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2025年2月28日金曜日

古書を巡る旅(61)『The Life and Strange Surprising Adventure of Robinson Crusoe』by Daniel Defoe 〜 ダニエル・デフォー著「ロビンソン・クルーソー」〜




1891年版表紙

難破して座礁した船からたった一人で多くの資材を陸揚げする
苦闘の始まり

一人だけの世界に他人の足跡発見 危機感と希望のないまぜ

助けたフライデーに英語とキリスト教を教える


今回取り上げる本は、ダニエル・デフォー(1660〜1731年)の『ロビンソン・クルーソー』: The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner, as Related by Himself。初版は1719年である。この物語は誰も子供の頃に一度は読んだり、漫画やアニメで見たりしたことがあるだろう。子供心にもワクワクする心ときめく冒険物語であったことを思い出す。手元にある本書は、1891年にロンドンのCassel and Companyによって出版されたもので、著名なイラストレータであるウォルター・パジェット:Walter Pagetによる120点もの挿画が収録されている。表表紙にも金押しのイラスト付き。これまでもイラスト入りの版はあったが、これほど多様な挿画が散りばめられた版は珍しい。茶色のハーフ・モロッコ革装、レイズドバンド、三方金という豪華装丁の、いわば愛蔵版である。

話は2部構成になっている。第1部が冒険者、商人としての航海と遭難。そして28年間の孤島での生活の物語。第2部はイギリスに生還し、再び冒険と商売に出かけるという話。インド、中国、日本に向かう話も出てくる。しかし、なんと言っても『ロビンソン・クルーソー』といえばこの第一部であり、最も人気があるパートである。

話の冒頭はクルーソーの子供時代に遡り、父に無謀な航海に出ないよう諭されるところから始まる。結局は家を出て船乗りの道を歩む。しかし、初航海でヤーマスから外洋に出た途端難破し命からがら引き返す。もう懲り懲りだ、船乗りには向いていないと悟るが、しばらくするとそれを忘れて今度はアフリカを目指す船に乗る。ベルデ岬沖でトルコの海賊に襲われ、捕虜となりムーア人に奴隷として売り飛ばされる。そこを小舟で脱出し、航行中のポルトガル船に助けられる。親切な船長と共にブラジルへ向かい、農園を開き、経営して軌道に乗せる。あるとき生産拡大のための労働力確保のためにアフリカから奴隷を連れてこようと、再び航海に出る。そこで嵐に合い遭難する。今度はただ一人孤島に漂着する。南米オリノコ川河口の無人島であることが後でわかる。「1659年9月30日 我ここに上陸す」と記録。ここから28年間の無人島での一人暮らしが始まる。難破船から一緒に上陸した犬と猫。そして島で捕まえて言葉を覚えさせた鸚鵡だけが友達。最後の4年は、人喰い人種の生贄として島に連れてこられた、殺されそうになった現地の若者を助け、フライデーと名付け僕(しもべ)にする。

この漂流譚は、モデルとなった出来事(スコットランド人アレクサンダー・セルカーク(1676〜1721年)の漂流記)はあったものの、デフォーのフィクションである。全てがクルーソーの一人称単数、過去時制による伝記体で書かれている。このようにあたかもノンフィクションの記録であるかの体裁をとった理由には、小説や物語は嘘(虚構)を書き連ねるもので卑しいもの。神の意思に反するもの。歴史や詩に比べる文学作品としては劣ったものであるとする当時の受け止めがあったからと考えられている。したがってロビンソン・クルーソー自身が書いた記録(as related by himself)という形をとり、初版には著者デフォーの名前すら載っていなかった。しかしデフォーはそれだけの理由でこのような実録風の伝記体をとったのではないだろう。そこには彼の歴史に対する想いがあったと考えたい。彼はコロンブスの探検航海のような大きな歴史や、ハクルートやリンスホーテンなどの公式航海記録に名を残す航海者ばかりが歴史ではなく、海に散っていった多くの名もなき航海者、冒険商人、海賊がいたはずである。こうした名もなき個人のいわば「自分史」「体験記」、すなわち「小さな物語」の積み上げが、「大きな歴史」を形作る。また「大きな歴史」を多面的に描くことができると言いたかったに違いない。彼らの物語(narratives)にこそ歴史を物語る真実があると。源氏物語の中で紫式部が、虚構であるはずの「物語」の方が、事実の記録であるとされる「歴史書」よりも多くの真実を語るものだ、と述べている部分を思い出す。古今東西、小説家はその作品に歴史に対する使命感と役割を共有するのだろう。それにしてもデフォーのリアリティーに満ちた表現力、行ったことも見たこともない島の、まるで現地を見てきたかのような詳細な記述と情景描写に驚かされる。ノンフィクションを遥かに超えるフィクションである。


