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2023年4月10日月曜日

万葉歌人 大伴家持の人生とは? 〜「男はつらいよ 花も嵐も」の巻 〜

 

三十六歌仙の一人として描かれた
大伴家持
どう見ても平安貴族の出立ちだ
(Wikipediaより)
大伴家持
越中国司として赴任中の姿をイメージした像
こちらの方が平城京の官人らしい
(高岡万葉歴史館HPから拝借)

毎週楽しみにしていた、NHK ラジオの「古典購読」「歌と歴史でたどる万葉集」50回シリーズが3月で最終回を迎えた。東京大学の鉄野昌弘教授の解説は充実していたし、加賀美幸子アナウンサーの朗読は、独特の抑揚に品格を感じてなかなか面白かった。特に最終章に近づくにつれ、万葉集という歌集の性格が微妙に変化してゆく様子を感じ取ることができ、その中心にいたのが大伴家持であったことを知った。その歌とその時代背景を知るにつれて家持という人物に興味を持つようになった。そして万葉集という「謎の和歌集」の発する古代史メッセージを垣間見ることができた。


万葉歌人 大伴家持

大伴家持は、万葉集には長歌、短歌含めて473首(全体の約10%に当たる)が収録されている代表的な万葉歌人である。後に三十六歌仙の一人に選ばれ、後世に記憶される日本の代表的な和歌詠みの一人となった。万葉集は日本最古の和歌集であるが、その編纂経緯も編纂者も完成時期も解明されていない謎の多い歌集である。全20巻、飛鳥時代から奈良時代までの約4,500首が収録されている。舒明天皇から、天武/持統帝の時代の初期の巻には天皇やその宮廷への賛美の歌が多いが、後の時代になるに従って、恋や別れ、人生の喜びや悲しみなど詠み人の私的心情を歌ったものが断然多くなる。万葉歌人として登場する代表的な詠み人たちは、初期には額田王や、天武朝時代の柿本人麻呂、平城京遷都の後の山部赤人などもそれほど身分の高い貴族や高位高官ではなく、天皇行幸に付き従った中・下級官僚である。しかし彼らは、いわば歌のプロフェッショナル、「宮廷歌人」として天皇や朝廷、その治世を寿ぐ歌を多く歌った。中期になると大納言太宰帥の大伴旅人、筑前国守の山上憶良(遣唐使帰りの知識人であった)が、さらに後期になると旅人の息子の大伴家持が代表的な歌人として登場する。この頃になると「詠み人知らず」の歌も多く採られ、都だけではなく広く全国から歌が集められている。彼らは主に下級官僚や、名もなき庶民である。地元に伝わる伝承や物語を歌ったもの、東歌や、東国から徴発された「防人」の歌が登場するのもこの頃である。これらを採録したのは家持である。特に万葉集の巻17から巻20までは家持の「歌日記」と呼ばれているほどで、こうした撰録、編集に大伴家持の果たした役割は大きく、万葉集を最終的にまとめたのは家持であろうと言われている。その大伴家持は、718年(養老2年)生まれ。父は同じく万葉歌人として著名な大宰帥、大納言の大伴旅人である。母は丹比郎女。実際の養育は大伴坂上郎女。妻は大伴坂上大嬢。すなわち家持は名門大伴一族の出である。


大伴氏とは

大伴氏は、神代からの天皇側近で軍事部門の名門一族である。物部氏も軍事氏族であるが、大伴氏は天皇親衛隊、物部氏は国軍と役割が分担されていた。大伴一族は5世紀〜6世紀に活躍した大連大伴金村の時代が最盛期であった。皇統が武烈天皇で断絶したが、越前から応神天皇第5世孫であるヲヲド王を皇嗣として招請。継体天皇として樟葉宮で即位させた功労者とされている。512年、朝鮮半島任那4県を百済に割譲。さらに527年の筑紫岩井の乱では物部荒甲火とともに平定。しかし任那4県を喪失したことが倭国権益を害したとして物部氏により失脚させられ、政界の表舞台からは姿を消す。それ以降は物部氏と蘇我氏が権勢を振るう時代に。やがて廃仏/崇仏論争をめぐり物部氏が失脚、蘇我氏の時代に。しかし乙巳の変で蘇我宗家が滅びて以降は中臣氏、のちの藤原氏の時代へ。こうした飛鳥時代、奈良時代の政界勢力図変遷の中で大伴氏は政界の頂点に立つことはなかったが、朝廷を支える重要氏族として命脈を保ち続けた。


名門一族の長、官人、貴族そして政治家 大伴家持

奈良時代に、大伴旅人からその一族の当主を引き継いだのが大伴家持である。万葉集に最も多くの歌が収録された優れた万葉歌人であることは改めて述べるまでもないが、聖武、孝謙、淳仁、称徳(重祚)、光仁、桓武の六代の天皇に仕えた官人、貴族である。奈良時代の平城京政界にあって、権勢を振るう藤原一族の対局にある有力氏族の長として、影響力を有した政治家でもあった。それゆえに反藤原氏勢力からは大いに期待される存在であり、その結果として、本人が望むとの望まざるとに関わらず、多くの政治的な事件や陰謀に巻き込まれることとなった。このように家持は、万葉歌人としての顔とは異なる、官人、政治家としての顔を持つ。そこに、奈良時代の政治情勢、朝廷という大きな官僚組織の中で歴史に翻弄された一人の人間としての家持の姿が見えてくる。そうした立場からくる歌が万葉集にも多く含まれている。そう見ると万葉集を読み解く視点も異なってくる。文学作品としての和歌とは異なる、生々しい平城京政治情勢の歴史が、その和歌から読み取れる。

(経歴)下線部が家持の経歴

29歳の時、中務省の内舎人として官人(官僚)キャリアをスタート。 元正太上天皇、聖武天皇、 左大臣橘諸兄の部下として洋洋たるスタートであった。 

光明皇后、阿部内親王。藤原仲麻呂との対立 738年に天然痘大流行で藤原三兄弟没

越中守 従五位下(746年)地方勤務へ 万葉集に越中時代の歌多数

聖武天皇譲位、孝謙天皇(阿部内親王)即位(749年)聖武太上天皇に 光明皇后と藤原仲麻呂が政治の実権を握る

少納言(751年)帰京 巻19巻頭、巻末に秀歌、しかし越中時代に比べ数は激減

兵部大輔(兵部省の次官)(757年)この頃、難波で防人の管理の任に 防人の歌を他数選定

反藤原仲麻呂のクーデタ、「橘奈良麻呂の乱」に連坐 大伴一族の多くが流罪、追放 家持自身は罪には問われず(757年)

孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位(758年)孝謙上皇が親政

因幡守(758年)に左遷?大国の国司ではあるが 万葉集最後の歌

朝廷の重要ポスト信部大輔に復帰(762年) 仲麻呂の推挙による?

密告により藤原仲麻呂(恵美押勝)暗殺計画に連座 しかし放免(762年)

薩摩守に左遷(764年)

「藤原仲麻呂の乱」(764年)仲麻呂殺害サル

淳仁天皇廃帝 称徳天皇重祚(764年)

大宰少弐に留め置かれる (767年) 

称徳天皇の寵愛に取り入り皇位を狙ったと言われた「弓削道鏡事件(宇佐神宮御神託事件)」と道鏡の流刑(769~770年)

称徳天皇崩御 光仁天皇即位(770年)

再び中央政界に復帰 左中弁・中務大輔(770年)24年でようやく正五位下に昇進

式部大輔・在京大夫・衛門督、伊勢守、上総守、従四位下、従四位上、正四位下と順調に昇進(771〜778年)

参議(780年)従三位 公卿に列せられる 

桓武天皇即位(781年)皇統が天武系から天智系へ 渡来系の母という傍流 奈良仏教勢力の排除 藤原系、大伴系などの排除 百済王氏一族を重用 光仁天皇を始祖とする新王朝(中華風易姓革命)遷都企画

「氷上川継の乱」(782年)で解任、復帰

この頃、家持により万葉集20巻完成(782年)しかし、直ちには公にはならなかった

中納言(783年) 桓武の実弟 早良親王の春宮大夫 

長岡京遷都(784年)仏教寺院の移転を禁止

持節征東将軍・蝦夷征東将軍(784年)蝦夷の平定

陸奥接檫使鎮守府将軍として多賀城で死去(785年)遙任官として平城京で死去という説も

死の翌年(786年)、桓武天皇の寵臣で、造長岡京司である藤原種継の暗殺事件。早良親王は無実を訴え断食死。長岡京遷都に反対する反桓武天皇派の大伴系官人と早良親王の春宮大夫官人が関わっており多くが流罪。

一族の長である大伴家持の関与を否定できないということで、死後にも拘らず官籍除名、家財没収、埋葬不許可

平安京遷都(794年)長岡京廃都

家持没後21年、平城天皇即位に伴う恩赦で従三位に復す(806年:延暦25年)

この頃、万葉集が完成?とする説。あるいは発見?説。これは家持の死後、没収された家財の中に「万葉集」遺稿が見つかり、これを書写して公になった、とする説。この場合、誰が書写、公表したのか論争あり。いずれにせよ平安時代以前には万葉集は世の中には知られることはなかった。


皇位継承争いに翻弄された人生

それにしても見ての通りの「花も嵐も」の波乱に満ちた人生である。6代の天皇に仕え、その間、中央と地方を行き来し、皇位継承を巡る政争や反乱事件で連座、左遷、復帰を繰り返し、昇進が24年も塩漬けになったかと思うと、天皇が変わるとトントン拍子で出世し、公卿(貴族)になる。その間絶えず陰謀に巻き込まれて解任されたり復職したり。驚くほど浮き沈みの激しい人生を送った。挙げ句の果てに、死んでからも官位剥奪されるなど、まさに激動の時代に翻弄された。聖武天皇の皇位継承問題が尾を引いて、孝謙天皇、称徳天皇重祚の時代は密告、讒言が飛び交う混乱した時代であった。藤原仲麻呂(恵美押勝)や弓削道鏡のような皇位を窺うような人物が登場するなど、権力中枢に問題多発の時代に、大伴氏一族の名誉をかけての壮絶な家持の戦いがあったことが偲ばれる。絶えず藤原氏という(大伴氏からみると)新興の氏族が政敵として立ちはだかり、大伴氏の血脈を守り、家名を汚さず、朝廷におけるポジション確保をかけて家持は苦闘した。勇ましい武勇伝や、華々しく脚色された事績が記録されることもなく、ひたすら隠忍自重しながら天皇への忠節と家名を守る一生だった。そんな政治家家持が万葉歌人として秀歌を生み出し、その編纂に重要な役割を果たしたのである。家持の没後、平安の時代になって万葉集がようやく世に現れ、家持も歌人として「三十六歌仙」の一人として列せられることで後世に記憶されて、ようやく平和な名誉を回復したと言えるのかもしれない。

