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2015年4月30日木曜日

亀戸天神 下町の天神さまは藤が満開

 この季節、藤があちこちで満開。美しい。東京下町の亀戸天神社は藤棚が境内所狭しと並ぶ景勝地。ふつう天神さまといえば梅の花だが、ここは江戸時代から藤の名所でもある。太鼓橋から、池の周りから、見事に枝垂れる藤棚を眺めるとこの季節の風を感じることができる。ここの藤は江戸時代から続く藤の子孫だそうだ。戦災で亀戸天神は消失し、藤棚も大きな被害を受けたが、そのなかから不死鳥のように芽を吹いて、再び命を繋いだ藤を育ててきたという。

 連休初日ともあって、境内は人でごった返す。つくづく東京はどこへ行っても人が多い。まして「名所」などと言われると、昔から江戸っ子は押しかけざるを得ない性質を持っているようだ。太鼓橋の上からは藤棚が一望に見渡せるて眺めが良い。しかし、せまい境内と人の多さは東京という町の縮図だ。亀戸天神名物の船橋屋の葛餅も、店の前は求める人が長蛇の列。「江戸っ子」、いや「東京人」、いや「全国から集まってきて現在東京に住んでいる人」は行列に極めて弱い。並んでりゃ、とりあえず並んでみる。並んでから「この先何があるんですか?」なんて聞いてる人がいる。行列が出来なきゃ「名所」でも「名物」でもないんだ。

 「とうりゃんせ、とうりゃんせ、天神さまの細道にゃ人がいっぱい!」

 この天満宮は別名、東宰府天満宮という。すなわち東の太宰府天満宮だ。菅原道真公の末裔が、筑前大宰府から正保年間(1640年)に江戸に天神さまを勧請して開いたのが起源という。境内には大宰府天満宮にならって赤い太鼓橋が配置されていおり、江戸時代の浮世絵にも亀戸のシンボルとして登場する。そして大宰府からもたらされた飛梅の子孫が植えられている。

 ちなみに、東京のもう一つの天神社、湯島天神は、雄略天皇による創建といわれる社に、南北朝時代になって、地元住民寄りあって、天神さまを勧請して合祀したのが始まりだそうだ。天神さまは庶民の人気ヒーローなんだ。


歌川広重
「名所江戸百景」の亀戸天神境内
拝殿前はぎっしりで身動きが取れない
太鼓橋の上からの境内の眺め

なんか不思議な位置から藤棚を見下ろす形

亀戸天神の新風景
こっちの「名所」も「行列ができる名所」だ

太宰府天満宮に倣って太鼓橋が

やはり美しい

白藤もまた良いものだ

善男善女の人の群れ



2015年4月28日火曜日

古代筑紫三海人族の謎(2) ー住吉大神の故地を訪ねて博多住吉神社へー

 前回書いたように、住吉三神(表筒男神、中筒男神、底筒男神)は、ニニギの禊で、安曇族の祖神である綿津見三神(上綿津見神、中綿津見神、下綿津見神)と同時に生まれた海神であるとされている。しかし「住吉族」とはどのような人たちであったのか?そもそも「住吉族」という一族はいたのだろうか? いや、住吉三神を祖神と仰ぐ一族の末裔ではなく、綿津見三神と一体(ペアー)の神であったので、安曇族と同族(むしろ同一神)、ないしは分家していったのではないかとも言われている。このように「住吉三神」の祭祀氏族は不明なのだ。のちに各地の沿岸の港「津」を守る男の神(筒男神。綿津見神は女神であるとする)を祀るために、それぞれ筑紫、長門、摂津と地域ごとに朝廷により氏族が配置されたという。やがては摂津の津守氏が、その名の通り各地の港津を守るための国家祭祀を行う住吉大社宮司として力を持ち、徐々に瀬戸内海を西遷し(安曇族が東遷してきた道を戻って)、ついには故地である筑紫那の津の住吉神、さらには壱岐,対馬の住吉神祭祀にも及ぶようになったという。

