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2025年12月27日土曜日

日本文化とは何か? 〜外来文化の受容と変容の歴史(1)〜

 

宇佐神宮の神仏習合(宇佐市公式観光HPより)


日本文化は外来文化の「受容」と「変容」の歴史の中で形成されたと言われる。そもそも日本列島にどのようなことが起きたのか。どのような外来文化の受容が日本文化を特色づけているのか。年末恒例のクリスマスを祝い、正月を寿ぐこの季節に、「神と人間」そういう視点で「日本的なもの」とは何かを考えてみた。まずは外来文化の受容、変容の歴史を駆け足で振り返ってみよう。稲作農耕文化の流入。そして儒教と仏教の伝来。キリスト教伝来。そして黒船来航、すなわち「神の摂理から人間の理性」に基づく新宗教「近代合理主義」の伝来である。そして最後に知の巨人、折口信夫の「日本的なもの」について触れてみたい。またラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、バジル・ホール・チェンバレンの「日本的なもの」論については、次回に触れてみたい。


外来文化の受容と変容の歴史 〜「神と人間」の視点で〜

1)稲作農耕文化:

最近の研究では、稲作農耕文化の列島流入は紀元前10世紀頃と考えらられている。それまでの狩猟採集生活から農耕定住生活へと変わっていった。これはパラダイムシフトとも考えられる大きな社会的、文化的転換である。しかし急激に変化したり、征服などで民族が入れ替わったりしたのではなく、長い時間をかけて移入民と在来民とが融合していったと考えられている。この農耕定住生活は新しい文明・文化を列島にもたらすことになる。一年をかけた耕作と収穫には、労働力、土地、水、農耕器具、余剰生産物、資源の分配管理などを取り仕切るオサ(首長)が必要であり、一族がウジに 集落はムラへ、ムラはクニへと社会単位の規模がが大きくなっていった。やがては支配者と被支配者という身分、階級ができ、「王」が生まれ「国」ができる。マルクスの言うところの経済的な「下部構造」の形成だ。ここに自然崇拝(縄文的神) 祖霊崇拝(弥生的神)が生まれ、八百万の神々、一木一草に神宿るという多神教的信仰、霊的観念、そして習俗が発生した。これが古神道。やがて王の上の王、大王や国が形成される過程で、建国神話が編まれ、大王は天皇を称し、太陽神を最高位の皇祖神とする神々の序列化、体系化が行われる。やがて古神道は皇国史観による神道へと変遷してゆく。

2)儒教:

5世紀に百済の王仁が論語10巻を伝える。やがて中国から四書五経 文選が伝わり、聖徳太子は仏教に帰依するとともに儒教に基づき十七条憲法に官僚の心得を記述した。7世紀末には古事記にも影響を与え、万葉集にも漢詩が(元号「令和」の起源も)取り入れられる。何よりも漢字が文字として伝わり、平安時代にカナ文字が発明されるまでは漢字を和語に用いる(万葉仮名、変体漢文)ことで公文書の作成、歴史書や神話、詩歌が生まれた。平安時代には漢詩、漢文が貴族の基礎的な素養として定着し、文章博士菅原道真のような漢籍の最高権威が重用される。和漢朗詠集などの文学作品も生まれた。いわゆる「和魂漢才」の時代だ。陰陽道が分かれて神道と結びつく。日本は漢字文化圏の一員となった。江戸時代には儒学(朱子学)が幕府指定の公式学問となる。諸藩の藩校では儒学が基礎科目となり、庶民の寺子屋でも論語の素読、習字が識字率を高めるのに役立った。儒学を基本とする漢学は 日本の文化の基礎となり、知性と道徳の基本になった。すなわち宗教というより秩序を重んじる学問、倫理道徳として定着していった。主君や国家への、滅私奉公という忠誠心、家、親孝行、長幼の序などの日本人の道徳的価値観の根源となっている。

3)仏教:

6世紀にインドの宗教が中国・朝鮮を経由して伝わる。538年(または552年)百済王が黄金の仏像と仏典を贈ったのが始まりとされる。当初は古来からの神道崇拝者(神祇職にある豪族)との激しい「崇仏・廃仏」論争があったがやがて有力豪族、大王(天皇)が受容。7世紀末〜8世紀には「近代」国家建設にあたって、この外来宗教・思想は統治理念 国家の基礎理念として取り入れられた。東アジア的グローバルスタンダード、すなわち「鎮護国家」思想である。やがて難解な密教の導入を経て、支配者階級の思想哲学であった仏教は、平安時代には来世の救済を説く阿弥陀信仰、浄土信仰となる。さらに鎌倉時代になると多くの宗派(鎌倉新仏教)が生まれ。現世利益や、儒教と結びつき道徳的な「教え」を説く信仰として広く武士や庶民にも浸透していった。仏教は 明治の「神仏分離令」「廃仏毀釈」までは、奈良時代以降、連綿と天皇・将軍も帰依する国教的な宗教であり、天皇は神道祭祀の最高位に位置しながら、退位すると出家して仏教僧となった。日本の仏教に特徴的な点は、日本古来の神々との習合が進み、平安時代に広まった「本地垂迹説」により神道との神仏習合が定着していったこと(写真の宇佐神宮における神仏習合)。大陸風の壮麗な仏教寺院建築は、(もともと山、岩、樹木などの自然物を神の依代としていた)神道にも影響を与え神社建築を促した。仏教寺院に鳥居や神社が設けられ、一方で神社には神宮寺が祀られた、こうして仏僧と神官が相互に宗教儀礼を行う独特の「受容」と「変容」が行われた。日本に伝わったのは大乗仏教で、ブッダ一神教ではなく、いわば多神教的な仏教であった。

4)キリスト教:

16世紀にポルトガル、スペイン人から伝来。初めての西洋文化である。仏教の退廃、戦乱による疲弊、南蛮貿易利権から、当初は宣教師の布教活動により西日本の領主、庶民に一挙に広まる。領主の改宗により、領民が一斉に改宗させられることがあった。全知全能の神、唯一絶対神であり、多神教を異端、未開の習俗として排除した。仏教(Bonz)とも敵対し、寺院の破壊、仏像の破却などが起きた。これに対する反発も起きるが既存宗教勢力との融和、習合の動きなく、本国の領土的野心と一体化。やがて国の指導者からの布教への疑念を持たれるようになる。そこへプロテスタント(イギリス・オランダ)の到来で宗教戦争が日本で再燃。彼らは貿易を優先しキリスト教布教は行わないと宣言した。こうして、ついには宣教師の国外追放、禁教令、鎖国へつながって行く。多神教の日本では結局キリスト教は根付かなかった。一方で、西洋文化は、キリスト教布教に関心の無い、長崎の出島に押し込められたオランダ人からわずかではあるが流入してきた。蘭学である。日本人の知的好奇心を大いに刺激した。

