ページビューの合計

ラベル 日本古代史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 日本古代史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年8月10日日曜日

古書を巡る旅(67)Wlliam G. Aston " NIHONGI":アストン英訳「日本書紀」

 


表紙

伊奘冉、伊弉諾二神像として掲載されている


William George Aston (1841~1911) Wikipedia




本書は、1896年にロンドンの日本協会雑誌付録第一「日本記」全2巻、Transactions and Proceedings of The Japan Society, London Supplement I,  NIHONGI, Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D.697としてロンドンで刊行された。出版社はKegan Paul, Trrench, Truebner & Co Ltd. である。著者のウィリアム・G・アストン(William George Aston:1841-1911)は、アイルランド生まれでダブリンのクイーンズカレッジ卒業後、英国外務省の日本語研修生としてアーネスト・サトウとともに採用され、1864年に江戸の英国公使館に通訳生として赴任する。領事試験合格後は神戸、長崎の領事を務めた。公務に従事する傍ら、日本語研究に取り組み、退官帰国後には、数多くの日本に関する研究書を発表した。その中には「日本神道論」「日本文学史」「日本古代史」「日本語文語文典」があり、なかでも西欧の日本研究者に大きな影響を与え、研究の進歩に貢献したのがこの「日本紀」である。本書はその貴重な英訳初版本である。

このアストンの「日本記:NIHONGI」は、8世紀に編纂された日本初の正史「日本書紀」の初めての英訳であり日本の古代史研究資料としても貴重な書籍である。しかしなぜかアストン没後は再版、改訂されることはなく、日本においてもその存在を知る人も少なかった。不思議なことである。戦後の1956年になってようやくロンドンでGeorge Allen & Unwinにより再版が刊行された。初版の2巻本が1巻にまとめられたが内容は全く同じである。

ちなみに、この「日本紀」英訳以前には、チェンバレンによる「古事記」の英訳(1882年「日本アジア協会紀要」掲載)がある(以前のブログ参照 2025年5月17日古書を巡る旅(64)チェンバレン英訳「古事記」)。アストンはチェンバレンの1882年古事記を読んでおり、彼の原稿を所有していたため関東大震災で失われた原本を復刻することができたと言われている。チェンバレン「古事記」復刻版ではアストンが新たに注釈をつけ、これ(アストン版古事記)が現代の英訳古事記の底本になっている。アストンの古代日本語の流麗で正確な翻訳、注釈には定評があり、この評価はあたかもチェンバレン版「古事記」のアストン訳注で発揮されたもののように受け止められがちである。しかし、これに先立つアストン版「日本紀」にこそ、その翻訳の力量が遺憾なく発揮されているのである。

本書は、全2巻で、第1巻は神話と神武天皇から武烈天皇まで。第二巻は継体天皇から持統天皇まで。神話部分と神武天皇から持統天皇までのクロニクルな年代記として訳出されている。日本書紀は元々漢文で記述されており、その文体、用語法の違いから、執筆者には渡来人(ネイティヴの漢人)と倭人(外国語としての漢文を学んだ)の2種類が存在していることが最近の研究で明らかになっている。アストンもその内容と文体が中国からやってきた人物(渡来人)の影響を受け、そうした文化的な背景を受容して記述されていることを指摘している。この古代日本を知る上で、それに影響を与えた中国語(漢字)、思想、政治制度、文化についての理解と注釈なしで、歴史書として日本紀を解読することは困難であると考えた。そもそも日本書紀の編纂の背景には、古代東アジア世界の超大国である中国(唐王朝)を意識して、新興国家「日本」(かつて倭国と呼ばれた)の独立と、神代から続く天皇の支配の正当性を対外的に宣言することがあり、その表明の書としての正史編纂であった。アストンはそうした国家アイデンティティー表明の中にもその内容に多くの中国王朝からの影響が見て取れると指摘している。本居宣長が古事記を「やまとごころ」の書としたのに対し、日本書紀を「からごころ」の書とした所以である。 

アストンは日本紀の解説書として、18世紀末の江戸時代寛政年間に出版された「書紀集解」(国学者河村秀根)を用いている。それ以外にも釈日本紀などの歴史書や、フローレンツのドイツ語訳を参照し、チェンバレンや、サトウの著作を参考に彼の幅広い日本語能力、古代史知識、中国文化の知識をフルに活用した翻訳となっている。しかし、「書紀集解」を典拠とする点で日本書紀研究の現代的視点から見ると、いまや過去のものとみなされる解釈も多いのは致し方ない。特に古事記と日本書紀の成立経緯や成立意図を現代の研究者ほど明確に意識しないまま比較している面がある。また日本紀の原本として「帝紀」「旧辞」をあげており、蘇我宗家の滅亡とともにこれらの原本が失われたことは指摘してたうえで、「旧辞」を「旧辞記」しているのは何かの混同だろうか。しかし、当時の(いまから130年前の英国人研究者による日本古代史史料の解読、研究姿勢とその成果には舌を巻くほかない。特に史実と伝承、神話を明確に区別して考察する姿勢は、現代の「記紀」史料研究では既定のものであるが、この当時においては注目される。しかし、6世紀以降の天皇の事績に関する記述が多くの点で史実であるとみなした点は、現代ではその多くが潤色されたものであるとの見解で一致していることから見ると、彼の批判的史料解読に限界があると言える。それにしても、そんな研究深化の過程での誤りを現代の視点で批判することにどれほどの意味があるのか。こうした先人の業績の積み重ねあればこその日本書紀解釈であり、古代史研究である。アストンの当時としては最も正確な翻訳、これを世界に紹介した功績は偉大である。

明治期に日本が欧米列強に対し、国家的表象としての古代史、国の正史(あるいは国家創世神話)を求めていた時期にこのアストンの英訳「日本書紀」が大きな役割を果たしたと言われる。「記紀」の復活。皇国史観の確立に向けた時代であった。そもそも「日本書紀」の編纂目的が8世紀に倭国から日本(ひのもと)と名乗って、中華帝国(唐)、東アジアに国家デビューを果すための漢文による正史編纂事業であったことを考えると、1100年後の19世紀の明治維新という新たな近代国家デビューの時期に再び「日本書紀」「古事記」の存在が脚光を浴び、それがイギリス人研究者によって英訳復活したことには歴史のシンクロニシティーを感じざるを得ない。無論アストンはそのような明治国家の意図を汲んで英訳を試みたわけではないが、そのような要請に合致することとなった。

このようなアストンの注釈豊富な翻訳姿勢は、のちのドナルド・キーンの英訳のような読んで面白い文学的な訳文ではなく、逐語訳で正確性を期したもの、比較歴史学、神話学研究的な姿勢によるである。その意味においてはチェンバレン版古事記が、文学作品的な味わいがないと評されるのとと共通している。元々「文学作品」として取り扱っていないのである。歴史的史料、ないしは比較言語学、比較神話学の文献資料として扱っている。そもそもアストンもチェンバレンもこうした日本古代史料の現代英訳を日本人の読者を意識して出したわけではない。アストンは巻頭言で明確に「ヨーロッパの研究者向けに翻訳を試みた」と書いている。しかし、これらの英訳本が日本人にも評判が良かったことを思い出して欲しい。つい我々は、日本人ですら解読が難しい古代史料を英訳したことに感動する。そして日本を美しくユニークな国、人、文化として評価してくれていると思い嬉しがる。明治期以降の日本人が大好きな「外国人が見た日本」!、現代的にはCool Japan!現象だ。親日家、だとかジャパノロジストだとか言ってもてはやす。もちろん彼らは日本に興味を抱き、深く愛したが、しかし研究対象として日本を客観的、批判的に分析する視点を忘れてはいない。チェンバレンに「その観察は日本にシンパシーを持ち過ぎている」と批判されたラフカディオ・ハーン(古書をめぐる旅(66)ラフカディオ・ハーン「神国」)ですら、イギリスやアメリカ、欧米諸国の読者向けに彼らが東洋で見つけた新たな事実、物語を紹介しようとしたものだ。「西洋文化に対する東洋文化」という比較文化論的な視点での研究書あるいは論評書なのだ。決して日本贔屓したり、日本人を持ち上げようとする媚びへつらいの意図を示すものではない。われわれ日本人がこれらの研究書、作品集に接するときにその著者の真意を理解して向き合う必要がある。

それにしてもこのような日本の古典研究が、明治期にこうした英国の外交官、御雇外国人によってなされたことに注目したい。そこには当時の大英帝国の国家としての情報収集能力、異文化研究能力、人材育成能力の卓越したパワーを感じざるを得ない。オルコックもパークスも業務として、館員に1日の半分を日本研究のために費やすよう命じた。大英帝国の余裕のなせるわざではあるが、その余裕は単に国家の経済的な優位性、軍事的な優位性によるものだけではなく、同時に「インテリジェンス」重視という知性の優位性によるものであった。現代においてジャパノロジストを見なされる日本研究者、オリファント、サトウ、アストン、ミットフォード、サンソムもみな若き駐日英国公使館員であった。その研究に影響を受けたチェンバレンは、公使館員ではなくお雇い教師であったが、なんと帝大の「国文学」講座の初代教授であった。ジャパノロジストはこうして生まれた。「英国諜報部員」の実相は007のようなアクションスターだけでなく知的研究者であった。

そうした大英帝国時代以来の外国研究の伝統は、ロンドン大学 東洋・アフリカ研究学院(The University of London, The School of Oriental and African Studies)にそのレガシーと最新研究が引き継がれている。


2025年5月17日土曜日

古書を巡る旅(64)The Kojiki or "Record of Ancient Matters":初の英訳「古事記」〜生成AIによるチェンバレンの評価は?〜





1906年の日本アジア協会紀要第10巻補遺の表紙

1906年リプリント書籍版の表紙

Basil Hall Chamberlain (1850~1935)

W.G.アストン注釈版「古事記」1982年ペーパーバック初版
(表紙デザインと中身は関係ありません!)


バジル・ホール・チェンバレン:Basil Hall Chamberlain(1850-1935)のThe Kojiki or "Record of Ancient Matters"は、世界で初めての「古事記」英訳として、1882年(明治15年)4月12日、5月10日、6月21日に日本アジア協会(Asiatic Society of Japan)で講義:read、発表され、翌年に出版された。本書は1906年(明治39年)2月に、同協会の紀要の第十巻補遺に再掲され、同時に同協会から書籍として刊行されたものである。チェンバレンが海軍お雇い外国教師の時代の著作である。革装、マーブルボードの美しい装丁である。また日本アジア協会紀要のオリジナルの表紙(1906年版)が挿入されるなど、おそらく所有者がリバインディング、再製本を手がけたもののようだ。かなりの部分がアンカットのままで、読まれた形跡がない。愛蔵版あるいはオリジナルの保存版として所蔵されたのであろう。現在Tuttle社から出版されている1982年の英訳新版(ペーパーバック版)は、ウィリアム・アストン:William George Aston(1841-1911)の注釈、解説による、いわば「アストン注釈版」である。出版社巻頭言によれば、1923年の関東大震災の時に、1882年の原本と残部数の多くが消失したため、アストンがチェンバレンから譲り受けたとされる手持ち原稿を元に復元再販したとある。またオリジナルの「日本アジア協会版」は1919年と1920年に再版されているとあるが、しかし1906年版には言及されていない。存在が確認されていなかったのかもしれない。書誌学的には不明な点があるが、この1906年版が関東大震災以前の最も古い「日本アジア協会版」であるとすれば貴重な「生き残り」書籍である。ちなみにわずかに現存するオリジナルの1882年版コピーは東大図書館に収蔵されている。


チェンバレンの翻訳の特色

チェンバレンは、古事記を文学作品、あるいは神道の聖典としてではなく日本、日本文化の源流を知る上での「古代の出来事:Ancient Matters」の「記録:Record」、すなわち文献史料として取り上げた。したがってその翻訳にあたっては客観性と正確性を重視するよう心がけている。彼は本書の巻頭言で、この古事記英訳の目的と方法論を明確に述べている。これがチェンバレンのいわば「古事記」研究総論であると言って良い。その姿勢は文学者、言語学研究者というよりも、むしろ文献史学者的ですらある。したがって、物語や叙事詩のように読んでいて面白みがある訳ではない、ないしはあまりにも素朴な文体で表されているとして、後世の研究者,特に文学研究者から批判される所以である。先述のように、のちにウィリアム・アストン(「日本書紀」の翻訳がある)は、チェンバレン訳に、注釈、補筆、修正を加え、よりわかりやすい解釈を加えている。また20世紀のドナルド・キーンなどの新訳ではそうした物語としての魅力が表現されるようになる。しかしチェンバレン自身は、「そもそも古事記の表現には、文学作品のような文体の美しさがない。したがって素朴な響きを感じるのは元々そうだからだ」と言っている。彼の翻訳にはさまざまな議論があるが、日本古代史の画期となる歴史書で神話の体系である「古事記」を英訳し西欧に伝えたことは、翻訳史上,学術的に画期的な成果であった。チェンバレンはまた、巻頭言でこの翻訳にあたって、その前提となる日本の古代思想や宗教、習俗、政治思想の起源、古伝説などについて解説している。インドアーリア語族のものとも異なり独自のものであること。中国文化と同一視しがちな西欧人向けに、日本古代文化は、中国から多くの思想、宗教、文化を入れているが、使われている文字(漢字)以外は、日本が受容し変容した独自の世界観が表現されていると評している。もっともそう説明しながらも、そこに表されている神話や世界観に、古代中国やギリシアなど西欧神話などとの共通性も指摘している(後述)。翻訳にあたっては、まず日本文化を深く理解するため古事記だけではなく、日本書紀、続日本紀等の史書や、そのほかの多くの古典にあたり、万葉集、古今和歌集、和名類聚抄など、48種の古書籍を参考にしている(巻頭言の最後に参照文献リストが掲載されている)。古事記注釈書である本居宣長の『古事記伝』をしばしば引用、言及している。またチェンバレンは本文中で、訳文に細かく注釈をつけて、登場する神々の名前、天皇の系譜と事績、日本古語の意味、そのように解釈した理由、その背景などを逐語的に解説している(したがって本文よりも注釈に多くの紙幅を費やしている)。また追補で本文中の和歌のローマ字表記、歴代天皇を紹介し、索引は46ページにわたるものである。これが人名辞書、地名辞書の役割を果たしてくれており、外国人が日本の古代文化、日本を学ぶ上で役に立つ、一種の注釈書,コンメンタールとなっている。こうした本書の構成を見ても、この翻訳作業が、極めて学術的、まさに書斎学派的な営みであったことがわかる。


