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2020年8月18日火曜日

古書を巡る旅(4)〜エドモンド・マローンのシェークスピア全集の謎〜

Edmond Malone's Shakspeare
1816

エドモンド・マローン(Edmond Malone)のシェークスピア全集(The Works of William Shakspeare)(全16巻)のうちの12巻までは揃えたが、なかなか残りの4巻が揃わなかった。探していたら未入手の3巻が、神保町の北澤書店で見つかり、早速注文して送ってもらった。これであとは第8巻が手に入れば全巻入手ということになる。これまで1冊、2冊とボチボチ店頭やネットで見つけた都度集めてきたもので、とうとう15冊まで集まったということになる。まさかここまで来るとは考えてもみなかった。

(注:現在ではシェークスピアはShakespeareと記述するが、マローンはShakspeareと記述したので、以下これに従う)

収集を始めたきっかけは、北澤書店のネットショッピングサイトで見つけたこと。全巻揃っていたわけではなく、数冊がバラバラに出品されていた。以前からシェークスピア研究者、編纂者として著名なマローンの業績に惹かれていたので、すぐに飛びついた。初版は1816年版、日本では文化13年の刊行という、書籍自体の歴史的な価値にも惹かれた。この頃の書籍はまるで工芸品のような装丁で美しい。何しろ200年以上昔の「文化財」だ。マローンが生きた18世期後半〜19世紀初頭は、日本では江戸時代後半。十返舎一九(「東海道中膝栗毛」)、滝沢馬琴(「南総里見八犬伝」)、山東京伝(浮世絵)、蔦屋重三郎(出版元)、本居宣長(「古事記伝」)、上田秋成(「雨月物語」)などが活躍した、いわゆる「文化文政の文化」の時代だ。また田沼意次の重商主義的な政策から、天明の飢饉を経て(1783−88年)松平定信の質素倹約の寛政の改革。寛政異学の禁などの締め付けが厳しくなって、庶民文化が疲弊した時期でもある。一方でロシア船やイギリス船がしきりに日本近海に出没し通交を求めて、海防論が盛んになり始めた時期でもある。徳川幕府の統治に綻びが出始め、幕末に向けて内憂外患の前奏曲が奏でられ始めた時代だ。一方で、イギリスでは1770年頃には産業革命が始まり、1776年にアメリカ植民地東部13州が独立したものの、アジアではインド支配の拡張など大英帝国の版図が広がった時期である。1789年にはフランス革命が起き、ヨーロッパの激動、大英帝国の伸長の時代である。文芸界では「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ」という有名な言葉や、多くの英国流の皮肉に満ちた警句を残したサミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson 1709-1784)が活躍した。ジョンソンは1755年、「英語辞書」を編纂。また「シェークスピア全集」の編纂にも取り掛かる。そしてアダム・スミスの「道徳感情論」(1759年)「国富論」(1776年)が出されたイギリスの繁栄の光と陰の時代でもある。。

そんな時代のエドモンド・マローン(Edmond Malone)(1741-1812) はアイルランドの法律家であり歴史家で、シェークスピアの研究家でもある。1741年アイルランドのダブリンに生まれ、トリニティーカレッジで勉強し、その後イングランド、ロンドンのインナーテンプルなどで勉強したのちに弁護士資格を取った。父がアイルランドの国会議員や、判事であったことから、その跡を継ぐことが期待され法律家の道へ進んだが、あまりハッピーではなかったようだ。しかし文学との接点はまだこの時にはなかった。確かに文学者や文壇の大物のイメージが薄い。そうしたこともあってか日本ではそれほど知名度がないし、シェークスピア研究者でも取り上げる人が少ないようだが、イギリスやアメリカではシェークスピア作品の編纂者で作品を体系的に整理し全集を完成させた人物として知られている。先述の英国文壇の大物サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson)との交流を通じてシェークスピア全集編纂にかかわることになり、ジョージ・スティーヴンス(George Steevens)とのジョンソン/スティーブンソン版のシェークスピア全集の編纂事業を引き継ぎ、1790年に新しい研究成果をもとに全集(The Plays and Poems of William Shakspeare)を完成させた。特にシェークスピア作品の発表の順序がこれまで諸説あって曖昧だったのを文献史学的に検証し確定させた功績は大きいと言われている。また当時盛んであったサロン的なシェークスピア論議に対して、編纂者という視点からの作品の研究と整理、評論というアプローチの嚆矢となった。1812年にイングランドのロンドンで死去している

