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2023年9月27日水曜日

杉本博司「本歌取り 東下り」展@松濤美術館

 

松濤美術館にて


杉本博司の「本歌取り 東下り」は、2022年に姫路市立美術館で開催された「本歌取り」展として結集した作品群を、「東下り」して東京渋谷松濤美術館で再結集させたもの。「本歌取り」とは、和歌の技法の一つで、有名な古歌(本歌)の一部を意識的に自作に取り入れ、その上に新たな時代精神やオリジナリティーを加味して歌を作る手法を言う。今回は、新たな作品として、北斎の「富嶽三十六景 凱風快晴」を本歌とした「富士山図屏風」が出展されている。「東下り」のときに目にする富士の姿を象徴的に描いている。また、室町時代に描かれたと言われる「法師物語絵巻」を本歌とする杉本独自解釈による狂言も11月9日に開催される。その他、杉本の古典作品とも言える「海景」を本歌とした新たな杉本作品も展示されており、写真、工芸、書、建築、芸能を含む古典と現代作品との調和と交錯を繰り返す、杉本ワールドの進化が展開されている。(本展示会パンフレットから「本歌取り」、いや抜粋、意訳)

杉本博司に出会ったのは、いまから17年前のニューヨーク、ジャパン・ソサエティーの展覧会が最初である。アンティーク・ディーラーでもある杉本の目利きによる絵画や仏像、工芸品と写真との組み合わせ、得も言われぬジャンルを超えた調和と爆発、時間と空間の超越と融合を生み出しているのに衝撃を受けた。この古典と現代、東西文明のフュージョンに、地元ニューヨークのフォトグラファーやアーティストが熱狂している姿に更に驚いた。真面目くさって論評する人、作品の前から立ち去らない人。メガネをとっかえひっかえしてじっくり観てる人、次から次へと観覧者が引きも切らず訪れる。そして、カメラを持った観覧者の肩には決まってライカMがぶら下がっている。二台持ちもいる。杉本とライカ。関係はないのだが、この佇まいには、ライカというお道具の存在の確かさが不思議に心に焼き付いている。あのニューヨークでの衝撃以来、東京、大阪、小田原・江之浦測候所(2019年7月22日「江之浦測候所」〜杉本博司「海景」の原点を訪ねて〜)と、追っかけが始まった。ちなみに、「江之浦測候所」では撮影にライカが活躍した。

私が敬愛するもう一人の写真家に入江泰吉がいる。作風と技法は異なるが、この二人はカメラという科学技術発展の成果から生まれた道具を使って、時間の流れとか歴史とか心とか情感とか、目には見えないもの、手に取ることもできないものを、ホレこれだよ!と提示してくれる。心象風景をカメラという機械で切り取って見せることで、入江泰吉も杉本博司も、時間を超えて過去と現在を行き来する。まさに「時空トラベラー」マエストロである。「大和古寺巡礼」も「歴史の歴史」も我が写真ライフにとってバイブルである。もっとも最近のカメラは、半導体チップとソフトウェアーと光学ガラスでできていて、作品はパソコンで制作するが、この二人の巨匠はあくまでも暗箱で撮って暗室で作品を制作する、銀塩フィルムとプリントで表現している。入江泰吉の時代はともかく、やはりデジタルと言うと、心構えのベクトルが「過去」に向いていないのだろうか。必ずしも最新の技術が「歴史」の表現手段として最適なものとは言えないのだろうか。すっかりデジタル機材に切り替えてしまった「時空トラベラー」は、ふと不安になる。

ヴェニューである松濤美術館は渋谷区立の美術館で、松濤のお屋敷街にその美しい立ち姿で佇んでいる。松濤美術館は白井晟一の設計になるもので、建物そのものがアート作品であると言って良い。円形屋根の正面から入る一階がエントランスであるが、すぐに地下の展示会場に降り、それから2階の第二会場へと登る、という回遊式になっており、階段を使うとこの優美な建物を見て回れる仕掛けになっている。比較的こじんまりした美術館であるが、その空間に身を置くことが、そもそも心地よい。ゆったりとした豊かな時間を過ごすことができる。


