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2021年11月28日日曜日

古書を巡る旅(18)The Life of Sir Harry Parkes:「ハリー・パークス伝」 〜あまり著作を残さなかったもう一人の幕末/明治の立役者〜

ハリー・パークスの肖像と署名
この肖像写真は1883年7月に東京でS.Suzukiにより撮影されたとある。


お天気も良いのでぶらりと皇居お堀端を散策しながら神保町の北沢書店を訪ねた。ここに来ると、いつも洋古書の大海に揺蕩い、知の迷宮を彷徨い、日々の瑣末な雑事をひととき忘れさせてくれる。特にあてもなく書架を眺めていると、北沢社長が「面白い本が入りましたよ」と見せてくれたのが、このThe Life of Sir Harry Parkes:「ハリー・パークス伝」だ。1894年ロンドン出版である。言わずと知れた大英帝国の駐日公使ハリー・パークスの伝記だ。これが意外なことになかなか古書市場に出回らない貴重な本である。何故なのか?激動の幕末から、明治初期にかけて辣腕のイギリス公使として活躍し、あれほど歴史の教科書にも、小説や大河ドラマにも登場するハリー・パークスだが彼に関する評伝や、彼自身による日本に関する著作は少ない。したがって古書店でも滅多にお目にかからないというわけだ。前任者のラザフォード・オルコックや、ローレンス・オリファント、アーネスト・サトウ、ウィリアム・アストンなどは、多くの日本関係の著作を残している。オルコックの「大君の都」や、ジャパノロジストのサトウの「一外交官の見た明治維新」などは代表作である。彼らの評伝も日本では研究者によって数多く出されている。以前のブログで紹介したように、その著作は古書店でも割に常連メンバーで、手にすることができる。彼らが著した本は、幕末明治日本と西欧のセカンド・コンタクト(16世紀末から17世紀前半のファースト・コンタクトに対する)という時代の画期を描く重要な史料でもある。彼らは単なる歴史の観察者や評論者ではなく、まさに歴史的事件の当事者であった。それだけにその言行録、行動記録は、日欧関係史研究のみならず、幕末/明治の日本史を研究する際に欠かせない一次資料として重要である。しかし、どうもパークスに関しては、その著作、評伝は古書店の常連メンバーではなさそうだ。オルコックの後任として日本に赴任し18年滞在している。サトウの25年には及ばないものの、幕末から明治にかけて、日本の激動の時期に居合わせたイギリスの外交官であった。いや、単に居合わせただけではない。彼は明治維新の立役者の一人であった。明治新政府発足後は、日本の近代化にも大きな役割を果たした。もちろん大英帝国の、女王陛下の忠実なる公僕(しもべ)としての事績も残した。そうした人物が著作を残さなかったこと、その記録が刊本の形で残っていないのに驚いたものであった。歴史に名を残した人の多くは、リタイアー後に自分の人生を振り返って回顧録や自伝を書くことが多いのだが、彼の場合、あまり個人的な日記を残していないようだし、また、離日後、清国公使として北京在任中に(すなわち回顧するいとももなく現役中に)病死していることもあったのかもしれない。したがってこの本も、彼自身による回顧録ではなく、彼の日本時代の部下であったディンキンス(後述)によってまとめられた伝記である。これを日本語に訳したものは平凡社東洋文庫版の「パークス伝」高梨健吉訳1984年がある。このようにい彼に関する史料は意外に少ない。



ハリー・スミス・パークス:Sir Harry Smith Parkes (1828-1885)の略歴


イングランド、ミッドランド地方の中産階級の家に生まれる、早くから両親を亡くし、グラマースクールを出て、13歳で親戚を頼って中国へ。

1843年 15歳で広東のイギリス領事館に採用 アヘン戦争終結の南京条約締結に立ち会う

1854年 厦門領事 オルコックと出会う。エルギン卿の通訳としてアロー号事件に関わり、北京侵攻のなか清国に拉致され北京で投獄されるなど激震の真只中に 

1864年 上海領事

1865年 日本公使として着任 37歳 オルコックの後任として、対日政策は基本的には前任者を引き継ぐ(武力不行使)。兵庫開港問題に取り組む

1867年 大政奉還 大坂で徳川慶喜と会見 品川で攘夷派浪士に襲われるが難を逃れる

1868年 鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争。いち早く局外中立を宣言。江戸無血開城、 明治新政府成立。諸外国に先んじて新政府に信任状奉呈(明治新政府を承認)。明治天皇謁見。その御所へ向かう途上で暴漢に襲われるも難を逃れる。その後、条約改正交渉、近代化のための新政府支援 