この物語の時代背景:

17世紀のイギリスは「イギリス革命の時代」と呼ばれた激動の時代であった。国の政治体制が大きく揺れ動いていた。しかし王権が変わろうと、清教徒革命で国王が処刑されて共和政になろうと、王政復古が起ころうと、名誉革命で王権が移行しようと、変わらず航海に出て商業活動に勤しむ商人がいた。新しい中産階級、都市商工業者層である。これはのちに産業資本家、商業資本家として力をつける大事業家から、中小の商工業者まで幅広いが、彼らに共通するのは「利潤の獲得のための惜しまぬ努力」「勤勉」「自己向上心」という資質であり、「天から与えられた職業」としての商業、生産活動に精を出した点であろう。そして「勤労」によって生み出された価値を「消費」するだけではなく「余剰」を「貯蓄」し、「再生産」に回す。彼らは非国教会プロテスタントである。これまでも王権に庇護され従属する冒険商人、冒険資本主義者、植民地経営者はいたが、職業としての営利活動に徹する「ピューリタン的」中産階級が生まれたのがこの時代であった。マックス・ウェーバーのいう「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の実践者である。「ロビンソン・クルーソー」はまさにそのモデルだった。1760年代以降の産業革命、大規模な産業資本家の登場の前史に生まれた「産業人」の姿であった。政治的には王党派のトーリー党と、都市中産階級庶民派のホィッグ党の争いの時代であるが、彼らの商業活動は、そうした政治闘争とは別に、ピューリタン精神と経済的欲望に基づいて着々と進められていった。まさに、のちにアダム・スミスのいう「神の見えざる手」に導かれた自由商工業者たちの登場である。

主人公のクルーソーはそうした中産階級、都市商工業者出身という設定である。17世紀イギリスを代表する文壇の大御所ベーコンやミルトン、ドライデン、ポープの作品には登場しないキャラクターである。物語の冒頭でクルーソーが父に諭される場面が、この時代の精神を映し出し象徴的である。父は彼に「人生の不幸を背負っているのは上流階級と下層階級の人間に限られている」「我々の家系は上流階級でもなければ、下層階級でもない。幸いなる中流である。中庸と節制と平穏を重んじ勤勉に働いていれば危険に晒されることもなく誰よりも幸せに暮らせる階級だ。これこそ神が我々に与えてくださった恩寵である」と。だからわざわざ危険な航海や冒険の旅に出ることはない。上流階級になろうと欲を出したり、下層階級の荒くれ者になったりしてはならないと。そこに神のご加護はないと。これは現代の中間層の父親にもありがちな息子への処世訓であろうが、この時代の空気をよく表している。しかし若者はそれでも家を飛び出して危険を顧みず航海に出る。中産階層を生み出した時代は、父の警告とは裏腹に一攫千金を狙う冒険商人も生み出した。のちに孤島での悲惨な生活に直面した時、父の言葉と神の恩寵を無視した自分を恥じている。しかし、その逆境の中でもで神は我に寄り添い、その「神の恩寵」に感謝しより信仰を深めている。むしろこの逆境こそが、新しい富を創造し、価値を生み出す源泉であったし、神もそれを見守った。

