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2026年2月7日土曜日

古書を巡る旅(75)イザーク・コメリン『東インド会社の起源と発展』〜ウィリアム・アダムスの日本への航海はどのように記録されているか?〜



表紙
初版本を正確に復元したファクシミリ版

オランダ連合東インド会社社章



アジアの女神の足元で、ポルトガル人と争う姿(左)と魅力的な財物に群がるオランダ人(右)が描かれている

イザーク・コメリン:Isaac Commeline (1598〜1696年)

「東インド会社の起源と発展」:Begin Ende Voortgangh van de Oost Indische Compagnie 全4巻1644初版〜1646年三版

編者のコメリンはアムステルダムの著述家であり出版事業者である。本書は、オランダ人の数々の航海を年代順に編纂したアジア航海記録集とオランダ東インド会社の内部資料に基づく活動記録集である。前者はすでに刊行されていたものを含むが、後者は、非公開であったはずのオランダ東インド会社の内部文書が含まれている。いわば「オランダ東インド会社40周年記念誌」的な記録集となっている。しかし、本書の巻頭にこの本の成立に関する事情を説明した記述はない。また東インド会社が正式に出版したものではないし、本書刊行にあたってそのような承認や協賛をした記述もない。いわばコメリンという出版を生業とする人物の企画出版物と見做されている。印刷は地図制作でも著名なヤン・ヤンソニウス。注目すべきは日本に関する記録が豊富であること。特にヘンドリック・ナーゲルの「東インド紀行」で引用されている東インド会社内部資料や、初代平戸商館長スペックスの駿府参府記録や、リーフデ号乗組員の日本での活動記録、平戸商館長カロンの「日本大王国誌」始め、内部文書引用に基づく詳細でかつ質の高い日本関連記事が収録されている。

第1巻は北回り航路(北極航路)探検記録。ヘンリー・ハドソンによる探検航海記(ハドソン湾発見など)。後半は東周りで初めてアジアに至った(バンタムに到達)コルネーリス・デ・ハウトマン艦隊(1595年)の旅行記ほか。1598年のヤコブ・ファン・ネック艦隊のアジア遠征(莫大な利益で成功)記録が掲載されている。オランダでは1595〜1602年の間で65隻がアジアへ向かい、このわずか5〜6年でアジア香辛料貿易で大きなシェアーを占めるようになった。

第2巻には、西回りマゼラン海峡経由で東洋へ向かう各艦隊の航海記録。中国、日本が新たなターゲットとなり、リーフデ号が参加したマフー艦隊の航海(1598年ロッテルダム出航)、ファン・ノールト船隊の世界一周航海記録「世界一周紀行」(1598)などが掲載されている。ノールト艦隊の日本船との遭遇記録がある。ただしマフー艦隊の記録は、航海を断念してロッテルダムに帰投したベールトの記録を元にしているため、リーフデ号の日本到着の記事はない。

第3巻はハーゲン艦隊、フェルフーフ艦隊の日本航海記録、1602年に連合東インド会社が設立され、日本とも1609年に正式国交が成立(朱印状交付)、平戸に商館が開設された。1611年の初代平戸商館長ヤン・スペックスの駿府参府日記や、リーフデ号乗組員クワッケルナック、サントフォールトの日本での活動に関する記録が収録されている。この中で「master Adams」という記述が現れる。これがウィリアム・アダムスの事であろう。彼に関しては、彼自身の手紙やオランダ・イギリス商館の記録が、その存在と活動を確認できる一次史料であり、本書の記事はこうした一次史料に基づく引用であり、その限りにおいてウィリアム・アダムスを想起させる人物が登場する。。

第4巻には日本向けの荷物のリストや、詳細な取引記録が掲載されている。出典は東インド会社の社内記録である。部外秘のはずの社内記録がどのようにして公開されることになったのかは不明であるが興味深い資料である。最後にはヘンドリック・ハーゲナールの「東インド紀行」が掲載されている。ハーゲナールは1634年から3回日本に渡り平戸に一年以上滞在し、江戸参府にも同行している。その付属資料として、5点が収納されている。その一つが平戸オランダ商館長フランソワーズ・カロンの「日本大王国誌」の元となったバタビア商務総監向け日本報告書(1645年)。ガイスベルトゾーンの「日本殉教史」、クラーメルの「後水尾天皇行幸見聞記」などが掲載されている。このように、第4巻は東インド会社の記録をもとに日本に関する重要で質の高い情報が記載されている。


イギリス人航海士ウィリアム・アダムスとオランダ・マフー艦隊の悲惨な航海

このようにウィリアム・アダムス個人に関する詳細な活動記録は見つけることができないのだが、彼が航海士を務めたリーフデ号、所属マフー艦隊の航海については上述のように記録されている。ここでイギリス人航海士ウィリアム・アダムス所属のオランダ、ハーゲン船団のマフー:Mahu艦隊の航海を振り返っておきたい。日本とオランダ、イギリスとの出会いは、このオランダ船に乗船していたイギリス人の初めての日本上陸に始まる。このマフー艦隊は、イギリスのキャベンディッシュ:Cavendish艦隊の世界就航、その私掠船活動から上がる莫大な利益という「海賊モデル」に刺激され、オランダの投資家の資金で編成された船団の一つである。1598年、ロッテルダムを出港して、西回りでマゼラン海峡経由で東洋を目指すという、当時のオランダとしては画期的な航海であった。しかし、その結果は悲惨な航海であった。マフー艦隊は次の5隻から構成されていた(これらの艦隊航海の記録は本書「東インド会社起源と発展」イザーク・コメリン編著に詳説されているが、他の資料からの情報を加えて振り返ってみよう)。

ホープ:Hope号(希望)500トン、130人、船長ジャックス・マフー:Jaques Mahu(艦隊司令官)旗艦。

リーフデ号:Liefde(愛)350トン、110人、船長シモン・デ・コルデス:Simon de Cordes(艦隊副司令官) (旧船名:エラスムス号)

へローフ号:Gheloove(信仰)350トン、109人、船長ヘリット・ファン・ブーニンゲン:Gerrit van Beuninghen

トラウ号:Trauwe(忠実)250トン、86人、船長ユーリアン・ファン・ボックホルト:Ieauriaen van Bockhout

ブライデ・ボートスハップ号:Blijde Boodschap(福音)150トン、56人、船長セバルト・デ・ヴェールト:Sebalde de Weert

途中、指揮官マフーは出港後3ヶ月でアフリカ西岸のベルデ岬付近で熱病に感染し病死。副官のコルデスが指揮官となり、艦隊の指揮系統の再編が行われる。航海士のウィリアム・アダムスはホープ号からリーフデ号に乗り換えた。リーフデ号に乗船していたディルク・ヘリツゾーンはブライデ・ボートスハップ号の船長になり、セバルト・デ・ヴェールトはへローフ号船長となる。こうして再出発したものの、航海中に多くの乗員が熱病や壊血病で死亡したり、敵対的な先住民、ポルトガル人との戦闘で乗員の命が失われた。マゼラン海峡通過は、猛烈な嵐に見舞われ困難の連続で、艦隊はバラバラになってしまう。出港後10ヶ月、5隻のうちマゼラン海峡を通過して太平洋に出て再会を果たしたのはホープ号とリーフデ号だけであった。難破状態であったへローフ号はオランダのファン・ノールト艦隊とマゼラン海峡で遭遇し、救助と支援を要請したが、ノールト艦隊にも余裕がなく拒否される。へローフ号は乗員の反乱がピークに達したため船長のヴェールトはロッテルダムへの帰投を決断した。この時点の生存者は36名と、出港時の三分の一に減っていた。このヴェールトの航海記がコメリンの「東インド会社起源と発展...」第2巻に掲載されている。この他、トラウト号は単独でマゼラン海峡を越えモルッカ諸島に到達したが、現地のポルトガル人に捕らえられて多くが処刑されたが、捕虜として生き残りオランダに帰れたもの数人いる。ディルク・へリツゾーンのブライデ・ボートスハップ号は航行不能となりスペイン支配下のバルパライソ(ペルー)に入港し全員が捕虜となった。そのうち11名はその後オランダに帰還した。ちなみにこのディルクはアジアに24年滞在し、ポルトガル人に雇われて長崎にも2年滞在していたことがあった(この時の体験をリンスホーテンに語り、それに基づくと思われる日本の記述が「東方案内記」に掲載されている)。今回の航海で、初めて母国の船で日本を再訪する事を夢見ていたが叶わなかった。ホープ号は太平洋ハワイ諸島付近で嵐に巻き込まれ行方不明になり、結局リーフデ号だけが1600年3月、日本に到達する。そのリーフデ号の豊後到達も「漂着」といった方がふさわしい有様で、出港時110人いた乗員はこの時点で24人になっていた。3人が到着翌日に死亡。その後病死した3人があり、結局18人(14人という説も)が生存していたが、到着時に立ち上がることができたものは7人だけだった。船長のクァッケルナックは到着時には衰弱激しく、代わってアダムスが日本の役人に対応し、大阪へ連行された。

