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2026年8月22日土曜日

古書を巡る旅(81)アイザック・ウォルトン『釣魚大全』:The Complete Angler by Izaak Walton 〜釣りの手引書はなぜ古典文学作品になったのか?〜


'Complete Angler' edited by John Hawkins in 1815


表紙
Izaak WaltonのIWと、Charles CottonのCCを組み合わせたロゴ

Izaak Walton肖像

共著者Charles Cotton肖像






魚釣りの思い出

私は特に釣り好きというわけではないが、子供の頃は父に連れられて樋井川の河口で、よくハゼ釣りやキス釣りをやった。餌はゴカイで、干潟で見つけることもできたが釣具屋さんに売っていた。最初は気持ち悪くて触るのも嫌だったがだんだん針につけるのも上手くなった。付け方を間違えると餌だけ取られて魚に逃げられる。父に教えてもらってだんだん腕が上がり結構釣れるようになり面白かった。時々、真っ黒なドンポが釣れると、「これは要らん」と逃したものだ。時々は小さなカレイが掛かる事もあった。真夏に糸島の今津橋に釣りに行った時には、父が朝から一日かけて釣り上げた魚がずっしりと入った魚籠を、私は橋から川に落として流してしまった事がある。釣った魚を見ようとしたのだ。父はひどく落胆した。しかしあの時の父は私を叱りもせず、「バッサリやな」と一言。片手で長い釣竿を肩に担ぎ、もう片方の手で私の手を握りながら夕焼けの道をトボトボと帰った。橋の上には二つの麦わら帽子の長い影。あれはまだ私が幼稚園くらいだったと思う。

中学生になると投げ釣りが面白くて、友達と自転車に乗って釣りに出かけた。短めの竿と投げ釣り用のリール、それに浮がついた錘をつけて、針が錘からまっすぐ下に垂れるようにする。防波堤や岩場を避けて遠くに投げる。そろそろとリールで巻いて魚を誘き寄せる。そんなテクニックも覚えた。ちなみに祖父(父の父)はあまり釣りをやらなかったが、父に勧められて樋井川の河口で釣りをしたことがあった。祖父は悠長に一箇所でじっと釣り糸を垂れて気長に待つことのできない性格であった。あちこち場所を変えて動き回る。今そこに居たかと思うと、もう居ない。あっちに居たかと思うと、今度はこっちに居る。祖母がそれを見ていつも笑っていた。「あれじゃ魚がついて来れんわ」。釣りは気長に事がなるのを待つという精神修行に良いと感じたものだ。

大人になって都会生活が長くなり、海や川が遠くなると釣竿を持つ事も無くなった。と、それは言い訳にすぎない。機会はあった。ロンドン郊外のテムズ上流にはマス釣ポイントがあったが行かなかった。ニューヨークのロングアイランド・モントーク沖でマグロのトローリングが仲間内で流行っていたが行った事もない。伊豆の隠れ家は釣りのメッカであるが、あの少年時代以来トント釣りにはご無沙汰だ。私にとって釣りとは、父や祖父との思い出に出てくるハゼ釣りであった。それで良いと思っている。

前触れが長くなったが、今回の古書はアイザック・ウォルトン『釣魚大全』である。釣り人の古典的バイブルである。しかし私は釣り人としてこの本に出会ったわけではない。17世紀イギリス文学作品としての出会いであった。神保町の古書店での出会いである。釣り人の手引書が文学古典となる。その不可思議なズレ感。それが存外ズレでもない事が読み進めるうちに分かってくる。父に連れられて釣りに興じた子供の私は、英国古書に魅せられた老境の私と出会った。これも時空旅である。


アイザック・ウォルトン『釣魚大全』とは?

アイザック・ウォルトン:Izaak Walton (1593-1683)は、17世紀のイギリス・スタッフォード出身でロンドンで商売を手がけ成功した商人である。すなわち新興の都市ジェントリーであった。しかしイギリス革命の影響でロンドンを離れることを余儀なくされ、故郷のスタッフォードシャーへ戻る。そこで、コテッジを買い取り、ささやかな農作業と釣り三昧の毎日を送る。やがて執筆活動に取り組み、のちに伝記作家としても作品を残している。

その故郷の田舎で、ウォルトンは60歳の時に『釣魚大全』The Complete Angler を刊行する。初版を1653年に、以降1676年まで増補、改訂を続けた。途中から彼の友人の息子チャールズ・コットン:Charles Cottonが釣り仲間として加わり、共著者として第2部を追加し、2部構成の書籍となる。釣り人(Piscator)と道連れ(Venator )、鷹匠(Auceps)の三人による、釣りと魚にまつわる対話という形で話が進んでゆく。その会話を通じて、魚の生態や釣りのテクニック、料理法を語り合う。第二部はコットンによって、清流でのマスとカワヒメマスの釣り方について十二章にわたって解説する。またフライフィッシングとフライ(疑似餌)の作り方を解説している。こう説明するとこれは全くの釣りの指南書であるが、それだけではないところが妙である。自然の風景、地域に伝わる伝承や故事来歴、また地元の歌謡、詩歌も登場する。彼の自然観が随所に散りばめられていて、いわば隠遁者の随想作品といった風情に仕上がっている。

ちなみに 文中で魚類の解説をするところでは、フランシス・ベーコンを盛んに引用している。彼のA Natural History(1627)を参考文献とし、正確性を確認しながら書いた様子が窺える。しかし、ベーコンを引用したと言ってもそこには「偉大なる哲学者」の姿も「王権にへつらう大法官」の姿もなく、魚類をつぶさに観察し記録した「科学者」ベーコンの姿が見えるのが面白い。同時代人のウォルトンにとってベーコンは「さかなクン」だった。

イギリスの17世紀という時代はピューリタン革命、王政復古という、政情不安定な時代であった。ウォルトンはその只中にロンドンで商工業者として活躍し成功した。やがて戦乱の中で故郷に戻るのだが、彼の描きだす世界は、そのような騒然とした世相ではなく、ロンドンを離れ故郷のスタッフォードシャーの穏やかで美しい川と魚たち、そしてそれを愛でる人々。紳士の嗜みとしての釣りの世界が、村人達との会話を通じて描かれる。しばし、世俗を超越した桃源郷に遊ぶ、といえば東洋的かもしれないが、そんな隠遁生活の気分にさせてくれる随想集である。

共著者のチャールズ・コットン:Charles Cotton (1630-1687)は革命の混乱を避けてロンドンを去り、Stafordshereに隠棲した詩人で文筆家。モンターニュの『随想録』を英訳したことでも知られる。彼の父はIzaak WaltonやBen Johnson, John Seldan, Sir Henry Wottonなどと交友関係にあった.


革命の時代と隠遁生活「穏やかになることを学べ」

しかし、ウォルトンの作品は、そんな牧歌的なものではなかったと解釈する研究者もいる。確かに、世の中を達観し超越したかのような「隠遁者の境地」的なトーンは、厳しい時代のウォルトンなりの現状批判の反映と見ることが出来る。ピューリタン革命、王政復古という激動の世紀に身を置いたウォルトン自身は、カトリックでもなく、ピューリタンでもない、国教会の保守的なジェントリーであった。政治的には王党派でピューリタンには批判的であった。のちにウォルトンが伝記を書くことになる詩人ジョン・ダンは教会を通じた彼の友人であり、国教会の聖職者であった。しかし、王党派は議会派のクロムウェルによって敗北させられ、国王は処刑される。イギリス史上初めての共和政:Commonwealthが生まれる。国教会はピューリタンのクロムウェルにより解散させられて聖職者は地方に隠棲を余儀なくされた。ウォルトンの名言の一つに「穏やかになることを学べ」:Study to be quietというのがある。これはこうした隠棲を余儀なくさせられた聖職者に共感し、彼らや自分自身に向けて放たれたメッセージではないかと考えられる。また副題のContemplative Man's Recreation:「瞑想する人のためのリクリエーション」は、「釣り」が「瞑想」につながる。瞑想できる人が成果を獲得できる。その「人間の理性に基づく瞑想」が真理に至る道であると、哲学的な暗喩を込めている。アングル(釣り針)はアングリカンチャーチ(国教会)を掛けた暗号ではないかという批評家もいる。ウォルトンは、超保守主義/権威主義のカトリックでもなく、過激なピューリタンでもなく、その中道をゆく国教会の立場をこの書で暗に主張した。イギリス人の保守主義、急進的改革よりも漸変的改革を好む。そうした思想をベースにしたメッセージがこの作品に潜んでいると考えると、この「釣りの手引書」の読み方も変わってくるだろう。我々日本人から見ると、仏教的な「無」の境地とは異なるかもしれないが、乱世を生き抜く中庸な生活とその瞑想:Contemplativeによる達観はどこか禅的である。方丈の庵を結び隠棲した鴨長明は言った。行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」

ちなみにウォルトンはこの他にも幾つかの名言を残している

「魚釣りは奥深い数学のような物だ。誰も完全にはマスターすることはできない」

「芸術家として生まれた者が居ないように、釣り師として生まれた者はいない」

やはり彼は釣りを単なる余暇とは見做していないようだ。「道を極める」修行のプロセスこそRecreation:余暇、いや再生なのだろう。


19世紀のウォルトンブームと『釣魚大全』復刻企画

やがて血生臭い革命が収束し、ウォルトンが亡くなった後には、議会優位の立憲君主制国家が生まれ、植民地アメリカが独立し、隣のフランスで革命が起き、産業革命で社会が激変する時代を経て、19世紀近代合理主義の時代へと場面転換する。確かに急進的ではないがイギリスは大きく変わった。この間しばし忘れられていたウォルトンの『釣魚大全』は、17世紀のロマン主義への回帰の潮流、また自然を尊ぶ「Quality of Life」に憧れる19世紀の「近代人」によって、再び古書棚から取り出され愛されるようになる。

