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2023年2月27日月曜日

古事記の神話は「文字の起源」をどのように語っているか? 〜「漢文」「変体漢文」「万葉仮名」から「平仮名・片仮名」へ〜


古事記 寛永版板本(江戸時代)




「文字」を使う、ということはどういうことを意味するのか?

音声による「言語」は、誰かが作ったり、使わせたりしたものではなく、人々が感情や情報や意思を「伝える」ために「発声」し、それを聞くという「聴覚」によるコミュニケーションツールとして自然発生的に生まれたものである。「言語」を持つ、すなわち、言葉を話すという行為はホモサピエンスが他の生物と一線を画すものの一つである。しかし、一方で「文字」は、その「言語」の発展過程で誰かが作り、決めて、ある目的のために使わせた記号である。書き記し、読むという「視覚」によるコミュニケーションツールである。「話し言葉」と同じように「伝える」ために創造されたのだが、自然発生的に生まれたものではない。発生起源的に言えば、優越的地位にある者が、一族や地域や国家の統治、支配のために作り出した記号の体系、あるいは支配のための社会インフラである。「文字」により成文法を制定し、税制を定め、歴史を記録する。「文字」が「国家」を生み出した。すなわち「文字による国家」の出現である。例えば、ヒログリフはエジプト王朝が、またローマ字、ラテン語はローマ帝国が、漢字、漢文は中国王朝が、統治のインフラとして作り出した。「読む」「書く」は、しばらくの間、一部の人々にだけ与えられた能力/権能であった。「文字を使える者」と「使えない者」という格差があった。それはすなわち「支配する側」と「支配される側」という階層の存在を表わしていた。庶民が日常のコミュニケーションの道具として読み書きを「学び」「用いる」のは、ずっと後の時代のことである。そして、「文字」は人間の脳の外部記録装置として、「記録として残す」「後世に伝達する」ためにも使われてきた。これも「支配する側」にのみ可能な行為であった。然り而してその記録は主に為政者によって残されたものであった。現在にあって過去を知る手掛かりが得られるのも「文字」による記録があればこそである。しかし、ホモサピエンスはその10万年以上の長い進化の歴史の中で、93%の時間は文字がない時代を過ごしたと言われている。文字を用いるようになったのはわずが直近の5〜6000年のことだ。例えば、漢字は3000年ほど前の、中国中原に現れた甲骨文字に由来する象形文字が起源だと言われている。その漢字が中国王朝の歴史を延々と語り繋いで来た。では、日本では「文字」はいつ頃から用いられたのか?古事記が日本初の「文字」による歴史記録であると言われているが、それ以前に」文字」は存在せず、用いられなかったのか?


第一ステージ:漢文

列島における文字の最初の出現はどのようなものであったのか。それは、中国の史書である後漢書に記述のある奴国、あるいは三国志魏志の邪馬台国など、1世紀〜3世紀の中国王朝の朝貢冊封体制における通交のなかで、中国皇帝から倭の王に与えられた、冊封の証である金印(漢委奴國王)や、威信財として下賜された鏡(銅鏡百枚)などに刻まれた文字として現れた。すなわち、すでに1世紀には倭国で文字が使われていたのである。と言ってもそれは中国から与えられた文字、漢字であり、中国王朝への朝貢、冊封関係の中でのみ使われた。すなわち、印綬を用いて漢文で国書を書く必要に迫られて漢字を使用するという、倭国の対外関係(いわば外交で)で使われていたに過ぎない。奴国や伊都国、邪馬台国など倭国内部の統治や、王権内部における通信、記録といったものに文字が使用された形跡はない。まして人々の日常生活におけるコミュニケーションに文字・漢字を使用することはなかった。少なくとも漢文・漢字を操れる人は、後漢王朝や魏王朝との通交、交渉に携わるほんの一部の人であった。おそらくは大陸からの渡来人であったのだろう。そういう意味で、倭国にはその当時の国内事情を窺い知ることができる文字史料はない。少なくとも現時点では見つかっていない。ただ、硯の破片ではないか、という遺物が、北部九州の3世紀前半の遺跡から見つかっており、今後、何らかの「文字」にまつわる考古学資料が出てくる可能性はある。


金印
福岡市博物館


第二ステージ:和様への変化の兆し

次に列島に文字が表れ、それが列島内部で意味を持つようになるのは、5世紀になってからである。奴国の金印から400年後、邪馬台国卑弥呼の「景初4年」の銅鏡から約200年後のことである。それは和歌山県の隅田八幡宮鏡銘、埼玉県の稲荷山古墳鉄剣、熊本県の江田船山古墳鉄剣などに刻まれた文字(金石文)である。これはヤマト王権の大王が倭国の統治の権威を示すものとして、地方の豪族に下賜した権威の証、ないしは「威信財」と考えられている。すなわち「ワカタケル大王」(すなわち雄略天皇のことを指すと考えられている)が、地方豪族に王権の役職である「杖刀人」や「典曹人」などの職位を与えたものと考えられている。列島を支配下に置きつつあったヤマト王権が、地方豪族を支配・統治する道具として文字・漢字を使った初出である。これは中国王朝の朝貢冊封体制を、倭国/列島内部統治に転用したものである。文字による国内統治の始まりである。用いられたのは漢字であるが、中国の漢字とは少し異なる字体に変化している。また漢字という表意文字を倭語の表音文字として一音に一字をあてて用いたものである。この頃から、徐々に漢字が楷書などの中国伝来の形態から、少し描きやすく崩した、「倭人の感性にあった」形態に変化していると考えられている。後の仮名へと繋がる変化の萌芽と言えよう。

そして6世紀の仏教伝来(538年ないし552年)の時期、仏典とともに文字(漢字)が本格的に流入する。文字は仏典の写経に用いられ、学習、布教のためにヤマト王権の中枢や寺院で用いられた。用いられたのは漢語、漢文で、きちんとした楷書で記述されている。この延長線上に7世紀初めの聖徳太子の十七条憲法などの文字で表された「法制度」があると考えられている。しかし、原本、写本は現存しておらず、後の日本書紀に、全文引用した、とされるものが唯一今に伝わる十七条憲法である。従って、その存在を疑う偽書説や、日本書紀において初めて文字化されて記述された、とする説などがある。少なくとも5世紀以前に日本に文字で記録されたものはほぼ見つかっていない。


稲荷山鉄剣
埼玉古墳博物館



第三ステージ:変体漢文

7〜8世紀初期の律令制国家の整備とともに、文字(すなわち漢字)が国内政治の重要な統治ツールとして用いられるようになる。稲荷山鉄剣や江田船山鉄剣の時代から200年ほど後の時代だ。言い換えれば、律令国家は文字によって成り立つ「文字の国家」である。成文法を持ち、文字によって国家機構を定め、税制を定め、記録し、国を運営する。この律令国家「ヤマト王権」の支配が全国に及ぶにつれ、文字が一気に広まって列島全域をカバーするようになる。このことは藤原京、難波京、平城京跡のみならず地方官衙跡から大量に発掘される木簡の文字からもわかる。そうした事情を背景として、ヤマト王権の統治権威の源泉と正当性を記述する「正史」である「日本書紀」、あるいは統治者たる天皇の「物語」である「古事記」が生まれた。この前にも、おそらく文字を用いた帝紀、旧辞などの記録があったとされる(古事記の序文に記述)が現存しておらず、645年の乙巳の変で蘇我宗家が滅んだときに焼失してしまったのではないかと言われている。また。古事記の序文によれば、古事記は稗田阿礼が誦習したものを太安万侶が文字化したものである、とある。しかし、単純に口承を文字化したということではない。稗田阿礼が誦み習った元の記録(帝紀、旧辞など?)は確かにあったであろうがそれは漢語で記述されており、それは阿礼の誦習を伴わなければ日本語として用をなさないものであった。それをさらに文字に書き記すということは、表意文字である漢字を訓に読み、助詞や接続詞を用いて日本語として読めるようにする。そのような創造的な作業が伴うプロジェクトであったはずだ。すなわち古事記は「漢文のようで漢文ではない」ものである。「変体漢文」などと言われているが、それは漢文の変種ということではなく、漢文を離れて日本語として漢字を用いたものである。その「日本語化」の営みこそ、律令体制の中での「文字の国家」日本を表現することであり、古事記はその象徴的な作品であったと言える。したがって、古事記は古来からの伝承の延長にあるのではなく、律令国家の世界観を漢字を用いた「日本語」で創造し作品化したものである。この点が、中国、朝鮮半島の王朝を意識して漢文で書かれた「日本書紀」と異なる点だ。したがって、古事記や日本書紀に記述のある天皇の事績などの記録については、その根拠になったという帝紀、旧辞は6世紀のものであろう。しかし少なくとも5世紀以前(応神、仁徳以前)には文字化された記録はなかったはずだ。

ちなみに、現在目にすることが出来る古事記も、編纂から660年後の室町時代に書き写されたいわゆる「真福寺本」が、現存する最古の写本とされていいる。それ以前の写本は残っていない。書写は、書き写しの間違いや、脱落、解釈違い、故意の改変(構成の取捨選択)などが介在するので、正確にオリジナルの内容が後世に伝わっているかは疑問である。後世になればなるほど、書写した人の意思や解釈が介在して変容している可能性が高い。古事記を読んでいて、筋が通らない箇所や、矛盾するエピソード、話題が飛ぶ箇所などが多いのは、こうした後世の繰り返された書写のせいだと考えられる。


古事記 真福寺本 書写本(室町時代)


第四ステージ:万葉仮名

奈良時代になると日本初の詩歌集である万葉集が編まれる。750年ころの編纂と考えられている。編纂の意図を記述した序文も、編纂者の記録もない不思議な詩歌集であるが、約7000首が撰録されている。漢詩も多く掲載されているが、七五調を基本とする長歌、短歌を集めた和歌集である。詠み人は天皇から、中央の高級官人、地方官人、専門的な宮廷歌人、そして名も知れぬ防人や庶民まで含まれている、という稀有な和歌集である。しかし、これは、この時期には庶民まで「文字」を使って歌を詠んだということではない。歌の撰録は、大伴家持のような高級官人が行い、口承を文字にして書き記した。万葉集も漢字が用いられたので一見漢文のように見えるがそうではない。また、先述の古事記や木簡に見えるような「変体漢文」とも異なる。いわゆる「万葉仮名」と呼ばれた文字、いわば「日本語」で記述された。これは漢字の音だけを借用して一音一字で(表音文字として)日本語を記述するもので、後の平安時代に生み出された平仮名や片仮名のルーツともいうべきものである。正倉院文書にも万葉仮名が見え、公式な文書にも用いられた。また、難波宮跡から出土した、659年と思われる木簡には、後世の古今和歌集にまで歌い継がれる著名な「和歌」が認められており、万葉集編纂以前から漢字の音を用いて一音一字で綴った和歌が詠まれていたことを示す貴重な発見である。漢文、漢詩は宮廷の高官、官人の必須教養であったが、徐々に日本語の和歌が新たな文書行政手段、表現手段として認知された時代でもある。歌の世界が漢詩から和歌へ、漢字の日本化、篆書、楷書、行書から草書、さらに崩した唐様から和様への変遷が起こった時代である。


万葉集 元暦校本版


第五ステージ:平仮名、片仮名

その後、9世紀の平安時代に至り、漢字から変化した、日本独自の表音文字、「平仮名」(漢字を崩したもの)、「片仮名」(漢字の一部を取り出したもの)が生み出されて、漢字仮名混じり文という独特の「日本語」表記が生まれた。しかし、これまで見て来た通り、いきなり平安時代になって仮名が考案されたわけではなく、漢字伝来から800年、「変体漢文」、さらに「万葉仮名」などの日本語化のプロセスを経て徐々に形成されていったと考えられている。ひらがな/カタカナは、最初は女性が使うものとされ、紫式部の源氏物語や、清少納言の枕草子のような平仮名文学が生まれた。また紀貫之の土佐日記のように男性が平仮名を用いて書く作品も現れた。やがて、勅撰和歌集である古今和歌集、新古今和歌集が編纂され、11世紀初め頃には流麗な平仮名文字が全盛を迎え、平仮名文学という日本固有の洗練された世界が広がってゆくことになる。いわゆる国風文化の時代を迎える。ただ、依然として男性の貴族や官人は、漢文、漢詩が必須の言語スキル、教養の基本であり続けた。一方で、この頃には万葉集で用いられた万葉仮名を解読できる人がいなくなり、万葉集が読まれなくなっていた。藤原定家を始めとする「古典解読チーム」が編成され、万葉集研究が進められたたほどである。また、漢文で書かれた日本書紀は、平安時代にも貴族の間で定期的な講義が行われたが、変体漢文で書かれた古事記は徐々に読まれなくなっていったと考えられている。


万葉仮名から平仮名へ


最後に、古事記は「文字の起源」をどのように語っているか?

古事記は、我が国最初の「文字」で書かれた「歴史書」であるとされている。日本という国の成り立ち、古代史を知る上で、この7世紀末から8世紀前半に成立した古事記、そして日本書紀が、中国の正史である一連の史書を除けば、国内に現存する唯一の文献資料ということになる。それ以前の列島の有様や、倭国、日本の歴史を知るには中国の史書、文献資料に頼るか、考古学的資料(金石文を含む)しかないのである。少なくとも、先述のように5世紀以前の文字化された記録は日本には無い。

その我が国初の「文字」による歴史書ないしは物語である古事記は、「文字」が葦原中国にもたらされた経緯について、どのように語っているのだろうか。「文字」も、稲作のようにアマテラスやスサノヲ、あるいはニニギによって高天原から葦原中国にもたらされたものであって、決して大陸から伝来したものではない、などと語っているのであろうか。ニニギが漢字を携えて筑紫の日向の高千穂に降臨して来た、とでも書いてあれば話は別であるが、そんな記述はない。古事記神話は、そのストーリーの中で、この物語を書いた「文字」すなわち「漢字」の由来については何も語ってはいない。そもそも漢字を使って7世紀末〜8世紀初頭に古事記が記述されていることで、漢字という外来の文字の存在が議論の余地のないものとして取り扱われている。しかしこの件に関しても、1世紀に中国皇帝から倭の奴国王が下賜された金印や、3世紀に邪馬台国女王が貰った銅鏡に記されていた漢字、漢文の存在については一切触れていない。漢字を用いて記述していながら、中華世界的秩序からの脱却、日本のオリジナリティー、アイデンティティーを主張していることは奇妙なパラドックスであるようにも思える。

あらためて整理すると、古事記という物語の成り立ち、特に神話部分は、新しく生まれた律令国家「日本(ひのもと)」が初めて「文字」を用いて創出した作品であるということである。表意文字である漢字を訓に読み、助詞や接続詞を用いて日本語として読めるようにした、「変体漢文」などと言われる「未完成日本語」で書かれた国家のアイデンティティーの物語である。それは「漢文のようでいて漢文ではない」。その中国由来の文字、漢字の「日本語化」の営みこそ、「日本」が、文字を持たない「倭国」から、「文字の国家」となったことを表現することであり、古事記はその象徴的な作品なのである。繰り返すが、古事記は律令国家の世界観を「日本語」で物語ったものである。すなわち、この古事記という物語の誕生そのものが、列島における「文字・漢字」の受容と変容を象徴している。その所以は、まさに「序文」に記述されていると言って良い。その序文は誰がいつ書いたものなのか不明で、議論の余地があるとされているが、図らずも、漢文で書かれていたらしい古文書を阿礼が日本語(倭語)で「誦み習い」、それを安萬侶が漢字を用いて日本語で「書き記す」、という漢文の日本語化のプロセスが語られている。古事記は、本文には「文字の起源」の由来話はないが、序文でそれを語っている。