このように名門氏族の長であったから、いやでも政争に巻き込まれ、藤原氏への対抗軸、皇位継承争いの一方の勢力に担ぎ出される運命にあった。密告により4回もの「反逆事件」に悉く関連付けられたのは、家持自身の本意ではなかったかもしれない。しかし、多くの大伴一族が事件に連坐し処罰されたこともあり、家持は一定の距離をとって政争に巻き込まれることを警戒していたし、密告、讒言に巻き込まれて大伴氏を危機に巻き込まないよう、一族に言動に気をつけるよう諭してもいる。しかし、それでも敬愛する上司である左大臣橘諸兄を讒言で辞任に追いやった阿部内親王、藤原仲麻呂に対する怨念は燃やし続けた。ただ、やはり、かつての大伴氏の長であったの古麻呂、安麻呂などの大物に比べると、家持にそれだけの政治的な影響力を発揮する力量はなかったとの評価もある。しかし、彼の父である旅人も、遠く太宰府にいて中央政界の激震(長屋王事件)に何らの影響力を行使できなかったことを嘆いたように、権勢を振るう藤原一族の前には、いかに大伴一族が古来からの名門とは言え、すでに政界をリードする力はなく、反藤原抵抗勢力として担ぎ出されることはあっても、家持に「政権交代能力」を求めるのも無理であろう。むしろ大伴氏が滅亡の道を歩まぬようその命脈を保ち、後世に一族を存続させた功績は評価されるべきかもしれない。物部氏や蘇我氏と異なり、中世、近世まで一族の系譜が連綿と続いたのだから。


家持から見える万葉集の性格

万葉集の歌の中に、家持の置かれた政治的な立場や心情に根ざした歌も多くみられる。歌人としての家持の繊細な感性と評価と、官人、政治家としての能力と評価とは必ずしもリンクしないが、彼の歌の背景には生々しい政治の世界に身を置く家持の官僚、政治家としての姿があったことは否定できない。聖武帝退位ののち孝謙帝時代の歌は、必ずしも天皇に奏上された歌ではなく、むしろ遠ざけられていたことを示す歌が多い。越中時代の歌は、友が去り、都を思う「孤独」の歌が多いが、望みかなって帰京してからは、家持の代表的な秀歌(巻19の巻頭、巻末の歌群)が現れるものの、これまでと比べ数が減り、むしろ「孤立」を歌ったものとなる。これは家持の都における政治的な立場の表れと見られている。万葉集にはそうした朝廷における様々な政治抗争にまつわる歌、特に無実の罪で死に至らしめられた皇子(大津皇子のような)への挽歌も多く集録されており、万葉集が読み人の心情をおおらかに歌う文学書、歌集としての性格だけでなく、政治抗争の世界が反映された「歴史書」としての性格を持っていることを示している。しかし他の歴史書と異なるのは、万葉集が「勝者による歴史書」ではなく、いわば家持という政治的な「敗者による歴史書」である点だろう。正史として編纂された日本書紀や、古事記、続日本紀からは読み取れない、ある意味で生々しい歴史の鼓動が和歌という形で表現されているのである。家持の歌は「橘奈良麻呂の乱」で左遷された因幡国時代の歌が最後で、それ以降、中央復帰してからの歌は採録されていない。おそらく歌は多く詠んだに違いないのだが、むしろ称徳帝崩御、代替わりによって中央でようやく順調に出世階段を昇り始め、公卿にまで至った時期の歌が見えない。また、家持が事実上の万葉集の編者であり、彼が公卿となった後、782年に完成したと言われているにも関わらず、実際には彼の死後の平安時代に入った806年まで世に出ることがなかった。なぜこのいわば国家的事業としての歌集編纂が頓挫したのか。藤原種継暗殺事件の影響を指摘する説もあるが、万葉集の成立経緯の背景に横たわる政治情勢がこの長い雌伏の時間を産んだと考えられるだろう。万葉集に採録されなかった(ないしは削除された)家持の歌があったのかもしれない。万葉集の謎の一つである。そもそものちの時代の古今和歌集や新古今和歌集が、勅撰和歌集であり、選者も撰録経緯もはっきり記録として残されているのに対し、万葉集は序文もなく選者や撰録の経緯を知る手立ても残っていない。「万葉集」という名前の由来すらはっきりしていない。国家的な詩歌編纂事業として舒明帝の時代に遡って和歌の選定が始まったのだが、奈良朝末期には、ややそうした企画が放棄された嫌いすら感じる。結局、家持が過去に遡って再編纂を手がけ、現在残る形にまとめたと考えられている。平安時代になってようやく歌集として日の目を見ることができ、そしてそのことが皮肉にも(意図せず)政治的敗者の側から見た歴史書として残ることとなった。万葉集はこのように日本書紀や古事記のような正史とは異なる歴史的メッセージが込められているのだ。それは偶然の出来事であった。このように「政治家家持」の生きた時代背景を知ることにより、「万葉歌人家持」の実像が描き出せるとともに、それが万葉集という、謎の多い日本初の和歌集に、意図せず歴史的なメッセージが込められていることに気づくことつながる。


「泣くな家持くん!」

家持の人生を現代のサラリーマン社会に準えるならば、毛並みの良い名家出身の御曹司が、社内派閥による社長レースに巻き込まれ、社長が変わるたびに上司が変わり、栄転、左遷を繰り返す。ライバルにチクられては辺地の支店に飛ばされ、ライバルが失敗して蹴落とされされると、再び本社の陽の当たるイスに復帰するという転勤人生。花も嵐も踏み越えて、その苦労、その悲哀。でもなんとか最後は取締役まで上り詰め、画期的な全社あげての文化事業?も完成させた。こうして大伴家の名誉を守り、後世に名を残した苦労人、と勝手なアナロジーを妄想すると、まるでサラリーマン小説を読んでいるようではないか。身につまされる現代サラリーマンも多いことだろう。いや「事実は小説よりも奇なり」である。しかし、人はあなたを優れた歌人として記憶している。権謀術数に翻弄され切歯扼腕、涙した「サラーリーマン」としてではなく。大伴家持 偉大なり!


最後に、家持の代表的な歌は多数あるが、聞き覚えのある長歌の一部を紹介したい。

「...  海行(ゆ)かば、水漬(みづ)く屍(かばね)、山行(ゆ)かば、草生(くさむ)す屍(かばね)、大君の、辺(へ)にこそ死なめ、かへり見はせじ...  」

戦時中、ラジヲから盛んに流れたこの歌は家持の歌だったのだ。命を賭して天皇に忠節を誓う武門の氏族、大伴氏の心情を歌ったものだ。しかしこの部分は、聖武天皇の大仏建立事業に必要な金が陸奥で発見されたことを寿ぐ長歌の一部である。戦時中はこの部分だけが切り取られて天皇への忠誠と戦意高揚に利用されたというわけだ。



2023年2月14日火曜日

古事記の神話は「稲作の起源」をどのように語っているか? 〜「豊葦原瑞穂国」はどこから来たのか?〜

 

豊葦原瑞穂国
田植えに始まる稲作農耕

日本最古の稲作農耕集落跡「板付遺跡」


上空から見る「板付遺跡」
都市化した環境にわずかに残る初期の環濠集落の痕跡



前回のブログ(https://tatsuo-k.blogspot.com/2023/01/blog-post_11.html)では、古事記の神話は「人の起源」をどのように語っているか、について考察してみた。今回は、日本の文化の基層をなす稲作の起源について見てみたい。稲作農耕文化はどこから来たのか?古事記はどのように語っているのか。

文明や文化は古来、大陸や半島から海を渡ってやって来た。そして人の移動に伴ってやって来た。海で隔てられた列島への到達には船を操る海の民の存在が必須だ。したがって農耕文化の伝来にも漁労民、海洋民の介在があった。あるいは海洋民が定住して農耕民になっていったこともあるだろう。列島においては、まず大陸に近い沿岸部にそうした文明のフロンティアが成立した。それが列島内部に徐々に展開してゆく。そうした外来の文明や文化を「受容」し「変容」させて独自の文化を生み出していった。それをまた海を経て発信していった。それが日本である。

稲作農耕文化も例外ではない。まず最初は種籾を持った大陸の人々が小さな船で海を渡り列島に稲作を伝えた。文明や文化そのものを伝えることが目的であったわけではない。様々な事情で危険な海を渡り、大陸から船でやって来た。そして生活のために列島に定着して、その種籾を撒き稲作を始めた。それを見た列島の人々が、その種籾をもらい、耕作のやり方を習って稲作を始めた。徐々に従来の縄文的なコミュニティーが、外来の農耕定住コミュニティーの影響を受け、それを「受容」し、列島風に「変容」していったのが弥生時代である。文明や文化はこうした人々の通交、交流の中で伝搬し定着し、また還流してゆく。考古学的には、大陸に近い北部九州の福岡の板付遺跡、江辻遺跡、唐津の菜畑遺跡など紀元前930年頃の水耕稲作遺跡が日本最古の稲作の痕跡ととされている。稲作はこの頃大陸から伝わったのであろう。これが狩猟・採集や小規模な栽培を生業とする縄文的な人々の社会に変革をもたらし、定住して農耕を営む弥生的なムラ、クニが生まれ、やがて国になった。これが日本の先史時代の姿であった。もっともこうした縄文から弥生への変遷は、フェーズ転換やパラダイムシフトというような急激なものではなかったことも、最近の研究で明らかになっている。それでも大陸からもたらされた稲作農耕が、日本列島の住人に大きな変化をもたらし、日本の文化に大きな影響を与えたことは事実だ。このことは7世紀の古代日本人の記憶の中にもはっきりと生きており、それがその時代に記述され編纂された古事記や日本書紀、万葉集などに表現されている。

ではこの稲作の起源を、古事記はどのように語ってるのだろう。結論を先にいうと、「どこから来たのか?」というよりは、この葦原中国においては稲作が「所与」のものとして扱われているのではないか、ということである。まず、高天原から葦原中国に稲作と農耕をもたらす上で重要な役割を果たしたのはスサノヲであるとされているように見える。とは言っても、スサノヲが稲作をもたらした、と明確に語られているわけでもない。曖昧である。古事記の神話では次のように語られている。高天原を追放されて放浪している途中、スサノヲは食べ物を求めて女神、オオゲツヒメカミ(大宜津比売神)と出会った。オオゲツヒメカミは体の穴という穴から食べ物を生み出してスサノヲに提供した。しかし、スサノヲはこれを穢れたものとして殺してしまう。そのオオゲツヒメカミの体からは蚕や五穀が生まれ、その中からカムムスヒノミオヤノミコト(神産巣日御祖命)が穢れを祓って穀物の種をスサノヲに与えた。これが葦原中国における稲作農耕と養蚕の起源であるとされている。やがて出雲にたどり着いたスサノヲは、そこでクシナダヒメ(櫛名田比売)に出会い、ヤマタノオロチを退治してヒメと結婚する。後にスサノヲの子孫であるオオクニヌシ(大國主命)が国を栄えさせた、これが地上の国の始まりであると。いわゆる「出雲神話」前半である。ここに登場するクシナダヒメは、クシ(奇し)イナダ(稲田)ヒメ(女性)、尊い稲田の女神、すなわち稲作の女神であると解釈される。高天原から追放されたスサノヲが地上の国、出雲に稲籾を持ってやってくる前にすでに稲作の女神がいるのである。では、その前に登場する先述のオオゲツヒメカミとはどのような神なのか。この話は、出雲神話のヤマタノオロチ退治やクシナダヒメとの結婚の前に、唐突に現れた話で、古事記のストーリーに一貫性がない例の一つであるとされてきたが、このオオゲツヒメカミの物語は、稲作起源譚にとって重要なエピソードであるという説を唱える研究者もいる(三浦佑之説)。すなわち、この神は体内からあらゆる食物が出てくる、すなわち大地の恵み、生命力を宿した神「大地母神」のような神であるとする。しかし、これは栽培・耕作といった秩序だった生産活動をイメージするものではなく、狩猟・採集をむねとする混沌とした生産の女神である、すなわち縄文的な女神であり、弥生的な稲作の女神ではない。この縄文の女神が殺された話が、弥生時代への転換を象徴的に示唆しているとする。そして、スサノヲが出雲で出会ったこのクシナダヒメが稲作の女神であり、これが弥生の女神の出現だというわけだ。