以下に、今回の展示の中からお気に入り作品を数点(作品の撮影、SNS上での公開は商業目的以外は許可されているのが嬉しい)。



宙景と隕石

原点「相模湾」海景

時間の矢「海景」

数理模型

十一牛図
素麺のゆで加減(大田南畝)

歴史の歴史 「東西習合図」

「法師物語絵巻」から
これから新作「杉本狂言」が生まれる

北斎「富嶽三十六景 凱風快晴」を本歌とした「富士山図屏風」


「春日大社藤棚図」屏風 砂ずりの藤をモチーフとしたプリント作品

狩野永徳「安土城屏風」から想像する「姫路城図」屏風

Blush Impression 「月」「水」「火」「狂」

「いろは歌」銀塩プリント

傷んでしまった「海景」の銀塩プリントを使った作品 これも本歌取り?




渋谷区立松濤美術館

美術館のループ階段

吹き抜けと噴水

二階展示室ロビー


渋谷区立松濤美術館エントランス(白井晟一郎設計)





2023年9月22日金曜日

古書を巡る旅(38)デヴィド・ヒューム「文学、道徳、政治論集」:Essays, Literary, Moral, and Political 〜スコットランド啓蒙主義とは?〜

Essays by Hume

David Hume (1711-1776)
Wikipediaより

デヴィッド・ヒューム:David Hume(1711-1776)は18世紀のスコットランド啓蒙主義を代表する思想家、道徳哲学者、歴史家である。1740年から1790年は「スコットランド啓蒙主義の時代」と言われ、ヒュームをはじめ、ハチソン、ファーガソン、スミスなどが活躍した時代である。しかし、彼の業績と名声はその時代にとどまらない。ヒュームは、ベーコン、ロックなどと並び称される経験主義、懐疑主義の哲学者であり、近代哲学に大きな影響を与えた。それにしても何故このようにスコットランドで啓蒙主義、思想が盛んになったのか。スコットランドから多くの哲学者や経済学者が出るようになった背景には何があるのだろう。

スコットランドは1605年のスコットランド王がイングランド王を兼ねてジェームス一世として即位して以降、イングランドとは共通の王を戴く国であった。さらに1707年にイングランド王国とスコットランド王国の統合法が成立して正式に連合王国になった。アイルランドがイングランドの植民地として悲惨な歴史をたどるのに比べると、イングランドに統合されたとはいえ、スコットランドは、独自の文化を維持し続ける王国であった。そもそも統合以前にはスコットランドとイングランドは、同じブリテン島で国境を接する国でありながら、文化的な交流が少なく、むしろお互いに悪感情を抱く間柄と言って良いくらいであった。スコットランドの知識層は、同じ島の南のイングランドよりは、海を隔てた大陸のフランスの文化に目が向いていたし、18世紀にはフランス啓蒙主義の影響を受け、ルソー、デュドロやヴォルテールなどの人的な交流も盛んであった。そもそも啓蒙思想は、17世紀後半のイングランドのフランシス・ベーコン、トーマス・ホッブスや、ジョン・ロックの経験論哲学、自由主義的な政治思想に始まり、これがフランスの政治思想、さらには社会思想、文芸に影響を与えたものなのだが、その啓蒙思想が、フランス経由でスコットランドの思想家、哲学者達に影響を与えたというのも皮肉なものだ。一方で、「経験主義の父」「自由主義の父」と言われるジョン・ロックの思想は、彼の訓導を受けた、道徳感覚論哲学の源流と言われるシャフツベリー伯爵(第3代、アンソニー・アシュトン・クーパー)を通じて、スコットランドのフランシス・ハチソン、デヴィド・ヒューム、アダム・スミスへと伝わったと言われ、アダム・スミスの「道徳感情論」に大きな影響を与えた。しかし、その肉付けにはフランス啓蒙主義者たちの影響力は無視し得ないほど大きかったようだ。この背景には、イングランドでは、国教会、ピューリタンなどの反カトリック・プロテスタント勢力が強かったことや、王党派に対し共和派や議会派が勢力を伸ばし、議会でもホイッグ党が勢力を持っていたのに対し、スコットランドでは、カトリックの他にフランス・スイスのプロテスタントであるカルヴァン派に源流を持つ長老派が主流(後に国教となる)で、世俗主義的な権威よりも、宗教的権威が重んじられ、王権を重視し、イングランドの名誉革命における反革命分子ジャコバイトが勢力を持っていた。政治的にも保守的なトーリー党が主流であったスコットランドは、フランスの絶対王政の影響がまだ色濃く残っていた。イングランドで始まった、ロックによる自由主義的な政治思想は、宗教的な権威、神の意思よりも人間の理性を重視する、そして人間の理性は生得的なものではなく、経験によって獲得されるものである、という経験論的な哲学が、反宗教権威、反絶対王政の機運高まるフランスの啓蒙思想家経由で、スコットランドに入ってきたというのも理解できる気がしないでもない。やがてフランスでは、啓蒙主義思想、経験主義は絶対王政打倒のフランス革命の思想的なバックボーンとなってゆく。

