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2021年3月26日金曜日

今年の桜巡り(1)目黒川、大森貝塚庭園 〜「春爛漫にボヤいてばかりの無粋をお許しください」の巻〜

 


今年は桜の開花が早く3月15日に開花宣言。23日には都内で桜満開宣言が出た。そしてまさに春爛漫、今日は花曇りだが都内の桜は見事に咲き誇っている。しかし、コロナ禍で遠出は自粛し、都内の桜の名所も避けてご近所の桜を楽しむことにしよう。一方、新型コロナ感染者数は下げ止まりから、反転して再び増加傾向にある。明らかな第四波の到来と言って良いだろう。そこへ変異ウィルスもあれよあれよと言う間に拡大し人々の不安を助長している。とてもパンデミック終息の兆しは見えてこない。なのに何故か21日に「緊急事態宣言解除」とな。その意思決定は「躊躇なく」行われたが、国民への説明は決して「丁寧」ではない。病床逼迫が緩和されているからと言ってるがそうなのか?重症患者数も増えているではないか。ネット上ではどうせ宣言出してもみんな守ってないじゃん。言うこと聞かないから解除しても同じ!?などという投げやりな見解まで出る始末。実際、宣言中と宣言解除後の街中の人出は全く変わらない。「解除しても人が増えなかった」のではなく、「解除する前から人出で溢れていた」のだ。なるほどその通りだと妙に納得する。日本は「民度の高い」国ではなかったのかい?「やってもダメだから諦める」というのは、まるで勉強しても成績が上がらないから受験諦める。練習しても記録が伸びないから運動やめる。なんだかそんな出来の悪い中学生のような言い訳だ、とどこかのコラムニストが言っていた。笑えないが、笑える。

一方日本ではワクチンの確保が進んでいない。いやはっきり言えばワクチン確保に失敗している。アメリカでは大統領自らが全国民に7月末までにはワクチン接種ができるようにするとコミット。実際に接種はハイペースで進んでいる。すでに私の周りの米国在住の家族、友人達は2回目の接種も終えている。日本ではワクチン担当大臣とやらが欧米の製薬会社と「必要数の供給で大枠合意(ってなに?)してるから心配いらないよ」。「しかしEUの輸出承認手続きが遅れるかもね」「4月から始めるけど入ってくる数は少ないだろうね」と他人事のような答弁。もっともこんなタワケたこと言っているK大臣は次の総裁候補から外すために「言わされている」という観測も。そんな政治絡みが重要で国民の命と健康は二の次ということか。現にワクチンが各国で奪い合い、囲い込みの状況になっており、我が国では現時点では人口の0.1%分しか確保できていない。4月下旬には高齢者全員に接種を始め、それに続いて希望する国民全てにワクチンが行き渡るなどという目処は全く立っていない。そもそも自国開発、製造のワクチンすらない、全て欧米の製薬会社からの供給頼みという体たらく。これは極めて危険だ。日本は医療/科学技術先進国ではなかったのか?バイオ医薬品や感染症の研究開発分野では完全に遅れをとってしまっているだけでなく、日本製だと国内の治験数が限られていて承認ができない。海外で治験数を集めるのはさらに困難などと、厚労省の内部論理そのものを「言い訳」に自国開発や製造をやらない(できない)としている。平時の新薬承認ならともかく、欧米各国はパンデミック緊急事態対応として期限付きで早期承認している。だが日本の厚労省はそれをやらない。しかし海外輸入ワクチンについては特例で承認している。その意思決定ロジックがよくわからない。合理的な説明になっていない気がする。そう言うと「事情もわからん素人が推測で勝手なこと言うな!」と苦虫潰しながら批判する声が聞こえそうだが、それならほとんどが「事情もわからん素人」である国民にわかるように、やらない(やれない)「事情」とやらをしっかり説明しろよ!そもそも日本の感染者数は欧米やその他の国に比べて少ないのだし(と言っても46万人以上の感染者数と、9000人以上の死者が出ている)、「ファクターX」?の国なのでワクチンなど慌てなくて良いのだ、とタカを括っているようにしか見えない。感染は収束なぞしていないし、これから増えないと言う確証などどこにもない。いや第4波が始まっている。「早急な対策が求められる」はずなのに具体的に何かが動いている感じがしない。「国民に自粛をお願い」するばかりで「丁寧な」説明がないことにより疑心暗鬼を生み出しているではないか。だから「緊急事態宣言」といっても「オオカミ少年」にしか聞こえない。なのでか知らないが、今日からオリンピック聖火リレーが福島を起点にスタートした。こっちは、何がなんでもオリンピックはやる、という「強い意志」が剥き出しだ。「逆にやらない理由を聞きたい」などと居直るJOC委員や政治家が出てくる始末。アスリートのためにと言いつつ、何か政治絡みの匂いがする。それにしてもワクチン接種も含めてコロナ対策を周到に進めているなら、少なくとも日本はオリパラ開催準備万端整いました、と海外に向けて言えるのだろうが、それも混乱し各国に比べて大幅に遅れているにもかかわらずである。「やれる理由」を「丁寧に」ご説明いただきたいものだ。「民度の高い」国民の「自助」「共助」ばかりが期待されていて「公助」のほうはトント進んでいる気もしない...

