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2019年8月31日土曜日

クラシックカメラ遍歴(2)〜Retinaという革新と成功。そして衰退〜


工芸品的完成度の逸品 Retina IIIC


私の最も好きなRetina I型


 カメラの歴史において、技術的イノベーションとパラダイムシフトとはライカに始まったと言っても過言ではないだろう。1925年、エルンスト・ライツ社が35mmフィルム(シネフィルムを利用する)を使う小型で高性能なカメラ、ライカ(Leica)を発売した。今でいうバルナックライカ(その後のMライカに対してLライカとも呼ばれる)である。開発者オスカー・バルナック博士にちなんでこう呼ばれている。これは衝撃的なできごとだった。この、いわばベンチャー企業ライツ社の挑戦を受けて1932年には同じドイツの光学機器の老舗ツアイス・イコンから35mm版のコンタックス(Contax)が発売された。今でこそ35mmロールフィルム(ライカ判)が主流となっていて、デジタルになってもフルサイズ(すなわち35mm)が基準になっている。しかし当時はこれよりも大きいサイズの銀塩フィルム(中判、大判)を蛇腹のカメラに装填して撮影するのが普通であった。したがってカメラも大型で三脚などを用いて撮影する方式が普通であった。そこへ35mm幅フィルムを使った小型の高性能カメラ(いわばハンドヘルドカメラ、あるいはコンパクトカメラ)が登場した。これはフォトジャーナリズムや写真文化に大きなインパクトを与えた。しかし、その価格はとても庶民の手に入る価格ではなかった。日本では輸入された当時、なんと家が一軒買える価格だと言われていた。

 そこで、ライカ判フィルムを使えるもう少し廉価版のカメラが、様々なメーカーから世に出始めた。その中でも、その性能と価格で大成功を収めたのがこのドイツコダック(German Kodak)社のレチナ(Retina)である。当時、ライカが300マルク、コンタックスが360マルクであったのに対し、レチナは75マルク。しかし、レンズはSchneider社、Rodensctoch社など現在まで続く超一流のレンズメーカ製、シャッターユニットもDecker社製のCompurをを取入れ、その性能と品質は超一流であったから売れないわけがなかった。伝統的な蛇腹式を取り入れて、折りたたむと極めてコンパクトになる。にも関わらずレンズ交換もできるシステムカメラへと戦後は進化する。伝統と革新のハイブリッドと言ってよい。レチナ(Retina)はドイツ語で網膜という意味。ドイツコダックが製造販売した。米国コダック社はフィルム販売の促進を目指して1931年、ドイツのナーゲル(Nagel)社を買収し子会社化した。このナーゲル(Nagel)社は1928年にカールツアイスの技術者であったAugust Nagel博士によって設立された。そして1934年にAugust Nagel博士はレチナを開発し、同社のシュツットガルト工場で製造、コダックブランドで販売した。やがてアメリカとドイツは戦争となり、戦時中、戦後の混乱期を経験するが、ドイツコダックは存続し、Retinaを作り続けた。戦後一時期は戦前の部品をかき集めて作るなど、品質保持に苦労するが、やがて素晴らしい製品群を次々に世に出し世界的に人気を博した。


 (1)まずは、レチナの原型となったナーゲル社(Nagel)のカメラ二台をご覧いただきたい。August Nagel博士がレチナに先立って製品化した中判フィルムカメラ。ボディーが大きくなりがちな中判フィルムカメラとしては小型化、コンパクト化を狙った意欲的な製品だ。35ミリ判(ライカ判)の蛇腹式フォールディングカメラへ移行する過程での試行錯誤を垣間見ることができる。

Nagel Pupile

レチナの原型の一つである
Nagelブランドベスト判フィルムカメラ
Pupileとはドイツ語で「瞳」という意味
レンズ繰り出しは蛇腹方式ではなくレバーによる回転式
すごい螺旋ネジが鏡胴に潜んでいる!

KodakVollenda

これもレチナの原型となるカメラ
Kodakブランドとなっている。Nagel工場製造のベスト判カメラ

レンズ繰り出しはカバーを下に開ける蛇腹方式




 (2)1934年のオリジナルレチナ以降、様々な形式のレチナが発表された。非常に多様な機種が製品化されたが、基本は蛇腹式フォールディングカメラで非常にコンパクト、高性能であった。その中からその代表的な機種を私のコレクションからご紹介していきたい。


The First Retina (117)

1934年発売


August Nagel博士によって開発されオリジナルレチナ。
ブラックペイント仕様、ニッケル鍍金。
シャッターはCompur Rapid。
レンズはSchneider-KreuznachのXenon 50/3.5。
素通しファインダー。
巻き上げには巻き留め機構が設けられている。



Retina I (010)

1946年発売


黒塗りからシルバーメタリックとなりI型と称した。戦後の混乱期に部品をかき集めて作ったにしてはしっかりとした完成度である。
レンズはSchneider-KreuznachのXenon 50/3.5付きと、US KodakのEktar 50/3.5付きがある。
シャッターユニットはCompur Rapid
ファインダーは素通し
電子部品もない、もちろんデジタルでもない、金属メカニカルと光学レンズだけのミニマルな機械式カメラ。まさに芸術品だ。米国ロチェスタのKodak工場製のUS Ektarは今でも本当によく写る。



Retina Ia (015)

1951年発売


巻き上げレバーが設けられた戦後バージョンのI型。Ia型と称した。
シャッターユニットがSynchro Comperにグレードアップされた。
ファインダーは素通し。
レンズはUS Ektar付き。
ストラップ用のアイレットが付いた。
戦後落ち着き始めた時期の製品で仕上げが美しくなった。



Retina II (011)

1946年



距離計連動ファインダーが搭載されII型となった。

シャッターユニットはCompur Rapid改良型。

レンズはRodenstock Heligon 50/2で明るくなった。

II型は戦中戦後にわたって作られ、名称や巻き上げ方式などに統一感が失われた時期の製品である。このII型(011)は戦後の混乱の中、様々な残存部品を寄せ集めて組み立てられたもので、レンズも様々。しかしこの個体はレンズはコーティングが施されたHeligonで、軍艦部も一体成型の美しい仕上げ。



Retina IIa (150)