興味深い解釈だ。しかし、これは、稲作伝来を契機とした縄文時代から弥生時代への変遷という歴史を知っている後世だからこそ、そのように解釈したのではないかと考える。むろん古事記の作者には、オオゲツヒメカミは「縄文的」女神、クシナダヒメは「弥生的」女神という区分認識はなかったであろう。またスサノヲがカミムスヒから得た種は稲だけではなくて、五穀の種と養蚕である。そのなかでクシナダヒメという稲作の女神と結婚することで稲作が別格な農耕であることを示したにすぎないのではないだろうか。古事記では明確な稲作の起源譚が語られず、クシナダヒメの存在が示唆するように、稲作は高天原(天の国)からもたらされたものではなく、葦原中国(地上の国)に既に存在しているものとして描かれているように読める。ただ、確かにこのエピソードからは、「縄文的」な混沌とした生産の時代(狩猟採集の時代)から、「弥生的」な秩序だった生産活動の時代(稲作農耕の時代)への変遷があった、という認識を古事記の作者が表明したものであるようにも読める。7世紀の倭人いや日本人の心の基底に、縄文的な時代の記憶が受け継がれていて、稲作農耕がその時代を大きく変えたと認識し、それがやがては「治天下大王」である天皇を生んだ、という理解が示されている。これは必ずしも稲作=天皇という明確な図式ではないにしても、稲作農耕社会の登場が、狩猟採集社会とは異なる天皇のような統治者の出現を想定していた。8世紀に表された古事記にこのような上古の日本人の記憶の基層にある「歴史観」の表明があるとするとこれは興味深い。

ちなみに、このオオゲツヒメカミの物語に類似の神話は、インドネシアや、太平洋島嶼地域、メキシコやペルーに広く伝承されている。すなわち、生きている間は、人間に食料を与え、殺されてから、その死骸のあちこちから穀物(芋、豆、とうもろこし、稲など)などの栽培作物を生み出した女性(女神)の物語である。農耕や作物の起源神話の一つの類型、「ハイヌウェレ型」(インドネシアに伝わるハイヌウェレ神話に原型を求めたドイツの民俗学者の類型)と言われるものである。これに類する民間伝承や昔話は、「山姥」話のように日本のあちこちにも伝わっている。オオゲツヒメカミ神話もその典型的な事例で、古事記がこうした外来の神話の影響を受けていることを示唆している。その中でも、さらに「稲」に特別な意味を持たせたのがクシナダヒメやスサノヲの物語であったのだろう。

一方で、日本書紀では異なる稲作起源譚を示している。スサノヲではなくツキヨミが、オオゲツヒメカミではなくトヨウケを殺して、その死骸から生えた稲と穀物をアマテラスに献上したとする。しかしアマテラスはこれに怒り、ツキヨミとは今後一切同じ時間を過ごすことなく、アマテラスは昼間を、ツキヨミは夜を支配することとなった。これも、前出の「ハイヌウェレ型」であるとともに、太陽と月が昼夜で入れ替わる起源を説明している。また、「一書に曰く」で、アマテラスが高天原で育てられた神聖な稲籾を孫のニニギに託し、そのニニギが葦原中国を統治するために高天原から葦原中国の筑紫の日向に降臨するときに、この稲籾を携えて降りてきた。これが地上に稲作が始まった起源であるとする。この日本書紀の稲作起源説明のほうが、古事記のそれよりも明解で、しかも霊性があり神話としての説得力があるように思える。また、この「穀霊神の降臨」という神話は朝鮮半島にも伝わる。国外にも説得力を持つ神話として受け入れられることを狙ったのかもしれない。したがってアマテラス、ニニギの子孫たる天皇はその稲作に関わる祭祀の主宰者として権威を有し、皇室祭祀において稲作と養蚕が深く係る起源がここにあるとする。この、稲作がニニギによって地上にもたらされたとする点と、天皇の祭祀と稲作の強い結びつきを主張している点が、古事記の説明とは異なる。

差はさりながら、日本にとって稲作が特別なものとして受け止められていることは古事記でも日本書紀でも共通である。五穀の中でも稲が大八州、葦原中国の原初的な作物であり、日本は高天原からやって来た天孫族がもたらした稲作文化の国であり、それ故に、日本は「葦原中国」、「豊葦原瑞穂国」などと表現されている。ここには、海の向こうの大陸からもたらされた外来の作物、外来の農耕文化が根付いたものであるとの認識は表明されていない。この主張は、これまでも考察してきたように、日本が中国の華夷思想(大宇宙)、朝貢冊封体制から脱して、高天原の神々の子孫である天皇を頂点にいただく日本という小宇宙を形成する、という思想、国家観の表明と同根である。天武、持統期の新たな律令制国家樹立、「大王(おおきみ)」から「天皇(すめらみこと)」へ、自分が名乗ったわけでもない「倭(わ)」から「日本(ひのもと)」へ国号変更と同様、「豊葦原瑞穂国」もこの時代の国家アイデンティティー表明のエピソードのひとつなのだ。日本書紀は外国(中国)を意識して編纂された国の「正史」であるが、古事記は外国を意識していない分だけ、稲作農耕=天皇祭祀といった図式が明確に表明されていない。ただ日本文化の基底にある稲作文化は、天から与えられ、大八州に独自に始まり開花した文化だと説明している。このように古事記は日本書紀とも異なるストーリーを展開しているわけだが、どちらがより正確に日本における「稲作」の起源を説明しているかといった解釈論争してみてもそれは無意味であろう。稲籾を、スサノヲが持ってきた。いやニニギが持ってきた。その違いは神話の世界では重要かもしれないが、歴史の世界では史実とは別の「物語」でしかない。

こうした稲作の起源をめぐる捉え方一つを見ても、古事記は、客観的な史実、あるいは過去の出来事の記憶を基にして編纂された「歴史書」ではなく、かと言って古来より伝わる伝承や口承神話を積み上げて文字化した「神話集」でもなく、7世紀後半から8世紀前半という「日本国家」形成期において、最初から或る意図を持ってストーリーを作り(いくつかの撰録された伝承や神話に仮託して)記述された作品としての「物語」であるという性格が明らかになるであろう。語り継がれる神話や伝承を取捨選択して「文字化する」時点で、その撰録と、後世に残ることを見据えた文章表現には編纂を命じた為政者の意図が明確に表明され、作者がその意図に沿って物語として完成させる。まさに序文に言うところの「帝紀・旧辞をよく調べただし、偽りを削り、真実を定めて撰録し、後世に伝えよう」とした物語、すなわち「天皇の物語」なのである。そのように読むことで古事記の奥深さがより味わえるのだと思う。まさに古事記の解釈に関する定説は、「成立論的解釈」から「作品論的解釈」へと変わってきている。


参考文献:

「古事記」神話から読む古代人の心 三浦佑之 NHK出版

日本古典文学全集「古事記」 山口佳紀、神野志隆光 小学館

参考過去ログ:



2021年8月25日水曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第六弾) 〜とりあえずこのシリーズ完結編。で、謎は解明されたのか?〜

 

竜王山から展望する
初期ヤマト王権の地
左から大和三山、箸墓古墳、纒向遺跡、行灯山古墳、渋谷向谷古墳、背景は葛城山、金剛山、二上山



甘樫丘から見る三輪山

黒塚古墳頭頂部より箸墓古墳を展望

纒向居館跡発掘現場
背後には三輪山が


大和路散策もままならぬこの夏、夏休みの宿題じゃないけれど、「巣篭もり」中は充実の自宅学習で過ごす。NHK 文化センター講座の「日本古代史」をオンライン受講している。国際日本文化研究センター倉本一宏教授の明快な講義が腑に落ちる。もともと倉本先生の「戦争の日本古代史」「内戦の日本古代史」(いずれも講談社現代新書)、そして「大学の古代史」(山川出版)を読んで、我が日本古代史、特に3世紀倭国事情に関する疑問に見事に応えてくれる解説に感動していたこともあり受講することにした。論点はすでに理解しているつもりでいるので、6回シリーズの講義でこれまでの理解の整理を図り、あとはQ&Aによる論点解明が目的だ。講義は明快で論理的である。文献史学に考古学的研究成果も取り入れて、変なバイアスや「トンデモ異説」を廃した歴史観の提示であり、「素人歴史探偵」が喜んで飛びつくようなロマンチックで興奮するような物語ではない。歴史学に客観的という言葉が適切かどうかは別にして、通史として俯瞰的に眺めるアプローチと言ったら良いだろうか。すなわち邪馬台国近畿説、北部九州説云々という、少々地元が熱くなりがちな位置論争に巻き込まれることなく、3世紀当時の日本列島の姿を、そしてその国の有様を俯瞰する。邪馬台国や卑弥呼(3世紀の中国の史書三国志魏書にしかでてこない)は筑紫の地域連合とその首長の話であり、近畿大和の初期ヤマト王権とは別のものであるということ。当時の日本列島にはまだ統一的な王権など存在していなかったということ。これを明快に解説している。なぜ邪馬台国「近畿説」論者(依然として多数説とされるが)は無理に邪馬台国を奈良盆地の大和地区(あるいは纏向地区)に持ってきて、ヤマト王権、ひいては後世の大王家、天皇家につながるルーツだとしたがるのか?文献を読み返しても、考古学的な資料を見ても、なぜそのような結論になるのか?疑問を呈している。私も全てを先に決めている答えに無理やりこじつけているようで違和感を感じ続けていたので、先生の解説はいちいち納得であった。