ワクチン確保問題は、国の安全保障の問題だ。国民の命と健康を守れるかという極めて深刻な問題なのだから。ワクチンや治療薬を100%海外からの輸入に頼らざるを得ないことの危険性は今回よく分かったはずだ。にもかかわらずまだピンとこない人もいる。「平和ボケ」した我々日本人は、安全保障といえば日米安保、自衛隊、憲法九条問題だと刷り込まれている。北朝鮮のミサイル発射や武装中国公船の尖閣諸島領海侵犯は目に見える安全保障問題であるが、その最大の関心事は「有事に米軍が守ってくれるかどうか」という他力本願なものだ。しかしこのグローバル化し、デジタル化した時代の安全保障はそんなリアル空間の軍事的脅威の問題だけではないことに気づいているのだろうか。パンデミックも明らかな安全保障問題だ。国民の命に関わるものだし、一国の経済にも大きなインパクトを与えることは今更言うまでもない。LINEが個人情報のサーバーを中国や韓国に置き、開発からメンテを中国や韓国の技術者に丸投げしている事態が明らかになり問題となっている。これは個人情報流出、プライバシーの危機というだけの問題ではない。重要な国家情報や企業情報が覗かれる、ハッキングされる。我が国の司法権が行使できないところにデータやサーバーが設置される。サイバー空間の安全保障問題だ。ましてこうしたLINEのサーバー/データ管理が中国の国家情報法を知っての措置だとすると、これは明らかな民主主義への背信行為とみなされても仕方あるまい(会見で社長は、知っていたが認識が甘かったなどと答えている。寝ぼけているのか、とぼけているのか)。当然こうした事態を看過し放置してきた政府、行政機関、司法執行機関の責任は大きい。こんな個人情報の保護という問題だけでなく、安全保障、司法執行権の基本中の基本を理解しないで、便利だからと漫然とLINEを利用している国民も国民だが、ましてそんなLINEを行政サービスに使おうなどという国の機関や自治体の危機管理の脆弱さはさらに罪が深い。そんな自分で自分を守れない国を他国が本当に守ってくれるのか。

気がつくと、日本はこんな国になっていました。コロナが暴く「噂の真相」というわけか。「文春砲」はここでは轟かない。「誰と誰が呑んだ、食った」じゃあねえ。まあ、すっかりお花見気分が削がれたところで今年の「桜開花レポート」を終了する。というか桜の話は全くしてないで徹頭徹尾ボヤいただけなので、せめての罪滅ぼしに写真だけでもご覧あれ。桜は今年も綺麗に咲いた。桜が咲いた!めでたいめでたい!と浮かれたいところだが、そうはイカのなんとやらなのがこの春なのだ。残念!こうして春爛漫の季節につい品のないボヤキをカマす無粋をお許し願いたい。