こうして見ると海人族のルーツはやはり弥生の海を縦横無尽に行き来した、最も古く、かつ大きな勢力を持っていた筑紫の安曇族であったであろう。その後に安曇族は筑紫を離れ、信濃の国に移り,あるいは全国に離散して行く。ヤマト王権/大和朝廷に仕えた阿曇連も衰退してゆく訳だが、そういう一族の栄枯盛衰のなかで、それを継ぐ海人族が生まれて来た。すなわち安曇族から派生した一族の中から住吉大神や、宗像三女神・道主貴(みちぬしのむち)の神をいただく海人族が生まれたと考える。

飛鳥時代から奈良時代にかけて、住吉大神は朝廷の航海守護神として、前述の津守氏の一族が神主として遣唐使船などに乗りこみ航海安全を守るようになった。飛鳥古京、平城京の外港たる難波津や住吉津を守る住吉大神が重要な役割を果たすようになる。しかし、津守氏は地元摂津の豪族田蓑宿禰の子孫と言われている。すなわち筑紫の安曇氏との血縁関係などは全くない。筑紫の海人族によってもたらされた綿津見三神とそのペアー神である住吉三神の祭祀は、この時代には地元の豪族にまかされるようになっていったのだろう。いやむしろ住吉神はヤマト王権/大和朝廷により、各地の港津を守る守護神として創出された神であると言ってよいかもしれない。

記紀の記述では、神功皇后の三韓征伐では住吉大神が神功皇后を助け、新羅を平定して無事帰還させたとする。こうした経緯から全国の住吉神社には住吉三神の他に神功皇后が祀られていることが多い。大阪の住吉大社には4つの社があり、それぞれ「表筒男神」「中筒男神」「底筒男神」そして「息長帯比売命すなわち神功皇后」が祀られている。大和朝廷にとって重要な航海守護神を祀る社として位置付けられていった。その一方で安曇一族の綿津見神はいつの間にか大和朝廷の国家祭祀の舞台からは消えてしまった。

博多の住吉神社は那の津(博多)に鎮座している。博多古地図(鎌倉時代の図で住吉神社に絵馬として奉納されている)によれば日本第一住吉大明神とある。現在では大阪の住吉大社が全国の住吉神社の総本宮とされているが、古書には博多の住吉神社が「住吉本宮」とあり、住吉大神祭祀のルーツである事を物語っている。現在は博多駅に近い内陸部に鎮座する神社となっているが、博多古地図を見るとわかるように、元々は深く湾入した冷泉の津の南岸、那珂川が流入するところに鎮座していた(ちなみに現在の地名「蓑島」は文字通り島であったことがわかる。)。神社は西向きで、一の鳥居の前に現在も残る竜神池は、当時の湊、冷泉の津の名残である。応神天皇を祀る箱崎八幡宮とともに筑前國一宮である。

参考:日本三大住吉とは、筑前博多の住吉神社、長門下関の住吉神社,大阪の住吉大社をいう。また日本三大八幡とは、豊前宇佐八幡宮、筑前箱崎八幡宮、山城石清水八幡宮をいう。



住吉神社に奉納されている絵馬
鎌倉時代の博多古図
南北が逆さまに描かれている
住吉神社境内に掲げられている博多古図の説明図
上記の絵馬を解説している。
深く湾入した冷泉の津のほとり、那珂川の河口に鎮座していた
左が博多浜、沖の浜


江戸時代に描き起こした博多古図
南北を戻した図になっている
住吉神社が下半部のやや右に詳細に描かれている。

現在の博多中心部
上部には福岡空港、博多駅、左にはキャナルシティー、手前は渡辺通
真ん中の緑の部分が現在の住吉神社境内
かつて住吉宮の門前に広がっていた「冷泉の津」はすっかり失われてしまった。
日本第一住吉神社


一の鳥居の前に位置する龍神池
「冷泉の津」の痕跡と言われている。

大阪の住吉大社本宮

住吉大社の太鼓橋


2015年4月22日水曜日

古代筑紫三海人族の謎(1) ー安曇(阿曇)族のふるさと志賀島を訪ねるー


志賀島は安曇族の故郷だった:

 博多湾に伸びる海の中道の先に志賀島がある。志賀島は本土と砂嘴で繋がる珍しい陸繋島である。これが博多湾を天然の良港にし、独特の穏やかな風景を作り出している。子どもの頃いつも家の窓から博多湾を抱くように伸びる海ノ中道と志賀島、そしてその隣にポツンと浮かぶ能古島を眺めて育った。夏になると市営渡船に乗って海水浴へ。サザエのつぼ焼きと枇杷の味が懐かしい。海ノ中道には米軍の雁の巣キャンプがあった。ここは車で通り抜けることが出来た。ゲートを通ると一瞬にしてアメリカンな世界へワープできた。福岡・博多の人間にとってはこの景色は故郷の原風景のようなものだ。しかしこの小さな島が古代史において重要な役割を果たしたランドマークであることは、ずっとずっと後になって知った。

 志賀島といえば、金印が出土した場所で有名だ。また元寇の時の激戦地でもあった。しかしそれだけではない。古代海人族安曇族(阿曇族)の故地である。海人族?安曇族?信州安曇野の?なんで博多湾の志賀島? 博多の人間にもあまり知られていない。ここは律令制下では糟屋郡阿曇郷であった。すなわち志賀町(現在は福岡市東区)には阿曇族の祖先神、綿津見三神が祀られる志賀海神社(しかのうみじんじゃ、しかのわたじんじゃ)が鎮座ましましている。もともとは島の北の勝馬に本宮があったが,現在の砂嘴の付け根の志賀町に遷宮された。今でも志賀島全体が神域とされている。


志賀島と海の中道
細長い砂嘴でつながっている。
手前が博多湾、向こうが玄界灘

 古事記では、黄泉の国から帰ったイザナキは「筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)阿波岐原(あわぎがはら)」で穢れを祓う禊を行い、その時アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三貴子が生まれたとされる。また同じく、阿曇族の祖神、綿津見三神、住吉族の祖神、住吉三神も生まれたとされる。そこは宮崎県の日向地方に比定されるのが通説といなっているが、以前にも述べた理由からここ博多湾近郊であると考える。

 この志賀島・博多湾を拠点に活躍した古代の海の民、海人族が安曇族である。大陸との交易に重要な役割を担った安曇族のルーツは、おそらく大陸から渡ってきた人たちだろう。このころは現代のような国民国家という概念も国境という概念もない、したがって国籍などという制度もないので、倭人、韓人、漢人という区分けもはっきりしなかった。朝鮮半島や中国沿岸と日本列島を股にかけ、対馬海峡や玄界灘を我が庭のように暮らしていた人たちが居た。彼らは航海、漁労の技術を、そして大陸からの移住者を運び水稲農耕技術を北部九州に伝搬させた。いわゆる弥生初期の「倭国」あるいは「倭人」は朝鮮半島南端と北部九州にかけての海峡国家ないしはそこで生活する人々の総称で有った可能性もあると言われている(中国最古の地理書「山海経」にでてくる倭は朝鮮半島南部地域を指すとされる)。

 1世紀になると列島側の「倭」にも日本列島、朝鮮半島、中国大陸との間を航海、通交できる人々がいただろう。だからこそ「倭」の「奴国王」は洛陽にいた後漢の光武帝に使節を送り金印をもらうことが出来た。3世紀漢滅亡後、「倭」の「邪馬台国女王卑弥呼」は魏の皇帝に朝貢・遣使ができた。大陸にルーツを持つ海人族、安曇族が「倭国」において大きな役割を果たしたのではないかと思われる。


筑紫三海人族:

 古代筑紫には安曇族の他にも次のような海人族がいたと言われている。いわゆる「筑紫三海人族」である。記紀にその祖霊神誕生の記述がある。

(1)安曇族:綿津見三神(イザナキの禊から生まれた上綿津見神、中綿津見神、下綿津見神)を祖神とする。志賀島の志賀海神社に鎮座。
(2)住吉族:住吉三神(綿津見三神と同時にイザナキの禊から生まれた表筒男神、中筒男神、底筒男神)を祖神とする。那の津の住吉神社(あるいはその奥にある那珂郡の現人神社)に鎮座。
(3)宗像族:宗像三女神(アマテラスとスサノオの誓約から生まれた)を祖神とする。すなわち綿津見/住吉三神の姪(?)に相当する。宗像郡の宗像大社に鎮座。