1951年発売


II型は戦後、巻き上げレバーが採用されIIa型となった。
これ以降はライカMを含めて巻き上げレバー方式が主流となっているが、当時ライカもコンタックスも巻き上げレバーを採用しておらず、この頃は「レチナ式」と呼ばれた。
シャッターユニットはX接点を持つSynchro Compur。
レンズはSchneider-KreuznachのXenon 50/2。
ストラップ用アイレットがつき、カメラを首からぶら下げるスタイルが流行り始めた。
完成度、仕上げの美しさ共にドイツの工業製品を代表する逸品。


Retina IIIc (021)

1954年発売


露出計が導入されIII型となった。
この後に出されたIIICに対し、いわゆるスモールcと呼ばれている。
セレン式露出計(Light Value方式)を搭載。
シャッターユニットはSynchro Compur。
レンズはSchneider- KreuznachのXenon 50/2.0。
レンズ交換(前玉交換)ができるようになった。ただし距離計ファインダーのフレームは50mmのみ。したがって35、80mmは外付けファインダーを取り付ける。これも優れものでパララックス補正(手動だが)できる。
巻き上げレバーはボディー底部に移されたが意外に使いやすい。


工芸品といっても良い美しさが魅力だ
巻き上げレバーが底部に見える




Retina IIIC (028)

1958年発売


俗に大窓(ラージC)と呼ばれる最高級機
改良型セレン式露出計(Light Value式)に変更。
レンズ前玉交換ができる。
IIIc(スモールc)と比べ、見やすい等倍の連動ファインダーに50mmと35mm、80mmのブライトフレームが見える。距離計に連動してパララックス補正ができる優れもの。
クローズアップレンズなども用意されてシステムカメラとしても完成された。
シャッターユニットはSyncro Compur。
レンズはSchneider-KreuznachのXenon 50/2.0付きと、RodenstochのHeligon 50/2.0付きがある。
巻き上げレバーはボディー底部にある。
戦後の光学技術の極地、芸術品とも言える工作精度の賜物で、しかも商業的にも成功した完成形モデル。私の最も好きな機種の一つで、今でも実用機として使える。

この姿の美しさも魅力だ
蛇腹は外に露出しない構造になっている


  (3)この後レチナは、伝統の蛇腹折りたたみ式をやめて、固定式レンジファインダーカメラ(Retina IIIS 1958年)や、レンズシャッター式一眼レフカメラ(Retinareflex III, VI 1960〜64年)(いずれもデッケルマウント)のシリーズを出してゆくことになる。機構の複雑な蛇腹折りたたみ方式から固定式への移行は、ある意味では合理的であったのだろう。しかしレチナのコンパクトさという個性が失われ、他社の製品との差別化が難しくなっていった。レチナ衰退の始まりであった。特にレンズシャッター一眼レフへの転換は、50年代後半にブームとなった、ツアイスイコン社のコンタフレックス(Contaflex)などのレンズシャッター式一眼レフのトレンドに乗ったものだ。しかし、レンズシャッターゆえのそのメカの複雑さと(したがって)故障の多さ、撮影後のファインダーブラックアウトの不評等で市場からフェードアウトしていく。結局、ニコンのフォーカルプレーン式シャッタ、クイックリターンミラー式一眼レフがハイエンド機の主流となり、やがて中級機、普及機でも日本のカメラメーカーを中心に主流となっていった。こうして一斉を風靡したレチナは市場から退場してゆく。しかし先ほど紹介した、戦前のメカニカルでミニマルなカメラの原点とも言える姿、全盛期の蛇腹式レチナのコンパクトさと工芸品とも言える美しい仕上がりの「お道具」には今でも惚れ惚れする。もちろん写りは最高だ。蛇腹デジタルレチナ復刻はないものだろうか?



Retina IIIS

1958年


デッケルマウントレンズ交換式レンジファインダーカメラ
Retinareflex VI

1964年


デッケルマウントレンズ交換式レンズシャッター一眼レフカメラ










2019年8月15日木曜日

「征韓論」はなぜ起きたのか? 〜終戦の日に寄せて〜

 今日8月15日は終戦記念日である。令和になって初めての戦没者慰霊祭で新天皇皇后両陛下が哀悼の意を表された。日本人だけでも300万人以上の犠牲者を出した先の戦争、アジア太平洋地域諸国に甚大な被害を与えた先の戦争。不戦の誓いも新たに猛暑の一日を祈り過ごす。

 この日はお隣、韓国では日本からの独立を果たした記念日「光復節」である。最近のギクシャクする日韓関係。戦後最悪の事態になっている。韓国大統領文在寅の日本に向けての姿勢、発言に対する日本政府(安倍政権)の反応を見ていると、明治3年(1870年)に明治新政府が直面した朝鮮の開国と条約締結に向けての議論を思い出す。すなわち日本の条約締結打診に対し朝鮮側はこれに激しく反発し、鎖国攘夷の堅持、日本排撃の姿勢を鮮明にした。これに明治政府が、朝鮮は近代化に背を向け、国際的なルールを受け入れず、無礼な「人治主義」国家だとの認識を抱いた瞬間だった。それが今の日本政府の、韓国はいつまでも「反日」国是で未来志向でないし、過去に約束したことを守らない、国際法を守らない(「法治主義」国家でない)国だ、という反応につながっているように感じる。これまでの数々の無礼にはもはや忍耐や寛容さは通じない、何らかの制裁を課すべきだ(アレは制裁ではないと言っているが)というわけだ。歴史は繰り返す。まさに明治の征韓論と同じ反応だ。韓国の「反日」史観、日本の「嫌韓」史観。これはどういう背景から生まれたのだろう。このセンシティブな問題。少し頭を冷やして歴史を振り返ってみたい。

 征韓論はなぜ起きたのか?