参考文献:日本古典文学全集「古事記」山口佳紀、神野志隆光 校註・訳



2023年1月11日水曜日

古事記の神話は「人の起源」をどのように語っているか? 〜葦原中つ国の「青人草」とは?〜


「葦原中つ国」の「青人草」

「豊葦原瑞穂国」の実り

これまで「初期ヤマト王権はどこからきたのか?」という問いに対する答えを求めて古事記を読んできた。その問いに対し古事記は「ヤマトは天上界(高天原)の神々が産んだ地上の島々(大八洲すなわち葦原中つ国)に、天照大神の子孫が降臨し、その子孫が天皇となって橿原の地で建国した国である」と答えている。7世紀〜8世紀初頭に編纂され成立したこの古事記は、1世紀〜3世紀の中国の史書(後漢書東夷伝、魏志倭人伝など)に記述されている、中国皇帝に朝貢し、冊封された倭の奴国や伊都国、邪馬台国の存在には一切触れず、その後5世紀の中国との通交の記録(倭の五王)にも言及していない。すなわち、朝貢・冊封により中国の皇帝に統治権威を保障してもらう東夷の国ではなく、もともと天神の子孫が日本列島に建国し支配してきた国である、と言っている訳である。このように古事記では、中国の史書に記述された歴史とのつながりには言及がなく、邪馬台国やその女王卑弥呼などとの系譜については一切語られず、それゆえに「初期ヤマト政権」という観念もなく、天地開闢、建国以来、現代(古事記編纂時)まで一貫して天皇の統治権威が大八州の隅々まで行き渡る国として語られている。そこには古事記の編纂の意図が明白に見えている。神話は神話であって、神話は伝承物語であり、それを文字にする時点で、歴史的な事実を記録するというよりは、神話に仮託してある意思や価値観を表明する文書となった。

古事記に記述されてる神話の起源についてはさまざまな説がある。古事記の神話には、南方海洋神話的なエピソード(穀物の起源:ハイヌウェレ型神話や、なぜ人間に寿命があるのか:バナナ型神話、海幸山幸など)や、大陸神話的なエピソード(穀霊神の降臨など)、さらにはギリシア神話(神々の系譜、冥界からの帰還:オルテウス型神話など)の影響も見られるので、日本列島に、人の流入と共に伝えられた伝承や神話をもとに、伝承され、記憶されて、それ等をもとに創作されたのであろうとも言われている。比較神話学の領域の話にこ、こではこれ以上は立ち入らないが。かつては、こうした外来神話の影響を受けた断片的な神話や伝承を集め、編纂したのが古事記の神話である、とする考えが主流であったという。しかし、一方で、7世末の天武・持統天皇の時代、天皇制、律令制整備による日本(ひのもと)建国と中国の朝貢冊封体制からの独立宣言、という時代背景を反映して、対外的、対内的な国家としてのアイデンティティーの表明の必要性にせまられたことから、一気に「建国ストーリー」が創出され、その後時間をかけて文書化して神話として編集されたものだと解釈されるようになった(日本古典文学全集「古事記」の編者の立場「成立論的神話」)。これが最近の通説だと言われている。天武時代の稗田阿礼の口承から元正天皇の時代の太安万侶による書き起こし献納まで40年ほどの時間をかけている。列島の外から伝来した多くの神話や伝承のストーリーも取り入れながら(おそらく漢文で記録されたものがあったのかもしれない)、それを和語で口承し、さらに「漢字の音を借りた和文」で文字に書き起こすプロセスがあり、その時点である意思を持って創作、編集されたものであろう。いずれにせよ客観的な歴史書というよりは、天皇支配の正当性を確定させる、そういう時代の要請を色濃く反映した政治的な宣言の物語として読むべきであろう。ここまではこれまで見てきたとおりであり、古事記に初期ヤマト王権のルーツや、邪馬台国などとの繋がりを解く「歴史的な事実」を見つけることができなかった。2020年5月8日「初期ヤマト王権はどこから来たのか(第三弾)古事記

今回は「問い」を変えて、別の視点で古事記を読み直してみよう。古事記の神話は、これまで見てきたように国土創成(国産み神話、大八洲の起源)や、「天皇」の起源と統治権威の源泉、それに連なる天上界、地上界の神々の系譜については延々と語られているが、「人間」すなわち「ヤマトの民」の起源についてはどのように語られているのだろうか。「人間はどのように創造され、何処より来たりしものか」という、世界の神話に共通の人間創生譚を古事記はどう語っているのだろうか。例えば旧約聖書・創世記では「絶対神ヤハウェが土塊を固め、神の形に似せて人間を作り、その鼻から命を吹き込んだ。この最初の人間がアダムで、その肋骨から作られたのがイヴである」としている。これに相当する人の起源ストーリーは古事記にあるのか。また、旧約聖書では絶対創造神の存在を語っているが、そのような創造神は古事記に登場するのか。答えを先に言うと、古事記の神話は「人」の起源についてほとんど語っていない。また「ヤマトの民」の出自についても語っていない。古事記の神話はあくまでも「神」についてしか語っていない。しかもそれは唯一絶対神ではなく、まさに八百万の神々なのである。そしてそれは、国家の創建者にして統治者である天孫たる天皇の由来、それに連なる支配一族、氏族の神々のルーツに関してであり、「支配の客体」としての人・民についての説明はない。換言すれば、神の「被創造物」としての人間という観念が認められない。

差はさりながら最近の研究では、古事記の神話の最初の部分で、「人」の起源についての言及があるとする。それは「現(うつ)しみの青人草」とする言葉で語られているという(三浦佑之氏の古事記論)。すなわちこの世の「人」は「青々とした」「草」として登場するという。この話は、イザナキの黄泉の国訪問の神話の以下の部分に表れる。すなわち、

 イザナギが黄泉の国から逃げる帰る途中、地上界への出口で追いかけてくるイカヅチたちに桃を投げて撃退した時(桃には呪力があると考えられていた)、桃に感謝して「これからはその呪力で葦原中つ国の命ある青人草(すなわち人、民)の苦難を取り除いてくれ」と叫ぶ場面である。また、さらに追いかけて来るイザナミを、イザナギが千人力でしか動かせない大きな岩で阻んだ時に、イザナミが「これからは地上界の人草(人、民)を毎日千人殺す」と叫ぶと、イザナギが「それなら人草を毎日千五百人産むための産屋を建てる」と応戦した話が出てくる。こうして人間は(草であるから)いずれ死ぬ(枯れる)。しかし死ぬ数よりも、生まれる数のほうが多い。個としての人間の命には限りがあるが、種としての人間は生き続けるとする認識が表明されている。これはある意味、国の発展は人口の増加がその源泉であり、「人=青人草」は資源であり国富であるという認識が建国神話で示されているわけである。これを現代に置き換えて省みると、少子高齢化で人口減少が止まらない現代の状況を今の為政者はどう考えているだろうのか。

その話は別途するとして、この「青人草」は、もとは漢籍からの引用であると考えられており、青は生命力あふれるという意味で、人を草になぞらえるのは、「蒼生」「民草」、あるいは「草莽の士」と言う言葉のルーツとも言われている。古事記にも漢籍の影響が現れる例の一つともされる。しかし、既述のように、古事記は国土や天皇、その統治権威、その寄って立つべき天界、地上界の神々の起源を説くことに終始しているのであるが、その国家の重要な構成要素たる人・民に関する起源を「草」であるとするその心は何なのだろうか。このイザナギの言葉で語られる「青人草」、すなわち草に例えられる「人」の起源は、さらにその前の、神話編序章「天地初発」の高天原の三柱の神の次に登場する、大地(地上界)がまだ未熟な状態(どろどろで水に浮かぶクラゲのような)のときに生まれた一柱の神、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢ)に求められるとする(前出、三浦佑之氏の古事記論)。この神は「泥の中の葦の芽から生まれた尊い男神」という意味であるが、この「葦の芽」から生まれた神こそが「青人草」、すなわち「人」のルーツとなる神であると解する。このような「泥の中から芽吹く葦」に喩える人間の生命の観念は仏教思想に言う「輪廻転生」の影響とも考えられるが、むしろ、芽吹き、成長し、繁茂し、枯れるという自然界の流れ、個体は死んでも種は生き続ける、循環する生命、という自然界の摂理が観念の基底にあると考える。興味深い解釈であると思う。そしてこの「人」は、「万物の創造主」のような誰かが「創造」したり「生み出」したりしたものではなく、自然に「成る」「生える」生命として表されている。旧約聖書・創世記の人間は「土塊」から創造され、創造神が鼻から命を吹き込んで人間になったが、古事記の人間は泥に芽吹く「葦」であり、はじめから命を宿している。ある意味、対象的な人間観である。この砂漠と岩山という環境から生まれた発想と、温帯モンスーン地帯、稲作文化から生まれた発想の違いも面白い。

このように古事記の神話では「人」を「葦の芽」「草」に例えて登場させているわけであるが、そもそも天上界「高天原」に対する地上界を「葦原中つ国」、すなわち葦の生い茂る国(水稲農耕を彷彿とさせる)と形容することから、人間をそこに生える「草」すなわち「葦」あるいは「稲」に喩えるのも腑に落ちる。万葉集では日本を「豊葦原瑞穂国」という美称で呼んでいる。これは先史時代に大陸から伝来した稲作農耕文化を前提とした(弥生的な)ヤマト国家のかたち、社会観念の反映であったとも考えられる。また自然に対峙して、これを克服、征服することで生きてゆくという生命観ではなく、人の命もその一部として「成り」、その自然の摂理を受け入れ、自然と共生して生きてゆくという生命観である。古神道の宇宙観は「一木一草に神宿る」「八百萬の神々」という自然神信仰であり、自然の存在そのものに霊力を感じ、それに身を委ねるという観念。これらが神話の基層に佇むのも温帯モンスーン的農耕文明の反映なのだろう。絶対創造主のような主体が「作った」ものではなく、自然に「生えた」「成った」ものという観念が日本人の創世神話の古層にある、と考えたのは丸山眞男である。この「作る」主体を持たない「成る」という考え方、繰り返し続いてゆくという「不断に成り行く世界」という観念が日本人の歴史認識の底流として存在するというわけである。一方で、主体的に物事を決めない。融通無碍に決まったことを受け入れてゆく、「成るに任せる」という日本人の思考回路がここから来ているのだとすると、「自然の摂理」や「循環する生命」を受け入れる「美しい生き方」、などと言って喜んでばかりはおれまい。従順な「民草」でなくて「草莽崛起」を唱え主体的に行動したあの維新英傑の思想ももうひとつの日本人の思考様式であり、それを思い起こすべきと考えるがいかがであろう。

少し話題が変わるが、古事記でも、先述のように、人(青人草)の命は永遠ではなく、寿命があると認識されている。生と死は一体のものであるという死生観も示されている。これにはヒンズー教や仏教の「輪廻転生」という考えかたの影響があることも否定できないだろう。しかし、世界の神話の中には「何故人は死ぬようになったのか?」という、その起源を語るものがある。インドネシアに伝わる、いはゆる「バナナ型」神話と言われるものもその一つである。すなわち、「人間が、最初に天から与えられた食べ物は、石であった。ある時、天から石ではなくバナナが降りてきて、人はそれを食べた途端、こちらの方が美味しいので、これからは石ではなくてバナナを!と求めた。すると神は、それではこれからはバナナを食べ物とせよ。そのかわり人間は、石のような永遠の命を得ることはできない。バナナと同じように限りある生命を持つことになる」と。この話、どこかで聞いたことがあるだろう。そう、古事記にも見られる。曰く、天孫ニニギが、高天原から葦原中津国に降臨し、地上のオオヤマツミの娘、コノハナサクヤヒメに求婚する。オオヤマツミはたいそう喜び、姉のイワナガヒメと共にニニギに嫁がせた。ところがニニギは、醜いイワナガヒメを送り返して、美しいコノハナサクヤヒメとだけ結婚した。これを悲しんだオオヤマツミは「イワナガヒメは岩のような永遠の命を保証する。しかし、これを送り返したということは、コノハナサクヤヒメの花のような儚い命だけを受け入れたということだ。これで永遠の命が与えられることは無くなった」と言った。ここでは「人」ではなく「天皇」は何故神の子なのに死ぬのか?という話に置き換わっているが、まさに「バナナ型」神話が取り入れられている。このように神話には、不思議なことに世界で共有されるストーリーが見られ、古事記の神話もその例外ではないことがわかる。「バナナ型」神話が日本列島にどのように伝わり、共有していったのかは明らかではないが、7〜8世紀の日本人の記憶にもあったのだろう。古事記の編纂者はこのエピソードを天皇起源神話に取り入れた。古事記を歴史書としてだけでなく、日本人の歴史の基層にある人間観、思想を読み解く書として、また世界史的な神話伝承の中に位置づけて読み直してみるのも面白い。


参考文献:

「古事記」神話から読む古代人の心 三浦佑之 NHK出版

日本古典文学全集「古事記」 山口佳紀、神野志隆光 小学館



2021年8月25日水曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第六弾) 〜とりあえずこのシリーズ完結編。で、謎は解明されたのか?〜

 

竜王山から展望する
初期ヤマト王権の地
左から大和三山、箸墓古墳、纒向遺跡、行灯山古墳、渋谷向谷古墳、背景は葛城山、金剛山、二上山



甘樫丘から見る三輪山

黒塚古墳頭頂部より箸墓古墳を展望

纒向居館跡発掘現場
背後には三輪山が


大和路散策もままならぬこの夏、夏休みの宿題じゃないけれど、「巣篭もり」中は充実の自宅学習で過ごす。NHK 文化センター講座の「日本古代史」をオンライン受講している。国際日本文化研究センター倉本一宏教授の明快な講義が腑に落ちる。もともと倉本先生の「戦争の日本古代史」「内戦の日本古代史」(いずれも講談社現代新書)、そして「大学の古代史」(山川出版)を読んで、我が日本古代史、特に3世紀倭国事情に関する疑問に見事に応えてくれる解説に感動していたこともあり受講することにした。論点はすでに理解しているつもりでいるので、6回シリーズの講義でこれまでの理解の整理を図り、あとはQ&Aによる論点解明が目的だ。講義は明快で論理的である。文献史学に考古学的研究成果も取り入れて、変なバイアスや「トンデモ異説」を廃した歴史観の提示であり、「素人歴史探偵」が喜んで飛びつくようなロマンチックで興奮するような物語ではない。歴史学に客観的という言葉が適切かどうかは別にして、通史として俯瞰的に眺めるアプローチと言ったら良いだろうか。すなわち邪馬台国近畿説、北部九州説云々という、少々地元が熱くなりがちな位置論争に巻き込まれることなく、3世紀当時の日本列島の姿を、そしてその国の有様を俯瞰する。邪馬台国や卑弥呼(3世紀の中国の史書三国志魏書にしかでてこない)は筑紫の地域連合とその首長の話であり、近畿大和の初期ヤマト王権とは別のものであるということ。当時の日本列島にはまだ統一的な王権など存在していなかったということ。これを明快に解説している。なぜ邪馬台国「近畿説」論者(依然として多数説とされるが)は無理に邪馬台国を奈良盆地の大和地区(あるいは纏向地区)に持ってきて、ヤマト王権、ひいては後世の大王家、天皇家につながるルーツだとしたがるのか?文献を読み返しても、考古学的な資料を見ても、なぜそのような結論になるのか?疑問を呈している。私も全てを先に決めている答えに無理やりこじつけているようで違和感を感じ続けていたので、先生の解説はいちいち納得であった。