1872−73年 岩倉遣欧使節団をエスコートして英国へ 条約改定交渉

1874年 清国との対立 台湾出兵

1874ー84年 朝鮮開国問題 江華島事件、日鮮修好条約締結

1877年 西南戦争や不平支族の反乱に遭遇 盟友薩摩の反乱として憂慮 日本アジア協会会長就任

1879−82年 賜暇帰国

1883年 清国公使に転任 離日

1885年 任地の北京で死去(57歳)

日本在任は18年に及ぶ。その間、幕末から明治へという激動の日本に身を置き、開国を主導し、安政五カ国条約締結の当事者である徳川幕府の行く末に限界を感じ取り、むしろ攘夷を叫んでいた薩摩、長州とのつながりを深めていったことで知られる。彼は薩摩や長州が西欧諸国との交易拡大を望んでいることを察知していた。特に薩摩とは薩英戦争後に提携関係を強化していった。大阪城で慶喜と会見している。パークスは彼を「有能な人物」として高く評価しているが、ショーグン:Shogunを戴く幕府の統治能力や、幕藩体制の限界をいち早く認識し、新生日本の誕生に期待を寄せ倒幕派を支持。ミカド:Mikadoを戴く新政府を支援した。鳥羽・伏見の戦いでの幕府敗退、慶喜の江戸への逃亡という事態がこれを決定的にした。

よく言われるように、清国でのアヘン戦争やアロー号事件を契機としたイギリス始めとする列強諸国の、帝国主義的な植民地化の動きを見聞して危機感を抱いた尊王攘夷の志士が、外国人を不倶戴天の敵であり、ハリスやオルコック、パークス等を日本を植民地化しようとする手先のように受け止め、尊王攘夷運動が起こり、それが明治維新の原動力になったと理解されることが多い。「司馬遼太郎史観」によるところが大きいのだろう。大河ドラマや維新小説などでは、日本を恫喝する「悪辣な異人」として描かれることが多い。たしかに清国でのエルギン卿やオルコック、パークスの剛腕と強硬策が清国を弱体化させ、植民地化の動きを加速させたが、その前に既に清朝による国内統治体制、外交能力が破綻に瀕しており、国内の地域勢力の分断と対立が極限に達していた。しかも近代化を担う次世代が現れなかったことが大きい。こうした清国の実態を見聞し、実際に外交交渉、武力行使に携わった彼らは、日本でも同様、幾多の交渉の過程で、徳川幕府という旧体制の行き詰まりを早くから感じ取っていた。しかし、過去のブログでも分析したように、日本を「植民地化」することの政治的効果と経済的効果を分析、評価すると、必ずしもその判断に合理性があるとは考えなかった。資源もない、マーケットも小さい。清国と同様に東洋の旧世界の価値観に属しているが、一方で隣国の有様に学び、世界に目を開き変革を求める若いパワーに満ち溢れている。知性と能力ある人物も豊富である。有力大名の雄藩は分断から連合へと進む潜在的ムーブメントを有していた。こうした要素を勘案すると、植民地化などという手間とコストのかかる、しかも統治リスクの高い選択肢を取るよりも、貿易関係拡大を優先し新日本を大英帝国の極東のアライアンスにした方が良い(対露、対仏戦略、あるいは新興国アメリカ戦略上)。清国とは異なる戦略をとる方が大英帝国の国益に叶うと考えた。これは、前任者オルコックの路線の踏襲、サトウのアドバイスや提言が大きかったと考えられるし、本国ももはや極東の日本にまで戦線を拡大する余裕はなかっただろう。パークス自身も、幕府と新政府との間で起きた戊辰戦争のような内戦に、中国で行ったような武力を用いた介入が有効に働くとは考えず、いちはやく局外中立を宣言した。一方で新政府側を支持して新体制に向けての影響力、経済的な権益を期待した方が有利と考えた。明治新政府樹立とともに、諸外国に先駆けて信任状を奉呈し、新政府を国家として承認した。この辺りが幕府側に立って箱館戦争にまで参戦したフランスのロッシュと異なる点だ。また、日本の開国を主導しながら、自国の内戦(南北戦争)で出遅れたアメリカにも先行することができた。現に、パークスとサトウの戦略は新生日本の近代化には有効な結果をもたらした。もちろん、インドや中国、ビルマ。マレーなどアジア諸国で大英帝国の版図を拡大し、維持するためにこれまで費やした血と汗と資金、繁栄のための代償の大きさを考えると、大英帝国の国益にも合致するものであった。やがて1902年の日英同盟へと結実してゆく。その後の日本の軍事的な脅威拡大、アジアにおける大英帝国の領土、権益への脅威に発展するシナリオまでは、この時に描けなかったのかもしれないが、少なくとも、幕末から明治初期という時期におけるイギリスの対日戦略は、パークスやサトウによって描かれ、実行され、そして有効に機能していた。