 日本が開国し、西欧流近代化を受容し、推し進めていた時、朝鮮はまだ鎖国していた。朝鮮王朝(李氏朝鮮)は清国に朝貢し冊封を受けるいわば清国の属国であった。古代そのままの東アジア的秩序に身を委ね、通交していたのは宗主国の清国とまだ鎖国していた日本だけであった。そこへ鎖国政策を捨てて開国し西欧流の「近代化」に突き進む日本から、朝鮮も開国して日本と条約を結ばないか、と提案して来た。これに対し朝鮮王高宗の父で実質的権限を振るっていた大院君は、鎖国攘夷を堅持すると回答。「日本の無礼な申し出である条約は断固拒否する」と回答。日本人を見つければ処刑するとさえ宣言した。これが時の明治政府(岩倉使節団が欧米外遊中の留守政府)の怒りを買い、「無礼はどちらか!」朝鮮を武力で征伐すべし、となったわけである。

 この背景には、朝鮮王国はあくまでも清国の朝貢冊封体制にある国(すなわち古代から中華世界の一員である)で、西欧諸国およびこれらに追従する国と通交を結ぶつもりはない。そもそも中華世界(東アジア世界)において皇帝は清国皇帝一人なのに、日本の王が皇帝(天皇)を名乗って朝鮮に通交を求めてくる、これはとりもなおさず朝鮮王が日本の天皇よりも下であることを主張しているに他ならない。「無礼」であろう、という反応である。この話、この時を遡ること1400年ほど前、聖徳太子が遣隋使小野妹子に持たせた隋の皇帝煬帝に当てた上表文「日の出るところの天子、日の没するところの天子に云々」を見て煬帝が「なんと無礼な野蛮人だ」と激怒したエピソードを思い出させる。「世界に天子は俺一人だ。何勝手に倭人が天子を名乗っているんだ」と言うわけだ。この、なんと2000年続く華夷思想的世界秩序観を朝鮮側が持ち出すと言う、極めて時代錯誤な反応であることは言を俟たない。しかし、つい20年ほど前までの徳川幕府の鎖国政策も、そして維新の志士たちの「尊王攘夷」も、同じような西欧列強に対する排外的世界観であったことを考えると全く理解できないでもない。しかし、時代はそんな中華秩序、旧体制のレガシー(朝貢/冊封、鎖国攘夷)を守っていける時代でなくなっていることは火を見るよりも明らかであった。まして、王族や両班以外、ほとんどの人民は封建時代さながらの農奴のような生活に甘んじている朝鮮王国にとって、当時の日本以上に国の開国近代化による経済/政治体制の構造改革は必須であったはずだが、それだけに朝鮮の支配階級には恐怖にも似た恐れと戸惑いがあった。

 一方でなぜ明治政府は朝鮮に開国、通交を求めなければならなかったのか。朝鮮問題がなぜ政権を揺るがすほどの重大問題だったのか。自国が開国したからといって隣国の開国、近代化という他国の在りように口を出すのは「大きなお世話」であったのだろうか。実は新生日本にとって事態は緊迫していた。まず(1)宗主国である清国が欧米列強の植民地化で、弱体化し、国内外の統治能力を失っていたこと。すなわち清国の朝鮮統治の不安定化に大きな危惧を抱かざるを得ないこと。(2)その清国の弱体化というパワーバランスの間隙をついてロシアが朝鮮半島への進出を露骨に進めていたこと。この二つである。欧米諸国に不平等条約を結ばされ、開国したばかりでまだ国力も弱小な日本にとって、自国の富国強兵、殖産興業も緒についたばかりで、その独立維持に大きな不安が払拭できない時期であった。そこへ朝鮮が清国からロシアの支配下に入り独立が脅かされるということは、対馬海峡を隔てた日本の国防ラインが一気に欧米列強国の脅威にさらされることを意味する。これは看過できない問題であった。幕末、維新の騒乱の中であれほど恐れた欧米列強諸国による植民地化の危機は取り除かれていなかった。東アジア地域安全保障の上からもいち早く朝鮮の独立の確保、日本との和親条約の締結、そして近代化が求められたのだ。単に「無礼」だから云々の問題ではなかったのだ。一方で清国の弱体化に伴う満州(中国東北部)へのロシアの進出も大きな懸念材料であった。こうした事態に朝鮮王朝内部には、宗主国である清国にべったり依存していこうという守旧派と、これに対抗する親露派が台頭し始めており争いが生じていた。さらにはこれを危惧する近代化推進派(いわば親日派)が現れ、三つ巴の争いで収拾がつかなくなっていった。こうした内紛に外国勢力を引き込むのは朝鮮半島の歴史的な宿痾と言って良い。古代朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)の抗争以来繰り返されてきた伝統的な外交・安全保障戦略だ。こうした隣国の事態に、維新を進めた西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らは、朝鮮も(日本のように)西欧流の近代的な法治国家に脱皮して、儒教的な中華世界観とは決別しなければならない。欧米列強に対抗するには、もはや時代を逆戻りできないところへ踏み出してしまったことを朝鮮にも理解させるべきである。と主張したわけである。しかし、朝鮮王高宗の父、大院君は頑強に鎖国(中華体制にとどまる)と攘夷(日本人を含む外国人排撃)を主張した。しかも大日本帝国「天皇」を「無礼者」呼ばわりしたのだから明治留守政府が感情論になるのも仕方がない。しかし、この問題はそうした感情論では済まされない事態であった。朝鮮の開国、清国/ロシアからの独立の確保、そして近代化という隣国の在り方が「大きなお世話だ」と言えない事情が、日本側にもあったことは先述の通りである。朝鮮半島問題は、7世紀の唐新羅との白村江の敗戦以来の日本に染み付いた伝統的な国防意識の記憶の延長であった。