手元の全集 (The Works of William Shakspeare)は1816年(日本では文化13年)にロンドンで出版されたものだ。序文PrefaceにはOctobe 25, 1790 Queen^Anne-Street, Eastとある。マローンがロンドンで死去した1812年の4年後の刊行である。ところが出版社の記述はなく「printed for the proprietors」と記されている。「the proprietors」(所有者)とは誰のことであろう。市販されなかったのだろうか。まさか私家本なのか? ネットで検索しても引っかかってこない。第一巻の巻頭のシェークスピアの肖像プリントは、全く同じものが大英博物館のプリント部門のコレクションにある。1786年のリトグラフだという。これが収められているのにその書籍自体は見つからない。記録としては、先述のように1790年に最初の全集(The Plays and Poems of William Shakspeare)が完成したとされるし、序文でもこの全集に言及しているが、実際の初版本は未確認である。そののち版を重ねて何回か出版されているが、マローン自身が編纂したものと考えられる(The Works of Shakspeare)をネットで英米の図書館、大学の蔵書を検索してみたが、1860年代に出版されたものがあるが、それ以前のものは見つからなかった。どうも1816年のこの全集が現存するマローン版としては最も古いものなのか。この全集の氏素性を書誌学の専門家に聞いてみる必要がありそうだ。この第1巻はほとんどのページが序文で占められている。まずマローン自身の1790年の日付の序文に始まり、サミュエル・ジョンソン、ポープ、スティーヴンスや他の研究者の「序文」の引用で飾られている。これらの中で自らのシェークスピアに関する所感、作品のクロノロジーなどが脚注を交えて詳細に記述されている。また第2巻は英国の演劇、劇場に関する歴史について全紙幅を費やしている(グローブ座や俳優のイラストが挿入されている)。これらの解説には膨大な数の脚注がつけられており、彼の実証的研究姿勢が感じられる。実際の作品が紹介されるのは第3巻以降である。この全集が単なるシェークスピア作品集ではなく、ドクター・ジョンソン、スティーヴンスや他の先人たちの輝かしい成果の集大成の上に、彼独自の最新の研究成果による修正と補筆を加えた研究書、評論集としての性格がよく現れている。古来謎の多いシェークスピアの作品を整理、確定したまさに彼の生涯をかけた著作集と言っても良い。1812年の彼の死後も、1816年のこの版を含めて改訂版が出版されているが、「ジョンソン伝」を表したジェームス・ボズウェルの息子ジェームス・ボズウェル2世がこれを引き継いだとする研究もある。しかし少なくともこの1816年版にボズウェルの名は出てこない。

この全集そのものは手にとってみるとやはり出版から200年以上を経ている分、あちこちが痛んでいるし、印刷が薄れたり、帳合がずれていたり、シミが出るなどで、かなり古色蒼然たる佇まいである。しかし革装の美しい本である。何よりもマローンの研究者としての成果が凝縮した書籍である。このようなシェークスピア全集は貴重で、こうした出会いを大切にしたいと思っている。工芸品と言っても良いような佇まいの革装の全集は本棚でその存在感を遺憾なく発揮してくれている。おそらくコンプリートセットの全集だと、とても高価で手が出ないと思うが、幸いに、というか不幸にもというか、巷に散逸してバラバラになってしまっていたようだ。こうして一冊二冊と見つけるたびに揃えていけば安価で、しかもコレクションのプロセスが楽しい。もっとも全巻揃うかは全く保証の限りではないし根気もいる。現にこれもまだ第8巻が欠けている。ボチボチ拾って回るのが面白いとも言える。最後の一巻が見つかるのはいつのことかわからないが、気長に探すことにしよう。北澤書店には引き続き探してもらっている。

(8月21日追記:本日、北澤書店より探していた本が見つかった、とのことで、最後の第8巻が送られてきた。これで想定していたよりも早く全16巻揃い踏みとなった。なんとまあ!感動である!さすが洋古書の専門店ネットワーク、サーチ力とカスタマーサービスに感嘆する。多謝、多謝!)

最後の一冊が!




Edmond Malone 1741-1812
London National Portrait Gallery所蔵
第1巻巻頭

革装の美しい背表紙
もう工芸品と言って良い


全16巻であるがまだ第8巻が抜けている
William Shakspeare(1564〜1616)肖像
1786

The Globe Theatre




2020年8月14日金曜日

古書を巡る旅(3)〜ひさびさの神保町古書店徘徊〜

革装丁の古書は工芸品としての美しさがある
今回入手した「Glimpses of Unfamiliar Japan」Lafcadio Hearn
(上の2冊)