参考ブログ:2021年6月21日アーネスト・サトウ「一外交官が見た明治維新」

パークスの人物像は、癇癪持ち、フランス公使ロッシュと対立、芸者遊びに興じる、夫人同伴で富士山に登山など、様々である。部下からの評判も必ずしも良くなかったようだが、大英帝国の外交官としての能力を遺憾なく発揮する公僕としての人物像が描かれている。条約改定に関しては強面ぶりを発揮している。徳川慶喜を高く評価した反面、岩倉、西郷、大久保、木戸、伊藤などとは緊密に交流。長崎のトーマス・グラバーとも親交があり薩摩藩とのつながりはここを使った。アーネスト・サトウの「サトウ詣」と言われるほど、パークスが維新の志士に人望があったわけではないが、交流は活発であった。彼も、外交官として信任状を奉呈した幕府だけではなく、反幕府勢力にも大いに人脈を広げ生かしていった、まさにしたたかで辣腕の外交官であった。ただ彼の伝記からは、個人としてのパークスの人柄やエピソードはあまり伝わってこない。これは彼の心情や感情を表す日記や手紙があまり残されていないことによると、著者のディンキンス自身が巻頭で認めている。

部下はアーネスト・サトウ、アルジャーノン・ミットフォード、ウィリアム・ジョージ・アストンなど、有能なジャパノロジスト達である。彼らはオルコック、パークスの指示で1日の執務時間のうち午後は日本研究に時間を割いた。アストン、サトウはのちにパークスの後任の駐日公使になっている。こうした人材の育成と輩出という点でも大きな功績があった。もっともサトウはパークスを外交官としては高く評価していたが、上司としてのパークスには批判的であったという。これは「彼の出自や属する階級の問題だ」(サトウのチェンバレンへの手紙で)としている。確かに上流階級や、高等教育を受けたエリート層出身ではない。早くから(13歳で)中国に出て、帝国の外交尖兵として修羅場を掻い潜ってきた、いわば叩き上げである。アメリカ的には立志伝中の人(サクセスストーリー)であろうが、こうした出自問題が人物評価に絶えず付き纏うのはいかにも「階級社会」であるイギリス的である。

本書は、先述のようにパークスが最後の任地の北京で亡くなってから9年後にロンドンで出版された。パークス自身の日記や真筆原稿、回想録によるものではなく、Frederic Victor Dickins:フレデリック・ディッキンス (1838-1915) が、パークスの日本公使時代(1865−1883年)について執筆した伝記(第二巻目、ちなみに第一巻は中国公使時代の記述)である。彼は、パークスの残した手紙(彼宛の手紙を含む)やメモ、ジャーナルなどを収集し、またサトウ、ミットフォード、アストンなど関係者からのヒアリングをまとめて描いた。しかし、ディッキンス自身が巻頭言で述べているように、伝記とは言ってもパークスの人となりや、個人像よりは、彼が関わった歴史的な事件や出来事に関する記事や記録に力点を置かざるを得なかったとしている。それだけに、我々から見ると歴史資料としての興味をそそられる。ディッキンスはロンドン大学の副学長で、「百人一首」「竹取物語」「方丈記」「忠臣蔵」などを翻訳した日本文学研究者、翻訳家であった。かつて海軍軍医で、かつバリスター(法廷弁護士)の資格を持った法律家として、パークス時代の日本の領事裁判所に赴任していた。こうしてみるとサトウやアストンだけでなく、前出のチェンバレンなども含め、いかに多くの知的レベルの高い有能な人物が日本に赴任、来訪していたことにも気付かされる。世界に関心が向いていた欧州にとって開国したばかりの日本は、ジャポニズムブームに限らず一種東洋への憧れの第一対象であった。これは16〜17世紀の日欧交流史のファースト・コンタクトの時の、イエズス会・オランダ東インド会社が、知性と好奇心に溢れた有能な若者や研究者/学者を日本に送り込んだことと通じるものがある。

ちなみに、本書は東京大学国史学教授であった下村富士男博士(1907−1970)の蔵書であった。下村教授は東大最初の近代史講座の教授であり外交史が専門であった。日本史の教科書も書いている。本には随所に鉛筆書きの下線や、細かい字での書き込みがあり、研究の痕跡が見られる貴重なものだ。古書はこうした所有者の生きた証というか、その人の物語を纏っている。そこがまた大きな魅力である。


二巻からなる「パークス伝」1894年ロンドン刊

第一巻表紙 中国公使時代からはじまる
第二巻 日本公使時代
下村教授の印が押してある。

日本地図



2021年11月17日水曜日

古書を巡る旅(17)「聖フランシスコ・ザビエルの生涯 インド、日本への布教」(ジョン・ドライデン英訳版):The Life of St. Francis Xavier of The Society of Jesus Apostle of The Indies, and of Japan

 