17世紀のイギリスは、土地に縛られ貴族や地主に使われる小作農民中心の「中世的イギリス社会」から、自営農民や、毛織物工業の発達に伴う多くの新興商工業者を生み出した近代社会への移行期であった。さらには大航海時代を経てイギリスやヨーロッパを超えた「巨大な国際市場」「未知の開れた世界」へ向かうというパラダイム転換の時期に入っていた。もの新しい世界に踊り出していったのが海を自由に行き来する「貿易商人:Traders」あるいは「海賊:Pirates」である。ある研究によれば、こういう海を舞台にした商人はリスクも大きいがが、当時の中産階級の中では年収が一番大きかったと言われている。こうした「未知の開かれた世界」に中流下層の若者が憧れたのは故無しとはしない。ロビンソンの物語はこうした時代背景のもとに生まれた。それは、同じ中産階級出身の作者デフォーの憧れでもあった。デフォーは漂流者ロビンソン・クルーソーに理想の中間層イギリス市民のモデルを見つけ、描き出したのであろう。


この物語の2つの読み方

「ロビンソン・クルーソー」は、そうした時代背景のもとで生まれたいわば「時代小説」であるのだが、後世、この物語は思わぬ読者によって思わぬ評価を受けることになる。それは著者であるデフォーにとっても想定外であったかもしれない。主人公ロビンソン・クルーソーはどのように受け止められたのか。

1)冒険物語の主人公としてのクルーソー、

まずは、ワクワクドキドキの冒険小説の主人公としてである。無人の孤島という逆境に身を置きながらも、知恵と勇気と信仰で逞しく生きる一人の人間、クルーソーの物語。プロテスタント・中産階級の親が子供に読ませたい冒険小説として評価され、ジャン・ジャック・ルソーは教育論「エミール」の中でこれを取り上げ、人生において読むべき一冊、子供に読ませるべき一冊としている。やがて世界中に受け入れられてゆく。確かに自分自身も子供の頃にそうした児童文学書としてこの物語に接したものだ。しかし、元々子供向けの冒険物語として描かれたものではない。イギリス激動の時代の世相を描く文学作品として書かれたもので、読者は大人を想定している。デフォーも子供に人気が出るとは考えても見なかっただろう。しかし長らく文学作品としては評価を受けなかった時代もある。この物語が見直されるのは20世紀初頭のバージニア・ウルフやブルームズベリー・グループによる17世紀イングランド文学の再評価がなされたときだ。デフォーはイギリス近代小説の先駆けとみなされるようになる。かの大御所ドライデンも20世紀になってT.S.エリオットにより再評価された。

2)社会科学・経済学の物語の主人公としてのクルーソー

その一方で、冒険譚とは別に「近代的経済人ロビンソン・クルーソー」「ピューリタン的人生訓」の物語として読まれるようになる。文学作品としてではなく社会科学的、経済学的に読み解かれる。19世紀から20世紀初頭にかけて、中産階級出身のクルーソーの孤島での自立生活は、カール・マルクスによって「合理的経済人」のモデルとして、また「労働価値説」の根拠として「資本論」の中で論じられた。また、ピューリタンのクルーソーは、マックス・ウェーバーによって「祈りと労働のうちに暮らす、同時に伝道もする経済人」のモデルとして論じられた。日本では大塚久雄がマルクスやウェーバーを研究する中で「社会科学における人間の問題」1977年で、中産階級の経営者モデル、生活様式モデルとしてクルーソーを取り上げて有名になった。大塚も「私はこれを文学作品としてではなく、社会科学の研究テーマとして読んだ」と言っている。クルーソーが、いわば「ホモ・エコノミクス」の原型であるかのような扱いを受けており、今でも多くの経済学者や社会学者が「ロビンソン・クルーソー問題」として取り上げている。デフォーが想定していなかった読者たち、評価である。今回はそういう観点で「ロビンソン・クルーソー」の物語を読み直してみたい。


「社会科学的」に読むと何が見えるのか?

