はあれ国家の「近代化」を果たそうとした時代の画期であったという点は共通。

一方、民衆がこうした外来文明や文化に直接接する機会はなかった。特に仏教は支配層に伝わり庶民には無関係の代物だった。民衆の信仰になるのにはさらに500年ほどの時間が必要であった。一方のキリスト教の布教の形態は、貿易利権の魅力にはまった支配者に布教の許可を得て、民衆の現世における苦悩を来世で救うという教義を民衆に直接訴えかけ成功した。それがやがて権力者には懸念材料となった。



参考:
大航海時代の日本美術 桃山展
Japanese Art in the Age of Discoveries


展示作品:

「大洪水屏風」(メキシコ、ソウマヤ美術館蔵)のなぞ
17世紀末〜18世紀初期マカオで描かれたらしい。日本風の屏風(Bionbo)。しかし内容は旧約聖書の「ノアの箱舟」
誰が描いたのか?禁教令で1614年にマカオに追放された長崎の日本人キリシタン、教会絵師の子孫ではないか?


1)仏教伝来地紀行:

仏教伝来の地
奈良県桜井市の初瀬川(大和川)のほとり三輪にあったと言われる海柘榴市。
難波津から船で大和川を遡上しここに上陸したと伝わる。


三輪山の麓の仏教伝来の地記念公園


本邦最初の仏教寺院
法興寺(飛鳥寺)
蘇我氏により建立された

本邦初の仏像
飛鳥大仏
鞍作止利による


2)キリスト教伝来地/殉教地紀行

鹿児島のフランシスコ・ザビエル上陸記念碑


長崎の「二十六聖人殉教碑」





島原の乱の舞台
原城跡

原城跡から展望する雲仙岳
雲仙の地獄では凄惨なキリシタン弾圧が行われた。

天草四郎像

海に向かって祈るパードレ像


城内皆殺し、跡形もなく破壊尽くされた原城跡
わずかに残る石垣

籠城のキリシタンが救援に来てくれると信じたポルトガ船は現れず
オランダ船が幕府の要請で現れて原城を攻撃した。
原城趾から望む千々石湾(橘湾)



2017年5月30日火曜日

「出島の三学者」 ケンペル、ツュンベリー、シーボルト


 江戸時代、長崎出島のオランダ商館に滞在した「出島の三学者」と言われたのが、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトだ。ケンペルは江戸時代元禄年間、第5代将軍綱吉の時代、ツュンベリーは第10代将軍家治、側用人田沼意次の時代、シーボルトは第11代将軍家斉時代(在位50年という長期政権)とそれぞれ滞在している。ケンペルからツュンベリーは85年、ツュンベリーからシーボルトは48年という時間の隔たりがある。。

 三人の共通点は、医者であり植物学者であり、博物学者であるという学者繋がり。オランダ商館に医者が必要であったことは理解できるが、植物学者が派遣されてきたことには事情がある。もちろん薬草として有用な植物の研究、植物薬品学が医学と切っても切れない学問領域であったことがあるのだが、世界中から珍しい植物を集めるplant hunterが活躍する時代に入っていたという背景もある。貴族や富豪の間で、世界中の珍品植物を集めるコレクターがいた。そうした需要、パトロンがあって、「未開の地」で出かける植物学者への期待も高かった。オランダ東インド会社付きの医者というポジションへの応募も多かったのだろうと推察される。

 もう一つの共通点は三人ともオランダ人ではないという点だ。ケンペルはドイツ人、ツュンベリーはスウェーデン人、シーボルトはドイツ人である。したがってオランダ語はネイティヴではなく、オランダ東インド会社就職に際して事前語学研修してから長崎にやってきた。むしろ長崎の和蘭陀通詞のほうがオランダ語が綺麗で訛りがなかったらしい。通詞に最初は彼らがオランダ人では無いのでは?と怪しんだが、オランダの山岳地方の方言だと言って押し通したらしい。干拓地ばかりで山などないのに、オランダ本国を知らない日本人は、それ以上詮索しなかった。このようにヨーロッパは国を越えて人が自由に往来していた。特に世界に進出していた海洋帝国オランダにとって、海外要員確保は大事な課題だっただろう。その一方で世界に出て行こうとする野心を持った人間にとってオランダは魅力的だっただろう。国策総合貿易商社の先駆けである、オランダ東インド会社は人気の就職先だったに違いない。ちなみに1600年、オランダ船リーフデ号で豊後に漂着して、その後家康の顧問になった「青い目のサムライ」三浦按針(William Adams)もオランダ人ではなくイギリス人だった。

 三人の中では、シーボルトがあまりにも歴史上有名で、日本に与えた影響の大きさとともに、当時のヨーロッパ、アメリカに日本学を広めた功績についても様々な研究や著作、小説やドラマで紹介されている。したがってここでは、屋上屋を重ねるような説明を控えておこう。

