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2024年6月10日月曜日

古書をめぐる旅(51)Bushido The Soul of Japan:「武士道」Inazo Nitobe:新渡戸稲造著

 

1900年(明治33年)東京・裳華房(しょうかぼう)より出版
1899年にフィラデルフィアで出版されたものの日本再版



新渡戸稲造は、日本精神を世界に紹介するために、1899年「Bushido The Soul of Japan:武士道」を米国・フィラデルフィアで出版した。その翌年、1900年には日本・東京で英語版で出版した。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」という書き出しで始まるこの本を通して、当時、未開の野蛮国と見られていた日本にも、武士道という優れた精神があることを世界の人々に紹介したもの。その本はやがて、ドイツ語、フランス語、ロシア語など、多くの言語に訳され、新渡戸の名は一躍、世界の知識人に知れ渡った。この頃の日本は日清戦争後、やがて日露戦争を控える時期にあり、その時代背景をもとに西欧列強諸国を強く意識して、日本が野蛮な国でも、文化的に遅れた未開国でもないと主張する著作が次々と英語で表された。岡倉覚三(天心)の「日本の目覚め」(3月のブログで紹介した。2024年3月29日「古書をめぐる旅(48)」「日本の目覚め」岡倉覚三)、「茶の本」、内村鑑三の「典型的日本人」などがそうであり、「日本人の精神とは?」「日本文化とは?」時代を代表する知識人各氏の共通したテーマであった。

特に札幌農学校の同級生でクラーク博士の影響でキリスト教徒となった新渡戸や内村の著作は、多くの欧米の知識人に受け入れられ、アメリカ大統領のルーズベルトも愛読した。異教徒よりも同じキリスト教徒が英語で説く「武士道」は、彼らにとってまず第一段のハードルがクリアーという効果があったのかもしれない。著者にそのような意図があったかどうかはわからないが、この点で岡倉覚三の英文著作で、明治維新を説いた「日本の目覚め」(日本精神の基層にあるのはキリスト教でも、仏教でも、儒教でもない。まして武士道でもない)とは一線を画すものである。西洋諸国の知識人の間では、「文明開花」とは「キリスト教の教化により未開文明から脱することである」という特有の「共通理解」があり、従って異教徒である日本の「文明開花」は単なる西欧技術や制度の模倣に過ぎない。初期の頃の御雇外国人の多くもこうした視点で日本の「文明開花」、すなわち近代化を見ていたきらいがあった。やがて、キリスト教によらずとも文明開化は起きうると考える西欧知識人も出てくるようになる。我々日本人、アジア人(そして異教徒)から見れば、そんなことは自明のことで、「てやんでえ!」と西欧人の歴史認識の欠如と傲慢を指摘するのだが、西欧人の中には近代啓蒙主義的な知識人ですらキリスト教徒であるか否かは「大きな違い」であると認識されていた。東西文明のファーストコンタクトの時代16〜17世紀には、アジア(異教徒)の文明と経済規模の方がヨーロッパ(キリスト教徒)のそれを遥かに凌駕していたことをお忘れか。大航海時代とは、そのアジアの文明と富と知識に群がってきた辺境ヨーロッパ人のムーヴメントであったことをお忘れか、と言いたいが、18〜19世紀のセカンドコンタクト時代には、アジアとヨーロッパの立場が逆転し、アジアは遅れた文明などとみなされるようになる。彼らはファーストコンタクトの時代をすっかり忘れてしまった。その中でいち早くアジアにおいて西欧流近代化に取り組んだ日本の有様をまざまざと観察し、そのキリスト教によらずとも文明は開けるという事実を突きつけられて「文明開花」の固定概念を変えた西欧知識人が現れるようになるのである。少しファーストコンタクトの時代を思い出したか。日本人の外来文明の受容と変容、習合という歴史。従って多神教的な世界観が形成され、そこに息づく精神と力の開花が今起きている。一神教的な世界観からの解放である。キリスト教/近代合理主義視点から日本を分析するチェンバレンを批判したハーン。グリフィスの日本観。古代、中世、近世に遡って日本とヨーロッパの交流史を研究したマードック、サンソム、ボクサーの日本史観にもそれが表れている。

話を戻すと、日本でも「武士道」が邦訳されて発売されるや、たちまちにしてベスト・セラーになった。明治天皇の天覧の栄誉にも輝く。それは「明治維新以後、西洋文明に圧倒されていた日本人に、自分たちにも世界に誇れる高い精神性、道徳性があることを自覚させ、誇りを与えるものだったからだ」と言うのが大方の受け止め方であっただろう。しかし、西洋文明に圧倒されていたという日本人が自覚した「武士道」が日本の精神性と道徳性を語る全てであったのだろうか。西洋人に「なるほど文明開花の鍵は武士道であったか!」「西洋で廃れてしまった騎士道精神が日本では生きているのか!」と民族的尊厳と愛国心をくすぐられると、すぐに「日本は武士道の国である」と元気になる。もう少し冷静になってみるべきではないのか。