5)近代合理主義思想:

これまでの東洋的思想(儒教、仏教)から西洋的思想(キリスト教)が流入する過程で、キリスト教は排除されたが、やがて 西洋的思想や文化は宗教から哲学、思想へと変遷してゆく。すなわち 19世紀になると、ヨーロッパにおける16世紀以降の「神の摂理から人間の理性へ」という、宗教と一線を画す哲学思想と科学が日本に入ってきた。すなわち人間の理性から始まる啓蒙主義哲学、あるいは経験主義哲学であり、ここからスタートする諸科学の発展、自由主義政治思想であり資本主義であり市場経済であった。東洋の儒教的、仏教的秩序、道徳観、政治思想に変わる西洋の「近代合理主義」思想の登場である。この受け入れをめぐって、中国や朝鮮など東洋的旧体制の隣国の激しい葛藤の時代に、いち早く日本は旧体制を捨ててこれを受容した。インドや中国における西欧列強の帝国主義的植民地支配の実態を目の当たりにし、その恐怖が背景にあった。そうしたアジアの危機的状況を反面教師とした西洋流の「近代化」、すなわち近代合理主義の受容を急速に進めた。幕末から明治にかけて「文明開花」「殖産興業」「富国強兵」など(四文字熟語のスローガン)が急速に展開された。「和魂洋才」を謳ったのもこのころである。そしてついに西洋流の「帝国主義」に抵抗するかわりに受容して我がものとし、彼らと競争しながらアジアに出ていったがその試みは破綻する。終戦後は、民主主義、自由主義、個人主義、物質主義というヨーロッパ列強諸国とは一味違う「アメリカ教」文化が怒涛の如く流入しどっぷり浸る時代へと転換した。その明治維新から150年、終戦から80年。「東洋的なもの」と「西洋的なもの」の習合はどれほど進み「日本的なもの」に変容したのか。まだ変容プロセスの途上にある。


日本文化は多様性の賜物?

このように振り返ると、大陸周辺部に位置する日本列島の住人は、海の向こうからやって来る実に多様な外来文化を、長い時間をかけて受容し咀嚼して「日本化」してきたことがわかる。いやそもそも列島外からの人の流入がそれを進めた。外来文化は人の移動に伴って入ってきた。すなわち日本文化あるいは「日本的なもの」とは「多様性」がキーワードとなることに気づく。もっともこれは特に日本文化に関してのみ当てはまる特殊な文化史というわけではない。世界史的に見ても、異文化や異民族との交流(戦争、征服も含め)による文明・文化の興亡と進化は、むしろ普遍的事象であったし、隣の中国、朝鮮を見るまでもなく、いわば「多様性」の相剋が持続可能な文化、民族、国家を産んだことは一様に理解するところである。人類10万年の歴史をさかのぼれば、屈強と言われたネアンデルタール人が絶滅して、肉体的に弱いホモサピエンスが生き残った理由の一つは、生存に適した土地を求めた移動と冒険心、その過程で人種的多様性、文化の多様性を受け入れたことだと言われている。日本人は列島の外の各地から移住してきた人々と列島人が代々混ざり合って形成された集団、民族であることは最近のDNA分析の結果からも証明されている。その人の移動に伴ってもたらされた文化がブレンドされて新しい文化が生まれたのである。日本は単一民族国家だ、日本古来の「やまとごころ」「惟神の道」の国だと言っているその本質は、このように多様性のプレンド文化が基底となって生まれたものである。そして日本人はそうした外来文化に対する寛容さと、それを独自のものにする強かさという特質を有している。それが外来文化の「受容」と「変容」の中身なのだ。


「やまとごころ」「からごころ」

江戸時代の国学の勃興を考えてみよう。この時代的な思潮の流れはとても示唆的に思える。仏教が国家宗教 儒教(朱子学)が国家の公式学問であり、知育、徳育科目であった時代である。さらに主に医学、本草学など科学科目としての蘭学が盛んでもあった。一方で、日本古来の「やまとごころ」「もののあわれ」を復興し、蘭学、漢学など外来文化や思想、すなわち「からごころ」を排した日本古来の精神を学ぼうというムーヴメント、すなわち国学が盛んになった。賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、契沖である。本居宣長は古事記の研究注釈や源氏物語、古今和歌集などの古典講釈が盛んに行なった。こうした運動の中で、徳川幕府が統治の基本に据えていた仏教や儒教でなく、神道が「惟神の道」として重視され、その典拠となる古事記を聖典化した。これは日本の支配者は将軍ではなく天皇である、という政治思想、「皇国史観」の表明である。のちに水戸学、そして幕末の尊王攘夷思想、討幕運動へとつながる。しかしこれが明治維新の西欧列強に対峙する国家近代化の「革命思想」の原点となったのは皮肉だ。しかものちには天皇への忠誠心を求める「武士道」精神(武家を否定しておきながらこれもまた皮肉だ)、さらには「忠君愛国」「八紘一宇」「偉大なる大和民族」という国粋主義へと変異していったことは改めて解説の必要もないだろう。しかし、国学者が重視した「やまとごころ」の聖典、古事記にも、「もののあはれ」の源氏物語にも、そもそも儒教、仏教の影響(「彼らが言う「からごころ」)が色濃く現れていることは否定できない。何よりも用いられている文字は中国からの漢字である。日本古来の思想、精神の中にインド、中国などの外来文化の影響を拭い去ることはできない。神話においてすらそうである。これはちょうど西洋文化の思想、精神の基礎にギリシア、ラテンがあるのと同じだ。日本文化を愛する気持ちに変わりはないが、その文化に外来のものを排した国粋的なものを求めることは合理的ではない。多様性の受容と変容。それが「日本的なもの」なのである。それを指摘した人物の一人が折口信夫だ。


折口信夫の「日本的なもの」とは?