先日、神田神保町で久しぶりに開催された「洋古書市」を訪ね、その帰りにぶらぶらと古書店を覗いて回った時、面白い本を見つけた。今回はいつもの北沢書店ではないが、出会いとは不思議なものだ。探していたわけではないのだが、ふと書棚にある本と目があった。いやむしろ探している時には見つからないが、出会う時には出会うものだ。フランシスコ・ザビエルの評伝である。今更いうまでもなくザビエルは我々日本人には馴染みの深いローマ・カトリック、イエズス会の宣教師で、日本に初めてキリスト教を伝えたことで知られている。彼の生涯と事績についての評伝、研究は後世にさまざまな聖職者や研究者、歴史家などによりなされているが、この本は興味深い。なぜならば、ローマ・カトリック教会の聖人となっていたザビエルの生涯と、彼が率いるイエズス会宣教師のインド、日本への布教活動(1549年)という事績が、約130年後に英国国教会の国であるはずのイギリスで紹介されているからである。しかもこの翻訳者がイギリス文学史上の大御所の一人であるジョン・ドライデンであるからさらに驚いた。しばらく立ち読み、というか、ページのあちこちを繰りながら舐めるように見回した。なんと1688年にロンドンで出版された初版である。紙質はかなり古色蒼然としており脆い状態(1750年以前の古書に用いられるいわゆる「すのめ入」手漉き紙)で、印字もスペルも古英語の雰囲気を残している。図版は日本を含むアジア地図が一枚入っている。ザビエルの肖像図が失われていて、代替のコピーが挿入されている。革装丁もかなり年季が入ったものであるが、これはおそらく後世に改装されたものだろう。それにしても1688年といえば、日本では江戸時代、第五代将軍綱吉、そして側用人柳沢吉保の時代である。あの先日訪問した湯島聖堂が開設された時代だ。井原西鶴が「好色一代男」「日本永代蔵」「世間胸算用」などヒットを連発し、松尾芭蕉が「奥の細道」旅の道すがらという時代である。また、前回紹介した長崎オランダ商館のケンペルが江戸参府して将軍綱吉に拝謁する2年前である。そんな同じ時代にロンドンで出版された書籍である。図版が一枚欠損しているという理由でバーゲンプライスになっていた。早速入手した。私のコレクションのうちでは最も出版年代が古い書籍となる。

この1688年初版の「イエズス会 聖フランシスコ・ザビエルの生涯 インド、日本への布教」:The Life of St. Francis Xavier of The Society of Jesus, Apostle of The Indies and Japanは、フランスのイエズス会司祭で、当時のフランス随一のエッセイストで評論家の、ドミニク・ブウール:Dominique Bouhour(1628−1702年)が1682年にパリで出版した、La vie de Saint Francois Xavier de la Compagnie de Jesusの英訳版である。イギリスのこの時代の文学界の雄であるジョン・ドライデン:John Dryden(1631−1700年)が翻訳したものである。これだけでもなかなかの英仏の豪華配役だと言えよう。この本の献辞にもあるように、ジェームス2世の王妃に献納したものである。ドライデンは17世紀後半のイギリスの最初の王室「桂冠詩人」である。その詩はもとより、劇作、評論で名声を得たが、このザビエル伝で表されるように、翻訳家としても活躍した。意外にも日本ではあまり知られていないが、イギリスでは、チョーサー、シェークスピアー、ミルトン、のちの時代のジョンソンなどとともに英文学上の画期をなす人物として知られている。

ところで不思議なのは、なぜ17世紀、プロテスタント英国国教会のイギリスで、カトリック・イエズス会のザビエルの評伝、日本への布教活動に関する評論を翻訳出版したのか、ということである。当時のイギリスは、清教徒革命で国王チャールズ1世が処刑され、1653年クロムウェルによる共和制移行。そして1660年チャールス2世が即位する「王政復古」へと政治体制激変の時代であった。その次に即位したジェームス2世はカトリックを復活させ、議会を無視し専制的な政治を行った。しかし1688年、カトリック王ジェームス2世は亡命を余儀なくされて、再びプロテスタントのオレンジ公ウィリアムが即位する(いわゆる名誉革命)。王政、共和制、再び王政、と目まぐるしく体制が変わり、絶対王政から立憲君主制が確立される時期である。また国教が英国国教会から、一時的ではあるがカトリックに戻った時代であった。一方で、はるか極東の国である日本は、1549年のザビエルによるキリスト教布教活動、ポルトガル、スペインというカトリック国との交易、布教活動の時代から、17世初頭のオランダ、イギリスというプロテスタント国による交易へと変遷していった時代である。イギリスはジェームス1世の国書を携えたジョン・セーリスがウィリアム・アダムスの仲介で徳川家康に拝謁し、平戸に商館を開いた。しかし、17世中庸にはキリスト教を禁じる徳川幕府の「鎖国」時代に入る。イギリスは対日貿易ではオランダとの競争に負けて、1623年には、平戸のイギリス商館を閉鎖して日本から撤退している。その日本撤退から60余年。こうした時期にイエズス会宣教師ザビエルによる日本布教活動を伝える書物がロンドンで翻訳出版されたわけである。この頃のイギリスは日本からは撤退したものの、東インド会社による東洋貿易はポルトガルをはるかに凌ぐ勢いとなっていた。オランダ東インド会社の貿易活動も勢力を伸ばし、イギリスと各地で対立する事態(アンボイナ事件など)も起きていた。そしてイギリスで航海条例が1651年に制定され、オランダとついに交戦状態になった。この戦争はイギリス優位のうちに停戦となり、以降、幾たびかの英蘭戦が繰り返され、オランダの海上覇権が揺らぎ始めた時期である。イギリスが撤退した日本においては、ポルトガル人が追放されてオランダが交易を独占するに至っていた。この時期、イギリスにおいて日本に対する再評価機運が盛り上がリ、再び進出の企てが始まっていた。この日本に関する関心が高まり、研究が進められていた時期に、この書が英訳され王室に献呈されたというわけである。そして1673年、イギリスのリターン号を日本に派遣し、長崎入港、交易再開の要請をおこなうが、結果的には幕府に拒絶され失敗に終わった。