日本の「文明開花」すなわち近代化が西欧の模倣であり、またその野蛮な性質が西欧の脅威になりつつあるという主張に対し、日本人の根底にある価値観、倫理観を説き起こし、長い歴史に培われた独自の精神性と道徳性があること。そしてそれが明治維新の原動力であったと説いたのは画期的であるし、こうした自我の目覚めは「一等国への道」をひたすら歩む時代の要請でもあったろう。しかし、「武士道」が日本人の全てを物語るキーワードであるかは疑問なしとはしない。岡倉覚三(天心)は「茶の湯」の精神を日本人が誇るべき文化だと紹介している。花鳥風月を愛でる精神を説く。チェンバレンも新渡戸の「武士道」は日本を正しく表していないと批判的であった。明治維新で600年以上続いた武家政権の時代と武士中心の社会が崩壊したはずなのに、皮肉にも明治以降になって「武士道」が日本人のアイデンティティーだとする理解が広まる。それを海外にも喧伝し、その反射効果として国内的にもその精神を自覚させる。新渡戸の著作はこれに拍車をかけた。これはどうしたことなのか。武家時代へのノスタルジアなのか。武士階級に虐げられてきた庶民にまで「武士道」「尚武」を教え、「富国強兵」「国民皆兵」「忠君愛国」の根底をなす日本民族の基本精神であるかのように教えられてきた。武士道精神が、パッと咲いてサッと散る桜の花に象徴される自己犠牲、滅私奉公、死ぬことを厭わない猛々しいものだけでないことは理解するが、日本の精神文化にはもっと平和でおおらかな要素もある。万葉集を紐解けば、武士道とは異なる精神文化の地平がひらけているではないか。また武士道の根底をなす仏教的な悟り・死生観、儒教的な倫理・秩序観によらない異なった倫理観もある。しかし、今でも日本人は勇ましいサムライの物語が大好きである。現代でもNHK大河ドラマの主人公は戦国時代の英雄か幕末維新の英雄とほぼ決まっている。どれもサムライが主人公である。今年のように平安時代の紫式部が主人公になるということは初めてのことだ。戦国もの、幕末維新ものもネタ切れなのか。そろそろ司馬遼太郎史観の賞味期限切れかもしれない。平安時代でなくともそれを遡る古代における日本人の精神とはどのようなものであったのか。サムライでない人々の精神性や道徳観がどのようなものであったのか。維新から戦前に教えられた皇国史観に基づく「八紘一宇」「大和魂」などとは異なる、あるいは、その源流ともいうべき江戸時代の国学ブーム、尊王思想のような流れとも異なる、はるか有史以前に遡る日本人の自然の一部として暮らしてきた記憶をもっと呼び覚ましてみるべきではないのか。その上での外来文明の受容と変容の歴史。日本人の多神教的世界観や精神構造を振り返ってみるのはいかがだろうか。これは日本人と他民族を比較し、民族の優越性とやらを論ずるための考察ではない。日本人はどこから来てどこへ行くのか?気がつくと混迷と停頓の時代に立っている日本の行く末を考える、その答えの一部も見えてくるのではないかと思うが。


新渡戸稲造 1862年(文久2年)〜1933年(昭和8年)略歴

1862年(文久2年)盛岡藩士の三男として生まれる

1875年(明治8年)東京英学校(大学予備門)

1877年(明治10年)開拓使農学校(札幌農学校)

1881年(明治14年)卒業 開拓使御用掛

1884年(明治17年)米国ジョンズ・ホプキンス大学留学

1887年(明治20年)札幌農学校助教授 ボン大学、ベルリン大学留学

1891年(明治24年)札幌農学校教授

1900年(明治33年)「Bushido」出版 1899年米国フィラデルフィアで出版

1901年(明治34年)台湾総督府殖産局長

1903年(明治36年)京都帝国大学法科教授 兼東京帝国大学教授(殖民政策)

1906年(明治39年)第一高等学校校長

1918年(大正7年)東京女子大学学長

1920年(大正9年)国際連盟事務局次長

1933年(昭和8年)カナダ・ヴィクトリアにて客死





本書に掲載されている肖像

皇紀2500年、西暦1900年






2024年6月1日土曜日

Leica SLシリーズの第三世代、SL3がやってきた!


Leica SL3 (Leica Japan HPより)


Leica SLシリーズの第三世代カメラ、SL3が3月に発売になり、本日ようやく手元に届いた。3月8日予約受付日一番で予約。発売日は3月16日。しかし結局2ヶ月以上待たされ5月28日入荷連絡。手元にある愛機、SL2とSL2-S2台を下取りに出し、6月1日配送ということにあいなった。ちなみに前回は予約一番でゲットできた。SL2の発売が2019年11月23日だから4年半ぶりの改良モデル登場だ。初代は2015年11月の発売だから、以来8年半経っている。前評判ではSL2と比べてそれほど大きな進化はないのでは?とか、あえて買い換える意義はあるか?とか言われていたが、実際どうなのか。入手当日の開封ホットレポートだ。


SL2から何が変わったか?

1)6030万画素フルサイズ裏面照射型CMOSセンサー M11, Q3と同じ(SL2は4730万画素)

2)トリプルレゾルーション(6000万、3600万、1800万)要するに3つの解像度を選べる これもM11, Q3と同様

3)AFは、位相差検出方式が新たに加わり、物体認識(デプスマップ)、コントラスト検出の3方式のハイブリッドに

4)画像エンジンはMaestro IVに高速化(SL2はIII)

5)ハイブリッドシャッター、5軸手ぶれ補正は変わらず

6)従来よりもコンパクト(3mm短く)、軽量(70g減量)に!? 