折口信夫はある講演の中で、「和魂漢才」「和魂洋才」とは、和魂を生かすために主体的に漢才や洋才を取り入れることだと言っている。内なるものにこだわらず外から取り入れたものを改良してより良いものにするのが日本文化の特色だと。それが「日本的なもの」だと。したがって外国文化を排除するのではなく、どんどん取り込んでより大きな和魂の日本になれ、と言っている。これは戦前の講演であるから「やまと魂」的なトーンが読み取れるが、当時としては画期的であったろう。古事記や万葉集にも四書五経や文選などの漢籍の影響を読み取っている。欧米文化も含めて外国のものを排除せず取り入れて咀嚼して「日本的なもの」に変容する。これが彼の「和魂」、すなわち「やまとごころ」の理解であり、学としての国学、民俗学(新国学と称していた)への取り組み姿勢の基本であった。

折口はまた「神と人との関係」から日本文化を考えた。キリスト教の神は全知全能の唯一絶対神であり、宇宙の創造主である。もちろん人も神が作った。その絶対神に選ばれ「契約」を結んだものだけが神の愛に包まれ救済される。一方の日本の神々は、絶対的な創造神ではなく、生まれては消える神々で、遥か彼方の他界、異界からやってくる客人、すなわち「まれびと」である。その姿は見えない。人々は山や岩や樹木などの依代に神の存在を感じ、それを迎え祭りでもてなす。祖霊神は親子関係、一族のもので天界に魂は住んでいるが家にも帰ってくる。それを迎え祀る。日本では神が人を創造し選ぶのではなく、人が神を選ぶ。その関係は唯一絶対でも契約関係でもない、次々に生まれ出てくる多様な自然神、祖霊神である。仏教ですらブッダが唯一絶対神ではない。阿弥陀如来や大日如来や薬師如来、観音菩薩や地蔵菩薩、不動明王など、さらには法華経が信仰対象となることもある。人は死ぬと仏になる。お盆になると家族のもとに帰ってくる。古神道の祖霊信仰と融合している。日本に伝来してきたのは北方仏教(大乗仏教)で多神教的な仏教である。折口は、人と神は「契約」ではなく「和」でつながると言う。

折口の言う多神教の神々には外来の神も参加する。ただ一神教的「契約」ではなく「和」を持って貴しとなす「神と人の関係」という文化は、「唯一絶対」を主張する神に対しては不寛容であるようだ。それが一神教が根付かない理由かもしれない。「外来文化の受容と変容」と一口に言っても、それほど単純明快ではない。取り入れたいものと取り入れたくないもの、消化できるものとできないものがある。「受容」と「拒絶」の葛藤の中で取捨選択した結果の「日本的なもの」なのだ。折口の研究アプローチは、文献資料を中心とする歴史学ではなく、人々の間を歩き回り、見て周り、聞いて回る民俗学アプローチである。この点で柳田國男と双璧をなす民俗学者である。地方の民間の伝承や、祭り、芸能、習俗など中心に「神と人間の関係」を見つめたもので、その中に「日本的なもの」を見出した。そしてそこに一神教の絶対神の姿を見ることはなかったのであろう。折口の「国学」は、本居宣長が古典の研究というアプローチで「やまとごころ」を見出そうとした手法とは異なっている。だからこそ民俗学を「新国学」と称したのであろう。

日本に伝来した「近代合理主義」が、本家の欧米文化圏で混沌としてきた現代、外来文化の受容と変容により文化を形成してきた日本。これからどのように「日本的なもの」を見出し、リアル空間、サイバー空間に溢れる「文化」を取捨選択するのか。さらに能動的に発信して独自の文化を築いてゆくのか。次の文化パラダイムに転換する歴史的な岐路に立たされているように思う。


参考:上野誠「日本を見つめる巨人折口信夫」NHK R1「心を読む」

この他の「日本的なもの」の論考は下記を参照

2024年3月29日 古書を巡る旅(47)The Awakening of Japan:岡倉覚三『日本の目覚め』

2024年6月10日 古書を巡る旅(51)Bushido : 新渡戸稲造『武士道』



2025年12月14日日曜日

古書を巡る旅(73)Roosevelt and the Russo-Japanese War:『ルーズベルトと日露戦争』 〜戦争を終わらせるということは?〜

 






アメリカ大統領、セオドール(テッド)・ルーズベルトと言えば、我々日本人にとっては日露戦争の終結に向けて和平調停を行いポーツマス条約締結を仲介した馴染みの深い大統領だろう。その功績が認められ1906年にはアメリカ人で初めてノーベル平和賞を受賞した。アメリカの歴史に名を残す大統領の一人だとされている。現代のアメリカ大統領ドナルド・トランプの国際関係の歴史や経緯に関する見識も乏しい「和平調停」策と対比して大きな違いがあるように見える。トランプ氏にとって「戦争を終わらせる」ということは、アメリカが(あるいは自分が)経済的な利権(鉱物資源、不動産開発など)と名誉(ノーベル平和賞という)を獲得することであると考えている節がある。理想主義、人道主義をかなぐり捨ててこうした物欲、名誉欲で動く様はアメリカも落魄れたものだと考えがちだ。しかしそうだろうか。ルーズベルトとトランプの間にはそんなに大きな違いがあるのだろうか。実は、今回紹介する本書を読むと、今のアメリカの姿はこのテッド・ルーズベルトの時代とあまり変わっていないことがわかる。いやあの時代に戻りつつあると言った方が良いかもしれない。アメリカが「理想主義的な外交」に転じたのは、20世紀に二つの世界大戦に勝利して、さらに米ソ冷戦にも勝利して以降のことである。民族自決、自由主義経済、民主主義、法の支配という普遍的価値を広め守ることが国益にもかない、かつその自由と民主主義の守護者としての「理想主義外交」こそがアメリカのレーゾンデートルであり、パクスアメリカーナの源泉だと考えるようになった。しかしやがてそういう時代が終わりを迎える気配を見せると再びあの時代に戻ってゆくようだ。すなわち自国優先の「エゴイズム外交」の時代である。トランプの姿は100年前のルーズベルトのそれである。Make America Great Again、America Firstはトランプオリジナルではない。そう言うとテッド・ルーズベルトを敬愛し、親近感を抱く大方の日本人、そしてアメリカ人は驚くかもしれないが、この日露戦争とその戦後処理の有り様に現代のアメリカを重ねて見るとさまざまのことが見えてくる。本書はそれを気づかせてくれた。

今回紹介する" Roosevelt and the Russo-Japanese War":『ルーズベルトと日露戦争』は、その日露戦争終結とその後のアメリカ大統領セオドール・ルーズベルトの対外政策、とりわけ日本、朝鮮、中国政策を分析評価した重要な書籍である。そして戦後処理とその後のアジア情勢、アメリカの立ち位置を示している。1925年の刊行なので第一次世界大戦は経ているが、世界恐慌、第二次世界大戦に入る以前のアメリカ外交政策に関する分析である事に注意する必要がある。いわゆる「ルーズベルト・ペーパー」や国務省の外交資料、議会図書館や数多くの研究者の論文などを網羅的に調査しまとめた大作だ。著者はTyler Dennett(1883-1949)という外交史家で国際関係論の研究者、ジョンズホプキンズ大学やプリンストン大学で教鞭をとった。日露戦争、東アジア政策に関する著作がある。本書は1925年の初版で、著者がジョンズホプキンズ大学から博士号を得た論文が元になっている。研究者らしい徹底して文献資料に基づいて評価分析を試みているので、ジャーナリスティックな「読み物」ではないが、正確で公平な検証姿勢には敬意を表したい。1934年には、著作『ジョン・ヘイ:詩から政治へ』でピューリッツアー伝記・自伝賞を取っている。


この著作のサマリー:日本はアメリカの同盟国であったのか?


