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2016年10月18日火曜日

「初期ヤマト王権」とは何か? 彼らはどこから来たのか?

 
2009年秋の纒向遺跡発掘現場


 中華文明フロンティアの移動。

 10万年前にアフリカを出た人類は、アラビア半島からユーラシア大陸の西端に向かった一団と、ヒマラヤ山脈の北と南に分かれてユーラシア大陸の東へと進んだ一団とに分かれた。そして、その一部が3万年前には日本列島に移動して来た。主にシベリア樺太経由北方ルート、朝鮮半島ルート、琉球・奄美黒潮ルートから入り合流したとみられる。人類はグレートジャーニーの終点にたどり着いた。

 彼らは列島内に住み着き、のちに考古学者たちが「縄文時代」と呼ぶ1万年を超えると言われる長い長い安定した時代を形成する。最近再認識されているように、縄文人たち(原日本人)は長期にわたるサステーナブルな社会を形成し、縄文土器に象徴される豊かな文化を生み出した。一つの文化がこれほど継続したのは人類史上稀有なことであると。彼らは自然と共生し、漁ろうや狩猟と採集を基本とする生活を営んだ。初期には移動を旨とし、後期には徐々に定住(海岸べりや照葉樹林帯)し集落を形成するようになる(三内丸山遺跡。上野原遺跡など)。

 しかし、3000年ほど前、紀元前5〜10世紀頃、列島の原住民である縄文人にとって大きな生活・文化的変化を伴うパラダイム転換が起こり始めた。大陸から海を渡って列島に移動して来た人々により水稲稲作農耕が北部九州エリアに伝来する(板付遺跡、菜畑遺跡など)。それまでも原初的な稲作(陸稲)はあったようだが、人工的に水田を作る水稲は、大掛かりな水田の開発、水利施設の開発と伴い、縄文的な自然と共生して生きるライフスタイルに大きな変化をもたらした。しかし安定的な食糧生産を可能とする稲作農耕は瞬く間に列島を東に伝播してゆく。列島の原住民である縄文人と外来の人々とは初めは争ったり、やがては融合したりしながら混血も進み、また列島の原住民も稲作農耕生活に適応したり、やがて新しい弥生人が列島の主役となってゆく。こうして弥生時代が始まる。そう!「豊葦原瑞穂の国」の始まりである。

 大陸からもたらされた稲作農耕文化は、食料の安定供給と定住生活を促した。土木/灌漑技術、高度な金属器といった道具生産、気象に対する知識経験、自然崇拝、穀霊神、祭事、労働力である人民の統率、生産物の分配、余剰生産物の蓄積と流通、交易、資源/生産物を巡る争い。多くの社会の変化を生み出した。やがてこれらを取り仕切るリーダーである首長・王の出現し、農耕集落の拡大はムラ、クニ、さらには王、国の出現を促す。これまで比較的平和な狩猟採集生活を送っていた列島の原住民にとって新しい文明がもたらされた。これはまた争いの時代への突入を意味するものでもあった。

 こうして生まれた稲作農耕集落、ムラ、クニは徐々に国へと発展してゆき、紀元前4世紀〜紀元3世紀頃には大陸に近い北部九州が列島の文化的中心、最先進地域となった。中国側の視点で見ると文明の開発フロンティアが朝鮮半島から海を越えて日本列島へと移動し発展していったことを意味する。

 このころの北部九州の国々は、大陸の文化や技術を有した人々(中華王朝の攻防から逃れて来たり人々や、列島と半島との間を行き来していた人々)が移り住み、土着の原日本人(縄文人)と融合してできたムラ、クニ、国であった。その指導者たちは少なくとも大陸中原の技術、文化、習俗、を理解していた人々であった。すなわち稲作農耕技術、青銅器/鉄器などの金属器生産技術、集団の統治、言語・文字、東アジア的な世界観(華夷思想、王化思想、朝貢冊封体制、神仙思想、道教、儒教的価値観など)。少なくとも中華王朝への朝貢、冊封の交渉には文字・言語、習俗、外交儀礼などの知識と経験が不可欠であったはずだ。これらを可能にしたのは大陸から渡ってきた人々であっただろう。

 したがって倭国の首長たちは統治には中華王朝への朝貢と冊封が絶対と考えていた(早良国王、奴国王、伊都国王、邪馬台国王)。そしてこぞって朝貢冊封体制に組み込まれていった(逆に言えば冊封されたからこそ「王」を名乗ることができた)。その証拠が北部九州の首長墓から出土する「威信財」だ。これには勾玉、劍、鏡という三種の神器の他に、中華王朝・皇帝から下賜された前・後漢鏡・魏鏡、の数々が含まれる。もちろん冊封のより具体的な証としての印綬(漢委奴国王、倭面土国王、親魏倭王など)がそうだ。中国のこのころの史書、すなわち「漢書」「後漢書東夷伝」「魏志倭人伝」などに登場する「倭国」の姿である。共立された女王(シャーマン)卑弥呼の邪馬台国を中心とする倭国連合、すなわちこれらの国々は北部九州(チクシ倭国)にあった。

 しかし、3世紀末頃には列島内のフロンティアーは徐々に東へと移動してゆく。やがてはその開拓・発展の進行ともない、その中心が北部九州から徐々に東へ遷移してゆく。このころの列島には広範な地域にクニや国々の地域連合が生まれていただろう。その中から列島内の生産、流通の結節点となる拠点地域が生まれそこに富や人が集まり始める。出雲、吉備、讃岐、但馬、越など。大陸文化の窓口であり、列島の最先進地域である北部九州チクシ倭国世界から見ると列島の辺境であった地域が倭国文明開化のフロンティアとなり、やがて列島の中心として開発されてゆく。そして、理想的な位置どりと、地形的特色から安心できる囲まれ感を持った近畿地方奈良盆地・ヤマトが「国のまほろば」として列島を支配する中心となってゆく。これが初期ヤマト王権(纒向遺跡)発生の背景であろう。