7)ユーザインターフェースを改善 軍艦部左に新たにダイアルが追加 ダイアル、ボタンへの機能割り付けメニューのカスタマイズができる

8)3.2インチのタッチセンサー背面モニターがチルト式に

9)CF Express Type B採用 + SD UHS-IIメモリーカードとの2スロット

10)WiFi, Bluetooth 安定した高速ワイヤレス Apple製品との親和性を意識したアプリ

11)イルミネートされた電源ボタン 電源オン/オフのレスポンスが改善されクイックスタートができるようになった。また電源オフであっても、シャッターボタンを押すと直ちに撮影モードになる

12)バッテリーがQ3と同じ大容量(BP-SCL6)に変更(USB-C充電可能)


一見するとSL2とそれほど大きく違うカメラになったという感じではない。ライカ社は、「小型軽量化された」とアナウンスしているが、その差は僅か(3mmと70g)で、外観上も手に取ったズッシリ感もほぼ変わりない。Q3と同様、SLシリーズに液晶チルトスクリーンが初登場だが、個人的には使わなのであまり感動していない。ただし電源ボタンがプッシュ式になり、オン/オフのレスポンスが大幅に改善された。さらに電源オフからシャッターボタン押しでオンになり、即起動し撮影に移れるようになった。これはストリートフォトには有利だ。さはさりながら要は6030万画素センサーと新たな画像エンジン、より正確なAFという3点が大きなスペック上の進化点で、それ以外特に目新しい技術や機能は見当たらない。しかし、デジタルカメラとしてレスポンスが良くなり(高画素機であるにも関わらず)テンポよく撮影できるようになったことは大きな改良点だ。また、ネット環境との接続性能も改善され、取り回しがより快適になった。換言すればIOT製品として成熟したということだ。その分電力消費量が増えたのか、大容量バッテリーにも関わらず減りが早いようにか感じる。まあ、かつて電気式露出計を入れただけで「弁当に生物を入れるな」と怒りをあらわにする保守的なライカ使い手が幅を利かせていた世界だ。デジタル化なんてとんでもない罰当たりな所業であったことだろう。そうした往年のライカ・デジカメ時代(スロー、バグ多し、電気不安定)を知っている身には脅威の進歩だ。もはやデジタル化を逡巡している時代ではない。手に取った感じも「ライカ開封の儀、その時の驚き!」といった感動は少ない。が、違和感なくすぐに撮影に取りかかれる。お道具感が手に馴染んで来た証拠だろう。SL3の発売のアナウンスがあった後も、SNSやYouTubeでそれほどセンセーショナルに取り上げられることはなかったように感じたのはそうした成熟度の表れなのかもしれない。

それにしてもSL3もM11, Q3と同様6000万画素の高画素機になった。ハッセルブラッドの1億画素に比べれば、という話はあるが、カメラの処理能力が飛躍的に進み、吐き出すデータ量が半端でない時代に入ると、ますますポスプロに使うパソコンやスマホ/タブレットの処理性能の向上も計らねばならない。ちなみに、最近Lightroomの消しゴム機能がAI化され、Photoshopに頼らずとも不要な写り込みをきれいに取り除くことができるようになった。ますますどれがオリジナルな写真か分からなくなってしまうが、この機能を使うにしてもファイルサイズが大きくなるにつれ処理時間が長くなる。読み込みにも、処理にも、書き出しにも、CPU、メモリーにかかる負荷はどんどん増える。ブログへの写真アップロードにも時間がかかるし、インスタグラムの場合はファイルサイズを落とさないとアップロード拒否されてしまう。バックアップのSSDの容量もすぐにいっぱいになってしまう。高画素化、高速処理の進化速度は速い!フィルムカメラに比べてデジタルカメラは経済的(高価なフィルムを買わなくて良い!)だと思っていたのは昔の話だ。今やカメラだけでなくメモリー、ストレージ、回線などデジタル化への投資額は増える一方だ。


Leica SL2発売時のブログは、2019年11月27日「Leica SL2」を参照あれ。



コンパクトボディーで幅がSL2より3mm短くなった!というが...

カードはCF+SDの2スロットに

背面は右に寄せられた3つボタン、電源ボタンとシンプル


チルト式タッチセンサースクリーンに

左にも新たなホイールが


以上の写真はライカ・ジャパンのウェッブサイトからの引用



背面の構成
一番印象的なのは左肩の丸い電源ボタンかもしれない。
LEDが幻想的であるし、電源のオン/オフのレスポンスが速い!
ストリートフォトでもすぐに撮影に入れる



作例:Leica SL3 + Apo-Summicron-SL 50mm/2 
















2024年5月21日火曜日

不干斎ハビアンとは何者か? 〜信仰か理性か? 棄教者か近代比較宗教学の祖か?〜

不干斎ハビアン「破提宇子」(はでうす)
東洋文庫ミュージアム「キリスト教交流史」展示


昔男ありき。不干斎ハビアン(梅庵、あるいは慧春/恵俊)という。キリシタン布教全盛の時代に、大徳寺の禅僧であったが、キリシタンに改宗しイエズス会に入会。洗礼名はハビアン。高槻のセミナリオ、臼杵のノビシャド、加津佐のコレジオで研鑽を積んで日本人修道士(イルマン)となり、イエズス会の理論的主柱として活躍した人物である。1565年(永禄8年)加賀の生まれ。室町幕府の終焉の時期、織田信長の時代である。1603年(慶長8年)京都下京の教会に赴任。1605年(慶長10年)京都でキリシタン布教の書「妙貞問答」執筆。しかし 1608年(慶長13年)突如、修道女とともに出奔。イエズス会脱会、棄教。その後、大阪や奈良、博多に潜伏していたようだが、晩年は禁教の側のイデオローグとして活動する。1619年(元和5年)江戸に下向し二代将軍秀忠に謁見。1620年(元和6年)長崎奉行長谷川権六の勧めでキリシタン批判の「破提宇子」(はでうす)を出す。その翌年の1621年(元和7年)長崎に没す。

彼はまず、キリシタン布教と護教のために「妙貞問答」を著し、仏教、儒教、神道を痛烈に批判する。しかし一転、棄教後の晩年には「破提宇子」を著し、キリシタンを徹底して批判する。「神も仏も捨てた宗教者。世界に先駆けて東西の宗教を相対化して解体してみせた人物」(釈徹宗)などと評されるが、しかしてその実像は?彼の著作は何を語っているのか?