倉本先生も指摘しているが、中国の三国志の魏書(いわゆる魏志倭人伝)にしか記述のない邪馬台国という北部九州の首長連合体の存在が、当時の列島全体の倭王権を代表していると考えること自体が、乏しい文献記述にこだわって惑わされている証拠である。まして三国志のなかでは魏書しか残っておらず、蜀書や呉書は失われていることから、魏と対峙して江南地方に勢力を有していた呉が倭国(近畿大和?)と交流していた可能性がないとは言いきれず、その記録が現存しないことも考慮しておくべきだとする。さらには、魏志倭人伝の記述を素直に解釈すれば「邪馬台国連合」が北部九州の範囲内であることは明確であるのだが、それを色々解釈を加えて(南を東と読み替えたり、距離を読み替えたり、地名を無理に当てはめたり)、どうしても近畿へ持っていこうとする。一方で、7世紀末から8世紀初頭に日本の天皇支配の起源と歴史と正当性を記述した日本書紀や古事記では「邪馬台国」「卑弥呼」に触れていないし、編者は魏志倭人伝を参照しているにもかかわらず、その記述をどのように位置づけるか述べていない。すなわち、記紀では邪馬台国や卑弥呼を天皇家のルーツとはみなしていない。3世紀半ばの列島は、いくつかの地域首長の国・クニや、その地域連合が各地に併存していた時期で、まだ統一的な王権など存在していない。のちに大和盆地に起こった初期ヤマト王権も、徐々に筑紫や、吉備、出雲などとの緩やかな首長連合を形成してゆく(古墳時代)が、統一的性格の「王権」「大王」が現れるのは5世紀の雄略大王の頃だし、血統による世襲、すなわち皇統(「万世一系」の)という概念が成立するのはさらに継体大王の時代6世紀以降の話だ。それでもなお大王が豪族・氏族を束ねる力は強いとは言えず、7世紀、8世紀初頭の古事記、日本書紀でようやく天皇を名乗り皇統の系譜が整理され、地域の豪族や氏族ごとの神々の体系化(皇祖神を中心とした同族化)が記録されるようになった。こうした史実にもかかわらず、近畿説論者は、3世初頭にはすでに列島には統一王権が存在し、それが後の天皇家のルーツであると主張する。もっとも、そう言っている人も「なんかおかしいぞ」と感じながら「まあ細かいことはいいじゃないか!」と主張を曲げていない気がする。こうなると、何らかの政治的な意図の発露か、あるいは地元に観光資源を確保したい自治体の思惑か、ロマンチックなフィクションの創出か、いずれにせよ学問の話ではない。

また倉本先生は、考古学的な年代確認手法とそれに基づいた時代確定にも疑問を投げかけている。纏向遺跡や箸墓古墳の炭素年代測定法による、邪馬台国・卑弥呼と同時代の「3世紀中」推定だ。毎回測定するたびに時代が遡ることにも不思議さと違和感を感じるという。邪馬台国、卑弥呼が存在した時代に合わせるように遡らせる考古学者。マスコミ、地元自治体という構図なのか。倉本先生の「余談」によれば、纒向遺跡研究の第一人者である寺沢薫先生も、もはや地元とマスコミに押し切られて、自説を訂正できなくなっているという。どこまでホントなのか知らないが、言い出した以上引っ込みがつかない事は研究の世界でもあるかもしれない。きっと王の纒向居館遺構も盟主墳である箸墓古墳も、「環濠集落」形態の国/クニで特色づけられるチクシの邪馬台国よりは、もう少し新しい時代の遺跡ではないのか?という素朴な疑念である。炭素年代測定法という「科学的証明」の信頼度と、文献史学的な「整合性」との相剋だ。木を見て森を見ない断定は危険ですらある。そこに何らかの政治的、利害的な意味合いや意図を潜り込ませうる余地があるからだ。

いわゆる「邪馬台国論争」についてはこれまでのブログで私論を述べてきたし、倉本先生の論考で整理され私なりの結論は出たので、ここで改めて繰り返さない。そこで、やはり問題は「初期ヤマト王権(倉本先生は「倭王権」と呼んでいる)はどこから来たのか?」「彼らは何者なのか?」ということに行き着く。以前のブログでも考察してきたが、意外にこの「日本という国家の成立起源」がよくわからないことに気付かされる。今までは邪馬台国がそうだ、とあまり深く考えずに片付けていたのだが、そうでないとすれば、大和に発生したという日本のルーツは奈辺にあるのか。Q&Aセッションでは下記の質問に丁寧に解説を加えていただいたが、やはりスッキリと謎の解決には至らない。まだまだ未知の部分が多いと感じた。


1)そもそも初期ヤマト王権の勢力はどこから来たのか?大和盆地の土着勢力が発展したものか?外来勢力が「無主の地」に移住して成立したものなのか?

2)なぜ、奈良盆地が倭王権・倭国の中心になったのか?

3)チクシ王権が魏に朝貢し冊封を受けたのに対し、ヤマト王権が中国の呉王朝と通交があったとすれば、その証拠は出ているのか?

4)3世紀以降、奈良盆地になぜ古墳がこれほど大規模に築造されたのか?


1)唐古・鍵遺跡に代表される奈良盆地の複数の弥生以来の農耕集落を起源とする土着勢力が糾合して成長し、初期ヤマト王権を形成し、三輪山の麓に纏向王都を形成したのであろうとする。これは以前のブログで紹介した、奈良文化財研究所の坂靖氏が「ヤマト王権の古代学」で結論とした「土着説」と相通じる見解である(初期ヤマト王権はどこから来たのか?第五弾https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/06/blog-post_30.html)。「神武東征」伝承などに引っ張られがちであるが、外からの勢力が「無主の地」奈良盆地に移住してきてできた王権ではないだろうとする。吉備や、出雲、筑紫からも人は集まってきただろうし、多くの影響(祭祀、葬祭儀礼、古墳などに)を受けているが、ここで首長となるような勢力にはならなかったとする。ただ、特定の勢力が王権を最初から独占したのではなく、初期には大和・河内あたりの地域勢力の首長間のいわば持ち回りのような形であったのではないかと推測している。その証拠が首長墳、盟主墳である古墳群が盆地のあちこちに点在していること。大和古墳群、柳本古墳群、佐紀古墳群、馬見古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群などである。盟主墳が次々場所を変えて造営された背景はこれだという。これまでの、三輪王朝、葛城王朝、河内王朝などが盆地内、河内で王朝交代を繰り広げたという説を否定するものだ。いずれにせよこうした狭い盆地内での各集落同士の寄り合いや談合の中から王や、さらにその上に立つ大王が生まれてきたのだろうということだ。しかし、なぜそのような盆地内の在地勢力が、列島他地域に優越し、全体を統治する勢力に育っていったのか。依然としてまだモヤモヤが払拭できない。やはり「王権の成立」には「大陸との通交」という東アジア的な視点に基づく地政学的な研究を無視し得ないのではないだろうか。その視点で考えると大陸の影響を早くから受けてきた西日本の先進地域(筑紫、出雲、吉備などの)と無関係に、急に奈良盆地の大和が高度先進地域に発展したとは考えにくい気もする。奈良盆地に移住してきた勢力や外来勢力の存在が鍵になっていることを否定はできないのではないか。

2)次に、なぜ奈良盆地なのか?これは謎だという。王都は交通の便が良い大阪湾岸、河内でも良かったはずだと。筑紫、出雲、吉備などの西日本との緩やかな首長連合が成立したので、次は東の国や首長との連合を目指した初期ヤマト王権が、西の瀬戸内海と東の伊勢、尾張との交通の要衝であった三輪山麓に交易拠点を設けたのではないかという仮説を示している。纒向は瀬戸内海と、大和川水系を利用した水上交通を運河で結ぶ交易の結節点という遺跡である。全国からの土器が出土していることから、ここが開かれた初期の「都城」であったらしい。しかし100年でその姿を消している。かといって盆地の外へ「都城」が移転したのではなく、盆地内で拠点が移動している(奈良盆地を出て北の山城国に移転するのは794年のこと)。なぜ、そんな箱庭のような狭い盆地の中で主導権争いに終止していたのであろうか。それが日本列島全体に大きな影響を与え得た理由は何なのか。1〜3世紀のチクシ王権(奴国、伊都国、邪馬台国)の有り様を見ていると、大陸の強い影響下にあり、王の統治権威や権力基盤、鉄資源を主とする経済的な優位性も、中華王朝の朝貢冊封体制下(東アジア世界的な秩序)にあったことを考えると、外界から適度に隔絶された奈良盆地に成立したヤマト王権の統治権威、権力、経済基盤がこうした東アジア世界的秩序と無縁で、大陸の影響なしに確立できたとは考えにくいのではないか。それともチクシ王権とは異なる求心力があったのだろうか。

3)そういう視点からも、3世紀に江南の呉との通交があったのではと推測するのであるが、呉との通交の証拠で確実なものはまだ見つかっていない。中国側の文献史料(三国志呉書のような)が逸失している以上、何らかの物証が日本側で発見されることが期待される。特に大陸との朝貢冊封関係や通交を示唆するような印綬や「威信財」が盟主墳墓から出てこれば有力な証拠となる。しかし、多くの盟主墓と考えられる前方後円墳が陵墓指定されているため発掘調査ができないから調査しようがないという。またそれ以外の古墳(実は未指定の大王墓があると考えられている)の多くが盗掘されており副葬品の出土が少ないという。他の墳墓でいくつかの呉鏡が見つかっているし、呉の工人が存在していたらしい痕跡(仿製鏡の工房など)もある。しかし、そもそも奈良盆地の3世紀以前の遺跡から王権の存在や大陸との通交を推測させるような遺物・威信材は見受かっていない(前述の坂靖氏の「ヤマト王権の古代学」)。初期ヤマト王権と呉王朝との通交(朝貢冊封関係)はまだ推測の域を出ないのだはないかと感じる。やはりここでもチクシ王権(奴国/伊都国/邪馬台国)がその統治権威を中国王朝との朝貢冊封関係によって得ていたこと、その証拠としての金印や、王墓から大陸由来の鏡、剣、玉などの威信財が大量に出土していることを鑑みると、今後の考古学的発見に期待するものの、初期ヤマト王権と中国王朝との通交の痕跡が乏しい感は否めない。そうなると、再び3世紀の初期ヤマト王権の統治権威の基盤はなんだったのだろうという疑問が湧いてくる。

4)そこで古墳の持つ意味合いが重要になってくる。大和盆地に発生した我が国に特有の前方後円墳は、ヤマト王権を特色づける重要な考古学資料であるが、単なる首長の墳墓(盟主墳)ではなく、葬送儀礼や前方部は祭祀や即位儀礼の場であり、しかも葺石で覆われた建造物自体が権威/権力を表象する巨大なモニュメントとしての意味合いがある。これが国内に置ける政治的な同盟、同祖同族関係の証しとして全国に広がっていった。すなわちヤマト王権から統治権威を地方に与える意味を持っていたと考えられている。しかし、箸墓古墳や渋谷向山古墳、行燈山古墳、メスリ山古墳などの初期の大型前方後円墳の築造が、本当に3世紀初頭〜中期(魏書に言う邪馬台国/卑弥呼の時代)なのか?前述のように多くの考古学者は炭素年代測定法という「科学的計測」によっているので、間違いないと信じているようだが、サンプリングによる計測精度に誤差は全くないのか?また、その時代の列島内の先進地域であったチクシ倭国の農耕環濠集落(戦闘/防御を意識した集落)形態の国の姿(吉野ヶ里の姿に象徴される)と、ヤマト倭国の都市(防御施設がなく運河、河川で外部と繋がっている)形態を有する国の姿(纒向に象徴される)とが、全く同時代とはどうも考えにくい。前方後円墳のような巨大な構造物も弥生の香りを残す環濠集落(例えば唐子・鍵遺跡のような)と同時代的に併存するものではないのではないか。これらの大型前方後円墳は早くとも3世紀末期のものではないかと推測する。4世紀に入ると中国は魏や呉の末裔である晋が滅び、五胡十六国の混乱の時代に移ってゆくことから、周辺国(いわゆる蛮夷の国々)は中国王朝との朝貢冊封関係が揺らぐ事態となる。そうしたなかで倭国では新しい統治権威の確立、新秩序の模索がはじまっていたとも考えられる(魏王朝と晋王朝という統治権威の後ろ盾を失ったチクシ倭国の邪馬台国は衰退していったのだろう)。大和の古墳はその象徴的な遺跡であろう。そういう意味では古墳は4世紀以降に普及していったモニュメントであると考えるのが妥当ではないのか。なお古墳は大陸からの影響は考えにくい倭国独特の施設だ。吉備の特殊基台、出雲の四隅突出型古墳。筑紫の威信財副葬形式などが集合してできたと考えられる。なぜこのような墳墓形態が生まれたのか。どうしてこれが奈良盆地発の統治権威や同祖/同族のシンボルとして列島統合に用いられたのか。じつはあまり分かっていないことの方が多い。最近、韓国で前方後円墳が見つかったと話題になっており、韓国の考古学会では、やはり前方後円墳は半島由来ではないか、と発掘調査を進めた。しかし、結局は6世紀以降の築造であり、むしろ倭人の半島進出に伴う倭系有力者の墳墓であることがわかってきている。だが、このような巨大な施設や土木工事技術が、列島内で、さらにいえば奈良盆地や河内で独自に発展したものなのか明らかではない。何らかの渡来系の集団の技術ノウハウが伝わっているのではないだろうかとも考える。ちなみにチクシ王権の地、北部九州には、3世紀時点では大和で見られるような大型前方後円墳は見られず、大陸由来と思われる墳丘墓が中心である。このように大規模古墳がヤマト王権を特色づける統治権威のモニュメントであることは疑いないが、その全容はまだまだ解明されていないと感じる。

残念ながら、今回はこれら全ての謎の解明には至らなかった。やはり「初期ヤマト王権」のプロファイリングには未知なる部分があまりにも多い。明治維新後の「天皇制」や「国体」につながるルーツの歴史であり、戦後は皇国史観が廃されたとはいえ、日本の起源に関する歴史であるが故に、さまざまな憶測や思惑も絡む。そして、まだまだ限られた文献史料、考古学的資料に依拠する議論であることが謎の解明に立ちはだかっている。新しい発見とこれからの更なる研究成果と斬新な仮説が待たれる。まあわかってしまうとこれ以上探求する興味も失せてしまって、やることがなくなるのでいけない。幸いなことに、これからも「時空トラベル」は終わることはなさそうだ。


三輪山山麓に広がる初期ヤマト王権の所在地、纒向遺跡
箸墓、他の前方後円墳群
(桜井市纒向学習センターHPより)


(掲載した写真は、2012年三輪山、箸墓古墳、纒向遺跡発掘現場、龍王山を訪ねた時のもの。撮影機材:Nikon D800E + Nikkor 24-70, 70-200)




「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」シリーズ、過去のブログ

2020年4月15日:第一弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/04/blog-post_15.html

2020年4月27日:第二弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/04/blog-post_27.html

2020年5月8日:第三弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

2020年5月26日:第四弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/05/blog-post_26.html

2020年7月1日:第五弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/06/blog-post_30.html

2020年12月26日:プレゼンテーション資料 
                                                                                                                                                                                https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/12/blog-post_26.html










2020年12月26日土曜日

「邪馬臺国はどこにあったのか?」〜「邪馬臺国位置論争」にはどのような意義があるのか?〜 「49同期会プレゼンテーション資料」

 

12月19日に開催されたZoom「49同期会」において、表記のタイトルでプレゼンテーションの機会を与えていただきました。その時のパワーポイントスライドを掲載いたします。楽しく活発な意見交換をありがとうございました。答えは未だ見つからないものの、謎に迫る新たな論点もいくつか明らかになり議論を深化させることが出来ました。なお、言うまでもなくここで述べられている見解は筆者「時空トラベラー」の私的なものであり、いかなる団体や組織の見解を代表するものではありません。





2020年7月1日水曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか(第五弾)〜考古学はどのように語っているのか?〜

三輪山
この山麓に「おおやまと」という「クニ」が生まれた

2009年三輪山山麓で古代居館跡が発見された
纒向遺跡である

箸墓古墳
「おおやまと」の初代の王の墳墓だと考えられる
三輪山を背景に


これまでは中国の史書、そして日本の文献史料「古事記」と「日本書紀」を読み解き、文献史学的アプローチから「初期ヤマト王権」をプロファイリングしてきた。そして考古学的アプローチからその姿をあきらかにすることができないものかと考えていたところに、興味深い本を見つけた。坂靖氏による「ヤマト王権の古代学」(「おおやまと」の王から倭国の王へ」)2020年1月新泉社刊、だ。氏は奈良県立橿原考古学研究所で長く県内の発掘調査に携わってきた考古学研究者である


「俯瞰的」研究アプローチ

著者は橿原考古学研究所による大和盆地各地の長年の、かつ広範な考古学的発掘調査の成果をもとに、北部九州や近畿地方の発掘成果をも広く取り入れて、かつ中国の史書、日本書紀、古事記にも言及し「ヤマト王権」の出自、発展の過程を描いている。この多様なソースにアクセスしながら「俯瞰的」に見ると言う視座が重要だと思う。文献史学研究者はともすれば、自分の研究領域に関する資料にあまりにも固執して全体を見ない傾向に陥りがちであるように感じる。一方の、考古学研究者はさらにその傾向が強く、自分のテリトリーの地域や対象の成果物を中心に置き、そこから全体を判断しがちだ。こうしたアプローチの仕方、思考回路を断ち切って全体を「俯瞰」し、距離をとって客観視する。その中に専門領域の研究成果を位置付け、評価してみる。そう言う研究手法が大事だと思う。