 3世紀の倭国、列島の事情を計り知る現存する資料としては魏志倭人伝しかない訳である。これはもちろん資料として貴重ではあるが、これが当時の倭国の姿の全てを記述しているとは考えられない。上記のような列島各地の国や連合体の動向を、魏の使節がつぶさに把握していたとは思えない。邪馬台国という国や卑弥呼という首長が、列島においてどのような立ち位置にあったのか、客観的な評価をする立場にもないだろう。このころの大陸は魏呉蜀の三国に分かれて争っていた時代(いわゆる三国志の時代)である。魏にとって朝貢してきた倭国は有力な同盟国である。特に南の呉は、大きな脅威であったので、東の海上にあり、呉の背後を占める(と考えられていた)倭国は重要な同盟国であった。のちに魏が生き残り、三国志のなかの魏志だけが残ったわけで、呉や蜀の史書は現存していない。あるいはこうした消滅した資料の中に魏とは異なった視点で倭国と通交し、その事情を記述したくだりがあったかもしれない。特に呉は現在の上海付近にあった国で、倭国と通交があった可能性は高い。あるいはチクシ倭国の邪馬台国とは別に、狗奴国や出雲やヤマト盆地の国・地域連合が朝貢・冊封関係を結んでいた可能性もある。もちろん現時点でそういった記録は中国側にも、日本側にも一切見つかっていないが、近畿地方の3世紀ころの古墳から呉鏡が出土している例がある。いずれにせよ当時の列島全体の事情を知るには魏志倭人伝の記述だけでは不十分である。しかも邪馬台国がのち初期ヤマト王権に結びついた可能性を示す証拠はどこにもない。

 以降、ヤマト王権の都、やがては天皇の都は奈良盆地内(飛鳥、奈良)、河内(難波)、山城カドノ(京都)と近畿の中を移動はするが、基本的には近畿地方が千五百年にわたって日本列島の中心となる。のちに武家政権の時代になって鎌倉や江戸といった東国に権力の一部が移動するが、依然統治権威である天皇は京都に居続けて、本格的に関東が日本列島の中心となるのは19世紀明治維新の天皇の東京奠都の時である。

 このように列島内の経済発展、「蛮夷の民」の服属、政治的統合、人口の増加に伴い、開発フロンティアは東へと拡大し、それに伴って政治経済の中心は東へと移動してきた。これが列島における「国家」形成プロセスの歴史である。整理すると、

1)チクシが中華文明のフロンティアーであった時代(北部九州に大陸から人が移り住み稲作農耕というイノベーションをもたらした。列島原住民(縄文人)と融合して弥生人が生まれ、やがてムラ、クニ、国ができる)
2)フロンティアーが東へと移動し列島の中心が近畿に東遷した時代(ヤマト王権の発生・いわば日本文明勃興/列島人のアイデンティティー認識の時代)。
3)さらに近畿から関東へフロンティアーが移動した時代(北海道・東北を含む列島全体支配の完成時代)。



 中華王朝と倭国の関係:変質する朝貢・冊封体制の受容

 このようにこのフロンティアの東への伸展と統治中心の東遷という動きの中で重要なのは、列島内の統治権威・権力において、中華文明との関係、特に中華帝国皇帝への朝貢/冊封体制の受容がどのように変わっていったかということ。この東アジア世界における国際秩序を倭国はどのように受け入れていたのか。これがチクシ倭国とヤマト倭国を分ける大事なポイントであると考える。1)のように縄文人が東海の海中の列島で平和でサステイナブル社会を形成して居た中に、大陸の先進国中華帝国から稲作農耕文明というイノベーションが持ち込まれ、列島が中華文明のフロンティアになっていった。その時代にあっては最前線である北部九州の国、王権は中国王朝の冊封を得なければ成立し得なかった。もとより初期の北部九州沿岸の国々が、大陸渡来の人々(自発的に渡ってきたにせよ、亡命・難民として渡ってきたにせよ)やその末裔のいわば居留地(いわば華僑の国)の性格を持っていたとすればなおさらである。彼らが母国の文明、習俗、権威付けというパラダイムの中で、さらには中華世界を中心とする東アジア的世界観のなかでその存在の認証、支配の権威を得ようとしたことは不思議ではない。そうした政治的な理由だけではなく、先進国中国との交易により、貴重な財物や技術や資源(とりわけ鉄資源)を独占的に得る事ができるという経済的な便益が無視できない。これが倭国の統治の権威、権力に直結していただろう。

 しかし開発フロンティアが列島の東へ伸び、各地に有力な国・地域連合が出現し始める。それに伴って列島統治の中心が列島を東遷。徐々にではあるが列島自体が新たな「倭文明」の揺籃の地へと発展してゆく。人々も大陸渡来系と列島原住民系の融合が進み、列島人、倭人が生まれ(みずから倭人と名乗ったわけではないが)、やがては倭人、いやヤマト人、日本人というアイデンティティーを持ち始めると、必ずしも統治の権威を中華王朝への朝貢冊封に頼らない(最新の文化や技術は依然大陸に依存しているとしても)国つくりを目指すようになっていった。これには中国における王朝分裂時代(五胡十六国、南北朝時代)という朝貢/冊封体制を一時的ではあるが危うくせしめる事態も背景にあった。いわゆる中国の史書に倭国が登場しなくなる「空白の4世紀」の時代である。ヤマト王権は3世紀後半から巨大な前方後円墳という独特のモニュメントを王権の列島全域への拡張のシンボルとして展開してゆく。5世紀には倭国は朝鮮半島への進出(主として鉄資源確保を目指して)を企図し、新羅や百済の統治権を中華王朝(南北に分裂している状況であったが南朝の晋や宗に)に認めさせるべく朝貢使節を送る(倭の五王)が、思うような成果を得られなかったようである。大陸で隋が再び統一王朝を打ちてる頃には、倭国は中華皇帝への朝貢・冊封にもはや大きな意味を感じなくなり始めていた。これが厩戸皇子の煬帝への「日の出ずる国の天子、日の没する国の天子」云々の表現(すなわちこちらも「天子」だぞという主張)になってゆく。さらに7世紀には強力な唐王朝が出現するが、倭国内におけるクーデタ乙巳の変、百済救済を目指した白村江の戦い敗北、壬申の乱を経たのち迎える7世紀〜8世紀初頭の天武・持統帝の時代には律令国家体制の整備(先進国中国唐王朝から取り入れたシステムである)という「近代化」を進める。国号も自分たちが名乗ったわけでもない「倭」ではなく「日の本」とし、中華世界の頂点にいる天帝(皇帝)の向こうを張って大王(おおきみ)をもう一つの天帝、すなわち天皇(すめらみこと)と宣言する「大宝維新」の時代を迎える。これは中国の史書が描いた「倭国」の姿ではなく、まさに日本書紀、古事記が描く「日本(ひのもと)」という「国家観」である。