「妙貞問答」の論点

仏教批判、儒教批判、神道批判を展開しキリシタン信仰の正当性を論じた書である。妙秀と幽貞という二人の尼僧が問答する形態(幽貞がキリシタンで、仏教徒の妙秀の問いに答える)で論議が進められ、上巻で仏教を批判し、中巻で儒教/道教と神道を批判、下巻でキリシタン教理の正しさを説く。イエズス会からは重要な布教書として取り上げられ、ハビアンは日本における布教の理論的支柱として重視された。ハビアン自身も執筆に参画したと言われるヴァリニャーノの教義書「日本のカテキズモ」、また翻訳に参加したのではと想定される教義書の原典「どちりな・きりしたん」がベースになっていると考えられている(海老沢有道説)。本書に関して林羅山とも論争し、「この書を焼き捨てよ」と言われた。その論点を要約すると、

仏教:あらゆる存在や現象には実体がない。すなわち全ては「無」・「空」に帰する。ゆえに仏教に「来世の救済」はない。「来世」「極楽浄土」はなく、あるのは現世のみ。現世において悟りを得て輪廻の迷いから離脱することだ。全ての存在は人間の心が生み出したものである。仏も人間も本質は同じである。釈迦も阿弥陀仏も人間であって神ではない。従って仏教は絶対創造主の存在を語っていない。
問答の中で、「仏教には、現世で功徳を積む、あるいはただ一心に「南無阿弥陀仏」と唱えることで極楽浄土へ行ける、阿弥陀仏がお迎えに来てくれる、という「来世の救済」があるではないか」と、浄土宗の信徒である妙秀に反論させている。しかし幽貞は「それは誤りで、行き着くところは「無」であり、来世はない」と断ずる(釈徹宗は、ハビアンの仏教観は天台、真言、そして禅宗に偏っていて、浄土宗や浄土真宗を端折りすぎているようだとコメント)(仏教の極楽浄土について、阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩 当麻曼荼羅(イメージの力)「往生要集」源信 法然「南無阿弥陀仏」(言葉の力)菩薩面(お練り供養)

儒教:神を語らず現世の倫理、人の道を語るだけで来世の救済はない。「太極と陰陽」の考えは、万物は人の心の動きに他ならず、人間の心が生み出したものであるとする。この点で仏教と変わらない。これは道教も同じ(三教一致)である。しかし創造主の存在を語らないで天地の成り立ちの説明はつかないとする。一方で朱子学の説く「事と理と性と気」による徳の考えはキリシタンと通じると評価。

神道:天地創造を説いていない。すなわち天地はすでにあってそこから神が生まれ出てきた。人間の夫婦の性行為をアナロジーにした創世神話。この神々は人間の欲望の姿をしている。天照は太陽/日輪の素朴な自然信仰であり神ではない。したがって教えもなく来世の救済もない。 アジア/アフリカの未開の神々の物語と同様、「あり得なく汚らわしく滑稽である」。(キリスト教布教集団が伝統的に持つ根強い未開神話観の影響を受けている)。また、日本独自と言っているが日本書紀に描かれる神話ストーリーも儒教の影響を受けているとする。

キリシタン:日本の宗教には「絶対」という観念が存在せず全てが相対的である。「来世」「救済」について一神教のようなすっきりとした説明がない。しかも 仏教、儒教、神道「三教一致」と言っており、どれも創造主の存在を語っていない。したがって真の救いは、唯一絶対神、天地の創造主デウスのもとにあるキリシタンの教えにしかないと結論付ける。


「破提宇子」の論点

キリシタン批判書として書かれ、イエズス会からは「地獄のペスト」として忌み嫌われる。キリシタン禁教政策を進めた長崎奉行長谷川権六に協力、彼の勧めで著したとされる。日本の宗教の実情とキリシタンの実情を理解するハビアンだからこそ書けるとして、彼は布教から一転して禁教の理論的支柱となった。その論点を要約すると、

キリシタン批判のベースにあるのは「絶対」という傲慢への反感、いわば絶対の相対化である。 天地創造神話はキリシタンに特有のものではない。どの宗教でも語られている。
デウスを唯一絶対神と言いながら「三位一体(父:デウスと子:キリストと精霊)」でなければ救済を語れないではないか。(これはキリスト教に内包する矛盾であると言われている。「三位一体」を日本の布教では強調しなかったのは、その矛盾を避けるためであるとされる)
キリシタンにおいても神は人間の投影である。イエス・キリストも人間夫婦から生まれた。聖パウロなど聖人も全て人間であり神ではない(これはイスラム教徒からも預言者を神として扱っていると批判されている)(「神は人間を造りたもうた。そしてその神は人間が造った」)。
キリシタンは仏教の「無」について正しく理解していない。仏の「無知無徳」こそが真実である。デウスの「諸善万徳」には、憎しみと愛の選択という人間の性が常に伴う。すなわちデウスは人間が作り出した神である。(19世紀の思想家フォィエルバッハは「神は人間の投影である」と「キリスト教の本質」1841年で論じたが、ハビアンはその220年前にすでに同じ結論に至っている)
「人間は他の生物とは起源を異にする別の生命体である」「人間は神が自分の姿に似せて造った」というキリスト教の人間観、生命観を批判し、「万物は事(現象)と理(本体)によって成立している」。それ以外の言説は人を惑わすだけであるとする。(仏教と朱子学、日本古来のアニミズムを習合した考えに立った人間観を提示している)
また、聖書の、人類の起源に関するストーリの矛盾を指摘し疑念を提示した。すなわち、なぜ人間はリンゴ(アマボシ)を食べただけで罪(原罪)を負わされ極楽を追われたのか。なぜ創造主デウスは自分が生み出したアダムとイヴを救済しなかったのか。しかも二人を騙したのは堕天使/悪魔ルシファーだという。デウスはなぜそのような悪魔を生み出したのか。全知全能の神デウスの救済は、天地開闢以来5000年、キリストの出現、復活から1600年と、6600年も経っているのに、なぜいまだに人間に届いていないのか。(書いてあることは論理矛盾だ!と)