 しかしケンペルや、ましてツュンベリーについてはあまり知られていないので少々紹介しておきたい。

 ケンペルはヨーロッパにおける日本学のいわば開祖と言って良いだろう。彼の残した「廻国奇談」「日本誌」は、江戸時代の爛熟期である元禄時代、第5代将軍綱吉のころの日本を俯瞰、分析した貴重な資料だ。日本でも江戸期より彼の残した著作の研究は進められているが、「知る人ぞ知る」で、シーボルトほどの知名度はないかもしれない。その「日本誌」(The History of Japan) は彼の生前には出版されるに至らず、死後、その原稿を入手した英国王室付き医官ハンス・スローン卿によって英語版、仏語版、蘭語版が出版された。その原本は現在大英博物館に収蔵されている。またドイツ語版がドームにより出版(Geschichte und Bescreibung von Japan)された。このうちフランス語版がのちにディドロの百科全書に全面引用されるなど、その後の日本研究の「定本」となり、やがて19世紀のジャポニズムにつながってゆく。ケンペルの133年後に長崎に赴任したシーボルトや、163年後に来航したペリー提督も、この「日本誌」を事前に研究しており、彼らの歴史上に残した功績にも大きな影響を与えている。

 ケンペルはこの中で、将軍綱吉時代の対外政策(すなわちのちに「鎖国」と称される政策)について、肯定的に評価している。この記述が1801年に江戸の蘭学者志筑忠雄に紹介された。志筑は、この政策を「鎖国」という言葉を使って表現し、それが後に一般的に使われるようになったと言われている。ケンペル自身は「鎖国」という言葉を使っていないし、幕府も自らの政策を「鎖国」と称したことは一度もないのだが、この言葉が一人歩きしてしまったというわけだ。

 ケンペルは出島滞在中、商館長の江戸参府に2回同行して長崎から江戸まで旅をしている。この時の記録を邦訳したのが「江戸参府旅行日記」だ。将軍綱吉の前で「オランダ踊り」をやらされている様が挿画として紹介されている。

 一方の、ツュンベリーは、むしろ日本学や、日欧交流の歴史的な観点からの評価よりも、植物学者としての名声が先立っている。来日前、母国スウェーデンのウプサラ大学で世界的な植物学者リンネに学んだ。そのようなリンネの弟子で、当時のヨーロッパにおける植物学の気鋭の学者が鎖国下の日本、長崎まで赴任してきたところに興味を惹かれる。植物学者にとってそれほど日本は行ってみたい魅力的な国であったのだろうか。出島滞在中、梅毒の特効薬を用いて日本人患者の治療に劇的な効果を上げて、畏敬の念を持たれている。のちのシーボルトもそうであったように、蘭学、とりわけ蘭方医学の日本に与えた影響は計り知れないものがある。長崎出島にいわば閉塞された環境での研究であったが、日本のオランダ通詞や蘭学、蘭方医学を志す若者達に大きな影響を与え、彼らの協力もあり研究成果を上げた。帰国後「日本植物誌」を出している。

 彼も出島滞在中一度商館長に同行して「江戸参府」している。第10代将軍家治治世、田沼意次が幕府内で権勢を振るっていた時代である。田沼は重農主義から重商主義へと政策転換を図ることに力を注ぎ、蘭学も奨励した。オランダ商館一行の将軍謁見も盛大に行われた。その時の記録である「江戸参府随行記」で、彼の記述はあまり私見や偏見を含まず、科学者らしい客観性を持って日本を観察した様子が見て取れる。ただ、江戸参府の機会以外は、出島から出ることが禁じられていたため、日本国における植物採集、植物学研究という観点からは限界もあり、これ以上はあまり成果が期待できないと考え、一年で帰国を願い出ている。

 帰国後、彼はウプサラ大学教授にもどり、「1770〜79年にわたる欧州、アフリカ、アジア旅行記」(スウェーデン語版1788〜1779年)を出版。このうちの3巻4巻に記された日本の部分が、邦訳された「江戸参府随行記」である。
そしてウプサラ大学学長に就任するなどアカデミアとしての生涯を全うした。



 以下、三人の肖像と略歴を掲載する。


ケンペル肖像
実は確かなものは残っていない。
これは後世想像で描かれたという
英語版Wikipediaより



ケンペル:Engelbert Kämpfer (1651-1716)

ドイツ人の医師、植物学者、博物学者
レムゴー出身
1690年オランダ東インド会社医師として長崎に
この間2度江戸参府
1692年バタヴィア経由で帰国
ライデン大学より医学博士
1712年、「廻国奇談」出版
1727年、彼の死後ハンス/スローンにより「日本誌」英語、仏語、蘭語出版
大英博物館に収蔵









ツュンベリー肖像
長崎歴史博物館蔵


ツュンベリー:Carl Peter Thunberg (1743~1823)

スウェーデン人の医者、植物学者
ウプサラ大学で植物学者の泰斗リンネに師事
1775年、オランダ東インド会社医師として長崎に
1776年、江戸参府
同年、バタヴィアへ帰参
1779年、帰国、ウプサラ大学教授
1781年、ウプサラ大学学長就任

なお、日本語では彼のスウェーデン名Thunbergを「ツンベリー」「ツュンベリー」「テュンベルク」「ツンベルク」などと表記することがある。







シーボルト肖像
川原慶賀筆





シーボルト:Phillipp Franz von Siebold (1796-1866)