 すなわち2)の時代は中華的大宇宙から脱して日本的小宇宙を目指してゆく時代の始まりだった。こうして新興の列島帝国「日の本」は、その天帝(すなわち天皇)は太陽神(マテラス大神)の一族である天孫族の末裔であり、列島を作った神の子孫であるという権威に基づいて統治する国であると主張する。すなわち中華皇帝から冊封された国ではない。独自に列島に自生した国である、と。こう理解すると魏志倭人伝に記述のある魏に朝貢し、冊封された邪馬台国とその女王卑弥呼は、2)の時代の国や王ではなく1)の時代のものだと考えるのが自然だ。つまり邪馬台国は北部九州にあったチクシ倭国で、卑弥呼やトヨなどのその系譜は、奈良盆地に発生した初期ヤマト王権とは繋がらないと考えた。だからこそ日本書紀も古事記も邪馬台国/卑弥呼について記述しなかったのである。記紀の歴史認識、思想は、日本(日の本)は天神(天照大神)の一族が降臨して建国した国である。神の子、天孫族の子孫である万世一系の天皇が支配する国であって、決して大陸からの渡来人やその末裔がルーツではない。したがって中華王朝に朝貢して冊封されたチクシ倭国の国々(奴国、伊都国、邪馬台国)はヤマト王権のルーツでは断じてない、と考えた。

 とは言え、倭国が大陸の文化圏、東アジア世界秩序に無縁で、中華王朝やその伝達者である朝鮮半島の国々からなんらの影響をも受けずに、独自に列島に自生した国家であるという記紀のストーリーはフィクションであることは言を俟たない。7世紀末という、いわば古代倭国の「近代国家化」過程という時代を背景とした政治的意図を持った主張である。しかし、武断的な「天下統一」を進める新生ヤマト王権も初期の頃は朝貢冊封体制を意識していた。中華王朝の朝貢冊封体制に組み込まれていた邪馬台国などチクシ倭国との王統の系譜に繋がりはないものの、4世紀に入っても列島の支配を強める「天下統一」の過程では、ヤマトの大王たちは中華王朝に、その支配権威の正当性を認めさせるべく遣使し、冊封を求めていたのではないか(いわゆる「空白の4世紀」。魏から晋、さらには晋の分裂、五胡十六国という中国王朝興亡の騒乱が260年も続いた時代で中国側の史書に記録が見つかっていないが)。5世紀に入ると朝鮮半島における、鉄資源を巡る権益を認めさせるためにも高句麗や新羅に対抗して中華皇帝に爵号や軍号を求めている(5世紀の晋書、宋書の「倭の五王」の記述)。

 こうして奈良盆地のヤマト倭国王権も(邪馬台国などチクシ倭国ほどではなかったが)列島内の「天下統一」、朝鮮半島における鉄資源権益確保のためには、利用できる権威は利用しようと考えた。やがて青銅器生産に必要な銅資源や錫、水銀などの鉱物資源が列島内でも供給可能となり、経済的にも自給力を徐々に獲得するにつれ、また、政治的にも中華王朝が不安定な時代を迎え、久々に登場した統一王朝も必ずしも倭国大王が期待するほどに権威の承認をせず(特に朝鮮半島諸国との関係上)、自国の統治と権益にとって思うように朝貢冊封体制が機能しなくなったと感じた時に、そこからの離脱と新しい権威の源泉を自ら創出し始めたと考えられる。これが3世紀末の初期ヤマト王権の「大王」からスタートして、5世紀の「治天下大王」の自称を経て、7世紀末の「天皇」宣言まで、約400年の列島統治の権威と権力確立の闘いと、中華世界的秩序からの離脱の歴史である。



 「初期ヤマト王権」とは何か? 彼らはどこから来たのか?

 さて、その初期ヤマト王権とは一体どのような王権であったのか。彼らはどこから来たのか? 奈良盆地に土着の首長達のなかで抜きん出た首長が王、さらには全国の諸豪族の王の上に立つ大王に発展したのか? 振り返ってみると、(信じられないことだが)これまでヤマト王権のルーツについてしっかりと考えてみたことがなかった。中国の史書である魏志倭人伝に「邪馬台国」とその女王「卑弥呼」が出てくるのでそれがルーツであろうとか、纒向遺跡と箸墓古墳はその遺構だと明らかな根拠もなく推論する。あるいは、神武天皇が九州から東征してきてヤマトで即位した、という記紀のストーリーが、九州からヤマトに「なんらかの勢力」が移ってきたらしい事を示唆しているのではないか、くらいの推測にとどまっていた。そもそも神武天皇はなぜ奈良盆地を選び、そこを目指してわざわざ九州から入ってきて橿原に即位した、というストーリーが必要なのか? また何度も述べているようになぜ記紀には邪馬台国も卑弥呼も出てこないのか?そこには重要な謎解きの鍵が潜んでいる。ただ今回は古事記や日本書紀の記述については立ち入らないでおこう。