最後に、唯一絶対神という思想は、君子や家父長の言うことを聞かないということで、日本の社会秩序を乱し、キリシタンは異教徒の国を滅ぼし征服するための宗教である(この辺りの言説は、この書を書かせた長谷川権六による示唆の影響か?)


ハビアンは変節の棄教者なのか

本人が自覚していたか否かは別として、彼の宗教観は、宗教者の「信仰」によるそれではなく、「理性」による合理的理解によるものであると感じる。そういう観点から、この二冊の著作に表された各宗教批判は、世界で初めて著された「東西宗教の比較宗教論」であるといえよう。

ハビアンは元々禅宗(臨済宗)の修行僧であり、瞑想、公案のトレーニングを受けてディベートと比較手法を身につけ、すべてを相対化する指向性を身につけていた。一方でキリスト教の絶対なる中軸を学び、同時にキリシタン布教と共に入ってきた西洋文明の最新の科学的知見(大航海時代的な世界観)、合理的思考を学んだことから、仏教、儒教、神道を俯瞰し、批判的に分析する「外部の視点」を獲得することが出来た。この「外部の視点」の獲得は重要で、彼の思考の基層にあるものである。しかし、皮肉なことにその視点、合理的思考法は、今度はキリスト教に向けられることになり、その教義が批判的に分析され解釈されることとなる。「妙貞問答」で用いたロジックを「破提宇子」で写し鏡のように用いている。その過程でキリシタン教義の矛盾や誤りに気付き、そうした、いわば比較宗教学的アプローチが、先に批判した仏教教義の新たな側面の発見と理解につながる。結局、彼は「宗教の本質」に気づき、また「絶対」を「相対」化して分析、比較評価することにより「宗教とは何か」を論じたのである。彼は、そういう意味で世界でも最初の近代合理主義思想家であったのではないか。今から400年前、ヨーロッパにおける啓蒙主義時代の始まりより100年以上前に出現した「早すぎる近代合理主義者」であったと言えるかも知れない。

宗教とは、世俗世界の外側を提示することによって「世俗を相対化」するものである。創造神、来世、前世、彼岸、霊界などの観念はその典型である。世俗世界と異なる価値体系を持つからこそ人は宗教に救済を求める。生と死の意味づけがなされる。来世をどのようなものと語るかは宗教の生命線である。したがってハビアンは来世をよく語らない宗教は宗教ではないし、救済がなければ信仰の対象とならないと考えた。とても論理的で、ある意味で合理的な宗教観である。この時代、仏教僧からキリシタンに改宗したり、またキリシタンを棄教するものも多く出た。その全員がこのような宗教の持つ世俗観、来世観への共感、あるいは反発により信仰したりそれを捨てたのかどうかはわからない。知識欲、交易動機であったり、一方で食い詰めてキリシタンになったり、権力者に強いられて棄教したり、宗教遍歴の動機はさまざまであったろう。ハビアンの場合も棄教の動機はいまだによくわからない。まだキリシタン禁教令が厳しくなる前であるので権力による棄教圧力はなかったであろう。修道女との出奔が原因であったとする説もあるが、スキャンダラスで飛びつきたくなるゴシップ話であるが、その後のハビアンのイエズス会への手紙(質問状)で、そのような事情は語られず、教義に関して深刻な疑問を感じたことが述べられており、それが原因だと思われる。また日本で布教活動に携わるパードレやイルマンへの疑心や、日本人信者に対する彼らの見方への不満があった節もある。ハビアン自身イエズス会で布教活動に重要な役割を果たしたにもかかわらず、パードレにはなれなかった。棄教後も洗礼名ハビアンを名乗り「破提宇子」を執筆しているので、イエズス会を脱会したが棄教はしていない、とする解釈もあるがこれはありえない。どのような事情があったとしても、少なくとも彼の二つの著作から読み取る限りは、彼の宗教に対する合理的理解(来世と救済の説明の合理性)から生まれた根源的な懐疑が、彼の棄教に大きな影響を与えたのだろう。信仰でなく合理的理解。この点で遠藤周作の「沈黙」で描かれたフェレイラ神父と彼を慕って日本にやってきたロドリゴの「信仰と棄教」という究極の葛藤とは異なる。遠藤周作のハビアン評価が低いのはそのせいか。