一方で、スコットランド啓蒙思想は、フランスとは異なり、学界、アカデミアがリードした。この中心になったのがスコットランドの伝統的な大学(Ancient Scotish Universities)である、エジンバラ、グラスゴー、アバディーン、セントアンドリュースであった。イングランドのオックスフォードやケンブリッジとは異なる歴史を有する大学である。このようにスコットランド啓蒙主義の主役は、フランシス・ハッチソン、アダム・ファーガソン、アダム・スミス、デュガルド・スチュワートなどエジンバラ大学、グラスゴー大学の哲学や倫理学を教えていた教授達であった。しかし、デーヴィッド・ヒュームは、後述のように一度も大学に教職を得たことがない学外者であったが、彼らに大きな影響を与えた。また、スコットランドの学者たちの関心は、フランスとは異なり、政治思想よりも、道徳哲学、経済学であった。すなわち、経済成長と資本主義、国際貿易と都市ブルジョワジーの問題が最大の関心事で、資本主義の貪欲性が、人間の共感力や道徳といった伝統的な美徳と相容れるのか、「個人の欲望」と「公共善」とはどのような関係を持つべきか、などという問いであった。まさに道徳哲学から経済学が生み出されてきた土壌であるともに、彼ら自身がこうした啓蒙主義思想の土壌を耕した。

そもそも啓蒙思想とは、Enlightment(英語) Lumieres(仏語)、すなわち「ひかり照らす」という言葉を語源とする思想で、中世的な神学の世界ではなく、人間の理性による思考の普遍性を主張し、超自然的な偏見を取り払うというものである。暗黒の中世に光を照らす、というわけだ。中世キリスト教世界からギリシア、ローマの古典に還るルネッサンスのムーブメントから引き継がれ、自然科学、科学革命、近代哲学と連動する思想である。経験論的な認識論、政治思想、社会思想、道徳哲学、経済学、文芸活動を含む幅広い思想である。

ヒュームははエジンバラ大学に12歳で入学、そして2年で退学。大学で学ぶことはなにもないと感じたからだという。フランスにわたり、「人間感性論」A Treaties of Human Nature(1739−40年)を著す。これが彼の最初の著作であり、今なお啓蒙思想における重要な著作であり不朽の名著である。しかし、ロンドンで出版された当時、この論考集は学界では無視され、無神論、懐疑主義的だとして排斥すらされた。そのため、ヒュームはエジンバラ大学、グラスゴー大学の教職に応募するも、ことごとく拒絶された。後に、この「人間感性論」を再編集した、新たな論考を加えた、一連の「文学、道徳、政治学論集」Essays, Litarery, Moral, Political(1741〜1758年)を出し、ようやく認められて、本も売れはじめた。それでも大学における教職を得ることはできず、1752年になってようやくエジンバラ法曹協会図書館長の職を得る。このときの膨大な読書を元に、「イングランド史」全6巻という大著を著し、歴史家としても高い評価を得るようになる。その後は度々フランスに渡り、ジャン・ジャック・ルソーなどフランスの啓蒙思想家たちと盛んに交流した。後に決別するが、ルソーをスコットランドに招聘している。またアダム・スミスの良き理解者でもあった。しかし、スコットランドで最も優れた哲学者が大学の哲学教授になることは終生なかった。これこそ大学アカデミズムにとって皮肉の最たるものだろう。