『釣魚大全』初版は1653年の刊行。生前最後の改訂版は1676年である。それ以降、この名作の刊行が長く途切れたが、しかし、1760年に文筆家で音楽史家の教養人サー・ジョン・ホーキンス:Sir John Hawkinsによってこの名著の復刻、改訂が企画される。ホーキンスは、自身の研究成果を取り入れ、アイザック・ウォルトン、共著者のチャールズ・コットンの評伝、肖像画を新たに掲載、本文中には多くの注釈(脚注)を加えて読み手にわかりやすい解説を心がけるなど、原作を実用書としても充実させた。さらに、音楽史家ホーキンスらしく、文中に登場する歌(「釣り人の歌」など)を採譜して楽譜を掲載し、演奏会も開催したほか、著名な挿画家のイラストを導入し、より魅力的な書籍に仕上げた。この復刻が世に出回りブームを呼ぶのは19世紀の初めで、ここに、新しい19世紀版『釣魚全書』が完成した。このホーキンスのフォーマットは人気を生み出し、彼の死後も、その子と、出版社サミュエル・バグスター:Samuel Bagster (1772-1885)によって改訂が続けられウォルトンブームを生み出した。本書は1815年刊行のホーキンス版第8版、バグスター改訂の第2版である。これ以降、19世紀の古典書の復活ブームにも乗って、ジョン・メジャー:John Majorなどにより、美しい装丁、精緻な挿画によるイラスト付きの豪華本、愛蔵版の刊行が続いた。20世紀に入るとアーサー・ラッカムによる豪華な挿画版も刊行されるなど、今も世界中の人々に愛される古典作品となっている。

サミュエル・バグスター:Samuel Bagster (1772~1851), はこの時代の代表的な出版人の一人である。1794年ロンドンのStrandでBagster & Sonを創業。国教会公認の英訳聖書などを出版した。のちにPaternoster Rawに移る。前回紹介した『ベーコン全集』1836年版を出版したWilliam Ballも同じParnoster Rawの出版業者。一帯は19世紀初頭の出版文化の中心で、多くの出版業者が古典書の復刻を中心に競い合っていた。現在でもロンドンの出版、メディアの中心である。この頃は都市部のジェントリー層や学生、知識人向けに、比較的手に入りやすい価格帯の書籍や、愛蔵版の豪華装丁が企画、出版された。


日本における受容

こうして時代を経るに従って、『釣魚大全』は単なる釣り案内ではなく、随想集として文学作品に昇華され、不朽の名作と評価されるようになる。その時間による熟成課程そのものがなんともイギリスらしい。イギリス人の自然、田舎生活、趣味、読書と共に生きる、静謐で精神的に充実したQuality of Lifeへの憧れを体現する作品の代表となっている。しかも先述のように、イギリス人の保守、中庸の精神の表出としても読むことができる。さらには、この作品がイギリス経験論哲学が生んだ自然思想、観察と実証を重視する科学的思考を基盤としていることにも、改めてイギリスの精神文化の奥深さを感じる。日本語翻訳も多く出されており、日本人に愛読者が多いのは、釣り人が多いだけではなく、「釣り」というものに、自然と共に生きる精神と、「達観」し「道を極める」生き方を重ねることができるからではないかと思う。

ちなみに、小泉八雲は彼の東大での英文学講義で、ウォルトンの本書をを自然史文学作品の傑作の一つとしてとして紹介している。しかし「確かに素晴らしいが、結局は釣りの理論書以上のものではない」とも評している。彼のこの論評は自然史文学領域における、18世紀の自然観察作家、ギルバート・ホワイト:Gilbert WhiteのNatural History of Selborneをより高く評価する引き合いにされた感もある。日本人の精神性との共鳴について、八雲はどう評価するのか、ぜひ聞いてみたいものだが。

日本で人気の映画、私の大好きな『釣りバカ日誌』でスーさんが英国紳士の出立で釣りに興じるシーンが出てくるが、これは三國連太郎がウォルトン『釣魚大全』へのレスペクトを込めて衣装選びしたとの逸話が残っている。『釣りバカ日誌』と『釣魚大全』に作品的な繋がりはないし、またウォルトン作品を原作マンガや映画作品に翻案した形跡もないが、三国連太郎のセンスが光る。西田敏行の浜ちゃんこそ、ここでは釣りの師匠であった。相方が自分の会社の社長であっても、釣り人がその立場や社会的身分、年齢を超えて水辺に集い、魚を相手にゆったりと時を過ごす。そして人生を語る。釣りとはそういう余暇:Recreationであることを教えてくれた。二人ともあの世でウォルトンと釣り談義に興じていることだろう。


釣りの舞台リア川地図

ロンドン時代の店舗兼住宅

故郷のスタッフォードシャーに購入したコテッジ

ミルクメイドの歌







2026年8月5日水曜日

古書を巡る旅(80)『フランシス・ベーコン全集』 〜近代合理主義の源流を辿る〜


William Ball版 ”Works of Lord Bacon ” in 2 volumes,  1831刊行


Francis Bacon(1561~1626)


「偉大なる哲学者」ベーコン

前回は「ベーコン書簡集」(下記ブログ参照)を基に、「偉大なる哲学者」フランシス・ベーコン:Francis Bacon(1561~1626)のもう一つの顔、「王権にへつらう卑しむべき政治家」大法官としてのベーコンを語った(同時代の風刺詩人アレキサンダー・ポープの「最も輝ける、最も賢明な人物、そして最も卑しむべき人物」という評価に由来する。またエドワード・コークとの「法の支配」「コモン・ロー」「司法の独立」「議会の優位」を巡る論争についても語った。しかし(ラッセルが評するように)彼は聖職者でも学者でもなく、ある意味でよくある普通の宮廷官僚であり、王権と有力者に取り入り出世栄達の競争に腐心した世俗の人間であった。今回は、前回看過した嫌いがある「偉大なる哲学者」としてのベーコンに立ち戻って語る。政治家、宮廷官僚、法律家ベーコンにはさまざまな毀誉褒貶がつきまとうが、結局ベーコンは何をしたのか?なぜ「偉大なる哲学者」なのか?彼は膨大な著作集を残している。それを辿ることで彼のもう一つの顔を見ることができるだろう。彼は、いわば近代合理主義の思想的、方法論的元祖であり、科学の進歩に大きな第一歩を記した人物と見做されている。のちの産業革命、自由貿易体制、立憲君主制(かれ自身は絶対王権信奉者で自由主義者でも民主主義者でもなかったが)など、いわば西欧流近代合理主義の時代を生み出す哲学的思潮の源流であった。我々日本人の視点で言うと、東洋の日本にもたらされた「西欧近代文明」の創始者の一人と言って良いだろう。


哲学と神学

ベーコンが、イギリス経験論哲学の祖であり近代科学、近代合理主義の源流と言われる所以は如何。かれの哲学思想は、ギリシア哲学、さらにはスコラ哲学に対する懐疑と批判から生まれた。ベーコンは神学と哲学は分離されるべきものであり混淆してはならないものであるとする。哲学は人間の理性にのみ依拠すべきもの。神学は神の啓示に依拠すべきものとし、彼は「理性の真理」と「啓示の真理」という「二重の真理」の擁護者であった。これは中世のトマス・アクィナス以来、ギリシア哲学をキリスト教神学の方法論として取り入れ、「哲学は神学の僕(しもべ)」としたスコラ哲学が広く受け入れられていた時代の転換点となる画期的なことであった。この世の中の根源を宗教を基盤とした神の啓示とする考えから、その宗教的な束縛を脱し人間が自分自身の力で問題を解決する。人間の理性、経験によって世界と人間を理解しようとする。すなわち認識論哲学の始まりである。我々日本人はその歴史の中で幾多の世界文明を受け入れ、日本的に変容させてきた。それはインドから来た仏教思想であり、中国から来た道教、儒教思想であった。しかしヨーロッパ文明における「神の啓示の真理」は受け入れなかったが、「人間の理性の真理」は受け入れた。すなわち17世紀にやって来たキリスト教(ローマ・カトリック)の受容は拒絶したが、19世紀にやって来た近代合理主義は受容した。この史実は日本の外来文明の受容と変容の歴史において大きな意味を持っている。この哲学思想は、中国や朝鮮などでは強い抵抗を受けたが、日本の精神土壌には受け入れられたのである。しかも急速に。西欧の知識人が懐疑的であった「キリスト教化なき文明開花」に、ベーコンの「神の啓示」と「人間の理性」の分離で答えを出したのである。その「人間の理性の真理」「近代合理主義思想」をもたらしたのはオランダ、イギリス、アメリカ、ドイツなどのプロテスタントの国々であった、彼らは「神の啓示」を伝えることには興味を示さず、勤労を天職と考え、資本主義的合理性を追求した勤勉なるプロテスタントであった。もちろんベーコンもその一人であった。


17世紀「科学の時代」

一方で、デカルトやベーコンの時代、17世紀は「科学の時代」幕開けの世紀であった。それは主に天文学、物理学(自然学)の領域で始まった。記憶されるべき重要な人物はコペルニクス、ケプラー、そしてガリレオである。そしてやがてニュートンが生まれた。仮説をたてそれを観察/実験で実証する。こうした学問のアプローチ、実証主義的な世界観は、「天動説」を否定し「地動説」実証することになる。これはまさに天地がひっくり返る出来事であった。哲学者が科学的発見やその学問的進化に大きな影響を受けたことは想像に難くない。哲学は神学から分離される。ニュートンはベーコンの後に生まれたのであるが、ベーコンの経験論哲学の影響を受けて科学の時代の画期となるニュートン物理学を打ち立てた。若き日のベーコンがケンブリッジでギリシア哲学やスコラ哲学に興味を惹かれず、自ら自然の観察や実験にのめり込んでいったことも大いに理解できる。ちなみにニュートンもケンブリッジの学生であったし、のちには教授であった。またベーコンの経験論哲学を体系化して、次の近代合理主義に組み立て直したのはニュートンと同世代のロックであった。


経験論哲学 ベーコンとデカルト

ベーコンはデカルトと双璧をなす認識論哲学の祖と言われる。デカルトが「われ思う(考える)故に我あり」:Cogito Elgo Sumとして、全てを疑ったのち(デカルト的懐疑)、肉体(物質)よりもCogito(考えている自分、すなわち精神、理性)だけが確かなものであり、この内なる真理の原点から物事を説明し理解する「演繹法」:deductionを取ったのに対し(「合理論」:ratioism)、べーコンは「知は力なり」:Ipsa scientia potestas estとして、外にある自然や社会を実験と観察による実証でその真理を説明、理解する「帰納法」:inductionをとった。そのゆえに「経験論」:empiricismと呼ばれる。そしてそれまでの学問の方法論を見直し、全く新たな体系化を目指した。ベーコンは科学的心性をもつ哲学者の系譜の最初に位置する人であった。とは言いながらラッセルが批判するように、彼は科学の時代を切り拓いた(天文学/物理学)コペルニクス、ケプラー、ガリレオの重要な科学的発見(「地動説」「惑星の運動周期」などの天文学的な発見)の成果を十分に取り上げておらず、その意義を看過している。また科学を重視しながらも「仮説」の重要性をが強調されておらず、単にデータや事実を秩序正しく整理すれば仮説となると考えた。しかし実際には仮説を作り出すことが科学的仕事で一番難しい。しかも科学における演繹法の果たす役割は大きく、その演繹は数学によってなされることが普通である。彼は科学研究における数学を軽視した。この点で同じように天文学や物理学の発展にインスパイアーされ、数学や幾何学理論を重視したデカルトと異なる。このように彼の経験論、科学的合理性には多くの問題を含んでいたとも言える。「魔術から科学へ」の過渡期にあったベーコンの限界であったのだろう。彼の後に出たニュートンでさえ「最後の魔術師」などと評されたくらいである。


近代合理主義の源流 しかし「合理的」とは何か?

