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2026年6月7日日曜日

コーヒー・ハウスとは何か? 〜17・18世紀ロンドンのソーシャル・ネットワーキング〜

ホガースが描く18世紀ロンドンのコーヒー・ハウス


伝説のコーヒー・ハウスButton'sに設けられたライオンの投書箱

代表的なコーヒー・ハウスGarraway's

1700年頃のコーヒー・ハウス内部(British Museum蔵)

シティーにある現在のロイズ保険会社


 「コーヒー・ハウス」ってなに?

17〜18世紀イギリスに花開いたコーヒー・ハウス文化。主としてロンドンの中心街に社交の場として開かれ、特に1660年の王政復古ののちに盛んになった。これまであったタヴァーン(酒場)とは異なりコーヒー・ハウスでは酒を出さない。海外、特にアラビア、トルコから伝わった大航海時代の産物「コーヒー」を出す。これは二日酔いに良いと考えられ、健康にも良いと信じられ人気となった。コーヒーのメリットを盛んに喧伝したのはフランシス・ベーコンである。さらにやはり海外から持ち込まれた砂糖、タバコ、カカオも嗜まれた。エギゾチックな香りの飲み物と紫煙に満ちたコーヒー・ハウスはたちまちトレンディーな社交の場となった。何よりも強い酒で思考が朦朧として、喧嘩も絶えずまともな議論が出来ないタバーンではなく、コーヒーは脳を覚醒化させて理性的、合理的に議論し、判断できることが好まれた。17世紀の詩人アレキサンダー・ポープは「コーヒーは政治家を賢明にした」と言っている。ちなみに茶(Tea)が社交の場に入ってくるのは19世紀になってからのこと。

コーヒー・ハウスは入場料1ペニーとコーヒー一杯2ペンス払えば誰でも店に入れる。コーヒーを飲みながら自由に議論し談笑し、情報交換する場となった。もともと航海を終えた冒険商人、これから航海に向かう冒険野郎などが集まり海外情報を交換する場であった。有名なロイズ・コーヒー・ハウスがその典型である。そこで海外情報が共有され、新しい商売が着想され、リスクヘッジの保険のアンダーライターを探し、やがて株価情報が行き交い、市場動向がつかめる場となって行った。エリザベス一世はロンドンに株取引所を開設したが、ディーラーたちはその周りにできたコーヒー・ハウスで取引をした。まだ郵便制度ができる以前には、ここで手紙を書き、宛先別の袋に入れておけば船乗りや行商人が配達してくれるし、ここで手紙を受け取ることもできた。特に海外向けの信書の扱いで通信手段が限られていたので重宝された。

またコーヒーハウスには政治パンフレットや新聞、雑誌が置かれ、誰でも無料で読むことができ、図書室を併設するところもあった。様々な情報に接する機会が用意されていた。ここでの客同士の会話は最新のニュースであり新聞記事の情報源となった。このようにコーヒー・ハウスは一種の情報センターであり、ジャーナリズムの揺籃となった。また、人が集まれば必然的に商品やサービスの広告宣伝の場になった。コーヒーが健康に良いという噂に釣られ来店する客に向けて、怪しげな薬やニセ医者の広告宣伝の場となり、特にペスト流行時にはイカサマ情報が横行しトラブルも多かったようだ。当時の旅行記や風俗詩に格好の話題を提供した。

コーヒー・ハウスには真実も有益な情報もあったが、フェイクもウソもハッタリなどいかがわしい話も混在した。陰謀を企む者やスパイの暗躍する場ともなった。政府にとっては都合の悪い言論動向を把握し、フェイクニュースやプロパガンダで故意に世論操作する場ともなった。時には検閲官が出入りすることもあった。王政復古後一時、言論統制のためチャールズ2世によってコーヒー・ハウス禁止令が出されたこともあるが、なんとか規制をすり抜け、業界は逞しく成長し、一時はロンドンだけで3000を超える店があったという。コーヒーハウスはますます繁栄した。こうした虚実内混ぜのカオスの中から世相を読み取り、時代の流れを見極め、商売や政治や文学作品が生まれた。コーヒー・ハウスはまさにそうしたオープンなソーシャルネットワーキングの場であった。

コーヒー・ハウスには誰でも入れるとは言え、出入りするのは時間に余裕がある人々であり、毎日仕事に追われる労働者階層の人々の来るところではない。第一、少なくとも新聞を読める、すなわち識字能力を持つ階層であることも重要だ。政治や文学に関心があり一言物申す知識と教養、あるいは「エセ紳士」であってもそれらしく振る舞うお厚かましさ、皮肉やウィットに富んだ会話も求められる。すなわちここは、上流階級や都市ブルジョワのものであった。しかし時代とともに徐々に有産階級の一角をなすようになる中産階級のジェントルマン(気取り)や、上昇志向の学生や若者の溜まり場になっていった。また文字を読めない人が読める人から新聞を読んでもらうことも盛んになった。ただあくまでも女性は除外される。