ヒュームの学問体系は、人間学:The Science of Manであり、人間の本性:Human Natureの探求に関するものであった。宗教や神に代わる真理の根源を人間自身に見出す。その方法論として、ベーコン、ロック、ニュートンの伝統的な経験と観察:Experience and Observationによる探求、帰納法という 科学的方法論を重視した。ニュートンの革新的な自然哲学:Natural Philosophyに影響を受け、その思想と方法論を駆使して遅れていた道徳哲学:Moral Philosophyを進化させた。その第一の書が「人間本性論」であり、その後に続く様々なエッセイ集、文学論集、道徳論集、政治論集により論考を進化させていったである。まさに経験論者であり哲学者であるヒュームは、他のスコットランドの啓蒙思想家の中でも抜きん出た存在であった。アダム・スミスの良き理解者で親友であり、彼の重要著作である「道徳感情論」や「国富論」に大きな影響を与えたことが知られている。また後年のジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミルなどに大きな影響を与えた。ヒュームの影響を受けた歴史上の人物は数知れず、エマニュエル・カントもその一人である。彼はスコットランド啓蒙主義の時代を代表するというだけでなく、その時代と国を超えて、世界に大きな思想的影響を与えたスコットランド人である。

手元にある本書は「文学、道徳、政治論集」3巻:Essays, Literay, Moral, Political(1741−1758)の、19世紀になってからの復刻版である。原本は「人間本性論」:A Treaties of Human Nature(1739-1742)であり、そこから後に再編纂された彼の経験論、科学的方法論、道徳哲学に基づく様々なテーマについてまとめた論考集を忠実に復刻したものである。ロンドンのWard, Lock, and Tylerによる刊行であるが、出版年の記述がない。ただ、この出版社は1865年〜1873年にロンドンで出版事業をしていた事がわかっているので、この間の出版と考えられる。19世紀の書籍に特徴的な、ハーフ・カーフ、マーブル・ボード、ファイブ・レイズド装丁の美しい本である。本書はCiNiiによると日本では、東北大学、東京大学、横浜国立大学、岐阜大学、神戸大学、九州大学の附属図書館が所蔵している。










2023年9月12日火曜日

浦島太郎、恥ずかしながら只今帰ってまいりました!の巻 〜「時空トラベラー」のタイムパラドックス〜


昨晩、突然、福岡にいる高校時代の同級生から電話をもらった。私が電話に出るなり「やっと見つけた!」と歓声を上げた。「みんなで探しよったとヨ!」「どげんしよったと?」と。なんと50ウン年ぶりに聞く「ふるさとの訛懐かし」旧友の声だ!SNSやネット検索で探し、私が出ているある対談記事を見つけたのだそう。私の元の勤務先にまで問い合わせたらしい。そろそろ最後の同窓会をやろう、ということになって行方不明者の私を捜索してくれたそうだ。同窓会名簿には、なぜか私の名前がなかったとのこと。そう言えば、昨年、同じことを教えてくれた同窓生がいて、同窓会事務局に問い合わせたら、1979年までは名前があるが、それ以降、私の名前は掲載されていないという。そんな馬鹿な... 事務局が学籍簿で確認して、誤りを認め謝罪の上、再掲載されるようになった。何故削除されてしまったのか。その間ずっと、私は東京同窓会、NY同窓会などで、先輩、同級生、後輩と旧交を温め、在校生の「先輩会社訪問」ツアーをホストしたり、大先輩に仕事のご指導頂いたり、母校や同窓生との交流が続いていたというのに。東京同窓会の会費も毎年払っていたはずだ。たしかに、福岡の同窓会には一度も出席したことはないが... 長い間私は「経歴詐称のニセ同窓生」だったというわけか?

いずれにせよ、「捜索の結果、発見!」されたようで、めでたし、めでたし!来月には同級生で集まることになった。早速、去年の同級生の集まりの写真を送ってくれた。懐かしい顔、顔、顔... のはずなのだが、 しかし、どの顔見ても、全く誰だかわからない。古い卒業アルバムを引っ張り出してきで名前と顔を確認しながら、もう一度見たが、それでも分からない。荒井由実の歌のような訳にはいかない。そりゃそうだ、18歳の若者の面影を70歳の高齢者に求めることがいかに困難かを思い知らされる。50年の時間の流れという現実。タイムパラドックス。今度会ってもわかるのだろうか。