訳者のドライデンは、先述のように17世紀後半、イギリスにおけるクロムウェルの共和政から王政復古の時代の文壇の大御所として名声を博した。しかし、彼はその時代の権威者のもとで主流となる宗派、主義を信奉するなど、日和見主義者との批判も受けたことでも知られる。クロムウェルが護民卿となりイギリス初めての共和制を引いた時には、ケンブリッジを出たばかりのドライデンは、もともと彼自身が清教徒(ピューリタン)の家系に生まれたこともありクロムウェル政権を支持し、その共和制政権に加わった。1658年のクロムウェルの葬儀には共和主義者であったジョン・ミルトンと共に参列し、彼を礼賛する文章「Heoique Stanza」を捧げている。一方で、1660年の王政復古で英国国教会のチャールズ2世が即位すると、今度は新王権に祝意を表すため「Astraea redux」を献辞している。そして、次のカトリックを信奉するジェームス2世の治世になると、自らカトリックに改宗し、カトリックの聖人にして、歴史上の偉業を遂げたザビエルの評伝を翻訳し王室に献納している。しかしこのあとジェームス2世の追放、フランスへの亡命と、オランダ統領であったオレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)の即位(1688年、名誉革命)により、イギリスにおけるカトリック復活はなくなると、ドライデンも王室桂冠詩人の地位を失い落魄の人生を送ることになる。さらに王権を制限する「権利の章典」が出されるなど、絶対王政から立憲君主制へと歴史上の転換期に入る、このようにイギリスの海外進出、「大英帝国」への黎明期という時代背景とともに、本書がイギリスの国教、政治体制転換の時代のなかで生まれた産物であるということが見て取れるであろう。

彼は、先述のように多くの詩や、時代を辛辣に語る評論で名声を博しただけでなく、ミルトンの「失楽園」を舞台脚本を出すなど劇作にも力を入れた。このような時代を文学界では「ドライデンの時代」と呼んでいる。サミュエル・ジョンソンは彼を「イギリス文学批評の父」と賛美した。しかし、現代まで語り継がれる彼の代表作は何か、と言われるとあまり思いつかないだろう。特に日本ではあまり知られていない。イギリスにおいてもドライデンは、19世紀ビクトリア朝時代にはあまり評価されなかったと言われ、その再評価がなされたのはT.S.エリオットによると言われている。したがって19世紀後半(明治期)に欧米の文化を盛んに取り入れた日本では、ドライデンの作品や業績があまり伝わることもなく、研究者も少なかった。ドライデンは桂冠詩人の地位を失ってからは、翻訳家としても活躍し、ウェルギリウス、ホメロス、ボッカチョなどの古典の翻訳、またチョーサーの古英語作品の「現代語」訳などを手がけた。むしろ日本では、彼を、翻訳論の研究対象として取り上げる研究者がいる。また、彼はさまざまな名言、警句を残している。この辺りもイギリスの伝統で、のちのサミュエル・ジョンソンやオスカー・ワイルドなどに大きな影響を与えたのだろう。お気に入りの名言をいくつかご紹介しよう。