このようにマフー艦隊の航海は悲惨なものとなり、利益を上げるどころではなかった。出港時に491人いた乗員のうち、再び祖国の土を踏めたのは50人ほど。そのうち36人は途中で引き返したへローフ号の乗員で、捕虜となって帰還できたのは14名ほどしかなかった。また皮肉なことに、日本に到達し、誰一人捕虜にならなかったリーフデ号の乗員14人は、誰も帰国していない。こうした航海事業への投資は、多くの人命と船舶を失う究極のハイリスク投資で、「ハイリターンか、無一文か」という過酷なものであった。それでも欲望に駆られて、一攫千金型ハイリターンの僥倖を狙う執念というか、人間の業の凄まじさを感じる。冒険者とはそういうものである。記述の通り、コメリンの「東インド会社起源と発展」には、途中でオランダに引き返したヴェールトの航海記録が掲載されているためリーフデ号の日本到達の記録は出てこない。オランダ船隊として初めて世界一周に成功し、故国に帰還できたたファン・ノールト艦隊が、航海途中ボルネオ沖で日本船と遭遇し、そこでリーフデ号の日本到達と乗員の生存を知り、ノールと艦隊帰国と共にオランダへ伝わった。



第二巻冒頭にマフー艦隊の5隻が紹介されている
途中でオランダに帰還したへローフ号船長セバルト・デ・ウェールトの航海記録が元になっているので、リーフデ号の日本到着は記述されていない。

大西洋 アフリカ西海岸・ベルデ岬に集結し、ポルトガルのプライア砦を攻撃する艦隊

大西洋 ギニア湾 ポルトガルのアンノボン砦を攻撃する艦隊1609年

太平洋 南米チリ、サンタマリア島(スペイン領)沖を通過
5隻の艦隊はバラバラとなり、ホープ号とリーフデ号だけになっている
ここから5ヶ月かけて太平洋を横断してリーフデ号だけが日本に漂着する(本書には記載されていない)

 ノールト艦隊が遭遇し襲撃しようとした日本船

ボルネオで出会った日本のサムライ(傭兵か?)


リーフデ号の人々

リーフデ号とその乗員については、先述の通りクァッケルナック、サントフォールト、アダムス、ヤン・ヨーステンなどの名前が本書で確認できるが、そのほかの乗組員の名前や消息については、コメリンの本書には記録がない。またリーフデ号航海記録などが失われているので、アダムスが日本から同僚や家族に宛てた手紙の中で語られているものや、オランダ商館やイギリス商館の記録、手紙などに出てくる記述を拾い集める必要がある。。アダムスの手紙によると、先述のように出港時110人であったリーフデ号乗員は、18人(14人説も)が生存して日本で生活始めたことになる。

我々の歴史の教科書で知っているリーフデ号生存者で後世に名前が残っているのはアダムス(三浦按針)のほか、ヤン・ヨーステン(耶揚子)くらいだが、他にも、先述の漂着時にリーフデ号の船長であったヤコブ・クワッケルナック、書記であったメルヒオール・サントフォールトがおり、この二人の日本での活動についてははコメリンの本書にも登場する。その活動は次のようなものであった(本書に記録されているもの以外のソースから)。家康の許可を得て、バタニのオランダ東インド会社に向かい、貿易許可書を渡し、日本への来航を促そうとしたが、バタニ商館はポルトガルとの争いで忙しく、十分な商業活動がまだ開始されておらず、日本に向かう余裕がなかった。二人は虚しくバタニを離れ、クッケルナックはその後、現地でオランダ艦隊に加わり戦死する。サントフォールトは日本に戻り、長崎で商人として活躍。幕府やオランダ商館とは一定の距離を置きつつも、日蘭の交流史の中では重要な役割を果たした。アダムスよりもはるかに長い40年を日本で暮らした。リーフデ号生き残りの中では一番長い。その後バテレン追放令に伴い台湾へ、そしてバンタムへ移り住みそこで亡くなった。こうした活動は、オランダ商館やイギリス商館の記録、手紙などで窺い知ることができる。この他にも日本に定住した元乗員がいる。多くが平戸や長崎、堺などを拠点に貿易、航海に携わり、東アジアや東インドを舞台に活躍していた様子が伝わる。彼らの帰国を願い出る手紙や、故国に残してきた家族への想いなど、本国への帰国を願う気持ちも読み取れるが、それでも「神によって与えられた新天地」で、新たな活躍の場を得た「海の男たち」の挑戦者としての意気込みが感じられるのが感動的である。「人生至る所青山あり」。

リーフデ号乗員については、「リーフデ号の人々」ー忘れられた船員たちー 森良和著 学文社 に紹介されている。上記のウィリアム・アダムス、ヤンヨーステン、メルヒオール・ファン・サントフォールト、ヤコブ・ヤンツゾーン・クワッケルナックの消息、日本での活動状況について詳しく紹介されているほか、他の10名の知りうる限りの消息が記載されている。またクレインス桂子氏の記事にはこの本に紹介されていないもう一人のリーフデ号船員の消息が紹介されている。拙ブログ「2020年9月15日「ヤン・ヨーステンとは何者か? リーフデ号の生き残りとその後」を参照いただきたい。


ウィリアム・アダムスの生い立ち

1564年、イギリス南部のケント州ギリンガム生まれ。この頃のイギリスはプロテスタントの女王エリザベス一世が王位についたが、強大なカトリック国スペインの脅威に慄く辺境の島国であった。国内ではカトリック勢力による王権簒奪の危機にさらされていた。一方、イギリスはこの頃から徐々にローリーによる北米大陸への進出、植民地化が始まり、ホーキンスやドレイクといった私掠船船長(海賊)が海上でスペイン船を襲い財物を略奪するという荒っぽい活動を起こしている時期で、大国スペインとの戦争の危機が迫っていた。アダムスはこんな時代に幼少期から青春時代を過ごした。かれは上流階級出身ではなく庶民階級の出である。しかし子供の頃に学校には通わせられて読み書き計算は教わっている。当時の庶民の識字率は極めて低く、学校に行くケースは稀であったので、それなりの教育を受けさせることのできる家庭であったのであろう。12歳でロンドンの東、テムズ河畔のライムハウスで船大工のディンキンス親方の工房に弟子入りし修行を積む。この頃のイギリスはスペインとの戦争や海外進出の時代で、大型の外洋船建造ニーズが非常に高まっていたので船大工は人気の職業となっていた。しかしこれがやがて日本で役に立ち彼が三浦按針として家康に取り立てられる基礎となる。