本書は、奈良盆地という地理的範囲、考古学という研究領域を超えて「ヤマト王権」の実像に迫っている。結論から言うと、まずは邪馬台国は北部九州にあり、近畿に発生したヤマト王権とは別のものであるとする。この時代は日本列島にはいくつかの地方勢力が分立した状態であり、いまだ統一的な政治勢力や「王権」は存在しなかったと。その上で「ヤマト王権」の出自を奈良盆地の三輪山山麓の「おおやまと」地域の首長であるとしている。以前考察したような「チクシ勢力のヤマトへの移動」という仮説を支持してはいない。土着の勢力が発展したとしている。これまでも述べてきたように、邪馬台国北部九州説については異論はないので、その論考をここで改めて紹介しないが、著者も相変わらず邪馬台国近畿説が多数説であると注釈している。邪馬台国がヤマトにはなかったことをこれだけ考古学的にも証拠立てて説明し、その論旨は極めて明確であるにもかかわらず、いまだに近畿説が優勢であるといわざるを得ない事情が何かあるのだろうか。地元の(所属していた)橿原考古学研究所的立場が「近畿説を裏付けるための研究」なのではないか?つい余計な邪推をしてみたくなる。


邪馬台国時代(3世紀前半)のヤマトの姿

3世紀前半(弥生後期)に、中国王朝と通交(朝貢/冊封)をもった勢力は大和にはなかったとする。北部九州に多く出土する楽浪郡系の土器も大和盆地には検出されない。この頃奈良盆地には巨大な環濠集落遺跡、唐古・鍵遺跡が見つかっているが、弥生時代を代表する大きな集落であることは否定しないものの農耕生産の地域集落であり、「国」と呼べるような政治勢力ではない。また同時期に「おおやまと」地域に纏向をはじめとする大小いくつかの地域勢力としての「クニ」が認められるし、その首長である「オウ」の存在が認められる。その墳墓が大和古墳群の大型古墳であるとする。しかし、その遺構(纒向遺跡)の規模は(古墳は巨大であるが)、同時代(庄内式土器期)の北部九州チクシの奴国王都とされる須玖・岡本遺跡や比恵・那珂遺跡、伊都国王都と考えられる三雲南小路遺跡や井原遺跡、あるいは、河内の中田遺跡群や加美・久宝寺遺跡群などに比べても規模の小さいものである。また朝貢/冊封による統治権の認証の証拠たる「威信材」に至っては、北部九州にのみ検出されており、箸墓古墳や行燈山古墳、渋谷向谷古墳などの大型古墳が並ぶ「おおやまと」古墳群においても見つかっていない(宮内庁が陵墓指定している古墳の調査はできないが)。すなわち政治勢力としての「国」、その統治者である「王」の存在の証拠は大和盆地には見つかっていないことになる。むろん「邪馬台国女王卑弥呼」の存在を示す「しるし」も見つかっていない。

奈良盆地の三輪山の麓に広がる「おおやまと」地域に発生した地域勢力「クニ」が発展して国になり、その首長「オウ」が「王」になって勢力を拡大していくのだが、この時点(3世紀前半)では北部九州チクシ倭国に優越する「国」の存在はヤマトには認められない。しかし、この後その「クニ」が、3世紀後半〜4世紀には「国」となり、古墳時代を生み出し、5世紀の雄略大王(倭王武)の時代にはに列島各地に勢力を伸ばし朝鮮半島にも進出、6世紀継体大王の時代に、のちの飛鳥朝の天皇制という血縁による王統/皇統を形成していった。「ヤマト王権」の血縁系譜が始まったのは6世紀以降と言ってよい。著者は「ヤマト王権」の出自は奈良盆地の三輪山麓「おおやまと」であるとする。ではどのように「おおやまと」の地域首長「オウ」は政治的集団の「王」になっていったのか?


「オウ」と「王」は何が違うのか?

著者は、先に引用したように政治的権力を有する「王」と、その前段階の地域首長「オウ」、政治的まとまりである「国」と、その前段階の地域集団「クニ」とを区別して使っている。これは発展段階的な区分で使用しているのだろうと考えられる。しかし、「オウ」と「王」の違いは、その政治的な統治権威が誰に認証されているかの違いである。「オウ」は地域「クニ」の開発(農地の拡大、水路の確保)に実力を発揮し、地域「クニ」の民に押された「むらおさ」的な首長であるが、「王」はより上位の権威によってその「王」たる「国」の統治権威を与えられなくてはならない。その権威の象徴としての(上位権威から下賜された)印綬、鉄剣や玉や銅鏡といった威信材を保有している必要がある。こういう観点から北部九州チクシ王権の「王」たち(奴国王、伊都国王、邪馬台国女王)は、中国王朝の皇帝から統治権威を認証された(朝貢/冊封体制と言う形で)。その証左として印綬や銅鏡、鉄剣などを下賜され、それらが遺跡や墳墓からは検出されていることで彼らが「王」であったことが「証明」されている。

それに対しヤマト王権の「オウ」たちは、誰に(何によって)その統治権威を認証されて「王」になったのだろうか。少なくとも3世紀前半(弥生最晩期)、庄内式土器期、すなわち邪馬台国時代には、大和盆地からは、中国皇帝の威信材は全く出土していないことが明らかになっているわけであるから、この頃のヤマトの「オウ」たちは中国皇帝に朝貢/冊封して「王」となったわけではないということになる。するとだれがヤマトの「オウ」を「王」にしたのか?著者はこの点に関しては触れていない。考古学者としての推測を排した客観的、科学的姿勢なのでああろう。

しかしこの点は重要だ。すなわちヤマトの「オウ」は、自力で(いくつかの有力首長との同盟関係を得て)統治権威を周辺の勢力(と言ってもせいぜい最初は奈良盆地内)に認めさせていったのであろう。まずは大和盆地内、そして河内、摂津、和泉など畿内、さらにはその周辺に勢力を拡大してゆき、政治的な権威/権力を地方の首長たちに認めさせていった。しかしその場合、その権威/権力の源泉は、中国王朝からの冊封という外的権威でないとしたら、稲作の生産力や富の蓄積、鉄などの資源であったのか、それに伴う地域の祭祀を執り行う権威であったのか。そこを明らかにする必要がある。その統治権威のシンボルが3世紀後半に始まった大型古墳であったのだろう。こうした葬送儀礼にまつわる大型の建造物築造の背後にあるものはなんだったのか。考古学的な年代表現で言えば、庄内式土器期の次の時代の布留式土器期のこととなる。4世紀になると中国の文献史料に倭国との通交の記録が出てこないいわゆる「空白の4世紀」となる。これは中国王朝の混乱(五胡十六国)が主因であり中華世界の権威、朝貢/冊封体制が混乱したせいであろうが、一方で倭国側にも政治的な混乱があったことが考えられる。すなわち中国の朝貢/冊封体制下にあったチクシ倭国が(中国王朝の混乱で)衰退し、ヤマトが倭国の中心に成長した世紀であったと考えられる。このころのヤマトでは大型古墳が築造されるが、先述のように大陸との通交を示すような(あるいは威信材のような)副葬品は出ていない。おそらく中華王朝の権威とは独立した倭国支配の「統治権威」が生み出されていったのだろう。その後、5世紀の「倭の五王」が中国の南朝に朝鮮半島の軍事的支配権などを求めて朝貢しているが、必ずしも倭国内の統治権威の認証を求めたわけではない。その時の上表文で倭王武は父祖の時代から倭国内の勢力を討伐し(おそらくは同盟し)、平定していった様子を述べている。「そでい甲冑を貫き山川を跋渉し寧所にいとまあらず」である。すなわちチクシの倭王たちのように中国皇帝に倭国の統治権威認証を求めず、自力で支配権を広げていって「倭王」になったと言っている。やがてこの後は、徐々に中国皇帝に朝貢して冊封を求める統治権威認証の獲得をやめ、倭王自身が「統治権威」の源泉となり、地方の豪族や首長にその地域の統治を認める、倭王武(雄略大王)の「治天下大王」宣言と大王が官職を与える「官職制」を打ち立てていった様子が見て取れる(稲荷山古墳の鉄剣、江田船山古墳の鉄剣に刻まれた銘文)。6世紀の継体大王の時期になると、血統による王統の継承、世襲制という観念が取り入れられ(それまでは血統による世襲や、皇統などといった概念は存在していなかった)、その権威を証明するための皇祖神創設、祭祀、神話の体系化、へと進み、さらに7世紀末から8世初頭ににかけて中国風の律令国家建設へと進んでいったと考えられる。その反映が、すなわち正史である「日本書紀」や天皇の記である「古事記」であり、その記述に、そもそもヤマト王権と繋がりのない朝貢/冊封国家、チクシの邪馬台国や女王卑弥呼の記述を避けることにつながっていったと考える。


「おおやまと」の「オウ」はいかにして「ヤマト王権」になったのか?

著者は「ヤマト王権」は奈良盆地の三輪山の麓の「おおやまと」地域に発生して成長し、勢力を拡大していった王権であるという。しかし、3世紀のチクシ王権の時代から、次のヤマト王権への移行過程は依然として見えてこない。なぜ、そのような奈良盆地の片隅にいた「おおやまと」地域勢力「クニ」が倭国を支配する「国」に発展していったのか。「オウ」が「王」になり、さらに「大王」になっていったのか。歴史学では「空白の4世紀」と言われる部分だが、考古学的にもこの間の事情を物語る遺物は少ない。その中で、4世紀後半に百済王から倭王に贈られたと言う「七支刀」が数少ないヤマトに残された有力な遺物である。これは倭国(おそらく初期のヤマト王権)が朝鮮半島へ進出した証であると考えられている。と同時に、この頃はすでにヤマト王権がチクシ王権に変わって倭国の有力政権であると、朝鮮三国(とりわけ百済)に認識されていた証拠でもある。あるいは、東晋、百済、ヤマトという、それぞれの地域王権が連携し、分裂した東アジア情勢を同盟で乗り切ろうとした証とも言える。しかし、チクシ倭国の邪馬台国の女王壱与の晋への遣使から100年余りの時間経過の間に何が起きたのか。この頃のヤマトに大陸との交流を物語る決定的な考古学的な発見は多くはない。しかし、ヤマト王権が大陸との通交なしに発展したとも考えにくい。黒塚古墳などの初期古墳から見つかる三角縁神獣鏡などの中国の影響を受けた鏡の出土はそれが舶載鏡ではないとしても、その(コピー)製造(量産)をヤマトのどこかで行っていた可能性が強い。また「おおやまと」地域の大型古墳の築造に大陸の影響は全くなかったのであろうか?著者は「ヤマト王権」は邪馬台国の持つ中国正史に記述された外交関係とは別の大陸(中国だけでなく朝鮮半島諸国)との外交関係や交流を持っていただろうと言う。ただ、大陸から離れた奈良盆地に発生した土着の地域勢力が、いかにして勢力を伸ばし、列島全体をを支配下に置き、さらに朝鮮半島まで歩みを伸ばすことができたのか。「おおやまと」の勢力は大陸との交流をどのように行っていたのか。意外にもこうしたことが未解明である。すなわち4世紀に朝鮮半島の3国間の紛争に百済に誘われて出兵しているが(好太王碑文)、この頃の倭国の支配権を誰が握っていたのか?ヤマトとチクシの関係はどのようなものであったのか依然として謎である。「空白の4世紀」と言われる所以である。おそらくこの間に倭国全体の支配力に関して、チクシ王権からヤマト王権への実力の移行があったのであろう。チクシ王権は中国王朝の混乱により統治権威の輝きは失われていて、伸びてきたヤマト王権の「実力」の前に、徐々に衰退し、地方勢力(依然として大陸に近いと言う地の利を生かして優位性を保ってはいただろうが)になっていったのだろう。と同時にヤマト王権は、混乱の中国王朝に変わって朝鮮半島諸国(特に百済や伽耶)との通交関係(朝貢・冊封関係とは別の)を深めてゆき、そして列島内の勢力を拡大していったのだろう。すなわち中国王朝との「朝貢」「冊封」体制からの離脱が始まり、いわば「自力」統治権威認証と権力の集中が始まったと考える事ができるのではないか。


しめくくり

筆者は最後にこう述べて締めくくっている。「ヤマト王権の時代とは何かと問われたとき、「おおやまと」の王として出発したヤマト王権の王が、倭国の王としての国家体制や秩序を徐々に形成し、6世紀にそれを完成させた時代であると結論づけることができよう。」(引用)。著者の論考は、私の持論を考古学的な観点から実証し、いくつかの点を支持するものであるので大いに読んでいて納得であった。しかし、結局はなぜ、どのように「おおやまと」の地域首長「オウ」が「王」となり、さらに「大王」として他の有力首長(豪族/氏族)を抑え(同盟し)倭國を支配下におき、朝鮮半島に進出しうる(支配したとは考えないが)統治権威と権力を得ていったのか。その力の源泉は何だったのか。著者が指摘するような生産力の拡大と強さだけでそうなったのか。それに加える力の源泉が何かあったのか(外部からのインパクトなど)。一方で、多くの考古学的な証拠が見つかっていないものの大陸との通交なしには考えられないとも指摘している。「おおやまと」土着の首長「オウ」が倭国の「大王」になってゆくその過程で、なにか大きなパラダイム変換(外来勢力のヤマト侵入など)はなかったのだろうか?土着の勢力がリニアに列島内に勢力を伸ばしていったとすることには少し無理があるように思う。例えば3世紀に始まる古墳時代に、何か大きな大陸との革命的な人的通交があったのではないか。巨大古墳を築造する技術はヤマト盆地に自生したものなのか?大陸の周辺部に位置する列島国家という地政学的な立ち位置から、倭国/日本は常に大陸との関係性の中で生きてきた。東アジアの政治的、文化的影響を免れることなく生成され発展してきた。「おおやまと」の「オウ」「王」も例外ではないであろう。大陸との通交による対外的要因でなく6世紀までに列島内に勢力を伸ばしていったのだとすれば、それは何なのだったのか?あるいは大陸と通交していたとすればどことであったのか(三国志の時代の呉か?五胡十六国時代の朝鮮半島の役割はいかなるものであったのか)。大陸に近いチクシ勢力との関係は全くなかったのか。その答えに肉薄できなかったのが残念というほかない。もっともこれは考古学的アプローチだけでは解明できないだろう。文献史学、歴史学領域研究との協業が不可欠である。


唐古・鍵遺跡
弥生後期の環濠集落跡
箸墓古墳遠景

箸墓古墳
黒塚古墳頂上部からの展望




纏向居館跡発掘現場
2009年
現在は埋め戻されて史跡公園になているようだ

龍王山山頂から展望する「おおやまと」地域
左に大和三山と箸墓古墳、中央部に行燈山古墳、右に渋谷向山古墳
纒向遺跡はほぼ中央部に

(参考書籍)
ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ-坂-靖




2020年5月26日火曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第四弾) 〜日本書紀は何を語っているのか?〜


河内と大和の間にそびえる生駒山
カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)は生駒山麓の河内の草香江から大和に攻め入ろうとしたが、ニギハヤヒ(饒速日)の支配下にあった土豪ナガスネヒコ(長髄彦)の抵抗を受け敗退する。
ちなみに現在の東大阪のあたり(画面左)は当時は「河内湾」ないしは「河内湖」という汽水湖であった。
(伊丹空港への着陸ルート直下に見える)

金の鵄に導かれてナガスネヒコを破り、カムヤマトイワレヒコは大和に入った




古事記と日本書紀の違いは?