ネットショッピング全盛のこのご時世。ご多分に漏れず神田神保町の古書店街も大きな影響を受けているに違いない。Aマゾンなどというバーチャルショッピングモールの隆盛で本屋が店じまいするケースも出てきて本屋探訪の楽しみを奪われたと嘆く人も多い。と言いつつもネットショッピングを便利にも使っているが... そこへコロナパンデミック騒ぎ。緊急事態宣言は解除になったとはいえ、東京はこれまでにない感染者の増加で、人々は不要不急の外出は控えるようになっている。そんななか久しぶりに神保町へ行ってみた。神保町交差点の岩波書店を中心に昔ながらの古書店が軒を連ねている。主に古書店は靖国通りの北側に並んでいる。これは南向きだと書籍に陽が当たり「焼ける」からだと言う。なるほどそういえばそうだ。合理的な立地選択だ。それにしてもこれほどの書店が集積している街は世界のどこを探してもないだろう。夏目漱石が探訪し、私も徘徊したロンドンのチャーリングクロスやセシルコートも素敵な古書店街だがこれほどの規模ではない。ニューヨークには大型書店はあるが古書店街は見当たらない。北京には素晴らしい文房具街があるが古書店街はなかったように思う。ここは駿河台、一橋の大学街との共生がその起源であるという。出版、印刷が加わり独自のエコシステムを構成している。この歴史を見ると昔の学生はよく本を読んだものだとわかる。それ以降の時代、学生運動が一段落した頃には、神田神保町はスキーなどのスポーツ用品店やギターなどの楽器店が増えた。これも学生の意識や生活スタイルの傾向に合わせた動きであった。勉強よりも遊びと趣味。

ともあれ、やはり神保町は世界に冠たる書店街だ。このご時世であるから比較的人出は少ないものの、本好き、古書好きにとって「聖地巡礼」は欠かせないルーチンだから全く人影が途絶えることはない。国内外の文化財級の古文書、書籍、プリントなどの宝庫であり、かつ日常的な読書需要を満たす豊富で安価な古書を扱い続けている。日本人の知的好奇心と文化的成熟度を体現する街といって良い。イスラム教の聖地メッカでさえソーシャルディスタンスをとって巡礼を行なっているくらいだから、神田神保町巡礼の火は消えていない。こんな困難な時期だが閉店してしまった店はなさそうだ。後述のように内情は火の車だが。

今回のお目当ては神保町で100年以上の歴史を誇る洋古書専門の「北沢書店」。いつもオンラインでお世話になっているが、今回は初めて入店。そこはアッと息を飲む「洋古書の大海」、あるいは書林という言葉がぴったりの「深い森」だ。そう「知のラビリンス」。店内の佇まいも、ロンドンの「古書店」のようなお宝がどこに潜んでいるか分からないようなダンジョン的雰囲気ではなく、整然としている。探検するワクワク感は薄いものの、品格と知性を感じる。客は少なく私を入れて二人だけ。まずはラフカディオ・ハーンの「Glimpses of Unfamiliar Japan」を探す。彼が日本について最初に書いた本だ。初めて松江についた最初の宿での日本の印象。翌朝の松江大橋を渡る人々の下駄の音で目が覚める。あの印象的なフレーズが登場する本だ。その後の松江時代、熊本時代の著作は我が家の蔵書として並んでいるのだが、これだけは今まで手に入らなかった。日本関係の書籍も多い。エドワード・モースの「Japan Day by Day」が目についた。イザベラ・バードの「Unbeaten Track of Japan」もしっかりある。定番のはずのハーンのものが見つけ出せず年配の店主に聞いた。すぐに「ハーンはあちこちに散らばってますのでご案内します」として4箇所ばかり教えてくれた。日本関係書コーナー、英文学書コーナー、初版本ばかりの稀覯書コーナー、そしてハーン研究者の著作コーナー。なるほどすごいコレクションだ。さすが店主はその在り処をたちどころに教えてくれる。それでも店主は「以前はハーンはもっと人気があり研究者も多くて、注文もたくさん来たので世界中から取り寄せていたが、最近は減りました」と言っていた。探していた「Glimpses ...」も最近は初版本が入らないし、注文もないので在庫はないとのこと。その代わり日本の雄松堂が1981年に復刻したFacsimile版(300部限定)で程度の良いものがあったので購入した。ハーンはその時々で人気が復活したり、下火になったりの繰り返しだそうだ。人気の理由はテレビで見た、とか雑誌で取り上げられていた、とか素人受けしやすい理由のようだ。私のような研究者でもない素人が話題になると探すのだろうか。その他にもシェークスピア関係、ディケンズや英文学関連の古書は当然ながら豊富だ。珍しいものでは19世期スコットランドのセントアンドリュース大学の神学者John Tullochの美しい革装丁の本もあった。大学時代の法哲学講義で名前だけは聞いたことがある。ウン十年ぶりの再会である。こうした思いがけない出会いがまた楽しい。ここはやはり人文科学系の古書が中心と見える。一日居ても飽きない空間だ。この古書の大海に揺蕩いながら日がな一日過ごすのも悪くない。