 しかし、岩倉、大久保、木戸などの欧米視察団が戻ると、今は征韓論に関わって海外出兵している場合ではない。国内の富国強兵、殖産興業、そして不平等条約改正に注力すべき時期だと反対した。結局天皇の聖断を得ることはできず、西郷の朝鮮派遣は棚上げされてしまった。そして西郷、江藤、板垣らは下野して(明治6年の政変)、佐賀の乱、西南戦争へと展開していくことは既知の通りだ。結局は明治8年(1875年)の「江華島事件」による軍艦砲撃で、朝鮮王朝側はたちまち日朝修好条約締結へと舵を切ることとなる。かつてやられた米ペリー艦隊による砲艦外交を、日本も朝鮮に対して行ったわけだ。しかし、この「朝鮮問題」への取り組みはこの後の日本の外交政策、安全保障政策の根幹となる。まさに日清戦争も日露戦争も朝鮮をめぐる戦争であった。欧米列強の介入の排除、弱体した清国支配の不安定化の除去。ロシアの南進野望の排除が日本の地域安全保障、すなわち「朝鮮半島問題」の核心的課題であった。さらに日露戦争の結果として満州への進出、満州事変。辛亥革命後の混乱の中国への介入、日中戦争。そして資源確保の観点から東南アジア、太平洋地域への戦線の拡大、そしてアメリカとの軍事衝突(太平洋戦争)へと突き進んでいった訳だが、この歴史を振り返ると、スタートは「朝鮮半島問題」であったことに気づく。日清戦争の勝利による清国の朝鮮半島への影響力の排除。日露戦争勝利によるロシアの朝鮮半島、満州への進出排除を経て、1910年には、いわゆる「朝鮮(韓国)併合」へと向かい、明治政府の長年の懸案がひとまず区切りを迎えることになった。当初は植民地支配を狙った「併合」を目的としたものではなく、地域安全保障を狙った朝鮮(この時点では大韓帝国)の独立、その過程としての保護国化、「合邦」(大日本帝国と大韓帝国の連合。大英帝国的な連合王国?)であったと言われている。大英帝国やアメリカもこの日本の朝鮮半島政策を支持していた。政界の元老、伊藤博文も「併合」には反対し「合邦」論者であった。しかし、皮肉にも彼が安重根に殺されたことで「併合」論が一気に進んだと言われる。しかし結果的には大韓帝国は消滅し大日本帝国に取り込まれ、韓国民の皇民化を進めたことは間違いない。そしてこれが戦後の日韓関係、日朝関係に大きな影を落としたことも否定できない。

 これまでの両国の歴史背景を振り返ると?

 両国の長い歴史を振り返ると、古代以来、朝鮮半島諸国は海の向こうの日本(倭国)に様々な利害関係と大いなる関心を持ってきた。半島国家としての地政学的な宿命とも言えるが、一方に中華王朝が支配する強大な帝国があり、漢帝国時代には植民地(楽浪郡、帯方郡)であり、独立したのちも時には保護を受けたり、時には侵略されたり。基本的には長く「朝貢冊封体制」に組み入れられてきた。また9世紀頃まで半島内では常に高句麗、新羅、百済の三國が争っていた。そうした中で、三國は中華王朝の栄枯盛衰、興亡を睨みつつ、ある時は倭国(日本)を味方に引き入れ、ある時は敵に回しつつしたたかな外交で生き残りを図ってきた。こうした半島内三国の抗争の中で、自国の安全保障のために倭国をどのように自らの側に引き入れるかは重要な外交戦略の一つであった。そのためには、文化レベルの劣る「未開」の倭国を「近代化」し、強力な同盟国に仕立てることが重要であった。とりわけ百済は、倭国(ヤマト倭国)に大陸の進んだ政治制度や軍事技術、建築技術、仏教などの思想を積極的に注入した。一方の新羅も対百済戦略の一環として、積極的に倭国(チクシ倭国)との交易や軍事的紐帯の確保に努めた(筑紫君磐井の戦争の背景は、百済対新羅の争いであった)。かたや倭国も朝鮮半島にただならぬ関心を持ってきた。中華文明のフロンティア、大陸先進文化の供給コリドーというだけでなく、資源の供給、安全保障上の重要地域としても認識していた。もともと弥生時代、稲作農耕が大陸から列島に入ってきた時から、倭人たちは鉄資源を朝鮮半島(南部の伽耶地域)に求めてきた。このころは今のような国民国家概念も国境概念もないのだから、海峡を隔てて半島住民も、列島住民も自由に通交していただろう。帰化人とか渡来人という概念もなかった。さらに先述の三國間の抗争に巻き込まれていった。こうした時代背景から、朝鮮半島側からの対日史観は、文明の先進国朝鮮(兄)が後進国倭国/日本(弟)を教化してきた歴史と捉えてきた。しかし、これは19〜20世紀の大日本帝国の対朝鮮半島史観と同根であると言える。なぜなら、あくまで自国の安全保障のための「近代化」であり「教化」であるからだ。攻守所を変えて歴史は繰り返すのである。

 4世紀後半になると倭国は半島の戦乱に大きく関わるようになる。倭王権(といってもまだ列島内に統一王権があったわけではなくどの地域の倭人勢力なのかは不明だが)が百済の要請で朝鮮半島に出兵し高句麗との戦いに参加していったこと。5世紀には列島内を武力で統合しつつあった倭の五王(ヤマト王権であろう)が、朝鮮半島諸国への影響力強化を狙って中華皇帝にし朝鮮支配権(軍号)を求めたこと(晋書、宋史)。朝鮮の正史「三国史記」や好太王碑文に、倭国は高句麗と戦い敗退したが、百済、新羅を朝貢国にしたこと(実際には朝貢冊封関係ではなく相互の贈答による外交関係であったろう)。7世紀には新羅に滅ぼされた百済の救済、復興のために唐・新羅連合軍との戦いで白村江に出兵し大敗したこと。中国、朝鮮半島での混乱のたびに大量の難民を受け入れたこと(これがのちに渡来人、あるいは帰化人と呼ばれた)。さらには8世紀に編纂された日本側の正史「日本書紀」には神功皇后の三韓征伐のエピソード(史実であるかは疑問だが)が記述されていること。白村江の敗戦、半島からの撤退以降、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮出兵まで、日本は朝鮮半島での戦争や、支配権に関わっていない。江戸時代になると徳川幕府の「朝鮮通信使」交流が始まるが、この通信使の位置付けを双方に都合の良い解釈で、上下関係をあまり深く追求せず続けてきた(対馬藩の雨森芳洲の記録)。しかし、先述の古代史に現れる倭国(日本)の朝鮮半島への介入という歴史上の記憶、「日本書紀」に記された「神功皇后の三韓征伐」と言う説話を元に、日本の対朝鮮観は、文化的には尊敬を示しつつも、どこか「朝鮮は日本の朝貢国」「日本小中華帝国の臣下」という意識が引き継がれてきたようだ。先述の朝鮮半島側の対日史観とは真逆の歴史観である。明治以降の東アジアの情勢は、もはや朝貢/冊封などという古代東アジア的な秩序の記憶で解釈できるような事態ではないし、それを打ち破るべきとの認識から朝鮮に開国を求めたのだが、明治新政府の反応の深層にこうした「歴史認識」があったことも否めないだろう。

 東アジアの火薬庫。半島国家の宿命?