倉本先生も指摘しているが、中国の三国志の魏書(いわゆる魏志倭人伝)にしか記述のない邪馬台国という北部九州の首長連合体の存在が、当時の列島全体の倭王権を代表していると考えること自体が、乏しい文献記述にこだわって惑わされている証拠である。まして三国志のなかでは魏書しか残っておらず、蜀書や呉書は失われていることから、魏と対峙して江南地方に勢力を有していた呉が倭国(近畿大和?)と交流していた可能性がないとは言いきれず、その記録が現存しないことも考慮しておくべきだとする。さらには、魏志倭人伝の記述を素直に解釈すれば「邪馬台国連合」が北部九州の範囲内であることは明確であるのだが、それを色々解釈を加えて(南を東と読み替えたり、距離を読み替えたり、地名を無理に当てはめたり)、どうしても近畿へ持っていこうとする。一方で、7世紀末から8世紀初頭に日本の天皇支配の起源と歴史と正当性を記述した日本書紀や古事記では「邪馬台国」「卑弥呼」に触れていないし、編者は魏志倭人伝を参照しているにもかかわらず、その記述をどのように位置づけるか述べていない。すなわち、記紀では邪馬台国や卑弥呼を天皇家のルーツとはみなしていない。3世紀半ばの列島は、いくつかの地域首長の国・クニや、その地域連合が各地に併存していた時期で、まだ統一的な王権など存在していない。のちに大和盆地に起こった初期ヤマト王権も、徐々に筑紫や、吉備、出雲などとの緩やかな首長連合を形成してゆく(古墳時代)が、統一的性格の「王権」「大王」が現れるのは5世紀の雄略大王の頃だし、血統による世襲、すなわち皇統(「万世一系」の)という概念が成立するのはさらに継体大王の時代6世紀以降の話だ。それでもなお大王が豪族・氏族を束ねる力は強いとは言えず、7世紀、8世紀初頭の古事記、日本書紀でようやく天皇を名乗り皇統の系譜が整理され、地域の豪族や氏族ごとの神々の体系化(皇祖神を中心とした同族化)が記録されるようになった。こうした史実にもかかわらず、近畿説論者は、3世初頭にはすでに列島には統一王権が存在し、それが後の天皇家のルーツであると主張する。もっとも、そう言っている人も「なんかおかしいぞ」と感じながら「まあ細かいことはいいじゃないか!」と主張を曲げていない気がする。こうなると、何らかの政治的な意図の発露か、あるいは地元に観光資源を確保したい自治体の思惑か、ロマンチックなフィクションの創出か、いずれにせよ学問の話ではない。

また倉本先生は、考古学的な年代確認手法とそれに基づいた時代確定にも疑問を投げかけている。纏向遺跡や箸墓古墳の炭素年代測定法による、邪馬台国・卑弥呼と同時代の「3世紀中」推定だ。毎回測定するたびに時代が遡ることにも不思議さと違和感を感じるという。邪馬台国、卑弥呼が存在した時代に合わせるように遡らせる考古学者。マスコミ、地元自治体という構図なのか。倉本先生の「余談」によれば、纒向遺跡研究の第一人者である寺沢薫先生も、もはや地元とマスコミに押し切られて、自説を訂正できなくなっているという。どこまでホントなのか知らないが、言い出した以上引っ込みがつかない事は研究の世界でもあるかもしれない。きっと王の纒向居館遺構も盟主墳である箸墓古墳も、「環濠集落」形態の国/クニで特色づけられるチクシの邪馬台国よりは、もう少し新しい時代の遺跡ではないのか?という素朴な疑念である。炭素年代測定法という「科学的証明」の信頼度と、文献史学的な「整合性」との相剋だ。木を見て森を見ない断定は危険ですらある。そこに何らかの政治的、利害的な意味合いや意図を潜り込ませうる余地があるからだ。

いわゆる「邪馬台国論争」についてはこれまでのブログで私論を述べてきたし、倉本先生の論考で整理され私なりの結論は出たので、ここで改めて繰り返さない。そこで、やはり問題は「初期ヤマト王権(倉本先生は「倭王権」と呼んでいる)はどこから来たのか?」「彼らは何者なのか?」ということに行き着く。以前のブログでも考察してきたが、意外にこの「日本という国家の成立起源」がよくわからないことに気付かされる。今までは邪馬台国がそうだ、とあまり深く考えずに片付けていたのだが、そうでないとすれば、大和に発生したという日本のルーツは奈辺にあるのか。Q&Aセッションでは下記の質問に丁寧に解説を加えていただいたが、やはりスッキリと謎の解決には至らない。まだまだ未知の部分が多いと感じた。


1)そもそも初期ヤマト王権の勢力はどこから来たのか?大和盆地の土着勢力が発展したものか?外来勢力が「無主の地」に移住して成立したものなのか?

2)なぜ、奈良盆地が倭王権・倭国の中心になったのか?

3)チクシ王権が魏に朝貢し冊封を受けたのに対し、ヤマト王権が中国の呉王朝と通交があったとすれば、その証拠は出ているのか?

4)3世紀以降、奈良盆地になぜ古墳がこれほど大規模に築造されたのか?


1)唐古・鍵遺跡に代表される奈良盆地の複数の弥生以来の農耕集落を起源とする土着勢力が糾合して成長し、初期ヤマト王権を形成し、三輪山の麓に纏向王都を形成したのであろうとする。これは以前のブログで紹介した、奈良文化財研究所の坂靖氏が「ヤマト王権の古代学」で結論とした「土着説」と相通じる見解である(初期ヤマト王権はどこから来たのか?第五弾https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/06/blog-post_30.html)。「神武東征」伝承などに引っ張られがちであるが、外からの勢力が「無主の地」奈良盆地に移住してきてできた王権ではないだろうとする。吉備や、出雲、筑紫からも人は集まってきただろうし、多くの影響(祭祀、葬祭儀礼、古墳などに)を受けているが、ここで首長となるような勢力にはならなかったとする。ただ、特定の勢力が王権を最初から独占したのではなく、初期には大和・河内あたりの地域勢力の首長間のいわば持ち回りのような形であったのではないかと推測している。その証拠が首長墳、盟主墳である古墳群が盆地のあちこちに点在していること。大和古墳群、柳本古墳群、佐紀古墳群、馬見古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群などである。盟主墳が次々場所を変えて造営された背景はこれだという。これまでの、三輪王朝、葛城王朝、河内王朝などが盆地内、河内で王朝交代を繰り広げたという説を否定するものだ。いずれにせよこうした狭い盆地内での各集落同士の寄り合いや談合の中から王や、さらにその上に立つ大王が生まれてきたのだろうということだ。しかし、なぜそのような盆地内の在地勢力が、列島他地域に優越し、全体を統治する勢力に育っていったのか。依然としてまだモヤモヤが払拭できない。やはり「王権の成立」には「大陸との通交」という東アジア的な視点に基づく地政学的な研究を無視し得ないのではないだろうか。その視点で考えると大陸の影響を早くから受けてきた西日本の先進地域(筑紫、出雲、吉備などの)と無関係に、急に奈良盆地の大和が高度先進地域に発展したとは考えにくい気もする。奈良盆地に移住してきた勢力や外来勢力の存在が鍵になっていることを否定はできないのではないか。

2)次に、なぜ奈良盆地なのか?これは謎だという。王都は交通の便が良い大阪湾岸、河内でも良かったはずだと。筑紫、出雲、吉備などの西日本との緩やかな首長連合が成立したので、次は東の国や首長との連合を目指した初期ヤマト王権が、西の瀬戸内海と東の伊勢、尾張との交通の要衝であった三輪山麓に交易拠点を設けたのではないかという仮説を示している。纒向は瀬戸内海と、大和川水系を利用した水上交通を運河で結ぶ交易の結節点という遺跡である。全国からの土器が出土していることから、ここが開かれた初期の「都城」であったらしい。しかし100年でその姿を消している。かといって盆地の外へ「都城」が移転したのではなく、盆地内で拠点が移動している(奈良盆地を出て北の山城国に移転するのは794年のこと)。なぜ、そんな箱庭のような狭い盆地の中で主導権争いに終止していたのであろうか。それが日本列島全体に大きな影響を与え得た理由は何なのか。1〜3世紀のチクシ王権(奴国、伊都国、邪馬台国)の有り様を見ていると、大陸の強い影響下にあり、王の統治権威や権力基盤、鉄資源を主とする経済的な優位性も、中華王朝の朝貢冊封体制下(東アジア世界的な秩序)にあったことを考えると、外界から適度に隔絶された奈良盆地に成立したヤマト王権の統治権威、権力、経済基盤がこうした東アジア世界的秩序と無縁で、大陸の影響なしに確立できたとは考えにくいのではないか。それともチクシ王権とは異なる求心力があったのだろうか。

3)そういう視点からも、3世紀に江南の呉との通交があったのではと推測するのであるが、呉との通交の証拠で確実なものはまだ見つかっていない。中国側の文献史料(三国志呉書のような)が逸失している以上、何らかの物証が日本側で発見されることが期待される。特に大陸との朝貢冊封関係や通交を示唆するような印綬や「威信財」が盟主墳墓から出てこれば有力な証拠となる。しかし、多くの盟主墓と考えられる前方後円墳が陵墓指定されているため発掘調査ができないから調査しようがないという。またそれ以外の古墳(実は未指定の大王墓があると考えられている)の多くが盗掘されており副葬品の出土が少ないという。他の墳墓でいくつかの呉鏡が見つかっているし、呉の工人が存在していたらしい痕跡(仿製鏡の工房など)もある。しかし、そもそも奈良盆地の3世紀以前の遺跡から王権の存在や大陸との通交を推測させるような遺物・威信材は見受かっていない(前述の坂靖氏の「ヤマト王権の古代学」)。初期ヤマト王権と呉王朝との通交(朝貢冊封関係)はまだ推測の域を出ないのだはないかと感じる。やはりここでもチクシ王権(奴国/伊都国/邪馬台国)がその統治権威を中国王朝との朝貢冊封関係によって得ていたこと、その証拠としての金印や、王墓から大陸由来の鏡、剣、玉などの威信財が大量に出土していることを鑑みると、今後の考古学的発見に期待するものの、初期ヤマト王権と中国王朝との通交の痕跡が乏しい感は否めない。そうなると、再び3世紀の初期ヤマト王権の統治権威の基盤はなんだったのだろうという疑問が湧いてくる。