(1)「三国干渉」から日露戦争へ

ルーズベルトの外交政策は、ヨーロッパへの関与も重要だが、アジア太平洋方面でのアメリカの権益を拡大確保することがより重要であると言う考えが基礎にあったようだ。19世紀末から20世紀初頭のアメリカは、まだ二つの世界大戦も起きておらず冷戦もなく、ヨーロッパ覇権国の紛争への関与にも関心もなく、外交方針がまだアメリカ中心主義であった頃だ(1822年のモンロー主義の延長線上)。帝国主義的な海外進出ではヨーロッパ諸国に対して出遅れていた。海外進出といえばまずアメリカ周辺、そしてアジアが念頭にあった。彼はアジア重視ではあったがその世界観は、アジア太平洋地域の出来事、とりわけ日本、朝鮮、中国の不安定な情勢はヨーロッパにおける覇権争いの反映であるとの認識に立つものである。すなわちイギリスとロシア、ドイツ、フランスの帝国主義的な覇権争いである。彼らはヨーロッパにおいて相互に手を結んだり、敵対したり、その争いが、朝鮮半島や満州に表出していると。そういった観点からヨーロッパ情勢にも注意を払っていた。特に日清戦争後の1895年の下関条約による遼東半島の日本への割譲に反対し清国に返還させた、いわゆるロシア、フランス、ドイツの「三国干渉」が象徴的である。その結果ロシアが、日本が返還した遼東半島、旅順(Port Arthur)を手中に収めるなど、日本側から見ると日本の勝利による「獲得領土」をロシアが横取りした「臥薪嘗胆」事件であるが、ヨーロッパ側から見ると中国における帝国主義的利権争いであった。ロシアと対抗するイギリスはこれに参加せず、また日本寄りだったアメリカも局外中立の立場をとった。また、賠償金問題が、これまでイギリスが優位な立場にあった中国で、ヨーロッパ帝国主義の中国分割植民地化を加速した。すなわち清国は日本に対し莫大な賠償金を支払うことになり、ロシアとフランスから多額の借金をした。この見返りとしてロシアは満州へ、フランスは仏印から華南へ進出。ロシアは先ほどの旅順のほか大連を占領するなど満州への領土的野心をむき出しで進出してきた。さらに朝鮮半島北部への侵攻を企画した。こうしたなかその後イギリスは日本と1902年に日英同盟(Anglo-Japanses Allience)を締結し、ロシアとの対決姿勢を明確にした。しかしアメリカは、こうした中国における帝国主義的争いに警戒感をいだいていたがまだ明確な立場表明をしなかった。この「三国干渉」とロシアの遼東半島横取り、そして朝鮮侵攻が10年後には日露戦争につがなっていった。ルーズベルトのロシアの南下政策への懸念という東アジア情勢認識はここから始まっていた。


(2)ターゲットはアジア太平洋

ルーズベルトは、アジアにおけるアメリカの立ち位置をどのように考えていたのか?どのような戦略でアジアを見つめていたのか。イギリスがインドを植民地化し、中国でアヘン戦争(1842年)やアロー号事件(1855年)で、領土割譲や開港の強制、租借地権益を拡大していった、いわば帝国主義的、植民地主義政策とは異なり、後発のアメリカは、1854年のペリーの日本開国(開港)に先鞭を切ったように、むしろアジアにおける自由貿易を主張していた。しかし、アメリカはその後、内戦(南北戦争1861~1865年)で海外戦略から一時撤退せざるを得なくなり、せっかく日本開国の先鞭をつけ、安政五カ国条約をリードして外交的成功を収めたにもかかわらず、その後の日本の近代化革命(明治維新)と自由貿易体制への組み込みはイギリスが主導することになる。アメリカは内戦が収まると海外展開を再開する。この頃いわゆる国内の「西部開拓」が一段落し、大統領となった共和党のマッキンレーは海外進出を促進した。しかしアメリカの伝統的な反帝国主義に反するとして民主党などの抵抗に合う。それでも1898年の米西戦争に勝利し、スペインのキューバの主権放棄、プエルトリコ、フィリピン、グアムの割譲でカリブ海、太平洋地域で領土の拡大を果した。セオドール・ルーズベルトはこの時軍人として参戦し、のちにカーネル・ルーズベルトと呼ばれた。さらに1898年にはハワイ王国を併合した。


(3)朝鮮における権益

マッキンレーが暗殺され、1901年に副大統領であったルーズベルトが大統領になると、さらに東アジアへの進出を目指し、まず朝鮮半島や満州に着目した。しかし、その戦略は領土的な領有や植民地化ではなく、地元の事業への出資、資本参加の形での経済的利権獲得を目指した。この頃ロシアはヨーロッパ、アジア両方で南下政策を取り、領土拡大、不凍港獲得の野心を隠さず、アメリカにとって危険な敵対勢力であった。一方でイギリスのインド、中国における植民地主義的政策もアメリカにとっては受け入れられないものであった。そこで新興国の日本を(非キリスト教国であるにもかかわらずと注釈付きである)東アジア進出のパートナーとして選んだ。まずはルーズベルトは朝鮮半島における鉄道事業(京釜鉄道)への資本参加をめざしていた。しかし朝鮮半島情勢は懸念材料の一つであった。朝鮮国王の統治権威と権力が崩壊し、なお弱体化した中国(清朝)への朝貢関係を続けるという朝鮮王国の不安定さには強い危機感を持っていた。特にその清朝の弱体化の隙を狙ったロシアの朝鮮への領土的野心に警戒した。この懸念は朝鮮の隣国で開国まもない新興国日本こそ、より切実な危機感として共有していた。ここに日米両国の懸念と利害が一致した、こうした事態からアメリカもイギリスものちに日韓合邦、そして1910年の日本の韓国併合を容認した。ロシアの脅威は日本、アメリカ、イギリスの共通の課題であった。しかしルーズベルトにとっては結果的に朝鮮半島への進出はうまくゆかなかった。日本に独占される形となったからだ。