「場」としてのソーシャルネットワーキングの諸相

1)政治、言論の場として:

王政復古後からは政治的色彩が出る。トーリー(王党派)とホイッグ(議会派)の根城になる。と言っても、のちの「クラブ」ほど厳密な区分があったわけではないく、そういう傾向、系統の人物がよく集まったという程度であったようだ。トーリー系では、ココア・ツリー(Cocoa Tree's)、チョコレート・ハウス( Chocolate House's)といった店が有名であった。一方、ホィッグ系では、セント・ジェームス( St. James's)、スミルナ(Smilna's)が有名で エドムンド・バークも訪れたという。また人気風刺作家のジョナサン・スウィフト、ダニエル・デフォーが出入りしたコーヒー・ハウスは、トーリー系であったりホィッグ系であったり揺れ動いていたようだ。「政論」が教養人たるに必要な一種の流行であった時代のものだ。

2)経済・株取引・保険の場として:

ギャラウェイ(Garraway's)、ジョナサン(Johnathan's)、ロイズ(LLoyd's)などの伝説的なコーヒー・ハウスがあった。これらはイギリスの経済的な発展を支えたとも言える。こちらは政治色は薄く、交易情報の交換、株価、市場動向など経済活動に専念する客層が集まった。王立株取引場(Royal Exchange)の周辺には多くのコーヒー・ハウスが開店していた。ジョナサンは株の売買を、ギャラウェイはハドソン会社の毛皮や船の売買を、ロイズは保険を扱った。のちに世界的なロイズ保険会社にようなイギリス経済のインフラを支える企業も出てくる。一方で、南海泡沫事件のようなバブルの温床にもなり、破産者が多く出た。

3)文学サークルとして:

 文学界の大御所と言われたジョン・ドライデンが中心となっていたウィル(Will's)には多くの文人が集まった。いわゆる上流の「ウィット:Wit」(才人)の集まるコーヒー・ハウスで、ポープも常連であった。もう一つの有名所はバトン(Button's)。こちらは中産階級向けの文人サロンで、アディソン、スチールなどにより、一般の市井の出来事「エブリマン」が多く語られた。ジョナサン・スウィフトも出入りした。店主が、雑誌への投稿を促すためライオンの頭の投稿箱(上図参照)を準備したことで人気があった。他にもジョン(John's)、チャイルド(Child's)など。この時期のイギリス文学を知る上で欠かせないサロン、文学界プラットフォームであった。

4)ジャーナリズムの場として:

18世紀に入っての啓蒙的傾向が強いコーヒー・ハウスである。 バトン閉店後の、コベントガーデンのベッドフォード(Bedford's)などは、デフォー、アディソン、スティール、デヴィド・ギャリック、ホレイス・ウォルポールなどが出入りした。先ほどの「ライオン頭」の投稿箱も引き継いだ。他にもセントジェームス(St. James)など、テーマごとに特色を持ったところが生まれた。こうしたコーヒー・ハウスから、中産階級のホイッグを代表するデフォーの「レビュー」、一方でトーリーを代表するスウィフトが主筆の「イグザミナー」、そのほかスティール創刊の文芸誌「タトラー」「スペクテイター」「ガーディアン」といった新聞、雑誌が生まれ、ジャーナリズムの揺籃となった。

5)イカサマ師、大衆文学、風俗発信の場?:

しかし18世紀後半になると、流石のベッドフォードのような文人に愛されたところも、種々雑多な人間の寄せ集めの場となり、一部では詐欺、イカサマの場と化していた。コヒー・ハウス文化の終末の時期である。一方で中産階級の読書習慣が徐々に浸透し始め、貸本業や大衆文学、風俗文化の発信地となったものがある。


「クラブ」の登場

やがてコーヒー・ハウスは、政治的な主義主張(トーリーvsホィッグ)、業種、商売仲間、趣味、娯楽仲間、文芸仲間、貴族や都市ブルジョワ、中産階層という社会階層の属性にそった、いわば「会員制クラブ」へと変異してゆく。特定の店に特定のパトロンがつき、贔屓客が集まり、インフルエンサーが集うようになると、その特定の意見や趣味、利害に共鳴する客が集まり始める。まさにクラブである。すなわち、オープンなネットワーキングの場からイクスクルーシヴなネットワーキングの場へと変遷してゆく。コーヒー・ハウスからクラブが生まれていった。これはある意味自然の成り行きであろう。現代の厳密なルールと会員オンリーの「ジェントルマンズ・クラブ」もここから生まれた。ここでも女性は入れない。完全に男の世界である。