4)そこで古墳の持つ意味合いが重要になってくる。大和盆地に発生した我が国に特有の前方後円墳は、ヤマト王権を特色づける重要な考古学資料であるが、単なる首長の墳墓(盟主墳)ではなく、葬送儀礼や前方部は祭祀や即位儀礼の場であり、しかも葺石で覆われた建造物自体が権威/権力を表象する巨大なモニュメントとしての意味合いがある。これが国内に置ける政治的な同盟、同祖同族関係の証しとして全国に広がっていった。すなわちヤマト王権から統治権威を地方に与える意味を持っていたと考えられている。しかし、箸墓古墳や渋谷向山古墳、行燈山古墳、メスリ山古墳などの初期の大型前方後円墳の築造が、本当に3世紀初頭〜中期(魏書に言う邪馬台国/卑弥呼の時代)なのか?前述のように多くの考古学者は炭素年代測定法という「科学的計測」によっているので、間違いないと信じているようだが、サンプリングによる計測精度に誤差は全くないのか?また、その時代の列島内の先進地域であったチクシ倭国の農耕環濠集落(戦闘/防御を意識した集落)形態の国の姿(吉野ヶ里の姿に象徴される)と、ヤマト倭国の都市(防御施設がなく運河、河川で外部と繋がっている)形態を有する国の姿(纒向に象徴される)とが、全く同時代とはどうも考えにくい。前方後円墳のような巨大な構造物も弥生の香りを残す環濠集落(例えば唐子・鍵遺跡のような)と同時代的に併存するものではないのではないか。これらの大型前方後円墳は早くとも3世紀末期のものではないかと推測する。4世紀に入ると中国は魏や呉の末裔である晋が滅び、五胡十六国の混乱の時代に移ってゆくことから、周辺国(いわゆる蛮夷の国々)は中国王朝との朝貢冊封関係が揺らぐ事態となる。そうしたなかで倭国では新しい統治権威の確立、新秩序の模索がはじまっていたとも考えられる(魏王朝と晋王朝という統治権威の後ろ盾を失ったチクシ倭国の邪馬台国は衰退していったのだろう)。大和の古墳はその象徴的な遺跡であろう。そういう意味では古墳は4世紀以降に普及していったモニュメントであると考えるのが妥当ではないのか。なお古墳は大陸からの影響は考えにくい倭国独特の施設だ。吉備の特殊基台、出雲の四隅突出型古墳。筑紫の威信財副葬形式などが集合してできたと考えられる。なぜこのような墳墓形態が生まれたのか。どうしてこれが奈良盆地発の統治権威や同祖/同族のシンボルとして列島統合に用いられたのか。じつはあまり分かっていないことの方が多い。最近、韓国で前方後円墳が見つかったと話題になっており、韓国の考古学会では、やはり前方後円墳は半島由来ではないか、と発掘調査を進めた。しかし、結局は6世紀以降の築造であり、むしろ倭人の半島進出に伴う倭系有力者の墳墓であることがわかってきている。だが、このような巨大な施設や土木工事技術が、列島内で、さらにいえば奈良盆地や河内で独自に発展したものなのか明らかではない。何らかの渡来系の集団の技術ノウハウが伝わっているのではないだろうかとも考える。ちなみにチクシ王権の地、北部九州には、3世紀時点では大和で見られるような大型前方後円墳は見られず、大陸由来と思われる墳丘墓が中心である。このように大規模古墳がヤマト王権を特色づける統治権威のモニュメントであることは疑いないが、その全容はまだまだ解明されていないと感じる。

残念ながら、今回はこれら全ての謎の解明には至らなかった。やはり「初期ヤマト王権」のプロファイリングには未知なる部分があまりにも多い。明治維新後の「天皇制」や「国体」につながるルーツの歴史であり、戦後は皇国史観が廃されたとはいえ、日本の起源に関する歴史であるが故に、さまざまな憶測や思惑も絡む。そして、まだまだ限られた文献史料、考古学的資料に依拠する議論であることが謎の解明に立ちはだかっている。新しい発見とこれからの更なる研究成果と斬新な仮説が待たれる。まあわかってしまうとこれ以上探求する興味も失せてしまって、やることがなくなるのでいけない。幸いなことに、これからも「時空トラベル」は終わることはなさそうだ。


三輪山山麓に広がる初期ヤマト王権の所在地、纒向遺跡
箸墓、他の前方後円墳群
(桜井市纒向学習センターHPより)


(掲載した写真は、2012年三輪山、箸墓古墳、纒向遺跡発掘現場、龍王山を訪ねた時のもの。撮影機材:Nikon D800E + Nikkor 24-70, 70-200)




「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」シリーズ、過去のブログ

2020年4月15日:第一弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/04/blog-post_15.html

2020年4月27日:第二弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/04/blog-post_27.html

2020年5月8日:第三弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

2020年5月26日:第四弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/05/blog-post_26.html

2020年7月1日:第五弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/06/blog-post_30.html

2020年12月26日:プレゼンテーション資料 
                                                                                                                                                                                https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/12/blog-post_26.html










2020年7月1日水曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか(第五弾)〜考古学はどのように語っているのか?〜

三輪山
この山麓に「おおやまと」という「クニ」が生まれた

2009年三輪山山麓で古代居館跡が発見された
纒向遺跡である

箸墓古墳
「おおやまと」の初代の王の墳墓だと考えられる
三輪山を背景に


これまでは中国の史書、そして日本の文献史料「古事記」と「日本書紀」を読み解き、文献史学的アプローチから「初期ヤマト王権」をプロファイリングしてきた。そして考古学的アプローチからその姿をあきらかにすることができないものかと考えていたところに、興味深い本を見つけた。坂靖氏による「ヤマト王権の古代学」(「おおやまと」の王から倭国の王へ」)2020年1月新泉社刊、だ。氏は奈良県立橿原考古学研究所で長く県内の発掘調査に携わってきた考古学研究者である


「俯瞰的」研究アプローチ

著者は橿原考古学研究所による大和盆地各地の長年の、かつ広範な考古学的発掘調査の成果をもとに、北部九州や近畿地方の発掘成果をも広く取り入れて、かつ中国の史書、日本書紀、古事記にも言及し「ヤマト王権」の出自、発展の過程を描いている。この多様なソースにアクセスしながら「俯瞰的」に見ると言う視座が重要だと思う。文献史学研究者はともすれば、自分の研究領域に関する資料にあまりにも固執して全体を見ない傾向に陥りがちであるように感じる。一方の、考古学研究者はさらにその傾向が強く、自分のテリトリーの地域や対象の成果物を中心に置き、そこから全体を判断しがちだ。こうしたアプローチの仕方、思考回路を断ち切って全体を「俯瞰」し、距離をとって客観視する。その中に専門領域の研究成果を位置付け、評価してみる。そう言う研究手法が大事だと思う。

本書は、奈良盆地という地理的範囲、考古学という研究領域を超えて「ヤマト王権」の実像に迫っている。結論から言うと、まずは邪馬台国は北部九州にあり、近畿に発生したヤマト王権とは別のものであるとする。この時代は日本列島にはいくつかの地方勢力が分立した状態であり、いまだ統一的な政治勢力や「王権」は存在しなかったと。その上で「ヤマト王権」の出自を奈良盆地の三輪山山麓の「おおやまと」地域の首長であるとしている。以前考察したような「チクシ勢力のヤマトへの移動」という仮説を支持してはいない。土着の勢力が発展したとしている。これまでも述べてきたように、邪馬台国北部九州説については異論はないので、その論考をここで改めて紹介しないが、著者も相変わらず邪馬台国近畿説が多数説であると注釈している。邪馬台国がヤマトにはなかったことをこれだけ考古学的にも証拠立てて説明し、その論旨は極めて明確であるにもかかわらず、いまだに近畿説が優勢であるといわざるを得ない事情が何かあるのだろうか。地元の(所属していた)橿原考古学研究所的立場が「近畿説を裏付けるための研究」なのではないか?つい余計な邪推をしてみたくなる。


邪馬台国時代(3世紀前半)のヤマトの姿

3世紀前半(弥生後期)に、中国王朝と通交(朝貢/冊封)をもった勢力は大和にはなかったとする。北部九州に多く出土する楽浪郡系の土器も大和盆地には検出されない。この頃奈良盆地には巨大な環濠集落遺跡、唐古・鍵遺跡が見つかっているが、弥生時代を代表する大きな集落であることは否定しないものの農耕生産の地域集落であり、「国」と呼べるような政治勢力ではない。また同時期に「おおやまと」地域に纏向をはじめとする大小いくつかの地域勢力としての「クニ」が認められるし、その首長である「オウ」の存在が認められる。その墳墓が大和古墳群の大型古墳であるとする。しかし、その遺構(纒向遺跡)の規模は(古墳は巨大であるが)、同時代(庄内式土器期)の北部九州チクシの奴国王都とされる須玖・岡本遺跡や比恵・那珂遺跡、伊都国王都と考えられる三雲南小路遺跡や井原遺跡、あるいは、河内の中田遺跡群や加美・久宝寺遺跡群などに比べても規模の小さいものである。また朝貢/冊封による統治権の認証の証拠たる「威信材」に至っては、北部九州にのみ検出されており、箸墓古墳や行燈山古墳、渋谷向谷古墳などの大型古墳が並ぶ「おおやまと」古墳群においても見つかっていない(宮内庁が陵墓指定している古墳の調査はできないが)。すなわち政治勢力としての「国」、その統治者である「王」の存在の証拠は大和盆地には見つかっていないことになる。むろん「邪馬台国女王卑弥呼」の存在を示す「しるし」も見つかっていない。

奈良盆地の三輪山の麓に広がる「おおやまと」地域に発生した地域勢力「クニ」が発展して国になり、その首長「オウ」が「王」になって勢力を拡大していくのだが、この時点(3世紀前半)では北部九州チクシ倭国に優越する「国」の存在はヤマトには認められない。しかし、この後その「クニ」が、3世紀後半〜4世紀には「国」となり、古墳時代を生み出し、5世紀の雄略大王(倭王武)の時代にはに列島各地に勢力を伸ばし朝鮮半島にも進出、6世紀継体大王の時代に、のちの飛鳥朝の天皇制という血縁による王統/皇統を形成していった。「ヤマト王権」の血縁系譜が始まったのは6世紀以降と言ってよい。著者は「ヤマト王権」の出自は奈良盆地の三輪山麓「おおやまと」であるとする。ではどのように「おおやまと」の地域首長「オウ」は政治的集団の「王」になっていったのか?


「オウ」と「王」は何が違うのか?

著者は、先に引用したように政治的権力を有する「王」と、その前段階の地域首長「オウ」、政治的まとまりである「国」と、その前段階の地域集団「クニ」とを区別して使っている。これは発展段階的な区分で使用しているのだろうと考えられる。しかし、「オウ」と「王」の違いは、その政治的な統治権威が誰に認証されているかの違いである。「オウ」は地域「クニ」の開発(農地の拡大、水路の確保)に実力を発揮し、地域「クニ」の民に押された「むらおさ」的な首長であるが、「王」はより上位の権威によってその「王」たる「国」の統治権威を与えられなくてはならない。その権威の象徴としての(上位権威から下賜された)印綬、鉄剣や玉や銅鏡といった威信材を保有している必要がある。こういう観点から北部九州チクシ王権の「王」たち(奴国王、伊都国王、邪馬台国女王)は、中国王朝の皇帝から統治権威を認証された(朝貢/冊封体制と言う形で)。その証左として印綬や銅鏡、鉄剣などを下賜され、それらが遺跡や墳墓からは検出されていることで彼らが「王」であったことが「証明」されている。

それに対しヤマト王権の「オウ」たちは、誰に(何によって)その統治権威を認証されて「王」になったのだろうか。少なくとも3世紀前半(弥生最晩期)、庄内式土器期、すなわち邪馬台国時代には、大和盆地からは、中国皇帝の威信材は全く出土していないことが明らかになっているわけであるから、この頃のヤマトの「オウ」たちは中国皇帝に朝貢/冊封して「王」となったわけではないということになる。するとだれがヤマトの「オウ」を「王」にしたのか?著者はこの点に関しては触れていない。考古学者としての推測を排した客観的、科学的姿勢なのでああろう。