1)目黒川(五反田〜大崎)











2)大井水神公園(線路沿い)















3)大森貝塚公園/東海道/京浜東北線沿線


モース博士胸像











(撮影機材:Leica SL2 + Vario Elmarit SL 24-90/2.8-4, Apo Vario Elmarit SL 90-280/2.8-4)

2021年3月18日木曜日

百貨店というワンダーランド 〜重要文化財としての三越日本橋店探訪〜


日本橋三越本館玄関


東京には近代建築遺産ともいうべき歴史的な建物が多い。そもそも「近代建築遺産」とは、主に明治以降に西欧建築の影響のもとに建てられたもので、歴史的価値が評価されて保存修景されているものをいう。だいたい昭和初期くらいまでの建物をいうようだ。「洋館」として、あるいは「赤煉瓦ビル」「大理石ビル」として建設が進み、中には和洋折衷というか「擬洋風」「帝冠建築」の建物もあって、これらを見て回るだけでも興味深い。やはり東京や大阪はその集積度が高く、大阪にいた時も随分大大阪時代の近代建築遺産を見て回ったものだ(以前のブログ参照)。一時は大阪でも東京でも都市の再開発が進む中、その歴史的な建築物の取り壊しが問題となった。そのような建築遺産の保存が危ぶまれる事態になっていたが、大阪では中之島のダイビルのように大規模な建て替えと、歴史的な建築遺産の保存をうまく両立させた例がある。また最近では大丸心斎橋店の建て替えに伴い、やはりその歴史的遺産の保存承継が話題になった(後述する)。東京ではかつてのフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルや日比谷三信ビル、丸の内銀行協会ビルのように惜しげもなく解体されてしまったビルもあるが、第一生命ビル、明治生命館のようにファサードや内装を極力生かしたまま、高層部を継ぎ足す形で現代的な用途にも合うよう増築改装したものが多い。あるいは三菱一号館や、東京駅のように元の形に復元再建した例もある。

そうした中であまり近代建築遺産という視点で捉えてこなかった歴史的建築物に百貨店(デパート)がある。考えてみると百貨店はその街の顔であったり、その街の繁栄のシンボルであったり、その街の歴史の証人であったりする。何よりもわれわれの日常生活にも馴染みの深い建物である。その都市にはいくつ百貨店(デパート)があるか、どんな建物か、どれほどの品揃いかは、その街の大きさ豊かさのバロメーターであった。特に老舗の百貨店は荘厳な建物を競って建てた。東京では三越はもちろん、いまでも新宿の伊勢丹、銀座の松坂屋(Ginza6となり今はない)、松屋、日本橋の高島屋があり、外装を変更したものもあるが歴史を感じさせる堂々たる建築として町に存在感を誇っている。一方で「有楽町で会いましょう♪」の有楽町そごうのように撤退を余儀なくされ、跡地が量販店のBカメラになっているところもある。電鉄系の百貨店には業態を変えているところも出始めている。

大阪では難波の南海高島屋、御堂筋の大丸心斎橋がその代表であろう。阪急の梅田本店も立派だったが今は完全に建て替わってしまった。近鉄上本町店も大軌時代のレトロビルが建て替わり、昔の面影がなくなってしまった。大丸心斎橋は1922年、ウィリアム・ヴォーリス設計の歴史的建築である。建築文化遺産といって良い。2010年に建替えの話が出た時には、この歴史的建築物が大阪心斎橋から無くなると皆心配したものだが、2019年に耐震構造化、高層化してリニューアルオープンした。新しい上層部が旧本館の上に建て増されたが、見事にヴォーリス設計のオリジナルのファサードと内装が復元された。大大阪という街の歴史に対する誇りと敬意が示された形だ。続いて本館隣の旧そごう、現在の大丸北館の建て替えに移るようだ。しかし、一方でかつての大大阪のメインストリーであった堺筋(御堂筋が拡幅される以前はこちらが中心街であった)にあった三越や松坂屋はとうに無くなってしまった。かつての百貨店激戦区大阪の現在の姿である。