こうしたクラブは、コーヒー・ハウスから発展したクラブだけではなく、14世紀から存在する伝統的なクラブもある。コーヒ・ハウスが流行る以前から、タヴァーンの二階が上流階級の仲間の社交の場として用いられた。エリザベス朝のウォルター・ローリーが創設したマーメイド・クラブ( Mermaid Club)や、同時期のベン・ジョンソンのアポロ・クラブ( Appollo Club)などももその一つ。シェークスピアも出入りしていた。少しのちのスウィフトやポープが主導したスクリブレラス・クラブ( Scriblerus Club)や、詩人のコングリーヴ、政治家のウォルポールなどが会員であったキットキャットクラブ( Kit-Kat Club)なども歴史ある有名なクラブである。クラブ好きで知られるサミュエル・ジョンソンの文芸クラブ(Literary Club)は、王立協会(Royal Society)会長のジョシュア・レイノルズが発起人となり、エドムンド・バーク、オリヴァー・ゴールドスミス、ギャリック、ボズウェル、アダム・スミスなどが会員であった。このようにタヴァーンやコーヒー・ハウスが特定のグループの集まりに利用されることは珍しくなく、そこから「会員オンリー」のクラブが生まれた。

17世紀スチュアート朝時代は、イギリスは革命の時代であった。清教徒革命で国王が処刑され、1660年には王政復古で国王が戻ってきたり、王党派と議会派の争いの中、自由主義や民主主義の萌芽が生まれ、やがて1688年の名誉革命で議会派優位の立憲君主制の国家「君臨すれども統治せず」の政治となった。一方でカトリックとプロテスタント(国教会、非国教会)の対立、オランダやフランスとの戦争もあった。イングランド・スコットランド・アイルランドの「三王国戦争」の時代でもあった。1665年にはペストが大流行し、1666年にはロンドン大火があり、パンデミック、災害で街やコミュニティーが壊滅的な被害を被った。コーヒー・ハウスはペストで閉鎖され、大火で大部分の店が消失し、それでもロンドンの復興に伴い復活して再び賑わっていった。混乱の時代こそコーヒー・ハウスは逞しく発展した。名誉革命ののちは、18世紀のイギリス啓蒙主義時代到来、経済では重商主義にかわる自由主義経済、科学万能主義による産業革命など、近代合理主義の時代へ、そして「七つの海を支配する」大英帝国への道を突き進んでゆく。その反動としての文学芸術におけるロマン主義、ゴシックリバイバルも勃興する。こうした激動のイギリス社会の持続可能装置として下支えしていたのがコーヒーハウス文化であった。揺れ動く社会にたくましいソーシャルネットワーキングのプラットフォームがあったればこそ、イギリスは(急進的ではなく)漸進主義的な進化と発展が可能であった。たかが一杯のコーヒー、されどコーヒーである。


コーヒー・ハウスの終焉

しかし18世紀後半から徐々にコーヒー・ハウスは変質が始まり、当初の「自由な言論の場」と言う性格は失われ、やがて19世紀に向けて衰退、役割を終えてゆく。その理由はいくつか考えられる。

1)まず数が増えすぎた。臨界点を超えると衰退が始まるのは全てに共通する「進化論的」原則である。すなわち自然淘汰が始まる。

2)その中で、特色を出すために酒と博打の場となる店が現れる。自由で健全なコーヒー・ハウスというイメージと、その秩序の崩壊はこうして始まる。そして客足が遠のく。

3)そうなると、行きつけの店、馴染みの店ができ始める。客による選別が始まる。一方で贔屓客だけ受け入れる「一見さんお断り」、客層の固定化という、オープン性が売りであったはずのコーヒー・ハウスコンセプトに矛盾が発生する。「クラブ化」の始まりである。

4)ジャーナリズムの自立化、一般化。書店や街角で新聞や雑誌、書籍が買えるようになる。家庭で読めるようになる。「新聞や本の読書室」としての存在意義が薄れる。

5)コーヒーから茶へ。大英帝国の植民地政策、市場の変化が、コーヒーよりやすい茶の嗜好を産む。すなわちティーの習慣が18世紀後半から始まる

6)住環境の改善。家庭でのパーティーや接客。サロンの形成などが進む。この頃家庭での「アフタヌーン・ティー」の習慣が始まった。

コーヒー・ハウスは完全に姿を消してしまったわけではないが、18世紀後半から酒場や、宿屋、書店や印刷所などに鞍替えする店も増えた。本来の姿を留めるコーヒー・ハウスは、今ではほとんどなくなってしまった。時代の変化とともにその役割を終えた。しかし、コーヒー・ハウス100年の歴史がイギリス社会に、そして世界に与えた影響は見てきたように計り知れない。