比較神話学の視点

古事記の英訳は、古事記が日本の神話体系、宗教的伝統のルーツとなっている点を紹介したことで、ヨーロッパでは比較神話学的な観点からも大きな反響を呼んだ。すなわちヨーロッパ人は東洋にもう一つの新たな神話の存在を知ることになったわけである。ただ、チェンバレンは古事記の神話体系は、日本独自に創造されたのものではなく、世界各地の神話に共通する要素が多く散りばめられている点を指摘。例えば混沌/カオスから天地が生まれたとする点、人間的な多くの神々の登場し、さまざまなストーリーが生まれるなど、ギリシア神話との共通点も多いと指摘。また古事記のストーリーが一貫せず矛盾に満ち満ちた筋立てであるのは、太平洋諸島、中国などの大陸諸国に伝承された神話の数々を8世紀の編纂当時に取り入れた結果であり、必ずしも日本独自の神話だけで統一性を確保できているわけではないとも分析している。現代では、各国に伝わる神話が世界的に類似したエピソードを共有していることや、それらが地域を超えて交流していたことは最新の神話学、民俗学的研究でも証明されてきているが、この分析、考察も当時としては画期的であった。一方でこれまで西欧諸国においては、ギリシア神話やキリスト教創世神話、北欧神話中心の比較神話学であったが、これに「古事記」という新たな素材を発掘提供し、一石を投じた影響は大きい。また「古事記」が神道という日本古来の宗教的伝統の「神典」として扱われており、その存在とそのルーツを西欧に紹介した意義も評価されるべきものだろう。しかし、歴史書として見た場合、その「歴史と神話」を一体化して「無いものをあると信じる」歴史理解の論理矛盾を説いてもいる。

最近の古事記成立に関する研究では、チェンバレンがここで古事記の神話の成り立ちについて分析したような、7〜8世紀の編纂時期に大陸諸国や太平洋の島々から伝わっている神話や伝承の数々を寄せ集めて編集したものという解釈より、当時の東アジア情勢のもとで「新生日本」、「天皇制」など対外的に日本の成り立ちを主張するために「建国神話」として一気に創出したもの(成立論的神話)と考えるのが主流になっている(下記ブログ参照)。もちろんそのために「建国神話」のもととなる伝承エピソードやストーリーを、海外から取り入れたことは間違いないだろう。それらがどのように伝えられ、古事記の編者が受容したのか明らかでは無いが、おそらくは漢籍から文字情報として伝えられたのだろう。

過去のブログ:2025年1月11日:古事記は「人の起源」をどのように語っているか


「歴史と神話」

チェンバレンはもう一つの彼の著作『日本事物誌:Things Japanese』の中で、「歴史と神話」と題して古事記を取り上げて解説している。古事記の「神話の部分に語られていている作り話が歴史の部分でも数多く語られていることに驚く必要はない」。「そもそも古事記は神話と歴史が一体となって創作されたもので切れ目はないのだから」と。すなわちここまでは神話、ここからは歴史、という区分は無い。これは日本の歴史書なのか、それとも神道の神典なのか。その両方なのだとみなしている。しかし、古事記に描かれた神代と区分なく人代の王の歴史を語るストーリー展開は何も日本だけの独自の世界観ではないとしている。世俗の王の統治権威が、聖なる神に由来するものである。こうした説、理論は、西欧(”Devine right of Kings”)にも中国(天帝思想)にも認められる。ただこの地上の統治者(天皇)自体が天から降臨した神の子孫(すなわち現人神)であるという「皇孫思想」は、中国の「天帝思想」とも異なる。まして西欧の「王権神授説」とも異なる。いずれも天帝、神から統治権威を与えられる地上の王は神ではなく「人」である。したがって、神の承認を得られなくなるとその王は廃されて王権交代が起きる(いわゆる「易姓革命」)。しかし古事記では、こうした中国の天帝思想に含まれる「易姓革命」の思想は取り除かれ、神の子孫による「万世一系」の皇統が主張されている。8世紀に創出された古事記の世界観は、当時の東アジア情勢を反映して中国の世界観(中華思想)に対抗する意図を持って創造された思想(小中華思想)である。これは現代の定説になっている「古事記」解釈である。チェンバレンが分析したような「共通性」にはやや注釈が必要となっているものの、「王の権威は神に由来する」という解釈は日本独自のものではないことを指摘したことは注目に値する。またチェンバレンは、天皇は神の子孫(現人神)であるが故に世俗の統治権力を持つことがなかったと解説している。7〜8世紀の天皇中心の国家建設の時代を除けば、一時期の例外(建武の親政など)はあるが、実際の統治権力は摂関家や武家によって担われてきた。「神聖なる統治権威」「世俗の統治権力」の分離。であるが故に、打倒されることなく連綿と皇統が続いたと解説している。ただこうしたチェンバレンの古事記解釈、歴史理解は戦前には日本の権力者には認められず、、現に「日本事物誌」の最終版第6版1931年発刊は部分発禁処分になっている。戦後、皇国史観への批判、古事記/日本書紀の批判的研究が解禁になってもたらされる研究成果の先駆けとなるものであったと言える。


チェンバレンの日本観 ハーンとの比較

チェンバレンの日本観はよくラフカディオ・ハーンのそれと比較される。二人はともにジャパノロジストとしては著名であり、ともに長年にわたる親交があり「往復書簡集」が残っている。そもそもハーンが日本に憧れ、日本行きを決意したきっかけの一つが、このチェンバレンの古事記の英訳を読んだことであったと言われている(おそらく1882年の日本アジア協会紀要に掲載された最初の講義集のことだろう)。しかし、日本への向き合い方には違いがあり、それが時に激しい論争にも発展する。ハーンがジャーナリスト、文学者の視点に立ち、人々との接点を重視するフィールドワークの民俗学的、実証主義的であったのに対し、チェンバレンは学者の視点、すなわち書籍、文献資料を通じた研究者の視点、研究アプローチ(いわゆる「書斎学派」)をとる。そこには西欧文明と対比する比較研究的(comparative study)な姿勢が根底にある。チェンバレンはマルチリンガルで日本研究者として高く評価されるのであるが、基本的にはアングロサクソンの視点に立脚し、ラテン言語圏の文学作品を評価の基点としている。まずギリシア哲学、キリスト教を底流とした西欧文明があり、これに対比される「異教徒の文明」という東洋観、日本観になっている。この頃の来日外国人の「文明開花とはキリスト教文明化することである」という暗黙理解が底流に潜んでいた。チェンバレンはそれを批判しているが、結局ハーンの視点からみると、彼もその一人であったのであろう。ハーンが、キリスト教世界観と西欧的価値観への懐疑に立脚して、むしろケルト的原点回帰、他民族主義的多様性という視点で日本を理解していたのとは大きく異なる。ハーンは、日本の文明を観察、研究の客体ではなく、むしろ共感(Japan sympathy)の対象として捉えた。そもそもハーンは日本語に関して比較言語学的に理解するまでには至っていなかったにもかかわらず、その日本語能力の欠如が却って日本文化の基層にある真髄を感性で理解する能力を発揮させたと言われている

チェンバレンは『日本事物誌:The Things Japan』の中でも、ヨーロッパ人の日本への理解の浅さと、西欧中心的な価値観に基づいた一方的観察、あるいはエキゾチシズムから来るロマン主義に警鐘を鳴らしている。しかし一方で、日本の文学についてこう述べている「日本文学は、その文学性において、英文学の詩歌と比べ劣るものである」「古典作品においても、想像的才能、思想、論理的な把握力、深さ、幅、多面性に欠けている」「総じて狭小で偉大ではない」と。たとえば「古事記」の世界観においても、ギリシア神話の神々は世界を見渡しているのに対し、古事記の神々は日本の支配者のルーツとその統治正当性しか語っていない。このチェンバレンの日本の文学への評価を、ハーンは西欧文明とは異なる、自然や祖霊と共に生きるという日本独自の文明の基層を理解しない言説であるとして異を唱えている。そしてその背景には、日本の文学作品はキリスト教世界観、思想に裏打ちされておらず、所詮は「異教徒」の文化の限界がそこにある、という理解があると批判している。また神話の共通性についても、ハーンはギリシア神話やキリスト教創世神話に基づく世界観を前提とした理解であり、それ以外の文明を十把一絡げにして論じていて、その多様性、独自性を見ていないと批判している。チェンバレンがヨーロッパ人読者に「無理解による誤解」や「ロマン」を戒めていることを考えると皮肉に見える。おそらくチェンバレンのこの視点と評論は、短期間に西欧文明を取り入れて消化したと称する明治期日本人の高揚感への皮肉と、一方でも選民意識の拠って立つ「皇国史観」への盲信に警鐘を鳴らし、西欧文明(キリスト教とギリシャ/ラテン文明の上に成り立つ)の範を示すべき西欧人としての反応、そして反論であったのかもしれない(アーネスト・サトウの日本観にも共通するものが散見される)。

過去のブログ:古書を巡る旅(12)Things Japanese:「日本事物誌」チェンバレン


「古事記」に出てくる固有名詞の英訳例

先述の通り、チェンバレンは「古事記」を「the Record of Ancient Matters」と訳している。すなわち、これは物語や聖典ではなく、記録であると捉えた。したがって翻訳にあたっても、記録としての正確さの復元を目指し、意訳を避け直訳をもちいた。例をあげよう。

天照大御神:the Heaven-Shining-Great-August-Deity

伊邪那岐神:the Deity of Male-Who-Invites

伊邪那美神:the Deity of Female-Who-Invites

大国主命:the Deity Master of the Great Land

高天原:the Plain of High-Heaven

葦原中国:the Land of the Middle of the Reed-Plains

根之堅洲国:Distant Land(本居宣長の解釈は翻訳不能としている)

「神」を「god/goddess」ではなく「deity」と訳している。これはキリスト教でいう、あるいは聖書に記された「god」とは異なる「神」であることを意味しているほか、「神性;divine nature of gods」を表す言葉として使われる。ギリシア神話のゼウス、アポロンなどの不死身の人格神に近いが、古事記の人格神には人と同じ寿命があるので必ずしも同じではない。翻訳するにあたって悩ましいところだろう。記録としての古事記に用いられた変体漢文の文字を逐語的に英訳しているので、英語として理解しにくい訳であろう。むしろこれらの名前の由来を知っている日本人には「神性」を持った「人格神」の英語名として理解しやすいかもしれない。いわば意訳を極力廃し直訳を用いたので、逐語的な注釈が必要だった。地名についても同様で、高天原は「天空に広がる平原」。豊葦原瑞穂国は「地上に広がる葦の平原」。根の堅巣の国は「木の根っこの国(地中の国)」と直訳しているので、聖書に出てくる神の存在と「天国:Heaven」と「地獄:Hell」の観念との関連が掴みにくいだろう。このように英語読者にとってはそれぞれの言葉が解説を必要とする上に、全体のストーリーとしては想像力を掻き立てる物語というよりは、客観的、具体的、硬い論文を読むようである。学術的史料解析に徹していて古代史や神話のロマンは感じにくい。チェンバレンの英訳「古事記」の再和訳が出ると面白いと思う。日本にはチェンバレン「古事記」の研究者も結構いるはずだが、むしろ上代日本語と英語の翻訳論的研究が主流なのだろうか。昨年話題となったアーサー・ウェイリーの英訳「源氏物語」再和訳と比べ、読者を掴みにくく出版事業としては売れないだろう。余計なことだが。ドナルド・キーンの現代的解釈で編纂された「日本文学史」で取り上げられている「古事記」解説が興味深い。



参考: 生成AIはチェンバレンの英訳をどのように評価するか?

今回初めてGoogle GeminiとChatGPTを使ってみた。結果は双方ともよくまとまっていて、ほぼ同じコメントである。が、いずれも可もなく不可もない回答。質問が一般的なのでこうなるのだろう。もう少しキーワードを挙げれば詳細かつより多くの回答が得られるのだろう。更問いでアストンを入れてみた結果が二番目。ネット上で出回っている多くの評論、紹介を総合的にまとめるとこうなる、という例みたいなもので、驚き、感動はない。優等生的な回答だが、試験の論文:thesisとしては「可」がいいとこか。

質問「バジル・ホール・チェンバレンの「古事記」英訳の評価と意義について」

以下原文のまま引用。

 Google Gemini:

1)バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain、1850–1935)による**『古事記』の英訳**(1882年刊行)は、近代初期に日本の古典文学を英語圏に本格的に紹介した、非常に重要な業績です。その評価と意義について整理します。


評価

  • 先駆的翻訳

    • チェンバレンの『古事記』英訳(The Kojiki: Records of Ancient Matters)は、欧米で初めて古事記を体系的に紹介したもので、翻訳史上きわめて画期的でした。

    • 彼の翻訳は、日本語原文への忠実さを重視しつつも、英語話者が理解しやすい形でまとめられています。当時の水準としては非常に学術的かつ高品質なものでした。

  • 学術的正確さ

    • チェンバレンは原文の微細なニュアンスや神話体系をできるだけ丁寧に説明しようと努めました。脚注や補足解説も豊富で、単なる翻訳にとどまらず、日本神話の背景知識までカバーしています。

  • 限界も指摘される

    • ただし、当時の日本学(Japanology)の限界もあり、誤訳や文化的誤解が一部存在するのも事実です。

    • さらに、彼は古事記を**「文学作品」というより「資料集」**として扱う傾向があり、物語性を重視した現代的な翻訳とはやや異なります。


意義

  • 西洋への日本神話紹介

    • 西洋社会にとって、日本の神話世界はきわめて未知の領域でした。チェンバレンの翻訳を通じて、欧米の学者や知識層は初めて、日本の神話・古代史に本格的に触れることができました。