先述のように、北沢書店は、他の神保町の書店と同様、最近は来店数が減り、大学研究者もネット検索で調べるので、来店して実際に手に取ってみたり、注文する人が減っているそうだ。しかも、在庫が掃けず、流通もしないので大きな声ではいえないが廃棄せざるを得ない書籍があるような状況になっているとも言う。なんともったいない!そこで、4代目の若店主が、オンラインショップを10年ほど以前から開始した。しかも売れなくて長く在庫となっている古書を処分するのはもったいないとして、装丁の美しい古書や、全集としてそろわない古書、デザインの美しいプリント/古写真/ポストカードを中心にDisplay Booksとして新しい活用法をネットを通じて提案した。良い着眼だと思う。特にヨーロッパの革装バインディングの書籍は、それ自体がいわば美術品、工芸品と言っても良い美しさがある。これを入手しやすい価格で提供する。これが反響を呼び(NHKや多くのメディアでも取り上げられた)インテリア業界や、店舗ディスプレーデザイナー、ギャラリー、あるいは個人の蔵書家から注文が入るようになったと言う。私もその一人だが、まるで古書ハンティングの常識が変わる新しい体験である。「オンライン古書店」という一見バーチャルとリアルの対極にあって合い入れないようなコンセプトの店と言うのがまた楽しい。見やすくレイアウトされたサイトで美しい装丁の古書を見ているだけでも楽しめる。しかもこれまで馴染みのなかった著者の本をこのサイトで知る機会にもなっている。もちろんここでブラウズして買うこともできるし、神保町のリアル店へ行って実際に手に取ってみることもできる。こうしたネット上のバーチャル店舗と神保町のリアル店舗が相まって独特の古書ハンティングワールドを創出している。とはいえやはり書店のあの独特の古書の匂いと、その場の雰囲気と人生を咀嚼し身に付けているような風貌の店主、静寂、背表紙をプラウズしてゆく楽しみ、その中からお目当ての本を探し出した時の「達成感」。これも大事にしたい。したがってできるだけ足を運ぶのが良い。しかし最近は古書店受難の時代である。ロンドンのシティーにあったあの古書店も、ニューヨークのマディソン街で見つけたあの古書店も、今は実店舗を閉め、あるいは郊外へ移転し、オンライン中心になっている。良い場所での実店舗維持はなかなか大変なようだ。しかし、神保町という伝統の古書街でこそ頑張ってほしい。そのためにはもっと利用しなくてはいけない。100年の伝統の老舗「北沢書店」をなくしてはならないし、世界でも稀有な規模を誇る古書店街をなくしてはならない。書店の側もこれからもオンラインを敵視せず、上手に併用して新しい世界を提案してほしい。

しかし、こうして新しい提案で新機軸に果敢に挑戦する若い店主がいると、必ずこれにケチをつける人間が現れる。「本をなんと心得る」といった上から目線の「あるべき論」から、「ええかっこするな」というやっかみ論まで。ツイッター上で同書店を誹謗中傷する輩が現れ、これに反論するツイートとが入り乱れてが本題そっちのけの感情的バトル状態になっているようだ。特にマスコミで話題になると決まって、匿名で罵詈雑言を浴びせ始める輩が登場する。悲しい人達だ。いちいち反応せずに無視するのが一番だが、傍若無人に延々と書き込まれてそれで傷つく人がいることは看過できない。ツイッターはFacebookと違い実名で登場しない限り本人確認ができない仕組みになっているので、結構な無責任ツイートが横行しがち。実名で無責任なfake newsを垂れ流している某超大国の大統領もいるが、そうしたfake news, 誹謗中傷コメントを書き込む輩のツイートを見ると、常に誰かを誹謗中傷している。そして妙な自己顕示欲丸出し(およそ知的ではないが、時には知識人気取りもいる)ツイートをしている。炎上を喜んでいる「放火犯」「愉快犯」的だ。どうもパラノイア的性格の人物が多いのだろうが、普通の人間だってこうしたツイート見て「行きがけの駄賃」のノリで人を「バカ」呼ばわりしてうさ晴らしをする手合もいる。いずれも自分の弱さの表明なのだが。先だっても若いプロレスラーの女性がこうした誹謗中傷コメントに耐えきれなくて命を絶ったばかりだ。「匿名」という姿を隠しての卑怯な言説がのさばるSNS、無責任に口汚く悪口を書き立てるSNSって、本当に我々は「表現の自由」の手段を獲得したと言えるのだろうか。SNSは一定のモラルとルールがないと、ネット社会の負の側面を助長するツールに成り下がってしまうことは疑うべくもない。

北沢書店もこんなものに負けず頑張ってチャレンジ続けてほしい。革新には必ず、様々な抵抗勢力が現れる。まして伝統的な確立したモデルのある業界での事業モデルイノベーションは、その逆風も半端ではないだろう。ネット時代にネットを活用してイノベーションを起こす。それにはネットの負の側面もあることを忘れずに賢く対処してほしい。

やっぱり、井上陽水の「ブラタモリ」主題歌じゃないが、

「♪SNSなんか見てないで古書店に一緒に行こう♫」だよね〜


神保町交差点
靖国通りと白山通りが交わる

100年の歴史を持つ洋古書の専門店「北沢書店」。今回の探検先だ。さて「知のラビリンス」へ、いざ!