SNS≒バーチャル「コーヒー・ハウス」論

ここまで考察してきてふと思う。コーヒー・ハウスはまさに現代のSNS:Social Network Serviceではないか。17−18世紀、コーヒー・ハウスはロンドンのソーシャルネットワーキングのプラットフォーマであったわけだ。逆に、今のFacebook, Instagram, YouTube, Blog, X, TikTokは現代のネット上のバーチャルコーヒー・ハウスだ。ここでは「飲んだ」「食った」「会った」などの日常の会話から、政治論議も、ビジネスも、広告宣伝も、ジャーナリズムも、文学芸術論も、旅行や趣味も、フェイクも。政治プロパガンダも、詐欺も、検閲も....なんでもありだ。資格要件もなく誰でも参加できるオープンなプラットフォームだ。コーヒー飲みながらスマホやスクリーンに向かう。

しかしそこは真実も嘘も自己承認欲求も我欲も全てがごった煮のカオス、誹謗中傷、炎上が蔓延る修羅場。それがソーシャルネットワーキング・プラットフォームなのだ。18世紀のコーヒー・ハウスがそうであった。人は、その「玉石混交」から賢く情報を選び、そこの中から真実を見出し、自分なりの判断を下す。そういう目利きもできた。信頼できる人脈も見つけた。そして文化も生まれた。結局、自我と精神の自立がなければ浮草のように時流、情報に流されてしまう。「自由な言論の場」オープンなプラットフォームとはそういうものだ。ただ、現代の「バーチャル・コーヒー・ハウス」は世界中の人間と繋がっている。「客」はコーヒ代すら払わなくて良い。その代わり「店」が「客」の個人情報や「好み」「人脈」をアルゴリズムで操作することができる。それを広告という形で売る。売上は入場料とコーヒ代という「ビジネスモデル」と大きく違う。しかもAIによってといかようにも情報創出が可能になり、人為的に操作された情報がとてつもない金になる仕組みだ。これが現代の「オープンなプラットフォーム」の実態である。ただ、歴史は「クラブ化するコーヒー・ハウス」と言う結末を示してみせた。無秩序なオープンから、規律を持ったイクスクルーシヴへ。これはSNSの将来にとって極めて示唆的である。我々は主体性と個人情報を一定のルールのもとに取り戻さねばならない。



参考書:

1)『Club Life in London 』1866年刊行 

ロンドンのクラブ、コーヒー・ハウス、タバーンを網羅的に紹介。各店の歴史や、著名な客人のエピソードが紹介されていて、その時代の世相がわかる。どちらかというとClub中心の解説。新聞「イラストレイテッド・ロンドンニュース」の編集長を務めたジョン・ティムズの編集。彼はハサミとノリで切り貼りした本を大衆向けにたくさん出し、街角のゴシップをエンタメに変えた編集者と評されている。


Club Life of London
with Anecdotes of The Clubs, Coffee-Houses and Taverns of The Metropolis
During The 17th, 18th and 19th Centuries
By John Timbs
1866




2)『コーヒー・ハウス』小林章夫著 講談社学術文庫 2024年14版 

18世紀ロンドンの都市生活史の視点からまとめたコーヒー・ハウスの実情と、出入りする人物評が面白い。政治史、経済史、文学史、社会史をコーヒー・ハウスから読み解く面白さ





3)『漱石全集』第十巻 文学評論 岩波書店刊

夏目漱石の帝大講義録「十八世紀英文学」をまとめたもの。この中の第二編で一章を設け「珈琲店、酒肆、俱楽部」として「ベッドフォード」「キットカット」「スクリブリラス」「セントジェームス」などを紹介している。





2024年12月24日火曜日

Who is Terence Conran?  Making Modern Britain 〜テレンス・コンラン展探訪〜

 



東京ステーションギャラリーで「テレンス・コンラン展」が開催されている。「Who is     Terance Conran? Making Modern Britain」と題したコンラン卿の足跡を辿る展覧会である。10月12日から開催されているが、年末のギリギリで駆け込んだ。年明けの1月5日に終了だ。