 結論を先に言うと、この初期ヤマト王権は奈良盆地に自生した土着の首長が権力闘争(武力闘争)の末に勢力を拡張し、倭国支配権を獲得していった王権ではなさそうだ。ヤマト王権(王のなかの王、すなわち大王)が近畿周辺の有力豪族を氏族化し、優勢な武力で、近畿以外の列島内の周辺諸国」首長や「蛮夷の民」を平定服属させてゆく「天下統一」物語はこののち(3世紀末以降)の話である。考古学的に見ると、3世紀後半の初期前方後円墳が出現する以前には、ヤマトには有力な首長の墳墓が見つかっていない。したがって北部九州の首長墓から多く見つかる威信財も出てこない。奈良盆地には幾つかのムラ・クニがありそれぞれに首長がいたであろう(唐古鍵遺跡のような環濠集落)が、「王」として認知される(冊封される)首長はおらず(ヤマトの王墓からは初期古墳時代を含めて中国製の鏡は一枚も見つかっていに。ちなみに卑弥呼に下賜された魏鏡ではないかと話題になった黒塚古墳の三角縁神獣鏡は全て仿製鏡(日本国内製)であることがわかっている。)チクシ倭国の諸王が大陸との交流で倭国の覇権を競っていた1世紀から3世紀前半ころまでは、ヤマトは未だ辺境の地であった。土着の首長が盆地内の主導権をめぐっての争いごとくらいはあったであろう。しかしチクシ倭国の「倭国大乱」のような天下の覇権を争うような事態にはならず、土着勢力がそのまま列島の支配者にのし上がる状況ではなかった。ところが3世紀末になると、突然のように奈良盆地の三輪山山麓が倭国の中心として登場してくる。前方後円墳や纒向のような宮殿が営まれるようになる。何が起こったのだろうか?

 おそらくこの時代の列島には、邪馬台国を盟主とするチクシ倭国連合の他にも、各地に有力な国、地域連合/王権(出雲、吉備、讃岐、但馬、越など)が出現していたと考えられる。列島内のフロンティアが東へと伸びていくに従ってこうした地域連合/王権は相互に覇権争いしたり、同盟したり、ちょうどのちの戦国時代のような様相を呈していたと考えられる。こうした列島情勢のなかから抜け出して力を蓄える国(例えば出雲など)が現れ、奈良盆地に進出した可能性もある(三輪山の神は出雲の神)。あるいは各地域の首長によって共立された大王が、有力勢力の支配権が及んでいない第三の地(無主の地と言っても良い)、奈良盆地に新連合王国の王都纒向を建設した可能性もある。あるいは、チクシ倭国の奴国や伊都国などの勢力の一部が2世紀の倭国大乱などで邪馬台国連合に敗れ、チクシ倭国(北部九州)から離反して東へ移り、出雲や吉備などの各地の勢力とも合従連衡しながら辺境フロンティアの地である奈良盆地に新連合政権を打ち立てたことも考えられる。また学会的にはにはマイナーな説ではあるが、南九州の狗奴国が東遷して建国したとする異説(神武天皇の日向高千穂からの東遷神話の元だという)もある。この間の列島内全域の歴史的な出来事は、とても魏志倭人伝といった、限られた資料だけでは把握できない。以前から述べているように、魏志倭人伝に描かれている邪馬台国を中心とする倭国の模様は九州に限られている。すなわちチクシ倭国の話なのだ。

 何れにせよ、初期ヤマト王権とは奈良盆地土着勢力が成長していったものではなく外来勢力が奈良盆地に入ってきたものであろう。それはチクシ以外の漢/魏王朝の朝貢冊封体制に入らない勢力や、チクシでの主導権争いに破れて離脱した勢力などの外来勢力だ。もちろん、その後の覇権を確立するプロセスは一本調子に突き進んだわけではないことは想像に難くない。初期ヤマト王権成立後も、クニの首長を祖先とする地方豪族や畿内の有力豪族を巻き込んだ王権のへゲモニー争いの連続であったことはのちの歴史が示している通りである。そういう点では「天下統一」の争いを繰り広げた群雄割拠勢力の戦国時代に似た状況があったのだろう。ただ大きく異なるのは、16世紀の武士団の棟梁である戦国大名は、武力平定を果たしたのちに、京都の天皇からの統治権威を獲得する(征夷大将軍、関白、太政大臣などの官位)ことで統治権力をオーソライズして「天下統一」を果たすわけであるが、この時代はどうであったのだろう。チクシ倭国的な統治権威観によれば中華皇帝への朝貢/冊封(漢委奴国王、親魏倭王など)ということになるのだが。はたして列島内の地域王権の合従連衡による王の共立、連合王国という「戦国時代」を決着させた権威、すなわちヤマト王権を認めた権威はなんだったのか。そのために記紀神話を創出した可能性がある。

 前述のように、4世紀から5世紀初めの頃までのヤマト王権初期には、国内の統治、大陸との交易(主に鉄資源)を巡って、中華王朝の冊封体制下での権威を利用しようとした形跡がある。しかし、それはそれとして前述のように列島各地にはそれぞれの小国の王(自称)や首長(豪族)がおり、それぞれに自律的な存在であっただろう。だが先進的な文物や知識、資源、なかんずく鉄資源の獲得がそれぞれの地域における支配権を安定的なものにするためには必須であった。しかし、それは地域によって地勢的な有利不利があり、比較優位に立つ国、地域と連携したほうが自らの権威/権力を担保できる場合が出てくる。そこに緩やかな国の連合体を形成する「国の形」が生まれる経緯があった。それは1〜3世紀にはチクシ倭国連合(奴国、伊都国、そして邪馬台国女王卑弥呼を「共立」する)であったし、3世紀後半以降はヤマト倭国連合(ヤマト王権)であった。やがて、そうやって「共立」された王の王(King of Kings)、大王(おおきみ)は有力な首長たち(豪族/氏族)の支援を得ながら、軍事力も高め、列島内の支配権を得ていった。そのなかで、中華朝貢冊封型パターンをコピーしながら、徐々に大王(おおきみ)自らが他地域の王/首長/豪族に対して「統治権威を認証する」仕組み、すなわち「日本型の冊封体制」を築き上げていった。各地の首長/豪族にとっては地域における自律とヤマト王権への従属という二面性を持つこととなるが、王権に寄り添うことで、地域の対抗勢力/新興勢力との競合に有利に働くことともなり、比較的抵抗なく受容されていった。やがて6世紀には氏姓制(豪族の体系化)が整備され、さらに7世紀後期になると律令制とそれに伴う官位制(豪族/氏族の官僚化)へと、天皇中心の中央集権的なヤマト王権(かつては「大和朝廷」と習った)が出来上がっていく。前方後円墳というシンボリックな墳墓形態がヤマトから地方に広まっていったことに、その考古学的な証左を見ることができる。