とは言え、ベーコンが人間の理性に基点を置き、科学的合理性を重視した経験論哲学者として果たした歴史的な役割は否定できない。ホッブス、ロック、ニュートン、バークリー、ヒューム、スミスと続くイギリス経験論哲学思想、イギリス啓蒙思想を生み出した。近代合理主義の源流とみなされている。一方でそうした近代合理主義は、道徳、倫理、信仰、感情の問題をどう捉えたのか?科学的合理性が世界を、人類を大きく進歩させた。しかし、人は科学的合理性だけでは説明し得ない真理、価値があることにも気がついた。観察と実験、検証と法則発見という、経験論的な実証主義、帰納法だけでは説明できない世界の深い闇にも気がついた。カール・ポパーは科学的合理性は実証ではなく反証可能性でしか語れないと、ベーコンの帰納法による合理性を批判している。歴史を科学的な理論として捉えようとする動きに対し「歴史に理論的な法則などない」と断じた。社会のあらゆる事象が科学的合理性で語られるわけではない。そうした哲学論争はともかく、科学的合理性、資本主義的合理性に疲れている現代人が多いことは確かだ。人間の理性も感性も、全てが科学的合理性を受け入れているわけではない。そのように世の中が動いていると考えるわけでもない。産業革命期に起きたラッダイト運動(機械打ち壊し)や科学万能主義への反発、ロマン主義の台頭が起きたように、現代の情報革命の時代にあってもAIを無批判に歓迎するわけでもない。詩歌や音楽や美術など芸術は科学なのか。侘びや寂を科学的合理性で説明可能なのか。また資本主義的合理性が見落としたさまざまな社会の矛盾にも気づいた。商業活動における「三方一両得」は非合理的なのか。利他的な自己犠牲という選択は合理的意思決定ではないのか。「合理的」:Rationalとは何か? そんなことをここであげつらって、ベーコンを責めてもしようがないが、21世紀の現代、「近代合理主義」教の教祖の一人ベーコンの400年前の著作に触れて、その後何度も押し寄せた「合理主義」への反動の波が今再び押し寄せていることに気づく。

William Blakeが描く「科学万能時代の教祖」ニュートン


「偉大なる哲学者」と「世俗宮廷官僚」

ベーコンの思想と哲学、学問の理想、科学の実践は、世俗における欲望と葛藤と無縁ではないように思える。若き日の出世意欲に満ち満ちた時期の著作『随想録』。権力の頂点、大法官に上り詰める過程での著作『学問の進化』『諸学の大革新』『新機関』『森の森』などの大作(未完のものも)。そして失脚後に著した膨大な改訂作業、ラテン語著作。さらには死後に刊行された『ニュー・アトランティス』。ケンブリッジの学生時代に没頭した実験と観察による自然の解明という情熱と姿勢は、やがて宮廷官僚として世俗政治の世界に塗れるうちに変わっていったのか。膨大な著作は真理追求のためだけではなく、宮廷官僚としての自己承認欲求のためでもあっただろう。「知は力なり」は結局、知性ある絶対君主による統治を美化し、理想とした。そのような絶対王権の下でで学問の再構築、再体系化を試みた。しかしそれはその時代には実現しなかった。後世において知の体系化はフランスのデュドロなどのいわゆる百科全書派によって異なる形で実現された。また英邁な君主のもとに組織化される「ソロモン学院」のような科学の殿堂を夢見た。これはのちに王立アカデミーという形で実現する。しかし彼は知識を重視し「四つのイドラ(偏見)」に囚われて世の中を見誤らないよう警告しているが、時の絶対君主、ジェームス1世におもねり、のちにロックが徹底して批判する「王権神授説」を支持し、絶対王政の擁護者に徹するなど、結局は彼自身が、世俗の煩悩というイドラに絡め取られてしまった。ベーコンの主治医で血液循環の仕組みを解明した科学者ハーベイは、彼を「大法官のように哲学した」と評した。ラッセルは、「ベーコンが世俗の欲望からもう少し離れていれば、もっと多くのことをなしたに違いない」と評している。ベーコンの思想・哲学の歴史的意義を評価するも、その完成を見るためには、さらにロックなどによる経験主義哲学の理論的体系化の成果を待つ必要があった。


ベーコンの主要著作(刊行年別)

1)『随想録』:Essays or Counsel Civil and Moral  1597年

    人生、政治、学問などについて独自の洞察を短文で綴った随筆集、最初は10編からなったが、のちに追補を重ね56編に及んだ。

2)『学問の発展』:The Proficience and Advancement of Learning 1605年 

    既存の哲学批判と知の大切さ。独自の学問分類を提唱。「心理の性質」と「学問する人間の知的能力」の二分法。哲学、詩、歴史、自然研究へと繋げてゆく知識獲得方法と人間の認識、判断を妨げる意識について言及。のちの帰納法、「イドラ」につながる分析。知識の伝達が重要とし、研究者間、世代を超えた共同研究で知識を発展させることを期待。

「知は力なり」:Ipsa scientia potestas estで知られ、当時の学問の現状を分類、批判し、有用な知識の探究と学問の発展を幸福のために追求することを説いた。一方で科学の発展には権力が必要で「知」と「権力」の結びつきを説いた。理想的な統治形態は「知性」に溢れる王による「絶対王政」であり、学問や科学はそういう国家で発展すると考えた。

1603〜1605英語版刊行であるが、その後幾たびかの改訂作業ののち、20年後にラテン語版が。さらに没後にその英訳版が1640年にオックスフォードで刊行されている。

3)『諸学の大革新』(全5編):Instauratio Magna 1620年

     全6編からなる、壮大な学問改革計画。観察と実験による帰納法による科学の方法論を確立することを目指した。すなわちギリシア哲学、スコラ哲学に基づく既存の学問体系、方法論を全面的に見直そうと言う壮大な試みである。先の英文著作『学問の発展』を発展させたもの。彼の大法官失脚後の著作でラテン語で書かれた。しかし未完と言わざるを得ない。

    第2編の『ノヴム・オルガヌム』がその要となる論考。

4)『ノヴム・オルガヌム:新機関』:Novum Organum 」1620年 

    アリストテレス論理学の「オルガノン」への批判。4つの「イドラ」偶像あるいは偏見を排除して「実験、観察、検証、法則」から真理を導く帰納法を提唱した。「オルガノン」は機関というより方法論、論理という訳の方が適切かもしれない。ベーコンはアリストテレスの強烈な批判者であり、アリストテレスの「三段論法」を軽蔑した。実用的科学や技術の進歩を重視する経験論哲学を説き、新しい論理学による諸学問の近代化を目指した。

5)『森の森:自然科学史』:Sylva Sylvarum A Natural History 1627年 没後 

    10の世紀のそれぞれ100項目にわたる、実験、観察、自然現象、医学、物理実験の事例集。そのような知識、データ、事実の集積と分析が科学的な仮説をうみ、それを実証的に証明する学問につながると考えた。

6)『ニュー・アトランティス』:New Atlantis(未完)1627年 没後

    科学技術の発達した理想社会を描いたユートピア小説 架空島ベンサレムのソロモン学院という研究機関構想がのちの1660年の王立協会設立に繋がった。さらにオックスフォード理学協会へとつながる。5)のSylva Sulvarum A Natural Historyの第10編に掲載される

7)『書簡集』については以前のブログで紹介

2024年8月10日古書を巡る旅(54)ベーコン書簡集(1)

2024年9月1日古書を巡る旅(55)ベーコン書簡集(2)


William Ball版『ベーコン全集』全2巻:’The Works of Lord Bacon’ in TwoVolumes, 1838年刊

出版人William Ball自身による70ページにわたるイントロダクション。ベーコンの私的伝記記録者であったDr. William Rawleyによる略歴や解説の引用随所。それ以外は後世のベーコン研究者や翻訳家などの評論や注釈を一切用いていない。またラテン語で書かれた著作は、英訳されず原文のまま全集に取り入れられている。各著作は、書かれた年代順、時系列ではなく、カテゴリーごとに分類されている。

19世紀当時、他の伝記作家、ベーコン研究者によって編纂されたアカデミックな大型「全集」(16巻本)より、コンパクト(と言っても2巻本に小活字で1600ページが凝縮されている))にまとめられている。主なターゲット読者層としては、都市部の学生、法律家、ジェントルマン層で、図書館ではなく自宅で読めるよう手に取りやすさを意図して刊行された。当時のロンドンの出版業界の中心街Paternoster Rowで商業的な成功を収めた全集の一つと言われている。

現代の日本語訳ベーコン全集(岩波版)の底本となっているのは、The Works of Fr. Bacon, collected and edited by J. Spedding, R. L. Ellis and D. D. Hearth, London 1858のようだ。ラテン語文の英訳責任者はSpedding (Trinity college Cambridge)。学術的な権威を持つ全集である。

第一巻

Introductory Essay (署名はないが出版人William Ballによるものと考えられる)

Philosophical Works(哲学論集)

 The Proficiency and Advancement of Learning, Divine and Moral(学問の進化)

 Sylva Sylvarum, or A Natural History, in Ten Centuries(森の森:10の世紀の自然史)

 New Atlantis (ニュー・アトランティス)(未完)

    他

Works Moral(道徳論集)

 Essays or Counsels Civil and Moral(随想集)

Theological Works(神学論集)

Works Political(政治論集)

Law Tracts(法律論集)

Writing Historical(歴史著作)


第二巻

Letters(書簡集)

Speech(演説集)

Instauratio Magna Pars I(諸学の大革新)ラテン語原文

Instauratio Magna Pars II  

     Novam Organum, Siva Indecia Vera De Interpretatione Naturae(ノヴム・オルガヌム:新機関)