私にとってはコンランといえば1980年初頭の留学時代にロンドンの街角で見た「Habitat」というインテリアショップ。トラッドな街ロンドンにあって随分とモダンで洒落た店舗だと感動した思い出がある。フランス人の友人がこの店をすごく気に入っていて教えてくれたので行ってみた。ちなみに私が「ハビタット」と発音したら、彼に「アビタ」と直された。そしてその10余年後の1990年代にロンドン勤務時代の日々に、今度はコンランがプロデュースした話題のモダン・ブリティッシュのレストランを楽しんだ思い出がある。時代は変わった!「イギリスのメシは不味い」なんて誰が言ったんだ?!フィッシュ&チップス、キドニーパイしかない?確かに80年初頭は、私自身が貧乏学生であったこともあり、イギリスで美味いものを食った覚えがない。そこで覚えた味はアジアンエスニック、チャイニーズとインディアンだ。さすがの大英帝国レガシー。田舎をドライブして、ふと立ち寄った村のパブのホームメイドなイングリッシュ・ブランチも美味かった。しかし10年経ちイギリスもEUに加盟して安価な生鮮食料品がドット域内から入ってくると食事の質が確かに変わった。私自身の懐も多少は豊かになったこともある。そして美食の探求に洋の東西はない。ましてフレンチやイタリアンが全てではない。コンランのレストランはフレンチ、イタリアン、中華、和食、インド、世界各地のフュージョン料理であった。それをイギリス風にアレンジしたまさにモダン・ブリティッシュ。彼はブリティッシュキュイジーヌに新風を吹き込んだし、それが世界の人々に受け入れられた。彼のレストランはロンドン名所になった。フランス人のシェフも料理修行に来ていた。しかも、レストランのロケーションにもこだわった。テムズ川沿いのバトラーズ・ワーフ倉庫跡、タイヤ会社のミシュラン旧本社ビル、セントジェームスの地下のレジェンダリーなダンスホールなど、ロンドンの歴史と伝統ある建物をうまく生かして再生した。そうしたプラットフォームがまた新しい文化を生み出した。それが実におしゃれだ。東京のように古い伝統建築物をどんどん壊して、何の変哲もない高層ビルに建て替える再開発とは大違いだ。このセンスの違いはどうして生まれるのだろう。日本も今や外国人ツーリストが押し寄せる国になったが、本当の文化力を発揮し、それが普遍的のものとして世界に認められ受容されるにはまだまだ時間がかかりそうだ。今はただ経済力が衰退したので割安感で押しかけているようにしか見えない。日本は軍事大国、経済大国の次は文化大国しかない。そういう文化人、企業家がもっと生まれないものか。


「テレンス・コンラン展」の様子。基本的に撮影禁止であったが、一部の展示が撮影可であったので雰囲気だけでも味わっていただきたい。


東京ステーションギャラリーエントランス
丸の内南口
コンランショップ再現



バートン・コートのコンランの自宅での生活紹介





ロンドンのコンランプロデュースのレストラン達

1)Le Pont de la Tour, Chop House in Butlers Wharf

タワーブリッジ麓のバトラーズ・ワーフ、昔のテムズ川沿いの倉庫街であったところをリノベーションし、レストランとデザイン・ミュージアムを開設した。いわばウォーターフロント再開発の先駆けである。古い建物を取り壊すのではなく、再利用する。東京の天王洲アイルや横浜の赤レンガ倉庫はその影響を受けたのか、雰囲気が似ている。とにかくテムズ沿いに聳えるタワーブリッジ見ながらのディナーはロンドン生活のハイライト。家族でもよく出かけたが、日本からの来訪客を案内するにも最高であったことは言うまでもない。



'Le Pont de la Tour'
which means 'Tower Bridge'

Chop House



2)Quaglino's St. James's

セントジェームスにある昔のダンスホールを改装したレストラン。店内に入ると、まず美しい下り階段が目に飛び込んでくる。そこから見渡す階下のフロアーが美しい。階段をゆっくりと降りながら自分のテーブルへ案内される。まるで自分がスポットライトを浴びながらステージに登場する主人公になったよう感覚に浸れる心憎い演出。ちょっと知られた有名ダンスホールだったというその記憶とレガシーをうまく受け継ぐセンスが素敵だ。





Quaglino's St. James's


3)Bebendum the Michelin House on Fulham Road in Chelsea

ミシュランタイヤのイギリス本社のアールデコ建築をコンランが気に入りついに買い取ってレストランに。コンランショップも入っている。とにかく建物が素晴らしい。良い舞台が名優たちの演技を盛り上げてくれる。食事を楽しむと言うことはこういうことだとイギリス人に教わった。ロンドンが食文化の中心になるなんて10年前には考えられなかったことだ。保守的と受け止められがちなイギリス文化の多様性と革新性の象徴のようなレストランだ。



Bibendum
the Michelin House on Fulham Road in Chelsea







以下は、日本のレストアー、リノベーションの象徴、東京駅赤煉瓦駅舎。これはなかなかの出来栄えだ。世界一混み合う駅のこの余裕。日本もやればこういう事ができるのだ。壊すばかりが能じゃない。今回の「コンラン展」にふさわしいヴェニューだ。新しいモダン・ジャパニーズが生まれる予感も。


東京駅丸の内南口









ギャラリーを出るとそこは師走の東京駅



(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor-Z 24-120/4)
レストラン写真はそれぞれのレストラン・ウェッブサイトからの引用。