ドイツ人の医師、博物学者、植物学者
貴族/医者の家系に生まれる
1823年、オランダ東インド会社の医師として長崎来訪。
来日後間もなく滝と結婚、イネをもうける
1824年、鳴滝塾創設
1828年、帰国に際し難破。その際に禁制の日本地図を持っていたことが発覚(シーボルト事件)
1830年、国外追放
1859年、開国後、オランダ貿易会社の顧問として再来日(息子アレキサンダーと共に)
幕府顧問に
1862年、帰国





平凡社東洋文庫の「江戸参府」三部作。

 シーボルト著、斉藤信訳「江戸参府紀行」
 ケンペル著、斉藤信訳「江戸参府旅行日記」
 ツュンベリー著。高橋文訳「江戸参府随行記」

 古書店めぐりでついに三部揃い踏みでゲットすることができた。どれも、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトの世界周航旅行記や日本旅行記として後世、ヨーロッパ各国で出版されたものの中から、日本人研究者により江戸参府部分を抜き出して日本語訳したものである。シーボルト版はドイツ語版の翻訳で1967年斉藤信氏により初版が、ケンペル版はドイツ語版のいわゆるドーム本からの翻訳で1977年同じく斉藤信氏により初版が刊行された。さらにツュンベリー版についてはスウェーデン語ということもあり、1994年に、スウェーデン語に通じ、しかも薬史学の専門家である高橋文氏を得ることにより初版が刊行された。こちろん三人三様の日本に関する観察、分析、関心事、批判があるが、同じ長崎から江戸までの旅行記という横軸に、140年ほどの時間の経過を縦軸にとって比較しながら読むと面白い。

 ところでケンペルの「日本誌」の日本語訳は今井正編訳『日本誌 日本の歴史と紀行』(上下2巻)が1973年に霞ケ関出版より刊行され、その後、1989年に改訂増補版(上下2巻)、2001年に新版(7分冊)が刊行されている。ドイツ語のいわゆるドーム版を翻訳したもので、イギリスのハンス・スローン卿が手がけた英語版からの翻訳ではない。










2017年5月23日火曜日

大航海時代と日本 〜「長崎出島」は「鎖国」の象徴か?〜

 
ベランの「長崎の街と港」図
1750年
南北が逆になっている

日本の版画「肥州長崎之図」
1800年ころ
ケンペルの「出島の図」


 私の古書、古地図探訪の旅が終わらない。「時空トラベラー」は、古代倭国を飛び出して、大航海時代のジパングにも思いを馳せる。以前から探していた古地図、ベラン( Bellin, Jacques Nicolas)の「長崎の街と港」(Grundriss von dem Hafen und der Stadt Nangasaki)を入手した。1750年パリで刊行されたもの。プレヴォ(Antonine-Francois Prevost)が編集した「旅行記大全」(Histoire Generale des Voyages)の第10巻に収録されている。日本で言えば江戸時代中期、ヨーロッパ人が描いた鎖国時代の唯一の国際貿易港である長崎の都市地図だ。オランダ商館(オランダ東インド会社長崎支店)が置かれた出島がはっきりと描かれている。

ベランはフランスの地図製作者で地理学者であり、水路測量技師でもあった。ベランは、長崎のオランダ商館のドイツ人医師、ケンペル(Engelbert Kaempher:1690〜92年日本に滞在)の「日本誌」(彼の死後1727年スローンにより英訳され出版)に含まれる長崎図を元にこの地図を作成したと言われている(下段に掲載した2021年10月26日の「追記」参照)。ケンペルの原画に比べるとかなり簡略化して描かれている(上掲出のDejima図は1779年のいわゆるドイツ語のドーム版に収録されているもの)。1750年頃には出島と唐人屋敷地区の間の海を埋立、新たな幕府直轄の蔵屋敷が設置された(1800年頃の「肥州長崎之図」参照)が、ベランの図にはそれが描かれていない。やはり1636年、寛永年間に出島が造成された直後(あるいは1641年にオランダ商館が平戸からが出島に移された頃)の図がもとになっている証拠であろう(すなわち100年前の長崎の様子が描かれたもの)。長崎の地図は日本の製作者によるものは数多く出版されているし、幕末開港期、明治以降の復刻版も多い。しかし、江戸時代にヨーロッパ人が製作したものはなかなか見つからない。幕府が地図を国外に持ち出すことを禁じていたことが大きな理由であろう。ケンペルの原画というものも、日本の地図をもとにしたものではなく、彼自身のスケッチや見聞による復元であろう。それをもとに100年後に「復刻」したベランの図(もちろん本人が見聞したわけでもない)も、長崎の現状を正確に表したものとはいえないが、おおよその幕府関連の重要施設の配置は再現されている。幕府の「遠見番所」などは、広大な敷地を有する「兵舎」であるかのように誇張して描かれている。しかも湾の対岸にも大きな「兵舎」が描かれている。また、出島に比べ「唐人屋敷」地区が波止場を有した大きな施設であったように描かれているのが興味深い。