    • これは、日本文化への関心(特に明治期以降の「ジャポニスム」現象)をさらに後押ししました。

  • 比較神話学への貢献

    • 同時代のヨーロッパでは、比較神話学(インド=ヨーロッパ神話などの研究)が盛んでした。チェンバレンの翻訳は、日本神話を比較神話学の枠組みで分析するための重要な素材となりました。

  • 日本学の発展への基礎

    • チェンバレンは日本文化・言語の研究者としても知られ、彼の業績は後の日本学(特に神道・古代文学分野)の発展に大きな影響を与えました。


まとめ

チェンバレンの『古事記』英訳は、
▶ 「日本古典の国際的紹介の礎
▶ 「比較神話学・文化研究の素材提供
▶ 「近代日本学の出発点のひとつ
と位置づけられます。学術的な限界を抱えつつも、その意義は今日でも非常に高く評価されています。


2)チェンバレンの古事記英訳の評価とアストンの役割

バジル・ホール・チェンバレンによる『古事記』の英訳は、日本最古の文献の一つである『古事記』を西洋の学術界に初めて本格的に紹介したという点で、非常に重要な貢献を果たしました。彼の翻訳は、1882年にアジア協会の紀要の補遺として出版され、その後書籍としても刊行されました。

チェンバレンの古事記英訳の評価

  • 先駆性: チェンバレンの翻訳以前にも、『古事記』の一部の英訳は存在しましたが、彼のものは全訳であり、詳細な注釈と解説が付いていたため、学術的な価値が非常に高いものでした。これにより、西洋の研究者が日本の古代神話、歴史、文化に触れるための基礎が築かれました。
  • 学術的厳密性: チェンバレンは、当時の日本の国学者たちの研究成果を踏まえ、原文に忠実であろうと努めました。彼の注釈は、神話の解釈、固有名詞の読み方、歴史的背景など多岐にわたり、読者の理解を深める上で重要な役割を果たしました。
  • 文体: チェンバレンの英文は、当時の学術的な文体に特徴的な、やや硬質なものでした。しかし、その一方で、物語の持つ詩的な要素や劇的な展開を伝えようとする意図も見て取れます。
  • 限界: 後の研究者からは、チェンバレンの翻訳にはいくつかの限界も指摘されています。例えば、神話の解釈において、当時の西洋的な視点や進化論的な考え方が影響を与えている可能性や、一部の性的な描写をラテン語で記述している点などが挙げられます。また、日本語のニュアンスを完全に伝えきれていない部分もあります。

アストンの役割

バジル・ホール・チェンバレンの『古事記』英訳において、**ウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston)は直接的な翻訳作業には関わっていません。アストンは、日本古代史や神話の研究において、チェンバレンと並ぶ重要な学者であり、『日本書紀』の英訳(1896年)**を完成させたことで知られています。

しかし、チェンバレンの『古事記』英訳が出版された後、アストンは自身の研究に基づいて、チェンバレンの翻訳に対して注釈や修正を加えています。チェンバレンの翻訳本の余白には、アストンによる手書きの注釈が残されており、これは後の版を編纂する際に参考にされました。

したがって、アストンの役割は、『古事記』の英訳そのものを行ったわけではありませんが、チェンバレンの翻訳をより正確で理解しやすいものにするための重要な貢献者であったと言えます。彼の批判的視点と深い知識は、初期の『古事記』研究の発展に寄与しました。

まとめると、チェンバレンの英訳は『古事記』の海外紹介におけるパイオニアであり、学術的な基礎を築きました。アストンは、直接翻訳には関わっていませんが、その後の研究を通じてチェンバレンの翻訳を補完し、より深い理解へと導く役割を果たしたと言えるでしょう。


ChatGPT:

バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850–1935)は、明治期日本に滞在し、日本研究に大きな貢献をしたイギリス人学者です。彼の『古事記』英訳(1882年刊行)は、最初期にして最も影響力のある英訳のひとつとされています。その評価と意義について、主な点をまとめます。


評価

  1. 画期的な初訳

    • チェンバレンによる『古事記』英訳(The Kojiki: Records of Ancient Matters)は、西洋世界にとって『古事記』を知る初めての本格的な機会を提供しました。

    • 当時、まだ近代的な日本学(Japanology)は発展途上であり、彼の翻訳は日本神話・古代史を英語圏に紹介する重要な役割を果たしました。

  2. 正確性と注釈の丁寧さ

    • チェンバレンは、ただ訳すだけでなく、数多くの注釈を付し、日本語原文の難解な表現や神話的背景、文化的文脈を解説しました。

    • そのため、単なる翻訳にとどまらず、学術的なリファレンスとしても高い評価を受けています。

  3. 限界も指摘される

    • 当時の言語学的・神話学的知識の限界から、現代の日本古典学や比較神話学の観点から見ると、訳語や解釈にやや時代的な偏りや誤読もあります。

    • 特に、神々の名前や儀礼の描写において、現在では異なる解釈が主流になっている箇所もあります。


意義

  1. 日本文化・宗教への関心を喚起

    • チェンバレンの訳によって、西洋の学者や読者たちは、日本独自の神話体系や**宗教的伝統(神道)**に初めて体系的に触れることができました。

    • 特に「天地開闢(てんちかいびゃく)」や「イザナギ・イザナミの国生み神話」などは、以後の日本イメージ形成に大きな影響を与えました。

  2. 比較神話学・東洋学への影響

    • 世界神話研究の中に日本神話を位置づけるための基礎資料として、チェンバレン訳は大いに役立ちました。

    • たとえば、北欧神話やギリシア神話と比較して、日本の神話の特色(生成過程、性別観、自然観)を論じるための材料となりました。

  3. 後続の翻訳・研究への橋渡し

    • チェンバレン訳を踏まえ、後の研究者たち(例:ドナルド・キーン、ウィリアム・アストンなど)が、さらに緻密で洗練された日本古典の紹介を進めました。

    • チェンバレン自身が『日本事物誌』(Things Japanese)や『日本語文典』(A Handbook of Colloquial Japanese)なども執筆しており、彼の『古事記』翻訳はその広範な日本研究活動の一部と位置づけられます。


まとめ

バジル・ホール・チェンバレンの『古事記』英訳は、「学術的先駆性」と「日本文化の国際的紹介」という二重の意義を持っています。完全な訳とは言えない部分もあるものの、その影響力と歴史的重要性は今なお大きいものがあります。

2024年9月18日水曜日

古事記は「やまとごころ」の原典? 〜「日本紀の御局」紫式部はなぜ参照しなかったのか〜

 

古事記 神武天皇東征の図


今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」は、平安時代の「源氏物語」の作者、紫式部が主人公の物語だ。NHK大河の主人公といえば戦国武将か幕末維新の英傑、というお定まりのパターンを打ち破る快挙だ。日本の歴史は、軟弱な平安貴族ではなく猛々しい武士によって作られたものだ、と刷り込まれた頭には新鮮な驚きだ。武断的な政治よりも文人政治。武士道よりももののあわれ。剣よりも筆。今年の平安娯楽エンターテイメントには歴史を俯瞰する新たな視座を与えてくれる楽しみがある。そしてまた思いがけない気づきを与えてくれる。


日本書紀の位置付け

その一つが平安時代の朝廷コミュニティーにおける「日本書紀」(日本紀)の重要性である。源氏物語を読んだ一条天皇は「源氏物語の作者は日本紀の知識を持っているようだ。物語とは別に日本紀を講じてもらいたいものだ」と評したと、紫式部は「紫式部日記」に誇らしげに書いている。そのため彼女は「日本紀の御局」とあだ名をつけられた。この一条天皇の指摘は、源氏物語にはそのストーリーや登場人物のモデルに、日本書紀の隠喩が通奏低音として流れていることを示唆するとともに、日本書紀が正史として重要視され宮廷人の重要な教養科目であったことを明らかにしたものである。平安時代には、男性貴族の間では白楽天や李白のような漢籍、漢詩の素養が重視され、公文書はすべて漢文で書かれたので漢文は必須能力であった。ひらがなは女性の文字とされ和歌や男女間の交歓に用いられた。日本書紀は和書であるが正史であるので漢文で書かれている。主人公の紫式部(まひろ)が和歌だけでなく漢詩の優れた才能を持ち、「女性ながら」漢文で日本紀に通じる才女であった事から、道長に彰子中宮の女御として抜擢されたに違いない

このように日本書紀(日本紀)は正史として、当時の朝廷では、基礎的な知識・素養書として、定期的に文章博士によって講書され読み習わされた。いわば宮廷学の基本テキストという位置付けであった。この事がこのドラマでも描かれている。日本書紀がドラマの中で言及されるとは、さすが倉本宏一先生の時代考証、大石静さんの脚本である。また、源氏物語はモデルとなる人物やエピソードが日本書紀に登場する人物や説話に仮託されていると論ずる著作があり話題となっている(倉西裕子「源氏物語が語る古代史」)。まだ読んでいないが興味深いので今後是非取り上げてみたい。このように平安時代には日本書紀が朝廷における嗜み、学びの対象になっていたわけだが、その理由の一つは、おそらくその編纂の経緯にあろう。日本書紀の編纂には、藤原一族繁栄の基礎を築いた藤原不比等が深く関わっており、「大化の改新」における不比等の父、中臣鎌足の事績を大きく取り上げるなど、日本書紀には、いわば「藤原史観」が色濃く現れている。藤原一族による摂関政治全盛時代の平安時代に正史、教科書として取り扱われたのも故なしとしない。


古事記はどう扱われたか?

一方で、「古事記」の方はどうであったのか。現代人の我々は「記紀」として日本書紀と一括して取り上げることが多いが、意外にも平安時代には古事記が歴史書として論じられることは少なかった。とりわけ古事記で詳細に語られる神代の物語はほとんど朝廷で取り上げられていなかったようだ。紫式部も源氏物語の中で古事記を引用したり、神話の物語に仮託したりした形跡はほとんど見えない。『紫式部日記』に言及のあった、一条天皇の「日本紀」は明らかに日本書紀のみを指している。そもそも古事記は日本書紀とは異なり、漢文ではなく漢字を音に用いた和語(いわゆる「変体漢文」)で書かれており、公式な文書(もんじょ)という理解ではなかったようだ。さらに当時は稗田阿礼の実在性や太安万侶という人物への懐疑などがあり、古事記が勅撰の歴史書かどうかも疑わしいと考えられていた。編年体で書かれた日本書紀と比べると、古事記は神話(神代の物語)が全体の三分の一を占め、日本書紀には記述のない高天原神話や出雲神話に多くの紙幅が費やされているなど内容が大きく異なっている。「女子供が好む有象無象の物語」(酷い言い方だが)とみなされていた節がある。せいぜい日本書紀の副読本的な位置付けで学者に読まれたことはあったようだ。そもそもこの頃になると万葉仮名で書かれた日本初の歌集「万葉集」が解読困難になっていたように、「古事記」の変体漢文を解読できる人が限られていた。その後は時代を経るにつれ、さらに顧みられることがなくなり朝廷の表舞台から姿を消してゆく。鎌倉時代には、一部の公卿家や神道の卜部家、吉田家などで秘本扱いで書写が行われたが、世間の日の目を見る機会はなかった。現存する最古の写本である真福寺本が登場するのは室町時代のことであり、江戸時代に入ると、一部の研究者によって古事記は偽書であるとしてその存在と内容の信憑性を疑う意見まで登場する。


本居宣長登場と「やまとごころ」の古事記復権

ところが江戸時代も18世紀末、寛政年間になると、本居宣長が、賀茂真淵の影響を受けて(いわゆる「松坂の一夜」)、日本の古典を学び直し、「やまとごころ」を思い起こせよと、古事記や源氏物語をを取り上げて解題、注釈しようという古典研究活動が始まった。とりわけこの頃、解読不能になっていた変体漢文(和語)で書かれた古事記の写本を集め、読みを確定し、意味を正し、文脈を読み解く研究が続けられた。そして、苦心の末に古事記の注釈書として、「古事記伝」が完成し、1798年(寛政10年)に刊行された。宣長は「古事記伝」の冒頭で、日本書紀は漢文で書かれ「からごころ」を意識したもので日本の本当の姿を表していない。和語で書かれた古事記こそが「やまとごころ」を表した古典である。として日本書紀を排除している。しかしのちには、古事記は日本の「心」と「姿」を描いたもので、日本書紀は日本の「歩み」を描いたものである。として日本書紀の重要性も否定していない。本居宣長は仏教や儒教といった外来の宗教や思想を「からごころ」として排し、日本古来の思想や神道を「やまとごころ」として重視した。古事記を。いわば「やまとごころ」の原典として尊重し、そこに日本人の精神があるとした。神道に関しても従来の「からごころ」の影響を受けた仏家神道や儒家神道を批判し、日本古来の神典である古事記によるべきであるとした。この研究と著作の発表により、長きにわたって忘れられていた古事記が俄かに脚光を浴びることとなり、こうした研究が国学の隆盛を導き、やがて水戸学が起き、幕末の「尊皇攘夷思想」、維新の「王政復古」、そして「万世一系の天皇」「皇国史観」の流れを産んだ。古事記はこうして、いわば「皇国史観の神典」「神道の聖典」に祭りげられていった。もっとも本居宣長自身は必ずしも上古の制度の復活を勧めたわけではない。国学という呼び方にも異議を唱え「古学」と称した。すなわち「やまとごころ」の源流を辿る古典研究を目指したものであった。

ちなみに、宣長は「源氏物語」の注釈も行なっていて、一連の講義を開いている。それをまとめたものが『源氏物語玉の小櫛」である。現代でも源氏物語の解説書として重視されしばしば引用される。ここで宣長は源氏物語を「もののあわれ」の文学と説明し、その根底に「やまとごころ」があると断じた。当時は仏教や儒教など外来の思想と日本古来の思想の融合の文学であるとした北村季吟の「湖月抄」が源氏物語注釈の定本とされていた。現代でもその季吟の重要性は変わらないが、宣長の注釈書はこれへに批判書とされている。ただ、紫式部は漢籍に通じる才女であり、また「日本紀の御局」と称せられたくらいで、「源氏物語」も漢籍(白氏文集など)からの引用や、仏教の教え、漢文で記述された日本書紀からインスピレーションを得ている。すなわち漢詩の「からごころ」と和歌の「やまとごころ」を習合した作品でなのである。「蛍の巻」で光源氏が玉鬘と物語論を語る場面がある。日本紀のような歴史書は物事の一面しか語っていないが、虚構である物語は物事を多面的に描き、結局より多くの真実を語っている、と語っている。ここでも北村季吟の『湖月抄』は漢文で書かれた日本紀と和文で書かれた物語を重ね合わせた物語が源氏物語であると注釈しているのに対し、宣長は「からごころ」の日本紀の影響を無視する。「やまとごころ」の物語こそ「もののあはれ」を描くものであると、かなり強引な解釈を示している。