2022年8月12日金曜日

古書を巡る旅(24)チャールズ・ディケンズ全集 〜なぜ文豪ディケンズの邦訳全集は出なかったのか?〜

 


The Works of Charles Dickens 16 volumes
Chapman & Hall, Ltd.,London
1890-1891

田辺洋子訳「ディケンズ全集」第一回配本(萌書房)


2021年1月に日本語訳ディケンズ全集が刊行開始された。出版社は2001年に奈良で創立された萌(きざす)書房(白石徳浩社長)。同社の創立20周年記念事業として企画された。チャールズ・ディケンズは、『オリヴァー・トゥイスト』や『二都物語』など,今なお世界中の多くの人に親しまれ,映画・演劇・ミュージカルとしても知られる作品群を生み出したイギリスの国民的作家。そのの個人訳による本邦初の全集である。そう、「本邦初」なのである。

訳者は英文学者で現代ディケンズ研究の第一人者の田辺洋子氏。広島大学院文学博士で広島経済大学教授である。これまでもディケンズ作品を翻訳し三つの出版社から出しているが、今回、訳者によってこれまで邦訳出版された全小説や寄稿集を修正・改訳したものに、これまで翻訳されていなかった書簡集などを加え、全30巻に及ぶ全集として刊行を開始した。第1回目の配本は,小説家として地歩を固める前後までの,友人知人や出版社・編集者,後に妻となるキャサリン・ホガースらとの交流を物語る1,061通を収める書簡集。続いて2021年に「ドンビー親子(上巻)、2022年に「ドンビー親子(下巻)」と第2回、第3回配本がなされている。

しかし、この全集が「本邦初」であるというのは如何なることなのか。もちろんこれまでも文庫本や「世界文学全集」的な刊行物にディケンズは収録されてきたが、ディケンズほどの英国を代表し、世界中で愛されている偉大な文豪の日本語訳全集が、これまでなかったことは世界の不思議の一つと言って良いくらいである。なぜなのか?全集は売れないという理由からなのか。日本の出版文化の重要な欠落部分であったのではないか。世界的な名著を、作家の全仕事を各国語の翻訳し残してゆくことは歴史的な文化事業であり、採算性よりも、後世に残すべきレガシーとして取り組むべき事業であろう。またそういう外国作品を求める読者、研究者が数多くいることがその国の文化的な層の厚さと知的なパースペクティブを示すものであろう。そういう意味においても、東京の大手出版社ではなく、謂わば地方の新興出版社である萌書房の企画と刊行には敬意を払いたい。白石社長は刊行にあたり、この全集が全国の大学図書館、公立の図書館に配備されることを願うとしている。今回の邦訳ディケンズ全集の刊行は単にディケンズファンとしてだけでなく嬉しいニュースだ。萌書房の出版人として、文化人としての矜持に拍手を送りたい。

神保町の古書店でも、最近は全集ものはなかなか売れないという。ディケンズのオリジナル英文全集も、かつては大学や図書館からの注文があって、必ず仕入れ、在庫していた定番作品であったものが、最近は引き合いがないので在庫として置いていないと、老舗洋古書店店主は嘆いていた。これは図書館の危機、書籍の危機、出版文化の危機、いや知的な欲求の衰退という危機である。コンテンツがオンラインで公開されているので直接原典にあたらない読者や研究者が増えているからだという。しかし「本」そのものが歴史的な作品であり、貴重な史料であることが忘れられている。逆に、今回の邦訳ディケンズ全集の出版が引き金となって、原書であるディケンズ全集が神田神保町の書肆の棚を飾り、全国の大学/図書館に並ぶことができれば嬉しいことである。大学図書館はディケンズくらい揃えておけよ!と。

ところで、今回紹介するのは、オリジナルのディケンズ全集である。1890〜91年にロンドンのチャップマン&ホール社:Chapman & Hall, Ltd.から出版された革装の16巻からなる全集だ。巻頭にはディケンズ自身の言葉でチャップマン氏からの作品の出版にあたっての熱心な勧奨と支援があったことに謝意を示している。またいくつかの作品の冒頭に、彼自身による作品を執筆するにあたっての経緯や意図についてコメントした巻頭言が記されている。したがって初版はおそらくディケンズ存命中(1870年に他界している)の1860年代と思われる。手元には同社から1865年、1866年に刊行されたディケンズ作品の「ピックウィックペーパー」」と「我らの共通の友」2巻があるので、この頃から継続して版を重ね続けたロングセラーと考えられる。この全巻揃いの全集は神田神保町の老舗洋古書店にも問い合わせたが見つからず、バラバラの状態で何巻かが英文学の棚に確認できる程度であった。先述のように、最近は英文学の定番中の定番とも言えるディケンズ全集を店頭で見かけることは少なくなった。この全集はネット検索で地方のある古書店で見つけた。見知らぬ土地の古書店の現物を見ない取引になるので不安があったが、問い合わせに対して、店主には丁寧に写真付きメールで対応していただいた。このシリーズはディケンズのオリジナルの全集の一つで、出版人による改訂の記述はなく、初版と内容は同じであること。読書家、愛蔵家の好みに応じて装丁を変えたり、収録作品の選定を変えたシリーズがいくつか出されており、これはその一つであること。革装はオリジナルであることなどと説明してくれた。ちなみに店主によると、最近はネットと宅配があるために地方でも日本全国、世界中と古書商売ができると言っていた。確かにロンドンやニューヨークの馴染みの古書店も、今は店舗なしで世界中とネットで取引している。地方の古書店にとっては新しい流通チャネルの出現だろう。古書ハンター側から見るとこうした地方古書店は穴場かもしれない。