我が故郷、発展著しい福岡/博多で百貨店といえば、天神の岩田屋、中洲の玉屋であった。呉服町に博多大丸もあったが天神に移転した。なかでも岩田屋は、大阪の阪急や阪神、南海、近鉄のようなターミナルデパートで、西鉄福岡駅に直結したデパートとして、天神交差点の一角に陣取った堂々たる建物であった。その外観は東京で言えば銀座4丁目交差点の服部時計店(和光)のレトロビルにとてもよく似た佇まいであった。懐かしい特撮怪獣映画の「ラドン」が舞い降りたあのデパートだ。玉屋は中洲にそそり立つシックなレンガ色の洋館で、那珂川の川面に映るシルエットに情緒があった。どちらも福博のランドマークとして威容を誇った近代建築であったが、今は両方とも跡形もなく消えて無くなってしまった。残念ながら商業的な合理性が優先されて歴史的な建築遺産に敬意を払っているいとまがなかったようだ。商業的にといえば、その岩田屋は西鉄福岡(天神)駅のターミナルデパートの地位は東京からやってきた三越に明け渡し、旧天神電話局跡に移転した。岩田屋自体も三越伊勢丹ホールディングの傘下に入った。岩田屋のあった天神交差点の一等地は、これまた東京から進出してきた西武系のパルコになった(ビルは新築ではなく壁面をリノベしたもの。外装を外すと元のレトロな岩田屋ビルが現れるという都市伝説がある...)。JR博多駅の新ビルには阪急と東急が主要テナントで入り、その隣の博多郵便局跡の日本郵便ビルにはなんとマルイが入った。かつて、福岡には東京・大阪資本の百貨店は一店もなかったのだが、福博財界完敗の構図だ。

世界を見渡すとロンドンにはナイツブリッジのハロッズ(Harrod's)、オックスフォードストリートのセルフリッジ(Selfridge)がある。ニューヨークにはメイシーズ(Macy's)、ブルーミングデール(Bloomingdale)がある。いずれもそれぞれの街の繁栄の象徴らしく素晴らしい堂々たる建築の百貨店である。ことにハロッズは今でも王室御用達の格式ある百貨店で三越のモデルになったとも言われている。もちろん観光客にも人気の店で、買い物しなくても、その建物、内装、品揃いなどどれをとっても一見の価値がある。ここでの私的体験に基づくエピソードを一つ。家族四人でランチに行った時のことだ。それぞれにサンドウィッチやサラダを注文した。下の子だけは一人で全部食べきれないのでシェアーしたいと取り皿をくれるよう年配のウェーターに頼んだところ、「ここではそういうサーブはしていない」と慇懃に断られた。それを見ていた若いウェートレスが、すかさず取り皿とナイフ/フォークを持ってきてくれて「今日からルールが変わりました!」とニヤリ。新旧交代。伝統や格式は時代によって変化してゆくものなのだ。そういう若いウェートレスのウイットに富んだ「機転」も今に生きる老舗のホスピタリティなのだ。もちろん彼女にチップを弾んでことは言うまでもない。

小売流通業界の激変で、伝統的な百貨店型ビジネスモデルに逆風が吹いて久しい。量販店やスーパー、専門店ビル、さらにはネット通販と、今や新しい流通チャネルが流通業界の主役の地位を次々と奪って、多くの百貨店が閉店し廃業し、往年の輝きは失われつつある、特に地方における百貨店の生き残りは厳しいものがある。それでも地域の特色を生かした老舗が、新しい価値観、体験、ストーリーを提供してその街の歴史とともに歩んでいるのは心強い。概して言えるのは繁栄の時代の象徴である歴史的な建築遺産を残せる百貨店が生き残っているとも言える。それだけ百貨店建築はその街の歴史の生き証人といっても良いだろう。