 今回は丸善雄松堂の古書カタログで見つけた。早速、丸善日本橋店のワールドアンティークブックプラザに問い合わせた。残念ながら現品は福岡店に展示されていて、しかも地元の大学から予約が入っているとのこと。しかし、より程度の良いものが2点入荷したと電話が入ったので見に行くと、一点は彩色が施された1752年のもの。もう一点が1750年の無彩色だが非常に程度の良いものであった。迷ったが無彩色版を購入した。以前から「長崎」、「出島」をキーワードに、ロンドンのセシルコート古書店街や、ニューヨークのマディソン街の古書店でも探したがなかなか見つからなかったものだ。探しているときはなかなか出てこないが、出るときは結構まとまって出るものだ。そしてやはり日本の古書店の方がこうした日本関連のものは見つけやすいのだろう。ペリーの「日本遠征記」を探していたときの時と同じ状況だ。



 なぜ「出島」が生まれたのか?

 誰もが知る通り、長崎は「鎖国時代」我が国唯一の対外貿易の窓口となった町である。徳川幕府の直轄地で、オランダと中国にのみに門戸が開かれていた。キリスト教徒(プロテスタントであるが)であるオランダ人は湾内に造成された埋立地「出島」に商館を置くことが求められ、キリスト教徒でない中国人は日本人と雑居していても構わないのだが、大浦の一角に居留地(いわゆる唐人屋敷)を置くこととした。ベランの地図を見ても出島が特異な扇型形状の人工的な施設であることがわかる。また、出島の南の(上の)対岸には中国人居留地区(唐人屋敷)が描かれている。この出島こそ、江戸時代の対外孤立策「鎖国政策」のシンボル的なランドマークと捉えられている。なぜこのような施設が生まれたのか。その本当の意味は何か。古地図が投げかける「問い」に挑戦してみよう。そのためには少々、大航海時代にユーラシア大陸の西端のヨーロッパからはるばる日本にやってきた人々の歴史を振り返ろう。日欧交流の歴史だ。


 ヨーロッパと日本との出会い。幻想から現実へ

 ユーラシア大陸の西端にいたヨーロッパ人にとって、かつて日本はユーラシア大陸の遥か東端、中国の向こうの海中に存在する謎に満ちた「黄金の国」であった。「宮殿は全て黄金の屋根で覆われ、無尽蔵に金が取れる夢の国だ」と。その国の名は「ジパング」。このような「おとぎの国」像は、13世紀マルコポーロの「東方見聞録」に記された記事が元になっている。こうして「黄金の国」ジパング求めてヨーロッパ人の大航海時代は始まった。そういわれるほどのブームを巻き起こした。マルコ・ポーロはイスラム商人の助けを借りながら、陸路で中国元王朝の都「大都」に到達した。そこで彼は周辺国事情を聞き書きしたものと思われる。そのなかの特筆すべき国、それが東の海中にあるジパングである。彼は実際にジパングへ渡ったわけではない。全て伝聞による情報である。未知の黄金郷へという野望に駆り立てられた冒険者が次々と船出していった。こうして東回りでジパングに向かうバーソロミュー・ディアスやバスコ・ダ・ガマの航路に対し、西回り航路を開拓するしようとクリストファー・コロンブスのジパング/インド到達航海が実行された。1492年の新大陸アメリカの発見(現在のカリブ海西インド諸島サンサルバドル島上陸)!?コロンブスは最後まで自分はインドに到達したと信じていた。さて次はジパングだ!と。実際はインドまで到達する途中の大西洋と太平洋の間に横たわる(未知の)新大陸であることがわかった。歴史上の大誤解の一つだ。やがて、探していた金が採れることがわかり、黄金の国、エルドラードはアメリカ大陸にあったと熱狂することになる。そしてだんだん「黄金の国ジパング」は記憶の彼方に消え去ってゆく。

 その後、スペイン艦隊を率いたマゼランはその世界一周航海(1519〜22年)で、1521年にフィリピンに向かう途中ジパング島の近海を航行したが(航海日誌に記録がある)、寄って見ようともせず通過している。ジパング・パッシングだ。このころにはもはやジパング黄金伝説は幻想に過ぎないと考えられていた証左であろう。実際、16世紀初頭の日本といば室町時代後半。先の1467〜77年の10年にわたる応仁の乱で都は荒廃し、幕府統治能力が瓦解に瀕し、やがて戦国時代へ突入する時期である。そもそも資源に乏しく、農業生産力も(主として米であるが)自国の消費で手一杯。絹は中国からの輸入に頼る。銅銭や陶磁器も中国から輸入。金や銀や香料などの希少資源を求めて世界を徘徊する「大航海時代」の主役、略奪帝国主義者たちにとって「ジパング」はもはや魅力的な到達目標ではなかった。