ディケンズ肖像




チャールズ・ディケンズ:Charles John Haffum Dickens (1812-1870)とは何者か?ディケンズはビクトリア朝。パクスブリタニカの申し子である。と言っても輝かしい帝国の版図拡大や、産業革命と科学の時代、資本主義の成果を誇る側ではなく、それによって生じた社会の矛盾と経済格差に苦しむ庶民、新しく生まれた労働者階級の側に立ち、社会風刺や理不尽を描いた作家としてである。謂わば帝国の「光と陰」の陰の立場に立ってビクトリア朝時代を描いた。それを英国人特有のユーモアとウィットで描いた。サムエル・ジョンソンのようなオックスフォードやケンブリッジのインテリ層、上流階級や有産階級ジェントルマンのBritish sense of humourとは少し違う辛辣なジョークの使い手である。しかし、概して結末は丸く収まる(ハッピーエンド)で読み手を安心させる手法も取り入れ、モチーフの重さとは裏腹に読後の爽やかさがあり人気があった。ディケンズの作品は、作品の筋だてやストーリー展開が、時に意外な方向に進んだり、途中で筆致が変わったりすると批評家から指摘される。その理由は、当時の新聞や雑誌に連載された彼の作品が元になっており、また発表形式としても月刊分冊であったことに起因するようだ。連載中に読者の評判や、人気、売れ行きに影響されて筋を変えることがしばしばあったためだと言われている。また最後は「めでたしめでたし」で終わるパターンも晩年の作品まで踏襲されていった。こうしたことから、ディケンズは通俗作家として、芸術至上主義的な文壇からは批判されていたが、一般大衆の人気は衰えることはなかった。彼は国民的人気作家として英国でもてはやされるだけでなく、世界中の人々に愛される作家でもあった。トルストイはディケンズを英国が産んだシェークスピア以上の歴史に名を残す作家であると評している。ディケンズ自身は中産階級の出身であるが、幼い時から貧困と両親によって与えられた理不尽な生活環境で育った。「リトル・ドリット」に出てくるマーシャルシー債務者監獄は実際に彼の父が収監されていたし、彼もひどい環境の工場での労働を強いられ、精神的なダメージを受けてもいる。「デビッド・コッパーフィールド」は彼自身がモデルになっているとも言われる。「オリバー・ツイスト」の悲惨な孤児としての半生や、「大いなる遺産」のピップの半生にも彼の経験や社会への眼差しが込められている。一方で、上流階級やインテリ層と言われる人々の滑稽さや悲哀も描いて見せて、人間としての共感も示している。彼は若い頃に高等教育を受ける機会に恵まれていないが、法律事務所の事務員や新聞社の記者(モーニングクロニクル社)などの経験を活かしジャーナリストとして活動した。この時に「ボズのスケッチ帳」というエッセイを新聞と雑誌に連載し、それが注目されて1836年に第一作目として出版された。この時、この作品に注目し出版を薦めたのがチャップマン氏であったことは、彼の巻頭言に記載されている。以降、ロンドンのチャップマン氏の出版社「チャップマン&ホール社:Chapman & Hall, Ltd.」が彼の作品を一手に引き受けて、ついにはディケンズ全集を出版する。今回手に入れた全集もこのシリーズの一つである。