いまや小売業界の雄としては姿をフェードアウトさせつつある百貨店、デパートも、その言葉の響きには、われわれ昭和団塊世代にとってはノスタルジックなものがある。小さい頃、日曜日といえば父母や祖父母に連れて行ってもらったものだ。そこは子供達のワンダーランド。洋服売り場は退屈な場所。おもちゃ売り場は夢の国。そして屋上は乗り物がいっぱいのテーマパーク。時には「迷子」になって泣きながら、案内係のお姉さんと一緒に母が現れるのを待つ。大食堂で「お子様ランチ」を食べて大満足して(チキンライスの上に刺してある旗を記念に持って)帰る。1日遊んでもまだ足りない。そんな夢の世界であった。夏休みに大阪と東京のおじいちゃん、おばあちゃん家(ち)へ行くと、そこでも百貨店へ遊びに連れて行ってもらい、福岡とは違うその大きさと豪華さに驚いたものだ。そんな昭和な時代の思い出の詰まった百貨店である。また百貨店は街の文化の発信基地であった。大きな美術展、展覧会や、観劇の会場はたいてい百貨店であった。特に地方ではそうであった。今では、美術館やギャラリー、規模の大きな専用の劇場ができたが、かつては大きなイベントの会場は百貨店と相場が決まっていた。ファッションショーもデパートの催物の目玉であった。実は私も幼稚園の頃に天神の岩田屋のファッションショーに出た!今でも晴れがましい思い出の一コマとなっている。デパートは我が「舞台デビュー」の第一歩であった。それが最初で最後であったが... ちなみにその時、一緒に出場した女の子が舞台上で動かなくなってしまい、私が手を引いて舞台袖に連れて帰ったので会場から笑いと大拍手をもらって恥ずかしかったことを思い出す。今や白髪頭のひねたオヤジにもそんな可愛い子供の時代があった。

 東京には多くの老舗百貨店があるが、その代表格の一つはなんと言っても三越であろう。この日本橋店は、そもそも江戸時代の三井家、越後屋呉服店の跡に開店した日本初の百貨店である。三越百貨店創業の地であることからも、その歴史的なランドマークとしての価値も高い。この三越日本橋店は、関東大震災後に建てられた建物の鉄骨構造を生かして昭和2年(1927年)、鉄筋コンクリート7階建で竣工。昭和10年(1935年)に増築し、五層吹き抜けの中央ホール、劇場、特別食堂を整備。フルブロック地上7階建ての現在の本館となった。横川工務所設計施工。意匠はルネッサンス様式、内装の一部はアールデコ様式とし、百貨店建築の代表となっている。玄関前の二頭のライオン像は、ロンドンのトラファルガー広場のネルソン提督像の根元に鎮座するライオンを模したものだ。また、五層吹き抜けの中央ホールに聳える天女像は、創業50周年を記念して10年の制作年数を経て、昭和35年(1960年)完成した高さ11メートルの木彫だ。佐藤玄々の作。いずれも三越の格式と伝統を象徴するものとして今に受け継がれている。2016年に建物は国の重要文化財に指定。百貨店黄金時代の「生きた文化財」として後世に伝えられることになった。百貨店受難の時代。この「百貨店」というビジネスモデル共々「産業近代化遺産」化してしまう前に、せいぜい利用して「動態保存」に努めていく必要があるだろう。店内をふと見回すと、来店客は圧倒的に中高年が多い。これからの少子高齢化の時代は「若者」ではなく「お金持ち」のシニア層を狙ったビジネスモデルで生きていけるにちがいない。そのためには建物もそれなりの歴史による熟成と風格を備えたシニアに魅力的なものであることが必須だろうと妄想する。子供の頃のワンダーランド、百貨店は、いまや「あの頃子供」だったシニア世代のワンダーランドになっている。それだけの時間をわれわれとともに歩んできた百貨店を建物とともにこれからも大事にしたいと思う。



夜景ライトアップ(「新・美の巨人」ウェッブサイトより引用)