日本に残る最古の文字で表された歴史資料と言われる古事記と日本書紀は、両方ともほぼ同時期、8世紀初期に成立した。古事記、日本書紀ともに681年に天武天皇の命により編纂開始。古事記は途中の中断を経て711年元明天皇に献上された。日本書記は720年に元正天皇に献上された。両方を合わせて記紀と呼ばれることが多いが、その成立の経緯、編纂の意図、また内容には違いがある。また、日本書紀は平安時代以降も朝廷で基礎的な教科書として定期的に読み習わされ、天皇始め宮廷官人の基礎的な素養として身につけておくべき必須科目となった。紫式部の「源氏物語」に関する一条天皇の「作者は日本書紀の知識がある」とのコメントにその一端が垣間見え、紫式部は「日本紀の女御」と呼称された。一方の古事記は、その後あまり日の目を見ることは少なく、ようやく江戸時代になって本居宣長が「古事記伝」で紹介してから急速に注目を浴びることになる。以降。古事記は国学の基礎史料で、儒教や仏教などの外来宗教や思想を排した日本古来の「やまとごころ」の定本あるいは神道の聖典とみなされ、やがては幕末維新の「尊皇攘夷思想」「王政復古」「皇国史観」へとつながっていった。この記紀の日本史における扱いの違いの背景、理由ははっきりしていないが、日本書紀(日本紀)は藤原不比等が編纂の中心にいたとされ(中臣鎌足の功績など藤原氏の朝廷における事績が述べられている)、長らく藤原氏中心の摂関政治における「定本」の位置にあった。それに対し古事記はいわば日本書紀の副読本のような扱いで、やがて忘れられてしまったのかもしれない。このように古事記は江戸時代の国学思想勃興期に宣長によって再発見され、やがて神道、皇国史観のバイブルのような役割を持たされることになった。そうした成立経緯と、その後の位置付け、そうした時代背景を考慮しながら読んでゆく必要がある。

古事記

(目的)
国内向けに天皇支配の正当性を主として氏族、豪族向けに述べた天皇の私史。
(使用言語)
漢字を用いた和語で書かれた。
(内容)
神話部分が大きなウェートを占める。天皇祭祀の由来の解説と氏族の系譜との関わりが詳細に語られている。特に出雲神話に多くの紙幅を費やしている。
中国を意識しない(朝鮮半島は天皇の支配下にあるという認識のみ)内容。
(構成)
天地開闢〜33代推古天皇まで全3巻
(編者)
稗田阿礼の誦習、太安万侶の筆記、

日本書紀:
(目的)
中国王朝を強く意識した対外向けの「日本」の正史。いわば公式文書。
(使用言語)
漢文で書かれた。編年体で記述され中国の歴史書の形を踏襲している。
(内容)
祭祀の起源を語る神話部分は少なく、神代紀においては高天原の世界が語られず、また出雲神話の言及もないなど古事記とは大きく異なる。神武天皇の東征伝承から人代紀が始まる点は古事記と同じ。また「一書に曰く」として別伝承を補足的に紹介している構成がユニークで中国の史書にもその例がない。なぜこのような補足記事を入れたのかわかっていないが、中国、朝鮮の史料を参照し引用したり、氏族、豪族の伝承に配意した可能性がある。
(構成)
天地開闢〜41代持統天皇まで全30巻系図一巻。
(編者)
川島皇子ほか六人の皇親、中臣連ら六人の官人が命ぜられて編纂開始、天武天皇の皇子、舎人親王に引き継がれて完成。しかし、書紀には序文がないため正確には記述に携わった人物や編者が誰なのかはっきりしていない。また巻によって漢文の表記が統一されていないなど、複数の書き手で分担して執筆した可能性が高い。最近の研究では和風漢文(倭人が書いた)で記述された部分(神代など)があり、正しい漢文(漢人などが書いた)で記述されているところ(歴代天皇の事績)とその差異が明確に読み取れることから、主に渡来人が執筆に関わり、その後に倭人が神代部分を中心に加筆、修正したと考えられている。
日本書紀編纂には藤原不比等(大宝律令制定に関わった)の関与が大きいと考えられている。したがって、有力氏族や廷臣に関する記述の中でも中臣鎌足の功績を大きく描いて見せたと考えられている。


「神武東征」をどう描いてるか?

関心事の「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」に関わるエピソードとしての「神武東征」伝承は日本書紀ではどのように記述されているのか。筑紫の日向の高千穂に降臨したニニギの子孫、カムヤマトイワレヒコ(神武)が筑紫を発って大和に入り、橿原宮で初代天皇(神武天皇)に即位したとする点は古事記と共通する。また大和に入る時のナガスネヒコ(長髄彦)、ニギハヤヒ(饒速日)との戦いの伝承についてもほぼ同様である。カムヤマトイワレヒコが大和に入ろうとした時に、すでに大和には、もう一人の天孫族、ニギハヤヒ:饒速日(物部氏の祖神)が、地元の土豪ナガスネヒコ(登美の長髄彦)の妹を娶り一族を従えて支配していたという。カムヤマトイワレヒコは最初、登美の草香江(現在の東大阪の生駒山麓草香江)からの大和入りを試みたが、これに抵抗するナガスネヒコ(長髄彦)との戦いに苦戦。ついにカムヤマトイワレヒコは草香江の戦いに負け、兄の五瀬命を失う。太陽に向かって東に攻めたのが良くなかったとして、迂回して熊野に周り、苦心しながらそこから吉野、宇陀を経由して地元の勢力(土蜘やヱウカシ、オトウカシ)を退治し、国栖や八咫の烏や金鵄の助けで、ついにはナガスネヒコを破り大和入りしたという話だ。

ただ古事記と少し内容が異なっている。古事記では、ニニギの筑紫の日向への降臨を知ったニギハヤヒはそれを追って地上に降臨してきたと説明している。ただし筑紫ではなく河内に天磐舟(あめのいわふね)に乗り十種の神器を携えて降臨し、カムヤマトイワレヒコより先に大和入りして待っていたとする。そして進軍してきたカムヤマトイワレヒコ(神武)を出迎え、彼を正当な天神の子孫として崇めて服属したとする。いわば従属関係にあることを語っている。一方、日本書紀ではニギハヤヒはニニギの降臨とは全く無関係に河内に降臨したとする。ニニギを追って来たのではなく、河内、大和に先住している天神の子であるとしている。ナガスネヒコがカムヤマトイワレヒコに「自分が仕えている天神の子ニギハヤヒの他に天神の子がいるのか?」と問い、カムヤマトイワレヒコは「天神の子は多くいる」と答えている。すなわち天孫降臨はニニギだけではない、有力な豪族の祖神も天から降臨した神の子孫であるという認識が述べられている。ただそのなかで最も正当な天神の子がカムヤマトイワレヒコであり、それをニギハヤヒも認め服属した。いわば先住者であるが並存関係にあったものが服属したとする。また、日本書紀ではカムヤマトイワレヒコに抵抗したナガスネヒコは、その支配者であるはずの天神の子ニギハヤヒによって殺されたとされている。こうして服属の証としたのだろう。

このように古事記では物部氏の祖神であるニギハヤヒは、神武天皇の祖神であるニニギを追って(あたかも随伴するように)河内に降臨し、大和に先回りしてカムヤマトイワレヒコ(神武)を迎えたかのような筋立てになっているが、日本書紀では降臨の後先を語っていない。その理由は先述のような各有力豪族の、自らも天孫族の子孫であるという伝承、多神教的神話(八百万の神々)の存在を認める立場をとったからだろう。しかしそれにしても、古事記では出雲のオオクニヌシ(大国主)の「国譲り」で「芦原中つ国」はアマテラス(天照)の「天津国」の支配するところとなり、筑紫にニニギが降臨して、その子孫カムヤマトイワレヒコ(神武)が東征して大和に入り日本を治めたとされ(日本書紀にはこの「出雲神話」のストーリーが出てこない)、その際有力豪族の祖神(大伴氏など)はニニギに随伴して高天原から筑紫に降臨してきたとされているのに、物部氏の祖神、ニギハヤヒだけはニニギとは別に河内に降臨したとされている。しかもカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)に先立って大和を支配していたとされている。なぜそういったエピソードが必要であったのか。おそらく地元(河内、大和)にニギハヤヒ降臨神話が根強く残って語りつがれていたため無視できなかったのだろう。すなわち物部氏の河内、大和における先住豪族としての存在を否定するにはあまりにも誰にとっても既知の伝承でありすぎた。したがって後から入ってきたカムヤマトイワレヒコが「正当な地上支配者」であることをニギハヤヒが認め(服属し)、先住の物部氏(ニギハヤヒの子孫)を王権(天皇家)を支える有力豪族として記紀に記述することにした。これこそ「ニギハヤヒ(物部氏)による「国譲り」であったのかもしれない。古事記においても日本書紀においても、天皇の祖神(皇祖神)アマテラスを頂点とした各地の豪族、氏族の祖神の序列化とその記述には並々ならぬ苦労があったであろう様子がよくわかる一文である。


ヤマト王権成立の何を語っているのか?

これらの記紀双方の記述(神武天皇の大和入り)の背景にある事情を整理すると、なんらかの史実が浮き出てこないか、そこには初期ヤマト王権成立時の、大和盆地を巡る地域情勢が透けて見えるのではないだろうか。ニニギが「良き地」として降臨してきた筑紫をなぜその子孫は捨てなければならなかったのか。そして大陸の文明から遠く離れ、山に囲まれた「辺境の地」大和盆地をなぜ王権の地「美しき地」としたのか。この間の事情は古事記にも日本書紀にも語られておらず、東征、大和入りが安定した国を治めるための予定の行動であったかのようなストーリーになっている。おそらく記紀の編者としては中国王朝の朝貢/冊封体制に入っていた筑紫倭国(邪馬台国や、奴国、伊都国のような)とは異なる大和倭国、「天皇が支配する日本」への移行を演出して見せたのではないか。あるいは実際に筑紫の一勢力が「倭国大乱」の後に、筑紫倭国連合(邪馬台国連合)を抜けて東へ移っていった出来事の投影であったのかもしれない。しかし、大和入りの模様は比較的詳細に描かれている。大和には(出雲や吉備のようなまとまった有力勢力/国はないにしても)いくつかの先住の土着勢力がいた。その多くは土蜘(つちぐも)と呼ばれる山の民や土豪や、ヱウカシ、オトウカシなどという首領で、外来勢力から自分たちのテリトリーを守ろうと抵抗した。また、地元の神が熊に化身して「皇軍」を眠らせたりというエピソードに投影されるような数々の抵抗勢力の存在があった。その一方で「八咫の烏」や、吉野の国栖部族や、「金鵄」が「皇軍」の進軍を助けたりという、在地の同調勢力の存在を伺わせるエピソードも盛り込まれている。中でも最も強力な抵抗勢力は、先述のトミノナガスネヒコ(登美の長髄彦)である。しかも、彼は単なる土豪ではなく初期ヤマト王権成立以前に河内から大和へ移動してきた天孫族ニギハヤヒ(饒速日)と姻戚関係を結んで、その支配下にいるという。その子孫が物部氏であるとすることから、彼らがすでにある程度大和を実効支配していたのであろう。そこへ筑紫から入ってきた勢力が支配権を争った。このように大和がいまだ支配勢力が固まらない「無主の地」であったとはいえ、王権確立までには多くの地元抵抗勢力との戦いや服属、同盟の物語があったことを窺わせる。こうして大和、河内の地域勢力を固めた後、初期ヤマト王権はここを中心として「四道将軍」や「ヤマトタケル」などの「征討」伝承に象徴される全国統一事業へと進めていくこととなる。日本書紀にはそのような建国・国土統一ストーリーが描かれている。

これらのエピソードは太古の昔(西暦換算で紀元前660年頃)の伝説の天皇神武、すなわちカムヤマトイワレヒコの英雄伝として記述されているが、実際には3世紀後半の「初期ヤマト王権」成立の過程を描いたものであったと考えられる。すなわち初期ヤマト王権(三輪王朝)を開いたミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)の物語であり、彼こそ歴史上の初代天皇(初期ヤマト王権の大王)である。彼は筑紫から大和に入り、三輪纏向の地に宮を開くまでの苦難の王権成立過程を経験した。これを後世(記紀編纂時に)、先述のような王権の東征物語として潤色し、王権(のちに天皇)の権威を神格化するために、ミマキイリヒコイニエ(崇神)の10代前の神話の世界につながる伝説の(架空の)天皇、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)を創造し、その「神武東征伝承」に投影させた。そして先住勢力のニギハヤヒの服属をその「神武東征伝承」に盛り込み、その末裔である物部氏をヤマト王権を支える有力豪族として正史に記録した。ミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)のヤマト王権とと物部氏の間に同盟関係が成立したのであろう。またその一方で、記紀編纂の直前に起きた、記憶に新しい大海人皇子(天武天皇)の王権奪取闘争「壬申の乱」(674年)における大和入りのストーリーを重ね合わせることで、「伝説の神武東征」物語の「リアリティー」演出にも大きく貢献したことだろう。すなわち、神武天皇と崇神天皇と天武天皇の姿を重ね合わせた。日本書紀はこうした皇統の悠久の歴史と天神につながる神聖性を外に向かって語るために、「歴史上の初代天皇」崇神のはるか前に「伝統上の初代天皇」神武を置いた。

ちなみに神武以降、崇神までのいわゆる「欠史八代」の天皇は実在しないとされ、日本書紀においても事績が記録されていない。皇統の神秘性と悠久の歴史を誇り「万世一系」の天皇を伝説化するために神武から崇神までを埋めるために創作されたと考えられている。しかし、これらの八代の天皇は大和盆地西側の葛城あたりに存在の形跡があるとする研究者もある。ミマキイリヒコイニエ(崇神)の「三輪王朝」創設の前に「葛城王朝」があったとする説だ。古事記には武内宿禰の子孫、葛城襲津彦がこの辺りの有力豪族で、4〜5世紀初頭に「河内王朝」の歴代天皇の后を出して姻戚関係を持っていたとある。日本書紀にも記述があり、また雄略天皇が葛城の一言主神にひれ伏したとする伝承が記載されている。この葛城氏の祖先が「葛城王朝」の主で「欠史八代」の天皇だとする。しかし、この説は少数説で、その存在は証明されていない。この一帯に「欠史八代」の天皇の宮跡の比定地の石碑や「陵墓」とされる古墳がある。もちろんこれらは後世(江戸時代、明治以降)に山陵/陵墓比定などの事業に合わせて建てられたり治定されたものである。ただ物部氏が河内から大和に進出する時、さらにミマキイリヒコイニエ(崇神)が大和盆地に入り三輪山山麓に王権を開く時にも、大和盆地の西の葛城山麓に勢力を張っていた土豪、豪族がいて、王権の成立になんらかの関係があった可能性があるのかもしれない。今後の私の研究課題である。


日本書紀は歴史書か?