では物語ではどのような「合理的経済人」「信仰と労働」の姿が見て取れるのか。視点を変えてみると確かにそこには、一発屋の「冒険商人」から、堅実な「産業人」へ成長してゆくクルーソーの様が描かれていることに気づく。また「商業の時代」から「工業の時代」へ、さらには「情報の時代」へと向かう発展段階論を想起させる思考様式、行動パターンの変遷が表現されているようでもある。その前提として、この頃の中間層がいかに博識で実践的知識を豊富に持っていたかについても詳細に描かれていて、認識を新たにすることができる。こうした合目的的知識と実務能力、合理精神と勤労意欲を持った中間層が、時代の発展段階を次のフェーズに押し進める大きな原動力になったと言っても過言ではないだろう。そういう観点で読み返してみると、それを象徴するエピソードが、確かにこの物語には随所に散りばめられている。物語の中からいくつかのエピソードを拾ってみよう。

難破船から陸上げした限られた資源(食料、火薬、道具、衣類など)を計画的に、合理的に配分し将来に備える。島で自給できる資源(水、木材、山羊、鳥、果物、薪など)を組み合わせて持続可能な生活を送るための「生産」と「消費」の経済モデルを提示している。ここには優れた経済家としてのロビンソン、さらには工業化社会における合理的人間の生き方が描かれている。ちなみに船にあった大量の金貨はここでの生活には全く役に立たないと苦笑する場面には、世俗の金銭欲に対する皮肉が込められていて面白い。ここは貨幣や金が仕事しない世界である。もっともイギリスに帰還する時にはしっかりと持って帰る。そこは貨幣や金が仕事する世界だから。

さらに「消費」と「貯蓄」のバランスをとり、「余剰」でできた「貯蓄」を「投資」にまわし「労働」により拡大再生産してゆく。例えば食料は、一時の空腹のために食べてしまう(「消費する」)のではなく、籾や種子として蓄えて将来の食糧増産に充てる。農耕、栽培により持続可能な生活を実現する。また島で生息する山羊も同様、鉄砲で狩猟すれば火薬や弾丸が無くなるし、山羊が絶滅する恐れがある。子山羊を捕獲して飼って育てれば、乳も取れるし肉の安定供給が可能になる。そうした作業に自分の労働時間を振り分け、限られた資源を最大限に増やす生産活動を行う。まさに勤勉を旨とするプロテスタントの合理的生き方を示す。

また手元にある有り合わせのナイフや手斧などの道具や、難破船から運び出した材木、石材、鉄材、帆布などを用いて、木材を切り出す斧や、穀物収穫の鋤、鍬、鎌、煮炊きの器、衣服やテント、さらにはそうした道具を作るための溶鉱炉(吹子)や研磨機などの生産材を作る。こうした「生産材の生産」活動が更なる「生産の拡大」を生み、そこから生まれる「余剰」を「貯蓄」に回すことにってさらに拡大再生産へ投資するという循環をもたらしてゆく。その例外は銃で、重要な狩猟道具であり自分の身を守る道具であるが、再生産できないので、限られた「希少資源である」火薬、鉄、鉛を貯蔵し、消費を抑えて計画的に使用する。

保険概念が孤島生活でも発揮されている。リスク分散 不確実性への保険(住居の分散、火薬保管場所の分散、狩猟に代替する生産方式の創造など)。むしろ常にリスクにさらされる孤島であるがゆえに保険の重要性が意識されている。

孤島生活の不安をただ嘆くのではなく、Pros & Cons(長所・短所)をBalance Sheet(貸借対照表)に書き表し、会計処理手法を用いて合理的に労働時間や資源配分の評価、意思決定する。会計監査の発想はまだ見えないが、貸借対照表が日常生活に用いられている。

居住地をフェンスで囲い込み、野蛮人や猛獣の襲撃に備える。ヤギを飼育する牧草地を囲い込む。大麦の栽培地を囲い込む。本国で盛んであったエンクロージャーである。しかしここでは自分しかいないので他者との争いや軋轢を生じることはない。ただ安全と安定を確保することが目的であるが、そこには一種の「所有権」主張が見て取れる。

暦を記録する(1959年9月30日の上陸以来、28年間の滞在日数をほぼ間違いなく記録、認識している)、安息日、断食日を守る。日記(やがてインクが無くなるが)をつける、暦と記録を取ることで時間管理と情報管理ができる。これが将来この島を脱出できる時に役立つ。脱出できなくてこの地で果てても、後から来るかもしれない漂流者の役に立つ。 

ある日、家畜の飼料であった雑穀の中から大麦が発芽しているのを見て何かに打たれた。これぞ神の恩寵であると深く感動する。神は苦難を与えても自分を見捨てずいつも傍に立ち続けてくれる。父の言葉にも神の教えにも無頓着であった自分への反省と感謝。聖書を読む(イギリスを出る時に渡してくれた友人に感謝)。ピューリタン的な信仰に支えられた労働と生活の実践が描かれている。