Instauratio Magna Pars III

Instauratio Magna Pars IV

Instauratio Magna Pars V


出版人:William Ball at Aldine Chambers and No.34 Paternoster Raw 1835~1841


参考書:

『西洋哲学史』バートランド・ラッセル 市井三郎訳 (みすず書房)

2026年6月14日日曜日

古書を巡る旅(79)夏目漱石『文学論』『文学評論』 〜帝大講義録、小泉八雲『英文学史」との比較?〜

岩波版『漱石全集』



『文学評論』縮刷版初版(大正4年春陽堂刊)




小泉八雲と夏目漱石の帝大英文学講義

夏目漱石が小泉八雲の帝大での英文科教師の後任であったこと、そして前任の八雲の講義が学生に人気であったのに比して、漱石の講義が極めて評判が悪かったことは、以前のブログでも紹介した。そのことがずっと引っかかっていた。何がそんなに違っていたのか。なぜそのような反応になったのか。そもそも八雲と漱石の講義とはどのようなものだったのか。稀代の二人の文豪の文学観の違い。それとも別の理由なのか。文学的素養もなく英文学者でもない私が、八雲と漱石の文学観について論評するなど、笑止千万な振る舞いなのだが、ただやっぱり気になる。幸いにもこの両講義の記録が、のちに出版されており、今、我々が読むことができる。ということでちょっと覗いてみた。

ちなみに二人の帝大での講義は次のような時間割であった。

八雲:1896年(明治29年)9月〜1903年(明治36年)3月までの6年半。週12時間(原書購読5時間、英文学論3時間、英文学史4時間)驚くような時間割だ!

漱石:1903年(明治36年)9月〜1905年(明治38年)5月までの1年半。週3時間(英文学論)。1905年(明治38年)9月〜1907年(明治40年)3月までの1年半、週3時間(十八世紀英文学史)。

八雲は週12時間も講義していたのか!御雇外国人で給料も高いとはいえ、ちょっと過酷な労働条件。準備も大変だっただろう。それをこなして、しかも人気があったというのは驚きだ。


小泉八雲の講義録

『英文学史:A History of English Literature』『詩人論:On Poets』『詩論:On Poetry』1927年(昭和12年)北星堂刊行の3編としてまとめられ出版されている。

八雲没後、聴講した学生が筆記した講義ノートを、教え子たちによって編纂、発刊したもの。英文学史を通史として俯瞰的に捉え、しかし各章を詳細に講じているが、八雲独自の評価軸で韻文、詩、戯曲、散文、小説を解説している。英文の著作であるが、読みやすい。



『英文学史』の詳細は以前のブログを参照 古書を巡る旅(69)小泉八雲『英文学史』〜東大講義録〜


夏目漱石の講義録

『文学論』『文学評論』の2篇にまとめられ出版されている。。

1)『文学論』明治40年5月大倉書店刊行

明治36年9月から週3時間の講義が続き、明治38年5月に終わった。ちょうど小泉八雲の英文学講義の後を引き継ぐ形で始まった。この後、明治38年9月に新学期から始めた講義「十八世紀英文学」は、2)の「文学評論」として刊行された。

本書は、夏目金之助署名で明治39年11月に「序文」を書いているが、創作活動に忙しく「未定稿」であるとしている。原稿の整理、校正、改訂・増補をまとめ、実際に出版を手掛けたのは教え子の中川芳太郎である。序文はあるものの漱石のお墨付きを得た著作となっているかどうか議論がある。

ロンドン留学時代の膨大なノートを基に漱石独自の視点でまとめた「文学論」。分析的で理論的。F+f(認識的要素+情緒的要素)なる形式を用いて文学を解析し構造や表現を説明するなど、八雲の叙情とは異なる講義、論文である。イギリス経験論哲学、ニュートンの自然哲学、あるいはドイツ観念哲学の影響下に、文学を科学(文芸科学)として理解しようという試みである。また、英文学、仏文学、中国文学、日本文学といった「地方的」な区分から脱して、世界人類に共通する問題の究明、文芸としてその法則を求めるという「コスモポリタン」な学問を目指したとしている。そもそも文学はどのような必要があってこの世に生まれたのか。社会に文学は必要なのか。「十年計画」で文学論構築を試みるために、膨大な著作を読み込み、西洋文学と日本文学を繋ぐ迫力に満ちたものではある。しかし、帰国後は、直ちに帝大英文科教師として講義を持つことになり、文学という大海の一滴に接したに過ぎないにも関わらず「急遽」講義録をまとめることになった。しかも出版社の依頼でこれを刊行することになった。本書は、先述のように、漱石自身が最終的に書いたものではないし、また、日本に帰り創作意欲に満ちていた当時の漱石にはそんな大学の研究論文(学理的閑文)に手を入れる暇も意欲もなかった。したがって、序文で認める通り未定稿な著作となってしまった。「十年計画」は道半ばで挫折したと言って良いだろう。学生にとっては八雲のロマンあふれる講義の方が感銘を受けたに違いない。

2)『文学評論』明治42年春陽堂刊行(縮刷版は大正4年刊行)

先の講義に続き、「十八世紀イギリス文学」として明治38年9月から明治40年3月までの1年半、週3時間の講義ノートとして書かれたもの。

本書は夏目漱石として短い「序」を書いている。先行の『文学論』と違い、こちらは自ら執筆している。やはり創作活動が忙しくなり、なかなか出版に至らなかった言い訳も書いている。

漱石は、これは文学史として書いたものではなく彼の文学論の一環として講義し、著作化したものと位置付けているが、明らかに文学史的分析、解説を試みたものである。十八世紀英文学の背景として次のような解説を試みている。哲学思想としては ジョン・ロック。バークレー、デイヴィッド・ヒュームを取り上げている。政治情勢としては アン女王治世 王党、民党の対立 政治の腐敗を紹介している。芸術活動として、ヘンデル、ホガース、レイノルズを取り上げている(漱石はこの方面は専門ではないと言い訳している)。一方で、この頃盛んであったクラブ、コーヒーハウス、タヴァーン文化が文学に与えた影響に言及。また当時のロンドンや地方、市民の姿を紹介している。

このように十八世紀イギリス文学の時代背景を述べ、彼のもう一つの著作『文学論』のなかで十分に考察し得なかった「文学論としての英文学史」を展開しようとした。しかし、哲学思想としてイギリス経験主義のロック、バークレー、ヒュームを挙げているが、時代の画期となったニュートンの自然科学、スミスの社会科学への考察がない。そして重商主義から自由貿易主義へと遷移する中で生まれた中産階級の台頭と、科学技術の飛躍的進化から生まれた産業革命という経済・社会基盤の大変化。アメリカ植民地独立、フランス革命などの歴史の画期の文学への影響をどう評価したのか?十八世紀は、十七世紀の革命の時代を経て「大英帝国」が芽生えた世紀。漱石が見た十九世紀末の最盛期のイギリスの前史。そのような文学的背景を十分説明し切れているのだろうか。

彼は、この時代の代表的な文学者としてアチソン&スティール、スウィフト、ポープ、デフォーを取り上げている。確かに時代が産んだジャーナリズム、散文、詩文、そして風刺小説のスターたちだ。漱石は、彼らが生まれた時代背景分析から作品を読み解くのではなく、彼らの作品を通じて18世紀イギリスを読み解いている。文学表現がどのように時代を描き出すのか。その表現方法や手腕を論評している。漱石らしいウイットに富んだ論評である。この講義は学生に受けたのではないかと思う。しかしサミュエル・ジョンソン、エドマンド・バークは?ローレンス・スターンは?彼らについて漱石の評論を聞きたいものだ。ちなみに八雲はこの時代を「ポープからジョンソンの時代」とし、現代英語で読める作品が生まれ、詩や劇詩、戯曲に加え、散文作品、小説が生まれた時代、と評している。

ただ、哲学史、政治思想史、経済史、社会風俗を、漱石自身が専門家として分析することはできなかったであろうし、十八世紀ギリス文学、その全容と背景を一人の日本人が評価することの限界は漱石自身認めているところである。したがって4人の文豪を選び、その文学作品を詳しく評論することによって漱石自身の文学論を掘り下げることが究極の目的であっただろう。しかし、やはり「十八世紀文学史」としては十分とは言い切れないだろう、「いやこれは文学論である」と言う主張は、八雲の講義を意識したわけではないだろうが、若干言い訳に聞こえる。やや未完成な講義、著作ではないだろうか。それは漱石にとっても不本意なものであったに違いない


なぜ漱石の講義は学生に人気がなかったのか?

八雲は講義録を準備しなかった。メモを見ながら滔々と英文学を講じた。しかも週12時間もである。もちろん英語で講じた。たちまち教室が英文学の詩情に満ち溢れ、学生は聴き惚れた。彼独自の再話文学や詩文に用いられた音感による文学表現といったものであろう。本書は学生の講義ノートをのちにまとめたもので英文で書かれている。そこに聴講した学生の感動が滲み出ている。

一方の漱石は。先述のように自ら講義録を用意し、それを講義に使った。日本語で講じた。しかし、それは(特に「文学論」講義では)英文学の叙情や熱情といった感性に訴えるものというよりは、分析的、理論的で小難しく、あまり心躍るようなものではなかったであろう。しかも本人自身が述懐しているように講義の準備が完璧ではなかった(壮大な文学論について短時間にまとめることはできないと)。聴講したある学生は彼の日記の中では「八雲の詩情。漱石の詩情無き散文」と評している。この時期、小説家としての作品構想、執筆に時間を取られ始めていて、ロンドン時代に構想した「十年計画の」文学論を完成しきれなかった。結局、東大を辞め、作家に専念することになる。漱石にとっても内心忸怩たるものがあっただろう。聴講した学生はそれを敏感に感じ取ったのだろう。ちなみに、漱石もシェークスピアの「マクベス「オセロ」の原書購読を講ずるようになって学生に人気の講義となっていった。これは海外公演から帰国した川上音二郎のシェークスピア作品「オセロ」公演が成功を収めた時期と重なるようだ。やはり帝大も理論よりも熱情が求められていたのだろうか。