 日本に最初に上陸したヨーロッパ人はポルトガル人であった。それは1543年(天文12年)種子島にやってきた。と言うより正確には「漂着した」。彼らはこのとき鉄砲を持っていたので、これが日本にとって、歴史の画期「鉄砲伝来」となった話は教科書にも出ている。鉄砲の伝来時期には諸説あるが、ともあれポルトガル人が意図せず「偶然」漂着し、期せずしてあのジパングとの交流が始まった。「おお!ここがあのジパングか!」と。しかし。これはポルトガルと日本の正式な外交関係、貿易関係の開始ではない。その後1550年ポルトガルのインド副王の使節が平戸にやってきて交易を求め、織田信長の庇護によりポルトガルとの「南蛮貿易」が始まった。

 次にやってきたのはスペイン人。すなわちイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル一行だ。1549年(天文18年)鹿児島に上陸。もちろんカトリックを布教することが目的だ。上陸後、豊後府内(大分)や博多、山口などを経て都へと進む。大友宗麟などの九州の大名や都の織田信長などの新しもの好き権力者たちに受け入れられていった。もっとも彼らの直接的な関心はキリスト教よりも鉄砲や珍しい交易品の数々であった。ただスペイン国王はあまり日本との交易に関心を示さなかったようだ。国同士の交易に発展するのは、1591〜2年マニラからスペインの公式使節が来訪してからのことだ。これ以降、鎖国まで次々と渡来する宣教師に誘われる形で「南蛮人」が渡来する。

 やがてイエズス会宣教師の勧めで「天正遣欧少年使節」がローマに派遣された1582年(天正10年)〜1590年(天正18年)のことである。イエズス会の辺境の地の異教徒に対する布教活動の華々しい成果として。ローマ法王に謁見し、各訪問先では、珍しさもあって大歓迎された。あのジパングが、日本( Happon)となり、ヨーロッパ人が違った意味で大きな関心を抱くきっかけになった。このころの日欧交流の主役は「南蛮人」すなわちポルトガル人、スペイン人であった。「紅毛人」すなわちオランダ人やイギリス人が登場するのはこの後である。

 その次にやってきたのは、イギリス人ウィリアム・アダムズ。1600年(慶長5年)オランダ船リーフデ号の航海士として豊後府内に「漂着」した。のちの三浦按針である。徳川家康の外交顧問として日本に滞在し、士分に取り立てられ三浦半島に領地をもらった。同じくオランダ人ヤン・ヨーステン(のちの八重洲)も上陸。オランダとイギリスという新興国の人間がジパングに到達するようになる。そして彼らの情報に基づきやってきたのが、1609年、正式な国書を持ったオランダからの使節。家康から貿易朱印状を得て平戸に商館を開いた。最後に、1613年、ウィリアム・アダムスからの手紙に刺激されてバンタムのイギリス東インド会社からジョン・セーリスが平戸に来航。。国王ジェームス1世の国書を家康に奉呈し、平戸にイギリス商館を開いた。

 このように日本への来航時期を見ると、アメリカやアジアの他の諸国に比べ、かなり遅いことがわかるだろう。ポルトガル人の種子島漂着はバスコ・ダ・ガマのインドカリカット到達の45年後(正式な使節の来航は50年後)、スペイン人の日本到達は、コロンブスのアメリカ到達の57年後(正式な使節の来航は100年後)、マゼランの世界周航の75年後である。イギリスやオランダが遅いのは後発国であるから理解できるが、全体的に香料や金を狙って世界中を駆け回っていたポルトガルやスペインが半世紀遅れてようやく日本に到達したのは、それだけ日本への関心がなかったことの証左であろう。


 対日貿易を巡る競争と禁教令

 その当時、日本との貿易を牛耳っていたのはポルトガルである。彼らは中国(明)のマカオを拠点として、明と日本との中継貿易で巨大な利益を上げていた。すなわち新たに発見された日本の石見銀山の銀で、中国の絹や陶器などを買い、日本に輸出してまた銀を得る。そのマージンを取って利益を得るという商社的な貿易。これは当時、日明直接貿易が倭寇問題で停止(明国の鎖国状態)されていたという背景がある。その隙間を狙った旨みのある貿易であった。当初はマカオを拠点に活動していたが、やがて平戸、長崎に進出し、貿易量は拡大の一途をたどりポルトガルに莫大な利益をもたらした。それはポルトガル本国との貿易額を遥かに上回った。

 ここに割って入ろうとしたのがスペインから独立したばかりの新興国オランダだ。ポルトガルはこの頃すでにスペイン王の支配下にあったが、ブラジル植民地の獲得、メキシコやペルーからの金、銀供給も確保して繁栄を誇っていた。そこへこの明、ポルトガル、日本の三角貿易で高い利益率の商売が成功した。一方、イギリスやオランダは新興勢力としてアジアや新大陸(アメリカ)における交易参入、さらには植民地覇権に意欲を燃やしていた。ホームのヨーロッパにおけるプロテスタント勢力とカトリック勢力との争いも背景にあり、旧勢力であるスペイン・ポルトガルとの争いが、アウェーである東洋にも飛び火した格好だ。この新興国の対日貿易進出競争は徐々に熾烈を極めることになる。