このように日本書紀は、古事記のような天皇支配/祭祀の神格化/優位性を、諸豪族に対して語る神話部分の記述に注力するよりは、対外的、特に当時の超大国中国の唐王朝を激しく意識した新生「日本」成立経緯と、天皇制(もう一つの皇帝)の神話に遡る悠久の歴史を宣言したものである。したがって歴史書としての形式は中国の史書の様式をよく学び、踏襲して「近代国家」として恥ずかしくないように漢文で(今で言えば国際公用語英語で)記述された格式高い「正史」である。しかし、歴史を研究し、学ぶものとしては、やはり徹底的な文献批判は不可欠で、間違っても記述されていることが全て史実であるように読むことはできない。古事記が国内向けの(豪族に対する)天皇の政治的宣言文書であり歴史書としての性格に疑義があるとされるが、その一方で日本書紀は国の正史であり、史実を記述した歴史書であると単純に見做すこともできない。やはり当時の東アジア情勢を反映した対外的な政治宣言の文書、国家アイデンティティーの表明の文書であるという理解で読み解いてゆくべきであろう。そういう視点から「初期ヤマト王権」はどこから来たのか?という問いに関していうと、古事記とは異なる日本書紀ならではの独自の歴史観が語られているかと言えば、必ずしもそうではない。むしろ神代紀における高天原神話や出雲神話に言及していないなど、初期ヤマト王権と国内の豪族との確執や祭祀に序列化などの国内事情は簡略化されている。一方で人代紀で蘇我宗家の滅亡、藤原鎌足の王権への貢献が喧伝されているなど、編纂に深く関わったとされる藤原不比等のいわば「藤原史観」が表明されている。天皇の起源(ヤマト王権の起源)についてより掘り下げて述べるべきは古事記の方であるので、それを補う記述を日本書紀に求めるのは少々無理かもしれない。一方で、日本書紀は古事記と同様、中国の歴代史書に記述されているような、中国王朝に朝貢し、冊封を受けてきた、かつての筑紫の奴国、伊都国、邪馬台国のような倭国、あるいは大和の「倭の五王」の時代の倭国のような国の姿を記述していない。ここでも太陽神の子孫である「天皇」が太古の昔に建国(中華世界とは全く独自に)した「日本」、そういういわば「小中華世界」観を描き出している。そして新国家「日本」は中国の朝貢冊封国家「倭」ではない、というメッセージが強く主張されている。そういう意味では日本書紀は歴史書ではあるが、「天皇」の「日本」の「紀」として編纂された対外的な政治的宣言書としての性格がより色濃く現れていると言える。しかも、その編纂の中心にいたのは藤原不比等であり、その父である鎌足の事績を強調するなど、政権内部における藤原氏の意思表明も多分に強調されている。


エピローグ

これまで、中国の史書の解読、考古学的研究成果、古事記、日本書紀の文献批判により「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」「どのように成立したのか?」を「妄想」してみたが、やはり未だ明快な答えは見つからない。限られた文献資料と「点」としての考古学的成果だけではカバーできない広大な歴史的空白をどのように埋めるか。さらに、なぜ大和の地が王権の地として選ばれたのか。カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)は、あるいはミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)はなぜ筑紫を出て大和に都したのか。我々は後世の歴史を知っているから大和が王権の地であることを所与のものとしてその理由を問わないが、考えてみると不思議だ。記紀においても、東に素晴らしいところがあるから「来るべくして来た」と言わんばかりの記述しかしていない。その文脈の中からこうした「遷移」背景(国際情勢、国内騒乱、気候変動、資源、農業生産活動、物流など)を読み解くことは難しい。古事記も日本書紀も国家成立と天皇制の起源語っているのだが、それを人間の理性の及ばない神話に求めている点で、歴史書として評価することはできない。別のソースを当たることでよりより「客観的」「俯瞰的」な目線で考察する必要があるだろう。こうしてヤマト王権の姿はいまだ、時空の遥か彼方に霞んだままである。限られた「証拠」だけでは科学的な合理性を持って答えを見つけ出せない以上、妄想力を駆使してその姿を追うしか無いだろう。新型コロナウィルス感染防止対策に伴う外出自粛「すごもり」を奇貨とした妄想旅は、緊急事態宣言解除を機に一応区切りとする。これからさらに新しい妄想旅、いや時空旅に繰り出していきたいと考えるところである。


寛文9年版
日本書紀




2016年10月18日火曜日

「初期ヤマト王権」とは何か? 彼らはどこから来たのか?

 
2009年秋の纒向遺跡発掘現場


 中華文明フロンティアの移動。

 10万年前にアフリカを出た人類は、アラビア半島からユーラシア大陸の西端に向かった一団と、ヒマラヤ山脈の北と南に分かれてユーラシア大陸の東へと進んだ一団とに分かれた。そして、その一部が3万年前には日本列島に移動して来た。主にシベリア樺太経由北方ルート、朝鮮半島ルート、琉球・奄美黒潮ルートから入り合流したとみられる。人類はグレートジャーニーの終点にたどり着いた。

 彼らは列島内に住み着き、のちに考古学者たちが「縄文時代」と呼ぶ1万年を超えると言われる長い長い安定した時代を形成する。最近再認識されているように、縄文人たち(原日本人)は長期にわたるサステーナブルな社会を形成し、縄文土器に象徴される豊かな文化を生み出した。一つの文化がこれほど継続したのは人類史上稀有なことであると。彼らは自然と共生し、漁ろうや狩猟と採集を基本とする生活を営んだ。初期には移動を旨とし、後期には徐々に定住(海岸べりや照葉樹林帯)し集落を形成するようになる(三内丸山遺跡。上野原遺跡など)。

 しかし、3000年ほど前、紀元前5〜10世紀頃、列島の原住民である縄文人にとって大きな生活・文化的変化を伴うパラダイム転換が起こり始めた。大陸から海を渡って列島に移動して来た人々により水稲稲作農耕が北部九州エリアに伝来する(板付遺跡、菜畑遺跡など)。それまでも原初的な稲作(陸稲)はあったようだが、人工的に水田を作る水稲は、大掛かりな水田の開発、水利施設の開発と伴い、縄文的な自然と共生して生きるライフスタイルに大きな変化をもたらした。しかし安定的な食糧生産を可能とする稲作農耕は瞬く間に列島を東に伝播してゆく。列島の原住民である縄文人と外来の人々とは初めは争ったり、やがては融合したりしながら混血も進み、また列島の原住民も稲作農耕生活に適応したり、やがて新しい弥生人が列島の主役となってゆく。こうして弥生時代が始まる。「豊葦原瑞穂の国」の始まりである。

 大陸からもたらされた稲作農耕文化は、食料の安定供給と定住生活を促した。土木/灌漑技術、高度な金属器といった道具生産、気象に対する知識経験、自然崇拝、穀霊神、祭事、労働力である人民の統率、生産物の分配、余剰生産物の蓄積と流通、交易、資源/生産物を巡る争い。多くの社会の変化を生み出した。やがてこれらを取り仕切るリーダーである首長・王の出現し、農耕集落の拡大はムラ、クニ、さらには王、国の出現を促す。これまで比較的平和な狩猟採集生活を送っていた列島の原住民にとって新しい文明がもたらされた。これはまた争いの時代への突入を意味するものでもあった。

 こうして生まれた稲作農耕集落、ムラ、クニは徐々に国へと発展してゆき、紀元前4世紀〜紀元3世紀頃には大陸に近い北部九州が列島の文化的中心、最先進地域となった。中国側の視点で見ると文明の開発フロンティアが朝鮮半島から海を越えて日本列島へと移動し発展していったことを意味する。

 このころの北部九州の国々は、大陸の文化や技術を有した人々(中華王朝の攻防から逃れて来たり人々や、列島と半島との間を行き来していた人々)が移り住み、土着の原日本人(縄文人)と融合してできたムラ、クニ、国であった。その指導者たちは少なくとも大陸中原の技術、文化、習俗、を理解していた人々であった。すなわち稲作農耕技術、青銅器/鉄器などの金属器生産技術、集団の統治、言語・文字、東アジア的な世界観(華夷思想、王化思想、朝貢冊封体制、神仙思想、道教、儒教的価値観など)。少なくとも中華王朝への朝貢、冊封の交渉には文字・言語、習俗、外交儀礼などの知識と経験が不可欠であったはずだ。これらを可能にしたのは大陸から渡ってきた人々であっただろう。

 したがって倭国の首長たちは統治には中華王朝への朝貢と冊封が絶対と考えていた(早良国王、奴国王、伊都国王、邪馬台国王)。そしてこぞって朝貢冊封体制に組み込まれていった(逆に言えば冊封されたからこそ「王」を名乗ることができた)。その証拠が北部九州の首長墓から出土する「威信財」だ。これには勾玉、劍、鏡という三種の神器の他に、中華王朝・皇帝から下賜された前・後漢鏡・魏鏡、の数々が含まれる。もちろん冊封のより具体的な証としての印綬(漢委奴国王、倭面土国王、親魏倭王など)がそうだ。中国のこのころの史書、すなわち「漢書」「後漢書東夷伝」「魏志倭人伝」などに登場する「倭国」の姿である。共立された女王(シャーマン)卑弥呼の邪馬台国を中心とする倭国連合、すなわちこれらの国々は北部九州(チクシ倭国)にあった。


文明の東遷と初期ヤマト王権の誕生

 しかし、3世紀末頃には列島内の文明のフロンティアーは徐々に東へと移動してゆく。やがてはその開拓・発展の進行ともない、その中心が北部九州から徐々に東へ遷移してゆく。このころの列島には広範な地域にクニや国々の地域連合が生まれていただろう。その中から列島内の生産、流通の結節点となる拠点地域が生まれそこに富や人が集まり始める。出雲、吉備、讃岐、但馬、越など。大陸文化の窓口であり、列島の最先進地域である北部九州チクシ倭国世界から見ると列島の辺境であった地域が倭国文明開化のフロンティアとなり、やがて列島の中心として開発されてゆく。そして、理想的な位置どりと、地形的特色から安心できる囲まれ感を持った近畿地方奈良盆地・ヤマトが「国のまほろば」として列島を支配する中心となってゆく。これが初期ヤマト王権(纒向遺跡)発生の背景であろう。

 3世紀の倭国、列島の事情を計り知る現存する資料としては魏志倭人伝しかない訳である。これはもちろん資料として貴重ではあるが、これが当時の倭国の姿の全てを記述しているとは考えられない。上記のような列島各地の国や連合体の動向を、魏の使節がつぶさに把握していたとは思えない。このころの大陸は魏呉蜀の三国に分かれて争っていた時代(いわゆる三国志の時代)である。魏にとって朝貢してきた倭国は有力な同盟国である。特に南の呉は、大きな脅威であったので、東の海上にあり、呉の背後を占める(と考えられていた)倭国は重要な同盟国であった。のちに魏が生き残り、三国志のなかの魏志だけが残ったわけで、呉や蜀の史書は現存していない。あるいはこうした消滅した資料の中に魏とは異なった視点で倭国と通交し、その事情を記述したくだりがあったかもしれない。特に呉は現在の上海付近にあった国で、倭国と通交があった可能性は高い。あるいはチクシ倭国の邪馬台国とは別に、狗奴国や出雲やヤマト盆地の国・地域連合が朝貢・冊封関係を結んでいた可能性もある。もちろん現時点でそういった記録は中国側にも、日本側にも一切見つかっていないが、近畿地方の3世紀ころの古墳から呉鏡が出土している例がある。いずれにせよ当時の列島全体の事情を知るには魏志倭人伝の記述だけでは不十分である。しかも邪馬台国がのち初期ヤマト王権に結びついた可能性を示す証拠はどこにもない。

 以降、ヤマト王権の都、やがては天皇の都は奈良盆地内(飛鳥、奈良)、河内(難波)、山城カドノ(京都)と近畿の中を移動はするが、基本的には近畿地方が千五百年にわたって日本列島の中心となる。のちに武家政権の時代になって鎌倉や江戸といった東国に権力の一部が移動するが、依然統治権威である天皇は京都に居続けて、本格的に関東が日本列島の中心となるのは19世紀明治維新の天皇の東京奠都の時である。

 このように列島内の経済発展、「蛮夷の民」の服属、政治的統合、人口の増加に伴い、開発フロンティアは東へと拡大し、それに伴って政治経済の中心は東へと移動してきた。これが列島における「国家」形成プロセスの歴史である。整理すると、

1)チクシが中華文明のフロンティアーであった時代(北部九州に大陸から人が移り住み稲作農耕というイノベーションをもたらした。列島原住民(縄文人)と融合して弥生人が生まれ、やがてムラ、クニ、国ができる)
2)フロンティアーが東へと移動し列島の中心が近畿に東遷した時代(ヤマト王権の発生・いわば日本文明勃興/列島人のアイデンティティー認識の時代)。
3)さらに近畿から関東へフロンティアーが移動した時代(北海道・東北を含む列島全体支配の完成時代)。



 中華王朝と倭国の関係:変質する朝貢・冊封体制の受容

 このようにこの文明のフロンティアの東への伸展と統治中心の東遷という動きの中で重要なのは、列島内の統治権威・権力において、中華文明との関係、特に中華帝国皇帝への朝貢/冊封体制の受容がどのように変わっていったかということ。この東アジア世界における国際秩序を倭国はどのように受け入れていたのか。これがチクシ倭国とヤマト倭国を分ける大事なポイントであると考える。1)のように縄文人が東海の海中の列島で平和でサステイナブル社会を形成して居た中に、大陸の先進国中華帝国から稲作農耕文明というイノベーションが持ち込まれ、列島が中華文明のフロンティアになっていった。そして文字が持ち込まれた。その時代にあっては最前線である北部九州の国、王権は中国王朝の冊封を得なければ成立し得なかった。もとより初期の北部九州沿岸の国々が、大陸渡来の人々(自発的に渡ってきたにせよ、亡命・難民として渡ってきたにせよ)やその末裔のいわば居留地(いわば華僑の国)の性格を持っていたとすればなおさらである。彼らが母国の文明、習俗、権威付けというパラダイムの中で、さらには中華世界を中心とする東アジア的世界観のなかでその存在の認証、支配の権威(朝貢・冊封。これは文字、すなわち漢字を用いて行われる)を得ようとしたことは不思議ではない。そうした政治的な理由だけではなく、先進国中国との交易により、貴重な財物や技術や資源(とりわけ鉄資源)を独占的に得る事ができるという経済的な便益が無視できない。これが倭国の統治の権威、権力に直結していただろう。

 しかし開発フロンティアが列島の東へ伸び、各地に有力な国・地域連合が出現し始める。それに伴って列島統治の中心が列島を東遷。徐々にではあるが列島自体が新たな「倭文明」の揺籃の地へと発展してゆく。人々も大陸渡来系と列島原住民系の融合が進み、列島人、倭人が生まれ(みずから倭人と名乗ったわけではないが)、やがては倭人、いやヤマト人、日本人というアイデンティティーを持ち始めると、必ずしも統治の権威を中華王朝への朝貢冊封に頼らない(最新の文化や技術は依然大陸に依存しているとしても)国つくりを目指すようになっていった。これには中国における王朝分裂時代(五胡十六国、南北朝時代)という朝貢/冊封体制を一時的ではあるが危うくせしめる事態も背景にあった。いわゆる中国の史書に倭国が登場しなくなる「空白の4世紀」の時代である。ヤマト王権は3世紀後半から巨大な前方後円墳という独特のモニュメントを王権の列島全域への拡張のシンボルとして展開してゆく。5世紀には倭国は朝鮮半島への進出(主として鉄資源確保を目指して)を企図し、新羅や百済の統治権を中華王朝(南北に分裂している状況であったが南朝の晋や宗に)に認めさせるべく朝貢使節を送る(倭の五王)が、思うような成果を得られなかったようである。大陸で隋が再び統一王朝を打ちてる頃には、倭国は中華皇帝への朝貢・冊封にもはや大きな意味を感じなくなり始めていた。これが厩戸皇子の煬帝への「日の出ずる国の天子、日の没する国の天子」云々の表現(すなわちこちらも「天子」だぞという主張)になってゆく。さらに7世紀には強力な唐王朝が出現するが、倭国内におけるクーデタ乙巳の変、百済救済を目指した白村江の戦い敗北、壬申の乱を経たのち迎える7世紀〜8世紀初頭の天武・持統帝の時代には律令国家体制の整備(先進国中国唐王朝から取り入れたシステムである)という「近代化」を進める。国号も自分たちが名乗ったわけでもない「倭」ではなく「日の本」とし、中華世界の頂点にいる天帝(皇帝)の向こうを張って大王(おおきみ)をもう一つの天帝、すなわち天皇(すめらみこと)と宣言する「大宝維新」の時代を迎える。これは中国の史書が描いた「倭国」の姿ではなく、まさに日本書紀、古事記が描く「日本(ひのもと)」という「国家観」である。

 すなわち2)の時代は中華的大宇宙から脱して日本的小宇宙を目指してゆく時代の始まりだった。こうして新興の列島帝国「日の本」は、その天帝(すなわち天皇)は太陽神(マテラス大神)の一族である天孫族の末裔であり、列島を作った神の子孫であるという権威に基づいて統治する国であると主張する。すなわち中華皇帝から冊封された国ではない。独自に列島に自生した国である、と。こう理解すると魏志倭人伝に記述のある魏に朝貢し、冊封された邪馬台国とその女王卑弥呼は、2)の時代の国や王ではなく1)の時代のものだと考えるのが自然だ。つまり邪馬台国は北部九州にあったチクシ倭国で、卑弥呼やトヨなどのその系譜は、奈良盆地に発生した初期ヤマト王権とは繋がらないと考えた。だからこそ日本書紀も古事記も邪馬台国/卑弥呼について記述しなかったのである。記紀の歴史認識、思想は、日本(日の本)は天神(天照大神)の一族が降臨して建国した国である。神の子、天孫族の子孫である万世一系の天皇が支配する国であって、決して大陸からの渡来人やその末裔がルーツではない。したがって中華王朝に朝貢して冊封されたチクシ倭国の国々(奴国、伊都国、邪馬台国)はヤマト王権のルーツでは断じてない、と考えた。