彼の「宗教に対する合理的理解」は、神話や聖書のストーリーの矛盾、非合理性を指摘する分析、評価手法、論旨に端的に現れる。理路整然としていて分かりやすい。今でもカルト的な宗教や霊能者の予言とやらを論破するときによく用いられるロジックである。これは信仰によるものではなく理性によるものである。先述の聖書におけるストーリーの論理矛盾の指摘などがそうである。あるいは日本書紀に描かれる神代のエピソードなども論理矛盾が多い。しかし信仰とはそのような矛盾なき論理的帰結によるものではない。非合理的なもの、超自然的なものこそ信じるのである。でなければ「奇跡」が信仰への導きになることはないだろう。彼は結局、信仰を持った宗教者というより、近代的科学としての比較宗教学の視点を習得した宗教者であった。いや最後には宗教者であることを捨てたのかもしれない。本人はそのような自覚はなかったかも知れないが、現代人の目にはそのように見える。また日本の宗教は、さまざまな外来宗教、思想を受容し、あらゆる信仰を相対化して取り入れ、咀嚼する(変容と言って良いか)「習合型」多神教の性格が強い。唯一絶対神の一神教のような宗教とは異なる。かつて「日本教」を唱えた山本七平は、ハビアンにその日本型多神教の祖型を見たと言っている。これに対し、釈徹宗は、ハビアンには日本の宗教の祖霊信仰という側面が欠けている。山本七平の「日本教」も同様であると批判している。ここまで見てきてなお謎多き人物であるが、それでも日本の思想史に画期を成した稀有な知性を持った知識人であったと言えるのかも知れない。少なくとも、キリシタン布教に大きな貢献をした日本人イルマンにして、晩節にキリシタン禁教側に回った変節の棄教者、などとして片付けるのは正しい評価ではない。

キリシタンの日本布教にあたって用いられた教義書や教養書については、2023年11月5日 キリシタン版「コンテムツス・ムンヂ」を参照願いたい。「カテキズモ」にも「どちりな・きりしたん」にも、今思えばそこにハビアンの姿が見え隠れする。彼の日本におけるイエズス会の布教活動への貢献は非常に大きかった。それだけに彼の棄教は衝撃的であった。それは単にキリシタン布教活動にとってだけではなく、神とは何か、宗教とは何かの問題を突きつけたという意味においても衝撃的であった。

注:「デウス」はラテン語のDeusを語源とし、父性を持った唯一絶対神を表す。キリシタン布教時にはその唯一絶対神を日本語の「神」と訳さずに「デウス」と訳した。布教当初には、日本人に理解しやすくするために、仏教的唯一絶対神の名を借り、大日如来の「大日」と訳した。ゆえに仏教僧侶や庶民からはキリシタンは仏教の一派だと誤解された。これはザビエルに付き従った日本人イルマンのヤジロウの間違った仏教理解(大日如来は唯一絶対神ではない)に基づく訳語で、のちに訂正された。


参考書:

釈撤宗「不干斎ハビアン 神も仏も棄てた宗教者」
遠藤周作「日本の沼の中で 殉教と棄教の歴史」「沈黙」
山本七平「日本人とは何か」「日本教徒」





東洋文庫ミュージアム展示
1868年(明治元年)刊行の復刻版である
まだキリスト教への警戒心があった時期の復刻である


東洋文庫ミュージアム展示
1592年刊行「どちりな・きりしたん」天草版


1600年刊行「どちりな・きりしたん」長崎本
ハビアンの著作の底本と考えられる



2024年5月11日土曜日

古書をめぐる旅(50)' The Tale of Genji ' Lady Murasaki :紫式部「源氏物語」アーサー・ウェイリー英訳版

Lady Murasaki The Tale of Genji

Arthur Waley (1889-1966)


今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の影響か、源氏物語がちょっとしたブームになっているようだ。テレビの歴史番組、旅番組や、ラジオの教養講座、SNS、ネット/リアル書店の古典、歴史コーナーには、源氏物語や紫式部、平安時代をテーマにしたものがずらりと並んでいる。歴史ドラマといえば、サムライ、武士が出てくる戦国時代、天下統一、幕末維新ものが多くて、平安貴族が主役の物語はあまり見かけない。なんとなく日本人の歴史観の基層に、武士=カッコ良い、英雄、忠義、高潔な精神。一方、公家=みやび、軟弱、有職故実、もののけに恐れ慄く、恋愛にうつつを抜かすという捉え方がされてきた。日本史を振り返ってみれば、12世紀の武士の台頭から19世紀の大政奉還、明治維新まで、700年以上にわたって日本では武家中心の時代が続いた。軍事部門のトップ、征夷大将軍が統治権力を持ち続けた、いわば軍事政権の時代であったといっても良い。明治維新以降も、王政復古で武家政権が崩壊し、幕藩体制、武士制度は廃止されたにもかかわらず、富国強兵、国民皆兵が叫ばれる中、今度は庶民にまで武士道精神を叩き込み、忠君愛国、お国のために死ぬことを教えてきた歴史がある。平安時代などの、ある意味戦乱のない平和な時代(汚れ仕事に携わらない支配階層だけなのだが)は国民を鼓舞する小説にも歴史物ドラマにもならない。そんな暗黙了知の中、源氏物語が注目を浴びることとなったのは偶然だろうか。大河ドラマも、戦国もの、幕末維新ものはネタ切れ感があるのか。司馬遼太郎史観にも飽きたのか。侵略戦争が常態化しつつある21世紀の世界へのアンチテーゼなのか。

紫式部「源氏物語」を今から100年前に英語に翻訳して世界に知らしめたイギリス人がいた。それは「The Tale of Genji Lady Murasaki」として発表され、1000年前(当時は900年前)の日本に登場した世界最古の女流作家による文学作品である。しかも現代にあっても長編小説として多くの人々から愛される物語、世界の奇跡などと評され世界中で重版、各国語の翻訳が出た。イギリスでは発表当時、シェークスピア、ジェーン・オースティンにも匹敵すると評された。時代はちょうど第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期である。