(4)満州における権益

朝鮮問題に加えて、満州におけるアメリカ資本の権益拡大がより大きな戦略的課題であった。ルーズベルトはこうしたアメリカの東アジア戦略の一環として日露戦争の動向を注視し、その停戦を好機と考え、講和調停に乗り出した。この戦争で国力をほぼ使い果たした日本は、ロシアに軍事的には勝利したものの国家存亡の瀬戸際にあったため、停戦と戦後処理をアメリカの和平仲介に期待した。ルーズベルトのアジア戦略を横目で見ながら、アメリカを日本側に引き寄せる工作を行なったのは金子堅太郎である。金子は同じハーバード大学ロースクール同窓生の縁を活用しルーズベルトへの接近工作を行なった。日本側の対露戦略、停戦後の満州戦略を説明し、日本への協力を交渉した。合わせて新渡戸稲造の著作『Bushido』を贈り感動させたり、柔術指南の先生を紹介したり、文化面でもルーズベルトを日本ファンにした。昨今流行りの「個人的信頼関係」というやつである。こうした外交交渉も功を奏し、ルーズベルトは親日的で、対ロシア、対イギリスという観点からも日本に肩入れした。しかし日露戦争の推移を見守る中で、やがては日本のアジアにおける軍事的、経済的な伸長がアメリカの権益に影響を与えるのではないかという危機感を持つに至る。特にアメリカがようやく手に入れたハワイやフィリピンに日本が食指を伸ばすのではないか。また中国大陸においても日本がアメリカの利益を損なう恐れがあるのではと危惧し始めた。これは日露戦争における日本側の勝利という「思いがけない」結果に対して、列強諸国が一様に抱いた驚愕反応の一つであった。対露戦略で共闘する目的で日英同盟を結んだイギリスでさえこのような危惧を持つ論調が生まれた(中国在住のイギリス人ジャーナリストPuttnam Wealeの‘TheComing Struggle in Eastern Asia'等)。いわゆるドイツ皇帝ウィルヘルム2世の「黄禍論」に象徴される反応である。ルーズベルトも講和会議でロシア側にも配慮した和平案を提示し、日本側を一方的な戦勝国としない策を講じた。日本に賠償金を放棄させたことも、ロシアを助けるとともにこの資金で日本が軍事力を強化することを阻止する意図があった。


(5)満鉄共同経営計画とその破綻

一方でルーズベルトは日本がロシアから獲得した南満州鉄道には強い関心を示した。満州におけるアメリカ進出の橋頭堡とするとともに、アメリカ西海岸からの日本経由の太平洋航路に、旅順で南満州鉄道を接続させ、さらにロシア国内のシベリア鉄道を経由した米亜欧ルートの確立を企図した。1905年のポーツマス講和条約締結と共に、ルーズベルトは友人の鉄道事業家、エドワード・ヘンリー・ハリマンを特使として日本に送り、首相桂太郎と交渉させて、南満州鉄道の資本の半分をアメリカに譲渡する約束を取り付けた。日露戦争の戦費を賄う戦時国債の引き受けなど、アメリカが日本に大きな支援を行ったことの見返りディールである。しかしこの話は、講和条約交渉から帰国した小村寿太郎外相が「条約内容に反する」との猛烈な反対したことで議論になる(ちなみに本書の著者は「これは根拠のない反論だ」としている)。また日本の民衆の講和条件に対する不満(賠償金がとれない)が爆発した「日比谷焼き討ち事件」などの暴動で日本国内の世情が騒然とし、東京に交渉で来ていたハリマン一行も危うく暴動に巻き込まれる事態にまで発展した。桂太郎もこんな情勢の中でアメリカに鉄道利権の半分を譲るなどとは言えなかったであろう。結局ハリマンとの約定は反故にされた。こうして(ルーズベルトが和平を仲介したにもかかわらず)アメリカ資本が満州から排除され、日本とのパートナシップによる進出計画は破れてしまう。ルーズベルトの思惑が外れた形だ。ここからアメリカの日本に対する不信感や危機感が増幅され、のちの日米開戦の伏線となったと考えられている。テッド・ルーズベルトの従弟フランクリン・ルーズベルト大統領の時代へと繋がってゆく。本書は将来の「日米開戦」の可能性を予見してはいないが、アメリカの対日外交戦略はこののちも「ペリー来航」以来の伝統的日米友好関係を旗印にしていたものの、日本がいつまでもアメリカにとって友好国であり続けるのかという懸念が沸き起こり始めた様子が描かれている。


歴史は繰り返す:「エゴイズム外交」の時代は何をもたらすのか?

このようにテッド・ルーズベルトの日露和平仲介は、戦争を終わらせたと言う点ではノーベル平和賞に値する業績であろうが、自国のアジア利権拡大の目論見につながっていることも明らかである。権謀術数渦巻く外交交渉で、「善意の人」が現れて世界を平和に導いてくれるなどと脳天気な物語を信じるほどおめでたくはないつもりだが、アメリカ憲政史上でも評価の高いとされるテッド・ルーズベルトでさえ「理想主義」による外交を主導したわけではない。また単純に日本贔屓であったわけでもない。国益を優先に考えた冷徹な計算の人であった。むしろ自国への利益誘導型の「エゴイズム外交」であったというべきであろう。当時はそれが別段異様なことでもなかった。帝国主義の時代であった。アメリカが「理想主義外交」に舵を切るのは、冒頭に述べたように二つの世界大戦をアメリカの介入で勝利し、さらに戦後の冷戦に勝利した後のことである。そして自国優先の「エゴイズム外交」が、成功はしなかったことは、このポーツマス講和条約後の日本との関係の破綻への道を見てもわかるだろう。この講和会議の35年後には真珠湾攻撃が起きている。日露戦争後に世界大戦が二つも立て続けに起きているのだ。トランプは前代未聞の不可解な大統領なのではなく時間を巻き戻してあの「エゴイズム外交」の時代に戻ろうというだけなのだ。しかしそれが何を意味しているか、その後の歴史を繰り返さないよう学ぶ事が肝心であろう。ルーズベルトの外交政策から学ぶべきはそこだろう。少なくとも「ノーベル平和賞のもらい方」ではない。

トランプに国家のリーダーとして国際関係の歴史的経緯やそれがもたらした後の世界の絵姿に想いを馳せるだけの歴史認識や未来への洞察力があるのかどうかは定かではない。ルーズベルトがアメリカ大統領としての一つのリーダーシップモデルを打ち立て、歴史に残る人物とみなされていることを現職大統領としてどのように評価しているのか。これも不明である。しかし、日露戦争の和平交渉でノーベル平和賞を受賞した点だけははっきりと記憶に刻まれているようだ。ことあるごとに紛争解決、戦争終結で「ノーベル平和賞が欲しい!」とあからさまに要求する。むしろ「ノーベル平和賞」のために戦争終結を急ぐ姿勢すら見せている。「歴史に学ぶ」と言うことはそういうことではないだろう。ウクライナ、パレスチナ、そしてこれから起こるかもしれない台湾。どこも平和と安定の道筋は全く見えていないどころか、ますます混迷を極めている。自国優先の「エゴイズム外交」の復活は、紛争や戦争を終結させるどころか、拡大させる危険性があることは歴史は教えている。将来に禍根を残さない「和平交渉」であって欲しい。奇しくもその和平交渉を任されている大統領特使は、政治家や外交官ではなくトランプの不動産業界での友人ウィトコフである。ルーズベルトの鉄道業界の友人ハリマンと同様、戦争の惨禍や市民の悲惨な苦しみ、あるいは民主主義の理念には関心のない経済的利権を優先する特使である。終戦後のリゾート開発、資源権益確保、半導体技術確保。そんな事が目的の終戦でトランプは望むようなノーベル平和賞がもらえるのだろうか。ルーズベルトはアメリカの国益拡大を企図したが、自己の利益と名誉欲のために和平交渉をリードしたのではない。少なくとも彼はノーベル平和賞を欲しいなどとは言わなかった。それは要求するものではなく、結果に対して与えられるものだということを知っていた。