古事記は皇国史観の聖典に〜明治維新の二面性〜

このように古事記が日本人の思想の基本的な神典として脚光を浴びたのは、18世紀末という比較的新しい時代の出来事であったことを思い起こす必要がある。古事記は712年(和銅5年)の元明天皇への献上以来、一貫して日本の歴史の原典、皇国史観の神典、神道の聖典として表舞台で取り上げられたわけではないのだ。それまで長く忘れ去られていた古籍がこのように本居宣長によって発掘されたことで、やがて幕末維新の尊皇攘夷思想、討幕運動、そして王政復古へとつながっていった。さらには廃仏毀釈、皇国史観による「万世一系の天皇」「現人神」「神国日本」「八紘一宇」といったスローガンも、こうした寛政年間に再発見された古事記に起源を求めることができる。しかし、寛政年間といえば、天明の飢饉を乗り越え、社会が安定し、平和が続き経済も安定していた江戸幕藩体制の爛熟期であった。なぜそうのような時代に盛んになった古典研究たる国学が、やがて幕末維新という国の近代化の時期に尊皇攘夷や討幕といった「革命思想」につながっていったのか。古事記がその聖典になったのか。明治維新の持つ二面性がその背景にあるように思う。明治維新(文明開花、殖産興業、富国強兵)は国の近代化、西欧化を進める一大国家事業であったが、同時に650年続いた武家政権、260年続いた徳川幕藩体制の解体と国家再建事業でもあった。国の近代化もハードルが高いのだが、この長く続いた武士の世を終わらせることのハードルは途方もなく高かった。このために国学が果たした思想的役割は大きい。そして古事記に語られる「皇国史観」の再認識が、すなわち「天皇中心の政治体制への回帰」が、社会の基層に岩盤のように存在する「武士の世」を終わらせる新思想となり、新国家建設のロジックとして活用された。したがって「明治維新:Meiji Restoration」は「革命: Revolution」ではなく「王政復古:Restoration」なのである。西欧諸国に伍した国の近代化のために古事記の古代世界に戻る必要があった。なんと皮肉なことであろう。これは必ずしも本居宣長の目指した国学/古学の帰結ではなかったかもしれないが、後世において「王政復古」のイデオローグとして担ぎ出されたことになる。天皇が主権者として支配する国家。それは大日本帝国憲法第一条に明文化された。ただそれは古代の統治制度をそのまま踏襲するのではなく、イギリスの立憲君主制のようでいて、ドイツの専制皇帝制のようでもあるという、日本の古代天皇制(まさに古事記が成立した8世紀初頭の)に、西欧の近代君主制と議会制を潤色したような「王政復古」であった。しかしその理念である「皇国史観」だけはしっかりと根付かせた。その根拠としての古事記をいわば聖典化して、皇民はそこに書かれていることは史実であると、戦前まで教育されそう信じてきたのである。


戦後の古事記批判的研究

戦後は民主化政策に伴い、「皇国史観」の否定が行われ、天皇が自ら人間であることを宣言し、「国民主権」が憲法に謳われる。天皇は「国民統合の象徴」となる。そして古事記も「聖典」の呪縛から解き放たれ、自由な研究が進められるようになった。しかし、いまだに古事記に関しては国家創世神話へのノスタルジア、日本古来の歴史書の存在というプライドから、意識無意識のうちに書かれていることは史実であると信ずる(信じたい)という心情から抜け出せていない。しかもこれは仏教や儒教や、まして西欧思想などの外来思想の影響を受ける以前の日本独自(やまとごころ)の姿だという理解に心動かされる人も多い。そうした歴史観、国家観が披瀝されている著作を今でも目にすることがある。これはもはや合理的な史実認識というより、超越的なストーリーへの信仰である。歴史書というからには、書いてある物語を鵜呑みにするのではなく、その背景を理解し史実を確定するために批判的に解読するという、科学的文献研究が不可欠であることは言うまでもない。また日本の文化が、大陸からの稲作農耕伝来に始まる様々な外来文化を受容し、独自に変容してきたものであることは紛れもない事実である。元来、文明や文化というものは人の交流に伴って伝搬し、受容され、変容されてその地域に根付いていったものである。この古事記もそうした外来思想の影響の例外ではない。古事記編纂は仏教も儒教も伝来後の所為であるし、そこに展開された多神教的神話は世界中の神話にその痕跡が読み取れるし、多くの伝承も大陸や南方のそれに「祖型」を見ることができる。多分に儒教的思想も随所に表れている。そこで宣言された国家観は明らかに華夷思想の受容と日本的変容である。大陸の王朝の存在を強く意識しつつもう一つの「中華世界」の存在を主張している。それを記した文字自体が外来の漢字を受容し変容させたものではないか。あるいは、古事記が日本精神の神典、神道の聖典であると言うのであれば、それは聖書がキリスト教の聖典であるのと同じである。その意味においては聖書は歴史書ではない。そこに記録された神の教義を信仰しその奇跡を信じても、それは人間の歴史を語ってはいない。神話と歴史、神の摂理と人間の理性。神学と哲学。信仰と科学。17世紀のベーコンやデカルトが開いた近代合理主義哲学思想と科学の発展の恩恵を共有するならば、そして科学的合理主義を明治期に受容し近代化を図ってきたことを自負するならば、神話と歴史を分けて考えなくてはいけない。本居宣長が言うように、古事記に記述されているのは「日本のあゆみ」:歴史ではなく神話に仮託された「やまとごころ」である。古事記は、世界から伝わった思想、伝承や習俗といった多様な文化の受容と、日本独自の多神教的習合、変容から生まれた稀に見る古典遺産である。「やまとごころ」はそのようにして育まれそのような視点で古事記を読むべきであろう。であるが故に多くの言語に翻訳され(ウェイリーやサイデンステッカ)世界の人々に広まり愛されているのである。文化の持つ普遍性である。





参考過去ログ:





2023年4月10日月曜日

万葉歌人 大伴家持の人生とは? 〜「男はつらいよ 花も嵐も」の巻 〜

 

三十六歌仙の一人として描かれた
大伴家持
どう見ても平安貴族の出立ちだ
(Wikipediaより)
大伴家持
越中国司として赴任中の姿をイメージした像
こちらの方が平城京の官人らしい
(高岡万葉歴史館HPから拝借)

毎週楽しみにしていた、NHK ラジオの「古典購読」「歌と歴史でたどる万葉集」50回シリーズが3月で最終回を迎えた。東京大学の鉄野昌弘教授の解説は充実していたし、加賀美幸子アナウンサーの朗読は、独特の抑揚に品格を感じてなかなか面白かった。特に最終章に近づくにつれ、万葉集という歌集の性格が微妙に変化してゆく様子を感じ取ることができ、その中心にいたのが大伴家持であったことを知った。その歌とその時代背景を知るにつれて家持という人物に興味を持つようになった。そして万葉集という「謎の和歌集」の発する古代史メッセージを垣間見ることができた。


万葉歌人 大伴家持

大伴家持は、万葉集には長歌、短歌含めて473首(全体の約10%に当たる)が収録されている代表的な万葉歌人である。後に三十六歌仙の一人に選ばれ、後世に記憶される日本の代表的な和歌詠みの一人となった。万葉集は日本最古の和歌集であるが、その編纂経緯も編纂者も完成時期も解明されていない謎の多い歌集である。全20巻、飛鳥時代から奈良時代までの約4,500首が収録されている。舒明天皇から、天武/持統帝の時代の初期の巻には天皇やその宮廷への賛美の歌が多いが、後の時代になるに従って、恋や別れ、人生の喜びや悲しみなど詠み人の私的心情を歌ったものが断然多くなる。万葉歌人として登場する代表的な詠み人たちは、初期には額田王や、天武朝時代の柿本人麻呂、平城京遷都の後の山部赤人などもそれほど身分の高い貴族や高位高官ではなく、天皇行幸に付き従った中・下級官僚である。しかし彼らは、いわば歌のプロフェッショナル、「宮廷歌人」として天皇や朝廷、その治世を寿ぐ歌を多く歌った。中期になると大納言太宰帥の大伴旅人、筑前国守の山上憶良(遣唐使帰りの知識人であった)が、さらに後期になると旅人の息子の大伴家持が代表的な歌人として登場する。この頃になると「詠み人知らず」の歌も多く採られ、都だけではなく広く全国から歌が集められている。彼らは主に下級官僚や、名もなき庶民である。地元に伝わる伝承や物語を歌ったもの、東歌や、東国から徴発された「防人」の歌が登場するのもこの頃である。これらを採録したのは家持である。特に万葉集の巻17から巻20までは家持の「歌日記」と呼ばれているほどで、こうした撰録、編集に大伴家持の果たした役割は大きく、万葉集を最終的にまとめたのは家持であろうと言われている。その大伴家持は、718年(養老2年)生まれ。父は同じく万葉歌人として著名な大宰帥、大納言の大伴旅人である。母は丹比郎女。実際の養育は大伴坂上郎女。妻は大伴坂上大嬢。すなわち家持は名門大伴一族の出である。


大伴氏とは

大伴氏は、神代からの天皇側近で軍事部門の名門一族である。物部氏も軍事氏族であるが、大伴氏は天皇親衛隊、物部氏は国軍と役割が分担されていた。大伴一族は5世紀〜6世紀に活躍した大連大伴金村の時代が最盛期であった。皇統が武烈天皇で断絶したが、越前から応神天皇第5世孫であるヲヲド王を皇嗣として招請。継体天皇として樟葉宮で即位させた功労者とされている。512年、朝鮮半島任那4県を百済に割譲。さらに527年の筑紫岩井の乱では物部荒甲火とともに平定。しかし任那4県を喪失したことが倭国権益を害したとして物部氏により失脚させられ、政界の表舞台からは姿を消す。それ以降は物部氏と蘇我氏が権勢を振るう時代に。やがて廃仏/崇仏論争をめぐり物部氏が失脚、蘇我氏の時代に。しかし乙巳の変で蘇我宗家が滅びて以降は中臣氏、のちの藤原氏の時代へ。こうした飛鳥時代、奈良時代の政界勢力図変遷の中で大伴氏は政界の頂点に立つことはなかったが、朝廷を支える重要氏族として命脈を保ち続けた。


名門一族の長、官人、貴族そして政治家 大伴家持

奈良時代に、大伴旅人からその一族の当主を引き継いだのが大伴家持である。万葉集に最も多くの歌が収録された優れた万葉歌人であることは改めて述べるまでもないが、聖武、孝謙、淳仁、称徳(重祚)、光仁、桓武の六代の天皇に仕えた官人、貴族である。奈良時代の平城京政界にあって、権勢を振るう藤原一族の対局にある有力氏族の長として、影響力を有した政治家でもあった。それゆえに反藤原氏勢力からは大いに期待される存在であり、その結果として、本人が望むとの望まざるとに関わらず、多くの政治的な事件や陰謀に巻き込まれることとなった。このように家持は、万葉歌人としての顔とは異なる、官人、政治家としての顔を持つ。そこに、奈良時代の政治情勢、朝廷という大きな官僚組織の中で歴史に翻弄された一人の人間としての家持の姿が見えてくる。そうした立場からくる歌が万葉集にも多く含まれている。そう見ると万葉集を読み解く視点も異なってくる。文学作品としての和歌とは異なる、生々しい平城京政治情勢の歴史が、その和歌から読み取れる。

(経歴)下線部が家持の経歴

29歳の時、中務省の内舎人として官人(官僚)キャリアをスタート。 元正太上天皇、聖武天皇、 左大臣橘諸兄の部下として洋洋たるスタートであった。 

光明皇后、阿部内親王。藤原仲麻呂との対立 738年に天然痘大流行で藤原三兄弟没

越中守 従五位下(746年)地方勤務へ 万葉集に越中時代の歌多数

聖武天皇譲位、孝謙天皇(阿部内親王)即位(749年)聖武太上天皇に 光明皇后と藤原仲麻呂が政治の実権を握る

少納言(751年)帰京 巻19巻頭、巻末に秀歌、しかし越中時代に比べ数は激減

兵部大輔(兵部省の次官)(757年)この頃、難波で防人の管理の任に 防人の歌を他数選定

反藤原仲麻呂のクーデタ、「橘奈良麻呂の乱」に連坐 大伴一族の多くが流罪、追放 家持自身は罪には問われず(757年)

孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位(758年)孝謙上皇が親政

因幡守(758年)に左遷?大国の国司ではあるが 万葉集最後の歌

朝廷の重要ポスト信部大輔に復帰(762年) 仲麻呂の推挙による?