すごい!


よく整理分類されている!



Display Booksのコーナー
とりわけ装丁の美しい工芸品ともいうべき書籍が並んでいる



一階は子供向けの本とカフェ



もちろん神保町には、この他にもそれぞれの得意専門書を扱う個性的な古書店が軒を連ねている。























靖国通りを一歩入ると、昔ながらの喫茶「さぼうる」。2号店も隣にできた?入店待ちで結構並んでいる。





昔からある老舗の古書店も健在だ。






古地図と浮世絵の専門店。
そこは完全に江戸の蔦屋重三郎の世界だ!


(撮影機材:Leica SL2 + Lumix 20-60/3.5-5.6 パナソニックから最近出た20−60mmというLマウントのズームレンズ。おもしろい焦点距離だが、これが町歩きに最適。軽量でコンパクト(しかも安い!)。近接撮影もでき思いのほかボケる。20mm始まりという画角もちょうど良くて、広角特有の歪曲もなく店内での撮影に威力を発揮する。ヘビー級のLeica SL2ボディーとの組み合わせだと、ちょうどバランスの良いお散歩ブラパチカメラとなる。いいもの見つけた!ちなみに「北沢書店内」は許可を得て撮影)



2020年8月7日金曜日

蘇峰公園と山王草堂探訪 〜「知の巨人」彷徨の軌跡を追う〜

徳富蘇峰像 山王草堂記念館
旧徳富蘇峰邸入り口


大森山王の蘇峰公園、山王草堂記念館は私の大好きな散策コースである。徳富蘇峰という歴史に名を残す偉人の邸宅跡であるという「時空トラベラー」的感動だけでなく、我が家から最も近くにある都心には貴重な緑のオアシスであるからでもある。それと、徳富蘇峰といえば私にとってはもう一つ思い入れがある。私の父がまだ小学1年生の時、昭和天皇御大典記念に揮毫した書道作品が天皇陛下に献上になったことがあったそうだ。この「事件」は学校や地域でも名誉な快挙として大いに沸き立ったと言う。とりわけ息子の快挙を我が家の誉と感じた父の母、すなわち祖母が孫の私に繰り返し繰り返し聞かせてくれたので嫌でも記憶に残っている。現に、ご褒美に頂いたという「二宮金次郎」の銅像(卓上サイズ)が、我が家の家宝として大事に床の間に飾られていた。時代だなあという記念品だが。ちなみに父はこの時のことをあまり私に話してくれたことはなかった。幼少期のことで記憶にないのか(そんなことはないと思うが)、そんな大層な話ではないと感じていたのか。祖母ほどには感激していなかったようだったのがおかしい。父が亡くなって遺品を整理していた時、書類入れの中から古ぼけた一枚の賞状が出てきた。それがあの時の賞状であった。それをとっておいたのだから父も大切な思い出にしていたことがわかった。それを見ると、この御大典記念の天皇陛下への献上作品の募集を行なったのは、徳富猪一郎(すなわち蘇峰)主宰の「国民新聞」であった。賞状の左には皇族の名前に連なって国民新聞社社長徳富猪一郎、と墨書してある。生前、父を連れてここ蘇峰公園に何度か散歩に来たことがあるが、父は徳富蘇峰と自分の幼少期の(祖母が狂喜乱舞した)あの経験とが結びついていなかったようだ。なぜかそういう話題にはならなかった。思えば父はロマンチストではあったが「科学的合理主義」の人であった。


ともあれ、ここは徳富蘇峰が1924年(大正13年)から1943年(昭和18年)まで住んだ邸宅と成簣堂(せいきどう)文庫跡、一枝庵、牛後庵という庵跡、庭園が整備されて、現在は区民の憩いの場となっている。池泉回遊式の庭園には肥後椿が咲き誇り、新島襄からアメリカ土産にもらったカタルパの樹には白い花が咲き、中国曲阜の孔子廟から苗木が移植されたランシン木、秋には紅葉とイチョウが美しく、早春には紅白梅が香りたつ。蘇峰の木造二階建ての旧宅(山王草堂)の玄関と二階の書斎部分をそのまま記念館建物の内部に復元している。彼が「近代日本国民史」を執筆した書斎と、その原稿、全集100巻が展示されている他、多彩な交友関係を物語る手紙や、「国民之友」「国民新聞」の縮刷版などが展示されている。残念ながら国宝を含む膨大を書籍を収納していた成簣堂文庫は失われ、蔵書は御茶ノ水図書館に移されている。ここでかの大著「近世日本国民史」の大半を執筆。1952年に全100巻を完成させた。