日本は、まだ弱い立場であった「三国干渉」の時代を「臥薪嘗胆」乗り越えて、英米の後押しを得て、軍事力だけでなく外交力でもロシアに辛くも勝利した。失った遼東半島を実力行使で取り戻し、日本海、対馬海峡、津軽海峡の制海権をこれも実力で奪い、南満州鉄道を獲得しアメリカの経営参加を排除して独占する。これが満州国建国への一歩となった。日清戦争で獲得した台湾に加えて朝鮮を併合する。さらに第一次世界大戦では日英同盟により連合国として、ドイツと戦端を開き、膠州湾、山東半島、太平洋の信託統治領を獲得した。中国、満州、朝鮮における日本の権益独占に対する欧米列強の非難に対して、「門戸開放」「機会均等」をうたいながら、ある意味では米英露の自国優先「エゴイズム外交」を排除して、日本の自国優先「エゴイズム外交」を守り通したと言えるだろう。まさしく欧米列強と並んで帝国主義植民地獲得競争に日本も参戦した。これをもって欧米列強からの「アジアの解放」を謳い、のちには「大東亜共栄圏」などと言う勇ましいスローガンと共にアジア太平洋に戦禍を広げる。その結末がどうなったかはここで改めて述べる必要もないだろう。いずれの国においても自国優先「エゴイズム外交」の行き着くところは戦争なのだ。

日英同盟をカリカチュアライズした記事




ポーツマス講和会議の後のルーズベルトを囲む日露全権代表の記念写真


2025年12月1日月曜日

ご近所の秋 〜蘇峰公園、養玉院如来寺、荏原法蓮寺、旗岡八幡社、戸越公園、品川歴史館・松滴庵〜

 


毎年この時期になるとカメラ小僧は忙しくなる。そう、紅葉や黄葉を求めて定点観測地点の色づき具合を観察しながらカメラ担いで出かける。日本には紅葉スポットがたくさんある。しかし、京都なんぞは最近はトントご無沙汰だ。オーバーツーリズム状態で人を見に行くのか紅葉を見に行くのかわからない状態。このシーズンの京都の混雑は別に今に始まった話でもないが、外国人ツーリストが日本に押しかけるブームが続いていて、紅葉の名所は凄まじい混雑。かつての経済大国の面影もすっかり薄れた日本。どんどん「安くなった」日本に来てお金をいっぱい使っていって欲しいが、地元民が入り込む隙間もなくなるほどだとチト困る。中国政府が「日本では中国人に対するテロの危険があるので渡航しないように」などとプロパガンダフェイク流しても、中国人民の皆さんは政府の言うことなぞ信用しない人たちなので、続々と押しかける。それで良いのだ。政府同士の喧嘩なぞ我関せず。民草は民草同士、仲良くやろう。

まあしかし京都は控えるとしよう。遠出するのも億劫だし東京で紅葉見物?日比谷公園、後楽園、六義園、皇居東御苑、皇居乾通通り抜け。こっちはこっちでいつも人ばかり。神宮外苑の銀杏並木もすごい人で大混雑、とニュースでやっている!東京という街は普段から人でごった返している。いやいやご近所で紅葉見物と洒落込むのが賢い選択だ。歩いて行ける所に感動的な紅葉スポットがあるじゃないか。地元住民も気がついていないだけ。ほとんど観に来る人もなく、紅葉独占状態。カメラアングルを考えながら試行錯誤していてウロチョロしていても誰の邪魔にもならない。曇ってきて光の具合が悪ければ出直せばいい。秋の紅葉見物。春の桜見物は地元に限る。幸せの青い鳥は遠くまで探しに行かなくても自分の住んでいるところにいるのだ。


蘇峰公園




















12月7日追加




大井大仏 養玉院如来寺












荏原法蓮寺/旗岡八幡社


















戸越公園












品川歴史館・松滴庵(12月4日追加)











街角の秋













(撮影機材:Leica SL3 + SIGMA20-200/3.5-6.3 DG。最近入手したSIGMAの10倍の高倍率ズーム。比較的廉価ではあるが、解像度も高く、広角から望遠まで様々な収差も良く補正されており、かつハーフマクロレンズとしても使える万能レンズ。Leica SL3の6000万画素センサーにも十分に応えてくれる。何より小型軽量なのが嬉しい。SIGMAの気迫が感じられる「お道具」だ。ありがたやま)

2025年11月19日水曜日

カール・ポパー『歴史主義の貧困』:Karl Popper ” The Poverty of Historicism” 〜歴史の行く末は予測できない?〜

 

Karl Popper (1902~1994)


歴史をめぐる旅人「時空トラベラー」としては避けて通ることのできない著作がある。カール・ポパーの『歴史主義の貧困』である。「歴史は未来を予測できない」と断じた著作である。

カール・ポパーは、オーストリア出身で、ナチ政権の弾圧を逃れてニュージーランド、イギリスへ渡り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス:LSEで長年教鞭をとった20世紀を代表する哲学者の一人である。ファシズム批判、コミュニズム批判など全体主義批判で知られる。本書は戦前から戦後の冷戦時代に盛んに読まれた哲学書である。90年代のソ連崩壊以降の世界で最近はあまり読まれなくなったようだが、その科学哲学における「反証主義」理論の衝撃は今も衰えることはない。そして今再び注目を集めている。

私は、80年代初頭LSE修士課程在籍中に、一度だけこの著名な哲学者の講義を聞きに行ったことがある。せっかくLSEにいるのだからこのカール・ポパーの顔くらい見ておきたいという、まるで有名人を見に行くような軽薄な関心であった。今から思えばなんとも恥いるばかりの浅学非才の若造の行動であった。講義は「社会科学における合理性とは」と言った内容だったように記憶するが、どんな講義であったかしっかり覚えてもいないし、今回取り上げる『歴史の貧困』を読んだのもずっと後の、あの91年のソ連崩壊の時のことだ。「なぜ共産主義、社会主義は破綻したのか?」と言う分析、評論が相次いだ時だった。なんたる大馬鹿者!もったいないことをしたものだ。しかし若き日のあの出会いの思い出が、時空を隔てて我が記憶の底から蘇り心に強く響き始める。もう少し人生の前半で知っておくべきであったが、今からでも遅くはない。いや、歴史の反動や科学的合理性への懐疑など、21世紀の今(再び)起き始めた大きな哲学的思潮のムーブメントを考える時にこそ本書を読み返す意味がある。