密告により藤原仲麻呂(恵美押勝)暗殺計画に連座 しかし放免(762年)

薩摩守に左遷(764年)

「藤原仲麻呂の乱」(764年)仲麻呂殺害サル

淳仁天皇廃帝 称徳天皇重祚(764年)

大宰少弐に留め置かれる (767年) 

称徳天皇の寵愛に取り入り皇位を狙ったと言われた「弓削道鏡事件(宇佐神宮御神託事件)」と道鏡の流刑(769~770年)

称徳天皇崩御 光仁天皇即位(770年)

再び中央政界に復帰 左中弁・中務大輔(770年)24年でようやく正五位下に昇進

式部大輔・在京大夫・衛門督、伊勢守、上総守、従四位下、従四位上、正四位下と順調に昇進(771〜778年)

参議(780年)従三位 公卿に列せられる 

桓武天皇即位(781年)皇統が天武系から天智系へ 渡来系の母という傍流 奈良仏教勢力の排除 藤原系、大伴系などの排除 百済王氏一族を重用 光仁天皇を始祖とする新王朝(中華風易姓革命)遷都企画

「氷上川継の乱」(782年)で解任、復帰

この頃、家持により万葉集20巻完成(782年)しかし、直ちには公にはならなかった

中納言(783年) 桓武の実弟 早良親王の春宮大夫 

長岡京遷都(784年)仏教寺院の移転を禁止

持節征東将軍・蝦夷征東将軍(784年)蝦夷の平定

陸奥接檫使鎮守府将軍として多賀城で死去(785年)遙任官として平城京で死去という説も

死の翌年(786年)、桓武天皇の寵臣で、造長岡京司である藤原種継の暗殺事件。早良親王は無実を訴え断食死。長岡京遷都に反対する反桓武天皇派の大伴系官人と早良親王の春宮大夫官人が関わっており多くが流罪。

一族の長である大伴家持の関与を否定できないということで、死後にも拘らず官籍除名、家財没収、埋葬不許可

平安京遷都(794年)長岡京廃都

家持没後21年、平城天皇即位に伴う恩赦で従三位に復す(806年:延暦25年)

この頃、万葉集が完成?とする説。あるいは発見?説。これは家持の死後、没収された家財の中に「万葉集」遺稿が見つかり、これを書写して公になった、とする説。この場合、誰が書写、公表したのか論争あり。いずれにせよ平安時代以前には万葉集は世の中には知られることはなかった。


皇位継承争いに翻弄された人生

それにしても見ての通りの「花も嵐も」の波乱に満ちた人生である。6代の天皇に仕え、その間、中央と地方を行き来し、皇位継承を巡る政争や反乱事件で連座、左遷、復帰を繰り返し、昇進が24年も塩漬けになったかと思うと、天皇が変わるとトントン拍子で出世し、公卿(貴族)になる。その間絶えず陰謀に巻き込まれて解任されたり復職したり。驚くほど浮き沈みの激しい人生を送った。挙げ句の果てに、死んでからも官位剥奪されるなど、まさに激動の時代に翻弄された。聖武天皇の皇位継承問題が尾を引いて、孝謙天皇、称徳天皇重祚の時代は密告、讒言が飛び交う混乱した時代であった。藤原仲麻呂(恵美押勝)や弓削道鏡のような皇位を窺うような人物が登場するなど、権力中枢に問題多発の時代に、大伴氏一族の名誉をかけての壮絶な家持の戦いがあったことが偲ばれる。絶えず藤原氏という(大伴氏からみると)新興の氏族が政敵として立ちはだかり、大伴氏の血脈を守り、家名を汚さず、朝廷におけるポジション確保をかけて家持は苦闘した。勇ましい武勇伝や、華々しく脚色された事績が記録されることもなく、ひたすら隠忍自重しながら天皇への忠節と家名を守る一生だった。そんな政治家家持が万葉歌人として秀歌を生み出し、その編纂に重要な役割を果たしたのである。家持の没後、平安の時代になって万葉集がようやく世に現れ、家持も歌人として「三十六歌仙」の一人として列せられることで後世に記憶されて、ようやく平和な名誉を回復したと言えるのかもしれない。

このように名門氏族の長であったから、いやでも政争に巻き込まれ、藤原氏への対抗軸、皇位継承争いの一方の勢力に担ぎ出される運命にあった。密告により4回もの「反逆事件」に悉く関連付けられたのは、家持自身の本意ではなかったかもしれない。しかし、多くの大伴一族が事件に連坐し処罰されたこともあり、家持は一定の距離をとって政争に巻き込まれることを警戒していたし、密告、讒言に巻き込まれて大伴氏を危機に巻き込まないよう、一族に言動に気をつけるよう諭してもいる。しかし、それでも敬愛する上司である左大臣橘諸兄を讒言で辞任に追いやった阿部内親王、藤原仲麻呂に対する怨念は燃やし続けた。ただ、やはり、かつての大伴氏の長であったの古麻呂、安麻呂などの大物に比べると、家持にそれだけの政治的な影響力を発揮する力量はなかったとの評価もある。しかし、彼の父である旅人も、遠く太宰府にいて中央政界の激震(長屋王事件)に何らの影響力を行使できなかったことを嘆いたように、権勢を振るう藤原一族の前には、いかに大伴一族が古来からの名門とは言え、すでに政界をリードする力はなく、反藤原抵抗勢力として担ぎ出されることはあっても、家持に「政権交代能力」を求めるのも無理であろう。むしろ大伴氏が滅亡の道を歩まぬようその命脈を保ち、後世に一族を存続させた功績は評価されるべきかもしれない。物部氏や蘇我氏と異なり、中世、近世まで一族の系譜が連綿と続いたのだから。


家持から見える万葉集の性格

万葉集の歌の中に、家持の置かれた政治的な立場や心情に根ざした歌も多くみられる。歌人としての家持の繊細な感性と評価と、官人、政治家としての能力と評価とは必ずしもリンクしないが、彼の歌の背景には生々しい政治の世界に身を置く家持の官僚、政治家としての姿があったことは否定できない。聖武帝退位ののち孝謙帝時代の歌は、必ずしも天皇に奏上された歌ではなく、むしろ遠ざけられていたことを示す歌が多い。越中時代の歌は、友が去り、都を思う「孤独」の歌が多いが、望みかなって帰京してからは、家持の代表的な秀歌(巻19の巻頭、巻末の歌群)が現れるものの、これまでと比べ数が減り、むしろ「孤立」を歌ったものとなる。これは家持の都における政治的な立場の表れと見られている。万葉集にはそうした朝廷における様々な政治抗争にまつわる歌、特に無実の罪で死に至らしめられた皇子(大津皇子のような)への挽歌も多く集録されており、万葉集が読み人の心情をおおらかに歌う文学書、歌集としての性格だけでなく、政治抗争の世界が反映された「歴史書」としての性格を持っていることを示している。しかし他の歴史書と異なるのは、万葉集が「勝者による歴史書」ではなく、いわば家持という政治的な「敗者による歴史書」である点だろう。正史として編纂された日本書紀や、古事記、続日本紀からは読み取れない、ある意味で生々しい歴史の鼓動が和歌という形で表現されているのである。家持の歌は「橘奈良麻呂の乱」で左遷された因幡国時代の歌が最後で、それ以降、中央復帰してからの歌は採録されていない。おそらく歌は多く詠んだに違いないのだが、むしろ称徳帝崩御、代替わりによって中央でようやく順調に出世階段を昇り始め、公卿にまで至った時期の歌が見えない。また、家持が事実上の万葉集の編者であり、彼が公卿となった後、782年に完成したと言われているにも関わらず、実際には彼の死後の平安時代に入った806年まで世に出ることがなかった。なぜこのいわば国家的事業としての歌集編纂が頓挫したのか。藤原種継暗殺事件の影響を指摘する説もあるが、万葉集の成立経緯の背景に横たわる政治情勢がこの長い雌伏の時間を産んだと考えられるだろう。万葉集に採録されなかった(ないしは削除された)家持の歌があったのかもしれない。万葉集の謎の一つである。そもそものちの時代の古今和歌集や新古今和歌集が、勅撰和歌集であり、選者も撰録経緯もはっきり記録として残されているのに対し、万葉集は序文もなく選者や撰録の経緯を知る手立ても残っていない。「万葉集」という名前の由来すらはっきりしていない。国家的な詩歌編纂事業として舒明帝の時代に遡って和歌の選定が始まったのだが、奈良朝末期には、ややそうした企画が放棄された嫌いすら感じる。結局、家持が過去に遡って再編纂を手がけ、現在残る形にまとめたと考えられている。平安時代になってようやく歌集として日の目を見ることができ、そしてそのことが皮肉にも(意図せず)政治的敗者の側から見た歴史書として残ることとなった。万葉集はこのように日本書紀や古事記のような正史とは異なる歴史的メッセージが込められているのだ。それは偶然の出来事であった。このように「政治家家持」の生きた時代背景を知ることにより、「万葉歌人家持」の実像が描き出せるとともに、それが万葉集という、謎の多い日本初の和歌集に、意図せず歴史的なメッセージが込められていることに気づくことつながる。


「泣くな家持くん!」

家持の人生を現代のサラリーマン社会に準えるならば、毛並みの良い名家出身の御曹司が、社内派閥による社長レースに巻き込まれ、社長が変わるたびに上司が変わり、栄転、左遷を繰り返す。ライバルにチクられては辺地の支店に飛ばされ、ライバルが失敗して蹴落とされされると、再び本社の陽の当たるイスに復帰するという転勤人生。花も嵐も踏み越えて、その苦労、その悲哀。でもなんとか最後は取締役まで上り詰め、画期的な全社あげての文化事業?も完成させた。こうして大伴家の名誉を守り、後世に名を残した苦労人、と勝手なアナロジーを妄想すると、まるでサラリーマン小説を読んでいるようではないか。身につまされる現代サラリーマンも多いことだろう。いや「事実は小説よりも奇なり」である。しかし、人はあなたを優れた歌人として記憶している。権謀術数に翻弄され切歯扼腕、涙した「サラーリーマン」としてではなく。大伴家持 偉大なり!


最後に、家持の代表的な歌は多数あるが、聞き覚えのある長歌の一部を紹介したい。

「...  海行(ゆ)かば、水漬(みづ)く屍(かばね)、山行(ゆ)かば、草生(くさむ)す屍(かばね)、大君の、辺(へ)にこそ死なめ、かへり見はせじ...  」

戦時中、ラジヲから盛んに流れたこの歌は家持の歌だったのだ。命を賭して天皇に忠節を誓う武門の氏族、大伴氏の心情を歌ったものだ。しかしこの部分は、聖武天皇の大仏建立事業に必要な金が陸奥で発見されたことを寿ぐ長歌の一部である。戦時中はこの部分だけが切り取られて天皇への忠誠と戦意高揚に利用されたというわけだ。



2023年2月27日月曜日

古事記の神話は「文字の起源」をどのように語っているか? 〜「漢文」「変体漢文」「万葉仮名」から「平仮名・片仮名」へ〜


古事記 寛永版板本(江戸時代)




「文字」を使う、ということはどういうことを意味するのか?

音声による「言語」は、誰かが作ったり、使わせたりしたものではなく、人々が感情や情報や意思を「伝える」ために「発声」し、それを聞くという「聴覚」によるコミュニケーションツールとして自然発生的に生まれたものである。「言語」を持つ、すなわち、言葉を話すという行為はホモサピエンスが他の生物と一線を画すものの一つである。しかし、一方で「文字」は、その「言語」の発展過程で誰かが作り、決めて、ある目的のために使わせた記号である。書き記し、読むという「視覚」によるコミュニケーションツールである。「話し言葉」と同じように「伝える」ために創造されたのだが、自然発生的に生まれたものではない。発生起源的に言えば、優越的地位にある者が、一族や地域や国家の統治、支配のために作り出した記号の体系、あるいは支配のための社会インフラである。「文字」により成文法を制定し、税制を定め、歴史を記録する。「文字」が「国家」を生み出した。すなわち「文字による国家」の出現である。例えば、ヒログリフはエジプト王朝が、またローマ字、ラテン語はローマ帝国が、漢字、漢文は中国王朝が、統治のインフラとして作り出した。「読む」「書く」は、しばらくの間、一部の人々にだけ与えられた能力/権能であった。「文字を使える者」と「使えない者」という格差があった。それはすなわち「支配する側」と「支配される側」という階層の存在を表わしていた。庶民が日常のコミュニケーションの道具として読み書きを「学び」「用いる」のは、ずっと後の時代のことである。そして、「文字」は人間の脳の外部記録装置として、「記録として残す」「後世に伝達する」ためにも使われてきた。これも「支配する側」にのみ可能な行為であった。然り而してその記録は主に為政者によって残されたものであった。現在にあって過去を知る手掛かりが得られるのも「文字」による記録があればこそである。しかし、ホモサピエンスはその10万年以上の長い進化の歴史の中で、93%の時間は文字がない時代を過ごしたと言われている。文字を用いるようになったのはわずが直近の5〜6000年のことだ。例えば、漢字は3000年ほど前の、中国中原に現れた甲骨文字に由来する象形文字が起源だと言われている。その漢字が中国王朝の歴史を延々と語り繋いで来た。では、日本では「文字」はいつ頃から用いられたのか?古事記が日本初の「文字」による歴史記録であると言われているが、それ以前に」文字」は存在せず、用いられなかったのか?