やがて彼は24歳でイギリス海軍に入り、1588年のドレイク艦隊のアルマダ海戦(スペイン無敵艦隊を撃破した海戦)に補給船ウィリアム・ダフィールド号の船長として参戦。イギリスの、いや世界の歴史を変えた海戦の当事者として戦場を経験した。戦後、海軍を退役すると、西アフリカとの貿易を執り行うバーバリー商会に入るが、おそらくもっと大きな夢を求めていたのであろう、オランダの世界就航プロジェクトに応募。ビーテル・ファン・デル・ハーゲン船団のマフー艦隊の航海士として参加することになる。造船技術と航海術、海戦経験を有する貴重な人材であった。若きアダムスの人物形成過程はこのようなものであった。これが彼の苦難の航海と、その末の日本での数奇な人生の始まりであった。



2025年10月10日金曜日

古書を巡る旅(70)The Voyages And Adventures of Ferdinand Mendez Pinto  〜「種子島に鉄砲を伝えた」と自称するポルトガル人メンデス・ピントの『遍歴記』英訳版〜

1897年「The Adventure Series」の一冊として復刻されたもの。装丁は「冒険小説」をイメージさせるものとなっている。
 London, T.Fisher Unwin刊行である。

フェルナン・メンデス・ピント (1509~1583)(Wikipedia)

これまで「古書を巡る旅」でも、18世紀のイギリスで刊行されたデフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』(古書を巡る旅(62)『ロビンソン・クルーソ』)やスウィフトの『ガリバー旅行記』(古書を巡る旅(68)『ガリバー旅行記』)などの冒険小説を取り上げた。この二つの作品は、ノンフィクションの体裁をとったフィクションであったり、奇想天外な架空の国々に仮託した風刺小説:Satierであったり、要は旅行記と言いながら文学作品である。今回紹介する17世紀のポルトガル人の「冒険物語」は、16世紀後半の大航海時代に実際に冒険者が体験した、未知の国々での出来事、実在の偉人の事績を語るノンフィクションである。作者は自分の数奇な冒険旅行体験を一人称で語り(自伝)、あるいは自分の目で見たり伝え聞いた珍しい話を語る(見聞録)。と言いながらも事実の中に存在の不確かなロマンを盛り込み、空想も真実の延長だだと言わんばかりの、検証不能なストーリーを随所に散りばめた、いわば「虚実ないまぜの物語」でもある。「大航海時代」という時代空気を反映した、未知の世界に船出した冒険者たちの真実と空想のハイブリッドストーリー。そしてこれを書き残すことで「オレは歴史を作った」という自己主張のナラティヴである。間違いなくこの16世紀のポルトガル人冒険家の記録は、18世紀のイギリス人作家が「ロビンソン」や「ガリバー」を着想する原点となったであろう。


ピント『遍歴記』とそのインパクト

その「冒険物語」とは、16世紀のポルトガル人の冒険家、商人、著述家、フェルナン・メンデス・ピント:Fernao Mendes Pinto(1509〜1583)『Peregrinacam:遍歴記』である。彼がどんな人物であったのか詳細な経歴は不明であるが、インドから東洋を股にかけ、20年余にわたって旅した冒険商人であった。これはその自伝であり東洋見聞録である。ピントは旅から帰国すると、その記録を1569年頃から書き始め、1578年に全文を書き終えたとされる。この時ピントはほとんど無一文の貧困状態であったと言われている。その写本が出回り人気博したようだが、なぜかピントの生前には刊行されず、彼の死後31年経った1614年にポルトガルで初版が刊行された。その後『遍歴記』はヨーロッパ各国語に翻訳され、イギリスでは1663年にHenry Coganによって英訳刊行された。今回紹介する『メンデス・ピントの航海と冒険:The Voyages and Adventures of Ferdinand Mendez Pinto』である。彼自身の実体験をもとに書かれたという点では先述のデフォーやスウィフトの架空の冒険小説とは異なる。ただ、かなり粉飾された誇張や創作が含まれるフィクションだとの評価がある一方で、東洋の現地に出向いた実体験をもとに書かれた記録で、必ずしもホラ話や想像による記述とも言えない説得力を持っているという評価もある。常にフィクションなのかノンフィクションなのか論争がつきまとう厄介な作品である。

この英訳版が出された時期は、ヨーロッパ各国で16世紀の「大航海時代第一ステージ」の、スぺインやポルトガルによる航海、海外での植民地獲得や商業活動や、キリスト教布教活動の記録が多くの言語に翻訳され刊行された時期である。もちろん国家や教団としての公式記録は門外不出で、少なくとも当時は情報規制があったが、商人や冒険者個人の記録は比較的出回ったようだ。東洋への関心が高いものの情報量が限られており、ポルトガルの商人でマカオ拠点に活躍したトメ・ピレスの『東方諸国記』(1515年)が初めてのアジアに関する体系的な記録で、1595年のオランダ人リンスホーテンの『東方案内記』が出るまで長く唯一の東洋関連情報源であった。ピントもこの『東方諸国記』を読んだのであろう。そしてこのピントの『遍歴記』もそうした「東洋情報ハングリー」な「大航海時代第二ステージ」の新興国イギリス、オランダ、フランスにとって注目の情報源となった。英訳版が刊行された1663年は、ちょうどイギリスは「王政復古」の時代であり、大航海時代のポルトガルやスペインの記録、文献の研究翻訳が進められた時代である。イギリスはオランダとの海洋覇権争いに勝ち、撤退を余儀なくさせられていた東インド、日本への再進出を試みた時期である。ジェームス2世は1673年に日本に東インド会社のサイモン・デルポーを使節として送り、1623年に撤退した平戸(あのウィリアム・アダムスの仲介で開いた)にかわり長崎での交易再開交渉を行った。結局はこの交渉は失敗するが、改めてアジアへの挑戦が始まり、その研究が進められた時期と重なる。ジョン・ドライデンの英訳『ザビエル伝』は1688年の刊行。その元ネタとなったドミニク・ブーフのフランス語訳は1682年の刊行である。オランダ人地理学者にして著述家のアルノルドス・モンタヌスがイエズス会報やポルトガル/スペイン人の著作や手紙、オランダ商館長の江戸参府報告などをもとに『東インド会社遣日使節報告』を著したのが1669年。その翌年1670年には早くも英訳が刊行された。ちなみにモンタヌスは日本にも東洋にも行っていない。イギリスやオランダなどの後発「海外進出国」がスペイン/ポルトガルの「大航海」「大発見」時代の足跡を辿ることで、海外情報キャッチアップしようと翻訳本が盛んに出版された。イギリスやオランダの海洋帝国への道は、先行するスペイン、ポルトガルによって地ならしされたと言っても過言ではない。2021年11月17日古書を巡る旅(17)聖フランシスコ・ザビエル伝:ドライデン英訳021年12月12日東西文明ファーストコンタクト第一章「バテレンの世紀」ポルトガル人、スペイン人の日本見聞録


日本渡航関係記事

ヨーロッパ人にとって東洋進出のメインターゲットは、インド、東インド(東南アジア)、そして中国であった。そこはヨーロッパにはない香料や銀、綿、茶、絹織物や陶磁器など豊かな財物の宝庫であり、一攫千金を求める冒険商人が群がる開かれた市場であった。その中で「偶然に発見」したのが日本であった。13世紀マルコポーロが「黄金の国ジパング」として紹介し、大航海時代の幕開けのきっかけになったとさえ言われたジパングは、16世紀にはすでに「おとぎばなし」として冒険的商人に忘れられた存在となっていた。インド、マラッカ拠点に中国沿岸や琉球で交易に参画していたポルトガル人が偶然に漂着した島が種子島であり、初めてヨーロッパ人が日本に出会った。これをきっかけに日本本島にもポルトガル人、スペイン人が訪れることになる。まさにこうした「日本発見」という歴史的出来事を記述したのがピントの『遍歴記』なのである。今回入手した英文版の中から特に日本渡航関係に絞ってその要点を整理してみた。ピントは合計で4回日本に渡航したとしている。