ディケンズの作品は今更列挙し、解説するまでもないが、こうして全集を概観してみると、意外に日本では限られた作品しか人々に浸透していないように思う。おそらく誰でも知っているのは「クリスマスキャロル」であろう。これはまず児童文学として取り上げられた(村岡花子などにより)。そう、子供の頃に聞かされたお話として記憶している。「オリバー・ツイスト」も映画や演劇作品で馴染みがあろう。あとは「二都物語」「大いなる遺産」くらい。しかし、それ以外は、その膨大な作品量からか、ロンドンの下町英語表現や独特のジョークの難解さからか、日本語に翻訳された作品は限られており、翻訳された作品も小説として親しむよりは、むしろ海外からの映画や演劇、ミュージカル作品を通じて知った、というのが多いのではないだろうか。明治期や大正デモクラシー、昭和の時代にディケンズを研究し、日本に積極的に紹介した研究者や文豪は意外にも知られていない。日本の国民的作家、「日本のディケンズ」とも言うべき夏目漱石も、英国に留学時代にディケンズを読んだようである(しかし漱石の遺した蔵書にはディケンズが少ないとも言われる)。ディケンズに言及した漱石の論文(漱石全集「文学論」)はあるが、あまり高い評価をしたり、彼の文学に影響を受けたりした形跡がない。一方で「坊ちゃん」は「ニコラス・ニクルビー」の影響を受けているとする研究者もいる。しかし漱石がシェークスピアーを英文学の原点と捉え、作品を多く読み、研究した。また17世紀のローレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ氏の生活と意見」の影響を「吾輩は猫である」に遺しているとする研究者はいるが、漱石がロンドンに滞在していた頃にすでに人気作家であったディケンズの影響を受け、彼の作品を日本に紹介した形跡は少ない。ディケンズはいわば漱石にとってイギリスの通俗的な「現代作家」であり、古典作家ではなかったからだろうか。こうした漱石のディケンズへの眼差しが象徴するのか、戦前の日本でディケンズを研究し全集の翻訳に取り組もうという人は少なかった(少なくとも文壇や研究の表舞台で活躍することにはならなかった)のかもしれない。まして、大手出版会社で邦訳全集が企画されることがなかった。先述のようにこれは文学の世界の不思議の一つであろう。ちなみにシェークスピア全集は明治期の坪内逍遥の大作をはじめ、小田嶋、松岡和子の個人訳が筑摩書房から出ている。トルストイ全集もドストエフスキー全集も、ゲーテ全集も大手出版各社から出されている。そういう意味で、あらためて今回の萌書房のディケンズ全集刊行は画期的であると思う。また、広島で長年ディケンズ作品に熱意を持って取り組んでこられた田辺洋子教授の地道な努力と成果に、全身全霊で敬意を示したい。遅まきながら...とは言えである。

ちなみに「ディケンズ・フェローシップ日本支部」という同好会、研究団体がある。1970年英国の本部から日本支部として認証されたという。

以下はこの全集に収録されている作品の中から、私がかつて読んだことがあるか、映画やミュージカル、ネット動画で見たことがある馴染みの作品をリストアップしてみた。

出世作は「ボズのスケッチ集」:Sketches by Bos

「オリバー・ツイスト」:Oliver Twist
「デービッド・コッパーフィールド:David Copperfield
「大いなる遺産」:Great Expectation
「クリスマスキャロル」:Christmas Carol
「二都物語」:Tale of Two Cities
「リトル・ドリット」:Little Dorrit
「荒涼館」:Bleak House
「我らの共通の友」:Our Mutual Friends
「ピックウィックペーパー」:Pickwick Papers
「骨董屋」:Old Curiosity Shop
「ニコラス・ニクルビー」:Nicholas Nickleby

これらの作品の映画化、TVドラマ化、さらには演劇、ミュージカル作品化されたものなど、どれも秀逸な出来である。このほかにBBCのドラマ「ディケンジアン」が面白い。ディケンズのそれぞれの作品に登場する人物がロンドンの下町に集うオムニバス風のドラマ。ディケンズが現代のイギリスのドラマ作品や演劇に与えた影響の大きさを感じることができる。脚本、構成、演出、フィルムワーク、もちろん出演俳優の演技とセリフ。どれをとってもイギリスの文芸、演劇、映像表現の豊かさ、奥深さが感じられ、エンタメ/娯楽作品とはいえその上質さが際立っている。これもディケンズのレガシー(遺産)であることは間違いないだろう。シェークスピアのレガシーに重層化されて息づいている。こうした現代の映像作品を見てからディケンズの原典に立ち返る。これもまた楽しからずや。イギリスはやはり面白い。



ディケンズのデビュー作「ボズのスケッチ集」表紙



「偉大なる遺産」表紙



「オリバー・ツイスト」「二都物語」表紙


「ピックウィック・ペーパー」表紙

「リトル・ドリット」表紙

「デビッド・コッパーフィールド」表紙


革装の背表紙


マーブルプリントの背表紙

ディケンズ生誕100周年(1812−1912)の記念シール
が各巻に貼られている。おそらく所有者が貼ったものであろう。


ロンドンのディケンズ博物館
ディケンズが住んだ場所というのがあちこちにある
ここは大英博物館近くのホルボーンの住居跡
(ディケンズ博物館HPより)

ディケンズの書斎
『ディケンズ博物館HPより)

LSE近くに現存するThe Old Curiosity Shop


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