「歴史に学べ」「歴史は繰り返す」「愚か者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」。人はよくそう言うが、確かに人間は過去に犯した過ちに学ばず、同じ過ちを犯す。歴史は様々なことを現在の我々に教えてくれる。また未来を予測すらしてくれる。前車の轍を踏まないよう未来を歩む、それが歴史を学ぶことの意義だと信じている。おそらくそれは間違っていないのだが、歴史の発展に何か普遍の法則や理論があるのだろうか。だから未来は予測可能だと信じているのか。社会科学は自然科学のような科学なのか。歴史学は科学なのか? 本書でポパーは「歴史の行く末は予測できない」「歴史的運命への信仰は迷信である」「歴史学は反証不可能であり科学ではない」と論証してみせた。理論物理学はあっても理論歴史学は存在し得ないと。社会科学の諸分野で、経済学を除いては、すべて物理学的な方法論を試みて成功したものはなかった。そうした自然科学的方法論の適用可能性を論ずるなかで、「歴史(法則)主義:Historicism」が適用可能な方法論であるかの如く扱われ、それが自明のことであるかのようにさえ考えられてきたことを批判した。さらにこの「歴史(法則)主義」がファシズムやナチズム、コミュニズムのような全体主義を引き起こしたと批判している。

歴史を学ぶことの意義を考えるにあたって、ポパーはこのような重要な問題を提起しているわけで、私にとっては衝撃的であった。本書の元となった論文の上梓は1944年である。そして英語版の初版刊行は1957年である。世界がファシズムと戦い、やがて勝利し、あらたなコミュニズムという全体主義の脅威にさらされた時期の著作である。彼は本書の献辞で、「歴史的運命の不変の法則というファシズム的、共産主義的信念の犠牲となったあらゆる信条の、あらゆる国の、あらゆる民族の無数の男たち、女たち、子供たちを偲んで」としている。彼の反「歴史法則主義」はこうした全体主義に結びついてゆく危険性への批判から始まっていている。これはもちろん歴史に学ぶことの重要性を否定するものではないが、歴史に科学的な法則を見出そうとする、一見合理主義的な考え方の落とし穴、あるいは科学哲学上の矛盾を指摘しているのである。

本書の序文で、「歴史主義」の矛盾を次のように指摘して批判する。

(1)人間の歴史の道筋は知識の成長に大きく影響される。

(2)合理的または科学的な方法により、人間の知識が将来どのように成長するかを予測することはできない。

(3)従って、人間の歴史の将来の道筋を予測することはできない。

(4)このことは、理論物理学に対応する歴史の社会科学である理論歴史学が成立不可能であることを意味する。歴史の発展に関して、歴史的予測の基盤となりうる科学的理論というものはありえない。

(5)それゆえ、「歴史的発展の理論」、すなわち歴史主義の方法の根本目的は誤って構想されている。歴史主義は破綻する。

論点の根本は(2)で、「成長する人間の知識というようなものがあるとするなら、明日にならなければわからないことを、今日予知することはできないのである」。まさに予測不能な未来を論理的に予測することの矛盾を説いている。歴史の法則というようなものが未来に起きる必然を言い当てることはできないのである。

振り返ってみると、学生時代に学んだマルクス経済学。まずは入り口でフリードリヒ・エンゲルスの『空想から科学へ』を読まされる。社会や歴史の発展には法則がありそれに従って進んで行く、それはまさに空想ではなく科学であると。そしてカール・マルクスは、上部構造は下部構造が規定する。すなわち経済が政治活動や思想、宗教を決定付けると。資本主義が成熟すると、「持てるもの」と「持たざる者」という階級間の矛盾が生まれ階級闘争が起き、やがて資本主義は「徒手空拳のプロレタリアート」が生産手段を所有するという共産主義へと移行すると論じた。ヘーゲルの弁証法、唯物史観による「歴史法則」を説いたのである。「そうか、世の中は科学的な法則により動いているのか、歴史には発展理論があるのか」。ナイーヴな学生の頭には魅力的で理路整然とした説明であった。世の中の仕組み、歴史理論が分かったような気がした。若者が熱狂するはずである。また、自然科学の新発見であるダーウィンの進化論に触発されたハーバート・スペンサーの「社会進化論」にも「適者生存論」にも、社会や歴史の発展段階を科学的、合理的に説明する説得力を感じたものだ。

しかし、ほんとにそうなのか。社会科学は検証可能な出来事が繰り返される「合理性」を持った科学なのか。普遍的法則で歴史上の出来事は説明できるのか。そして未来を予測できるのか。この疑問はやがて、現実の社会では理論や法則に従ったとは思えない、検証不可能で再現性のない事象が出現し、むしろ矛盾に満ちた歴史が紡がれてゆくことを知ることとなり、より深まっていった。矛盾が取り除かれない事象は科学的に検証不可能なのではないか。ポパーが言うように確かにそこには「歴史(法則)主義」の落とし穴、矛盾があるのかもしれない。そう気付かされた。すなわち閉じた世界での宿命論的、決定論的歴史論は危険であるということを。

なぜマルクスが言うように資本主義が極限まで発展したイギリスではなく、資本主義すら経験も成立もしなかった農奴制国家、帝政ロシアがいきなり共産主義国家になったのか。なぜプロレタリア階級の理想政治のはずが独裁者による恐怖政治になったのか。なぜ歴史の発展段階における必然とされた社会主義、共産主義は100年も経たないうちに崩壊し世界から消えたのか。なぜ中国では共産主義崩壊後もプロレタリア独裁政党は生き残り、しかも専制的な国家資本主義国家に変質したのか。マルクスやレーニンの理論と矛盾するではないか。理論的に実証されたはずの出来事が次々と瓦解する、あるいは非合理的な変質を遂げ、矛盾したまま存在し続ける。歴史は科学なのか。