第一回:
中国人海賊のジャンク船で種子島に漂着した3人のポルトガル人の一人として登場する。「ここがあの幻の「ジパング」か!われこそ初めてそのジパングに上陸したヨーロッパ人だ!」と「日本発見」の瞬間を興奮気味に記述している。種子島の王Nautaquim(種子島時堯(直時)のことか?)は好意的で歓待してくれた。漂着したポルトガル人の一人Diago Zaimotoが鉄砲と火薬を種子島の王Nautaquimに売却。王は夢中になり瞬く間に自分たちで鉄砲も火薬も製造することができるようになり、5ヶ月半の滞在中に600丁の鉄砲を製造したとある。やがて日本中に鉄砲が広まったと書いている。種子島滞在中、豊後王の使いが来て会いたいというので、ピント一人がそこから豊後に渡り王に会い歓待を受けた。王の次男のArichandono(誰のこと?)が大いに鉄砲に興味を持ち勝手に取り扱って事故に巻き込まれる。この事件でピントは罪に問われそうになるが、許されて無事豊後を離れる。この後琉球:Lequio島への航海を経てマラッカに戻る。ポルトガル人の種子島来航、鉄砲伝来は1542ないしは43年と考えられているが、ピントの記録によれば1544年とある。

第二回:
マラッカから種子島経由で日本へ第二回目の渡航。第一回の渡航(漂着)から帰って後、Liampoで「私たちが発見した日本には、大量の銀があり、中国で得た商品と交換し大儲けした」という話を広め、日本渡航を企てるポルトガル人が殺到するが、ほとんどが嵐で日本に辿り着けず琉球で捕虜になったものもいたという。その中でピントはアジア諸国を巡った後、再び種子島経由で日本渡航に成功し豊後府内に向かう。しかし豊後の王一族の騒乱(1550年の大友家の内紛「二階崩れ」のことか?))に巻き込まれて命からがら脱出。豊後での商売は失敗する。しかし鹿児島で大儲けができた。1547年1月16日に2人の逃亡日本人を連れて鹿児島、中国経由でマラッカへ。そこでイエズス会インド布教区のフランシスコ・ザヴィエルと出会う。鹿児島から連れてきた日本人「Anjiro:あんじろう」を改宗させ、ザヴィエルに引き合わせたとしている。

第三回:
ザヴィエルの日本渡航と布教活動の話が中心となる。ザヴィエルは「あんじろう」と共に1549年8月15日鹿児島上陸。平戸、ミヤコ(公方様:Cubuncamaに謁見するため)へ布教の旅に出る。ミヤコは戦乱で荒廃していて布教活動の成果があがらなかったので平戸へもどり、山口で布教活動。3000人を改宗させた。さらに豊後に向かい1551年に豊後王(大友義鎮/宗麟)に謁見。ボンズ:Bonz(仏教僧)と宗論を展開し説き伏せた。王は政治的理由で結局この時はは改宗しなかった(1578年に改宗するが)。ここではピントはザヴィエルに同行したのではなく、豊後で出会ったように書かれている。その後、ザヴィエルは日本布教のためにはまず中国布教が重要と考え日本を離れ中国Sanchao(三州)へ渡航。ピントは別れてSanchao経由でマラッカに向かった。1552年12月2日ザヴィエルはSanchaoで病を得てそこで没す。遺体をマラッカへ移送。ピントは生きているかのようなザヴィエルの遺体を目撃したと記述。1553年12月23日ゴアへ、壮麗な葬儀が執り行われた。ピントは豊後王からインド副王への親書を手渡し、布教のための神父派遣を要請したとする。  
ザヴィエルの日本における布教活動の事績はイエズス会記録や書簡に詳細に記述されており、このピントの記録のどこまでがこうした記録からの引用でどこからが実体験なのか不明な点が多い。

第四回:
ザヴィエル亡き後、イエズス会Belchior神父(メルシオール・デ・フィゲイレド(Melchior de Figueiredoのことか?の日本渡航に随伴したとする。ピントはこの時インド副王:Francisco Barretの大使という重要な役目で日本に向かった。ここは一人称単数でその模様が記述されている。ピントの第四回目の渡航である。1554年4月16日ゴア出発。1556年5月7日苦労の末に豊後府内到着 臼杵にいた豊後王が府中に戻り謁見。インド副王の親書を手渡した、神父一行は王に大いに歓待されたが、しかし王の改宗には至らず1556年11月4日に離日。ゴアに戻る。この頃ピントはイエズス会に多額の寄進をしており、そのことはイエズス会の記録にもある。この記述は実体験によるものと考えられている。

その後、ピントは1558年9月22日にポルトガルに帰国。インド副王による彼の業績を讃える証明書とともに、東洋での彼の活動業績、母国への貢献を訴える手紙を国王に上奏し、恩賞/年金を請求するが認められなかった。ちなみにポルトガル船の長崎来航は1567年、織田信長のルイス・フロイス謁見は1569年。大友宗麟の受洗が1578年。天正遣欧使節1582〜90年である。晩年のピントはこのような(彼が切り開いたとする)日欧の交流の進展をどのような思いで聞いたのであろう。1578年に「遍歴記」の筆を置き、貧困のまま1583年に没している。


『遍歴記』の史料としての評価

彼は、1543年(天文12年)に「自分は種子島に漂着した(日本を発見し上陸した)ポルトガル人の一人である」「日本に鉄砲を伝えたポルトガル人である」。さらには1549年に「アンジロウをザビエルに引き合わせ日本布教を助けたのは自分」と主張している。日本史の画期となる出来事に悉く立ち会っているというわけだ。マルコ・ポーロの「ジパング伝説」以来忘れられていた日本。ピントのその「日本再発見」という臨場感あふれる「証言」はヨーロッパにインパクトを与えたことだろう。彼自身が日本に来たのは事実で、イエズス会の布教活動を支援したのも事実であると考えられている。イエズス会記録(後述のジョアン・ロドリゲス『日本教会史』など)や書簡にも彼の名前が登場する。イエズス会に入会し、多くの財産を寄進したこと。またマカオでザビエルの遺骸に出会い、そのまるで生きているかのような姿に涙したこと。これらはピント自身の体験をもとにした記述であろう。しかし、ザヴィエルの日本における布教活動に関する事績などはやはりイエズス会記録などに基づく伝聞であろうし、鉄砲伝来譚などは、後述するがポルトガル側の記録や書簡があまり残っていないので、誇張や、事実と異なるエピソードも多く含まれていると思われる。ドライデン英訳『ザヴィエル伝』には「あんじろう」との出会いの記述があるが、日本から何らかの罪を問われて逃亡してきた人物とされている点は一致するが、誰が引き合わせたかという記述はない。

『遍歴記』はピントの帰国後の1569〜1578年頃に執筆されたものと考えられており、この時には既にイエズス会記録や書簡などの先行資料は入手可能で、執筆にあたって参照、引用(借用)できた事だろう。1614年の出版後はヨーロッパで『遍歴記』は冒険物語として多くの読者にもてはやされたが、本国では「法螺吹きピント」とあだ名をつけられ、「ピントのような嘘をつく」という言葉が流行ったという。1620〜1634年頃まとめられたイエズス会通辞ジョアン・ロドリゲス(ルイス・フロイスの後任として日本で20年以上にわたり布教活動に携わり『日本文典』などの著作もある)の『日本教会史』ではポルトガル商人ピントと彼の『遍歴記』に言及している。そのなかで彼が日本に来ていたことは認めているが、彼の話(種子島鉄砲伝来当事者である、豊後でのザヴィエル布教活動に関する一連の行事に関する記述)は作り話で娯楽のために後に創作したと思われると書いている。ロドリゲスは20年以上の日本(長崎)滞在経験から、ピントの記述を仔細にみると、実際の現地の地形や街の様子、人々の風習などを知らない者が書いたものとしか思えない、と実証的に「史料批判」を行っている。こうしたことから、常にこのピントの『遍歴記』にはその内容の信憑性について論争がつきまとう。たしかに史実を裏付ける一次史料としては信頼できない部分が多いが、全体としては彼のアジアでのリアルな体験、見聞に基づく記述が含まれており、東西交流史の側面史として、また歴史研究の二次的史料として無視し得ない著作であると考える。また当時のヨーロッパ人の東洋観、日本観、認知度合いが描かれている点でも貴重な著作だ。「歴史書か文学書か」という問いは置いておいて、その内容はユニークかつ極めて興味深い。


「鉄砲伝来」その時ピントは種子島にいた?