 それぞれの筑紫の海人族の祖神は、記紀編纂の中で皇祖神天照大御神を最高神とする「神々」体系のシステムにビルトインされている。ヤマト王権の確立、そして大和朝廷の成立時期になると、各地の氏族・豪族は、その一族の祖神を、皇祖神アマテラスに近い位置取りをするべく競う(天皇家との姻戚関係を持てる氏族)ようになり、公式記録である記紀に記述してもらう事は一族の権威を伝えるために極めて重要な事であった。


謎の安曇族:

 こうして安曇族はその存在を8世紀の編纂になる記紀に記述してもらう事に成功したため、現在までその一族の存在が記録として残った。しかし、その存在は謎に満ちている。紀元前の倭国/奴国の時代から、対馬国、壱岐国、奴国といった対馬海峡、玄界灘を中心に活躍していた弥生の海人族であり、宗像族などよりは古い海人族だったようだ。しかし、後世には住吉族や宗像族のようにヤマト王権確立後に航海・交易に関わる国家祭祀を執り行う氏族としては存続しなかった。そして筑紫から遠く離れた、しかも海のない信濃国の安曇郷にその名を残すことになる。何が起きたのか?

 安曇族は豊玉媛の子阿曇磯良を祖と仰ぐ。対馬に起源を持つ海神豊玉彦の子孫とされる。さらに遡ると、呉・越時代の呉王朝の末裔で、王朝交代の混乱に伴って日本列島に亡命してきた一族との地元伝承がある。こうしたことから後漢書東夷伝で記述のある1世紀の奴国(後漢の光武帝から金印を受けた)は安曇族が建てた国ではないか?と唱える説がある。 一方、のちの魏志倭人伝に記述のある「倭国大乱」では阿曇族は邪馬台国とともに奴国を滅ぼした?とする説もある。いずれも明確な証拠がない上での推論だから、論争してみても始まらないが。


金印と安曇族:

 さらに志賀島からは、後世(江戸時代黒田藩政時代に)後漢書東夷伝に記述のある「漢委奴国王」の金印が発見された(志賀海神社のある志賀集落からわずかに1キロほど離れた海岸べりの段丘の畑から出土したといわれる)。なぜ奴国王の金印が志賀島(奴国の範囲内ではあろうが,王都のあった岡本:スク遺跡辺りではなく)から出土されたのか論争を呼んでいるのは周知の通りだ。安曇族の故地であり志賀海神社の神域である志賀島から出たが故に、安曇族と奴国の関わりについて以下のような推論がなされ、古代史ファンを沸かせている。

 通商窓口説:安曇族の国である奴国の航海通商の窓口たる志賀島に公印があったのだ。
 隠匿説:「倭国大乱」で邪馬台国に滅ぼされた奴国王が逃亡の際隠匿した。
 墳墓説:安曇の族長(奴国王?)の墓に副葬された。

 隠匿説が有力であるようだが,ここでは深く立ち入らない。当面、何かの物証が出るまでは歴史ロマンの領域にしておく方が良いかもしれない。

金印出土地
倭の奴国から見た当時の世界観を表している


奴国と安曇族:

 金印を受けた奴国があった1世紀頃の北部九州は大陸との窓口で、航海・漁労・水稲農耕といった弥生型の文化が流入する列島内でもっとも先進的な地域であった。志賀島の金印発掘の他にも、福岡市南部から春日市にかけて広がるスク・岡本遺跡の王墓からは前漢鏡、ガラス玉、剣(三種の神器?)などの副葬品が多数出土し、この一帯は紀元前1世紀頃の王都の遺構だとされる。すなわち「漢委奴国王」の数代前の奴国王の時代だ。また金属機器・ガラス製造のハイテクコンビナート、比恵遺跡・金隈遺跡など奴国の生産工場遺跡群も発見されている。こうした考古学的な物証からこの博多湾沿岸地域が後漢と交流していた倭国の盟主「奴国」であったとことは間違いがない。しかし、それ以上の奴国の実態(近隣の伊都国や邪馬台国との関係など)、奴国王は誰なのか?いつ頃,どのようにして奴国王は消えたのか?(3世紀の魏志倭人伝には奴国の記述はあるが王の存在は記述されていない)等、いまだに解明されてない事も多い。