彼はアーサー・ウェイリー:Arthur Waley。東洋文学の研究者で翻訳家、詩人である。1889年、イギリス・ケント州タンブリッジウェルズの中流家庭に生まれた。成績優秀で名門ラグビー校、ケンブリッジ大学キングスカレッジへと進学し、ギリシア語、ラテン語など古典語を学んだ。しかし、視力低下に襲われ学業継続が困難になり1910年に中退。1913年に大英博物館の東洋部門の学芸員に採用された。彼の履歴書によると、語学はフランス語、イタリア語など主な欧州言語は流暢に喋ることができ、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語、サンスクリット語を読むことができるとあった。たぐいまれな語学力があったことがわかる。大英博物館では東洋の美術や書籍、書画を担当したため、中国語、日本語、モンゴル語、アイヌ語を学ぶ必要があり独学で学び始めた。のちにロンドン大学東洋学院:The School of Oriental Studyでそれらを本格的に学んだ。また当時ロンドン留学中であった日本人の八木秀次(あの八木アンテナの創業者)にも日本語を学んだという。1929年には大英博物館を退職し、その後、第二次大戦中は英国情報部の日本語検閲担当として4年間勤務した。この間に源氏物語の英訳に取り組み出版している。しかし、彼の研究と作品成果は、大学や、研究機関に籍をおく研究者、翻訳家としてのそれではなく、むしろ自由人として東洋文学に魅了され研究、翻訳に取り組んだ結果と言える。ロンドンの文化人・芸術家のサロン、ブルームズベリーグループに属していたが、いわば孤高の人であった。

最初に源氏物語に出会ったのは、大英博物館で見た絵巻の一枚、光源氏の須磨の場面であったという。その絵と和歌に魅了されて源氏物語を日本から取り寄せて読み始めた。そして読むだけではなくその翻訳を試みた。日本の古典語は語彙も少なく、文法も簡単なので数ヶ月もあれば読めるようになると豪語している。とはいえ辞書もなく、参考文献もない翻訳作業は孤独な仕事で、その完成は至難の業であったろうことは想像に難くない。そのハードワークを励ましてくれたのは夢に出てくる紫式部:Lady Murasakiであったと回想している。「あなたが翻訳を諦めたら、私の物語を世界に紹介する人がいなくなってしまう」と訴えられたと。1925年から1巻ずつ「桐壺」から順次翻訳を開始し、毎年1巻ずつ出版した。出版はロンドンの著名な出版人ジョージ・アレン&アンウィン:George Allen & Unwinである。1933年に第6巻を翻訳し終えて完結した。その間に清少納言の枕草子の抄訳:The Pillow-Book  of Sei-Shonagonにも取り組み完成させた。1935年には6巻合冊版が出版された。本書がそれである。翻訳にあたっては、江戸時代1673年(延宝元年)に著された源氏物語の注釈書「湖月抄」(北村季吟)を参照した。今でも源氏物語を読み進めるときに重用される注釈書である。これを読み解くことも大きなハードルであったはずであるが、驚異的な語学脳で「湖月抄」の注釈を読みながら、8年かけて源氏物語完訳を果たした。彼の翻訳は語学的にも正確であるが、説明的ではなく、文学的にも洗練された魅力あるものである。英文学作品としても批評家や読者から高い評価を得られている。元々英語の読者を相手に書かれたので、イギリスやアメリカで多くの愛読者を得て居ることは不思議ではないが、フランス語、ドイツ語などに重訳され読者が広まっていったほか、後述のように日本でもその英訳本に魅了される人々が現れる。

ウェイリーは、このように源氏物語や枕草子、また能や謡曲の英訳に取り組み、世界に日本の古典文学作品の魅力を広めたことで、日本人は彼を、日本びいきの日本研究者、ジャパノロジストと捉えがちである。しかし彼の仕事は日本の古典作品に限らず、論語、詩經、西遊記、陶淵明、李白、白楽天など中国古典にも及び、むしろ日本古典の翻訳は彼の全仕事の5分の1程度であった。東洋の文学に興味を持ったのも中国の詩に触れたことであったと言っている。中国から入り、その延長で日本を研究することになる。イギリスでありがちなパターンだ。

また彼は現代日本語はほぼ喋れなかったし、生涯一度も日本や中国を訪れたことはなかった。戦後、1959年に勲三等瑞宝章の叙勲があった時にも来日しなかった。これは、彼が日本の古典文学を通じて抱いている世界と現実の日本の姿の差異に幻滅したくなかったからだ、と説明する評論家もいるが、一方で、単に長い旅が嫌いだっただけだという人もいる。またイギリスでもナイトの称号、勲章を受けたが、ほとんど前向きな反応を示さなかったと言われ、そのような栄誉に関心がなかったようだ。こうしたマルチリンガルな言語脳を持った天才的な人物が、西欧には時々現れる。全く未知の言語の解読に魅入られ、それを母国語である英語で魅力的に表現する。いや彼自身が入念に選んだ言葉と研ぎ澄まされた感性で表現する。彼が日本や中国の古典に取り組んだのは、そうした言語へのパッションからであった。日本人が期待する「日本大好きだから日本語勉強しました」ではない。

それでも日本では、彼をジャパノロジストの一人とみなしているが、もしそうだとしても明治の御雇外国人教師、バジル・ホール・チェンバレンの書斎学派的なジャパノロジスト(「古事記」の翻訳、「日本事物誌」などの著作がある)、日本に永住したラフカディオ・ハーンのようなジャパノロジスト(「怪談」などの民話の英訳を多く出した)と比較すると、どちらの類型にも当てはまらない。チェンバレンが「神の愛と赦し」を得たキリスト教徒の目で、異教徒の国、日本を研究の客体として捉えたのに対し、ハーンは、むしろキリスト教に違和感を抱き日本人の基層に存する精霊信仰に共感し、ケルト精神と自己同体化したのとも異なる。そもそも日本に来たことがないウェイリーは、キリスト教徒vs異教徒という二項対立とも無縁で、純粋に難解な言語解読とその体験から生まれる詩の世界を再創造することに大いなる魅力を感じ没頭した詩人であった。