 朝鮮半島国家から見ると、周辺を大国に囲まれているという地政学的な条件のもとで、どのように周辺諸国と付き合い生き延びてゆくかは、古代より国の存亡に関わる重大な安全保障問題である。日本のように大陸から海をへだてている島国とは異なる点だ。逆に日本が海外への出兵をほとんど経験せず、対外戦争が下手で、外交にしたたかさが欠けた歴史を歩んできた理由の一つであるが、それはさておき、朝鮮半島は古代にあっては強大な中華帝国の周辺部(華夷思想でいう夷狄の地あるいは植民地)であり、一方でやがては東の海中に小中華帝国日本が勃興してくるとその狭間で呻吟する地域となっていった。近代においては朝鮮は中国、ロシア、日本、そしてアメリカに囲まれた半島国家である。バルカン半島がヨーロッパの火薬庫なら、朝鮮半島は東アジアの火薬庫といって良いだろう。先述のように日清戦争も、日露戦争も、さらには満州事変、日中戦争へと続く戦争への道の発火点は朝鮮半島であった。第二次世界大戦後の韓国と北朝鮮の分断もその象徴であるが、冷戦構造終結後もまだ分断国家として対立が継続している。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は共産主義国家というより世襲制王朝の「人治主義」独裁国家体制を一貫して維持している。韓国は、軍事独裁政権から民主化し、一部の財閥中心に経済発展したとはいえ、依然として儒教的な「人治主義」がその基底に横たわっている点では北朝鮮と同根である。「価値観を共有する」国際社会の一員として世界に貢献していくには色々な課題を抱えた国である。こうした朝鮮半島の抱える歴史的、地政学的課題と現状を、あのアメリカのトランプ何某はどれくらい理解した上で、北朝鮮の金正恩に好意を寄せているのかはなはだ心もとないが、現状はトランプ、プーチン、習近平、といった自国優先主義、強権的支配を志向する頭目がこの地域の覇権を争う構図になっている。北朝鮮の金正恩は核を弄びそんな周辺国の確執を巧みに利用してトランプを手玉に取っている。なかなかしたたかなリーダーだ。一方の韓国の文在寅は「反日」を振りかざして、それを統治権威の拠り所とし、北を世襲で支配する金王朝の代弁者のような振る舞いで、自由主義陣営のリーダーの一人としてのビジョンも自覚も持ち合わせていないようだ。日本は「拉致問題」以外は口を出せないとでも考えているのだろうか。やがて日本がお役に立つ時が来るだろう、と札束を用意して待っているに過ぎない。日本は旧宗主国として多くの利害関係者を抱える立場でもある。伝統的な外交課題であるはずの朝鮮半島の平和と安定に果たすべき役割はあるはずだ。しかし、イギリスやオランダのように「旧宗主国」と言って旧植民地から受け入れてもらえる国々と違って、「反日」が国是となっている国にはなかなかその貢献の受容は難しいだろう。欲しいのは色のついていない「金」だけだ。まさに日本の外交能力が試される。

 「反日」が国是の「人治国家」なのか?

 朝鮮統治時代の日本が朝鮮半島の開発、近代化を大きく進めたことは否定できないだろう。当時は国内の東北地方の開発に優先して、資源に乏しい朝鮮に巨大なインフラ投資や教育投資をしたと言われている。現在の韓国や台湾がアジアの経済成長リーダーになっているその基礎は日本統治時代にできたものである。さらには戦後賠償と様々な産業分野での技術支援、資本投下によるところが大きい。...というようなこと迂闊に言うと、少なくとも韓国では袋叩きにあう。知日派の韓国人や在日コリアンも韓国では排除されているのだから、まして日本人がそれを言うなよということだ。それを押しつけがましく言うつもりはない。これは古代において緊張関係にあった朝鮮半島で百済や新羅が、倭国を強力な同盟国にして自国の安全保障を図ろうと倭国に多大な投資をし、「文明国化」と「近代化」を手助けして半島の戦争に駆り出したのと根っこは同じである。どちらも「善意」による扶助ではない。朝鮮半島は台湾や満州と同様、日本にとっては戦争で獲得した重要な既得権益であり、大日本帝国発展のフロンティアであったことから、貧乏な国としてはかなり無理して大きな投資をしてきた。しかし、当初は美しい理想であった、アジアをアジア人の手で開放しようと言う「大アジア主義」も、アジアの団結と共存共栄をうたう「大東亜共栄圏」構想も、やがては大日本帝国の軍事的な拡張路線のプロパガンダに変質していった。したがってこうした投資も帝国主義的な権益保護と収奪のための投資であり、その地域の人々の発展のためにやったと強弁する事は出来ない結果となった。さらに日本がアメリカとの戦争に負けたことにより、そのような「美しい理想」は否定され、プラス評価側面は、歴史の闇に消え去り、「植民地支配」を受けた屈辱と被害の歴史だけが人々の記憶に刷り込まれる。「大東亜共栄圏」は今は看板が塗り替えられ、構想の主体が中国となり「一帯一路」と呼ばれている。歴史は常に勝者のものである。負ける戦争をした方が悪いのだ。

 戦後は、韓国では「反日」が常に為政者の統治権威と統治権力の正当性の「錦の御旗」となり続けてきた。「反日」は有効に国民を団結させるスローガンに仕立てられてきた。したがってどんなに日本が謝罪し、賠償し、和解し、二国間条約を結んで未来志向の関係構築をうたっても、政権が代わるとすぐ反故になる。約束は守られない。怨みはいつまでも蒸し返される。日韓条約に基づき日本から支払われた国家賠償金は、被害を受けたとされる元徴用工や元慰安婦には渡らず、彼らは当然ながらまだ補償を受けていないと声を上げる。その補償金は韓国政府が受け取っていて(別のことに使ってしまって)支払われていないのだから。国際法上(日韓条約)、賠償請求権は国家間で決着しているので消滅しており、韓国政府に法的支払い義務が移っているにも拘らず、韓国の最高裁判所は日本の私企業への賠償請求を認めてしまう。法治国家の独立した司法としては信じられないような判断である。そして韓国政府(行政)は口をつぐんで何も対策を打たない。あろうことか「三権分立」や「市民感情」を持ち出し司法の判断を支持する。日本というスケープゴートは支配者にとって貴重であり、問題が解決して悪玉が消滅してはならないかのようにさえ見える。そして韓国大統領はなぜか退任後は例外なく悲劇的な末路を辿ることになる。外からは見えない闇のロジックがあるのだろうか。国家間で合意した約束事、条約など国際法/国際ルールを遵守し、政権が変わっても国家として一貫してそれを守り続ける。司法権が時の政権に忖度して国際法や憲法を無視したり判断を変えたりしない。国民が国際的なルールを遵守する民主的な政権を選択する。こうした近代国家としての「法治主義」「三権分立」「民主主義」の基本的価値観が、統治者によって、あるいはポピュリズムで都合よく変わるようなことが繰り返されるようでは国家として信用は得られないだろう。法治主義よりも人治主義、理性よりも感情、近代合理主義よりも儒教的価値観(賄賂や復讐などの負の側面において)、偏狭な愛国主義が払拭できないで人々のマインドと思考回路支配しているいるようなら、国際社会の一員として生きてゆく韓国の負の遺産となろう。