本書で最も話題となるピントの「鉄砲伝来譚」をもう少し詳しく見てみよう。ポルトガル人の種子島上陸(ヨーロッパ人による「日本発見」、日本人の「初めてのヨーロッパ人遭遇」)と鉄砲伝来に関する記録は、日本側では、南浦文之(なんぼぶんし)の『鉄砲記』1606年があり、ヨーロッパ側では、アントニオ・ガルバン『世界新旧発見史』1563年などがある。いずれも伝聞による後代の記録であり、現地におけるリアルタイムな出来事を伝える史料ではない。種子島家に伝わる『種子島家譜』には時堯が鉄砲を買ったことが記録されておりこれが唯一のリアルタイム記録である。『鉄砲記』は江戸時代初期に刊行されたもので、これによると100人ほどが乗船する異国船が種子島の海岸に漂着。ほとんどが中国人で、その一人の儒学者王直(明国の倭寇の頭目のことか)と筆談で会話したとある。数人の明らかに中国人とは異なる風体の異人がいて、かれらはポルトガルから来た商人であると王直に説明されたとある。その後ポルトガル人からの鉄砲、火薬の入手の経緯や製造方法の習得に関する詳細な記述があり、全国に瞬く間に広がって行った経緯についても書かれている。これが現在では鉄砲伝来に関するもっとも信頼される史料であると考えられている。ここでは鉄砲伝来は1543年となっている。その時ピントはそこにいたのか?しかし少なくともピントらしき人物の名前は出てこない。しかしピントの記述にある鉄砲を売ったポルトガル人の同僚Diago Zeimotoは、ガルバンの『世界新旧発見史』1563年にも登場する。ピントがその場にいた目撃者であったかの印象を与えるが、記述の年代から見てガルバンの記事の引用かもしれない。無論ピントが(彼の死後に刊行された)日本の『鉄砲記』を参照したことは考えられない。

先述のジョアン・ロドリゲスも、この話はピントの娯楽を目的とした作り話だとしているが、彼が日本にいたことは認めている。『遍歴記』そのものは、自身の東アジアでの島嶼部探検の実体験に基づくもので、東シナ海ではポルトガル人は中国人倭寇と一体となって密貿易や海賊行為に従事していたことが仔細に記述されている。したがってピントが中国船ジャンクで琉球や日本沿岸を航行し、「鉄砲伝来その時」に種子島にいなかったとしても、その途中で種子島に上陸し、さらに日本本土に渡航したとしても不思議ではない。フランシスコ・ザビエル、イエズス会宣教師達もこうした中国ジャンク船で鹿児島に渡っている。ピントの「ホラ話」の中の誇張や、「盛った」話を丁寧に取り除いてみれば、そこに史実を読み取ることができる。考えてみれば「歴史書」や「記録」というものは、事実だけを客観的に記述したものではなく、編纂者や記録者の意図が反映され多かれ少なかれ粉飾があるものである。それは国家の正史であれ、社史であれ、個人史であれ同じである。歴史研究にあっては、常に史料批判の対象となるわけだが、事実はともあれ話としては「その時ピントは種子島にいた!」の方がワクワクする。そして「歴史的事件の目撃者」としての報告は、それが「フィクション」でも「臨場感を感じる。それがまさにピントの狙いであったに違いない。


1663年ヘンリー・コーガンの英訳版表紙
ポルトガル人が用いた最新鋭のフスタ船

アジア人

インド以東のアジア図 日本は左上に位置する


以下に掲載するのは、ピントのポルトガル語オリジナル版1614年刊行の復刻書籍である。

こちらは「遍歴記:Peregrinacam」1614年リスボン刊
天理図書館善書復刻版

「遍歴記」表紙


参考過去ログ:

2024年10月15日火曜日

徳川家康に使節を送った英国王ジェームス1世とは 〜「最も賢明にして愚かな王」?「平和王」?〜




ジェームス1世


2013年発行の日英交流400周年記念金貨
イギリス東インド会社から発行された



「古書をめぐる旅」でベーコンを二回にわたって紹介した。2024年8月10日「ベーコン書簡集」2024年9月1日「ベーコン書簡集」(2) 特に(2)ではベーコン/コーク論争については少し立ち入って「法の支配」の歴史を辿ってみた。そこで、そもそもベーコンやコークが活躍した時代、すなわち国王ジェームス1世治世とはどういう時代だったのか。ともすればヘンリー8世やエリザベス1世というチューダー朝の国王/女王のカリスマ性の陰に隠れて印象が薄いイメージがあるジェームス1世とはどのような国王であったのか。少し振り返ってみたい。


徳川家康とジェームス1世

 ジェームス1世は実は日本との関係が深く、イングランド国王(在位1603年〜1625年)として初めて徳川家康に使節を送り、日英の交易を始めた国王である。1600年、豊後に漂着したオランダのリーフデ号の航海士であったイギリス人、ウィリアム・アダムス(三浦按針)が家康の側近、外交顧問として活躍した時代である。アダムスはイギリス東インド会社を通じて国王に手紙を送り、日本との通商を勧めた。この手紙が国王に届くまでには10年の時間を要したが、ついにイギリス東インド会社のバンタム所属のジョン・セーリス率いる第二艦隊(グローヴ号を旗艦とする)が、国王ジェームス1世の使節として日本に派遣されることとなる。1613年、セーリスは無事に日本に到着し、徳川家康に謁見してジェームス1世の親書を渡した。イギリスは貿易許可証である家康の朱印状を得て平戸に商館を開設し、日英の交流と通商活動が始まった。

ジェームス1世は、先行するポルトガルやスペイン、あるいは新興国オランダとの対抗上、東洋との北西航路(北極海経由ルート)開拓に強い関心を持ち、アダムスもこれを強く支持した。というのも徳川家康も同じ構想を抱いていたからだ。イギリスと日本を直接結ぶルートができれば最短コースとなることから競争優位に立てるし、スペインを刺激することも少ないと考えた。家康もスペインやポルトガルがすでに確保している南回りよりもヨーロッパとの最短コースである北西航路の方が優位と考えた。これは多分にアダムスの助言によるものと考えられ、家康は彼に外洋船の建造、イギリスとの交易のハブ港として浦賀港築造を命じた。しかし、イギリスはこののちオランダとの東インド交易をめぐる争いに敗れ(アンボイナ事件)、1623年には東インド市場から撤退し、平戸の商館も閉鎖して日本から撤退する。これ以降はアジアはインドに集中することになるが、この時のジェームス1世は、高価な陶磁器や絹、刀剣などの工芸品を買い付けできる日本、中国との交易にこだわったという。ジョン・セーリスの「日本航海記」を繰り返し愛読したと言われている。1673年、彼の孫であるチャールズ2世(王政復古後の)の時代に再度日本に使節(サイモン・デルポー率いるリターン号)を送るが、この時は幕府側によって拒絶されている。以来、250年後の幕末の安政五カ国条約の時まで日英の正式な国交はない。この時にジェームス1世から家康、秀忠に贈られた献上品(望遠鏡、茶器セット、毛織物等)は現存しない。また家康、秀忠から贈られた金屏風10隻は行方不明だが、甲冑2式はロンドン塔に展示されている。