人食い人種から蛮人を助けてフライデーと名付け、従僕とする。 やはり一番の渇望は人とのコミュニケーション、外部情報の獲得であった。英語を教え聖書を読み聞かせクリスチャンに改宗させる。これで労働や生産における役割分担という協業ができるようになった。二人ではあるが小さなコミュニティーができた。二人は最良の友となる。ただし主人と従僕という上下関係は厳然として設けている。ここでは異教徒=野蛮人、キリスト教徒=文明人という二項対立観念が明確に意識されている。「野蛮人(異教徒)」を教化して「文明人」にすることはキリスト教徒の使命であると考えている。しかし野蛮人/人食い人種であっても、クリスチャンになれば「人」として扱う。これがヒューマニティーであると考えている。

やがて船の叛乱で捕縛されたイギリス人船長たちを救助して、クルーソーが「総督」として10人の「従者」を持つ「王国」を形成する。これは武装した叛乱部隊と戦い、降伏させるための「擬制」「演出」なのだが。事実、この島は自ら探検し、28年にわたって開拓し、所有、支配しているクルーソーの「植民地:Colony」「王国:Kingdom」なのである。所有と支配は後から来たものが投資し労働することで生まれる、という植民地支配の論理が示唆されている。


「冷静沈着なリーダー」としてのクルーソー

一方で、「合理的経済人」だけでは解決し得ない問題も提示されている。こうした一人だけで暮らす孤島では人との遭遇、接触は、希望でもあり恐怖でもある。海岸に人の足跡を見つけた時のクルーソーの反応が印象的である。敵(人食い人種)なのか、味方(救助者)なのか、緊張が走る瞬間である。その結果として、複数の人喰いの「野蛮人」の上陸を知ると、向かってくる彼らを銃で殺し撃退し、捕虜であったフライデーとその父、スペイン人を助ける。しかしその時、彼らは唾棄すべき「人喰い」習慣を持つ「野蛮人」であるのだが、なぜ私に銃で殺されなければならないのか。彼らはただ彼らの習俗に従って生きているだけではないのか。私に危害を加えない限り殺す理由はないのではないか。ふと他者に共感を持つ近代人の片鱗を見せる。しかし、すぐに次に訪れるであろう事態への不安と恐怖(この島に人がいることを知って「野蛮人」が集団で反撃してくる)に支配される。一方で人がやってきたということはこちらから人いるところへ脱出できる可能性があるとも考える。スペイン人漂流者が蛮族と平和に暮らしているところが近くにあるという情報を聞いて、そこへ脱出できるよう手を打つ。この時の彼の判断と行動が冷静沈着である。撃退した蛮族が嵐で帰還できなかったことを確認したのち、助けたスペイン人とフライデーの父を味方の居る集落がある陸地に送り出す。限られた情報でたった一人で状況判断、意思決定する。またイギリス船の反乱者が上陸してきた時の対応も印象的である。最初に島に近づくイギリス船を発見した時には狂喜乱舞する。今度は人喰い人種ではなく、母国語を話す同胞が現れたのだ。しかしすぐに反乱者に乗っ取られた船だと理解する。懐かしさに我を忘れることはなく、次に何が起きうるかを冷徹に予測する能力の高さを示している。監禁されていた船長と船員を救出して味方につけると、この島の「総督」として少人数で多数の武装反乱グループを制圧する。こうして母国へ生還する。こうした点は「合理的経済人」クルーソーよりも、「冷静沈着なリーダー」クルーソー像が勝る。結局、「合理的経済人」も、同時に「冷静沈着なリーダー」でなければ、生きて帰還できないのだ。