 日本も明治維新後に復活した皇国史観と、小中華帝国的な隣国への眼差しを批判的に総括し改める必要がある。「神功皇后の三韓征伐」などと言う史実として検証されていない「勇ましい」物語を、隣国蔑視の根拠としたり、まして現実の外交戦略を規定する深層意識に置いておくことなどできるのだろうか。両国ともに理性的で合理的な歴史認識と理解、感情論の排除が未来志向の両国関係の構築の基本となる。感情的で偏狭な愛国主義はどこの国の国民にとっても危険だ。国の為政者が自らの権力欲と権益のためにというロジックを隠し持ちながら争う時に、こうした「反日」「嫌韓」感情を煽って国民、市民を巻き込まないで欲しいものだ。またこうしたプロパガンダが、実は問題の本質を覆い隠すことに使われることは思い出す必要がある。先の大戦で多くの人々が「愛国心」の名の下に、「国策」の名の下に犠牲になったことは忘れたわけではあるまい。これは敗者となった日本が学んだ教訓であるだけではないはずだ。市民/国民は為政者のプロパガンダや扇動に惑わされてはならない。同時に権力者が言う「正しい歴史認識」などと言う言説に惑わされてはならない。歴史とは常に勝者のものである。敗者の歴史は残されない。歴史は都合の良いところだけが、権力者を正当化することに利用される恐れがあることを常に心に留めておくことだ。我々は賢くあらねばならない。このためには権力者を監視し批判を許す自由な言論が不可欠だ。言論人:ジャーナリストの矜持が今くらい求められる時もないだろう。雑多なネット情報も賢く取捨選択できる判断能力を養うことも大事だ。でないと為政者が引き起こす国同士のいさかいから、私人として一線を画して世の中を見ることは難しくなる。国同士が喧嘩しているからといって、私人同士が相手を誹謗中傷したり憎しみ合ったりする理由は全くない。不戦の誓いはそういった私人の目線に立ち返る事から始まる。


撮影機材:Leica M10-P + Smmilux-M 35mm f.1.4 ASPH
先の大戦で命を落とされた多くの方々への鎮魂の祈りを込めて



2019年8月2日金曜日

太宰府ヒーロー物語(その2)吉備真備の巻 〜おっと誰か忘れちゃいませんか?〜


吉備真備像
倉敷市真備町HPより



 6月のブログで「太宰府ヒーロー物語」と称して菅原道真と大伴旅人を取り上げた(2019年6月23日「大伴旅人と菅原道真 〜二人の太宰府ヒーロー物語〜)が、大事なヒーローをもう一人忘れていた!そう、吉備真備である。大宰大弐として10年も太宰府に赴任していたのだ。だが吉備真備⇄太宰府という線があまりピンとこない感じがする。こんな古代史上の重要人物が太宰府と深い関わりがあるなどとあまり考えなかったのは何故なのだろう。地元でも吉備真備を太宰府ゆかりの人物だと認識されていないように思う。大宰府にとって菅原道真は言わずもがなの別格としても、大伴旅人は大宰府官人としてというよりも万葉歌人として記憶され、あるいは最近では新元号「令和」ゆかりの人物としてクローズアップされているが、さて吉備真備と言われて、ああそれは、と言い出す地元の人はいるのだろうか。単に私の不勉強のせいなのか。岡山県倉敷市真備町(昨年の集中豪雨で甚大な被害を被ったことで人々に記憶されることになった)では疑いもなく地元のヒーローであるが、太宰府でもヒーローであることを証明できないものか。改めて吉備真備を加えた「大宰府ヒーロー物語」を書き直してみた。

 大伴旅人と菅原道真の二人が都の毛並みのいい有力氏族の出身で、中央官僚であったのに対し、吉備真備は吉備国の出身(現在の岡山県倉敷市真備町出身の偉人だ)で、地方豪族である下道(しもつみち)氏の末裔である。姓は下道朝臣、のちに吉備朝臣。地方官僚から都に出て位人臣を極めて右大臣にまで上り詰めた立志伝中の人だ。しかし、その人生は波乱万丈。歩んだ出世街道は険しい坂道、そびえる高山、嵐の大海の連続であった。律令官僚として中央(平城京)と海外(唐)と地方(筑紫)勤務を繰り返しながら、先進国唐で学んだ先進知識と経験を生かし、都の政変もあって中央官僚として破格の出世を果たす。今のサラリーマン出世物語を彷彿とさせるその人生。何か親近感すら覚える。彼はその出自が高位の家系の出ではないが、洋行帰り(いや遣唐使)、海外留学帰りのインテリ。先進国で最新の行政、軍事、政治思想を学び、しかも、机上の学問、本の上の知識だけではなく、実際に唐で官僚として実務を経験した。阿倍仲麻呂同様、玄宗皇帝にその才能を認められ、なかなか帰国の許しが出なかったという秀才、能吏であった。「吉備大臣入唐絵巻」には真備の唐における超人としてのエピソードが描かれている。