2023年8月23日「家康の駿府外交」


ジェームス1世の事績

このように日本に関心を抱き、交易を目指した英国王ジェームス1世だが、彼はイングランドではどのような国王であったのだろう。そもそも王位継承から波乱含みであった。エリザベス1世崩御後、女王に子供がいなかったのでスコットランド王であったジェームス6世(処刑されたスコットランド女王メアリー・スチュアートの息子、ヘンリー8世の姉の子孫)が、1603年にイングランド王位を承継し、ジェームス1世として即位した。母のメアリー・スチュアートはフランスに亡命していたが、帰国してスコットランド女王に即位したが、イングランド貴族のダンリー卿と結婚し一子を設ける。それがジェームスである。メアリーはカトリックで、イングランド王位の正当な承継者であることを主張してエリザベス1世の王位を継承することを主張していたが、スコットランド国内でのプロテスタントの反乱や、宮廷内の陰謀(ダンリー卿謀殺の疑い)に巻き込まれてイングランドに亡命。エリザベスの庇護を求めた。しかし、エリザベスへの叛逆の疑いあり、という陰謀により1587年に処刑される。ジェームスはこの悲劇のスコットランド女王メアリーの息子である。そしてイングランド王となり、スコットランド王を兼ねる。イングランド、スコットランド同君連合の始まりであり、チューダー朝からスチュアート朝に代替わりした最初の国王である。その在位中の事績を振り返ってみよう。


1)スコットランドとイングランドの統合問題

両国の王を兼ねているため、即位早々、統合に熱心で、議会の協力を得ようとするが、イングランド、スコットランド双方からの抵抗でうまくいかない。しかし、同君連合を象徴すべく、1604年にはグレート・ブリテン王:King of Great Britainを自称した。また1606年にはユニオンジャック旗(現在も使われている旗の原型、アイルランドが入っていない)を制定した。アイルランドは以前からイングランドの植民地とされ、各地で反乱が起きたがスコットランドのプロテスタントを入植させ(アルスター、ロンドンデリー)、カトリックの土地を奪い、公職から追放するなど、アイルランドの抵抗運動を徹底的に弾圧した。

2)宗教政策

ジェームス1世はカトリックであった。かといってローマ教皇にひれ伏すカトリック教徒ではない。王権神授説(Divine Right of Kings)の信奉者で国王自身が神の付託を受けて統治を行なっていると信じている。国王は神のみに責任を負い、そのほかの権威、すなわち議会、ローマ教皇に影響を受けることはないと主張した(後述の著作「The Works of James I」)。また「欽定訳聖書」(英語訳)を1611年に出し、イギリスではこれで典礼、儀礼を行なった。カトリックと国教会と非国教会プロテスタント(ピューリタン)の融和を図ろうとするが、これもそれぞれから抵抗を受け、結局は両極端のカトリックとピューリタンを排除する。このためカトリック過激派からは命を狙われ、議会に仕掛けられた爆発物で暗殺されそうになる(Gun Powder Plot:ガイフォークス事件1605年)。またピューリタンは圧政を逃れ、新大陸に移住する集団が現れる(メイフラワー号、ピルグリム・ファーザーズ1620年)。この間スコットランドでは長老派プロテスタントが勢力を伸ばす。

3)議会対策

無視はしなかったが相互不信関係にあり、議会は開催したものの(彼の子のチャールズ1世は議会を開かず無視したが)、たびたび国王大権侵害を主張して解散した。そもそも王権神授説を固く信奉する彼はイングランドの議会(Parliament)が王権に優越するものだとは思っていない。議会とは対立した。特に王妃の浪費癖と贅沢三昧は民衆の非難の的となり議会でも問題視された。また寵臣バッキンガム公の身内優先、情実政治への議会の反発も激化し、大法官ベーコンの失脚につながる。さらに議会を無視した課税や資産の売却などがやがては国王に対するコークらの「大抗議:Protestation」1621年へと発展する。この議会の反王権闘争は、その子チャールズ1世の専制政治に対する「権利の請願:Petition of Right」へ、そしてついには清教徒革命(1642〜1649年)へ。反王党派のオリバー・クロムウェルによって国王チャールズ1世が裁判の上、公開処刑される事態につながってゆく。

4)コモン・ロー/司法の独立

イングランド伝統のコモン・ロー優位「法の支配」(Rule of Law)を受け入れず、王権神授説に立って「国王は法の上にある」「裁判官は国王の廷臣である」として国王大権の優位を主張して司法とも対立する。大法官フランシス・ベーコンは一貫して国王大権擁護にたち、コモン・ロー優位を主張するエドワード・コークと対立する。結局コモン・ロー裁判所のトップ、コークを罷免するが、コークは議会に論争の場を移して王権に抵抗する(コーク/ベーコン論争)。また大陸法/ローマ法のスコットランドとの統合にはコモン・ロー側からも強い抵抗があった。最後までイングランドのコモン・ローの法思想を受け入れない「スコットランドから来た王」のままであった。

2024年9月1日「ベーコン/コーク論争」

 

5)海外進出、交易拡大

エリザベス時代と異なり、スペインに対する融和策(弱腰姿勢)で、海軍力強化を怠り、私掠船を禁止するなど交易活躍が停滞した。これを批判するウォルター・ローリーを政敵の密告により投獄、やがてはスペイン王の圧力に屈して処刑する。1604年にはエリザベス1世時にアルマダ海戦でスペイン艦隊を撃滅したにもかかわらずスペインと和解。スペイン艦隊復活を許してしまう。さらに、反スペインで関係を強化していたオスマン・トルコ帝国とも対立するなど東方貿易に支障をきたす事態を招いた。また同じく、反スペインアライアンスでこのころ海洋進出を活発させていたオランダの後塵を排する事態となっていた。一方で、新大陸、北米植民地開拓事業はバージニア会社(1606年)設立し、ジェームスタウンの建設、ロンドンからの移住植民地が建設されたが、南米ギアナでの金鉱山探索にはスペインとの確執で失敗に終わる。先述の通りスペインとの戦闘を口実にウォルター・ローリーを処刑する。東インド(アジア)には強い憧れを持っていたが、香料をめぐる争いの中、先述の通りポルトガルを駆逐したオランダに先行を許し、ついにはモルッカ諸島のアンボイナ島で起きたイギリス商館のイギリス人、日本人、ポルトガル人がオランダ東インド会社のオランダ人に殺害された事件(アンボイナ事件1623年)がきっかけとなってオランダとの東インド海洋覇権をめぐる競争に敗れ撤退する。同年には平戸のイギリス商館も閉鎖して日本からも撤退する。これ以降、イギリスはインド亜大陸に主軸を移す。しかし英蘭の海洋派遣をめぐる争いは激化し、イギリスはクロムウェルの航海条例でオランダと戦争状態となり3度にわたり英蘭戦争(1652〜1677)を戦い、チャールズ2世の時代に英蘭戦争に勝利したのち、再度東インド、日本への進出を進めるが、日本(徳川幕府)は勝手に平戸商館を閉鎖したことを咎めこれを拒絶されている。

2022年9月12日「ウォルター・ローリー著作」


英国史における評価:「最も賢明にして愚かな王」?「平和王」?