 「So poetry, which is in Oxford made. An art, in London only is a trade.」

「詩はオックスフォードで生まれたが、ロンドンでは芸術すらただの商売だ」

「ことの成り行きを運命の女神に任せるのは心得違いだ。彼女自身は無力で、分別の神に支配されているのだから」

「如何なる悪事も虚言より始まる」

「初めは人が習慣を作り、その後習慣が人を作った」


ここまでお読みいただいて、1549年のザビエルとイエズス会の日本での布教の話を期待した方々にとっては、思いもよらぬ展開となっただろう。話が17世紀後半のイギリスに終始したことをお許しいただきたい。私自身、「ザビエル」の名に引き付けられて本書を手にとったのだが、むしろこの本が出版された時代背景の方に惹きつけられてしまった。ドライデンがザビエルの日本布教に大いなる関心を持ったことから彼の評伝を翻訳し、ザビエルとカトリック・イエズス会の日本での布教活動を紹介すべくイギリス王室に献呈した事実もまた歴史である。ザビエルの日本布教、そこから始まる日本とヨーロッパの邂逅。これについては、改めてブログで取り上げたい。


St. Francis Xavier (1506~1552)
日本で描かれた肖像画

John Dryden, 1631-1700)

Diminique Bouhours, 1628-1702)

(上記3点の肖像画はWikipediaより引用)



風格ある革装丁であるが、これは後世の改装であろう。

1688年ロンドンでの出版である。
ザビエルの肖像ページ(左)が欠落しているためコピーが挿入されている。

カトリックのイングランド王妃への献辞

ザビエルが巡ったインド、日本の地図
大航海時代のオルテリウス、テイセラ、ヤンソンなどの
オランダ、ベルギーの地図製作者のものが起源なのか。


日本列島の形状は独特、過去の時代の地図とも異なる。
鹿児島(Cangoxima)、豊後(Bungo)、平戸(Firando)、山口(Amanguchi)、みやこ(Meaco)の地名が記されている
ザビエルの布教活動の足跡だ
ザビエル:Xavierがゴアで初めての日本人:Japponese、「アンジロウ」:Angerと出会った場面。鹿児島の出身。裕福な上流階級出自の35歳くらいの人物。放蕩者。日本で罪を犯したためポルトガル船で脱出してゴアにやってきた等々が語られてる。
日本人として初めて洗礼を受けクリスチャンとなった。
ザビエルはこののち「アンジロウ」と共に鹿児島に上陸し日本での布教を開始する


第五巻から日本での布教活動に関する記述が始まる








2021年11月13日土曜日

今も現役で活躍! 明治の鉄道遺産 〜「東京市街高架線」の異世界へようこそ〜

新橋/有楽町間の見事な連続アーチ


毎日見ているのに気がついていない。見慣れているがそれがなんだか考えてみたこともない。そんな日常的な景観が、実は歴史を背負った非日常空間であることに気づかないことはままあるものだ。我がサラリーマン人生でお世話になった馴染みの新橋/有楽町間の高架下やガード下もそういう日常に存在する異空間の一つだ。飲み屋や焼き鳥屋、鮨屋。昼食に立ち寄るラーメン屋やイタリアンもそこにあった。深夜に至る超過勤務など当たり前の時代、補食(補助食事券。もはや死語)の出前を頼む食堂もここに並んでいた。上を新幹線や東海道線、山手線、京浜東北線という首都圏の大動脈が走っていることはもちろん知っている。メシ食ってると頭の上をゴロゴロ電車が走る音が絶え間なく聞こえるのだから。都心の一等地だから、こんな狭くて薄暗い高架下に飲食店や、麻雀屋、新聞の配送所、いわくありげな事務所やハイヤープールがぎっしり詰まっていることも不思議ではない。近代的な日比谷のオフィス街を一歩離れて入るとそこに広がる異空間。延々と続く薄暗い通路。時空の隙間すら在りそうな佇まい。有楽町出口に近いところには「インターナショナルアーケード」なる一角があった。東京オリンピック(1964年の)をあてこんででできた外人観光客向けのお土産屋街だ。帝国ホテルがすぐそばにある好立地。デューティーフリーだ。昨今のインバウンド中国人観光客相手ではない。欧米人観光客相手だ。日本製の電化製品が人気だった時代には、240ボルトや120ボルト仕様のラジカセや、ビデオデッキ、アースのついた三又コンセント、変圧器が売られていた。海外赴任するときには立ち寄ったものだ。しかし海外に無縁の「一般人」は立ち入りが憚られるような雰囲気。とにかくいろんなものが雑多に共存している迷宮、いやダンジョンであった。東京や大阪のような大都会には必ずと言っていいほど見かける鉄道高架下商店街。そういえば神戸のモトコウ(元町高架下)もかなりの異空間だ。中古カメラハンティングに行ったこともあったっけ。