一方でファシズムやナチズムはどうか。歴史法則に則った合理的必然なのか。いやむしろ歴史法則の必然性を否定し、カリスマ的な独裁者による「意思」と「行動」により「人種的競争」における勝利を勝ち取り、「優越人種」が「劣等人種」を淘汰するといった「非合理的歴史観」いや「空想」に立っている。すなわちコミュニズムのいう「合理的歴史観」の台頭に恐れをなして沸き起こってきた、いわば恐怖に対する対抗理論である。現代の「陰謀論」のルーツと言って良い。たしかに両方(いわゆる極左、極右)とも、民主的な討論を嫌い、反対者を弾圧する独裁主義、あるいは全体主義である点は共通するが。ポパーの言う、歴史(法則)主義、歴史的運命の不変法則が全体主義を生み出す危険性があるという主張。それはコミュニズム(マルクス・レーニン主義)の歴史観には当てはまっても、ファシズム、ナチズムの非合理的歴史観には当てはまらないのではないか。そもそも科学的な「実証」も、ポパーが言う「反証」も不可能な「空想」に過ぎないのだから。あるいはダーウィンの「適者生存」理論を誤って解釈、借用したに過ぎないと言って良い。もちろん開かれた世界での議論を否定して閉じられた世界で主張される決定論的、運命論的「歴史法則」が危険な誤りであることに異論を挟む余地はない。

再び世界は今、陰謀論を振りかざす極右(ファシズム、ネオナチ)の台頭、選挙など民主主義的システムを利用して全体主義的な思想、体制が生み出される事態に直面している。民主主義やリベラリズムの衰退を懸念するそんな歴史の反動の時代を迎えている。一方で、経済的格差が極大化する社会に於いては、イデオロギーの左右の対立よりも、中間層の失われた所得階層ピラミッドの、ほんの一握りの上層と大多数の下層の対立がより大きな問題となっている。新たな「階級闘争」である。そんななかで新自由主義経済システムの矛盾を指摘し、富の偏在から再分配を実現しようという「社会主義」が見直され始めている。ここでは「全体主義的な社会主義・共産主義」ではなく「民主的な社会主義・民主社会主義」を目指そうという、保守主義への対抗思想である。左右のポピュリズムの台頭だ。またAIの進化に伴い発生する雇用機会の喪失、労働価値の低下、それにともなう格差社会、すなわち科学的合理性への懐疑、経済合理性への強烈な疑問が湧き起こっている。専制主義・権威主義と民主主義・リベラリズムの分断。経済成長と科学技術発展の果実を独占するトップ・オブ・ピラミッド(TOP)と、その富を享受できないボトム・オブ・ピラミッド(BOP)の分断。さらに言えばAIを使う人とAIに使われる人との分断。こうした分断と対立の構造も変化し始めている。

そういう予測不能な時代にポパーから何を読み取るのか。今は200余年前の「フランス革命前夜」「産業革命」の時代の状況に似ており、「歴史は繰り返す」とする世のコメンテータの論調がある。これは一聞するとわかりやすいように思える。しかしそれは「歴史のアナロジー」ではあっても、そこに「歴史の法則」を見出すことはできない。ポパーの「反証主義」が現代においても答えを導き出す手立てとなりうるのか。私はこの著作から、新たな思考のための視点を得ることができたが、まだ確たる答えをそこから得ることはできていない。しかし歴史に「法則」は見出せなくとも、少なくとも「教訓」は見出せるに違いない。ゆえに歴史を学ぶことの意義は失われることはない。ポパーもそれを否定しているわけではなく、それを「理論」「法則」と主張して誤った答えに到達することに警鐘を鳴らしているのである。いわば「理路整然と結論を誤る」。さらに本書についての世の読書人の評価を聞きたいものだ。


1989年アメリカでのペーパーバック版

日本語訳は2013年初版 日経BP社刊
岩坂彰訳、黒田東彦解説


ポパーの「反証主義」Falsificationism

ポパーの科学哲学思想の基本は「反証主義」である。すなわち科学における「実証主義」:Positivism or Critical rationalism、「帰納法」:inductionに対する、「反証主義」:Falsificationism、「演繹法」:deductionである。

彼は、科学的理論の正当性は、それが正しいことの証拠を挙げる「実証」ではなく、それが間違いであることの事例の検討、すなわち「反証」により決定される。反証事例が挙げられない理論は科学ではない。科学と非科学を線引きするものは「反証可能性」である。ポパーは、経験主義:Empiricismの系譜上にあるベーコン、ロック、ヒュームの「帰納と実証」ではなく、「演繹と反証」によって科学の当為(あるべきこと:Sollen)を基礎付ける。すなわち「反証可能性」がない理論は科学ではないとする。

「科学的真理」とは、現段階であらゆる反証事例の検討に耐え抜いた「仮説」であり、それはいずれ反証される「暫定的な真理」である。ニュートン物理学が光速度と量子の発見によって否定されたように。一つの実証は他の実証により覆される。科学の進歩は「実証」ではなく「反証」により実現されると考えた。

ポパーの「歴史法則」「社会進化の法則」「歴史発展の理論」などが科学的な理論ではないという指摘は、すべて彼の「反証主義」から自然に導き出される結論である。

ちなみにポパーの言う「歴史主義」は、哲学史でいうところの「歴史主義」すなわちHistorismと区別する意味でHistoricismと称している。日本語訳としては「歴史法則主義」とした方が理解しやすい。



2025年11月15日土曜日

御殿山、八ツ山橋界隈のイチョウ並木 〜第一京浜は黄葉のドライブコース〜




東京と横浜をつなぐ産業、生活の大動脈、国道15号線。通称「第一京浜国道」。普段は季節感を感じることが少ない忙しい道路だが、この季節になると品川、八ツ山橋界隈の銀杏並木が美しく色づき、普段とは異なる景色が広がる。三菱開東閣の森、そして反対側の延々といつ終わるともしれず続く品川駅再開発のクレーンを背景に、目にも鮮やかな銀杏並木が出現する。都会に秋の訪れを感じる一瞬だ。











御殿山下のJR回廊。 新幹線、東海道線、京浜東北線、山手線が走り抜ける大動脈。江戸時代には将軍家の御殿があり、庶民にも開放された桜の名所であった。江戸名所百景にも取り上げられた。しかし幕末のお台場建設の土取りで山が切り崩され、維新後は鉄道開設のため、さらに開鑿され御殿山は消滅した。ここも「近代化」の犠牲になった名所の一つである。




現在の御殿山庭園。わずかに残された江戸の桜の名所「御殿山」の痕跡。春には桜が今も美しく咲き誇る。秋は紅葉の名所でもある。しかし東京都心の紅葉シーズンはたいてい12月初旬。ここもまだまだ紅葉には早い。

紅葉はまだまだ先だ


庭園の滝の紅葉もまだ緑





(撮影機材:Leica SL3 + Sigma 20-200/3.5-6.3 DG このSIGMAの高倍率ズームは比較的廉価なレンズであるが、広角側が20mmから始まる便利なレンズ。非常に解像にも優れており高画素機SL3でも遜色ない、歪曲収差、周辺光量落ちもうまく補正されている。28~85mm域ではマクロ的撮影も可能な万能レンズ。軽量で取り回しにも優れブラパチの友としては最高だ)