第一ステージ:漢文

列島における文字の最初の出現はどのようなものであったのか。それは、中国の史書である後漢書に記述のある奴国、あるいは三国志魏志の邪馬台国など、1世紀〜3世紀の中国王朝の朝貢冊封体制における通交のなかで、中国皇帝から倭の王に与えられた、冊封の証である金印(漢委奴國王)や、威信財として下賜された鏡(銅鏡百枚)などに刻まれた文字として現れた。すなわち、すでに1世紀には倭国で文字が使われていたのである。と言ってもそれは中国から与えられた文字、漢字であり、中国王朝への朝貢、冊封関係の中でのみ使われた。すなわち、印綬を用いて漢文で国書を書く必要に迫られて漢字を使用するという、倭国の対外関係(いわば外交で)で使われていたに過ぎない。奴国や伊都国、邪馬台国など倭国内部の統治や、王権内部における通信、記録といったものに文字が使用された形跡はない。まして人々の日常生活におけるコミュニケーションに文字・漢字を使用することはなかった。少なくとも漢文・漢字を操れる人は、後漢王朝や魏王朝との通交、交渉に携わるほんの一部の人であった。おそらくは大陸からの渡来人であったのだろう。そういう意味で、倭国にはその当時の国内事情を窺い知ることができる文字史料はない。少なくとも現時点では見つかっていない。ただ、硯の破片ではないか、という遺物が、北部九州の3世紀前半の遺跡から見つかっており、今後、何らかの「文字」にまつわる考古学資料が出てくる可能性はある。


金印
福岡市博物館


第二ステージ:和様への変化の兆し

次に列島に文字が表れ、それが列島内部で意味を持つようになるのは、5世紀になってからである。奴国の金印から400年後、邪馬台国卑弥呼の「景初4年」の銅鏡から約200年後のことである。それは和歌山県の隅田八幡宮鏡銘、埼玉県の稲荷山古墳鉄剣、熊本県の江田船山古墳鉄剣などに刻まれた文字(金石文)である。これはヤマト王権の大王が倭国の統治の権威を示すものとして、地方の豪族に下賜した権威の証、ないしは「威信財」と考えられている。すなわち「ワカタケル大王」(すなわち雄略天皇のことを指すと考えられている)が、地方豪族に王権の役職である「杖刀人」や「典曹人」などの職位を与えたものと考えられている。列島を支配下に置きつつあったヤマト王権が、地方豪族を支配・統治する道具として文字・漢字を使った初出である。これは中国王朝の朝貢冊封体制を、倭国/列島内部統治に転用したものである。文字による国内統治の始まりである。用いられたのは漢字であるが、中国の漢字とは少し異なる字体に変化している。また漢字という表意文字を倭語の表音文字として一音に一字をあてて用いたものである。この頃から、徐々に漢字が楷書などの中国伝来の形態から、少し描きやすく崩した、「倭人の感性にあった」形態に変化していると考えられている。後の仮名へと繋がる変化の萌芽と言えよう。

そして6世紀の仏教伝来(538年ないし552年)の時期、仏典とともに文字(漢字)が本格的に流入する。文字は仏典の写経に用いられ、学習、布教のためにヤマト王権の中枢や寺院で用いられた。用いられたのは漢語、漢文で、きちんとした楷書で記述されている。この延長線上に7世紀初めの聖徳太子の十七条憲法などの文字で表された「法制度」があると考えられている。しかし、原本、写本は現存しておらず、後の日本書紀に、全文引用した、とされるものが唯一今に伝わる十七条憲法である。従って、その存在を疑う偽書説や、日本書紀において初めて文字化されて記述された、とする説などがある。少なくとも5世紀以前に日本に文字で記録されたものはほぼ見つかっていない。


稲荷山鉄剣
埼玉古墳博物館



第三ステージ:変体漢文

7〜8世紀初期の律令制国家の整備とともに、文字(すなわち漢字)が国内政治の重要な統治ツールとして用いられるようになる。稲荷山鉄剣や江田船山鉄剣の時代から200年ほど後の時代だ。言い換えれば、律令国家は文字によって成り立つ「文字の国家」である。成文法を持ち、文字によって国家機構を定め、税制を定め、記録し、国を運営する。この律令国家「ヤマト王権」の支配が全国に及ぶにつれ、文字が一気に広まって列島全域をカバーするようになる。このことは藤原京、難波京、平城京跡のみならず地方官衙跡から大量に発掘される木簡の文字からもわかる。そうした事情を背景として、ヤマト王権の統治権威の源泉と正当性を記述する「正史」である「日本書紀」、あるいは統治者たる天皇の「物語」である「古事記」が生まれた。この前にも、おそらく文字を用いた帝紀、旧辞などの記録があったとされる(古事記の序文に記述)が現存しておらず、645年の乙巳の変で蘇我宗家が滅んだときに焼失してしまったのではないかと言われている。また。古事記の序文によれば、古事記は稗田阿礼が誦習したものを太安万侶が文字化したものである、とある。しかし、単純に口承を文字化したということではない。稗田阿礼が誦み習った元の記録(帝紀、旧辞など?)は確かにあったであろうがそれは漢語で記述されており、それは阿礼の誦習を伴わなければ日本語として用をなさないものであった。それをさらに文字に書き記すということは、表意文字である漢字を訓に読み、助詞や接続詞を用いて日本語として読めるようにする。そのような創造的な作業が伴うプロジェクトであったはずだ。すなわち古事記は「漢文のようで漢文ではない」ものである。「変体漢文」などと言われているが、それは漢文の変種ということではなく、漢文を離れて日本語として漢字を用いたものである。その「日本語化」の営みこそ、律令体制の中での「文字の国家」日本を表現することであり、古事記はその象徴的な作品であったと言える。したがって、古事記は古来からの伝承の延長にあるのではなく、律令国家の世界観を漢字を用いた「日本語」で創造し作品化したものである。この点が、中国、朝鮮半島の王朝を意識して漢文で書かれた「日本書紀」と異なる点だ。したがって、古事記や日本書紀に記述のある天皇の事績などの記録については、その根拠になったという帝紀、旧辞は6世紀のものであろう。しかし少なくとも5世紀以前(応神、仁徳以前)には文字化された記録はなかったはずだ。

ちなみに、現在目にすることが出来る古事記も、編纂から660年後の室町時代に書き写されたいわゆる「真福寺本」が、現存する最古の写本とされていいる。それ以前の写本は残っていない。書写は、書き写しの間違いや、脱落、解釈違い、故意の改変(構成の取捨選択)などが介在するので、正確にオリジナルの内容が後世に伝わっているかは疑問である。後世になればなるほど、書写した人の意思や解釈が介在して変容している可能性が高い。古事記を読んでいて、筋が通らない箇所や、矛盾するエピソード、話題が飛ぶ箇所などが多いのは、こうした後世の繰り返された書写のせいだと考えられる。


古事記 真福寺本 書写本(室町時代)


第四ステージ:万葉仮名

奈良時代になると日本初の詩歌集である万葉集が編まれる。750年ころの編纂と考えられている。編纂の意図を記述した序文も、編纂者の記録もない不思議な詩歌集であるが、約7000首が撰録されている。漢詩も多く掲載されているが、七五調を基本とする長歌、短歌を集めた和歌集である。詠み人は天皇から、中央の高級官人、地方官人、専門的な宮廷歌人、そして名も知れぬ防人や庶民まで含まれている、という稀有な和歌集である。しかし、これは、この時期には庶民まで「文字」を使って歌を詠んだということではない。歌の撰録は、大伴家持のような高級官人が行い、口承を文字にして書き記した。万葉集も漢字が用いられたので一見漢文のように見えるがそうではない。また、先述の古事記や木簡に見えるような「変体漢文」とも異なる。いわゆる「万葉仮名」と呼ばれた文字、いわば「日本語」で記述された。これは漢字の音だけを借用して一音一字で(表音文字として)日本語を記述するもので、後の平安時代に生み出された平仮名や片仮名のルーツともいうべきものである。正倉院文書にも万葉仮名が見え、公式な文書にも用いられた。また、難波宮跡から出土した、659年と思われる木簡には、後世の古今和歌集にまで歌い継がれる著名な「和歌」が認められており、万葉集編纂以前から漢字の音を用いて一音一字で綴った和歌が詠まれていたことを示す貴重な発見である。漢文、漢詩は宮廷の高官、官人の必須教養であったが、徐々に日本語の和歌が新たな文書行政手段、表現手段として認知された時代でもある。歌の世界が漢詩から和歌へ、漢字の日本化、篆書、楷書、行書から草書、さらに崩した唐様から和様への変遷が起こった時代である。


万葉集 元暦校本版


第五ステージ:平仮名、片仮名

その後、9世紀の平安時代に至り、漢字から変化した、日本独自の表音文字、「平仮名」(漢字を崩したもの)、「片仮名」(漢字の一部を取り出したもの)が生み出されて、漢字仮名混じり文という独特の「日本語」表記が生まれた。しかし、これまで見て来た通り、いきなり平安時代になって仮名が考案されたわけではなく、漢字伝来から800年、「変体漢文」、さらに「万葉仮名」などの日本語化のプロセスを経て徐々に形成されていったと考えられている。ひらがな/カタカナは、最初は女性が使うものとされ、紫式部の源氏物語や、清少納言の枕草子のような平仮名文学が生まれた。また紀貫之の土佐日記のように男性が平仮名を用いて書く作品も現れた。やがて、勅撰和歌集である古今和歌集、新古今和歌集が編纂され、11世紀初め頃には流麗な平仮名文字が全盛を迎え、平仮名文学という日本固有の洗練された世界が広がってゆくことになる。いわゆる国風文化の時代を迎える。ただ、依然として男性の貴族や官人は、漢文、漢詩が必須の言語スキル、教養の基本であり続けた。一方で、この頃には万葉集で用いられた万葉仮名を解読できる人がいなくなり、万葉集が読まれなくなっていた。藤原定家を始めとする「古典解読チーム」が編成され、万葉集研究が進められたたほどである。また、漢文で書かれた日本書紀は、平安時代にも貴族の間で定期的な講義が行われたが、変体漢文で書かれた古事記は徐々に読まれなくなっていったと考えられている。


万葉仮名から平仮名へ


最後に、古事記は「文字の起源」をどのように語っているか?

古事記は、我が国最初の「文字」で書かれた「歴史書」であるとされている。日本という国の成り立ち、古代史を知る上で、この7世紀末から8世紀前半に成立した古事記、そして日本書紀が、中国の正史である一連の史書を除けば、国内に現存する唯一の文献資料ということになる。それ以前の列島の有様や、倭国、日本の歴史を知るには中国の史書、文献資料に頼るか、考古学的資料(金石文を含む)しかないのである。少なくとも、先述のように5世紀以前の文字化された記録は日本には無い。

その我が国初の「文字」による歴史書ないしは物語である古事記は、「文字」が葦原中国にもたらされた経緯について、どのように語っているのだろうか。「文字」も、稲作のようにアマテラスやスサノヲ、あるいはニニギによって高天原から葦原中国にもたらされたものであって、決して大陸から伝来したものではない、などと語っているのであろうか。ニニギが漢字を携えて筑紫の日向の高千穂に降臨して来た、とでも書いてあれば話は別であるが、そんな記述はない。古事記神話は、そのストーリーの中で、この物語を書いた「文字」すなわち「漢字」の由来については何も語ってはいない。そもそも漢字を使って7世紀末〜8世紀初頭に古事記が記述されていることで、漢字という外来の文字の存在が議論の余地のないものとして取り扱われている。しかしこの件に関しても、1世紀に中国皇帝から倭の奴国王が下賜された金印や、3世紀に邪馬台国女王が貰った銅鏡に記されていた漢字、漢文の存在については一切触れていない。漢字を用いて記述していながら、中華世界的秩序からの脱却、日本のオリジナリティー、アイデンティティーを主張していることは奇妙なパラドックスであるようにも思える。

あらためて整理すると、古事記という物語の成り立ち、特に神話部分は、新しく生まれた律令国家「日本(ひのもと)」が初めて「文字」を用いて創出した作品であるということである。表意文字である漢字を訓に読み、助詞や接続詞を用いて日本語として読めるようにした、「変体漢文」などと言われる「未完成日本語」で書かれた国家のアイデンティティーの物語である。それは「漢文のようでいて漢文ではない」。その中国由来の文字、漢字の「日本語化」の営みこそ、「日本」が、文字を持たない「倭国」から、「文字の国家」となったことを表現することであり、古事記はその象徴的な作品なのである。繰り返すが、古事記は律令国家の世界観を「日本語」で物語ったものである。すなわち、この古事記という物語の誕生そのものが、列島における「文字・漢字」の受容と変容を象徴している。その所以は、まさに「序文」に記述されていると言って良い。その序文は誰がいつ書いたものなのか不明で、議論の余地があるとされているが、図らずも、漢文で書かれていたらしい古文書を阿礼が日本語(倭語)で「誦み習い」、それを安萬侶が漢字を用いて日本語で「書き記す」、という漢文の日本語化のプロセスが語られている。古事記は、本文には「文字の起源」の由来話はないが、序文でそれを語っている。


参考文献:日本古典文学全集「古事記」山口佳紀、神野志隆光 校註・訳



2023年2月14日火曜日

古事記の神話は「稲作の起源」をどのように語っているか? 〜「豊葦原瑞穂国」はどこから来たのか?〜

 

豊葦原瑞穂国
田植えに始まる稲作農耕

日本最古の稲作農耕集落跡「板付遺跡」


上空から見る「板付遺跡」
都市化した環境にわずかに残る初期の環濠集落の痕跡



前回のブログ(https://tatsuo-k.blogspot.com/2023/01/blog-post_11.html)では、古事記の神話は「人の起源」をどのように語っているか、について考察してみた。今回は、日本の文化の基層をなす稲作の起源について見てみたい。稲作農耕文化はどこから来たのか?古事記はどのように語っているのか。

文明や文化は古来、大陸や半島から海を渡ってやって来た。そして人の移動に伴ってやって来た。海で隔てられた列島への到達には船を操る海の民の存在が必須だ。したがって農耕文化の伝来にも漁労民、海洋民の介在があった。あるいは海洋民が定住して農耕民になっていったこともあるだろう。列島においては、まず大陸に近い沿岸部にそうした文明のフロンティアが成立した。それが列島内部に徐々に展開してゆく。そうした外来の文明や文化を「受容」し「変容」させて独自の文化を生み出していった。それをまた海を経て発信していった。それが日本である。

稲作農耕文化も例外ではない。まず最初は種籾を持った大陸の人々が小さな船で海を渡り列島に稲作を伝えた。文明や文化そのものを伝えることが目的であったわけではない。様々な事情で危険な海を渡り、大陸から船でやって来た。そして生活のために列島に定着して、その種籾を撒き稲作を始めた。それを見た列島の人々が、その種籾をもらい、耕作のやり方を習って稲作を始めた。徐々に従来の縄文的なコミュニティーが、外来の農耕定住コミュニティーの影響を受け、それを「受容」し、列島風に「変容」していったのが弥生時代である。文明や文化はこうした人々の通交、交流の中で伝搬し定着し、また還流してゆく。考古学的には、大陸に近い北部九州の福岡の板付遺跡、江辻遺跡、唐津の菜畑遺跡など紀元前930年頃の水耕稲作遺跡が日本最古の稲作の痕跡ととされている。稲作はこの頃大陸から伝わったのであろう。これが狩猟・採集や小規模な栽培を生業とする縄文的な人々の社会に変革をもたらし、定住して農耕を営む弥生的なムラ、クニが生まれ、やがて国になった。これが日本の先史時代の姿であった。もっともこうした縄文から弥生への変遷は、フェーズ転換やパラダイムシフトというような急激なものではなかったことも、最近の研究で明らかになっている。それでも大陸からもたらされた稲作農耕が、日本列島の住人に大きな変化をもたらし、日本の文化に大きな影響を与えたことは事実だ。このことは7世紀の古代日本人の記憶の中にもはっきりと生きており、それがその時代に記述され編纂された古事記や日本書紀、万葉集などに表現されている。