日本橋三越
「三井アベニュー」にそそり立つ堂々たるルネッサンス様式のビル

三越といえば「ライオン」
トラファルガー広場のライオンのコピー


玄関左右の「ライオン」は有名だが
玄関ファサードの上部に「黄金のマーキュリー像」があるのに気づかなかった

圧巻の中央ホールの5層の吹き抜け

天井はステンドグラス

佐藤玄々作
天女像
高さ11メートルの木彫

屋上にある夏目漱石の記念碑


三囲神社
三井家を守るという意味がある守護神
本館屋上に鎮座している

活動大黒天社


屋上庭園と塔屋

昭和10年の増築になる
「金字塔」



参考1)ロンドン・ナイツブリッジのハロッズ(写真はWikipedia、ロンドン旅行ガイドから引用)


ライトアップ



参考2)大阪 大丸心斎橋店

建て替えられた大丸心斎橋店
ヴォーリズ設計オリジナルのファサード、内装は見事に復元された
(大丸HPからの引用)

建て替え前の本館
2013年頃撮影


クリスマスシーズンのイルミネーション
2013年撮影


参考3)福岡天神 岩田屋(写真はWikipedia, 岩田屋社史から引用)

福岡天神の岩田屋
「西鉄急行電車」乗り場が左にある
後方に電電公社の天神電話局のマイクロウェーブ塔
大相撲九州場所の「スポーツセンター」の一部が左手に見えている。
1966年頃


岩田屋新装開店時の絵葉書
1936年

映画「ラドン」の特撮風景
1955年

現在の天神交差点
左が旧岩田屋、現パルコ




(撮影機材:三越写真:Leica SL2 + Lumix S 20-60/3.5-5.6、大丸/天神交差点写真:Nikon D850 + Nikkor 24-70/2.8)

2021年3月5日金曜日

古書を巡る旅(9)The Chiswick Shakespeare 〜古典文学とアート・クラフトが紡ぎ出す小宇宙〜


 

去年4月のブログで、漱石の「漾虚集」「こころ」の初版本とThe Chiswick Shakespeareとの出会い、その影響など考察してみた。その後もこの美しい、いわば文庫本版シェークスピア全集に強い関心を持って古書市場を探索して回っていた。ネット検索では主に英国の古書店サイトに出展されているが、日本の古書店ではなかなかお目にかからない。ところが、ある時神保町を散策していると、いつもお世話になっている北沢書店のショーケースに、この本が数冊ディスプレーされているのを発見した。この選択は洋古書ディスプレーブックスを手がける若店主だろう。さすがだ。この19世紀英国のアート・クラフト運動が生み出した工芸品とでも形容すべき本が、この洋古書店の知的で美しい佇まいを効果的に演出しているではないか。しかし、このシリーズをコレクションしていた私にとって、展示後のこの本の行方はどうなるのかとても気になっていた。そしてある時ついに若店主に、展示替えの折には譲って欲しい旨申し出た。これに快く応じてくれ、年末の展示替えを機に譲ってもらうことができた。なんと幸運なことか!これで全39巻のうち30巻が揃ったことになる。残りの9冊は、これからどのような縁(えにし)で我が手元にやってくるのか分からないが、その出会いの時が来るのを楽しみに待つとしよう。

冒頭に述べた去年のブログ。2020年4月10日古書を巡る旅(1)〜漱石「漾虚集」「こころ」そしてThe Chiswick Shakespeareとの出会い〜ご関心のある方はぜひ参照いただきたい。

このシェークスピア文庫本全集(The Chiswick Shapespeare)は、19世紀末期の英国にあったChiswick Pressという印刷所による画期的な全集だ。ロンドンの西部にチジック(Chiswick:英国式にはチスウィックではなくチジックと読む)という静かな住宅街がある。小説家や、詩人、演劇人が好んで住んだというこの地域にChiswick Pressは生まれた。Charles Whittingham (1767~1840)によって1810年に創業した。彼は手作業でプレスする小型の印刷機を考案した。また、ロンドンのテムズ河、ドックランドの船から出る大量の古い麻ロープからタールを抽出して印刷インクを製品化するなど工夫を凝らし、比較的低コストで印刷、出版が可能となるビジネスモデルを生み出した。これにより手に入れやすい価格で小型書籍を多く生み出していった。当時は、書籍出版といえば大型豪華本で高価なものが中心であった時代であったので、この商品はヒットし大きなビジネスに成長したという。やがて創業者の死後は、印刷所は甥のMIchael Whittinghamの手に渡り、1852年にロンドン中心街のChancery Laneに移転した。ここは私がかつて通ったLSEキャンパスの東にある通りである。Charing CrossからHolborn, Fleet Streetといった大学(LSE, Kings College London)、法曹学院(Lincolns Inn)や新聞社、出版社が集まる、ちょうど東京で言えばお茶の水、神田神保町のようなところである。ここへ進出したということはChiswick Pressの印刷/出版事業が大きく広がっていたのであろう。