 残念ながら、この間の事情については文献資料がほとんどないので文献史学的に解明することは困難である。何度も述べているように日本側に資料である古事記、日本書紀は編年体で記述されていないし、時の編纂者の意図に合わせた潤色や脚色が多くて、そこから客観的な史実を解明するにはかなり批判的に読み解かねばならない。一方、中国の史書である魏志倭人伝は2〜3世紀の倭国の事情を比較的詳細に記述している。しかし、魏の使いがどこまで倭国内を自ら見聞した結果を記述しているかは疑問だ。おそらく伊都国にいて邪馬台国の役人からの聞書きで倭国を描写したのだろう。少なくともこの記述では邪馬台国がどこにあったのかもはっきりしないのが実情だし、まして邪馬台国(女王国30カ国)支配の及ばない倭人の世界(傍国や倭種)の詳細は聞いてもいないだろうし、報告もしていない。倭人も説明もしていないだろう。特にこの時代に繁栄を誇っていたと思われる出雲や吉備についての記述も見当たらない。当時の倭国(列島)の全容を知るには、その記述には自ずと限界がある。さらに彼らが見聞した倭国の姿は、当然ながら限られた時間スペースでの出来事、すなわち彼らが生きた時代をスポット的に記述したものである。よって倭国の歴史を通史的に俯瞰することはもとより不可能だ。そこには卑弥呼/イヨ以降の倭国の王権の消息に関する記述もない。また魏に対抗していた呉の史書の東夷伝も散逸していて現在では確認できない。

 そうなると、考古学的な調査研究が重要になってくる。初期ヤマト王権とは何者なのか?は今後の考古学的な発掘成果から徐々に解明されてゆくだろう。初期ヤマト王権の遺構と考えられる纒向遺跡(これ自体画期的な考古学的発見である)がこれまでの弥生的な農耕集落的性格を持たない人工都市であること(東西軸に配置された居館、神殿。運河など)や、纒向遺跡からはチクシから尾張にいたる全国からの土器が検出されていること。そして纒向都市の成立とともに奈良盆地内に紀元前3世紀から続いた弥生の環濠集落唐古・鍵遺跡が急速に衰退消滅する様など、何かしらの人為的な外圧により急速にフェーズ転換が起こり、王都が出現し、人が集まり、列島の中心として発展していったらしいことを想像させる。このころ箸墓古墳などの巨大な前方後円墳が奈良盆地の東の山麓に出現し、ヤマト王権の全国支配に伴い、中華王朝による冊封に代わる、統治権威を認証するものとして広がっていった。こうしたモニュメント的な墳墓形態と威信財を副葬する形は、奈良盆地に自生したものではない。吉備や出雲、筑紫の王達の葬祭習俗が取り入れられ、融合し、さらに発展させたものであろう。その一方で、前述のように初期の大型古墳(メスリ山古墳、黒塚古墳など)からは中国製の鏡は一枚も発見されていない(卑弥呼が魏から下賜されたのではと話題になった大量の三角縁神獣鏡は仿製鏡(日本国内製)であることはすでに述べた通り出ある)。一方で北部九州のこの時期の王墓(伊都国の三雲南小路遺跡や平原遺跡など)からは魏鏡、漢鏡が大量に出土している。チクシ倭国とヤマト倭国の相違を際立たせる考古学的成果だ。結局、これは親魏倭王とされ印綬と魏鏡100枚を下賜された邪馬台国の女王卑弥呼はヤマトにいた訳ではなく、纒向の初期ヤマト王権には繋がらないということを示唆している。これをもう少し検証するにはさらなる発掘調査の成果(例えば箸墓古墳の副葬品など)が期待されるが、ヤマトの大型前方後円墳はどれも陵墓指定されていて調査ができないことがネックになっている。

 これから期待される考古学的発見の中では、邪馬台国遺構(纒向遺跡が卑弥呼の宮殿であるとする考えには組しない)がどこでどのような形で発見されかが一番の関心であろう。例えば「親魏倭王」の印綬や、魏鏡100枚、卑弥呼の墓などが見つかれば「邪馬台国位置論争」は一挙氷解だ。筑紫平野のなかでも八女や山門郡、みやま市あたりに邪馬台国の遺構が眠っている可能性がある。豊かな筑後川水系と有明海に開けた広大な平野。奴国や伊都国のあった福岡平野よりより豊かな国があったであろう。であれば邪馬台国卑弥呼はチクシ倭国の話であり、近畿の初期ヤマト王権との関係(別の系譜であるということ)が確定するであろう。他にも奴国王や伊都国王などのその後の消息や、魏志倭人伝に記述のない列島内の(卑弥呼の女王国30カ国以外の)国々、地域王権の実情、チクシと出雲とヤマトの関係などを解明する発見などがあれば、初期ヤマト王権を形作った人々の実像が見えてくるだろう。期待は膨らむ。しかし、そのような画期的な考古学的発見が謎を一気に解明するまでは、記紀を批判的に読み込み、その中から丁寧に史実に基づくであろうエピソードを取り出し、あれやこれや推理し、何か見えてこないか、感じないか「匂いを嗅いでみる」というカンの研ぎ澄ましが必要だ。イザナギ/イザナミの国生み神話、出雲国譲り神話、ニニギの天孫降臨神話、神武天皇の東征伝承。それら筑紫、出雲、大和を舞台とする建国ストーリーはなぜ生み出されたのか。そのなかにはヤマト王権の発生、出自、実態に肉薄する史実や記憶が潜んでいるのだろうか。ただ初期ヤマト王権の全貌解明を記紀の記述の解析に頼ろうとする以上、それらは科学的な手法ではなく、推理と空想の世界に止まらざるを得ない。なんらかの結論を導き出したとしても、それは事実をもって証明されるまでは「仮説」にすぎない。フリードリッヒ・エンゲルスの「空想から科学へ」とは異なり、「科学から空想へ」がしばらくは幅をきかせそうだ。楽しい空想だ... だから私のような古代史ファンが生まれる余地がある訳なのだが。


(参考ブログ)

2016年4月:結局「邪馬台国」はどこにあったのか 〜倭国「天下統一」事業の実相〜


龍王山から展望する奈良盆地の風景
左上方から畝傍山、耳成山、その下方が箸墓古墳、正面中央は渋谷向山古墳、右は行灯山古墳
背景は正面が葛城山、金剛山、右は二上山

渋谷向山古墳の上方、アパート群左の集落内に纒向遺跡発掘現場がある。

いわゆる大和国中
正面の二上山を越えると河内。難波津を介して瀬戸内海へ続く
手前は行灯山古墳と右端に多数の銅鏡が出土した黒塚古墳が見える。




2016年10月10日月曜日

マイナー観光施設の超メジャーな存在感 〜熱川バナナワニ園をご存知ですか?〜

 
バナナと...