イギリスへの帰還と財産の保全

冒険譚のいわば「後日談」あるいは「余談」として驚くのは、ロンドンに残したクルーソーの財産管理が留守中に一人の女性によってなされていること。また漂流以前にブラジルで手に入れ、事業として軌道に乗せた農場が、クルーソーを救助したポルトガル人船長によって財産として権利が保全されていること。土地や財産が、28年間行方不明で生死不明でも保全されていることに驚く。相続が遺言により誠実に実行されることにも。文書記録と管財人の存在が鍵なのだろうか。財産信託を任された人間の倫理観。神に誓って誠実に執行するのが当たり前であったのだろうか。そしてイギリスに生還した後、あの孤島に残してきたイギリス人の反乱者、スペイン人にその土地の所有権を認め分与したこと。こうした権利関係を認め合い、それを担保する仕掛けがどのようになっているのだろう。裏切って横領することも、うやむやにしてしまうことも容易にできるはずなのだが。個人の財産権を担保する仕組みが、距離と時間を隔てても確実に機能していることに驚く。これが大勢の冒険商人たちが海外への進出を可能にした仕組みの一つであったのだろう。

第2部で、再び冒険の旅に出かける。めげない不屈の精神と行動力の物語であるが、今回はここまでとする。


漂流譚:Castawayの系譜

漂流譚:Castawayといえば、この物語の設定年代の60年ほど前に、1600年、実際に日本に漂着したオランダ船リーフデ号イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)の実話が思い出される。彼の場合は、無人の孤島、野蛮な人喰い人種の未開の地への漂着ではなく、地球の裏側の異教徒(彼らから見れば「野蛮人」であることに変わりはなのだろうが)のもう一つの「文明国」に辿り着き、そこで支配者、徳川家康の知遇を得て貿易と日英交流に活躍するという、歴史的な役割を果たした。このロビンソン・クルーソーの物語やガリバー旅行記を生むきっかけの一つとも言える歴史的出来事である。しかし、架空のクルーソーの物語と違って、この実在のイギリス人航海士の物語:narrativeは、歴史学者の研究対象として取り上げられても、経済学者や社会学者の研究対象にはならなかった。史実は相対化、抽象化されて理論モデルにできにくい。むしろ「青い目のサムライ」ウィリアムズ、三浦按針のロマンとして「物語」化され文学や映画の作品になっていった。フィクションが社会科学的研究モデルとなり、ノンフィクションが文学作品モデルとなる。ともによくある話ではあるが面白いものだ。

漂流譚は日本にも多い。特に19世紀の幕末、記録に残るだけでも大黒屋光太夫、山本音吉(Ottosan)、浜田彦蔵(Joseph Heco)、中浜万次郎(John Mang)、またペリー艦隊に随行してきた仙太郎(Mato Sanpachi)などが知られている。「ジョン万漂流記」などとして子供に人気の物語でもあった。しかし、いずれも19世紀、鎖国下の日本、海外渡航禁止厳罰という理不尽な環境下での不慮の漂流である。救助された船の母国であるアメリカやイギリスに渡り、彼の地での異文化体験、近代文明を見てきた鎖国日本人、その幕末・開国史における役割、と言った視点で取り上げられることが多い。たまたま自由で合理的思想に触れた庶民である日本人が、鎖国日本に戻るか否かの選択に迫られる葛藤の物語でもある。ある者は帰国を諦め彼の地の人となる。ある者は処罰を恐れずあえて日本に戻り激動の幕末・維新を逞しく生きる。あるものは日本へ戻るが処罰を恐れてひっそりと身を隠して生きる。このように19世紀の日本人の漂流譚は、鎖国という閉鎖空間から意図せず押し出された(いわば受動的)漂流の物語であり、17世紀のイギリスのそれは、国家が世界に向かって雄飛し、そこに新しい中産階級の冒険商人たちが群がり、自ら飛び出したことに伴う(いわば能動的)漂流である。この自分の意思で積極的に出て行ったか、不慮の事故であったのかの違いは大きい。実在のアダムスや架空のクルーソーような航海者や冒険的商人たちの漂流譚の中にイギリスの「近代産業社会」の萌芽を見るのであるが、19世紀日本人の沿岸漁業や沿岸流通に携わる船乗りたちの漂流譚にはそうした「社会変化」の兆候を見てとることはできない。ただ全く皮肉なことに、彼らは意図しない漂流で外洋に押し出され、その17世紀に芽生えたイギリスや、その植民地であったアメリカの「近代産業社会」萌芽の200年後の熟成の姿を目撃することになったのである。「漂流」という形の「東西文明の邂逅」第二章である。その後日本は急速に近代化を進めることになる。歴史とは「糾える縄の如し」である。