「文選」の難問を出されると、空を飛んで講習所へ行き、全て暗記して戻ってきて中国官人を驚嘆させた

中国の官人相手に初めてやる碁の勝負に勝った


 吉備真備の略歴

716年、阿倍仲麻呂、玄昉などともに21歳の時に遣唐留学生となり717年渡唐。
唐に滞在すること18年。多くの典籍や文物、そして知識を携えて735年種子島に漂着。帰国を果たす。
735年、帰国後は聖武天皇、光明皇后に寵愛される。
738年、藤原北家四兄弟の相次ぐ天然痘による死亡で、橘諸兄が右大臣として権力を握ると、一緒に帰国した玄昉とともに重用される。
740年、こうした異例の出世を疎ましく思う藤原一族の、真備と玄昉の排除を目指した藤原広嗣の乱(太宰府で挙兵)が起きるが平定される。
741年、阿倍内親王(のちの孝謙天皇、称徳天皇)の家庭教師(東宮学士)として漢籍を講義。
743年、孝謙天皇即位。このころ藤原仲麻呂が重用されて橘諸兄、真備、玄坊と対立。諸兄の失脚。
750年、筑前守、翌年肥前守へ左遷。玄坊は745年筑紫観世音寺別当に左遷。そこで殺害される。
751年、遣唐副使に。752年再び唐へ。阿倍仲麻呂と再会。帰国に際して幾多の遭難の末、鑑真を日本へ連れ帰ることに成功。しかし、中央政界では活躍の場を与えられず筑紫太宰府に留め置かれる。
754年、大宰少弐、さらに同年大弐へ昇進。
764年、造東大寺司に任じられて70歳で帰京。同年に発生した藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)を中衛大将として鎮圧。
766年、中納言、続いて大納言に昇進。さらには従二位/右大臣にまで昇進した。称徳天皇と道鏡の治世下であった。地方豪族出身としては破格の出世。学者からの大臣にまで昇進したのは真備と菅原道真のみである。
光仁天皇即位後、老齢を理由に辞職を願い出たが、天皇は中衛大将に辞任は許したが、右大臣は慰留した。
771年、官界を引退。
775年、薨去。享年80歳(当時としては長寿)。



 以下に、改めてこの三人のヒーローを、大伴旅人、吉備真備、菅原道真と時代順に、それぞれの太宰府をめぐる人生と任地との繋がりを再整理してみたい。


 大伴旅人 (665年〜731年)

1)大宰府での地位:
大宰帥(最高位の長官)
このころの大宰帥は実際に大宰府へ赴任する地方長官であった。大宝律令が完成し律令制が確立した時期で、地方最大にして西海道と対外関係を一手に管轄する大宰府は律令官制の中でも重要なポジションであった。次官は権帥(ごんのそち)ないしは大弐(だいに)で、旅人の時の次官は太宰大弐紀男人である。ちなみに山上憶良は筑前国守であった。息子の家持はのちに767年に太宰少弐に任官した。
2)中央政権での地位:
720年征隼人持節大将軍として九州へ下向。724年正三位中納言。729年の「長屋王の変」で高位高官が次々に滅したため、大納言に昇進し730年中央へ帰任。
3)出自:
大伴氏は飛鳥を拠点とする軍事豪族の系譜。神話の世界の時代にまで遡る名門氏族である。
4)太宰府への赴任時期:
728年、60歳の時に太宰府赴任。730年までの二年間。
5)太宰府での居住地:
政庁付近の帥居館(現坂本八幡宮、ないしは月山官衙跡と伝承されている)
6)太宰府での事績:
万葉歌人として多くの和歌を詠んだ。山上憶良、沙弥満誓等の筑紫万葉歌壇の中心。太宰府赴任には妻を伴ったが在任中にこれを亡くし、悲しむ歌を多く残している。大伴家持の父である。家持も太宰府へ同行し、少年期を過ごしたという説もある。だとすると万葉集巻の五の「梅花の宴」に幼き家持も同席していた可能性がある。のちの万葉集後期の編纂に関わった大伴家持の歌心に太宰府での生活はどのような影響を与えたのだろう。先述のように家持自身ものちの767年に大宰少弐としてかつての父の任地へ赴任している。家持の越中国守時代の万葉集撰録にあたっての事績が多く語られているが、その根底にあったのは多感な少年時代の太宰府での経験であったのだろうか。こうした研究もまた興味深い。

 吉備真備(695年持統天皇〜775年光仁天皇)

1)太宰府での地位:
大宰少弐から大宰大弐に昇進。このころの大宰帥(長官)は都にいて現地へ赴任しない遥任官。したがって大宰大弐は次官であるが実質的な現地トップであった。遣唐副使としての渡唐帰国後、直ちに太宰府に赴任。この時すでに齢60歳であった。以前に筑前守、肥前守として九州に赴任した経験を持つ。
2)中央政権での地位:
従二位/右大臣。学者(東宮学士)、軍事専門家(中衛大将)としても重用され、聖武天皇、孝謙天皇/称徳天皇重祚に取り立てられて地方豪族出身としては異例の大出世を遂げた。
3)出自:
地方豪族の系譜で吉備国下道氏の子孫。上級名門氏族出身ではないがのちに中央に出て下道朝臣、吉備朝臣へ。
4)太宰府への赴任期間:
唐からの帰国後の754年〜764年の10年間。60歳になっていた。旅人よりも道真よりもはるかに在任期間が長い!
5)太宰府での居住地:
不明である。伝承もない。
6)太宰府での事績:
続日本紀によれば、怡土城の築城と筑紫防衛網の整備を行った。先述の通り、遣唐副使として渡唐後、帰国したものの都には戻されず、太宰府に留め置かれる。754年に大宰大弐に任官。都で権勢を振るう藤原仲麻呂政権の左遷人事とも言われるが、当時の朝廷にとって最大の国防、外交問題であった、唐の「安禄山の乱」の情報収拾、有事対応、新羅対策のため海外事情と軍事戦略に秀でた真備に太宰府で国防最前線の指揮をとらせたと考えられる。今も糸島の高祖山に真備が築城した怡土城趾があり、その中国式築城技術による土塁、石垣の遺構が残っている。これ以外にも筑紫に多く残されているいわゆる「神籠石」は、こうした防衛上の山城の遺構ではないかと言われている。また大宰府の官人教育機関である「府の学校」「学校院」の整備を行ったのは真備であると伝えられている。筑紫に残る真備に関する遺構はこれくらいだ。真備は記録上は太宰府に10年在任していたことになるが、その割には旅人や道真に比べ彼にまつわる史蹟、伝承が少ない。どんな生活を送ったか、人々との交流はどうであったかというエピソードも伝わっていない。真備の唐における超人伝説や平城京での活躍ぶりが後世に伝わっているのに比べると大宰府時代の10年はまるで空白の時代に見える。不思議なことだ。日本古代史上の重要人物の一人である吉備真備と太宰府という繋がりが想起されにくいのはこのためだ。ちなみに真備とともに唐に留学し、745年に造観世音寺司として太宰府に左遷され、観世音寺落慶法要の時に殺害されたという玄昉の墓は太宰府観世音寺境内に残されている。そしてその彼の死にまつわる怪奇ホラーストーリが語り継がれている。