ジェームス1世の国王として事績をこのように列挙すると、まるで失敗続きの暗君にしか見えない。概して評価の高い国王とは見做されていないようだが、英国史の中でその評価は必ずしも定まっていない。エリザベス1世というカリスマ性を持った君主の後継者としてその権威を維持しようと苦労した。ベーコンやシェークスピアを育み、自らも多くの著作を残す知性ある啓蒙君主であるとする評価もあるが、「王権神授説」の熱烈な信奉者として国王大権を振りかざす余り、伝統的に議会とコモン.・ローが優位なイングランドにあって、「イギリス革命」の時代の幕開けを果たした王として記憶されることになる。その結果として国王大権の強化どころか「君臨すれども統治せず」という立憲君主制が生まれることになる。こうしたことから「最も賢明にして愚かな国王」と揶揄された。ただし在位中、対外戦争をしなかったので「平和王」などと称されることもあるが、むしろスペインの挑発や威嚇に対する「弱腰外交」というべきであろう。エリザベス1世時代に築いたイングランドの世界進出のポジション(特に対スペイン)を拡大させるどころか、スペインに譲歩し、スペインから独立を勝ち取った新興国のオランダとの競争にも負け、停頓の時代の国王となってしまった。彼の長男であるヘンリーはウォルター・ローリーにも薫陶を受けた英明な皇太子で人望があり議会からも将来が期待されていたが、18歳で夭折。跡を継いだ次男のチャールズは、父親の専制主義をそのまま引き継ぎ、さらに議会を無視してフランス、スペインとの戦争のために税金を課し戦費の借金する。これに抵抗するものは逮捕監禁処刑するという暴君ぶりを発揮。ついには反王党派のオリバー・クロムウェル率いる議会勢力と衝突、戦闘になり国王軍が敗北。1649年捕えられて公開処刑される(清教徒革命)。歴史にたらればはないというがが、もしヘンリー皇太子が次期国王になっていたら、イギリスはどのような歴史を歩んでいたのだろう。

ジェームス1世は、王権神授説の信奉者という中世的な一面を持ちつつも、最新の科学や海外情報に関心を持つ知的で啓蒙君主的な一面もあった。この時代はジャコビアン(ジェームスのヘブライ語名ジェイコブ)と言われた。自身も多くの著作も残している(スコットランド王時代の「悪魔論」や、王権神授説に基づいた政治論、宗教論集である「The Works of James I」がある)。フランシス・ベーコンはジェームス1世の絶対王権を支持する大法官であった一方、この時代が産んだ経験論哲学、科学の祖であり、ジェームス1世も彼を重用すると共に彼の著作にも影響を受けた。また、エリザベス時代の精華とみなされているウィリアム・シェイクスピア(1616年没)もジェームス1世時代には国王が劇団のパトロンとなり、「国王一座:The King's Men」、すなわち宮廷官として厚い庇護を受けた。一方で、コモン・ローの守護者で、ジェームス1世に抵抗した主席司法官:Chief Justice(コモン・ロー裁判所所長)エドワード・コークもこの時代の人物である。彼は国王の裁判所長を罷免され、議会に移ってからは王権の専制に抗議する「大抗議:Protestation」のリーダーとなる。また「権利の請願:Petition of Right」の起草者であり、名誉革命:Glorius Revolutionの「権利章典:Bill of Rights」に引き継がれるなど、近代法思想の原点である「法の支配」(Rule of Law)を確立した法律家として歴史に名を残している。これもジェームス1世という「王権神授説」の専制君主という、いわば反面教師があったればこそである。皮肉なことであるが。イギリスが産んだ世界の歴史に名を刻む偉人たち。ウィリアム・シェイクスピア、ベン・ジョンソン、フランシス・ベーコン、エドワード・コーク。いずれもジェームス1世治世下の人物である。そして彼らに影響を受けたトマス・ホッブスやジョン・ロック、アイザック・ニュートン、さらにはデヴィッド・ヒューム、アダム・スミスを産むことになる。イギリス啓蒙主義の始まりである。時代は中世から近代へと転換する過渡期であった。しかし、そういった変化の時代にも、中世的な思想と姿勢を引きづり、近代的な啓蒙君主として存在感を示すことはできなかった。また彼は、終生スコットランド人であり、イングランドのコモン・ローの精神や、議会の優位性を理解しようとも尊重することもなかった。彼の国王としての理念の基礎にあったのは「王権神授説」に基づく専制君主の思想である。やはり「最も賢明にして愚かな王」であったと言わざるを得ないだろう。


「ファースト・コンタクト」の250年後の「セカンド・コンタクト」

徳川家康とジェームス1世。徳川家康が磐石の徳川幕藩体制(封建領主体制)を打ち立て、また徹底した管理貿易体制(いわゆる「鎖国政策」)をとって250年の(平和な)江戸時代を築いた一方で、ジェームス1世はむしろ絶対王政から立憲君主制へと移行する時代の入り口にいた。それは彼が積極的にその歴史の歯車を回す役割を果たした、あるいはその歴史的転換を受け入れたと言う意味においてではなく、彼の専制主義的支配と混乱を、息子のチャールズ1世に引き継ぎ、「イギリス革命」の発火点となったという意味においてである。そして立憲君主制の大英帝国繁栄への道を歩む第一歩の時代を皮肉な形で築いた。この徳川家康とジェームス1世の「ファースト・コンタクト」から250年後、その日本とイギリスは再び出会うことになる。日本にとっては、この「セカンド・コンタクト」が「ファースト・コンタクト」以上に衝撃的な出会いであったことは言うまでもない。かたや「七つの海を支配する大英帝国」。かたや「太平の眠りから寝覚めたばかりの日本」であった。ただ皮肉なことにその閉ざされた日本の門を最初に叩きこじ開け、西欧文明との「セカンド・コンタクト」の第一歩を記したのはイギリスではなく、ジェームス1世の時代にはイギリスのバージニア植民地であったアメリカであった。


2022年1月8日「ファースト・コンタクト」カピタンの世紀(イギリス編)



ジェームス1世の徳川家康宛の親書(「英国ニュース・ダイジェスト」より)

ロンドン塔収蔵の家康/秀忠からの甲冑(「英国ニューズ・ダイジェスト」より)

北西航路(北極航路)図(「英国ニューズダイジェスト」より)



2024年7月28日日曜日

古書をめぐる旅(53)『The Mikado's Empire:皇国』ウィリアム・グリフィス著 〜近代日本史学の始まりの書〜





晩年のグリフィス夫妻肖像写真


今回はWilliam Elliot Griffis:ウィリアム・エリオット・グリフィスの著作「The Mikado's Empire:皇国」を紹介したい。著者のグリフィスはアメリカのオランダ改革派教会の宣教師である。ラトガース大学の出身でそこで教鞭を取っていたが、越前福井藩藩校「明新館」に招聘されて来日したお雇い外国人教師である。版籍奉還に伴い福井藩が無くなると東京の大学南校へ移る。彼の略歴、幕末維新時期の活躍、功績についてはこれまでのブログ(後掲)で述べてきたので、それを参照願いたい。本書は彼が日本から帰国したのちの1877年にNew York:Harper & Brothersから出版された第二版。初版は前年の1876年。以降重版を重ね、ラフカディオ・ハーンも来日に際して持参している。