実は、この全集の印刷はChiswick Pressであるし全集名もThe Chiswick Shakespeareであるのだが、出版元はGeorge Bell & Sonsとなっている。この出版社は1839年ロンドンで創業し、Fleet Street界隈で1986年まで事業を続けていた出版社である。主に教育関係の書籍の出版を手がけて、場所柄、ロンドン大学の出版事業(University College Publications)にも携わっていたようだ。合併買収で規模を拡大してゆき、1880年にChancery Laneにあった上述のCheswick Pressを買収している。そしてこのChiswick Pressで印刷、製本して、1899〜1902年にこの画期的なチジック版シェークスピア全集(The Chiswick Shakespeare)を出版したという訳である。

このThe Chiswick Shakespeare全集はポケットに入る文庫本サイズ(日本の新書版サイズに近い)である。原著Macmillan and Co.のCambridge text (Globe Edition)からのプリントで、解説はJohn Dennis。ユニークなのは、装丁・デザインを当時の英国におけるデザイン界をリードしたByam Shawが手がけている。彼は文字情報の伝達メディアと捉えられていた書籍にクラフトデザインの視点を取り入れ、ウィリアム・モリス:William Morrisのアート・アンド・クラフト運動(Art and Craft)の影響を強く受けた瀟洒で美しい全集に仕上げた。シェークスピアの主な作品が年代的に網羅された画期的な全集であるというだけでなく、手に取りやすく、ビジュアル・アート的にも魅力的な「工芸品」と呼んで良いようなコレクションである。120年経った現代では骨董的な風格を纏っており古書市場では人気のシリーズとなっている。こうした出版活動ムーヴメントが、当時ロンドン留学中の夏目漱石に大きな影響を与えたであろうという話は、前回のブログで考察した通りだ(上記ブログ参照)。

この本の印刷は手動の活版印刷。紙は上質紙を用い、日本製の羊皮紙を用いた豪華版もあるようだ(見てみたいものだ)。基本的に家内手工業的な手作りの本で、小型本にもかかわらずグリーンのハードカバーに、ウィリアム・モリス調の植物模様のデザインに金文字の押し型という凝りようだ。またByam Shaw自らデザインし製作した木版画やエッチングの挿画をふんだんに用いるなど、とにかく随所にこだわりを持った珠玉のクラフト作品と言える出来栄えである。一方で、手作りらしく、各ページの紙サイズの不揃い、ページナンバリングの抜け、飛びが散見される。また挿画のプリントも、本文印刷とは別に製本時に挿入されたものと見え、白紙に糊付けされているものがあるほか、ページの隅に鉛筆で挿入ページ指示が書き込まれているなど、手仕事感満載で興味深い。このページの「抜け」「飛び」は、我が家ヘの納品に当たっての検品で、北沢書店が発見したものだ。その部分に全て付箋紙を挿入しておいてくれたため確認しやすく、製本過程でおきた手違い(?)の貴重な発見となった。しかし納品書にもコメントしているように、ページ番号は飛んでいるものの文章内容は繋がっており、ページ自体の乱丁、落丁とも言えない。どうしてこのようなことが起きたのか不思議だ。ページナンバリングの印刷に手違いがあったのか?原因の探索はともかく、とりあえず「落丁、乱丁お取り替えいたします」といった現代の書籍とは別次元の、「これこそ手作り本のなせる技」だとしておこう。むしろこういうところが、120年前の活版印刷工や編集者、装丁デザイナーなど生身の人間が関わったことの証である。こういった「手違い」の痕跡が残っていることもまた古書の楽しみの一つである。「あばたもえくぼ」。それを含めてなんと魅力的な「工芸作品」であることか!今回は思いがけない発見に遭遇した。これだから「古書を巡る旅」はやめられない。