徳富蘇峰の事績

徳富蘇峰(本名猪一郎)は明治から昭和という激動の時代を生きた思想家、言論人、歴史家である。

1863年(文久3年)熊本県益城町の生まれ。父、徳富一敬は熊本藩の横井小楠の一番弟子で肥後藩の改革派、実学党のリーダーであった。作家の徳冨蘆花(旧邸が「蘆花恒春園」)は実弟である。
その父の薫陶を得て育ち、横井小楠の孫弟子を自認していた。その後、熊本バンド プロテスタント系キリスト教団体に加わり熊本洋学塾に通う。熊本英学塾解散に伴い、大挙生徒が上京し新島襄の同志社英学校に入学。新島襄の薫陶を受ける。。
1882年:熊本へ戻り父と共に大江義塾創設。人材の育成に努める。
このころは明治新政府の富国強兵策、欧化政策に批判的で、国権主義、軍備拡張主義に対抗して平民主義を訴える。
1886年:東京へ出てジャーナリストとして活動開始
1887年:民友社を設立し「国民之友」創刊。ここでも欧化政策、その一方の国粋主義に反対して「平民的急進主義」を訴える。
1890年:国民新聞社創設。オピニオンリーダーとなる。勝海舟、伊藤博文、板垣退助など幅広い人脈を得る。
1894年:日清戦争に記者として従軍。この戦争を日本発展の絶好の機会と捉え、日本膨張論を唱える。
1895年:戦後の「三国干渉」に衝撃を受け、国権膨張主義者へと転換してゆく。
1897年:松方内閣勅任参事官に就任。やがて元老の山縣、桂と結びつく。
こうして在野のジャーナリストから政権中枢へと軸足を転換してゆき、その「変節」を批判される。のちに「言論界と政界の両棲動物」と揶揄されるようになる。
1904年:日露戦争、1913年:朝鮮併合、大正デモクラシーのなかで、国権膨張主義の色合いを深めてゆき、軍国主義的な海外膨張政策を容認してゆく。
1929年:創設した「国民新聞」を去り「大阪毎日新聞」へ。
1935年:日独伊三国同盟を建白
1942年:東條首相主導の「大日本言論報国会」会長に就任。文化勲章を受ける。
1945年:戦後、A級戦犯容疑となるも病気のため訴追されず公職追放。
1952年:「近世日本国民史」全100巻を刊行。
1957年:熱海にて逝去(享年94歳)


徳富蘇峰の評価

キリスト教的な博愛主義、自由民権運動から来る平民主義から出発したはずなのに、やがて国権主義へ、さらには軍国主義的拡張論者へと転換。在野の言論人から権力中枢に寄りそう「変節」の人生、「言論界」と「政界」の両棲動物などと揶揄されることが多かった。特に戦後は、日本の軍国主義の伸長と帝国主義的な侵略を容認し、著作や言論でそれを進めたことでA級戦犯容疑となったことからも、その評価は確定したように言われる。蘇峰自身も自らを「尊王攘夷の士、自由民権運動の士、国権主義、国権膨張の士」と表しているように、平民主義から国権主義と大きな振れ幅を持つ思想信条の変遷を自認している。しかし、思想信条に関わらない幅広い人的交流があり、言論人、思想家、歴史家としての豊かな知見と洞察力、多くの著作や言論での実績。しかもキリスト者であり続けたこと。こうした器の大きさが、なにがしかのレッテルを貼ることも、一言で人物をいい表す事もできない、いわば「知の巨人」と言わしめる所以であると感じる。


その思想的背景:佐幕派の大藩出身者の運命?

このように見てくると徳富蘇峰は九州の反薩長藩閥政府運動、そこから生まれた自由民権運動の来し方行末を体現する人物の一人と言ってよいと思う。どういうことかと言うと明治維新の動きに乗り遅れ、その後の政治ムーブメントを主導できなかった西南の雄藩(熊本、福岡藩)出身の「尊王攘夷」派、あるいは一連の不平士族の反乱で賊軍にされた薩長土肥の下野組の怨念の軌跡の延長上にある人物に共通する悲劇という側面があると思う。第一世代の維新の英傑にもなれなかった、新政府の中枢にいて第二世代の富国強兵と一等国の担い手にもなれなかった。そして軍国主義化の成れの果てとしての敗戦という「明治維新の破滅」の歴史を表舞台で主導した第三世代でもなかった。しかし明治以降の日本の破綻の歴史を担った流れは他にもあった。そう言う時代を生きた知識人であった。