ではこの稲作の起源を、古事記はどのように語ってるのだろう。結論を先にいうと、「どこから来たのか?」というよりは、この葦原中国においては稲作が「所与」のものとして扱われているのではないか、ということである。まず、高天原から葦原中国に稲作と農耕をもたらす上で重要な役割を果たしたのはスサノヲであるとされているように見える。とは言っても、スサノヲが稲作をもたらした、と明確に語られているわけでもない。曖昧である。古事記の神話では次のように語られている。高天原を追放されて放浪している途中、スサノヲは食べ物を求めて女神、オオゲツヒメカミ(大宜津比売神)と出会った。オオゲツヒメカミは体の穴という穴から食べ物を生み出してスサノヲに提供した。しかし、スサノヲはこれを穢れたものとして殺してしまう。そのオオゲツヒメカミの体からは蚕や五穀が生まれ、その中からカムムスヒノミオヤノミコト(神産巣日御祖命)が穢れを祓って穀物の種をスサノヲに与えた。これが葦原中国における稲作農耕と養蚕の起源であるとされている。やがて出雲にたどり着いたスサノヲは、そこでクシナダヒメ(櫛名田比売)に出会い、ヤマタノオロチを退治してヒメと結婚する。後にスサノヲの子孫であるオオクニヌシ(大國主命)が国を栄えさせた、これが地上の国の始まりであると。いわゆる「出雲神話」前半である。ここに登場するクシナダヒメは、クシ(奇し)イナダ(稲田)ヒメ(女性)、尊い稲田の女神、すなわち稲作の女神であると解釈される。高天原から追放されたスサノヲが地上の国、出雲に稲籾を持ってやってくる前にすでに稲作の女神がいるのである。では、その前に登場する先述のオオゲツヒメカミとはどのような神なのか。この話は、出雲神話のヤマタノオロチ退治やクシナダヒメとの結婚の前に、唐突に現れた話で、古事記のストーリーに一貫性がない例の一つであるとされてきたが、このオオゲツヒメカミの物語は、稲作起源譚にとって重要なエピソードであるという説を唱える研究者もいる(三浦佑之説)。すなわち、この神は体内からあらゆる食物が出てくる、すなわち大地の恵み、生命力を宿した神「大地母神」のような神であるとする。しかし、これは栽培・耕作といった秩序だった生産活動をイメージするものではなく、狩猟・採集をむねとする混沌とした生産の女神である、すなわち縄文的な女神であり、弥生的な稲作の女神ではない。この縄文の女神が殺された話が、弥生時代への転換を象徴的に示唆しているとする。そして、スサノヲが出雲で出会ったこのクシナダヒメが稲作の女神であり、これが弥生の女神の出現だというわけだ。

興味深い解釈だ。しかし、これは、稲作伝来を契機とした縄文時代から弥生時代への変遷という歴史を知っている後世だからこそ、そのように解釈したのではないかと考える。むろん古事記の作者には、オオゲツヒメカミは「縄文的」女神、クシナダヒメは「弥生的」女神という区分認識はなかったであろう。またスサノヲがカミムスヒから得た種は稲だけではなくて、五穀の種と養蚕である。そのなかでクシナダヒメという稲作の女神と結婚することで稲作が別格な農耕であることを示したにすぎないのではないだろうか。古事記では明確な稲作の起源譚が語られず、クシナダヒメの存在が示唆するように、稲作は高天原(天の国)からもたらされたものではなく、葦原中国(地上の国)に既に存在しているものとして描かれているように読める。ただ、確かにこのエピソードからは、「縄文的」な混沌とした生産の時代(狩猟採集の時代)から、「弥生的」な秩序だった生産活動の時代(稲作農耕の時代)への変遷があった、という認識を古事記の作者が表明したものであるようにも読める。7世紀の倭人いや日本人の心の基底に、縄文的な時代の記憶が受け継がれていて、稲作農耕がその時代を大きく変えたと認識し、それがやがては「治天下大王」である天皇を生んだ、という理解が示されている。これは必ずしも稲作=天皇という明確な図式ではないにしても、稲作農耕社会の登場が、狩猟採集社会とは異なる天皇のような統治者の出現を想定していた。8世紀に表された古事記にこのような上古の日本人の記憶の基層にある「歴史観」の表明があるとするとこれは興味深い。

ちなみに、このオオゲツヒメカミの物語に類似の神話は、インドネシアや、太平洋島嶼地域、メキシコやペルーに広く伝承されている。すなわち、生きている間は、人間に食料を与え、殺されてから、その死骸のあちこちから穀物(芋、豆、とうもろこし、稲など)などの栽培作物を生み出した女性(女神)の物語である。農耕や作物の起源神話の一つの類型、「ハイヌウェレ型」(インドネシアに伝わるハイヌウェレ神話に原型を求めたドイツの民俗学者の類型)と言われるものである。これに類する民間伝承や昔話は、「山姥」話のように日本のあちこちにも伝わっている。オオゲツヒメカミ神話もその典型的な事例で、古事記がこうした外来の神話の影響を受けていることを示唆している。その中でも、さらに「稲」に特別な意味を持たせたのがクシナダヒメやスサノヲの物語であったのだろう。

一方で、日本書紀では異なる稲作起源譚を示している。スサノヲではなくツキヨミが、オオゲツヒメカミではなくトヨウケを殺して、その死骸から生えた稲と穀物をアマテラスに献上したとする。しかしアマテラスはこれに怒り、ツキヨミとは今後一切同じ時間を過ごすことなく、アマテラスは昼間を、ツキヨミは夜を支配することとなった。これも、前出の「ハイヌウェレ型」であるとともに、太陽と月が昼夜で入れ替わる起源を説明している。また、「一書に曰く」で、アマテラスが高天原で育てられた神聖な稲籾を孫のニニギに託し、そのニニギが葦原中国を統治するために高天原から葦原中国の筑紫の日向に降臨するときに、この稲籾を携えて降りてきた。これが地上に稲作が始まった起源であるとする。この日本書紀の稲作起源説明のほうが、古事記のそれよりも明解で、しかも霊性があり神話としての説得力があるように思える。また、この「穀霊神の降臨」という神話は朝鮮半島にも伝わる。国外にも説得力を持つ神話として受け入れられることを狙ったのかもしれない。したがってアマテラス、ニニギの子孫たる天皇はその稲作に関わる祭祀の主宰者として権威を有し、皇室祭祀において稲作と養蚕が深く係る起源がここにあるとする。この、稲作がニニギによって地上にもたらされたとする点と、天皇の祭祀と稲作の強い結びつきを主張している点が、古事記の説明とは異なる。

差はさりながら、日本にとって稲作が特別なものとして受け止められていることは古事記でも日本書紀でも共通である。五穀の中でも稲が大八州、葦原中国の原初的な作物であり、日本は高天原からやって来た天孫族がもたらした稲作文化の国であり、それ故に、日本は「葦原中国」、「豊葦原瑞穂国」などと表現されている。ここには、海の向こうの大陸からもたらされた外来の作物、外来の農耕文化が根付いたものであるとの認識は表明されていない。この主張は、これまでも考察してきたように、日本が中国の華夷思想(大宇宙)、朝貢冊封体制から脱して、高天原の神々の子孫である天皇を頂点にいただく日本という小宇宙を形成する、という思想、国家観の表明と同根である。天武、持統期の新たな律令制国家樹立、「大王(おおきみ)」から「天皇(すめらみこと)」へ、自分が名乗ったわけでもない「倭(わ)」から「日本(ひのもと)」へ国号変更と同様、「豊葦原瑞穂国」もこの時代の国家アイデンティティー表明のエピソードのひとつなのだ。日本書紀は外国(中国)を意識して編纂された国の「正史」であるが、古事記は外国を意識していない分だけ、稲作農耕=天皇祭祀といった図式が明確に表明されていない。ただ日本文化の基底にある稲作文化は、天から与えられ、大八州に独自に始まり開花した文化だと説明している。このように古事記は日本書紀とも異なるストーリーを展開しているわけだが、どちらがより正確に日本における「稲作」の起源を説明しているかといった解釈論争してみてもそれは無意味であろう。稲籾を、スサノヲが持ってきた。いやニニギが持ってきた。その違いは神話の世界では重要かもしれないが、歴史の世界では史実とは別の「物語」でしかない。

こうした稲作の起源をめぐる捉え方一つを見ても、古事記は、客観的な史実、あるいは過去の出来事の記憶を基にして編纂された「歴史書」ではなく、かと言って古来より伝わる伝承や口承神話を積み上げて文字化した「神話集」でもなく、7世紀後半から8世紀前半という「日本国家」形成期において、最初から或る意図を持ってストーリーを作り(いくつかの撰録された伝承や神話に仮託して)記述された作品としての「物語」であるという性格が明らかになるであろう。語り継がれる神話や伝承を取捨選択して「文字化する」時点で、その撰録と、後世に残ることを見据えた文章表現には編纂を命じた為政者の意図が明確に表明され、作者がその意図に沿って物語として完成させる。まさに序文に言うところの「帝紀・旧辞をよく調べただし、偽りを削り、真実を定めて撰録し、後世に伝えよう」とした物語、すなわち「天皇の物語」なのである。そのように読むことで古事記の奥深さがより味わえるのだと思う。まさに古事記の解釈に関する定説は、「成立論的解釈」から「作品論的解釈」へと変わってきている。


参考文献:

「古事記」神話から読む古代人の心 三浦佑之 NHK出版

日本古典文学全集「古事記」 山口佳紀、神野志隆光 小学館

参考過去ログ:



2023年1月11日水曜日

古事記の神話は「人の起源」をどのように語っているか? 〜葦原中つ国の「青人草」とは?〜


「葦原中つ国」の「青人草」

「豊葦原瑞穂国」の実り

これまで「初期ヤマト王権はどこからきたのか?」という問いに対する答えを求めて古事記を読んできた。その問いに対し古事記は「ヤマトは天上界(高天原)の神々が産んだ地上の島々(大八洲すなわち葦原中つ国)に、天照大神の子孫が降臨し、その子孫が天皇となって橿原の地で建国した国である」と答えている。7世紀〜8世紀初頭に編纂され成立したこの古事記は、1世紀〜3世紀の中国の史書(後漢書東夷伝、魏志倭人伝など)に記述されている、中国皇帝に朝貢し、冊封された倭の奴国や伊都国、邪馬台国の存在には一切触れず、その後5世紀の中国との通交の記録(倭の五王)にも言及していない。すなわち、朝貢・冊封により中国の皇帝に統治権威を保障してもらう東夷の国ではなく、もともと天神の子孫が日本列島に建国し支配してきた国である、と言っている訳である。このように古事記では、中国の史書に記述された歴史とのつながりには言及がなく、邪馬台国やその女王卑弥呼などとの系譜については一切語られず、それゆえに「初期ヤマト政権」という観念もなく、天地開闢、建国以来、現代(古事記編纂時)まで一貫して天皇の統治権威が大八州の隅々まで行き渡る国として語られている。そこには古事記の編纂の意図が明白に見えている。神話は神話であって、神話は伝承物語であり、それを文字にする時点で、歴史的な事実を記録するというよりは、神話に仮託してある意思や価値観を表明する文書となった。

古事記に記述されてる神話の起源についてはさまざまな説がある。古事記の神話には、南方海洋神話的なエピソード(穀物の起源:ハイヌウェレ型神話や、なぜ人間に寿命があるのか:バナナ型神話、海幸山幸など)や、大陸神話的なエピソード(穀霊神の降臨など)、さらにはギリシア神話(神々の系譜、冥界からの帰還:オルテウス型神話など)の影響も見られるので、日本列島に、人の流入と共に伝えられた伝承や神話をもとに、伝承され、記憶されて、それ等をもとに創作されたのであろうとも言われている。比較神話学の領域の話にこ、こではこれ以上は立ち入らないが。かつては、こうした外来神話の影響を受けた断片的な神話や伝承を集め、編纂したのが古事記の神話である、とする考えが主流であったという。しかし、一方で、7世末の天武・持統天皇の時代、天皇制、律令制整備による日本(ひのもと)建国と中国の朝貢冊封体制からの独立宣言、という時代背景を反映して、対外的、対内的な国家としてのアイデンティティーの表明の必要性にせまられたことから、一気に「建国ストーリー」が創出され、その後時間をかけて文書化して神話として編集されたものだと解釈されるようになった(日本古典文学全集「古事記」の編者の立場「成立論的神話」)。これが最近の通説だと言われている。天武時代の稗田阿礼の口承から元正天皇の時代の太安万侶による書き起こし献納まで40年ほどの時間をかけている。列島の外から伝来した多くの神話や伝承のストーリーも取り入れながら(おそらく漢文で記録されたものがあったのかもしれない)、それを和語で口承し、さらに「漢字の音を借りた和文」で文字に書き起こすプロセスがあり、その時点である意思を持って創作、編集されたものであろう。いずれにせよ客観的な歴史書というよりは、天皇支配の正当性を確定させる、そういう時代の要請を色濃く反映した政治的な宣言の物語として読むべきであろう。ここまではこれまで見てきたとおりであり、古事記に初期ヤマト王権のルーツや、邪馬台国などとの繋がりを解く「歴史的な事実」を見つけることができなかった。2020年5月8日「初期ヤマト王権はどこから来たのか(第三弾)古事記

今回は「問い」を変えて、別の視点で古事記を読み直してみよう。古事記の神話は、これまで見てきたように国土創成(国産み神話、大八洲の起源)や、「天皇」の起源と統治権威の源泉、それに連なる天上界、地上界の神々の系譜については延々と語られているが、「人間」すなわち「ヤマトの民」の起源についてはどのように語られているのだろうか。「人間はどのように創造され、何処より来たりしものか」という、世界の神話に共通の人間創生譚を古事記はどう語っているのだろうか。例えば旧約聖書・創世記では「絶対神ヤハウェが土塊を固め、神の形に似せて人間を作り、その鼻から命を吹き込んだ。この最初の人間がアダムで、その肋骨から作られたのがイヴである」としている。これに相当する人の起源ストーリーは古事記にあるのか。また、旧約聖書では絶対創造神の存在を語っているが、そのような創造神は古事記に登場するのか。答えを先に言うと、古事記の神話は「人」の起源についてほとんど語っていない。また「ヤマトの民」の出自についても語っていない。古事記の神話はあくまでも「神」についてしか語っていない。しかもそれは唯一絶対神ではなく、まさに八百万の神々なのである。そしてそれは、国家の創建者にして統治者である天孫たる天皇の由来、それに連なる支配一族、氏族の神々のルーツに関してであり、「支配の客体」としての人・民についての説明はない。換言すれば、神の「被創造物」としての人間という観念が認められない。