漱石の「不愉快」と「神経衰弱」は何を産んだのか

このように粗略ながら漱石の講義と講義録を一読してみた。そこから何が読み取れるのか?そもそも漱石は行きたくてロンドンに留学したわけではなく、「最も不愉快な2年間であった」とまで言っている。官命で帝大の英語教師となるべく留学したのだが、自分の中では語学を学ぶ目的で行ったわけでもないし英文学を学ぶためでもない。文学修行、文学論の組み立てが目的であった。したがって大学の講義は聞かず個人教授について膨大な数の文学書を読んだが、それでもまだ、自分が触れることができたのは大海の一滴に過ぎないと自覚した。異国の地で神経衰弱(ノイローゼ)になって苦しむ。そこで自然科学研究の合理性に触れたこともまた大きな影響を与えたが、これがむしろ自己矛盾を生むきっかけとなったのではないか。また帰国後帝大の教師につくのも、(糊口を凌ぐための)一高教師の職は別として、自分が望んだわけではない、それこそ「不愉快」な時間であったと言っている。そもそも学者には向かないと序文で息巻いている。したがって講義に力が入ったとも思えない。事実体調不良で欠講も多かった。「人は神経衰弱だとか狂人だとかいう。家族、親戚までそういう。しかしその神経衰弱と狂人のおかげで「猫」や「漾虚集」が生まれたと思えば深く感謝の意を表す」と。むしろ創作意欲が沸々と湧き出る時期であったから、この神経衰弱は「命のあらんほど永続すべし」と自嘲気味に語っている。さすが漱石も「不愉快なロンドン」で英国流のウイットは身につけたようだ。もともと「てやんでいべらぼうめ」の江戸っ子である。しかし、『文学論』序文で「この神経衰弱と狂気は「学理的閑文字」を労するためのものではなく、そんな余裕を与えないので、この『文学論』がこの種の唯一の記念になるもので、価値乏しきものではあるが出版社に手を煩わすに足る仕事なるべし」と自虐的に結んでいる。そんな講義が学生に不評であったのも宜なるかなである。

八雲も自分は学者ではないと自認していたが、漱石はさらに学者、教師というよりは、やはり小説家としてのプロファイルが上回っている。八雲はギリシア、アイルランド、フランス、アメリカや西インド諸島、日本という、異なる土地と異文化から多くのインスパイアーを受けた。異文化の中に人類共通の感情や詩情を見出し、その「普遍性」を描き表した。啓示的でもあるが哲学的でもある。特に出雲松江で得た霊的体験とインスピレーションが彼を作家として熟成させた。漱石は松山にも熊本にもロンドンにも「不愉快」の一言しか出てこなかった。もちろん帝大教授などというポジションも「不愉快」なオファーに過ぎなかった。のちには博士号授与をも断っている。「栄光ある帝国の臣民という名誉」があるから「不愉快」を我慢しているのだ、という口ぶり。これを「則天去私」というのか。結局は、いわゆる「江戸っ子」の根底にありがちな土着性の表れだったのかもしれぬ。しかし彼はその文学的な啓示と抒情をどこで得たのだろう。八雲のような「場所」「異文化」ではなかったようだ。彼が言うように「不愉快」なのか。神経衰弱と狂気、胃潰瘍からか? 外的な経験ではなく、内的な感性であったのだろうか。八雲と漱石。ある意味で対照的な文豪であった。しかし共通するのは二人とも膨大な文学作品に接していることだ。しかも、それが研究者としての仕事に資したというよりは、小説家の創造力に資したところも期せずして一致している。


近代合理主義との葛藤

八雲の講義と漱石の講義と、そのどちらが面白かったのか。どう違っていたのか。そしてなぜ漱石の講義は不評だったのか。そうした素朴な関心から、事後に出版されたその時の講義録を、粗略ながら通読してみたわけだが、そこに浮かび出る八雲の姿にも漱石の姿にも、学者としてのアイデンティティーは薄いように感じた。特に八雲に見て取れるのは科学的合理性を超えた文学的な情感を尊ぶ姿勢である。むしろ「近代合理主義」への警鐘ですらあっただろう。それを求める明治の若き学生の存在である。そう言う意味で八雲の講義は研究者のそれではなく、文学者としての、いや人間の初源的精神を求める哲学者としてのそれであったし、それを講義で表現した。そこに学生(若者)が共感した。

一方の漱石は、ロンドンで構想した文学への「科学的なアプローチ」を試みたが失敗に終わった。研究者としての道は挫折した。そして彼の志は若者には伝わらなかった。特に八雲の直後であっただけに学生の失望は大きかった。だから大学を辞めた。彼は近代合理主義の一端をイギリスに見、「科学的合理性」を自らの文学論に当てはめてみようと模索したが。その試み自体が本当に彼の目指すものであったのか今となっては疑問ですらある。そして創作アイディアと意欲が次々と湧き起こる中、文学論における科学的合理性の追求よりも、小説家の道を極める方向に突き進んだ。理論的分析よりも情感表現である。

二人とも各々の限られた人生の中で試行錯誤を繰り返し、挫折を重ねながらも、最後は表現者の道を歩んだ。明治期の知識人に求められたのは、八雲のような「御雇外国人」であれ、漱石のような「官費留学生」であれ、「西欧流近代合理主義」を日本にいち早く移入することであった。そんな「期待された役割」と「自身が求める理想」との相剋。この二人の文豪を見ていると、そんな明治の知識人の葛藤を見るようである。



参考:漱石の略歴

1867年(慶応3年)生まれ 1916年没

1893年(明治26年)帝大卒業 大学院へ 東京高等師範教師

1895年’明治28年)松山中学教師

1896年(明治29年)第五高等学校英語教師

1900年(明治33年)官費英国留学(五高教師のママ)University Collageを辞め、William James Craig(シェークスピア研究家)個人教授 神経衰弱

1903年(明治36年)帰国

同年 一高、東京帝大講師 (小泉八雲の後任)「英文学論」講義

学生の評判すこぶる悪し(八雲留任運動、漱石排斥運動)神経衰弱で休講多発

1905年(明治38年)『吾輩は猫である』『ホトトギス』『倫敦塔』(『漾虚集』収録)

1906年(明治39年)『坊ちゃん』

同年から1907年まで「18世紀英文学史」講義

1907年(明治40年)帝大を辞め、朝日新聞入社 作家活動に専念

同年 職業作家としての初作品『虞美人草』を朝日新聞に連載『野分』

同年 帝大講義録『文学論』刊行(大倉書店・服部書店)

1908年(明治41年)『三四郎』朝日新聞連載開始

1909年(明治42年)帝大講義録『文学評論』刊行(春陽堂)

1910年(明治43年)『三四郎』『それから』『門』

同年8月 修善寺の大患 吐血

1911年(明治44年)後期三部作『彼岸過迄』『行人』

1914年(大正3年)『心』朝日新聞連載

1915年(大正4年)『道草』朝日新聞連載

同年 12月『明暗』執筆連載途中で死去(享年49歳10ヶ月)

全集発刊:

1918年に岩波茂雄から第一巻、1919年第十四巻刊行 十回以上の改訂版 

岩波版『漱石全集』1993年〜1999年 全二十八巻 別冊一巻)2016年12月より新版刊行


2026年6月7日日曜日

コーヒー・ハウスとは何か? 〜17・18世紀ロンドンのソーシャル・ネットワーキング〜

ホガースが描く18世紀ロンドンのコーヒー・ハウス


伝説のコーヒー・ハウスButton'sに設けられたライオンの投書箱

代表的なコーヒー・ハウスGarraway's

1700年頃のコーヒー・ハウス内部(British Museum蔵)

シティーにある現在のロイズ保険会社


 「コーヒー・ハウス」ってなに?

17〜18世紀イギリスに花開いたコーヒー・ハウス文化。主としてロンドンの中心街に社交の場として開かれ、特に1660年の王政復古ののちに盛んになった。これまであったタヴァーン(酒場)とは異なりコーヒー・ハウスでは酒を出さない。海外、特にアラビア、トルコから伝わった大航海時代の産物「コーヒー」を出す。これは二日酔いに良いと考えられ、健康にも良いと信じられ人気となった。コーヒーのメリットを盛んに喧伝したのはフランシス・ベーコンである。さらにやはり海外から持ち込まれた砂糖、タバコ、カカオも嗜まれた。エギゾチックな香りの飲み物と紫煙に満ちたコーヒー・ハウスはたちまちトレンディーな社交の場となった。何よりも強い酒で思考が朦朧として、喧嘩も絶えずまともな議論が出来ないタバーンではなく、コーヒーは脳を覚醒化させて理性的、合理的に議論し、判断できることが好まれた。17世紀の詩人アレキサンダー・ポープは「コーヒーは政治家を賢明にした」と言っている。ちなみに茶(Tea)が社交の場に入ってくるのは19世紀になってからのこと。

コーヒー・ハウスは入場料1ペニーとコーヒー一杯2ペンス払えば誰でも店に入れる。コーヒーを飲みながら自由に議論し談笑し、情報交換する場となった。もともと航海を終えた冒険商人、これから航海に向かう冒険野郎などが集まり海外情報を交換する場であった。有名なロイズ・コーヒー・ハウスがその典型である。そこで海外情報が共有され、新しい商売が着想され、リスクヘッジの保険のアンダーライターを探し、やがて株価情報が行き交い、市場動向がつかめる場となって行った。エリザベス一世はロンドンに株取引所を開設したが、ディーラーたちはその周りにできたコーヒー・ハウスで取引をした。まだ郵便制度ができる以前には、ここで手紙を書き、宛先別の袋に入れておけば船乗りや行商人が配達してくれるし、ここで手紙を受け取ることもできた。特に海外向けの信書の扱いで通信手段が限られていたので重宝された。

またコーヒーハウスには政治パンフレットや新聞、雑誌が置かれ、誰でも無料で読むことができ、図書室を併設するところもあった。様々な情報に接する機会が用意されていた。ここでの客同士の会話は最新のニュースであり新聞記事の情報源となった。このようにコーヒー・ハウスは一種の情報センターであり、ジャーナリズムの揺籃となった。また、人が集まれば必然的に商品やサービスの広告宣伝の場になった。コーヒーが健康に良いという噂に釣られ来店する客に向けて、怪しげな薬やニセ医者の広告宣伝の場となり、特にペスト流行時にはイカサマ情報が横行しトラブルも多かったようだ。当時の旅行記や風俗詩に格好の話題を提供した。