Daniel Defoe (1660~1731)

作者ダニエル.デフォー(1660〜1731年)

著作家、パンフレット(小冊子)発行人。生涯で500冊の作品を出したと言われるが、この「ロビンソン・クルーソー」が彼の代表作である。父はロンドンの蝋燭製造販売人で、非国教会系長老派の商工業者であった。 清教徒革命の挫折、王政復古、ペスト大流行(1665年)、ロンドン大火災(1666年)を経験した父に育てられた。デフォー自身も都市の商工業者・中産階級の出身の非国教会プロテスタント。爵位も学歴もない庶民であった。父は彼を聖職者にすべく非国教会系のモルトン・アカデミー(ケンブリッジ、オックスフォードでの研究、教育が禁じられた学者が創設した)で学ばせた。このアカデミーは古典よりも科学や数学、英語を指導し、これがのちの執筆活動に寄与した。王侯貴族、伝統的地主層を代表するトーリー党と、信仰の中産階級市民層を代表するホイッグ党が対立する時代であった。

デフォーは聖職者にはならず、さまざまな商売をを立ち上げ、ヨーロッパ各国に売り歩いた。しかし大儲けしたかと思うと失敗して大きな負債を負ったことも。やがて政治にも関わり、商売と政治の二足の草鞋で浮き沈みの大きい人生を歩む。カトリックのジェームス2世の即位に反対するモンマス公の反乱にも加担しオランダに亡命する。1688年の名誉革命ではウィリアム3世/メアリー2世を「非国教会の商人」として支持。批評家として活躍し、ウィリアム3世やホイッグ党政府に近づく。しかしウィリアム3世が逝去すると弁論活動が元で政争に巻き込まれて処罰され、さらし台に上げられたり。しかし貴族ロバート・ハーレー(オックスフォード=モーティマ伯爵)に引き立てで週刊誌The Reviewを発行人に。実質的な政府広報官の役割を果たした。1707年合同法でイングランドとスコットランドが合邦「グレート・ブリテン王国」誕生の際には、アン女王のスパイとしてスコットランドで暗躍したと言われるが、女王に見限られ1713年、逮捕、The Review廃刊。 ハーレーにより釈放される。1714年 アン女王死去、王位継承権を持ったドイツのハノーバー家ジョージ1世即位、ホイッグ党が政権、ハーレー追放。しかしデフォーはホイッグ政権で秘密の活動継続を条件に作家活動を継続。しかし経済的に逼迫、結局トリーとホイッグの間を右往左往する不安定な人生であった。

1719年 59歳で「ロビンソン・クルーソー」を出版。大成功する。 他に、「ロビンソン・クルーソー反省録」「モル・フランダース」「ペスト」「ロクサーナ」などの長編小説や論文や作品を発表。イギリス近代小説の先駆けと言われる。全部で500冊を超えると言われるほどの多作家であった。ただどこまでが彼自身の著作かわからないものも多く含まれる。1730年失踪、翌年ロンドンで死亡。

(参考)

ジョナサン・スウィフト(1667〜1745年)

デフォーと同時代の作家に「ガリバー旅行記」の作者スウィフトがいる。アイルランド系イギリス人 ダブリン大学神学博士 風刺作家、パンフレット作者。アレクサンダー・ポープとの友誼 トーリー政権崩壊で政治的敗者となりアイルランドへ ロンドンのポープのところへ戻り1726、27「ガリバー旅行記」出版 1744年ポープ死去、1745年スウィフト死去。スウィフトが7歳年上のデフォーと出会ったり、直接の影響を受けた記録はないが、「ロビンソン・クルーソー」の物語が、形を変えて「ガリバー」の物語の着想に影響を与えたことは間違い無いだろう。ただし、「ガリバー旅行記」の物語には世相を反映した多くの政治風刺が込められているが、「ロビンソン・クルーソー」には政治風刺がない。この違いはなんなのか。


参考文献:

和訳版は数多く出版されているがその一部を

『ロビンソン・クルーソー』阿部知二訳 岩波少年文庫 1952年初版

『ロビンソン・クルーソー』平井正穂訳 岩波文庫 1967年初版

新訳『ロビンソン・クルーソー』海保眞夫/原田範行訳 岩波少年文庫 2004年 本書に掲載されているウォルター・パジェットの挿画が多く引用されている。

新訳『ロビンソン・クルーソー』鈴木恵訳 新潮文庫 2019年

『社会科学における人間』大塚久雄 岩波新書 1977年

また、松岡正剛の「千夜千冊」のダニエル・デフォー論がおすすめ。

2025年2月25日火曜日

今年も池上梅園散策 〜寒気去ってようやく〜




今年も我が家恒例の池上梅園のブラぱち散策に出かけた。昨日まで列島を寒波が襲い、東京も雪こそ降らなかったものの震え上がったが、今朝はようやく気温が上がり春らしくなった。今年の梅は全体に開花が遅く、池上梅園も白梅や枝垂れ梅は見頃だが、紅梅は5〜6分咲きといった感じだ。「座論梅」もまだまだ。池上本門寺大階段の河津桜も例年よりは遅くほとんど咲いていない。2〜3分咲きといったところ。 世界に正義と平和が実現されるのか、という不安が漂う今日この頃。せめて美しい花々で春を彩って心を慰めてほしい。ウクライナとバレスチナとミャンマー、そして世界の人々に正義と平和を!

去年の池上梅園散策は雨だった。今年より一週間ほど早く観に行ったが、ほぼ満開だった。池上本門寺大階段脇の河津桜も満開であった。 2024年2月19日「池上梅園散策」














福寿草



こちらも花盛り みなさんお元気で何より!












最近は撮影スタイルも大変化




池上本門寺大階段
河津桜はまだまだ

池上会館屋上から富士山遠望


(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4 いつもの相棒だ)



2025年2月22日土曜日

皇居東御苑の梅が咲いた!

今年の梅は開花が遅い。去年より1〜2週間は遅れているようだ。神保町で古書探索した後に、いつものコースで東御苑に寄った。ようやく梅林坂の紅梅白梅が見頃になっていた。梅の木の中から鳥の囀りが聞こえるので、カメラを向けた。初めはメジロかと思ったが、鳴き声が違う。よく観ると胸が黄色いのでキビタキのようだ。ここには来るんだ!梅にキビタキ。見れたのはラッキーだった。

外国人観光客に人気の東御苑だが、敷地が広いので混雑もなく、オーバーツーリズムも感じなく、ゆったり散策できるのが嬉しい。外国人観光客にとっては皇居:Imperial Palace、すなわち「王宮」「帝室庭園」と言えば、壮麗な建物が立ち並び、人工的に自然を制するかの如く整備された広大な庭園を期待するのであろうが、ここは石垣以外の構造物はそれほど見当たらず、むしろ「古城」跡といった佇まい。ただただ広大なスペースが広がる都心の緑の空間。ちょっと期待とは違うのだろう。これが日本の「王宮」「帝室庭園」なのだ。黄金や豪華な調度品で埋め尽くされた宮殿ではなく、静謐で簡素な空間こそが威厳の象徴なのだ。元は徳川氏の城、武家政権の象徴を、明治維新後にいわば接収した「宮殿」なのだから、日本的に見ても「皇居」や「御所」のイメージとは異なる。考えてみればそんな歴史的な出来事を象徴する特異な空間とも言える。もっとも外国人観光客にどこまでそうした日本の歴史の理解があって散策しているのかは疑問だが。皇室のお宝が見たければ、東御苑内に最近リニューアル・オープンした「三の丸尚蔵館」を訪ねて欲しい。

お天気が良いと空が広くて気持ち良い。我が家からのアクセスも良いので、皇居外苑を含めて勝手に我が家の庭だと決めている。Happy Birthday his Majesty, Thank you for your generocity.







キビタキ

飛んだ!


梅林坂










雅楽堂

マンサク


これはツバキかと思ったら「春さざんか」だそう!

百人番所



(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4 ほんとにこの組み合わせはオールマイティーコンビだとつくづく思う)