 一方、同じ新興勢力であるオランダとイギリスの競争はオランダに軍配が上がる。イギリスは、日本市場参入に失敗し、結局平戸の商館をたたみ撤退する。のちに再チャレンジする動きもあったが、ただイギリスはこののち新大陸や中東、インド、インドシナ、中国、オーストラリアと、七つの海に君臨するに広大な大英帝国を築き始めていて、徐々に極東の日本に手を伸ばす余裕もインセンティヴも薄れていた。一方のオランダは、そうしたライバルの撤退という幸運も有り、唯一の対日貿易利権独占国となった。日本との貿易はなかなか利益を上げることができなかったが、オランダの主戦場である東インド(バタビア、アンボイナ、モルッカ)での香料利権獲得競争の後方兵站基地の役割を果たした。

 やがてオランダは日本からポルトガルの追い出しを始めた。ポルトガルが築き上げた高利回りの貿易利権を奪おうというわけだ。徳川幕府も初期にはポルトガルとの貿易を認め、長崎の出島はポルトガル人が最初の住人であった。オランダは新教プロテスタントの国であり、そもそもスペインやポルトガルの旧教カトリック国とは対立していた。そこでオランダ人は、ポルトガル/スペイン人宣教師による「日本征服」謀略説の流布を始める。こうしたオランダ人の讒言により、幕府は1612年禁教令を出した。そこへ1637年にはキリシタンや農民の反乱である「島原の乱」が勃発し、オランダのプロパガンダの正しさを証明することとなった。幕府はますますキリシタン禁教に取り組むこととなる。1639年にはポルトガル船の入港禁止とポルトガル人の追放、と、いわゆる一連の「鎖国政策」を進めた。こうして幕府はポルトガルに代わりオランダをその統制貿易の相手に選んだ。ポルトガルはそれでも幕府に対して交易を認めてくれるよう使節を送ってきたが、幕府はこれを拒絶し、使節を処刑している。ついにオランダは対日貿易を独占することに成功した。もっともオランダにとってはかなり屈辱的な管理貿易(出島に押し込められ、年一回江戸参府を義務つけられ、将軍家に臣下の礼を取る、など)であったが、先述のようなそれを補ってあまりあるだけのメリットがオランダにはあったようだ。一方、幕府側から見るとオランダとの貿易量は中国との貿易量の半分程度であったが、量よりも文物・知識・情報の質を重んじたのであろう。


 こうして「出島」が生まれた。

 徳川幕府は長崎を唯一の国際関門港に指定して幕府直轄領とする。そして1634年から出島築造に着手し、1636年完成する。こうして湾内に人工的な埋立地を設け、周囲を壁で囲み、市街地とは一本の橋でのみ繋がる「出島」を設けた。その橋のたもとには奉行所を置いた。前述のように当初はポルトガル人がこの出島の住人であったが、禁教令以降一連の「鎖国令」によりポルトガルを追い出し、オランダ、中国(明、清)のみを貿易相手国に指定。1641年にはオランダ人(東インド会社)を平戸から移して長崎の出島に押し込めた。こうして徳川幕府は統制貿易体制を敷き貿易と海外情報を独占した。いわば「長崎出島統制貿易特区」の創出である。

 出島のオランダ商館長は幕府に対して海外情報を定期的に提供することが義務つけられていた。これが「阿蘭陀風説書」である。オランダ商館長は自国の貿易利権を守るために積極的にこの求めに応じた。当然オランダに都合の悪い情報は入っていなかったし、長崎奉行所の通詞も、内容を吟味しながら幕府に提出する情報を取捨選択していたようだが、海外情勢の把握/分析に役立つ唯一の貴重な報告書であった。徳川幕府は、これにより「鎖国時代」初期にはキリスト教の動きに、後期には西欧の近代化の動きに細心の注意を払った。一方で、オランダ商館によるオランダ東インド会社バタビアへの報告書や、商館付きの医者であり科学者であった、ケンペル、ツンベルク、シーボルト(出島三賢人と言われた)が歴代著した「日本誌」「江戸参府記」は、「鎖国」下の日本の事情を知る貴重な情報源となった。先に掲出のベランの「長崎の街と港」地図もケンペルの「日本誌」から引用したものだ。のちにペリーが黒船を連れて浦賀に来航する際には、ケンペルとシーボルトの本を買い集めて十分に事前準備してきた。シーボルトはペリーに書簡を送り、対日交渉への助言をしている。このあたりの事情は彼の「日本遠征記」に詳しく書かれている。