しかしこの点は重要だ。すなわちヤマトの「オウ」は、自力で(いくつかの有力首長との同盟関係を得て)統治権威を周辺の勢力(と言ってもせいぜい最初は奈良盆地内)に認めさせていったのであろう。まずは大和盆地内、そして河内、摂津、和泉など畿内、さらにはその周辺に勢力を拡大してゆき、政治的な権威/権力を地方の首長たちに認めさせていった。しかしその場合、その権威/権力の源泉は、中国王朝からの冊封という外的権威でないとしたら、稲作の生産力や富の蓄積、鉄などの資源であったのか、それに伴う地域の祭祀を執り行う権威であったのか。そこを明らかにする必要がある。その統治権威のシンボルが3世紀後半に始まった大型古墳であったのだろう。こうした葬送儀礼にまつわる大型の建造物築造の背後にあるものはなんだったのか。考古学的な年代表現で言えば、庄内式土器期の次の時代の布留式土器期のこととなる。4世紀になると中国の文献史料に倭国との通交の記録が出てこないいわゆる「空白の4世紀」となる。これは中国王朝の混乱(五胡十六国)が主因であり中華世界の権威、朝貢/冊封体制が混乱したせいであろうが、一方で倭国側にも政治的な混乱があったことが考えられる。すなわち中国の朝貢/冊封体制下にあったチクシ倭国が(中国王朝の混乱で)衰退し、ヤマトが倭国の中心に成長した世紀であったと考えられる。このころのヤマトでは大型古墳が築造されるが、先述のように大陸との通交を示すような(あるいは威信材のような)副葬品は出ていない。おそらく中華王朝の権威とは独立した倭国支配の「統治権威」が生み出されていったのだろう。その後、5世紀の「倭の五王」が中国の南朝に朝鮮半島の軍事的支配権などを求めて朝貢しているが、必ずしも倭国内の統治権威の認証を求めたわけではない。その時の上表文で倭王武は父祖の時代から倭国内の勢力を討伐し(おそらくは同盟し)、平定していった様子を述べている。「そでい甲冑を貫き山川を跋渉し寧所にいとまあらず」である。すなわちチクシの倭王たちのように中国皇帝に倭国の統治権威認証を求めず、自力で支配権を広げていって「倭王」になったと言っている。やがてこの後は、徐々に中国皇帝に朝貢して冊封を求める統治権威認証の獲得をやめ、倭王自身が「統治権威」の源泉となり、地方の豪族や首長にその地域の統治を認める、倭王武(雄略大王)の「治天下大王」宣言と大王が官職を与える「官職制」を打ち立てていった様子が見て取れる(稲荷山古墳の鉄剣、江田船山古墳の鉄剣に刻まれた銘文)。6世紀の継体大王の時期になると、血統による王統の継承、世襲制という観念が取り入れられ(それまでは血統による世襲や、皇統などといった概念は存在していなかった)、その権威を証明するための皇祖神創設、祭祀、神話の体系化、へと進み、さらに7世紀末から8世初頭ににかけて中国風の律令国家建設へと進んでいったと考えられる。その反映が、すなわち正史である「日本書紀」や天皇の記である「古事記」であり、その記述に、そもそもヤマト王権と繋がりのない朝貢/冊封国家、チクシの邪馬台国や女王卑弥呼の記述を避けることにつながっていったと考える。


「おおやまと」の「オウ」はいかにして「ヤマト王権」になったのか?

著者は「ヤマト王権」は奈良盆地の三輪山の麓の「おおやまと」地域に発生して成長し、勢力を拡大していった王権であるという。しかし、3世紀のチクシ王権の時代から、次のヤマト王権への移行過程は依然として見えてこない。なぜ、そのような奈良盆地の片隅にいた「おおやまと」地域勢力「クニ」が倭国を支配する「国」に発展していったのか。「オウ」が「王」になり、さらに「大王」になっていったのか。歴史学では「空白の4世紀」と言われる部分だが、考古学的にもこの間の事情を物語る遺物は少ない。その中で、4世紀後半に百済王から倭王に贈られたと言う「七支刀」が数少ないヤマトに残された有力な遺物である。これは倭国(おそらく初期のヤマト王権)が朝鮮半島へ進出した証であると考えられている。と同時に、この頃はすでにヤマト王権がチクシ王権に変わって倭国の有力政権であると、朝鮮三国(とりわけ百済)に認識されていた証拠でもある。あるいは、東晋、百済、ヤマトという、それぞれの地域王権が連携し、分裂した東アジア情勢を同盟で乗り切ろうとした証とも言える。しかし、チクシ倭国の邪馬台国の女王壱与の晋への遣使から100年余りの時間経過の間に何が起きたのか。この頃のヤマトに大陸との交流を物語る決定的な考古学的な発見は多くはない。しかし、ヤマト王権が大陸との通交なしに発展したとも考えにくい。黒塚古墳などの初期古墳から見つかる三角縁神獣鏡などの中国の影響を受けた鏡の出土はそれが舶載鏡ではないとしても、その(コピー)製造(量産)をヤマトのどこかで行っていた可能性が強い。また「おおやまと」地域の大型古墳の築造に大陸の影響は全くなかったのであろうか?著者は「ヤマト王権」は邪馬台国の持つ中国正史に記述された外交関係とは別の大陸(中国だけでなく朝鮮半島諸国)との外交関係や交流を持っていただろうと言う。ただ、大陸から離れた奈良盆地に発生した土着の地域勢力が、いかにして勢力を伸ばし、列島全体をを支配下に置き、さらに朝鮮半島まで歩みを伸ばすことができたのか。「おおやまと」の勢力は大陸との交流をどのように行っていたのか。意外にもこうしたことが未解明である。すなわち4世紀に朝鮮半島の3国間の紛争に百済に誘われて出兵しているが(好太王碑文)、この頃の倭国の支配権を誰が握っていたのか?ヤマトとチクシの関係はどのようなものであったのか依然として謎である。「空白の4世紀」と言われる所以である。おそらくこの間に倭国全体の支配力に関して、チクシ王権からヤマト王権への実力の移行があったのであろう。チクシ王権は中国王朝の混乱により統治権威の輝きは失われていて、伸びてきたヤマト王権の「実力」の前に、徐々に衰退し、地方勢力(依然として大陸に近いと言う地の利を生かして優位性を保ってはいただろうが)になっていったのだろう。と同時にヤマト王権は、混乱の中国王朝に変わって朝鮮半島諸国(特に百済や伽耶)との通交関係(朝貢・冊封関係とは別の)を深めてゆき、そして列島内の勢力を拡大していったのだろう。すなわち中国王朝との「朝貢」「冊封」体制からの離脱が始まり、いわば「自力」統治権威認証と権力の集中が始まったと考える事ができるのではないか。


しめくくり

筆者は最後にこう述べて締めくくっている。「ヤマト王権の時代とは何かと問われたとき、「おおやまと」の王として出発したヤマト王権の王が、倭国の王としての国家体制や秩序を徐々に形成し、6世紀にそれを完成させた時代であると結論づけることができよう。」(引用)。著者の論考は、私の持論を考古学的な観点から実証し、いくつかの点を支持するものであるので大いに読んでいて納得であった。しかし、結局はなぜ、どのように「おおやまと」の地域首長「オウ」が「王」となり、さらに「大王」として他の有力首長(豪族/氏族)を抑え(同盟し)倭國を支配下におき、朝鮮半島に進出しうる(支配したとは考えないが)統治権威と権力を得ていったのか。その力の源泉は何だったのか。著者が指摘するような生産力の拡大と強さだけでそうなったのか。それに加える力の源泉が何かあったのか(外部からのインパクトなど)。一方で、多くの考古学的な証拠が見つかっていないものの大陸との通交なしには考えられないとも指摘している。「おおやまと」土着の首長「オウ」が倭国の「大王」になってゆくその過程で、なにか大きなパラダイム変換(外来勢力のヤマト侵入など)はなかったのだろうか?土着の勢力がリニアに列島内に勢力を伸ばしていったとすることには少し無理があるように思う。例えば3世紀に始まる古墳時代に、何か大きな大陸との革命的な人的通交があったのではないか。巨大古墳を築造する技術はヤマト盆地に自生したものなのか?大陸の周辺部に位置する列島国家という地政学的な立ち位置から、倭国/日本は常に大陸との関係性の中で生きてきた。東アジアの政治的、文化的影響を免れることなく生成され発展してきた。「おおやまと」の「オウ」「王」も例外ではないであろう。大陸との通交による対外的要因でなく6世紀までに列島内に勢力を伸ばしていったのだとすれば、それは何なのだったのか?あるいは大陸と通交していたとすればどことであったのか(三国志の時代の呉か?五胡十六国時代の朝鮮半島の役割はいかなるものであったのか)。大陸に近いチクシ勢力との関係は全くなかったのか。その答えに肉薄できなかったのが残念というほかない。もっともこれは考古学的アプローチだけでは解明できないだろう。文献史学、歴史学領域研究との協業が不可欠である。


唐古・鍵遺跡
弥生後期の環濠集落跡
箸墓古墳遠景

箸墓古墳
黒塚古墳頂上部からの展望




纏向居館跡発掘現場
2009年
現在は埋め戻されて史跡公園になているようだ

龍王山山頂から展望する「おおやまと」地域
左に大和三山と箸墓古墳、中央部に行燈山古墳、右に渋谷向山古墳
纒向遺跡はほぼ中央部に

(参考書籍)
ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ-坂-靖




2020年2月16日日曜日

「出雲と大和」展@東京国立博物館 〜なぜ出雲は古事記神話の中で重要視されているのか?〜



加茂岩倉遺跡銅鐸埋納状況復元模型
(数少ない写真撮影可能な展示物)


今、東京国立博物館で「出雲と大和」展をやっている。古代史ファンである「時空トラベラー」としては見逃すわけにはいかない。特に、倭国の実態、あるいはヤマト王権の成立過程、「日本(ひのもと)」建国過程における出雲の役割と位置付けには未知の部分が多い。これまで筑紫/チクシ倭国の実態や古代日本成立における役割については色々と書籍を読み研究し、またゆかりの遺跡、歴史の現場を探訪してきた。すなわち魏志倭人伝にその姿が叙述されている「邪馬台国」「卑弥呼」の時代のことである。しかし、同時代に列島内に存在し、大きな勢力を誇ったであろうと考えられる出雲については、この時代(紀元前1世紀〜紀元3、4世紀)の文献資料として唯一残されている中国の史書(漢書、後漢書東夷伝、三国志魏志東夷伝、晋書、宋書など)に記述が全く見えない。一方で、8世紀初頭に倭国/日本で編纂された史書、すなわち古事記、日本書紀においては、中国王朝と朝貢冊封関係にあったという卑弥呼の邪馬台国と筑紫倭国30カ国の記述はほぼ見当たらないのに対し、出雲に関しては多くの紙幅を費やして様々なエピソードが詳細に記述されている。この差はなんなのか?大和にとっての出雲の位置づけと、筑紫の位置づけには大きな違いが見て取れる。記紀編纂の経緯に何か隠された謎がある様な匂いがする。