その一つの流れの代表が熊本藩出身の徳富蘇峰で、そのもう一つの代表が福岡藩出身の玄洋社の首魁、頭山満であろう。どちらも維新第一世代(天保老人などと言われる)ではなく、その第二世代に属するし、いわば第三世代のイデオローグとなった。徳富蘇峰は言論界で、頭山満は政治の裏社会で隠然たる勢力を有し、薩長藩閥政府や元老にとっては厄介な存在であったであろう。

先述のように熊本藩には維新の功労者、横井小楠がいた。しかし、佐幕派の藩として彼を活かすことなく、福井藩の松平春嶽の政治顧問にとられてしまう。蘇峰の父、徳富一敬も熊本藩内では冷飯を食らった尊王攘夷派であった。また肥後勤王党の宮部鼎蔵兄弟のような維新の志士も池田屋事件や禁門の変で失われ、やがては熊本藩は維新に乗り遅れる。この動きは隣の福岡藩でも同じであった。ある時代、尊王攘夷運動の拠点であった福岡藩も筑前勤王党の家老加藤司書や月形洗蔵、野村望東尼など多くの志士を処刑、粛清してしまい、平野国臣は獄中で死亡するなど、生きていれば維新を主導したであろう人士を失ってしまった。藩論が二転三転し、土壇場で佐幕派に抑えられたことから、福岡藩も維新に乗り遅れ、新政府のもとで苦杯を味わうことになる。そうした歯軋りを強いられた維新第一世代の「子供たち」が蘇峰や頭山であった。

こうした明治新政府では主流とはなり得なかった藩の出身者の政治への関わりは、最初は旧士族の乱、やがては「自由民権運動」となって爆発していった。まず薩長藩閥政府への反発は、佐賀の乱(佐賀)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)、神風連の乱(熊本)、そして西南戦争(鹿児島)という「不平士族の反乱」と後世語られる一連の反政府武装闘争という形で現れた。しかし維新の英傑、西郷隆盛の死を持って九州・山口の反藩閥政治グループは軍事的、政治的に敗北し、そのエネルギーを武装闘争やテロリズムから自由民権運動へと転換してゆく。下野した土佐藩の板垣退助らと同調してその運動を全国各地に広げてゆく。その中でも特に福岡藩の無念の「尊王攘夷派」の子供たちは、自由民権運動から派生して、政権中枢に対抗する裏政治集団を形成し、特異な道を歩む。これが頭山満を首魁とする玄洋社だ。あるいは、その流れを汲む広田弘毅、中野正剛、緒方竹虎(旧藩校修猷館出身者たち)だ。また一方では玄洋社とは関係ないが、三井財閥の団琢磨、憲法草案、日露講和の金子堅太郎、外務省の栗野慎一郎、日露戦争の裏工作の明石源二郎などの政官財のエリート集団(これも修猷館出身者たち)も維新第一世代には名を連ねなかったが、第二世代で登場してくる。

一方の、熊本藩の「尊王攘夷派」は横井小楠を失い、宮部鼎蔵兄弟の死による維新英傑を失い、神風連の乱で過激な政治結社は壊滅する。先述の「実学党」、藩内改革派の流れを組む若手のキリスト教団体「熊本バンド」から新島襄の薫陶を得た連中が、「平民主義」や「自由民権運動」グループを通じて在野の言論界、ジャーナリズムの世界に自己実現の活路を見出してゆく。その代表が徳富蘇峰だ。しかし、のちには先述のように蘇峰は政治の世界へ足を踏み入れ、桂や山県有朋などとの人脈形成を通じて政権中枢へ入り込んでゆく。在野の言論界の住人は、国権膨張主義、帝国主義的膨張側に住所を移す。「変節」と批判される所以だ。

そうしたなか、熊本藩出身で、徳富蘇峰の大江義塾の門下生であった宮崎滔天は 在野に徹し、浪曲師などとして活躍しつつ、大陸浪人として世界を股にかけ、欧米列強からのアジアの植民地解放闘争に積極的に関わってゆく。いわゆる「大アジア主義」を唱え、民衆の自立と連帯を通して真の独立を勝ち取ろうと、先述の玄洋社の頭山満等とともにインド独立や、フィリピン独立を支援する。とりわけ孫文の「辛亥革命」を全面的に支援した。この功績により宮崎滔天は中国においては「革命の友」として尊崇を集めており、今でも駐日中国大使は宮崎家を必ず表敬し、国慶節には国賓扱いで迎えている。

こうした「大アジア主義」に、愛弟子である宮崎滔天や頭山満との交流があった徳富蘇峰は共感を示し、中国の辛亥革命、インドの独立運動を支持を寄せていた。滔天は早世するが、蘇峰と頭山はやがては、ともに理想とはかけ離れた日本の帝国主義的、軍国主義的な国権伸長の道を唱導し、東條政権の登場とともに軍国化への道を歩むイデオローグ「危険な極右主義者」(戦後のGHQの玄洋社解散命令での表現)とレッテルを張られることになる。こうして在野の勢力ははコントロールを失った危険思想人士として戦争責任を問われ、敗戦すなわち明治維新の破綻を導いた人物として記憶されることになる。自由民権運動の闘士、平民主義のキリスト者がなんと皮肉なことか。


「右翼」「左翼」というレッテルを貼って片付けることの合理性?