こうした出来事をきっかけに、ふと我が人生を振り返ってみると、世間知らずの青二才が故郷を出奔してからはや半世紀。がむしゃらに世渡り街道を突っ走ってきた。未知の体験にワクワクし、世間の闇をくぐり抜け、理不尽にも泣いたこともあったが、感動に涙したことも度々。多くの人びとに出会った。良き友人を得た。助けてもらった。そして何よりも良き伴侶と幸せな家族を得た。見たこともない世界を彷徨し、冒険の旅が続いた。東京、ロンドン、ニューヨークを拠点に、世界20数カ国を駆け巡った。遥けき旅路であった。旅路の果てにふと気がつくと、古希を迎えた翁の自分が居る。まさに「一炊の夢」である。しかし「我思う故に我あり」。その夢を見ている私は確かに実存している。自分の歴史を築いてきた。そう実感する。しかし、故郷の旧友にとって、私はいつの間にか行方不明になり、捜索の結果、50年後に発見された浦島太郎だった。南海の孤島のジャングルにからひょっこり姿を表し、現代に戻ってきた兵士だった。私と同級生とはパラレルワールドを生きてきたのだ。いや、人はそれぞれのパラレルワールドを生きている。私の旧友も、私の知らない世界を生き、多くの物語を紡いできたに違いない。帰ってきた浦島太郎はすっかりオジイサン。亀を助けた覚えはないし、乙姫様にもてなされた記憶もない。まし竜宮城で享楽に耽る日々を過ごした記憶もない。しかし確かに、海辺にたどり着いたときには、手に玉手箱を持って立っていた。どこで手に入れたのか。いや、どんな旅路を歩んでこようとも、人は必ず玉手箱を持たされる。そしてそれを開けた途端に...

浦島太郎、恥ずかしながら只今帰ってまいりました」(直立不動敬礼)



写真集:行方不明の間はコンナことしてました!


テムズ川

ケンブリッジ

LSE

マンハッタンの空見てました

マンハッタンの住人でした

大阪大学で講義もしました


帝国ホテルで挨拶しました

パネルディスカッションのモデレータやってます




ユヌス先生をお招きしてパネルディスカッションしました




九州大学院生と

3つのゼロ

財団賞授与式

鏡割り


2023年9月8日金曜日

Leica Q3登場 〜三代目Qはどのように進化したのか〜

Leica Q3 ハンドグリップとワイヤレス給電ベース


2015年の初代Qに始まり、2019年のQ2、そして今年のQ3。ライカQシリーズは三代目となった。こうしてみるとQは4年毎に新機種を出している。このQシリーズは、当初の思惑と異なり、ライカ社としては思いがけず(?)ヒット商品となり、最近にわかに生産と販売に力を入れ始めたようだ。当初はソニーのRXシリーズのコンセプト、高品位単焦点レンズコンデジ、を追いかけているように見えたのだが。ソニーの方は、その後コンデジからは引き気味だというのに。ただ、Q3も相変わらず、生産が追いつかず、発売開始後もバックーオーダーを抱え、なかなかユーザの手に渡らない事態が起きている。量産体制を取らない、海外生産にも頼らないい、ドイツのマイスターによる手作業生産を売りとするライカにとってはジレンマだろう。結局、2023年6月3日の発売開始からようやく8月31日になって予約していた客の手元に届き始めたようだ。それでもこれは早い方だ。ライカ社のHPでは「長い間お待たせすることを予めお詫び申し上げます」とある。ライカショップに聞いても「入荷時期は未定としか言いようがない」という。ライカ社お得意の「人気沸騰」「順番待ち」戦術ではあるが、今回は必ずしも「マーケティング戦術」と言い切れない事情もあるようだ。発売価格はQが56万、Q2が66万であったが、Q3は88万に!先述のごとく、量産化体制を取らず、出荷台数が日本のカメラに比べると限られているとは言え、こんな高額カメラに注文が殺到する状況には考えさせられるものがある。量産体制、手作り体制、どちらがこれからの「ものつくり」で成功者になるのだろうか?ハイエンド機に特化した高級路線のライカ社にとって、今後、Qシリーズをどのような位置づけにしようとしているのだろうか。


Q2から何が変わったのか?