コーヒー・ハウスには真実も有益な情報もあったが、フェイクもウソもハッタリなどいかがわしい話も混在した。陰謀を企む者やスパイの暗躍する場ともなった。政府にとっては都合の悪い言論動向を把握し、フェイクニュースやプロパガンダで故意に世論操作する場ともなった。時には検閲官が出入りすることもあった。王政復古後一時、言論統制のためチャールズ2世によってコーヒー・ハウス禁止令が出されたこともあるが、なんとか規制をすり抜け、業界は逞しく成長し、一時はロンドンだけで3000を超える店があったという。コーヒーハウスはますます繁栄した。こうした虚実内混ぜのカオスの中から世相を読み取り、時代の流れを見極め、商売や政治や文学作品が生まれた。コーヒー・ハウスはまさにそうしたオープンなソーシャルネットワーキングの場であった。

コーヒー・ハウスには誰でも入れるとは言え、出入りするのは時間に余裕がある人々であり、毎日仕事に追われる労働者階層の人々の来るところではない。第一、少なくとも新聞を読める、すなわち識字能力を持つ階層であることも重要だ。政治や文学に関心があり一言物申す知識と教養、あるいは「エセ紳士」であってもそれらしく振る舞うお厚かましさ、皮肉やウィットに富んだ会話も求められる。すなわちここは、上流階級や都市ブルジョワのものであった。しかし時代とともに徐々に有産階級の一角をなすようになる中産階級のジェントルマン(気取り)や、上昇志向の学生や若者の溜まり場になっていった。また文字を読めない人が読める人から新聞を読んでもらうことも盛んになった。ただあくまでも女性は除外される。


「場」としてのソーシャルネットワーキングの諸相

1)政治、言論の場として:

王政復古後からは政治的色彩が出る。トーリー(王党派)とホイッグ(議会派)の根城になる。と言っても、のちの「クラブ」ほど厳密な区分があったわけではないく、そういう傾向、系統の人物がよく集まったという程度であったようだ。トーリー系では、ココア・ツリー(Cocoa Tree's)、チョコレート・ハウス( Chocolate House's)といった店が有名であった。一方、ホィッグ系では、セント・ジェームス( St. James's)、スミルナ(Smilna's)が有名で エドムンド・バークも訪れたという。また人気風刺作家のジョナサン・スウィフト、ダニエル・デフォーが出入りしたコーヒー・ハウスは、トーリー系であったりホィッグ系であったり揺れ動いていたようだ。「政論」が教養人たるに必要な一種の流行であった時代のものだ。

2)経済・株取引・保険の場として:

ギャラウェイ(Garraway's)、ジョナサン(Johnathan's)、ロイズ(LLoyd's)などの伝説的なコーヒー・ハウスがあった。これらはイギリスの経済的な発展を支えたとも言える。こちらは政治色は薄く、交易情報の交換、株価、市場動向など経済活動に専念する客層が集まった。王立株取引場(Royal Exchange)の周辺には多くのコーヒー・ハウスが開店していた。ジョナサンは株の売買を、ギャラウェイはハドソン会社の毛皮や船の売買を、ロイズは保険を扱った。のちに世界的なロイズ保険会社にようなイギリス経済のインフラを支える企業も出てくる。一方で、南海泡沫事件のようなバブルの温床にもなり、破産者が多く出た。

3)文学サークルとして:

 文学界の大御所と言われたジョン・ドライデンが中心となっていたウィル(Will's)には多くの文人が集まった。いわゆる上流の「ウィット:Wit」(才人)の集まるコーヒー・ハウスで、ポープも常連であった。もう一つの有名所はバトン(Button's)。こちらは中産階級向けの文人サロンで、アディソン、スチールなどにより、一般の市井の出来事「エブリマン」が多く語られた。ジョナサン・スウィフトも出入りした。店主が、雑誌への投稿を促すためライオンの頭の投稿箱(上図参照)を準備したことで人気があった。他にもジョン(John's)、チャイルド(Child's)など。この時期のイギリス文学を知る上で欠かせないサロン、文学界プラットフォームであった。

4)ジャーナリズムの場として:

18世紀に入っての啓蒙的傾向が強いコーヒー・ハウスである。 バトン閉店後の、コベントガーデンのベッドフォード(Bedford's)などは、デフォー、アディソン、スティール、デヴィド・ギャリック、ホレイス・ウォルポールなどが出入りした。先ほどの「ライオン頭」の投稿箱も引き継いだ。他にもセントジェームス(St. James)など、テーマごとに特色を持ったところが生まれた。こうしたコーヒー・ハウスから、中産階級のホイッグを代表するデフォーの「レビュー」、一方でトーリーを代表するスウィフトが主筆の「イグザミナー」、そのほかスティール創刊の文芸誌「タトラー」「スペクテイター」「ガーディアン」といった新聞、雑誌が生まれ、ジャーナリズムの揺籃となった。

5)イカサマ師、大衆文学、風俗発信の場?:

しかし18世紀後半になると、流石のベッドフォードのような文人に愛されたところも、種々雑多な人間の寄せ集めの場となり、一部では詐欺、イカサマの場と化していた。コヒー・ハウス文化の終末の時期である。一方で中産階級の読書習慣が徐々に浸透し始め、貸本業や大衆文学、風俗文化の発信地となったものがある。


「クラブ」の登場

やがてコーヒー・ハウスは、政治的な主義主張(トーリーvsホィッグ)、業種、商売仲間、趣味、娯楽仲間、文芸仲間、貴族や都市ブルジョワ、中産階層という社会階層の属性にそった、いわば「会員制クラブ」へと変異してゆく。特定の店に特定のパトロンがつき、贔屓客が集まり、インフルエンサーが集うようになると、その特定の意見や趣味、利害に共鳴する客が集まり始める。まさにクラブである。すなわち、オープンなネットワーキングの場からイクスクルーシヴなネットワーキングの場へと変遷してゆく。コーヒー・ハウスからクラブが生まれていった。これはある意味自然の成り行きであろう。現代の厳密なルールと会員オンリーの「ジェントルマンズ・クラブ」もここから生まれた。ここでも女性は入れない。完全に男の世界である。

こうしたクラブは、コーヒー・ハウスから発展したクラブだけではなく、14世紀から存在する伝統的なクラブもある。コーヒ・ハウスが流行る以前から、タヴァーンの二階が上流階級の仲間の社交の場として用いられた。エリザベス朝のウォルター・ローリーが創設したマーメイド・クラブ( Mermaid Club)や、同時期のベン・ジョンソンのアポロ・クラブ( Appollo Club)などももその一つ。シェークスピアも出入りしていた。少しのちのスウィフトやポープが主導したスクリブレラス・クラブ( Scriblerus Club)や、詩人のコングリーヴ、政治家のウォルポールなどが会員であったキットキャットクラブ( Kit-Kat Club)なども歴史ある有名なクラブである。クラブ好きで知られるサミュエル・ジョンソンの文芸クラブ(Literary Club)は、王立協会(Royal Society)会長のジョシュア・レイノルズが発起人となり、エドムンド・バーク、オリヴァー・ゴールドスミス、ギャリック、ボズウェル、アダム・スミスなどが会員であった。このようにタヴァーンやコーヒー・ハウスが特定のグループの集まりに利用されることは珍しくなく、そこから「会員オンリー」のクラブが生まれた。

17世紀スチュアート朝時代は、イギリスは革命の時代であった。清教徒革命で国王が処刑され、1660年には王政復古で国王が戻ってきたり、王党派と議会派の争いの中、自由主義や民主主義の萌芽が生まれ、やがて1688年の名誉革命で議会派優位の立憲君主制の国家「君臨すれども統治せず」の政治となった。一方でカトリックとプロテスタント(国教会、非国教会)の対立、オランダやフランスとの戦争もあった。イングランド・スコットランド・アイルランドの「三王国戦争」の時代でもあった。1665年にはペストが大流行し、1666年にはロンドン大火があり、パンデミック、災害で街やコミュニティーが壊滅的な被害を被った。コーヒー・ハウスはペストで閉鎖され、大火で大部分の店が消失し、それでもロンドンの復興に伴い復活して再び賑わっていった。混乱の時代こそコーヒー・ハウスは逞しく発展した。名誉革命ののちは、18世紀のイギリス啓蒙主義時代到来、経済では重商主義にかわる自由主義経済、科学万能主義による産業革命など、近代合理主義の時代へ、そして「七つの海を支配する」大英帝国への道を突き進んでゆく。その反動としての文学芸術におけるロマン主義、ゴシックリバイバルも勃興する。こうした激動のイギリス社会の持続可能装置として下支えしていたのがコーヒーハウス文化であった。揺れ動く社会にたくましいソーシャルネットワーキングのプラットフォームがあったればこそ、イギリスは(急進的ではなく)漸進主義的な進化と発展が可能であった。たかが一杯のコーヒー、されどコーヒーである。


コーヒー・ハウスの終焉

しかし18世紀後半から徐々にコーヒー・ハウスは変質が始まり、当初の「自由な言論の場」と言う性格は失われ、やがて19世紀に向けて衰退、役割を終えてゆく。その理由はいくつか考えられる。

1)まず数が増えすぎた。臨界点を超えると衰退が始まるのは全てに共通する「進化論的」原則である。すなわち自然淘汰が始まる。

2)その中で、特色を出すために酒と博打の場となる店が現れる。自由で健全なコーヒー・ハウスというイメージと、その秩序の崩壊はこうして始まる。そして客足が遠のく。

3)そうなると、行きつけの店、馴染みの店ができ始める。客による選別が始まる。一方で贔屓客だけ受け入れる「一見さんお断り」、客層の固定化という、オープン性が売りであったはずのコーヒー・ハウスコンセプトに矛盾が発生する。「クラブ化」の始まりである。

4)ジャーナリズムの自立化、一般化。書店や街角で新聞や雑誌、書籍が買えるようになる。家庭で読めるようになる。「新聞や本の読書室」としての存在意義が薄れる。

5)コーヒーから茶へ。大英帝国の植民地政策、市場の変化が、コーヒーよりやすい茶の嗜好を産む。すなわちティーの習慣が18世紀後半から始まる

6)住環境の改善。家庭でのパーティーや接客。サロンの形成などが進む。この頃家庭での「アフタヌーン・ティー」の習慣が始まった。

コーヒー・ハウスは完全に姿を消してしまったわけではないが、18世紀後半から酒場や、宿屋、書店や印刷所などに鞍替えする店も増えた。本来の姿を留めるコーヒー・ハウスは、今ではほとんどなくなってしまった。時代の変化とともにその役割を終えた。しかし、コーヒー・ハウス100年の歴史がイギリス社会に、そして世界に与えた影響は見てきたように計り知れない。