 この出島オランダパイプを通じ、徳川幕府は朝廷、諸大名に比べ、海外情報を独占的に入手することができた。江戸後期に至り、ロシア、アメリカの艦船が近海に出没するようになってからも、長崎を通じてその動きを事前に把握している。1853年の米国ペリー艦隊の来航も事前に把握し、準備を進めていた。幕末期に中国の清朝がイギリス始め西欧列強に侵略される様子も知っていた。朝廷はもとより、諸藩は海外情勢に触れる機会も無く、ただ日本近海に外国船が頻繁に出没する現実を目の当たりにして警戒心を抱くようになっていた。そういう中で、ペリーの黒船来航に驚愕し、翌年、幕府が締結した日米和親条約(開国)にショックを受けた。彼らは世界の情勢を十分に知るすべがない中で、現実が先行する状況であったわけで、幕府の対応を非難し「尊皇攘夷」を叫んだのも理解できる。海外情報に接していなかった諸藩は、幕末になって慌てて藩士を「長崎留学」に出したりして、キャッチアップを図ろうとしたが、幕府の情報優位性は圧倒的であった。ただ例外は、薩摩藩の琉球貿易、対馬藩の朝鮮通信(外交・交易)、松前藩の蝦夷交易があった。中でも薩摩藩は琉球貿易を通じて幅広い海外情勢に接する機会を持っていた。こうした体制を「鎖国」と呼んでいるが、実は「鎖国=孤立」とは限らない。

 そもそも「鎖国」という言い方が正しいのか、最近は議論になっている。具体的には1612年の「寛永異教令(禁教令)」や、1633年の日本人の海外渡航禁止・帰国禁止、1639年ポルトガル船入港禁止など、数次にわたって出された幕府の命令をまとめて「鎖国令」と称している。そもそも「鎖国」と言う言葉自体は、幕府が使っていたものでもなく、先ほどのケンペルの「日本誌」に出てくる第五代将軍綱吉時代の対外政策を記述した部分を、のちに江戸時代の蘭学者志筑忠雄が一言で「鎖国」と訳したことが始めだと言われている。上述のように「鎖国」下の日本においても、長崎という外世界へのウィンドウを独占した徳川幕府は、考えられている以上に正確に海外情勢を把握していた。「出島」という隔絶された埋立地が、「鎖国」すなわち「孤立」政策の象徴のように見られるのだが、現代のように自由貿易が原則であるグローバルエコノミーの時代とは異なり、近世においては国家や権力者が貿易を独占する管理貿易/統制貿易は珍しいことではなかった。「出島」をその象徴と見て、江戸時代を通じて「鎖国政策」により世界から「孤立」していた、と断ずるのは誤りであろう。歴史を「鎖国」か「開国」か、白か黒かという「二分法」で片付けることに等しい議論だと思う。


 そして「出島」時代の終焉へ

 このように幕府は海外の動向を、諸藩よりは正確に把握していたが、結局は倒幕へと時代は動くこととなった。これは徳川幕府が西欧列強諸国との対応に失敗したから、圧力に屈したからということでも、西南雄藩の方が世界に目覚めていて進歩的であったからということでもない。幕府崩壊の真の理由は別のところにあった。徳川政権は、西欧列強の資本主義、帝国主義的な動きを把握し、国家の近代化の必要性を十分認識していても、結局は、武士が農民を支配する「米本位」の農本主義経済、その封建的な統治機構である「幕藩体制」がすでにこうした時代のイノベーションに対応できない枠組みになっていた。徳川幕府主導の近代化を図ろうとすれば、自らの体制を否定するところから始めなけらばならない状況になっていた。端的に言えば、支配階級であるはずの武士を食わしていけなくなっていたからだ。その旧体制(アンシャンレジーム)の象徴である武家政権徳川幕府の打倒、各地の藩の解体へと時代が進まざるを得なかった。倒幕を進めた西南雄藩とて、当初、藩主たちはアンシャンレジームの中での徳川家に代わる「政権交代」と捉えていた嫌いがある。「いやそうじゃない」と気づいたのは倒幕推進の若い下級武士たちであった。自分が所属する(ないしは出身の)藩を含む幕藩体制こそ打倒の対象になっていった。もちろんそのきっかけを作ったのは西欧列強の日本への外圧であったことは間違いない。そして世界に開かれた長崎がそうした「草莽崛起」の若者たちが集まる中心都市になったことは不思議ではない。

 だが一方、平安時代末期の平清盛以来、750年続いた「武家による統治」の仕組みを変えるのは大変なことであった。長年続いた「統治権威は朝廷」「統治権力は幕府」という二元統治体制は半ば「日本の美風」ですらあったわけだから。徳川幕府も最後には「大政奉還」すなわち統治権力を天皇に「お返しする」ことで「美風」を守ったわけだ。しかし、徳川家が「政権を返す」だけではことは収まらない。徳川家に取って代わる「武家」の統治者が出てきたのでは革命的ではない。同時に諸大名も「藩籍奉還」「秩禄処分」、究極的には「廃藩置県」ということになる。要するに武家の世の中は終りだとわからせる仕組みが必須であった。天皇を中心とする「一君万民」の統治体制の復活を宣言する。そしてこれまでの藩主・大名は天皇を守る藩屏としての「華族」に組み入れられる。すなわち「そもそも天地開闢以来、日の本は天照大神の皇孫、天皇が支配する国」であるという、永年忘れ去られていた「あるべき姿」を思い起こさせること。その原点に帰る「尊皇思想」以外に永年の武家政権を終わらせるイデオロギーはなかった。そこに1200年前の古代律令制の仕組みを持ち出して「王政復古」を唱えなければならなかった理由が有る。その1200年前の古代統治体制の復活と19世紀的国家の近代化が一体となった明治維新(Meiji Restoration)の姿がある。そこに「維新」と「復古」が同居すると言う矛盾が生じた。