差はさりながら最近の研究では、古事記の神話の最初の部分で、「人」の起源についての言及があるとする。それは「現(うつ)しみの青人草」とする言葉で語られているという(三浦佑之氏の古事記論)。すなわちこの世の「人」は「青々とした」「草」として登場するという。この話は、イザナキの黄泉の国訪問の神話の以下の部分に表れる。すなわち、

 イザナギが黄泉の国から逃げる帰る途中、地上界への出口で追いかけてくるイカヅチたちに桃を投げて撃退した時(桃には呪力があると考えられていた)、桃に感謝して「これからはその呪力で葦原中つ国の命ある青人草(すなわち人、民)の苦難を取り除いてくれ」と叫ぶ場面である。また、さらに追いかけて来るイザナミを、イザナギが千人力でしか動かせない大きな岩で阻んだ時に、イザナミが「これからは地上界の人草(人、民)を毎日千人殺す」と叫ぶと、イザナギが「それなら人草を毎日千五百人産むための産屋を建てる」と応戦した話が出てくる。こうして人間は(草であるから)いずれ死ぬ(枯れる)。しかし死ぬ数よりも、生まれる数のほうが多い。個としての人間の命には限りがあるが、種としての人間は生き続けるとする認識が表明されている。これはある意味、国の発展は人口の増加がその源泉であり、「人=青人草」は資源であり国富であるという認識が建国神話で示されているわけである。これを現代に置き換えて省みると、少子高齢化で人口減少が止まらない現代の状況を今の為政者はどう考えているだろうのか。

その話は別途するとして、この「青人草」は、もとは漢籍からの引用であると考えられており、青は生命力あふれるという意味で、人を草になぞらえるのは、「蒼生」「民草」、あるいは「草莽の士」と言う言葉のルーツとも言われている。古事記にも漢籍の影響が現れる例の一つともされる。しかし、既述のように、古事記は国土や天皇、その統治権威、その寄って立つべき天界、地上界の神々の起源を説くことに終始しているのであるが、その国家の重要な構成要素たる人・民に関する起源を「草」であるとするその心は何なのだろうか。このイザナギの言葉で語られる「青人草」、すなわち草に例えられる「人」の起源は、さらにその前の、神話編序章「天地初発」の高天原の三柱の神の次に登場する、大地(地上界)がまだ未熟な状態(どろどろで水に浮かぶクラゲのような)のときに生まれた一柱の神、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢ)に求められるとする(前出、三浦佑之氏の古事記論)。この神は「泥の中の葦の芽から生まれた尊い男神」という意味であるが、この「葦の芽」から生まれた神こそが「青人草」、すなわち「人」のルーツとなる神であると解する。このような「泥の中から芽吹く葦」に喩える人間の生命の観念は仏教思想に言う「輪廻転生」の影響とも考えられるが、むしろ、芽吹き、成長し、繁茂し、枯れるという自然界の流れ、個体は死んでも種は生き続ける、循環する生命、という自然界の摂理が観念の基底にあると考える。興味深い解釈であると思う。そしてこの「人」は、「万物の創造主」のような誰かが「創造」したり「生み出」したりしたものではなく、自然に「成る」「生える」生命として表されている。旧約聖書・創世記の人間は「土塊」から創造され、創造神が鼻から命を吹き込んで人間になったが、古事記の人間は泥に芽吹く「葦」であり、はじめから命を宿している。ある意味、対象的な人間観である。この砂漠と岩山という環境から生まれた発想と、温帯モンスーン地帯、稲作文化から生まれた発想の違いも面白い。

このように古事記の神話では「人」を「葦の芽」「草」に例えて登場させているわけであるが、そもそも天上界「高天原」に対する地上界を「葦原中つ国」、すなわち葦の生い茂る国(水稲農耕を彷彿とさせる)と形容することから、人間をそこに生える「草」すなわち「葦」あるいは「稲」に喩えるのも腑に落ちる。万葉集では日本を「豊葦原瑞穂国」という美称で呼んでいる。これは先史時代に大陸から伝来した稲作農耕文化を前提とした(弥生的な)ヤマト国家のかたち、社会観念の反映であったとも考えられる。また自然に対峙して、これを克服、征服することで生きてゆくという生命観ではなく、人の命もその一部として「成り」、その自然の摂理を受け入れ、自然と共生して生きてゆくという生命観である。古神道の宇宙観は「一木一草に神宿る」「八百萬の神々」という自然神信仰であり、自然の存在そのものに霊力を感じ、それに身を委ねるという観念。これらが神話の基層に佇むのも温帯モンスーン的農耕文明の反映なのだろう。絶対創造主のような主体が「作った」ものではなく、自然に「生えた」「成った」ものという観念が日本人の創世神話の古層にある、と考えたのは丸山眞男である。この「作る」主体を持たない「成る」という考え方、繰り返し続いてゆくという「不断に成り行く世界」という観念が日本人の歴史認識の底流として存在するというわけである。一方で、主体的に物事を決めない。融通無碍に決まったことを受け入れてゆく、「成るに任せる」という日本人の思考回路がここから来ているのだとすると、「自然の摂理」や「循環する生命」を受け入れる「美しい生き方」、などと言って喜んでばかりはおれまい。従順な「民草」でなくて「草莽崛起」を唱え主体的に行動したあの維新英傑の思想ももうひとつの日本人の思考様式であり、それを思い起こすべきと考えるがいかがであろう。

少し話題が変わるが、古事記でも、先述のように、人(青人草)の命は永遠ではなく、寿命があると認識されている。生と死は一体のものであるという死生観も示されている。これにはヒンズー教や仏教の「輪廻転生」という考えかたの影響があることも否定できないだろう。しかし、世界の神話の中には「何故人は死ぬようになったのか?」という、その起源を語るものがある。インドネシアに伝わる、いはゆる「バナナ型」神話と言われるものもその一つである。すなわち、「人間が、最初に天から与えられた食べ物は、石であった。ある時、天から石ではなくバナナが降りてきて、人はそれを食べた途端、こちらの方が美味しいので、これからは石ではなくてバナナを!と求めた。すると神は、それではこれからはバナナを食べ物とせよ。そのかわり人間は、石のような永遠の命を得ることはできない。バナナと同じように限りある生命を持つことになる」と。この話、どこかで聞いたことがあるだろう。そう、古事記にも見られる。曰く、天孫ニニギが、高天原から葦原中津国に降臨し、地上のオオヤマツミの娘、コノハナサクヤヒメに求婚する。オオヤマツミはたいそう喜び、姉のイワナガヒメと共にニニギに嫁がせた。ところがニニギは、醜いイワナガヒメを送り返して、美しいコノハナサクヤヒメとだけ結婚した。これを悲しんだオオヤマツミは「イワナガヒメは岩のような永遠の命を保証する。しかし、これを送り返したということは、コノハナサクヤヒメの花のような儚い命だけを受け入れたということだ。これで永遠の命が与えられることは無くなった」と言った。ここでは「人」ではなく「天皇」は何故神の子なのに死ぬのか?という話に置き換わっているが、まさに「バナナ型」神話が取り入れられている。このように神話には、不思議なことに世界で共有されるストーリーが見られ、古事記の神話もその例外ではないことがわかる。「バナナ型」神話が日本列島にどのように伝わり、共有していったのかは明らかではないが、7〜8世紀の日本人の記憶にもあったのだろう。古事記の編纂者はこのエピソードを天皇起源神話に取り入れた。古事記を歴史書としてだけでなく、日本人の歴史の基層にある人間観、思想を読み解く書として、また世界史的な神話伝承の中に位置づけて読み直してみるのも面白い。


参考文献:

「古事記」神話から読む古代人の心 三浦佑之 NHK出版

日本古典文学全集「古事記」 山口佳紀、神野志隆光 小学館



2022年4月24日日曜日

「夕日の日照る」玄界灘 〜瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が見た「葦原中津国」は甚だ吉き国であった!〜



夕陽に輝く玄界灘と沖ノ島


古事記では、「天孫降臨」の地、すなわちアマテラスの孫ニニギが「天津国」から三種の神器と随伴の神々と共に「葦原中津国」を統治するために降り立ったのは「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」であるとしている。そして其の降臨の地の第一印象を次のように語った。「此地は韓国に向い笠沙の御前の真木通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚だ吉き地」と。とてもロマンチックな第一歩ではないか。そんなニニギを感動させた風景はどこにあったのだろう。

すなわち、ニニギが降臨してきたという「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」とはどこなのか?「久士布流多気」がどこかは不明であるが、後世、この地は筑紫島(九州)の日向国(宮崎県)の高千穂(高千穂峰)であると解釈され、そのように言い伝えられてきた。しかし本当にそうなのだろうか。伝承に基づいて創成された神話の解釈を史学アカデミズムの立場から試みることにどれほどの成果が期待できるかは甚だ疑問なしとはしないが、あえて歴史探偵的に解釈すると、ここが天孫降臨の地であるとすることには違和感がある。おそらく後世に其の地を古事記の神話伝承に因んで「日向」とか「高千穂」と命名したというのが真相だろう。「日向」や「高千穂」という地名はここだけではなく日本のあちこちにある。そもそも古事記や日本書紀が編纂された7世紀末には、律令制に基づく国制は成立しておらず、未だ「日向国」は存在していない。何よりも先ほどのニニギの言葉を思い出してほしい。「此地は韓国に向い笠沙の御前の真木通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」。韓国(からくに)は今の韓国ではない。大陸の(半島の)蛮夷の国(からくに:空の国)という意味である。この大陸の異国が望める地であると言っている。宮崎県から朝鮮半島は望めない。朝日が差し、夕陽が輝く景観は東西に開けた(おそらく海に面した)土地であろうから、東に日向灘、西に九州山地という宮崎の山奥では望めない。これはどう見ても玄界灘沿岸としか思えない。高千穂とは高くて神々しい山、という意味。日向は太陽に向かう地(ひむか)という意味。いずれも固有名詞ではない。神々しくて、太陽に向かう地という意味である。もちろん玄界灘沿岸にも高千穂や日向の地名がある。

外来文明の受容と変容。それが日本という国の歴史を特色付けていることは知られている通りだ。しかし、日本の正史である日本書紀や古事記はそういう認識を示してはいない。「日の本:ひのもと」は太陽神の子孫が天地開闢以来独自に築いた神国である。決して大陸からの人や文明の受容と変容でできた国ではないとする。どこの国の建国神話、王権神話も多かれ少なかれ同様なオンリーワン・ストーリーを共有しているものだが、我が国の建国神話もその例外ではない。日本書紀や古事記といった正史が生まれた時代背景を考える必要がある。ときはまさに倭国が朝鮮半島の白村江の戦いで唐/新羅に敗れ、国家存亡の危機に直面していた時代である。いわば「富国強兵」と「国家統治の近代化」が急務であった時期である。筑紫の防衛線を構築し、「天皇制」を定め、唐風の首都を建設し、律令制を整備し、税制を定め、仏教を鎮護国家思想とし、官位を定め、国の正史を定める。「建国神話」の創成は、当時の「倭国」から「日の本」へと国家の「近代化」を図る時代の要請を如実に表した政治的宣言の発露に他ならない。すなわち天帝が支配する中華宇宙とは異なる天皇が支配するもう一つの小宇宙の存在を宣言した。まして朝貢冊封体制の下で其の統治の権威を中国皇帝により認めてもらって存立している国ではないのだと、国家アイデンティティーを主張した。であるからこそ記紀では中国の史書に出てくる朝貢冊封国家である、邪馬台国や奴国、伊都国については一言も触れていない。これらの国々が日の本(ヤマト王権)のルーツであるとは認識していないとするのが記紀の立場である。当時全盛を誇る大唐帝国に学びながらもそこからの独立宣言にも等しい、いわば「大宝維新」の政治宣言であった。

差はさりながら、ここ玄界灘は大陸から文明が渡ってきた海である。有史以前より大陸との交流があった列島西北部の「文明のフロンティア」である。普段から海峡の両岸を漁撈や交易を生業とする民が行き来し、またあるときは難民が、流浪の民が、あるときは亡命貴族が海を渡ってやってきた。稲作農耕や生活様式、仏教、政治思想、官僚制、道徳感、そして文字などの大陸由来の文明が彼らと共に伝来した。そして玄界灘を舞台とした古代海人族の安曇族、宗像族が「海北道」の航海の担い手であった。彼らは列島と大陸との間を沖ノ島、壱岐、対馬を経由して航海した。そして列島には奴国、伊都国、邪馬台国などの倭の国々が生まれ、これらの国々は大陸と外交関係(「朝貢冊封」関係)を持つことで支配地域における統治権威を得た。事実、この文明の海には大陸との交流の痕跡、証拠があちこちに存在している(稲作農耕遺跡、鉄器、金印、沖ノ島祭祀、三種の神器の原型たる威信財を埋葬する墳墓等々)。紛れもなく日本は、海に隔てられ、外界から隔絶された地域ではない。そして海外との交流やその影響なしに独自に成立した社会、国でもない。この「夕日の日照る」玄界灘を渡って人々が交流し文明が行き交ったのである。そうした外来の文明や文化を「受容」し、独自に「変容」させてきた。「大宝維新」の「政治的な意図」とは別にニニギにこの風景を感動をもって語らせた。大陸からの文明の受容と変容で生まれた国ではないと主張しつつも、そのルーツを彷彿とさせる玄界灘の景色を懐かしく歌うことでまさに「日の本」の起源のありかを示唆したのだ。


今日でもこの海は多くの船が行き交う「文明の海」である


神宿る島「沖ノ島」の遠景


奴国の今
大宰府の外港、博多津を経て今は人口150万を有する福岡市になっている

「漢倭奴国王」金印が発見された志賀島。其の向こうは「伊都国」

ニニギはここに降臨した

船はやがて那の津へ



(撮影機材:Leica CL + Sigma 18-50/2.8 DC DN)