 とは言え、倭国が大陸の文化圏、東アジア世界秩序に無縁で、中華王朝やその伝達者である朝鮮半島の国々からなんらの影響をも受けずに、独自に列島に自生した国家であるという記紀のストーリーはフィクションであることは言を俟たない。7世紀末という、いわば古代倭国の「近代国家化」過程という時代を背景とした政治的意図を持った主張である。しかし、武断的な「天下統一」を進める新生ヤマト王権も初期の頃は朝貢冊封体制を意識していた。中華王朝の朝貢冊封体制に組み込まれていた邪馬台国などチクシ倭国との王統の系譜に繋がりはないものの、4世紀に入っても列島の支配を強める「天下統一」の過程では、ヤマトの大王たちは中華王朝に、その支配権威の正当性を認めさせるべく遣使し、冊封を求めていたのではないか(いわゆる「空白の4世紀」。魏から晋、さらには晋の分裂、五胡十六国という中国王朝興亡の騒乱が260年も続いた時代で中国側の史書に記録が見つかっていないが)。5世紀に入ると朝鮮半島における、鉄資源を巡る権益を認めさせるためにも高句麗や新羅に対抗して中華皇帝に爵号や軍号を求めている(5世紀の晋書、宋書の「倭の五王」の記述)。

 こうして奈良盆地のヤマト倭国王権も(邪馬台国などチクシ倭国ほどではなかったが)列島内の「天下統一」、朝鮮半島における鉄資源権益確保のためには、利用できる権威は利用しようと考えた。やがて青銅器生産に必要な銅資源や錫、水銀などの鉱物資源が列島内でも供給可能となり、経済的にも自給力を徐々に獲得するにつれ、また、政治的にも中華王朝が不安定な時代を迎え、久々に登場した統一王朝も必ずしも倭国大王が期待するほどに権威の承認をせず(特に朝鮮半島諸国との関係上)、自国の統治と権益にとって思うように朝貢冊封体制が機能しなくなったと感じた時に、そこからの離脱と新しい権威の源泉を自ら創出し始めたと考えられる。これが3世紀末の初期ヤマト王権の「大王」からスタートして、5世紀の「治天下大王」の自称を経て、7世紀末の「天皇」宣言まで、約400年の列島統治の権威と権力確立の闘いと、中華世界的秩序からの離脱の歴史である。



 「初期ヤマト王権」とは何か? 彼らはどこから来たのか?

 さて、その初期ヤマト王権とは一体どのような王権であったのか。彼らはどこから来たのか? 奈良盆地に土着の首長達のなかで抜きん出た首長が王、さらには全国の諸豪族の王の上に立つ大王に発展したのか? 振り返ってみると、(信じられないことだが)これまでヤマト王権のルーツについてしっかりと考察されたことがなかった。中国の史書である魏志倭人伝に「邪馬台国」とその女王「卑弥呼」が出てくるのでそれがルーツであろうとか、纒向遺跡と箸墓古墳はその遺構だと明らかな根拠もなく推論する。あるいは、神武天皇が九州から東征してきてヤマトで即位した、という記紀のストーリーが、九州からヤマトに「なんらかの勢力」が移ってきたらしい事を示唆しているのではないか、くらいの推測にとどまっていた。そもそも神武天皇はなぜ奈良盆地を選び、そこを目指してわざわざ九州から入ってきて橿原に即位した、というストーリーが必要なのか? また何度も述べているようになぜ記紀には邪馬台国も卑弥呼も出てこないのか?そこには重要な謎解きの鍵が潜んでいる。ただ今回は古事記や日本書紀の記述については立ち入らないでおこう。次回以降で触れる。

 結論を先に言うと、この初期ヤマト王権は奈良盆地に自生した土着の首長が権力闘争(武力闘争)の末に勢力を拡張し、倭国支配権を獲得していった王権ではなさそうだ。ヤマト王権(王のなかの王、すなわち大王)が近畿周辺の有力豪族を氏族化し、優勢な武力で、近畿以外の列島内の周辺諸国」首長や「蛮夷の民」を平定服属させてゆく「天下統一」物語はこののち(3世紀末以降)の話である。考古学的に見ると、3世紀後半の初期前方後円墳が出現する以前には、ヤマトには有力な首長の墳墓が見つかっていない。したがって北部九州の首長墓から多く見つかる中国王朝由来の鏡や剣、玉などの威信財も出てこない。奈良盆地には幾つかのムラ・クニがありそれぞれに首長がいたであろう(唐古鍵遺跡のような環濠集落)が、「王」として認知される(冊封される)首長はおらず(ヤマトの王墓からは初期古墳時代を含めて中国製の鏡は一枚も見つかっていに。ちなみに卑弥呼に下賜された魏鏡ではないかと話題になった黒塚古墳の三角縁神獣鏡は全て仿製鏡(日本国内製)であることがわかっている。)チクシ倭国の諸王が大陸との交流で倭国の覇権を競っていた1世紀から3世紀前半ころまでは、ヤマトは未だ辺境の地であった。土着の首長が盆地内の主導権をめぐっての争いごとくらいはあったであろう。しかしチクシ倭国の「倭国大乱」のような天下の覇権を争うような事態にはならず、土着勢力がそのまま列島の支配者にのし上がる状況ではなかった。ところが3世紀末になると、突然のように奈良盆地の三輪山山麓が倭国の中心として登場してくる。前方後円墳や纒向のような宮殿が営まれるようになる。何が起こったのだろうか?

 おそらくこの時代の列島には、邪馬台国を盟主とするチクシ倭国連合の他にも、各地に有力な国、地域連合/王権(出雲、吉備、讃岐、但馬、越など)が出現していたと考えられる。列島内のフロンティアが東へと伸びていくに従ってこうした地域連合/王権は相互に覇権争いしたり、同盟したり、ちょうどのちの戦国時代のような様相を呈していたと考えられる。こうした列島情勢のなかから抜け出して力を蓄える国(例えば出雲など)が現れ、奈良盆地に進出した可能性もある(三輪山の神は出雲の神)。あるいは各地域の首長によって共立された大王が、有力勢力の支配権が及んでいない第三の地(無主の地と言っても良い)、奈良盆地に新連合王国の王都纒向を建設した可能性もある。あるいは、チクシ倭国の奴国や伊都国などの勢力の一部が2世紀の倭国大乱などで邪馬台国連合に敗れ、チクシ倭国(北部九州)から離反して東へ移り、出雲や吉備などの各地の勢力とも合従連衡しながら辺境フロンティアの地である奈良盆地に新連合政権を打ち立てたことも考えられる。また学会的にはにはマイナーな説ではあるが、南九州の狗奴国が東遷して建国したとする異説(神武天皇の日向高千穂からの東遷神話の元だという)もある。この間の列島内全域の歴史的な出来事は、とても魏志倭人伝といった、限られた資料だけでは把握できない。以前から述べているように、魏志倭人伝に描かれている邪馬台国を中心とする倭国の模様は九州に限られている。すなわちチクシ倭国の話なのだ。


「初期ヤマト王権」は奈良盆地の外からやってきた勢力と土着勢力の争いから生まれた?

 何れにせよ、初期ヤマト王権とは奈良盆地土着勢力が成長していったものではなく外来勢力が奈良盆地に入ってきたものであろう。それはチクシ以外の漢/魏王朝の朝貢冊封体制に入らない勢力や、チクシでの主導権争いに破れて離脱した勢力などの外来勢力だ。もちろん、その後の覇権を確立するプロセスは一本調子に突き進んだわけではないことは想像に難くない。初期ヤマト王権成立後も、クニの首長を祖先とする地方豪族や畿内の有力豪族を巻き込んだ王権のへゲモニー争いの連続であったことはのちの歴史が示している通りである。そういう点では「天下統一」の争いを繰り広げた群雄割拠勢力の戦国時代に似た状況があったのだろう。ただ大きく異なるのは、16世紀の武士団の棟梁である戦国大名は、武力平定を果たしたのちに、京都の天皇からの統治権威を獲得する(征夷大将軍、関白、太政大臣などの官位)ことで統治権力をオーソライズして「天下統一」を果たすわけであるが、この時代はどうであったのだろう。チクシ倭国的な統治権威観によれば中華皇帝への朝貢/冊封(漢委奴国王、親魏倭王など)ということになるのだが。はたして列島内の地域王権の合従連衡による王の共立、連合王国という「戦国時代」を決着させた権威、すなわちヤマト王権を認めた権威はなんだったのか。そのために記紀神話を創出した可能性がある。

 前述のように、4世紀から5世紀初めの頃までのヤマト王権初期には、国内の統治、大陸との交易(主に鉄資源)を巡って、中華王朝の冊封体制下での権威を利用しようとした形跡がある。しかし、それはそれとして前述のように列島各地にはそれぞれの小国の王(自称)や首長(豪族)がおり、それぞれに自律的な存在であっただろう。だが先進的な文物や知識、資源、なかんずく鉄資源の獲得がそれぞれの地域における支配権を安定的なものにするためには必須であった。しかし、それは地域によって地勢的な有利不利があり、比較優位に立つ国、地域と連携したほうが自らの権威/権力を担保できる場合が出てくる。そこに緩やかな国の連合体を形成する「国の形」が生まれる経緯があった。それは1〜3世紀にはチクシ倭国連合(奴国、伊都国、そして邪馬台国女王卑弥呼を「共立」する)であったし、3世紀後半以降はヤマト倭国連合(ヤマト王権)であった。やがて、そうやって「共立」された王の王(King of Kings)、大王(おおきみ)は有力な首長たち(豪族/氏族)の支援を得ながら、軍事力も高め、列島内の支配権を得ていった。そのなかで、中華朝貢冊封型パターンをコピーしながら、徐々に大王(おおきみ)自らが他地域の王/首長/豪族に対して「統治権威を認証する」仕組み(官位の授与や祭祀、古墳形態の承認など)、すなわち「日本型の冊封体制」を築き上げていった。各地の首長/豪族にとっては地域における自律とヤマト王権への従属という二面性を持つこととなるが、王権に寄り添うことで、地域の対抗勢力/新興勢力との競合に有利に働くことともなり、比較的抵抗なく受容されていった。やがて6世紀には氏姓制(豪族の体系化)が整備され、さらに7世紀後期になると律令制とそれに伴う官位制(豪族/氏族の官僚化)へと、天皇中心の中央集権的なヤマト王権(かつては「大和朝廷」と習った)が出来上がっていく。前方後円墳というシンボリックな墳墓形態がヤマトから地方に広まっていったことに、その考古学的な証左を見ることができる。


文献史学的検証と考古学的検証

 残念ながら、この間の事情については文献資料がほとんどないので文献史学的に解明することは困難である。何度も述べているように日本側に資料である古事記、日本書紀は編年体で記述されていないし、時の編纂者の意図に合わせた潤色や脚色が多くて、そこから客観的な史実を解明するにはかなり批判的に読み解かねばならない。一方、中国の史書である魏志倭人伝は2〜3世紀の倭国の事情を比較的詳細に記述している。しかし、魏の使いがどこまで倭国内を自ら見聞した結果を記述しているかは疑問だ。おそらく伊都国にいて邪馬台国の役人からの聞書きで倭国を描写したのだろう。少なくともこの記述では邪馬台国がどこにあったのかもはっきりしないのが実情だし、まして邪馬台国(女王国30カ国)支配の及ばない倭人の世界(傍国や倭種)の詳細は聞いてもいないだろうし、報告もしていない。倭人も説明もしていないだろう。特にこの時代に繁栄を誇っていたと思われる出雲や吉備についての記述も見当たらない。当時の倭国(列島)の全容を知るには、その記述には自ずと限界がある。さらに彼らが見聞した倭国の姿は、当然ながら限られた時間スペースでの出来事、すなわち彼らが生きた時代をスポット的に記述したものである。よって倭国の歴史を通史的に俯瞰することはもとより不可能だ。そこには卑弥呼/イヨ以降の倭国の王権の消息に関する記述もない。また魏に対抗していた呉の史書の東夷伝も散逸していて現在では確認できない。

 そうなると、考古学的な調査研究が重要になってくる。初期ヤマト王権とは何者なのか?は今後の考古学的な発掘成果から徐々に解明されてゆくだろう。初期ヤマト王権の遺構と考えられる纒向遺跡(これ自体画期的な考古学的発見である)がこれまでの弥生的な農耕集落的性格を持たない人工都市であること(東西軸に配置された居館、神殿。運河など)や、纒向遺跡からはチクシから尾張にいたる全国からの土器が検出されていること。そして纒向都市の成立とともに奈良盆地内に紀元前3世紀から続いた弥生の環濠集落唐古・鍵遺跡が急速に衰退消滅する様など、何かしらの人為的な外圧により急速にフェーズ転換が起こり、王都が出現し、人が集まり、列島の中心として発展していったらしいことを想像させる。このころ箸墓古墳などの巨大な前方後円墳が奈良盆地の東の山麓に出現し、ヤマト王権の全国支配に伴い、中華王朝による冊封に代わる、統治権威を認証するものとして広がっていった。こうしたモニュメント的な墳墓形態と威信財を副葬する形は、奈良盆地に自生したものではない。吉備や出雲、筑紫の王達の葬祭習俗が取り入れられ、融合し、さらに発展させたものであろう。その一方で、前述のように初期の大型古墳(メスリ山古墳、黒塚古墳など)からは中国製の鏡は一枚も発見されていない(卑弥呼が魏から下賜されたのではと話題になった大量の三角縁神獣鏡は仿製鏡(日本国内製)であることはすでに述べた通り出ある)。一方で北部九州のこの時期の王墓(伊都国の三雲南小路遺跡や平原遺跡など)からは魏鏡、漢鏡が大量に出土している。チクシ倭国とヤマト倭国の相違を際立たせる考古学的成果だ。結局、これは親魏倭王とされ印綬と魏鏡100枚を下賜された邪馬台国の女王卑弥呼はヤマトにいた訳ではなく、纒向の初期ヤマト王権には繋がらないということを示唆している。これをもう少し検証するにはさらなる発掘調査の成果(例えば箸墓古墳の副葬品など)が期待されるが、ヤマトの大型前方後円墳はどれも陵墓指定されていて調査ができないことがネックになっている。

 これから期待される考古学的発見の中では、邪馬台国遺構(纒向遺跡が卑弥呼の宮殿であるとする考えには組しない)がどこでどのような形で発見されかが一番の関心であろう。例えば「親魏倭王」の印綬や、魏鏡100枚、卑弥呼の墓などが見つかれば「邪馬台国位置論争」は一挙氷解だ。筑紫平野のなかでも八女や山門郡、みやま市あたりに邪馬台国の遺構が眠っている可能性がある。豊かな筑後川水系と有明海に開けた広大な平野。奴国や伊都国のあった福岡平野よりより豊かな国があったであろう。であれば邪馬台国卑弥呼はチクシ倭国の話であり、近畿の初期ヤマト王権との関係(別の系譜であるということ)が確定するであろう。他にも奴国王や伊都国王などのその後の消息や、魏志倭人伝に記述のない列島内の(卑弥呼の女王国30カ国以外の)国々、地域王権の実情、チクシと出雲とヤマトの関係などを解明する発見などがあれば、初期ヤマト王権を形作った人々の実像が見えてくるだろう。期待は膨らむ。しかし、そのような画期的な考古学的発見が謎を一気に解明するまでは、記紀を批判的に読み込み、その中から丁寧に史実に基づくであろうエピソードを取り出し、あれやこれや推理し、何か見えてこないか、感じないか「匂いを嗅いでみる」というカンの研ぎ澄ましが必要だ。イザナギ/イザナミの国生み神話、出雲国譲り神話、ニニギの天孫降臨神話、神武天皇の東征伝承。それら筑紫、出雲、大和を舞台とする建国ストーリーはなぜ生み出されたのか。そのなかにはヤマト王権の発生、出自、実態に肉薄する史実や記憶が潜んでいるのだろうか。ただ初期ヤマト王権の全貌解明を記紀の記述の解析に頼ろうとする以上、それらは科学的な手法ではなく、推理と空想の世界に止まらざるを得ない。なんらかの結論を導き出したとしても、それは事実をもって証明されるまでは「仮説」にすぎない。フリードリッヒ・エンゲルスの「空想から科学へ」とは異なり、「科学から空想へ」がしばらくは幅をきかせそうだ。楽しい空想だ... だから私のような古代史ファンが生まれる余地がある訳なのだが。


(参考ブログ)

2016年4月:結局「邪馬台国」はどこにあったのか 〜倭国「天下統一」事業の実相〜


龍王山から展望する奈良盆地の風景
左上方から畝傍山、耳成山、その下方が箸墓古墳、正面中央は渋谷向山古墳、右は行灯山古墳
背景は正面が葛城山、金剛山、右は二上山

渋谷向山古墳の上方、アパート群左の集落内に纒向遺跡発掘現場がある。

いわゆる大和国中
正面の二上山を越えると河内。難波津を介して瀬戸内海へ続く
手前は行灯山古墳と右端に多数の銅鏡が出土した黒塚古墳が見える。




2016年5月9日月曜日

結局「邪馬台国」はどこにあったのか? 〜倭国「天下統一」事業の実相〜(続編)

伊都国平原遺跡
王墓




時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 結局「邪馬台国」はどこにあったのか? 〜倭国「天下統一」事業の実相〜: 広大な筑紫平野と筑後川、有明海の恵み ここが邪馬台国のホームグラウンド、チクシ倭国連合の中心であった。 プロローグ:  邪馬台国論争、すなわち「邪馬台国はどこにあったのか?」という論争。それは近畿にあったのか、あるいは北部九州にあったのか。他にも様々な場所が候補地...