 伊豆にある熱川バナナワニ園をご存知でしょうか?。子どもの頃行ったことがある。伊豆観光のポスターで見たことがある。伊豆急で熱川駅を通った時に看板見たとか、知ってるけどそれほどの話題性のある観光施設というわけではなさそうだ。昭和33年開業。伊豆では結構老舗の観光施設だ。伊豆熱川駅を降りるとすぐ目の前にある。今では熱川といえば、バナナワニ園というくらいのメジャーな存在なのだが、逆に一大観光地、伊豆半島的視点で見るとある意味マイナーな存在なのだ。しかも、「なんでバナナとワニなんだ?」とか、「バナナにもワニにも惹かれ無い」とか、ネーミングが「なんでやねん」感渦巻く動植物園なのだ。

 私も伊豆には隠れ家を持つというご縁ができて久しいが、伊豆に来て真っ先に行ってみたい、というイメージはなかった。伊豆は海と山という両方の自然に溢れ、なにより豊かな温泉があちこちにある。下田や修善寺、松崎のような歴史の香り豊かな街もある。大型のレジャー施設もある。ということで有名どころに行きつくしていよいよ他に行くとこ無いか、雨が降っても傘なしで濡れずに時間つぶせるところとしての最後の選択肢的なであった。駅前というアクセス至便の観光施設であるのだが。

 しかし、このマイナーなどと自分勝手に考えていた熱川バナナワニ園が、実は知る人ぞ知るすごい実力を持った動植物園であったことをつい最近知った。そもそも観光施設であることは間違い無いのだが、レジャーランド的視点だけでメジャーとかマイナーとかカテゴライズしては、その存在感と実力を見落としてしまう。「ホントは凄い熱川バナナワニ園!」。改めて探訪してみた。なんでも無知、無関心と偏見というものは恐ろしいものだと痛感させられた。

 私も全く不勉強であったが、ここは実はワニの人工繁殖や飼育では世界的に有名な施設なのである。世界中には約30種類のワニがいるそうだが、そのうち15種類140頭がここでは飼育されている。その質量で世界でもトップクラスなのだそう。しかもワニの人工孵化を成功させた先駆的な動物園なのだ。またフィリピンワニなどの絶滅危惧種の保護に力を入れており、しっかり種をつないでいるなどの成果を上げている。野生のワニの保護区はアメリカのフロリダなどにもあるが、温帯モンスーン地帯である日本の伊豆の熱川でで人工的に飼育しているケースは珍しいのである。

 またこの施設の名前には一切出てこ無いが、レッサーパンダの繁殖、飼育施設としても有名なのだそうだ!ネパールレッサーパンダ(ニシレッサーパンダ)が飼育されている日本で唯一の動物園。しかも17頭も飼育、繁殖されている動物園は世界的に見てもないそうだ。アメリカのワシントン動物園から交配繁殖用に貸し出されたのが始まりで、今ではオーストラリアや香港など世界中の動物園と交配プロジェクトを実施しており、稀少種の保存、繁殖では世界的に権威のある施設なのだ。そのほかにも、世界に4頭しか飼われていないというマナティーもいる。

 植物園の方も、本命の(?)バナナもさることながら、数々の美しい珍しい熱帯性植物、マジックフルーツなどの果樹(もちろんバナナも!)、洋ラン、食虫植物、オオオニバスなどのコレクションがまた素晴らしすぎる。私が「バナナワニ園で」最も惹かれるのはこの大きな温室に覆われた秘密の花園だ。特に素晴らしいのが熱帯性スイレン。カラフルで珍しいスイレンのコレクションは圧巻!本園に8棟の温室、分園に6棟の大型温室が展開されており、ここに約9000種の植物が生育されている。これだけでも貴重な植物園だ。イギリスでは大英帝国時代に世界中から珍しい植物を集めるプラントハンターがいて、郊外の貴族の館に行くとイングリッシュガーデンと共に大きな温室が設けられているのを見かける。もちろん王室のキューガーデンがその究極のコレクションを誇ってるわけだが、いまやここ熱川バナナワニ園は、熱帯系が中心とはいえ日本のプラントハンターコレクションの宝庫だと言っても過言ではないだろう。よくここまで収集、生育したものだ。

 さて、最初の疑問、「なぜバナナとワニなのか?」
そもそもは創設者が「バナナ園」を開業したのが始まりだった。昭和33年当時まだバナナは高級な果物で、病気のお見舞いなどの頂き物くらいでしか口に入らなかった時代だ。しかし、なぜか「バナナ園コンセプト」はあまりパッとせず、「もう少しなにか客寄せできるものは無いか」と悩んでいた。ある時知り合いから南方から持ち帰ったワニを預かってくれ無いかと持ちかけられ、それがきっかけでひっそりと敷地の一部にワニ園を併設したところ、これが珍しがられて次々に飼育頭数が増え、とうとう世界でも稀有なワニ園に成長したのだそうだ。何が運を呼び寄せてくるかわから無い話だ。やっぱりバナナとワニの組み合わせには必然性はなかったんだ。

 レッサーパンダの方は、商業的な目的で飼育し始めたわけではなく、世界的なパンダ保護団体から声がかかり、ワシントン動物園から種の保護と繁殖を引き受けたのが始まり。ワニの人工繁殖と飼育で世界的な名声を勝ち得たために、それじゃレッサーパンダも!ということであったようだ。これもレッサーパンダとワニとバナナの組み合わせには必然性はないのだが、いまやレンサーパンダはここの人気スターにのし上がっている。瓢箪から駒。しかし地道にやっていると、誰かが何処かで見ていて評価してくれるという、なかなか含蓄のある話では無いか。