戦後、こうした幕末の尊王攘夷、明治の不平士族反乱、自由民権運動の政治的、思想的末裔は、「右翼」、「国粋主義者」として十把一絡げで片付けられ、歴史から葬り去られることになる。しかしこうした人士の出てきた明治維新という「革命」の背景、性格と、その実態を再評価し、そしてなぜああいう結果に結びついてしまったのか、たった78年で「明治維新」と言う国家形成事業が崩壊してしまったのかを検証してみる必要があると考える。その一環として「右翼」とレッテルを張られてしまった思想家、活動家の背景と変異プロセスを批判的に再評価してみることが必要ではないか。一時期、新左翼運動が盛んで、旧「左翼」を攻撃し続け、それがやがては極端なテロリズムに変異していった時代にも、「右翼」の批判的評価の試みがなされたことがあった。しかし、当時のような新左翼に対する新右翼のような対抗概念で議論するのではなく、「右翼」の歴史的な系譜を再検証してみる必要がある。これは、決して戦前の国権主義、帝国主義的拡張主義や軍国主義、皇国史観に光を当てて復活させようということではない。そうなってしまったのはなぜか、と言う視点での再批判、再評価である。朝鮮半島をめぐる日清/日露戦争の勝利から、満州事変、日中戦争、そして対米戦争という、およそ合理的でも理性的でもない戦争へ突き進んだ明治維新の目標の一つ「富国強兵」政策があった一方で、民間による大アジア主義・欧米列強からのアジア植民地解放への連帯というある意味崇高な理想が、それに奇妙な形で結びつき、国粋主義、軍国主義、帝国主義的膨張主義へと変質していった(「大東亜共栄圏構想」という)。明治維新第一世代の退場と、第二世代による条約改正、富国強兵、戦争勝利による一等国への道、そして第三世代でコントロールを失っての明治維新の崩壊という歴史をもう一度振り返る必要がある。それはまた政治や戦争を主導した政権/軍部中枢だけでなく、民間、言論界、在野勢力における「崩壊プロセス」への関与あるいは主導という視点を取り戻してみるということだ。ある意味では「知識人」の彷徨の軌跡に学ぶことだろう。言論人であり思想家であり歴史家であり、そして振幅の大きな政治信条を持つ「知の巨人」徳富蘇峰。彼の生まれた時代の立ち位置から来る心の軌跡と懊悩、実践を振り返ってみるとそこに何か教訓が学べるのではないかと思う。

またしても「日暮れてなお道通し」であるが...




写真集

1)蘇峰公園

旧邸の庭園を修景保存し、一般に公開している。緑濃い都会のオアシスで四季折々の花々が美しい。とりわけ新島襄から贈られたカタルパの木、中国の孔子廟から移植されたランシン木、そして蘇峰の故郷の肥後椿が目を引く。



緑陰散策が楽しい

蘇峰の銅像があった台座
戦時中の金属供出で持っていかれた

この東屋での休息はちょっとした森林浴

小さな古塚がある
平安時代末期のもので何らかの祭祀跡だそうだ
石碑には「馬頭観世音菩薩」とある

左は記念館
その前に植えてあるのは中国曲阜の孔子廟から苗木で移植されたランシン木

秋は紅葉が美しい

肥後椿

芍薬

カタルパ
新島襄のアメリカみやげ
紫陽花



睡蓮の池






2)山王草堂記念館

蘇峰の邸宅「山王草堂」の玄関と二階部分を記念館内部に復元保存している。蘇峰由来の貴重な資料を保存展示するスペースとなっている。また蘇峰の愛用したデスク/椅子や杖やコートなどの遺品を見ることもできる。


山王草堂記念館
「近代日本国民史」原稿
「近世日本国民史」原稿
楕円形のテーブルを中心に具える書斎


旧徳富邸二階の書斎を復元




板垣退助の手紙

伊藤博文の手紙

勝海舟直筆の扁額

新島襄直筆

父徳富一敬の手紙

「国民之友」

蘇峰の直筆原稿

成簣堂文庫跡

徳富蘇峰肖像
(館内の撮影は許可を得ています)