 前回のブログで、邪馬台国は北部九州にあった。倭国の乱で敗者となり、チクシ連合王国(邪馬台国連合)から離脱した勢力(主に奴国)が東遷し、様々な地域勢力と合従連衡し奈良盆地に打ち立てたのが「ヤマト王権」である、と考察した。したがって北部九州の邪馬台国(卑弥呼・トヨ)と近畿に発生したヤマト王権とは王統・系譜が繋がっていないことになる。そもそも3世紀の日本列島には各地(主として西日本)に出雲や吉備、但馬、越のような地域王権・地域連合があり、チクシ連合(邪馬台国連合)も、ヤマト連合もその一つであった。そのような一種の「群雄割拠状態」から抜け出したヤマト連合が第一ステージの列島規模での「天下統一」を果たした(これが初期ヤマト王権)、と考察した。このように考えると「点と線」がつながる。すなわち中国側の史書に記述された限られた情報、しかもその時々の中華王朝の核心的課題である中原における覇権と政治情勢・地政学的視点。「遠交近攻」という外交戦略にもとずく東夷としての倭国の記述と、日本側の記紀(7世紀後半から8世紀前半に編纂された)の、まさに「大宝維新」の歴史的意義(律令国家整備、天皇制の宣言、公地公民制等、そして「日本」国号宣言)を内外に高らかに指し示す政治的文書としての記述との、齟齬、矛盾、空白を埋めることができる。

しかしこれはまだ仮説に過ぎない。この仮説が証明されるためには、さらに以下のような関連する疑問に答えなければならない。


①「初期ヤマト王権」はどのように畿内に成立したのか?どのように統治の権威・権力を手にし倭国統一(チクシを含む)ができたのか?纒向遺跡は農村集落ではなく「都市」的な性格を持っているという(倭国各地の土器が出土)が、大陸・半島との交流の証拠(親魏倭王印、後漢鏡・魏鏡など)は出てきているか?(3世紀末から「空白の4世紀」の実相)

②そのヤマト王権はなぜ奈良盆地に興ったのか?土着の弥生的なムラ・国の発展型(例えば唐古鍵遺跡?しかし古墳時代には消滅している)なのか?あるいは「無主の地」(あるいはそれに近い)に移り住んだ勢力が「都市」を建設したのか?筑紫、出雲や吉備との関係は?

③後漢の光武帝に金印をもらった「委奴国王」はどこへ行ったのか?(金印を埋めてどこへ行った?なぜ志賀島で見つかったのか)その墓はどこにあるのか?志賀島を本願地とする古代海人族安曇族との関係は?なぜ彼らは全国へ散っていったのか?

④光武帝から50年後に後漢の安帝に遣使した「倭面土国王帥升等」とは誰か?伊都国王?彼はどうなったのか?その墓はどこにあるのか?

⑤「倭国大乱」の原因は?その範囲は?敗者は誰?(奴国、伊都国?)敗者はどうなった?

⑥弥生的な稲作農耕集落(祭祀でまとまる)から戦闘的な武力集団(武力でまとまる)への移行過程の実態は?

⑦卑弥呼の二面性(「祭祀を行う呪術師」という「未開」の側面。「海外情勢に明るく外交手腕に長けた指導者」という「開明的」側面)をどう解釈するか?

⑧倭国における中華帝国への朝貢・冊封体制受容の変遷。ヤマトの外交戦略ともう一つの天帝・日本型華夷思想はどのように始まったのか。

⑨邪馬台国が北部九州にあったとすればその遺構(卑弥呼の居館、墓)はどこにあるのか?筑紫平野にまだ見つかっていない。八女丘陵や女山(ぞやま)山麓の遺構調査、初期古墳の調査はどこまで進んでいるか。

⑩朝鮮半島南部伽耶の鉄資源を巡る倭国内勢力(チクシ、出雲、ヤマトなど)と朝鮮半島内勢力(三国)の攻防、合従連衡の構図と実態は?


後漢書東夷伝・魏志倭人伝における倭に関する記事を時系列で振り返ってみよう:

57年:委奴国王の後漢(光武帝23〜57年)への遣使・朝貢・冊封(「漢委奴国王」の金印授受。のちにその金印が志賀島で発掘され史実であることを証明)

107年:倭面土国王 帥升等の後漢への遣使(安帝106年〜125年。面土国とは?伊都国?冊封されたか不明)

146〜189年?:倭国大乱:戦乱・王不在が7〜80年続いたとされる(後漢の混乱期、桓帝・霊帝のころ。委奴国王の遣使から100年余り、倭面土国王の遣使から40年余り後)。王の不在は110年ころからか。107年の倭面土国王の後漢への遣使直後からと考えられる(倭面土国王はどうなった)。

190年?:邪馬台国女王卑弥呼共立・大乱の収束。

238年:卑弥呼の魏への遣使(帯方郡を通じて。「親魏倭王」)

247年:狗奴国との戦争、魏の張政派遣、げき文で告諭。

249年:狗奴国との戦争中に卑弥呼死去。再び戦乱に。宗女壹輿が女王に。戦乱収まる

266年?:壹與が魏・晋へ遣使:

この後150年にわたって中国の史書に倭国に記述がなくなる。413年の晋書の「倭の五王」の記述まで。


中国漢王朝の興亡を振り返ってみよう:

前漢:紀元前206〜紀元8年

王莽の新:15年間

後漢(光武帝による再興):23年〜220年
しかし、光武帝没後は国情安定せず。
安帝(106〜125年)

黄巾の乱:184年

その後、魏・呉・蜀の三国時代へ(後漢は名目上は220年まで続く)

魏から晋へ。


当時の東アジア情勢の変化、すなわち中華秩序と倭国の変遷:

光武帝の時代はこぞって周辺国が後漢に朝貢(匈奴、大月氏国、高句麗、倭国など)、しかし、光武帝が没すると冊封体制に組み込まれていた高句麗は離反。漢の半島植民地、帯方郡、楽浪郡も公孫氏一族の支配に。北方の匈奴や西域の大月氏国などの離反。その時倭国は?光武帝に冊封された奴国王はどうなった?倭面土国王帥升等は後漢の安帝に冊封されたのか?倭国内で統治権威を維持できたのか?おそらく混乱が起きたのだろう。

史書によると、倭国における指導権は、委奴国王→倭面土国王帥升等→倭国大乱・王無し→卑弥呼へと移っていったことになる。これは後漢王朝の衰亡の動きに連動している。

強大な漢帝国の滅亡、混乱により、華夷思想に基ずく朝貢・冊封体制が不安定になった可能性がある。それが周辺国や倭国の統治権威、秩序に大きな影響を与えただろう。その後の倭国の権力闘争、支配構造に大きな変化を与えた。

特に朝貢・冊封により倭国の支配権威を担保してきたチクシ倭国連合(初期の奴国王、中期の倭面土国王、後期の卑弥呼・邪馬台国連合)には大きなインパクト(倭国統治の権威喪失)。

「空白の4世紀」には、チクシ倭国からヤマト倭国への勢力バランスの転換が起こった時期であろう。中華王朝への朝貢・冊封による統治権威、「祭祀」「呪術」でまとまっていた弥生農耕集落的、邪馬台国的秩序が影を潜め、倭国の武断的性格が表れはじめている。4世紀後期には朝鮮三国の騒乱に伴い百済に要請されて朝鮮への出兵まで行った(好太王碑文)。前回も述べたように、当時の列島は地域王権や地域国連合があちこちに存在していて、一種の「群雄割拠」状態にあっただろう。邪馬台国連合(チクシ倭国)もヤマト連合もそれらの地域王権の一つだった。それが中国王朝(朝貢冊封体制)の不安定化、朝鮮半島情勢緊張による軍事進出、倭国内の経済力の分散化(地域王権の伸張)などにより、列島の中心が徐々に北部九州から近畿奈良盆地へと移っていったのであろう。

チクシ倭国とヤマト連倭国には次のような性格の変移が見られる。

邪馬台国連合(チクシ倭国連合):
弥生的な農耕村落(高地性集落・環濠集落)を中心とした国。祭祀を執り行う巫女(呪術師)が首長たちに共立され統治権威。統治は男王が行うとい媛彦制・祭政二元政治。政治的には中華王朝への朝貢/冊封体制に入ることで統治権威の源泉とする。大陸に近い地理的優位性を持った地域。

初期ヤマト王権(ヤマト倭国連合):
農耕集落(環濠集落)から離れた人工的な「王都」を有する国。武力を保有する男王が統治権威であり統治権力も保有。首長(王)のなかから王のなかの王、すなわち大王(おおきみ)が生まれていった。中華王朝への朝貢/冊封体制が徐々に崩壊。倭国内の地域王権のなかで優越的地位を確立していった?列島内の経済・流通の拠点たる地理的優勢を持った地域。農耕だけではなく武力としての鉄製武器の重要性が増し、鉄資源の確保が喫緊の課題に。

ほぼ国内をまとめた(?)初期ヤマト王権は(おそらく鉄資源を有する伽耶地域の支配を巡って)朝鮮半島への進出を始め(高句麗の好太王碑文391年以降のストーリーを記す)、5世紀初頭413年になって中華皇帝への遣使を再開した(倭国内の統治の権威を保証してもらうというよりは、朝鮮半島における支配権・権益を認めさせるために)(倭の五王の朝貢:晋書/宋書)。列島内の統一(まだ完成はしてなかったにしろ)とは別に、朝鮮半島における権益(特に鉄資源)確保が倭国の「核心的利益」になっていたようだ。例えば高句麗王よりも高い軍号・爵号を求めた(「安東将軍」ではなく「安東将軍」)。しかし、要求が十分に認められなかったことから、再び遣使を止める。

このころ朝鮮半島では高句麗、新羅、百済が中華王朝の混乱、隋の統一、唐の成立などの情勢変化により相互に合従連衡の駆け引きを繰り返していた。鉄産地である伽耶・任那をめぐる攻防。新羅による伽耶・任那併合。高句麗の新羅圧迫。一方、朝鮮半島三国はそれぞれに倭国との連携を模索。新羅と対立していた百済は倭国との同盟関係を。新羅も高句麗との争いが始まると倭国との連携を模索。

5世紀の倭国は獲加多支鹵大王(雄略大王・倭王武)の地方支配を示す考古学的資料が発見された、埼玉稲荷山古墳出土の金石文鉄剣。熊本江田船山古墳出土の鉄剣金石文などの記述から、ヤマト王権の地方支配を示す(地域の王がヤマト王権よりいわば冊封され(?)官位を受ける)。倭の五王(武)に関する記述(ソデイ甲冑を貫き山河を跋渉して寧所にいとまあらず)の裏付け。倭国内におけるヤマト王権の支配的優位性、地域王権、地域首長との日本型「冊封体制」の始まり?「治天下大王」という言葉を使い始めた。すなわち「天下統一」を果たした大王(おおきみ)であり、「天下」すなわち宇宙に、中国皇帝の他にもう一人の天帝が存在していることを主張し始める。やがてヤマト型の前方後円墳の全国への広がりが、ヤマト王権の全国支配をシンボライズする。

このように華夷思想、朝貢・冊封体制により成り立っていた東アジア的世界秩序に対し、ヤマト王権の倭国支配体制の進展に伴い、中華王朝、朝鮮半島諸国との関係は倭国独自のものに変化して行くことになる。すなわち、中華帝国への朝貢冊封体制とういう世界秩序が重視される時代にあって(地理的にも)優位に立っていた北部九州のチクシ倭国から、倭国列島内の地理的中心としての位置を占めるヤマト倭国が(中華王朝の権威から距離を置いた)「天下統一」の主導勢力となっていった。そうした政治的権威権力の源泉としての経済下部構造は、列島における稲作生産手段の専有(土地、人民、鉄資源。やがては公地公民制へ)と生産力の増大、それによる生産物の流通の支配であった。特に生産力増強に必要な鉄資源(これはのちに武力の資源としても重要に)の確保に当たってもなんらかの形でチクシを凌駕することになった



ところで話題を中国との交流の話にシフトしてみよう。

600年遣隋使派遣。しかし国家体制も整備できていない蛮夷の輩「倭」とみなされ失敗。「八くさの姓」や「十七条憲法」などの官僚制、法治国家体制整備を行い(聖徳太子によってなされたと日本書紀では記述)、再度遣隋使小野妹子派遣。「日の出ずる国の天子...」という国書。煬帝は「無礼」と怒るが隋の使者裴世清が倭国に。以降、隋滅亡(619年?)後、遣唐使へ(倭国側では朝貢使節というよりは留学生や学問僧等による文化使節と考えた。唐側では朝貢使として遇したが、管爵は授けなかった?)。

700年頃には天武・持統帝による「大宝維新」。ついに天皇制宣言(中華皇帝に対抗するもう一人の天帝を宣言)。律令国家体制整備、皇祖神を頂点とする(各地豪族の)神々の体系化、公地公民制による豪族支配基盤の破壊、朝廷官僚化へ(明治維新時の版籍奉還、大名の華族化はこのコピー)。日本建国宣言(再び遣唐使中止)。その記録としての日本書紀、古事記編纂。
奈良時代8世紀に遣唐使再開も、平安時代9世紀には唐の衰亡を見て、菅原道真の建議により遣唐使廃止。

倭国、日本の外交は、統治権威の担保(文化的、技術的、戦力的優位性の担保)を目的とした中国皇帝への朝貢。冊封を巡って揺れ動いた歴史。また鉄資源の確保のために常に朝鮮半島における支配権・権益を巡り朝鮮三国との争い・同盟。その上位者である中国王朝へのアプローチ。そして徐々にその中国皇帝への朝貢・冊封体制から離脱していった歴史。そして「治天下大王」「天皇」というもう一つの中華世界を打ち出す。先端文化や最新の技術・知見の吸収には努めたが、統治権威の承認は求めなくなっていった。







別掲:

明治維新(王政復古)と辛亥革命(共和制移行。清朝の最期):
日本は明治維新で、欧米流の近代化の一方、「王政復古」(restoration)すなわち古代の天皇中心の国家体制(国体)を復活させた。
一方で、華夷思想による朝貢・冊封体制を3000年にわたって維持してきた中国は、辛亥革命により「天帝による支配」が終わりを告げ共和制に移行した。清朝愛新覚羅溥儀が最後の皇帝(The Last Empelor)となった。

皮肉にも明治期に小宇宙大日本帝國「天皇制復活」vs.大宇宙中華帝國「皇帝制廃止(共和制移行)」、という形で逆転することとなる