SNS≒バーチャル「コーヒー・ハウス」論

ここまで考察してきてふと思う。コーヒー・ハウスはまさに現代のSNS:Social Network Serviceではないか。17−18世紀、コーヒー・ハウスはロンドンのソーシャルネットワーキングのプラットフォーマであったわけだ。逆に、今のFacebook, Instagram, YouTube, Blog, X, TikTokは現代のネット上のバーチャルコーヒー・ハウスだ。ここでは「飲んだ」「食った」「会った」などの日常の会話から、政治論議も、ビジネスも、広告宣伝も、ジャーナリズムも、文学芸術論も、旅行や趣味も、フェイクも。政治プロパガンダも、詐欺も、検閲も....なんでもありだ。資格要件もなく誰でも参加できるオープンなプラットフォームだ。コーヒー飲みながらスマホやスクリーンに向かう。

しかしそこは真実も嘘も自己承認欲求も我欲も全てがごった煮のカオス、誹謗中傷、炎上が蔓延る修羅場。それがソーシャルネットワーキング・プラットフォームなのだ。18世紀のコーヒー・ハウスがそうであった。人は、その「玉石混交」から賢く情報を選び、そこの中から真実を見出し、自分なりの判断を下す。そういう目利きもできた。信頼できる人脈も見つけた。そして文化も生まれた。結局、自我と精神の自立がなければ浮草のように時流、情報に流されてしまう。「自由な言論の場」オープンなプラットフォームとはそういうものだ。ただ、現代の「バーチャル・コーヒー・ハウス」は世界中の人間と繋がっている。「客」はコーヒ代すら払わなくて良い。その代わり「店」が「客」の個人情報や「好み」「人脈」をアルゴリズムで操作することができる。それを広告という形で売る。売上は入場料とコーヒ代という「ビジネスモデル」と大きく違う。しかもAIによってといかようにも情報創出が可能になり、人為的に操作された情報がとてつもない金になる仕組みだ。これが現代の「オープンなプラットフォーム」の実態である。ただ、歴史は「クラブ化するコーヒー・ハウス」と言う結末を示してみせた。無秩序なオープンから、規律を持ったイクスクルーシヴへ。これはSNSの将来にとって極めて示唆的である。我々は主体性と個人情報を一定のルールのもとに取り戻さねばならない。



参考書:

1)『Club Life in London 』1866年刊行 

ロンドンのクラブ、コーヒー・ハウス、タバーンを網羅的に紹介。各店の歴史や、著名な客人のエピソードが紹介されていて、その時代の世相がわかる。どちらかというとClub中心の解説。新聞「イラストレイテッド・ロンドンニュース」の編集長を務めたジョン・ティムズの編集。彼はハサミとノリで切り貼りした本を大衆向けにたくさん出し、街角のゴシップをエンタメに変えた編集者と評されている。


Club Life of London
with Anecdotes of The Clubs, Coffee-Houses and Taverns of The Metropolis
During The 17th, 18th and 19th Centuries
By John Timbs
1866




2)『コーヒー・ハウス』小林章夫著 講談社学術文庫 2024年14版 

18世紀ロンドンの都市生活史の視点からまとめたコーヒー・ハウスの実情と、出入りする人物評が面白い。政治史、経済史、文学史、社会史をコーヒー・ハウスから読み解く面白さ





3)『漱石全集』第十巻 文学評論 岩波書店刊

夏目漱石の帝大講義録「十八世紀英文学」をまとめたもの。この中の第二編で一章を設け「珈琲店、酒肆、俱楽部」として「ベッドフォード」「キットカット」「スクリブリラス」「セントジェームス」などを紹介している。





2026年5月18日月曜日

世界に冠たる本の街「神保町」を楽しむ 〜ネット時代の古書店は知のワンダーランド!〜


知の殿堂「北澤書店」



神保町で古書の魅力に出会う

書籍・出版文化の危機、活字離れ、書店の経営危機が叫ばれて久しいが、ここにきて書店業界に新しい潮目が現れているようだ。建て替えを終えた「三省堂書店」の本店開業が大きな話題となっているように、本の街、神保町が活気付いている。和書、洋書を問わず多様な専門分野の書店が軒を連ねる世界最大の古書街。その神保町での古書店巡りが、海外からのツーリストの東京への来訪目的の一つとなっている。それぞれに特色を持った古書店には外国人ブックハンターが押しかけている。イギリスのTime Out誌で「世界で最もクールな街」の一つに選ばれた。この空前の「JINBOCHO」ブームは何を意味しているのだろうか。

日本は、和書、洋書、漢籍を問わず古書/古典書をよく保存し、流通させている国の一つであるとみなされている。イギリス人がシェークスピアやディケンズを求めて神保町にやってくる。フランス人がデカルトやニーチェを探しにやってくる。中国人が杜甫や白楽天を求めてやってくる。それが不思議でないのが神保町だ。浮世絵やジャポニズムだけでなく、日本文学の古典の英訳版が人気である。最近は、漫画やアニメ、映画に加えて日本の新しい文学作品が欧米諸国で人気が出ていることも話題となっている。注目すべきは、こうした「聖地」神保町ブームが、インスタやX、YouTubeなどのSNSによって世界中に拡散している点である。読書離れ、書店や本の衰退が云々されがちだが、神保町を歩いてみると、新しいかたちの書籍ブーム、古書店人気が起きつつあると実感する。

もちろんロンドンにもチャーリングクロス・ロード(あの映画や小説で有名な)やセシル・コートなどの古書街。ストランドやフリート・ストリートなどの出版、新聞街がある。周辺にロンドン大学や大英博物館、高等法院などの教育・研究機関が数多いなど、その成り立ちも神保町の書店街と似ている。しかし、その古書店の集積度と多様性は、はるかにロンドンのそれを上回っている。またロンドンの老舗古書店は、最近は店舗をたたみ、郊外に移転するか、オンライショップに変更しているケースが多いと聞く。あの伝説の「Mark's Book Shop」も今はなく、跡はファーストフード店になっている。私がかつてよく通った「Ash Rare Books」は郊外に移転、オンラインも始めた。神保町でも廃業した古書店もあるが、盛業中の実店舗が130店以上も軒を連ねていることには驚かされる。これが世界的に注目されて外国人が殺到する理由となっているとしても不思議ではない。


「知の迷宮」を彷徨う

かつて古書店は、ちょっと入りにくい、一種、日常から隔絶された別世界であった。ドアを開けて静寂で薄暗い店内に一歩足を踏み入れると、足元から天井まで本、本、本。壁という壁は古色蒼然たる本のモロッコ革の背表紙て埋め尽くされている。そう、闖入者は本の大海に揺蕩う漂流者になる。ここでは時間の流れが止まっている。いや数百年の歴史が重層的に折り重なっているのだ。ページの間から滲み出てくる何百年も前の文字が空間を浮遊している。この「知の迷宮」を彷徨う至福の時間。それが古書店探索の魅力だ。これは決してオンライン書店では味わえない。

ロンドンの古書店の中には、どこに何の本があるかわからないようなダンジョンのような本屋が珍しくなかった。ロンドンで古書店通いしたのは、70年代に留学した時と、90年代に勤務した時なので、もう随分と昔のことだ。その後、仕事でロンドンを訪ねた時に、久しぶりに立ち寄ってみたが、古書店の佇まいはチャールズ・ディケンズの時代から変わらぬ風情でのままである。狭い店内に入ると足の踏み場もない。店員はこちらから話しかけない限り近寄ってこない。薄暗い片隅のデスクに佇む店主に聞くと、たちまち目当ての本を取り出してくれる。彼の頭の中にはこのランダムに積み上げられた古書のインデックスが保存されていて、たちどころに脳内のサーチエンジンが起動し、取り出しができるのだ。神技である。そして先ほどまでの寡黙さと眼鏡の奥の無愛想な眼は、芝居だったのかと思わせるような饒舌さで語り始める。本への愛が止まらない。こうした人種はロンドンのダンジョンには生息しているが、現代のアマゾンのジャングルではお目にかかれない。

目当ての本などなくても、ただ迷宮をあてもなく漂うのも楽しい。目についた古色蒼然とした革装の本を梯子を頼りに取り出し(周りの本が崩れ落ちないように気をつけながら)、そこに思いもよらない世界を発見することも古書店の醍醐味だ。数百年という「時間の経過」を纏った古書。未だ色褪せぬ先人の知恵との出会いに心が震え、自ずとその「時間の経過」にしかるべき敬意を払うようになる。 17世紀イングランドで出版された本が、本棚から私に向かって「ここにいるぞ」と目配せするなん場所が他にあろうか。思わず埃を払ってそれを連れ帰ることになる。

古書には前の所有者の蔵書票や、サイン、書き込みがあることがある。時には小さな紙切れに記されたメモが入っていることもある。蔵書票によっては、所有者自身も歴史的に著名な人物であったり、著者と深い関わりを持つ人物だったりする。購入した年月日、誰かへの特別なプレゼントを示すコメント。文中の下線や、チェックの部分には所有者の心の動きや言葉への愛着が読み取れる。なのになぜそんな愛蔵書を手放すことになったのか。そして、どんな旅路の果てに私の手元にたどり着いたのか。そんな以前の所有者の痕跡にこの本にまつわる物語を夢想してみるのも古書の楽しみの一つだ。そして私の人生もこの本にしかるべき痕跡を残して未来に引き継がれる。ロマンチックではないか。


「製本・装丁(Book binding )」という古書の世界

洋古書には蠱惑的な奥深い世界がある。その装丁である。本は活版印刷された文字列を記録する紙媒体であるだけではない。本自体が工芸品、アート作品なのである。モロッコ革装、マーブルボード、天金、金文字、羊皮紙、簾の目紙、背表紙補強(five raised band)、アンカットページ、エッチング挿画など。今は失われし製本・装丁技法や素材が本を希少な工芸品にする。それが時間という試練に耐えた書籍となり、その出会いにクラクラしてしまう。あるいは、時の経過(aging)により、背表紙が外れボロボロな姿になって書棚に横たわっている古書にも、むしろ侘び、寂び、古びといった美を感じることすらある。まさに「崇高と美」の境地である。古書を装丁で買う。今風にいえば、一種の「ジャケ買い」である。