 前述のような「バナナにもワニにも惹かれ無い」という反応については、正直言って、私は今もそれほどワニには惹かれてはいない。しかし、この美しい熱帯性植物のパラダイスは大好きだし、何よりもその背後にあるこうしたアナザーストーリーに大いに惹かれてしまった。ここで飼育と繁殖に当たっている飼育員の方々は本当のプロなのだと知ることができた。そして希少動物の保護と繁殖に貢献する専門家集団であることを遅まきながら知った。いままでのレスペクトに欠ける観光客的な無関心/無知をお許しいただきたい。

 嗚呼「熱川バナナワニ園」恐るべし!気づけばローカルにワールドクラスの施設があった。別にPRを頼まれた訳ではないが一見の価値ありだ。子どもの頃連れて行かれてワニが怖かった人も、バナナアイスクリーム食べたことしか覚えて無い人も、それ以来、大人になってから一回も足を運んだことが無い人も、是非新たな視点で再訪してみるのも良いかもしれない。熱川バナナワニ園。この「なんでやねん」ネーミングは、今や希少種の保護と繁殖に貢献するZoological Gardenを象徴する名前として世界に知られるまでになった。ある意味、日本が誇るもう一つのブランドになっているのかもしれない。

ワニ...

そしてレッサーパンダ...










2016年10月2日日曜日

「洋梨のタルト」はお好き? 〜本当は怖いスイーツのお話〜

洋梨のタルト


芙蓉




 私の好きなスイーツは「洋梨のタルト」。なめらかな食感の洋梨とクリスプなクラスターをつなぐカスタードクリームの絶妙なコラボレーション。近所の小洒落たカフェのオーナー/パティシエはフランスで修行した。ここのタルトは逸品だ。そのお気に入りのカフェにウォーキングの後に立ち寄り、一杯のコーヒーとともに注文する。これが週末の幸せルーチンなのだ。家内はモンブランが好き。ウエイターがモンブランと洋梨のタルトを運んでくる。「洋梨のタルトはどちらで?」と、家内が「あっ、洋梨はこちら」と私の方を指す。「洋梨はこちら」「ようなしはこちら」「用無しはこちら」... と私の頭の中で家内の声がコダマする。

 「洋梨のタルト」「ようなしのタルト」「用無しのタルト」... 口に出してみると、なんと嫌味な食べ物ではないか!とある時から気づき始めた。私の情けない心情にチクリと突き刺さる言葉の棘。なんでこんなものが好きになってしまったのか。いやいや、今までは全く気にもならず、反応もしなかったのに... 時計が65年と1秒を指した途端に「洋梨」が「用無し」と聞こえるようになった。

 定年を迎えてから少し被害妄想気味になっている。今まで好きだった食べ物までも私をバカにしている。注文するたびにいちいち気になる。そう家内に打ち明けたら、「それは考えすぎでしょ。それならあなたの好きな花、芙蓉だってそうよ」「ふよう」「不要:Fuyou!」と屈託無く笑う。「やっぱりそうか。被害者意識が異常に現れているんだ」と、つられて自分も笑ってしまった。まだまだいけるのに世の中の雇用システムは何の感傷もためらいも無くリタイアーを宣告する。どんなに会社に貢献した人間であろうと、優秀であろうと、エリートであろうと、役立たずであろうと。指示待ち族であろうと、5時から男であろうと、一律に「用無し」「不要」となる。Younashi, Fuyouとは自分に向けられた言葉だと意識し始める。こうなると完全に被害妄想だ。

 最近「終わった人」という小説が大ヒットしている。内館牧子が書いた定年を迎えた男の建前と本音を「赤裸々」に描いた「問題作」。「俺がモデルじゃないのか?」という読者の反応が殺到しているそうだ。それだけみんな同じ状況に身につまされているわけだ。団塊世代の、笑ってしまうが笑えない。悲しいが笑うしかない。決してありえないロマンじゃ無くて「ごく普通」の世界が描かれているからこそだ。

 読書人の雑誌「本」2016年10月号より:内館牧子:定年後のエリートの悲哀を描いた「終わった人」が大ヒットした理由

 社会に役立ちたい。リタイアーするには気力も体力も知力もまだ有り余っている。それに仕事を通じた人脈も経験も人一倍だ。まだまだ行ける。九度山に流された真田昌幸状態なのだ。それが60代なのだ。なのにこのパワーをこれからどこで使えというのだ。かつてのアメリカ人の仲間たちは、リタイアーするとさっさとニューヨークの自宅やコンドミニアムを売り払って田舎に引っ込んでしまう。60を待たず、早ければ早いほど人生の勝ち組なのだ。そう、Happy Retirement!は誰もが夢見るゴールなのだ。そしてその有り余るパワーはこの時のために涵養してきたものなのだ。その後の第二の人生の設計図というものが既に描かれている。しかし、日本人はどうしてこうリタイアメントに抵抗感を抱くのだろう。経済的な問題だけではないようだ。働き蜂だからでもない。アメリカ人のように、働くということは自分の時間を金で売ること、という労働契約的な理解は薄い。よい学校を出て、よい会社に勤める。できれば東京の本社で出世する。そして東京23区に家を持つ。これがまるで人生の目的の全てであるかのように考えさせられてきたのが我々の世代だ。従ってそれが終わるということは人生が終わるということと同義なのだ。それはある意味、成長過程にあった後発資本主義国に特有のことだったのかもしれない。歴史的に俯瞰すれば、我々が生きた高度経済成長時代とかバブル期というのはその資本主義経済の発展段階における後発性の現れの時代だったのだ。今の中国を見るまでもない。成熟した社会においては安定成長しかない。個人は右肩上がりの経済成長、すなわち生活水準の向上を期待することはできない。そうなるとむしろ成長ではなく充実を求める。金ではなく心のゆとりだ。都会の生活よりも田舎の生活だ。しかしそういう時代に高度経済成長期を生きた我々はなかなか適合できないのだ。価値観を変換できないし、今更人生設計を変更もできない。