(2021年4月2日追記)

昨日北沢書店を訪ねた折に、店主の北沢さんに「ページ飛び」現象の推理を伺った。すなわち北沢説によると、このページ間に図版ページを入れる予定であったのが、入れ忘れたか、入れるのを止めたか。その結果、文脈は繋がったままページが飛んだのではないか、というもの。なるほど! 入れ忘れは考えにくいものの、木版やエッチングの挿画制作が間に合わなかったり、予定していた図版が編集段階で不採用になったりしたケースは考えられる。そういえばあとから追加したと思われる挿画ページ(挿入ページ箇所の指示が鉛筆書きされている)も発見した。合理的な推理である。であるならばなお手作り感満載で、編集過程の試行錯誤の痕跡として新たな興味が湧いてくる。ここにはどのような図版を入れる予定であったのか?どのような議論があったのか?いろんな妄想を膨らませてみるのは楽しい。北沢説に感謝だ。


(2021年4月5日追記)

英国にある夏目漱石記念館の館長恒松郁夫さんに問い合わせたところ、同館にもこのThe Cheswick Shakespeareが数冊あるとのこと。かつては全巻揃っていたが大半がNYの古書店に買取られたそうである。ただ漱石の蔵書ではないという。岩波文庫版の漱石作品集への江藤淳氏の解説にあった漱石初版本の装丁にウィリアム・モリスが大きく影響しているとのコメントがあったことや、1900年、漱石留学中にThe Cheswick Shakespeareが出版されていたこと。これらから当時、漱石が購入し、彼の蔵書に加えたのではないかと想像したが外れた。しかしこの頃の文学作品+ビジュアルアート作品=総合芸術という影響は受けたに違いない。ちなみに以前、新橋の古書市で手に入れたEdward Dowden:エドワード・ドーデンのシェークスピア注釈本は漱石蔵書として存在しているそうだ。ドーデンは漱石の師であったWilliam James Craig:クレイグ先生の友人であったから、実際に面会し薫陶を受けたようだ。恒松さんに感謝。

恒松さんからの回答の引用:

何冊かまだ所蔵しているはずです。全巻あったのですが数年前にNYの友人の古書店主に頼まれお譲りしました。漱石蔵書に含まれていなかったからです。漱石蔵書にはH. Irving版、それに漱石がわざわざ面会に出かけたファーニバル博士、クレイグ先生、ドーデンの注釈本などが含まれています。個人的にはイラストレーターのByam Shawがラファエロ前波のロセッティーに影響を受けていますので、彼の絵画を見にハルの美術館まで30数年前に訪ねました。彼が暮らした家は以前住んで居た拙宅から30分のところで、お墓はクルックシャンク、テニエルなどがある同じ墓地でした。墓地訪問は何回も訪ねており、幾度も写真をアップしています。

参考ウェッブサイト:Chiswick Book Festival


小さな文庫本書棚に並んだThe Chiswick Shakespeare
ストラトフォード土産「シェークスピアの生家」ミニチュアとともに

Byam Shawデザインのハードカバー

Byam Shawが手がけた木版印刷の表紙

エッチングによる挿画

「始まり、始まり〜」

「終わり」良ければ全て良し!


背表紙の表情にも個体差があり
骨董的な趣がある


若店主が発見したページの飛び(複数箇所見つかった)
58ページから61ページへ飛んでいる。しかし文脈は繋がっている。


London西部Thames河畔にあるChiswickの古地図
(Chiswick Book Festival HPより引用)

(撮影機材:Leica SL2 + Apo Summicron-SL 50/2, Lumix S 20-60/3.5-5.6)