昔は出版人(Publisher)、印刷人(Printer)とは別に、製本・装丁を専門に請け負うBook binderがいて、書籍の購入者が、印刷済みのアンカットの束を買って、製本・装丁を依頼した時代もあった。あるいはハードボード表紙で簡単に製本した本を、自分用に装丁し直すことも盛んであった。活版印刷が普及したとはいえ、本は貴重で高価なもの、誰でも購入して読めたわけではない。詩人が事前に購入予約者を募り、代金を支払ってもらってから出版し、装丁家が買主の注文に応じてデザインを施すこともかつて流行ったことがある。詩集の装丁が殊に美しいのはそのせいかもしれない。蔵書家が著者と作品への敬意を込めて、あるいは知的資産への愛着を込めて、美麗な装丁を施して大切に所蔵する。これも本の文化の一つである。それを古書店で手にすることができる。

今でもイギリスの田舎のマナーハウスを訪ねると、立派な書斎に天井までの高い書棚があり、美しい革装丁の背表紙がずらりと並んでいる光景を見ることがある。特に全巻揃えの古典書全集などは壮観である。あるいは生涯で旅した思い出(Grand tour)を記録するために書いた旅行記や、訪問したエキゾチックな国々の書籍をコレクションとして並べる。本は絵画や彫刻、調度品などと共にその家の格式、教養、趣味あるいは一族の事績といったものを誇示するステータスシンボルであった。


神保町から見る「西洋古書事情」

話を神保町に戻そう。このようにここは世界的にもユニークな古書街として賑わっているが、一方で、古書業界もなかなか厳しい試練の時代を迎えている。これまでの大口顧客であった国内の大学図書館や、公共図書館、研究機関からの学術的にも貴重な古典書への引き合いが減少しているという。今やネットで世界中から本を取り寄せることができる時代なので、神保町の古書店に来て本を探す必要も無くなったというわけなのか。また古典書のデジタル・アーカイヴ化も進んでいて、コスト削減のためできるだけ書籍を所有しない大学もあるという。これが一時期神保町に閑古鳥が鳴くようになった原因の一つだという。もちろん読書離れ、学生すら本を読まないなどの、知的欲求の低下がある事も否定できないのだろう。しかし、バブル時代に日本が海外で買い集めた貴重な洋古書は日本にまだ眠っている。今やネット時代。逆に、東京の神保町にお宝あり!という情報が世界中にが拡散している。そして円安もあり、欧米のバイヤーや古書コレクターによって買い集められている。すなわち神保町の客層が日本人から外国人に移りつつあるようだ。

かつてはジャパン・マネーが海外でアンティークや貴重な古書を買い漁ったものだ。これまでは日本で開催される国際的な古書フェアーは、そんなジャパン・マネーを狙って海外の売り手が殺到した。日本にはそれだけの需要があった。しかし、今は、逆に日本に眠る洋古書や和書を買い付ける海外バイヤーや古書マニアが押しかけるようになった。長いデフレと円安で、今や「日本」は海外バイヤーによって買い漁られる国になってしまった。彼らから見れば、かつての「ジャパンアズナンバーワン」時代に海外流出した「文化財」の買い戻しなのだろう。神保町が世界の古書の共有市場(common market)として繁栄するのは嬉しいが、流出一方では寂しい。国の経済的な衰退が、知的資産の縮小、ひいては文化的な衰退につながりかねない。「貧すれば鈍する」だ。


神田古書会館

神保町にある神田古書会館。ここを拠点とする神保町の古書店組合は、こうして蓄積された和洋を問わず古典書の、言わば書庫的機能を果たしている。書誌データを調査、記録し、その価値を公正に評価し、情報発信し、貴重書が散逸したり、価値の毀損が起こらないよう保全する役割を担っている。また毎週「交換会」と称した加盟店のみが参加する「市」や、誰でも参加できる定期的な古書フェアーを開催して、流通を促し、歴史的遺産たる古書の適正な取引の仕組みを保持している。そうした地道な活動が評価され、世界的な古書市場としての信頼を獲得しているという。

古書市場も「レッセフェール」(資本主義的合理性)に任せていたら、淘汰され消えてゆくユニークな店や、売れなくて廃棄所処分される貴重な古書が出てくる。しかし、一見閉鎖的な「ギルド的」組織が、一定の規律と互助精神を持って歴史的遺産としての古書の価値を守り、流通を促し、伝統を継承し新たな価値創造を推進する。いわばSDGs ,社会変革(Social Innovation)を起こす社会事業(Social Business)の役割を担っているとも考えられる。その中から若手経営者が育ち、さらにオンラインやSNSとの融合で新たな事業モデルを生み出す。古書の持つ新たな価値に光を当てる。「古書は過去の賢人からの未来への預かり物」という古書店主の言葉に重みを感じる。


ある老舗洋古書店の「ビジネスモデル・イノベーション」物語

創業120年の老舗「K書店」は、4代続く神保町を代表する洋書、英文書籍の殿堂である。多くの文人墨客が集い、大学の研究者、学生にとっては憧れの書店であった。この店に出入りすることが知識のアップデートに欠かせない習慣であり、知的なステータスですらあった。戦後、高度経済成長期には店頭での洋古書販売。新刊書販売も併設し全盛時代を迎える。しかし、21世紀、ネット時代に入ると、ご他聞に洩れず大口の注文・納品が減り、さすがの老舗も徐々に書店経営受難の時代の波をかぶることになる。やむえず店舗縮小し古書専業へ。事業承継問題もあり、一時は廃業の危機に。「伝統ある老舗の事業継続」というビジネス・スクールのケーススタディーになりそうな事態であるが、現実の経営の苦労は想像を絶するものであったろう。しかし、ここからが老舗古書店の新たなスタートであったという。

4代目店主は3代目の娘さんで、大学を出て全く家業とは無関係な仕事についていた。しかし、実家の祖業の危機を目の当たりにして、仕事を辞め家業を継ぐことにしたという。古い商慣行や、付き合いが横行する業界での若店主デビューは苦労の連続であったであろう。だが、2代目(祖父)、3代目(父)の背中を見て育った。持ち前のセンスと才覚を発揮し、古書のオンラインショップ・サイトを立ち上げる。さらに「ディスプレー書」の販売と古書を活用した空間デザインコンサルという新基軸を打ち出す。ネット店舗とリアル店舗をうまく融合させた事業モデルを開発していった。古書店のビジネスモデル・イノベーションだ。

この「ディスプレー書」という着想の背景には、売れなくなった古書。すなわち大量の廃棄本の扱いという社会問題があったという。本を捨てるなんて勿体無い!なんとか活かす方法はないか?まさにSDGs発想である。まずデザインの優れた装丁の本をディスプレー用(ホテルや、インテリアショップ、アパレルショップ、レストラン、バーなど)にセット販売。セッティング受託やディスプレー・コーディネーションのコンサルもやる。重厚で整然とした書店内を古書をテーマとした写真撮影の場として提供。SNSで紹介し、オンラインショップで販売した。これが話題となり多くのメディアで取り上げられ注目を浴びる。「カリスマ店主」からの新しい古書生活の提案である。

最初は「本を何と心得るか」とか、「老舗も落魄れたものだ」「邪道の古書販売だ」とか、色々批判が殺到したという。しかし、革新には抵抗がつきもの。伝統と革新とは常にセットである。若い感性と問題意識が洋古書への関心を高め、さらに古典作品への関心、書籍に囲まれた生活への憧れ、といったライフスタイルを広めていった。それにまず反応したのが海外の客というのが興味深い。それだけ日本人の読書離れは深刻なのだろう。実店舗は数年前までは閑散としていたというが、今では連日外国人客で賑わっている。この言わば「神保町現象」が、忘れていた古書の魅力を思い出させ、個人の研究者や愛好家などの、いわば古書マニアが「アマゾンのジャングル」から戻ってきたのだ。かく言う筆者も明らかにその一人である。あのロンドンのダンジョンとは一味違う、「K書店」の端然とした「書の殿堂」にすっかり魅了されている。

4代目店主は、古書店を、近寄りがたい店、敷居が高い店、ではなく、思わず入ってみたくなる店に変えた。それも伝統的な老舗書店の佇まいをそのまま生かして。最近は外国人客の増加に合わせ、Books on Japan in Englishとして、気軽に手に取れる日本関連の英訳ペーパーバック版などの品揃えを充実させている。そして世界中がネットで繋がる時代だからこそ、海外からの注文が舞い込むようになった。遠く離れた海外の会った事もない客との出会いとコミュニケーションを大事にし、新しい書店文化を創造すべく頑張っている。いや、これは思い起こしてみれば、『チャーリングクロス街84番地』の、ロンドンの伝説の古書店「マークス」のフランク・ドエルと、ニューヨークの作家ヘレーヌ・ハンフの交流の物語に描かれている世界ではないか。まさに本を通じた信頼関係、書店文化の原点である。コミュニケーション手段が手紙からネットに替われども、底流にある「本への愛」は変わらない。それを神保町の「K書店」で改めて発見させてもらった。「朋ありて遠方より来たる亦楽しからずや」だ。

最後に、今どきの「世界の神保町」を象徴するようなエピソードをもう一つ紹介したい。アメリカの比較文化学の女性研究者が、数年前から神保町を拠点に、古書店でインターンをしながらフィールドスタディーを続けている。そんな彼女は最近、「神保町の沼」にハマってしまったのか、「古書の大海」に飲み込まれたのか、なんと研究対象の古書店の店主とめでたく結ばれ、神保町の「女将」に収まってしまった。これからは地元に根を生やしたローカルな「本屋の女将」にして、グローバルに発信する研究者として世の中を面白くしてくれるのだろう。やはり、ここでも神保町を活気づけているのは女性のパワーと海外顧客なんだ。そのダイナミズムにワクワクさせられる。



KITAZAWA DISPLAY BOOKS

このディスプレーもオシャレ

今や神保町のランドマーク





老舗「八木書店」

「一誠堂書店」は建物もクラシック

「大久保書店」


「文房堂」書店ではないが

浮世絵・版画といえば「大屋書房」

「三省堂書店」新本店開業

かつて徘徊したロンドン セシル・コート古書店街



本稿を執筆するにあたって、北澤書店の北澤一郎社長、北澤里佳店主に、店内写真掲載許可を含め、多大なるご協力をいただいた。末尾ながら謝意を表したい。

参考:朝日新聞デジタルマガジンの特集記事です。

参考:

84 Charing Cross Road:

ロンドンのMarks Bookshop:マークス書店を舞台にした1986年制作の映画。出演:アンソニー・ホプキンス、アン・バンクロフト

へレーヌ・ハンフ(NYCの作家)、フランク・ドエル(Londonの古書店主)の20年にわたる手紙による交流の物語

日本語文庫本『チャリング・クロス街84番地』へレーン・ハンフ編著、江藤淳訳 中公文庫