 この頃博多湾沿岸を拠点に大陸や列島各地との通行・交易に活躍していた海人族、安曇一族がこうした奴国の隆盛に大きな役割を果たしていたのは事実だろう。しかし,だからと言って安曇族が奴国を建てたというのはどうだろう。奴国は確かに大陸と通交し、その便益を最大限活用して「倭国」の盟主になったのだが、基本的には水稲農耕社会だ。海人族よりも農業生産手段と人民を支配していた族長の国だったであろう。


筑紫三海人族のその後。

 (1)安曇族:近畿へ移住した阿曇連はヤマトで大王の側近として活躍した。一方、筑紫に残っていた一族は、527年の筑紫磐井の乱では磐井(筑紫の大王)側につき、敗戦後、筑紫を逃亡し信濃国安曇郡を建郡(穂高神社に奉祭)。「チクシ王権」対「ヤマト王権」の戦いであった「筑紫磐井の乱」では、筑紫王である磐井は殺され,その息子葛子は糟屋の屯倉(みやけ)をヤマト王権側に提供して恭順する。安曇一族は筑紫を捨て、以前の交易仲間のツテをたどって、いまだヤマト王権の支配が及ばない信濃に逃亡、さらには後世の「平家の落人集落」宜しく,全国に「あずみ」集落が出来る(安曇野、渥美、飽海、熱海、安住、滋賀、志賀...)。またヤマト王権に仕えた阿曇一族も663年の白村江戦いで渡海出陣した氏族の長比羅夫が戦死して一族は衰退して行った。

 (2)住吉族:瀬戸内沿岸、やがては摂津の住之江に勢力を広げ、現在の住吉大社あたりを本願地とする(住吉神社は、那の津、下関、兵庫、摂津と瀬戸内沿岸の「津」があった所に鎮座)。やがて摂津の「津守」氏がヤマト王権とともに勢力を拡大し、航海通交の守護神として国家祭祀を司る。特に大和朝廷の使節である遣唐使船の守護神として乗船し渡唐している。

 実はこの住吉三神を祖神とする「住吉族」とはどのような一族であったのか。あまり分かっていない。むしろ本当に住吉三神を祖神とする一族がいたのかすらわからない。住吉三神は綿津見三神とともにイザナギの禊から生まれた。すなわちセットで現れた神とされている。これは何を意味するか。那の津(日本第一住吉神社)に拠点を置いていたらしいが、一説に阿曇族(粕屋郡阿曇郷の志賀海神社)の一族で、分家的存在であったとも言われている。またどのような理由で東へ移動して摂津に拠点を移した(東遷した)のか,そしてどのようにヤマト王権の国家祭祀を司る氏族になって行ったのか。住吉大社の津守氏とは誰なのか? 一説に曰く、三神はオリオン星座による航海術のシンボル。阿曇族は外洋航海(大陸への航海)を主に取り扱い、住吉族は内海航海(玄界灘沿岸から瀬戸内)をもっぱらにしたのでは。安曇族が筑紫を去って後に外洋航海に進出?むしろ津守氏になってから摂津から筑紫へ西遷したとする。

 (3)宗像族(胸肩氏/胸形氏):沖の島における国家祭祀を司る一族として出てくるのは4世紀以降。ヤマト王権が百済との通交を求めて半島へ出兵する時期だ。安曇氏に比べると比較的新しい在地豪族と言えるかもしれない。一説に曰く、ながく玄界灘の制海権を握っていた安曇族のもとで働き、そこで航海術を学び蓄積して行ったのでは?沖の島が大陸との航海の中継地点とするには、沖の島から朝鮮半島までの距離が長過ぎる。対馬海峡の速い海流の中を壱岐、対馬を経由しながら行くのがもっとも妥当な航路(まさに阿曇氏の本拠地を経由する)とされ、やはり安曇氏が筑紫を去ってからその後を引き継いだのではないか、と。