 1)6030万画素CMOSセンサー (Q2は4730万画素、Qは2600万画素)。解像度を6030万、3000万、1200万と選べる

2)画像エンジンはMaestro IV (Maestro IIIから進化)

3)LCD 3インチTFT チルト式をライカとして初めて採用

4)EVF 5.76mp (Q2の3.68mpから)SL2並の解像度

5)ISO 50-100,000 (ISO 50−50,000)

6)AF コントラスト+位相差 となり高速+正確

7)クロップモード(いわゆるデジタルズーム) 従来の28/35/50/75mmに95mmが加わった

8)バッテリー 大容量化

9)コードレス充電(ハンドグリップ+専用ベース経由で)が可能に

10)HDMI+UBS-Cポート追加 PC給電と画像転送が可能に また、スマホとの画像転送が高速化

11)動画Video 8K追加


初代のQ以来、外形はほとんど変わらない。特に正面は全く同じ顔をしている。背面が少しレイアウトが変更され、LCDがチルト式になったことと、ボタン配置が右寄りに集約された。側面にUSB-Cポートが設けられた。バッテリーが大容量になり、コードレスチャージができるのは便利だ(ただし専用ハンドグリップ+専用ベースが必要)。レンズは全く変わらず。マクロモードも継続されている。防塵防滴、手ぶれ補正も変わらず。したがって、大きな進化ポイントは、6030万画素とAF性能の向上(正確+速度)につきる。

Q3は「買いなのか?」。高画素化はmake senseなのか?ストリートフォトには最適。マクロモードがあるのでテーブルフォトにも有効。スマホカメラがが高性能化し、写真といえば「インスタ映え」に代表されるスマホという時代に、コンパクトデジタルカメラ(コンデジ)、ポイントアンドシュートの存在意義を問うカメラというわけだ。ライバルはスマホであり、ターゲット層はスマホユーザなのだろう。事実、コンデジの出荷台数はここ数年激減状態。ライカ社も2015年にQを発表した時点では、コンデジの市場縮小を見て、Qの将来性を疑問視していたようだ。しかし、最近ではこのスマホで写真に目覚めた若者を始め、「新しいフォトライフ」市場が生まれ、そのなかから、写真表現の幅を広げ、本格的な作品創りへの移行、そしてより良い(高品位)カメラを求める層が出てきている。時代は巡る。一眼レフ型ミラーレスが人気で、Nikon Z8の人気に見られるように出荷台数が急増している。そういう、「時代が巡ってまいりましたぞ」というタイミングでのQ3の発表だ。それにしてもコンデジとしては半端な価格ではない。どうせカメラ買うなら高級なハイエンド機を!ということなのだろうか。誰もが買えるカメラではないはずだが。日本の製造業が得意な、「安くて高性能」な「量産機」は、商売にならない時代になったのか。皮肉なものだ。

それにしても、ついに6000万画素超えだ。これ以上の高画素化は不要、という人もいるが、撮影後のポスプロを考えると、一画面あたりの情報量が多いほうが有利だ。加工しても劣化しないメリットは大きい。ダイナミックレンジ、解像度が向上したメリットは否定し得ないだろう。表現の自由を広げるポスプロを前提として作品創りするなら、低画素でダイナミックレンジ、解像度に限界のあるスマホは選択肢に入らない。日常スナップ、記念写真や自撮り、インスタ映えならOKでも、写真にこだわり始めると物足りなくなる。もちろんその分、膨大なデータ量を扱える処理能力の高いPCやタブレットが必要になる。ストーレージもFlickerやGoogleフォト、Amazon Drive Photosは対応可能だが、SNSではインスタグラムは画素数を落とさねばアップできず弾かれてしまう。最近は静止画モードに加えて動画モードがワンセットになっている。一機材で静止画・動画の垣根を超えた表現も可能な時代(これもスマホの影響?)。表現の多様性化トレンドは止まらない。





以上の写真は、ライカ社のHPから引用


Leica Q3での作例:



マクロモード



マクロモードでの接写





クロップ50ミリ

マクロモード
クロップ75ミリ

マクロモード
クロップ90ミリ
LRで明暗とコントラスト加工しても劣化は見られない

Videoモード


参考過去ログ:

2019年5月20日 Leica Q2登場

2015年7月31日 Leica Qデビュー