 家族や周りの人々は言う。「だから言っただろう、打ち込める趣味を持っておけと。地域の活動にもっと参加しろと...」しかし、社会に役立ちたいということは、そば打ちしたり、ゴルフ三昧したり、地域の老人クラブでゲートボールしたりすることじゃない。趣味は本業が忙しいから息抜きの趣味になるのだ。今まで行きもしなかった図書館で1日過ごすなんてまっぴらだ。健康のためにと称して平日からジムに通うシニア世代と一緒にして欲しくない。そもそも健康維持はそれそのもが目的ではないはずだ。猛烈に働き、出世し、家族を食わせるためにやるものだ。仕事もなくただ元気でいるなんて考えられない、くらいに考えていた。有り余る時間をもっと何か社会にとって「有益なこと」に役立てたい。だがその「有益なこととは何か?」実はあまり具体的なイメージがない。また「自分の時間」と言われた途端に戸惑う。振り返ってみるとこれまでは、常に誰かが私の時間を占有し、私の時間を決めてきた。エラクなってからはますますだ。スケジュールは秘書が管理している。組織が私のやるべきことを決める。自分で自分の時間など決めることもできなかったのだから。

 一方これも先輩たちがよく言うアドバイス。「いっそ新しい恋でもしたら。元気がでるぞ」と。小説の中でも、なんと女房や娘まで言いだす始末。絶対アリ得ナイと思うからの発言だ。確かに地位もなく金もなく、時間だけがたっぷりあるリタイアー男を好きになる酔狂な女が世の中に一体いるとでもいうのか?金をいっぱい持ってるジジイにすり寄る女はいるが、別にジジイに惚れてるわけでは無い。大好きなのは金だ。「金の切れ目は縁の切れ目」。会社でも恋愛でも共通する大人の社会の鉄則を忘れてはいけない。妄想を抱いてはいけない。

 この時期に突然多くなる同窓会やOB会。行ってみると様々な60代男女の本音と建前が交錯する。まずは「名刺交換」。現役時代には当たり前の社会儀礼が、リタイアー族には別の意味を持つようになる。これが今自分が置かれているステイタスを表明する瞬間となる。「顧問」とか「社外取締役」とか「コンサルタント」とか、関連団体役員とかいう肩書きの名刺を出せる人はまだ社会に求められている証拠ということになる。そうでなければ「とうとう毎日が日曜日だよ」とか「ようやく悠々自適の日々がやってきました」とか、「晴耕雨読の毎日(耕す畑も読む本も無いにもかかわらず)」とか言って暇人人生を自虐的、ないしは孤高の姿勢で形容する。しかし、内館牧子氏も言うように、ここで感じるのは、終わってしまった人は、実は皆横一線で着地するということだ。エリートでもイケメンでも美人でも。そう一律に「用無し」となる。俺は役員までやったんだぞ。おれは定年延長で会社から頼まれて顧問をやってるんだぞ。おれは外部から頼まれて社外取締役やってるんだぞ。それがなんだというんだ。自分が社会にまだまだ求められる人間なんだということをエンドースするための肩書きを並べてみたいというだけ。実際にはさしたる役目も無く、「名誉職」などと言われて組織にしがみついている諦めの悪い自分が居るだけだ。終わってみれば、そんなことは世の中にとって、いや人生にとって誤差範囲内の出来事にすぎないことに気づく。あなたが居なくても会社は回っている。あなたが辞めても世の中は何の変化も起きない。そうでなくても結局は人生は帳尻が合うようにできている。おれはエリートだ、私は美人よ、という人ほど、その着地の衝撃が大きい。ソフトランディングできずに煩悩世界を彷徨う。

 「終わった人」は、いつまでも「終わった前世」にしがみつくのではなく、ましてサラリーマン人生の延長では無く、この機会を全く新しい人生の始まりにしたほうがいい。短い人生で自分が経験して来なかった別の世界、見過ごしたり捨ててきた価値を改めて拾い集めて再評価し、追いかけてみるのはどうだ。これまでの人生は紆余曲折を経ながらも道の真ん中をひたすら前だけ見ながら歩いてきたのだろう。路傍に佇む野の花の美しさに気づくこともなく。道のはるか向こうに聳える甘南備山の気高さに気づくこともなく。世間の評判を気にして本当はやりたくてやっているわけでもない出世競争など忘れて、俗世の垢にまみれる前の純粋な若者の時代に憧れた世界を、やりたくてもやれなかった生き方をいまから追いかけてみたらどうだろう。だいたい会社人生を過ごしてきたサラリーマンは、これまで資本主義的合理性と、所属組織独特の(世間には通用しない)ロジックという非合理性の狭間で人生を過ごしてきた。その世界から離れてみるとそうしたロジックとは無縁の世界に憧れている自分を発見する。だが、うんざりしてたくせに終わってみると美しい時代であったという幻想にとらわれて「思い出にしがみつく」。こうしてせっかくの新しい未来を掴み損ねる。これからの未来はこれまでのようにそう長くはないのだから尚更だ。定年後やりたいことがわからないというサラリーマン諸君。これまでの経験だとかノウハウだとか人脈だとか、思い切って棚卸しして、新たなスタートを切ってはどうだ! ふと目線を上げて世の中を俯瞰してみると、残念ながらどうせ大したことやってこなかったのだから... 所詮お釈迦様の手の平で暴れていた孫悟空なのだから。だからいつまでも現世でうろうろして成仏できない亡者になるのではなく、さっさと成仏して極楽往生いたしましょう。これからは自分の時間は自分で決める。でないと第二の人生も人に決められた人生になってしまう。


 そうだ私も定年小説を書こう。タイトルはもちろん「洋梨のタルト」で決まり。「終わった人」が大好物「洋梨のタルト」を愛でながら「思い出にしがみつく」。まるでバーナード・ショーの皮肉のようじゃないか。それだけで小説のモチーフになる。成熟した大人にはsense of humorの味付けが必要だ。まさにTell your story!だ!

 しかし、まてよ。やっぱり書けない。モデルはこの私なのだ。赤裸々な本音を書くのは勇気がいる。まだ現世のしがらみから脱却できず百八つの煩悩に苛まれるている凡人には結構高いハードルだぞ。まだ成仏できてい無い。そういえば「洋梨」「用無し」も単なるオヤジギャグじゃないか。なにがsense of humorだ。そもそもまだ修行が足らんということだ。出直し出直し!