ふと過去への「時空トラベル」から目が覚めて我にかえると、現在の新橋有楽町高架下に佇んでいる自分がいる。そこは見知らぬ空間に変貌していた。妙に「ハイカラ」な空間。それにしても、ここはずいぶん立派で頑丈な構造物だ。しかも赤レンガ作りのアーチが連なるレトロな街区。これが我が国の鉄道遺産、産業近代化遺産に存在している空間であることに思いを巡らしてみたことはなかった。これは明治に造られた日本初の市街鉄道高架橋である。それが今でも使われ(隣に新幹線の高架橋が増設されたが)、日本の大動脈を支えている。そしてその高架下は、かつて我々、昭和なサラリーマンに安らぎの場を提供してくれた、そんな場所だった。日本では古いものは壊してすぐ新しいものに建て替えるのがフツウなのに。とりわけ東京は破壊と建設がエンドレスに続く街なのに。ここだけは時空を超えた世界が広がっている。かつては「新幹線ビル」とか、「ニューライン」とか、高架下の構造物になんかそれらしい名称があって吹き出した記憶があるが、昨今、再開発で命名した英語とも日本語ともつかないローマ字の商業施設名もやはり首を捻る。それに「URA」とか「OKU」とか「ROJI」とか...やや日陰者的な命名。これは都市の誇るべき歴史遺産なのだ。分かっているのか?そうしたレスペクトが感じられない。鉄道路線として100年以上使い続けている。SDGsだなんて改めて言わなくても、なんとエコなリユース都市、東京がここにあるのだぞ。あくまで例外的、稀少的にであるが。

ここで鉄道ウンチクを! 明治/大正にできた鉄道高架橋は以下の通りである。

1)新橋ー東京(明治42年〜大正3年)
2)お茶の水ー万世橋(明治41年〜明治45年)
3)万世橋ー東京(大正8年)
4)飯田橋ーお茶の水(明治37年)
ちなみに、東京ー上野(昭和4年)。お茶の水ー両国(昭和7年)となっている。

鉄道省用語では「東京市街高架線」と呼ばれているようだ。ほとんどが明治の時代にでき、完成が遅れた部分も建設計画が立案済みであったという。意外にも東京ー上野間が繋がったのが昭和に入ってから。これは驚きだ。これで現在の山手線の環状ループが完成したわけで、比較的「最近」の出来事なのだ。また帝都東京の鉄道網は、郊外から出来てゆき、都心部に乗り入れて東京中央停車場につながるのは、大正以降であることにも気付かされる。


今回は新橋ー有楽町間、お茶の水ー万世橋間の赤煉瓦アーチ鉄道高架橋の探訪と洒落込んだ。考えてみれば、これほど見事な赤煉瓦アーチの連続構造物が、東京という街の中心部の景観に独特のアクセントを与えているにもかかわらず、仔細に探訪して見たことはなかった。都心に残る明治の鉄道遺産は首都圏の鉄道幹線網を支えるインフラ構造物として今なお現役。その高架下は今風のショッピングアーケード街に変身。やや「時空の乱れ」が気になるが、構わず探検に出かけた!


1)新橋ー有楽町ー東京 

当時の鉄道省的には「新永間市街線高架橋」(新銭座と永楽町の間)と呼称されているそうだ。明治6年に日本で初めての鉄道が横浜から旧新橋停車場まで開設されたが、その後、建設予定の東京中央停車場へ路線を延伸。このために建設された鉄筋/赤煉瓦アーチ橋である。橋梁工事に強いと定評の鹿島組が建設。浜松町ー新橋(明治42年)、新橋ー有楽町(明治43年)、有楽町ー東京(大正3年)の順で延伸され、東京中央停車場は、昭和4年に上野と繋がって東京駅となった。特に新橋から有楽町間の赤煉瓦の連続アーチ高架橋が見事。赤煉瓦の調達が品川煉瓦工場だけでは間に合わず、全国から掻き集めた話や、外堀の石垣を基礎石に転用したこと、地盤強化の杭打ちに大量の木材が必要であったことなど、様々な苦労話が伝わっている。

高架下にあった古めかしいアーケード街は、再開発されて、新橋側が「URACORI」、有楽町側が「HIBIYA OKUROJI」というテナント商業施設に改装された。銀座コリドー街の裏、日比谷の奥路地というわけだ。遠慮がちな(?)命名のセンスはともかく、かつてのダンジョン的/迷宮的なドキドキワクワク感はなくなり、なんか今風の小洒落たショッピングアーケード街になった。あの時の個性豊かなご町内の人たちはどこへいってしまったのか。時代の流れといえばそれまでだが... 我々、日比谷の住人であった昭和なオジサンにとっては、かえって戸惑いすら感じる異世界に変貌してしまった。



新橋駅
ここのアーチも美しい、アーチ橋の補強工事が行われ駅の改装工事が進行中

高架の後ろは汐留シオサイト
旧新橋停車場。汐留操車場跡地の再開発だ

赤煉瓦アーチ橋

新橋よりの高架下

URACORI
裏コリドー街ということか

なんと堂々たる構造物であることよ!
東京電力本店、旧NTT本社界隈

有楽町よりの高架下はHIBIYA OKUROJI
すなわち日比谷奥路地

赤煉瓦アーチの下部に頑丈なコンクリート補強がなされている。

白っぽいところが新幹線高架下、左の赤煉瓦は在来線高架下
コントラストの妙

赤煉瓦高架下
新潟県のアンテナショップ

新幹線高架下
天井が高い


旧インターナショナルアーケード跡には「ラーメン横丁」いや「Ramen Avenue」

有楽町ガード下は健在!