 527年の磐井の乱では、安曇族と異なり筑紫磐井に加担せず、ヤマト王権に本領安堵される。その後も筑紫を出る事無く地元の氏族として存続する。ヤマト大王の后を出すなどヤマト王権との結びつきが強い(アマテラスの言葉:男神であるニニギの子孫を守れ、という)。特に大陸との通交・国家祭祀を司る一族(「海の正倉院」と言われる沖の島祭祀遺跡)としてヤマト王権/大和朝廷にとって対外交渉を司る重要な筑紫在地豪族として繁栄する。瀬戸内の厳島(宗像三女神の一人、イチキシマ姫)神社はその流れ。


チクシ倭国からヤマト倭国への変遷の軌跡:

 このような筑紫三海人族の盛衰の軌跡は,チクシ倭国からヤマト倭国へと変遷して行った動線に寄り添う伏線のように見える。「倭国」チクシ王権のルーツは奴国であったろう。奴国の名は3世紀の魏志倭人伝には出てくるが、奴国王の存在は見えない。すでに、あの「倭の奴国王」は居なくなっていて、チクシ「倭国」の中心は北部九州のいずれか(隣の伊都国や磐井の本拠地八女地方あたり?そこがチクシ邪馬台国であったのかもしれないが)に移っていたかもしれない。奴国が邪馬台国に敗れ、やがては近畿ヤマト王権へと変遷して行く過程の最後の抵抗が「筑紫磐井の乱」であったと考える。ヤマト王権が倭国を曲がりなりにも統一支配する兆しを見せるのは5世紀以降(それまでの呪術的支配から武断的支配に移行した「倭の五王」、「ヤマトタケル東征、西征伝承」の時期以降)であろうから。この時期はまだヤマト対チクシの対立構造が残っていたと思う。安曇族・住吉族(いずれもイザナギの禊から生まれた綿津見三神、住吉三神の子孫)の筑紫出奔、アマテラス体制へのビルトインは、チクシ倭国がヤマト倭国に凌駕されて行った過程、ないしは邪馬台国がチクシからヤマトに移って行った過程の出来事の一つを物語っているのかもしれない。


住吉神社/宗像大社/志賀海神社の今:

現在、博多(那の津)の住吉神社は筑前國一宮(戦前は官幣小社)として、また、全国2900社余の住吉系神社の第一神社として崇敬を集めている。大阪の住吉大社(戦前は官幣大社)は現在ではその全国住吉社の総本宮となっている。宗像大社(戦前には官幣大社)は、全国に7000社あると言われる宗像社、厳島社の総本宮として名声を誇る。しかし、志賀海神社(戦前の官幣小社)は全国の海神社、綿津見神社の総本宮ではあるが、ひっそりと志賀島にその安曇族の祖神の鎮座地としての佇まいを残している。一方、信濃の国の安曇郡の穂高神社は一族の祖神(綿津見神、阿曇連比羅夫)の新しい鎮座地となる。古代筑紫の海を駆け抜けた海人族、安曇族はこうして信濃の民となった。

住吉族、宗像族については続編で。乞うご期待。

志賀海神社はこの志賀集落の山麓に鎮座している
島全体が神域とされている


志賀海神社拝殿
綿津見三神を祀る

遥拝所

宮司阿曇家住宅と参道
奥が志賀海神社

現代の海人たち出漁

志賀島から福岡市街地を望む
古代奴国の姿は大きく変貌した。しかし、昔も今もアジアへのゲートウエーである事に変わりはない。

志賀島を後に一路博多港へ

現代の高速船は博多と韓国釜山を3時間半で結ぶ

博多湾の夕景
左が能古島、右は志賀島
この間を抜けると玄界灘に出る

糸島半島(古代伊都国)夕景
可也山のシルエットが美しい

夕闇迫る博多湾
これぞ「筑紫の日向の橘の小戸のあわじがはら」の風景だ。


スライドショーはこちらから→


























































































































撮影機材:SONY α7II+SONY AF Zoom E-Lens 24-240mm

参考:志賀海神社のHP