 ペリー来航、日米和親条約締結の翌年、1855年、日蘭和親条約が締結され、その翌年には「出島開放令」でオランダ人の長崎市内への出入りが自由となる。1859年、出島オランダ商館が閉鎖され200年余の歴史に幕を閉じた。こうして歴史的な役割を終えた出島は明治期に徐々に周囲が埋め立てられ、島ではなくなってしまった。最近、この出島自体とそこにあった建物などの復元作業が進められている。



復元された出島跡

出島の外壁も復元された

出島の外周部。右側は海が埋め立てられた部分

オランダ商館内部






明治になってから建てられた長崎内外クラブ(左手)と出島神学校(右手)

 以下、「長崎歴史文化博物館」収蔵の阿蘭陀絵図(川原慶賀作)から。200年余にわたる出島のオランダ人の存在は長崎に独特の文化を生み出した。






2021年10月26日 追記

ケンペルの「日本誌」The History of Japanの英語版初版(スローン版1727年ロンドン)に、「長崎出島図」が掲載されており、べランの出島図(1750年)はこれを元にしていることが判明した。したがってドイツ語ドーム版の図(上記の簡略図)とは大きく異なっていることが判明。おそらくべランはこの英訳初版から翻訳したフランス語版から引用したのであろう。

ケンペル「日本誌」(英訳スローン版1727年初版)の
復刻版(グラスゴー版1909年)から
ベランの「長崎の街と港」図
1750年
ケンペル「日本誌」から引用したことがわかる

2010年10月10日日曜日

長崎くんち 



福岡,長崎と,出張だった。

福岡の街の変容ぶりと、都市景観の落ち着きには来るたびに驚かされる。福岡の都心部には高層タワーマンションなどの町並みを猥雑にする建築物がない。ビルの高さが一定に保たれているので整然とした落ち着きが保たれているのだろう。何よりも空が広いので気持ちよい。これは福岡空港が都心に近い所にあり,建物の高さ規制が適用されているためだ。航空機の騒音には悩まされるが、日本一便利な空港と低層ビル群。これが福岡の都市の特色となっている。アメリカのワシントンDCの都市景観も同じような理由で福岡に似ている。

コンファレンスのあったシーサイド百道のヒルトンシーホークホテルが唯一の高層ビル,と言っても良いくらいだ。
百道の都市景観は素晴らしい。穏やかな博多湾と能古の島、志賀島、そして糸島半島に囲まれた人工的な海浜都市景観。自然と都市の調和がよく保たれていてリゾートに行かなくても十分ゆったりとした時間を過ごせる。
子供の頃、樋井川のほとりから父のこぐボートに乗って百道の海水浴場へ連れて行ってもらったあの時の景観は既にないが...

長崎へは来年3月開業予定の九州新幹線にあわせて大規模な立て替え工事を行っている博多駅から特急で2時間強。将来長崎新幹線が開通しても1時間半かかるようだ。やはり遠い。東シナ海に面したいくつかの入り江が天然の港として、中国、南蛮、紅毛貿易の拠点になっていた。この辺りは地形が入り組んでいて、山も多く、複雑な海岸線が続き、平戸におけるポルトガル、オランダ、イギリス貿易に始まり、長崎に落ち着くまで、いくつかの入り江を点々と交易港にして来た歴史がある。

鎖国政策後の長崎は幕府によって管理された国際貿易港であった。新教国のオランダと中国だけが貿易相手国として長崎入港を許された。中国上海には近いが、九州の西の果ての、しかも陸路では江戸から遥かに遠い地に築かれた港町であった。幕府直轄の天領で、長崎奉行の支配下にあり、筑前黒田藩と,肥前鍋島藩が交代で警備にあたった。

10月の7,8、9日の三日間は長崎くんちのまっただ中で、町中が祭り一色であった。ちょうど長崎支店に到着した時におくんちの蛇踊りが「庭先回り」で来ていた。7年に一度「踊り町」の順番が回ってくるそうで、来年が弊社支店のある出島町がその番となる。準備が大変と聞く。しかし、長崎ならではの祭りに参加出来る栄誉を担う楽しみもある。

長崎の祭りは国際色豊かでエキゾチック。意匠を凝らした山車だけでなく、有名な蛇踊りや、本踊りやお囃子の行列の華やかで、南蛮、紅毛、唐のフレーバーを加えたし好はエレガントでもある。あでやかなきれいどころの踊りが色気と華やかさを盛り上げる。

見せ場の中心はもちろんお諏訪様(諏訪神社)だが、八坂神社、中央公会堂前広場でも楽しめる。しかし、早くから座席券を手に入れなければならない。他にも中央公園広場では無料で誰でも見ることが出来る。もちろん山車が市中の役所や企業、店を回る「庭先まわり」を市内いたるところで楽しむことも出来る。とにかく町が祭り一色になる。夏の精霊流しも風情ある祭りだが、くんちの雰囲気は最高によい。