1)文献史料に見る「出雲」

たとえば、古事記(712年)の神話の記述のほぼ3分の1が「出雲神話」で占められていおり、「大国主命の国譲り」が大きな出来事として記述されている。また正史として編纂された日本書紀(720年)には「出雲神話」としては記述が少ないが、「神代」の部分で出雲が大己貴命(大国主命の別名)によって地上の国として建国され、天上界の国に「国譲り」した経緯が記述されている。もう一つの文献資料である出雲國風土記(733年)も、他の地域の風土記の多くが散逸し、ほぼ完存する風土記はこの出雲風土記だけである。ヤマト王権の正史に記述されない地元の伝承や神話(国引き神話など)が記述され今に残っている。このほかに出雲国計会帳(正倉院文書)も完存しており、日本の古代史を物語る文献史料の多くが散逸したり、部分的にしか残っていなかったりする中、出雲に関しては多くの古代文献が残されている。それだけ古代史研究において出雲がハイライトを浴びることになってきたわけだ。しかし、それにも関わらず謎の多い「古代出雲」である。それはエピソードの多くが「神話」の世界として描かれているいて、史実との関係が曖昧だからだ。その「神話」、古事記に記述のある「出雲神話」および「天孫降臨神話」の要旨は次のとおりである。

出雲神話 国譲り神話
スサノヲの子孫大国主命が葦原中国(あしはらなかつくに:すなわち地上の国)を治める(「天津国」のスサノヲの子孫であるが「国津神」とされる)。しかし天上界にいるアマテラス「天津神」に国譲りする。その代わりに大国主命は高殿を建てて奉斎されることになる(出雲の杵築大社:出雲大社の由来)。また大和三輪山神、大物主命(出雲系大国主の別神)を大和に祀る(日本書紀では大国主命ではなく大己貴命となっている)。

天孫降臨神話 神武東征伝承
その「葦原中津国」を治めるために、筑紫の日向に「天津国」からアマテラスの孫、ニニギが「三種の神器」とともに降臨し、その子孫、神武が東征して、同じく天孫族の子孫である饒速日命一族を排して大和に入り初代天皇として建国する。

こうした記紀神話の記述から、出雲勢力が治めた国が大和に征服された(ないしは反対に出雲が大和に進出した)。後にその大和は筑紫から来た勢力に征服された。これが記紀神話の底流にある日本建国の物語だとする歴史研究者もいる。「神話」がそのまま「史実」であるとの考え方は、戦後はさすがに否定されたが、こうした「神話」の物語が、なんらかの「史実」の投影ではないかと考える研究者がいる。「国譲り神話」と「天孫降臨神話」、「神武東征」(こちらは神話としてではなく初代天皇の事績として記述されている)はなんらかの史実の反映なのか。遠い時代の歴史的「記憶」の反映なのか。

そもそも、この「神話」の物語はいつの時代の「記憶」をテーマにしたものなのか、それ自体が不明である。すくなくとも紀元1〜3世紀の日本列島はまだ統一国家、統一王権は存在せず、各地にいくつかの勢力が並存していた時代である。その一つが筑紫の邪馬台国連合であり。また出雲であっただろう。あるいは吉備、越(古志)、尾張などに有力な国、地域連合がいわば列島内で割拠していた状況であったと考えられる。筑紫や出雲と大和だけが歴史の主人公であったわけではないし、まして「倭国」全体を対外的に代表していたわけでも無い。ようやく近畿の奈良盆地や河内あたりにヤマト王権らしき、他地域に優越する勢力の姿が垣間見えるのは5世紀の中国の史書に見える「倭の五王」の時代になってからだ。その前の4世紀頃(倭人が朝鮮半島に出兵したという記録がある高句麗の好太王碑文や百済から伝来した七枝刀の時代)に徐々に各地域勢力が合従連衡の動きを示し、やがて近畿のヤマト王権に収斂していったのであろう。近畿の大型古墳がそれを物語る考古学的な証左であろうが、しかしそのプロセスを叙述する歴史的資料は見つかっていない。中国王朝の分裂、混乱の時代(五胡十六国時代)であったため正史が整っていない。すなわち「謎の4世紀」と言われる所以である。したがって4〜5世紀頃の出雲の姿も文献史料上見えてこない。

一方で、我が国初の歴史書、正史である日本書紀、古事記は、ようやく8世紀初頭になって編纂されたものである。天武/持統帝の天皇制宣言、新国家「日本」建国事業の一環として編纂されたものである。すなわち大王(おおきみ)/「天皇」の統治権威の正統性を内外に宣言する政治的な文書として編纂された。各豪族による「私地私民制」から天皇による「公地公民制」へ、律令制による豪族の官僚化。その過程ではヤマト王権に統合してゆく各地方豪族、有力氏族をいかに納得させ、「合理的に」秩序立てて、天皇家の臣下と位置づける。これは換言すれば、いかに各豪族の祖霊神を皇祖神天照大神の下に体系化させるか、という難事業であった。その中の「出雲の扱い」、「筑紫の扱い」である。その記紀のなかで出雲は、ヤマト王権にとって大国主命の神話の出雲大社と大和の大神神社をかかえる王権/天皇の祭祀における重要な存在として記述された。一方の筑紫は、宗像三女神の神話が中心で、ヤマト王権の大陸との通交を可能とする海北道中(大陸への交通路)を守る存在と記述されることでヤマト王権の中枢に位置付けられた。しかし、中国の史書に記述のある朝貢冊封国家たる筑紫の倭国の邪馬台国や奴国、伊都国に関する言及は無い。

しかし、ヤマト王権と各地の勢力との交流は、出雲、筑紫に限らず多面的に展開されていたはずだ。先述の通り、当時の日本列島の様子は、地域ごとに国、豪族、地域連合が併存しており、統一的な王権や国家を形成するには至ってなかった。出雲や筑紫が記紀において重視されて記述されたのは、ヤマト王権が記紀編纂にあたって、皇祖神を頂点とした各豪族の祖霊神、地域氏神を体系化する中で、より王権/天皇家に近い、あるいは無視しえない「有力豪族」の物語(多くはその豪族から提出された)が採録された結果だと考える。すなわち、出雲氏や宗像氏のヤマト王権における発言力や、貢献度、あるは「近しさ」が影響していたと思われる。そういう点で中国皇帝に朝貢し冊封を受けていた筑紫の邪馬台国や奴国、伊都国は、中華皇帝に対抗して「天皇」(東アジアにもう一つの皇帝を宣言)を名乗るヤマト王権/天皇にとって、「近しい」どころか、王権/天皇家のルーツと考えたく無い国々だったのだろう。正史と言っているが史実とは必ずしも無関係な政治的な文書なのだ。

出雲氏は、ヤマト王権に臣従する代わりに、王権の国家祭祀/儀礼を担う。これが「大国主命(皇祖神天照の弟スサノヲの子孫とする)の「国譲り神話」「出雲大社創建」という形で記紀に記述された。一方の、筑紫の宗像氏はヤマト王権に臣従する代わりに、大陸との交流を一手に引き受ける「制海権」の保証と「海北道中」を守る国家祭祀を担う。これが宗像三女神(天照とスサノヲの誓約から生まれたとする)として記紀に記述された。ちなみに筑紫には、ヤマト王権に臣従しない強力な勢力があった。これがチクシ王権の盟主磐井氏である。新羅と組んで徹底的にヤマト王権と戦ったが、ついに滅ぼされた。これは記紀に「神話」の世界の話としてではなく、継体天皇の「事績」としての「筑紫国造磐井の乱」として記述されている。このとき宗像氏は筑紫のチクシ王権、磐井には味方せず、大和のヤマト王権側についたことから本領安堵され、大陸との通交の制海権も獲得できた。


2)考古学資料に見る「出雲」

ここですこし考古学的に出雲を振り返って見てみよう。出雲では近年驚きの弥生遺跡が次々と見つかっている。大量の銅剣、銅鐸が埋納されて見つかった荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡:弥生時代の青銅器祭祀遺跡(紀元前後の時代)があり、一方で、弥生時代から古墳時代への過渡期を示す四隅突出型墳丘墓という特異な墳墓形式を持つ西谷墳墓が見つかっている。加茂岩倉遺跡から発掘された大量の銅鐸は、銅鐸文化=近畿、銅剣文化=北部九州という「定説」を覆す発見であった。また荒神谷遺跡の大量の銅剣と銅矛は、銅剣は祭祀用に出雲で鋳造されたものであるが、銅矛は北部九州産であることがわかっている。これらの考古学上の発見は、出雲が弥生時代後期には大和と筑紫と交流し古墳時代初期において特異な文化を誇る有力な地域勢力であったことを物語っている。おそらく魏志倭人伝に記述のある「邪馬台国」の時代(3世紀〜4世紀)には、すでに日本海沿岸に「出雲国」が栄えていたのだろう。しかし魏志倭人伝には一切記述がないが。

こうした弥生の出雲文化はある時期に一斉に消滅してしまう。青銅器祭祀文化の途絶である。大量の銅鐸、銅剣、銅矛の埋納という行為そのものが、なんらかの理由で祭祀の形態をガラリと変えた事を示していると考えられる。その理由は明らかにはなっていないが、これをもって出雲勢力が大和勢力に屈服して消された(国譲り神話の根拠)考古学的な証左であるとする見解がある。しかし、こうした弥生の遺跡は記紀神話が編纂される700年も前の時代のものである。8世紀初頭に編纂された記紀の「出雲神話」「国譲り神話」の背景にある歴史的な事件として「記憶」されたとは考えにくい。

またヤマト王権がほぼ全国に勢力を及ぼしつつあった古墳時代に入ると、出雲地域にも多くの古墳が造成された。しかしそれらの古墳は規模の点で100mを超えるものは一基もなく、大和の大王クラス、蘇我氏などの有力豪族クラス、筑紫の岩戸山古墳(筑紫磐井の墓)や宮地嶽古墳(宗像氏の胸形徳善の墓)クラスの古墳はない。古墳の規模が政治勢力の規模を示す指標だとするならば、出雲には大和や筑紫に匹敵する有力な豪族がいた証拠はないということになる。また大和型の前方後円墳が圧倒的で、畿内の古墳に準じたものである。当時の出雲以外の各地域に検出する古墳の形態と同じであり、特に出雲が何か突出した特色を持つというものはない。そもそも大和を中心に形成された古墳という墳墓形態、葬送儀礼は、各地域の墳墓、葬送儀礼を吸収、統合しながら形成されたものと考えられている。ヤマト王権による一定の列島支配の姿が見えるようになった古墳時代には、全国にいわば「大和型」の古墳が広がった。出雲もそのワンオブゼムということになる。しかし、一方で古墳形態とは別に、祭祀の形式、葬送儀礼のあり方に出雲独自のものがこの頃にも残っており、これがヤマト王権の祭祀に大きな影響を与えたとする研究がある。また、霊力があるとされた玉類(勾玉や管玉)の生産は6世紀以降になると出雲でほぼ独占的になされていたことから、ヤマト王権/天皇家の国家祭祀や王統/皇統の権威材(三種の神器)供給にも影響を与えたであろう。8世紀初頭における記紀編纂事業(豪族の体系化)のなかで、こうした祭祀のルーツや権威材の供給地である出雲が他地域と異なった扱いになったのであろうと考える説が唱えられている。