 菅原道真(845年〜903年)

1)太宰府での地位:
大宰権帥(次官)実際には「大宰員外帥」
このころの太宰帥(長官)は皇族の王が受任する地位であり、みやこにいて太宰府へ赴任しない遙任ポジションであった。道真は大宰員外帥、すなわち出仕もしない、部下もいない、報酬もない左遷ポジションとしての権官であった。居館は与えられたがみすぼらしい廃屋で哀れな日々を過ごしたと伝わる。この頃は律令制が徐々に形骸化しはじめ大宰府の律令制地方官衙としての権力(租庸調の徴税権、徴発権など)や中央集権的な権威も薄れ始めていた。また、いみじくも道真が提言した通り唐の衰退に伴い「遣唐使」は取りやめになった時期である。対外交易は「遣唐使」ではなく大宰府の外港としての那の津(博多)、筑紫館(鴻臚館)中心に、官制先取り貿易、さらには商人同士の私貿易に移りつつあった。中央の律令的権威よりも、海外交易利権が太宰府を富の源泉になっていく過渡期とも言える(のちの939〜941年の藤原純友の乱は大宰府の富を狙って襲撃してきた)。もちろん道真はそのような利権に関わることも関わる気もなく、ひたすらに自宅で謹慎し、自分の無実と天皇への忠誠を天拝山で訴え続けて一生を終えた。
2)中央政権での地位:
宇多天皇、醍醐天皇の寵臣にして従二位右大臣。亡くなってから贈正一位太政大臣。若い頃には讃岐国の国主への赴任も経験した。左大臣藤原時平の讒言により太宰府へ左遷。
3)出自:
奈良菅原の里を故郷とする学者家系 文章博士。母方は伴氏で大伴旅人や家持と血族関係にある。
4)太宰府への赴任時期:
901年太宰府へ。903年太宰府で逝去(享年59歳)
5)太宰府での居住地:
朱雀大路南の府の南館(現在の榎社)
6)太宰府での事績:
太宰府下向時に歌った「東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」が有名。府庁へは出仕せず自宅に蟄居して「不出門」など漢詩を詠んだ。天拝山での無実の訴え登山が伝承されている。太宰府下向時に二人の幼い子供を伴った。隈麿と紅姫であるが、隈麿は翌年急逝。紅姫は道真公逝去ののち、道真公の長男を頼り土佐へ去ったとも、非業の死を遂げたとも伝わるが不明。榎社に紅姫供養塔がある。隈麿の墓と伝えられる石碑が榎社の南東の住宅街の中にある。菅原道真の遺骸を牛車で運ぶ途中、牛が立ち往生して動かなくなったところを埋葬地とし、そこが安楽寺となった。その後安楽寺天満宮が創建され、それが現在の太宰府天満宮となった。したがって天満宮本殿地下に道真公が今も埋葬されている。また現在の宮司西高辻家は道真公の末裔である。みやこに天変地異が起こり菅原道真の祟りであると恐れられて、北野天満宮が祟り封じに創建された。


 こうして振り返ってみると、太宰府という舞台で、旅人は万葉歌人として、道真は天皇への忠義に殉じた悲劇の主人公としてロマンの世界を生き後世に語られることになった。一方、真備はインテリ官僚として、東アジア戦略の最前線で対外戦略参謀として現実の実務の世界を生きた。この違いが真備の印象が庶民に縁遠いものになったのかもしれない。続日本紀のような中央の正史にはその名が記述されているが、旅人や道真のように太宰府滞在中の個人的な心情やエピソードは残されていない。また真備は道真と並ぶ大学者であったが、彼の和歌や漢詩があまり残っていないことも影響しているのかもしれない。同時期に渡唐した阿倍仲麻呂が多くの和歌、漢詩を残しているのに比べても不思議なほどである。ましてこのころの官人にとって詩歌は基礎的なコミュニケーション能力として必須であったことを考えると不可解である。出身地の真備町には漢詩の石碑があるそうだが、少なくとも太宰府には歌碑はない。ともあれ、この三人の太宰府ヒーローが太宰府にたどり着くまでの経歴と、その後の経歴、任地での事績を振り返ってみると、律令官僚の転勤人生と立身出世街道、その中での権力闘争とそれに伴う左遷人事、そこからの復活劇など、現在のサラリーマン(公務員であれ会社員であれ)の身に置き換えてみても他人事とは思えない。そこには「宮仕え」の栄光と挫折の物語が読み取れる。この三人はいずれもそれなりの高位高官を極め、歴史に名を残した人々であるが、その陰には歴史の表舞台に登場しない、下級官僚や防人のような無名の多くの転勤族「サラリーマン」や地方勤務「サラリーマン」諸氏がいて、それぞれの人生に喜怒哀楽の物語があったに違いない。この辺りは旅人の息子、家持が越中や筑紫などの地方勤務時代に撰録した万葉集の「詠み人知らず」「東歌」の和歌にその心情を垣間見ることができる。

「大宰府ヒーロー物語」はまさに今に通じるサラリーマンヒーロー物語である。「太宰府支社長OB会」レポートはまだまだ続く。



福岡糸島半島の背後にそびえる高祖山(たかすやま)
怡土城が築かれた

麓には高祖神社
この周辺に怡土城の土塁が残っている

怡土城の説明板


100年前に天智天皇の命により構築された大野城、基肄城などが朝鮮式であったのと異なり、真備の指揮のもとに中国式の築城方法で築かれた。

伊都国は、魏志倭人伝に記述のある邪馬台国女王卑弥呼の出先である「一大率」(のちの「大宰帥」の原型か?)が駐在した国である。このころから大陸との交流の窓口として重要な拠点であった。あれから500年後の大宰大弐真備の時代にもその地政学的、戦略的重要性は変わらなかった。

怡土城の土塁跡