神社まであって?

鉄橋部のガード下は無骨な鉄板で覆われている。

帝国ホテル界隈の連続アーチも見事だ!




以下は鹿島建設HPから。東京市街高架線工事の様子の古写真を引用。

線路工事平面図

工事中の高架線

新橋から有楽町、東京方面
左手には外堀、右手には帝国ホテルが

新橋駅
外堀の土手に沿って有楽町、東京方面へ線路を伸ばしたことがよくわかる
64年のオリンピックの時に、この堀を埋め立てて新幹線と高速道路が建設された

開業した有楽町駅
東京中央停車場ができるまでの仮終点駅であった





2)お茶の水ー万世橋 「お茶の水/万世橋間高架橋」

民営会社であった甲武鉄道が、立川から新宿、さらにお茶の水から万世橋まで路線を延伸した。この時に建設されたのがこの高架橋。その名も「お茶の水/万世橋高架橋」、そのまんまである。ここも鉄筋/赤煉瓦の鉄道アーチ橋が見事だ。途中、昌平橋仮駅開業(明治41年)を経て、明治45年万世橋駅開業。のちに国有化により鉄道省中央本線の終着駅、ターミナル駅となった。万世橋駅舎は辰野金吾設計の東京駅赤煉瓦駅舎スタイルの立派なものであった。日露戦争の英雄、広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像が駅前広場のシンボルだった。大正8年には東京駅まで延伸され通過駅に。周辺の神田や秋葉原に駅が開業し、万世橋の利便性が縮小していった。大正13年の関東大震災で駅舎が破壊され小規模な駅舎が再建された。昭和11年には交通博物館が駅に隣接して開業。しかし駅自体の営業取り扱いは昭和18年に停止となった。戦後は交通博物館が駅舎跡にあったが、これも2007年に埼玉県の大宮鉄道博物館へ移転。

再開発後はMAACH Ecute神田万世橋というテナント商業施設になった。民営化されたJR東日本の新規事業というわけだ。命名にその「こころ」が見えないが、それはともかく新橋/有楽町高架橋下に比べると距離も短くて手狭な感じだ。私にとって日常的な馴染みの街ではないので、どうしても「通りがかりの人」的視点になってしまう。ノスタルジアよりもモノ珍しさが先に立つ。しかしここも、新橋/有楽町と同様、堂々たる赤煉瓦高架橋が存在感を放っている。リノベーションされた高架下の商業施設はどうか。ショップ、レストランというよりギャラリー的な佇まいだ。店内を通行人が通り抜けてゆくのはどうだろう?商売になっているのか気になる。ただし、旧万世橋駅プラットホーム跡を展望室とカフェレストランにしたのはユニーク。窓のすぐ外を中央特快や信濃路/甲斐路特急が疾走する光景は、鉄ちゃんでなくてもなかなかの見ものだ。気になるのは、あの「杉野は何処?」の広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像はどうなった?戦後に撤去されたのは聞いているが。しかし、連続アーチの高架線がスパッと終わって「行き止まり」になっている姿のまま歴史遺産になっているところは涙を誘う。その横を神田、東京に向かって新設された高架橋上を何食わぬ顔で中央特快が走り抜けてゆく。総武線の各停はお茶の水から鉄橋渡って秋葉原へ。万世橋など目もくれずに。「君は終わったんだよ」と言わんばかりに。


旧万世橋駅
ここで高架橋が終わっておりターミナル駅の面影を残す
MAACH Ecute入り口
旧万世橋駅高架ホーム跡


神田川沿いの堂々たる連続アーチ橋




旧昌平橋駅跡(神田川サイド)
高架の鉄橋は総武線
奥には地下鉄丸の内線、聖橋が見える


旧昌平橋駅跡(反対側)

万世橋駅ジオラマ
見ての通りの終着駅だ

戦前の絵葉書

旧万世橋駅前広場。旧駅舎跡、交通博物館跡

現在は中央線の高架となっている
後方には「肉の万世」ビル

旧万世橋駅のプラットフォームへの階段は昔のまま残されている

旧万世橋駅プラットフォーム跡
改装されてカフェレストランと展望室になっている
すぐ横を中央線が走る

赤煉瓦高架下
リニューアルされてショップやカフェになっている

店内が通路になっている



MAACH Ecute入口と万世橋
向こうは秋葉原


(撮影機材:Leica SL2 + SIGMA24-70/2.8 DG DN, Lumix20-60/3.5-5.6)