3)大和王権祭祀における「出雲」の役割

一方、律令制下においては出雲国造が宮都における任命儀礼や、天皇に対する「神賀詞」(かむよごと)奏上儀礼を執り行うなど、出雲氏/出雲臣の王権中枢/朝廷における役割が重視され、ヤマト王権/天皇家の国家祭祀に大きな影響力を持っていた。こうした国家的な祭祀を執り行うために出雲国造は定期的に上京していた。律令制下の地方官僚、出雲の国造となった出雲氏/出雲臣と、ヤマト王権/朝廷の律令制の神祇官僚である伴造で出雲国守であった忌部宿禰子首とのつながりが無視できないと言われている。この。いわば中央官僚である忌部氏は記紀編纂において大きな影響力を行使したと言われ、出雲国造の祭祀/儀礼が天皇家の「国家儀礼」との因縁浅からぬものである事を、記紀に記述させる役割を果たしたのだろうと考えられている。

すなわち「出雲神話」「国譲り神話」は、弥生時代に起きた古代日本の(倭国の)成り立ちの歴史(文献資料的には中国歴代王朝の正史に記述された倭国情勢)とは関係なく創作されたストーリーであろう。スサノヲの子孫、大国主命が建国し支配した「葦原中国」すなわち出雲が、天照大神の「天津国」すなわち大和に軍事的に屈服した歴史的記憶が「国譲り」と記述されたわけでもなく、その後に「筑紫の日向の高千穂」に天から降臨してきた天孫族のニニギとその子孫、神武天皇が筑紫から東征して大和攻め込み、橿原で即位し新たな大和を建国したわけでもない。8世紀の記紀編纂時における上記の様な王権内/朝廷内の政治事情や、氏族/豪族との勢力バランスが大きく関わってると思われる。

これまで幾度も述べてきた様に、記紀の記述は、史実を客観的に述べているわけではない。白村江の敗戦、壬申の乱後の内憂外患の7世紀を経て、8世紀初頭の天皇制国家「日本(ひのもと)」建国プロセスの中、ヤマト王権が「天皇」として律令国家を形成する過程で、畿内の氏族や各地に勢力を張っていた有力豪族を統合するプロセスを「神話」という形で記述したものだ。それは、これまでの多くの氏族・豪族の祖霊神が並立するという多神教世界に、大王/天皇の祖先である皇祖神天照大神を頂点とした一神教的な秩序と体系化を目指す営みと連動させたものだ。それぞれの神と皇祖神天照との関係をストーリーとして明確にすることが求められた。そのプロセスの中で、出雲氏は無視し得ない有力な地方豪族であったのだろうが、それは国家祭祀に強い影響を有する祭祀/儀礼の担い手という点であり、決して出雲勢力が大和に軍事的に進出して建国したり、それを筑紫から東征してきた勢力に滅ぼされたり。あるいは出雲勢力が大和勢力に滅ぼされたり、と言った暴力的な武力闘争があったと考える必要はなさそうだ。したがって、それ故に歴代天皇の事績の中に記述されるのではなく、神話や神代の出来事として記述されたのだろう。


まとめ

今回の「出雲と大和」展には、出雲の古代日本建国プロセスに関わる役割、「邪馬台国」に象徴される「倭国」の時代の出雲国の姿など、私にとっての基本的な疑問に答える展示は残念ながら少なかった様に思う。出雲に関しては、以前に出雲大社を参拝した時に、発掘された心御柱や宇豆柱、出雲大社本殿模型を現地で見学させてもらった。また加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡から出土した青銅器祭祀の膨大な数の銅剣、銅鐸が埋納されていた事に驚いたことを思い出す。大和の方は大阪赴任中の5年間に毎週の様に通った奈良、大和路で見学して回る機会があったものが多く展示され、それぞれに再会を果たすことができたことはうれしい。感動は石上神宮の「七枝刀」の現物が展示されていた事だ。通常は門外不出。石上神宮でも滅多に公開されない「秘宝」である。したがって私にとって、ここでの拝観が初めてである。島根県と奈良県からそれぞれの歴史的文献や考古学的に貴重なお宝を持ち寄って展示したという点では豪華な展示会であった。しかし、かつて大和路,筑紫路、そして短時間であったが出雲路を散策した時に常に抱いていた疑問。すなわち中国の史書にしか記述が残っていない「倭国」の実態や、そこからどのようにヤマト王権が列島の統一を果たし、やがては「日本」が建国されていったのか。記紀の「出雲神話」や「天孫降臨神話」「神武天皇東征物語」が語るエピソードのなかに、客観的な史実はあるのか。そう期待して見て回ったが、展示の中にそれらを垣間見させる様なヒントはなかなか見えてこなかった。文献史料としての記紀による歴史研究にはやはり限界がある。記紀に出雲に関する記述が多くとも、神話というストーリーの底流に流れているものは「史実」ではなく、編纂当時の王権の「政治的なメッセージ」である。なにがしかの歴史の記憶が潜んでいるとしても、それを証明する文献史料も、それを補う考古学的な発見も限られている。展示会の「日本のはじまりここにあり」とのキャッチコピーにも関わらず、そういう意味では残念な展示会であった。もっともこの展示会のために発行された「図録」のなかで、東京大学の佐藤信名誉教授と島根県立八雲立つ風土記の丘の松本岩雄所長が寄せられた解説になるほどと思うヒントがあったことが収穫であった。やはり展示物を眺めているだけでは見えてこないことがある。いや、まだまだ歴史のミッシングリンクは見つかっていないことを確認したと言うべきか。日本の成り立ちを探る旅はまだ始まったばかりである...か。



2018年12月3日月曜日

2018年紅葉探訪 〜奈良公園編〜


 紅葉を巡る旅の最後は奈良。限られた時間内に錦織りなす秋を楽しむなら奈良公園。まずは、300年ぶりに再建なった興福寺中金堂を拝観。仮金堂から遷座された釈迦如来座像を堂外からも正面に拝観することができる。興福寺は明治の廃仏毀釈で多くの堂宇が破壊され、つい最近まで残っていたのはわずかに五重塔と東金堂そして南円堂、北円堂、三重塔のみ。その五重塔も廃材として当時の金で二十五円(二百五十円という説も)で落札されたが、取り壊しになる直前に周辺住民の反対で取りやめになったという逸話が残っている。この時、興福寺、大乗院、一乗院に所属の僧侶の多くは還俗し春日大社の神官になったといわれている。中金堂は江戸時代に消失して以来再建されなかった。創建1300年の藤原一族の氏寺にして、南都北嶺(奈良興福寺と比叡山延暦寺)としてその勢力を誇った大寺院は、見る影も無い有様であった。境内の多くの築地塀も撤去され(一部痕跡が残っているが)、広大な旧境内の敷地は奈良公園になった。興福寺はこうして奈良公園の中に寺域もはっきりしないまま存在する形となる。

 今回は、興福寺、飛火野、浮御堂、東大寺、大仏池、依水園、吉城園、そして最後に奈良県庁屋上からの展望という2時間ハイライト周遊コースをとった。奈良市内は大阪勤務時代に何度も歩き回ったコースだから目をつぶっていても廻れる。もっともこの紅葉の美しい季節、目をつぶっていては勿体無いのでしっかり目を開け、カメラで出来るだけ多くの紅葉ショットを切り取るよう心がけた。奈良の寺は京都の寺と異なり、国家鎮護の仏教教学の拠点として創建された。むしろ現在の大学のような存在であった。東大寺然り、唐招提寺然り。または薬師寺の世に天皇家の創建になる寺か、この興福寺のような藤原家の氏寺である。国家、為政者の威信をかけた壮大な伽藍を有す巨大な寺院で、現世利益を願い、極楽往生を願う庶民の信仰の場して創建されたわけでなかった。現在でも、京都の寺のように紅葉の名所として、観光客が巡るような雰囲気ではなく、狭い境内や庭園が人でごった返すというようなこともない。しかし、紅葉の穴場スポットは確実にある。観光客で溢れる定番の観光コースから少しだけ離れるだけで良い。観光客はそれを知らないだけだ。こうして穴場巡りをするのが奈良における紅葉探訪の醍醐味だ。

 慌ただしく京都、大阪、奈良と紅葉を巡る旅を楽しんだが、ふと落ち着いて考えると不思議だ。何がって、どうして人はモミジの葉が赤くなったり、イチョウが黄色くなったりするのを見るために東奔西走するのか。春の桜狂躁曲とともに、季節の移ろいを感じる秋の紅葉狂躁曲。慌ただしく早くも「見頃」から「散りゆく」に変わる季節。人は、いや日本人はどうしてこんなに桜や紅葉に反応してしまうのか。観察していると外国人観光客の中国人も欧米人も、紅葉に反応してシャッター切る人は少ない。餌をねだる鹿に盛んにシャッター切っている。四季の移り変わりを楽しみ、自然と共生する。それが温帯モンスーンという「風土」に暮らす日本人の性質なのだろうか。そういえばイギリスの田園。丘陵地帯の黄葉/紅葉も素晴らしかった。ハイドパーク、ケンジントンガーデンのプラタナスの黄色が鮮やかであった。アメリカのアパラチアトレイルやベアーマウンテンの全山真っ赤!という鮮やかな紅葉のスケール感も圧倒的であった。しかし、それを見にわざわざ出かける人も、シャッター切りまくる人もそれほど居なかった気がする。その季節だから道路が渋滞する。列車が満席だ、宿が取れない。そんなことはなかった。山が赤い!綺麗だ!でもそれがどうした?という反応だ。National Geographic Your Shotに紅葉写真を投稿してもそれほどの反応がない。「お花見」や「モミジ狩」騒ぎは日本人だけなのか!ちなみにこのNatGeoに風景投稿してみると面白いことがわかる。日本人にウケる写真とがそれ以外の国の人々にウケる写真が違うことがある。反応が一様なのは「花」の写真。京都の寺の紅葉などの「景観」には潜在的な期待感があるなしでウケが大いに異なることを発見した。面白いものだ。





再建された興福寺中金堂


御本尊、釈迦如来を堂外からも拝める





春日大社表参道から脇にそれてゆく

茶屋



深山幽谷の趣

晩秋





浮御堂


手向山八幡宮
東大寺大仏殿裏の二月堂へ続く道

東大寺大湯屋



東大寺大仏殿裏


大仏池









東大寺大仏殿
東大寺塔頭指図堂前の紅葉
依水園と吉城園


依水園正門


奈良県庁屋上からの展望
東大寺南大門

こんなところに洋館が!
奈良国立博物館
(撮影機材:Leica CL, Vario-Elmar-T 18-56 ASPH,  APO-Vario-Elmar-T 55-135 ASPH,  Super-Vario-Elmar-TL 11-23 ASPH)