彼の翻訳の考え方には独特のものがあったと言われる。すなわち、翻訳とは、単に他言語で書かれた文章をその通りに移し替えて訳するのではなく、一旦、その文章表現を解体:dismantleした上で、再構築:re-creationすることであると言っている。例えば、源氏物語に通底する「もののあはれ」というモチーフ。すなわち「あはれ」という言葉が幾度も出てくるが、ウェイリーは、これを「心が動かされる様子」と捉え、感動したり、悲しんだり、呆れたり、嬉しかったり、その場面場面に応じた異なる訳語を与えている。翻訳では「原作の思想は生き残るが言語は残らない」。解体されたオリジナル言語を、再構築された翻訳の中に読み取る作業を翻訳者と読者はしなくてはならない。それが彼の考える翻訳である。また、彼は東洋の古典を何でも翻訳するのではなく、独自の選定基準があったようだ。それは「翻訳に値する質を持っているか」ということもあるが、むしろ英語にしやすい作品を選んだ。曖昧な表現や、英語で解釈できない表現、理解困難な例えなどは避けた。枕草子翻訳が4分の1の抄訳である理由もそうした取捨選択の結果であったという。源氏物語も「鈴虫の帖」を省略している。その理由は述べていないが、こうした選定基準に合致しなかったのだろう。しかし、彼の英訳版源氏物語は、彼自身が持つ詩人の才能と感性に基づいた翻訳で、「千年前の日本の古典もまるで昨日書かれた英文学作品のようだ」と文芸書評に書かれている。この批評は的を得ているだろう。また20世紀イギリスを代表する作家でブルームズベリーグループのメンバーであったヴァージニア・ウルフも紫式部の「源氏物語」とウェイリーの英訳を絶賛している。彼の翻訳は正確であったが、文章は詩的で華麗である。英文学作品として読んでも魅力的である。紫式部が和歌の名手で、物語の練った表現に多くの和歌を用い、直接的な描写を避けて華麗で幽けき表現にしているところに共鳴できたからかもしれない。一方の清少納言の作品は、「ためず」に思いついたままを書き綴った随筆である点が彼には魅力が薄かったのかもしれない。

日本でも、彼の英訳源氏物語を読んだ正宗白鳥が、元の源氏物語はぬらぬらした退屈な文章の羅列だが、彼の翻訳を読んで、ようやくその面白さがわかった。まるで朧月夜から太陽の下に引き出されたようであると評している。これに対して、ウェイリー英訳と同じ年の1933年に、初めての現代語訳源氏物語を刊行した与謝野晶子は、彼の英訳は英語作品としては評価するが、紫式部の言語の美を理解しない賞賛は意味がないと批判している。与謝野晶子は日本人として初めて源氏物語を現代日本語で甦らせたという自負もあったに違いない。と同時にウェイリーのThe Tale of Genjiはもはや彼自身の英文学作品なのだと認めた。

晩年のウェイリーは東洋の古典研究から離れ、西欧の古典に回帰しようとした気配がある。1948年、ケンブリッジに留学してきたアメリカの新進気鋭の日本文学研究者、ドナルド・キーン:Donald Keeneによれば、まずケンブリッジで憧れのウェイリーに教えを乞うために手紙を書いたが返事がなかった。この頃のウェイリーは東洋研究者とみなされることにうんざりしていたのかもしれない。しかし、ある日突然、ケンブリッジのキーンの学寮をウェイリーが訪ねて来た。キーンは部屋でワグナーの「ニーベルンゲンの指輪」を聞いていたという。ウェイリーはのちに知人に「キーンという男は日本の古典を勉強したいと言っているくせにワグナーに魅了される変人だ」と評していたという。やがて30歳の年齢差と距離感が縮まって二人は友人となり、キーンの生涯に大きな影響を与えた。そもそもキーンが日本文学研究を志すきっかけとなったのは、学生時代、1940年にニューヨーク・タイムススクエアーの古本屋で手に入れたウェイリー訳の源氏物語のぞっき本(ジャンクボックスに放り込まれていた)であったという。厚いのに安かったからお得だと思って買ったと言っている。しかし、そこに描かれている物語の世界は、戦争や暴力ではなく、愛が中心であると。ちょうど第二次世界大戦が始まった年である。キーンは、富国強兵の成れの果てに世界を相手に戦争を起こした日本にも、こんな愛の世界が存在するということを確かに読み取った。ウェイリーはまたエドワード・サイデンステッカーにも影響を与え、1976年にはウェイリーに続く第二の源氏物語英訳を出した。ウェイリーは生涯一度も日本に来たことはなかったが、サイデンステッカーとキーンは、二人とも日本に永住あるいは帰化し、日本の土になった。

なお、ウェイリーの再訳版として、佐復秀樹訳(2008−2009年)、毬矢まりえ/森山恵訳(2017−2019年)がある。また、NHKラジオ「日曜カルチャー」で連続放送中の「源氏物語 英訳本を再和訳してわかったこと」で毬矢まりえ氏がこのウェイリー版について解説しており、非常に参考になる。


アーサー・ウェイリーとドナルド・キーン
ケンブリッジ・キングスカレッジで

ダストカバー付き6巻合冊本

ダストカバーを外す


表紙

主要登場人物リスト

1925年の第1巻から1935年の合冊本までクロノロジー