本書『The Mikado's Empire:皇国』は、2部構成となっており、第1部が日本史概説。第2部が彼自身の日本滞在記である。彼の主著ともいうべき重要著作である。今回は第1部の日本史概説を中心に読み進めてみた。日本という国の成り立ちを古代に遡り解説し、そこから現代の(明治の)日本の姿を、「王政復古」「Mikado:天皇」の国の出発という視点で描いている。明治天皇が近代日本を統治する英邁な君主であると敬愛の念を示し、その天皇制のルーツと、その後日本が辿った天皇・貴族・武士との緊張関係の歴史、そして統治権威と統治権力の二元構造を述べている。彼は福井藩に招聘されていたが、版籍奉還、すなわち幕藩体制の崩壊(雇い主の福井藩の消滅)、封建体制からの決別という日本史の大転換期に身を置くこととなった。日本が近代化を進める国家体制として、天皇主権国家としてスタートするという歴史の現場を目の当たりにした。しかし、国学の流れを汲む尊皇攘夷思想に影響された日本人とは異なり、近代科学者、あるいはプロテスタントの合理的神学理解として、この王政復古を見つめている。明治天皇を敬愛するも、一方的な皇国史観や専制君主制を受け入れたわけではなかった。西欧諸国ではこの頃すでに近代的な国民国家が成立しており、国王を戴くイギリスも立憲君主制国家であり、まして独立戦争、南北戦争を経験したアメリカは共和制の人民主権国家である。グリフィスはその世界から日本にやってきた知識人である。特に紀元前660年に遡るとされている皇統の紀元を記述する歴史書、日本書紀と古事記に触れ、その史料批判を行なっている点に興味を惹かれる。彼が歴史学者であるという認識は現代でもあまり共有されていないかもしれないが、以下に述べるように、彼の本書で展開された日本史概説が日本の歴史学研究に与えたインパクトは大きい。そういう点で、この著作は、幕末・維新期にやってきた外国人の数ある日本見聞録の一つと片付けてしまうことはできないと考える。

本書の第一部は、近代的史学研究手法を持ち込んだ最初の日本史概説とも言える。 歴史研究の要諦は歴史資料(古文書や史書など)の記述を鵜呑みにせず、その編纂の時代背景や編纂者の意図などを読み解くことで史実を特定してゆく、いわゆる史料批判が基本である。当時すでに当たり前のこととされていたこの歴史研究姿勢を最初に日本に持ち込んだことに大きな意義がある。その後、帝国大学に史学科ができて、その初代教授にドイツから招聘された御雇外国人が就任した。外国人教師が史学科の初代となった理由は、こうした近代史学研究手法を日本に伝えることにあった。明治日本では、物理や化学、あるいは医学のような自然科学領域においては『科学的手法』『近代合理主義』を取り入れるのに躊躇はなかった。一方で歴史や文学、法律・政治・経済のような人文・社会科学研究領域に『科学的手法』を取り入れるには時間がかかった。こうしたアプローチをとった初期の研究者は外国人であり、いわゆるジャパノロジストを呼ばれたアーネスト・サトウ、ジョージ・アストン、バジル・ホール・チェンバレンなどのイギリス人が名を連ねる。アメリカ人にもその先駆的役割を果たした人物が登場する。その一人がこのウィリアム・グリフィスである。これ以降、久米邦武、津田左右吉(「神代史の新研究」1913年、「古事記と日本書紀の新研究」1919年)など日本人研究者の中に、こうした科学的手法による歴史研究、史料批判が定着し、そうした研究姿勢が主流になってゆく。しかしそれは大正デモクラシーの時代を待つ必要があったし、軍国主義傾向が強まるにしたがって、そうした研究姿勢が筆禍事件の餌食になっていったことを忘れるわけにはいかないだろう。

元々グリフィスの専門は歴史学ではなく、プロテスタントの宣教師であり、かつ化学や物理を教えるために福井藩に招聘された科学者であった。しかし、彼の日本史概説は彼が元々持っていた科学的な研究手法や合理的思考法が日本史研究においても存分に発揮されたものであると見ることができよう。特に、先述のように日本書紀や古事記の神話と歴史の区分の曖昧さ(むしろ神話を歴史的事実であるとする筋立て)は、記紀編纂の時代背景や当時の政治的な環境、為政者の政治的な意思に着目して読む必要がある。結果、「神武は実在しない創作された初代天皇」との見解を明確に示すなど、今では定説となっている記紀解釈を提示した。日本古代史研究における史料批判、科学的史学研究の嚆矢となった。グリフィスは、古い神話を歴史だと信じている人ばかりではなく、今や日本人でも、欧米に留学したり、近代的知識と合理的思考に触れた人なら、同じ答えに辿り着くとしている。日本古代史の研究はこれに続きチェンバレンの1882年(明治15年)の古事記英訳、1887年(明治20年)のアストンの日本書紀の研究に繋がってゆく。しかし、チェンバレンは歴史と神話を区分せず、いわば神話学的な視点から古事記を世界の神話と比較して、そこに日本に固有のストーリーはないと論じるなど、グリフィスの歴史学研究アプローチとは異なっている。1903〜1925年に刊行されたJames Murcoch:ゼームス・マードックの「日本史」全3巻(2022年8月1日 The History of Japan, by James Murdoch )は、ジャパノロジストによる最初の体系的な日本通史と言われているが、ここにはグリフィスと同様の史料批判手法が用いられているほか、日本書紀と古事記を中国王朝や朝鮮半島の歴史書との比較研究を展開している。しかし、グリフィスのこうした明治初期の研究成果は日本の歴史学会からはあまり評価されていないようだ。アジア協会や日本史学会創設に尽力し、多額の寄付をしたにもかかわらず、設立メンバーには選ばれず、いわば学外者として関与するにとどまっている。学会の閉鎖性というべきか。今日でもグリフィスが近代的な日本史研究の先駆者の一人であるという認識は薄いようだ。

彼は幕末・明治期の御雇外国人に関する研究にも力を入れ、招聘者のリスト(今でいうデータベース)を作成した。本人はもとより、その親族や友人、子孫、子弟などからも詳細な聞き取りを行い、日記や手紙、政府内外の記録など文献資料にも当たる網羅的な研究である。これは母校のラトガース大学図書館のグリフィス・コレクションに収蔵されている。その中から前回紹介したフルベッキ伝やタウンゼント・ハリス伝などが生まれている。こうした研究活動や著作発表は、実証的な史料収集と事実(史実)を特定する活動を軸とした歴史学研究の成果というべきものである。現在でも幕末維新史研究の重要な史料となっている。こうした功績から日本政府から叙勲を受けている。グリフィスを明治初期における『お雇い外国人教師』の一人、ジャパノロジストとひとくくりにするのではなく、グリフィスの歴史研究者としての評価をより正しく認識する必要があると思う。そういう意味でもこの『The Mikado's Empire:皇国』は日本史研究の歴史の画期となる著作であると考える。


2022年1月22日「古書をめぐる旅(19)』フルベッキ伝

2024年1月28日『古書をめぐる旅(44)』タウンゼント・ハリス伝









追記:なぜ『日蓮の法難』の図が巻頭に登場するのか?

グリフィスは、本書の巻頭に『日蓮の法難』の図を掲げている。これは、鎌倉龍ノ口で役人が日蓮を処刑しようとしたが、突然現れた輝く光が刀を砕いて斬首できなかったというエピソードを描いたものだ。日蓮の受難と超自然パワーを表すもので、いわばキリストの受難と復活を彷彿とさせるものがあると感じたのであろうか。彼は日本の仏教史における日蓮の存在を高く評価している。日本の仏教は、6世紀の伝来以来長く庶民の信仰からは遠い存在であった。難解な教義や哲学的思索などを説いた仏典の理解には、サンスクリット語や漢文が解読できることが必須で、インド・中国から渡来した高僧や、中国で学んで帰国したエリート留学僧によって学ばれ、伝達され、国家統治の思想(鎮護国家思想)として天皇をはじめとする政治的支配層に共有された。グリフィスは、のちに空海の出現を一つの日本仏教の画期とし、同時期の最澄の、いわば『比叡山スクール』に育てられた弟子たちの出現(のちの鎌倉仏教の開祖たち)に着目している。グリフィスは「仏教はキリストのいないカトリックである」と書いている。すなわち救世主がいない教義(ドグマ)というわけだ。面白い表現だ。かつては聖書はギリシャ語やラテン語で書かれていて、カトリック修道院で学んだ僧だけが、教義を解し教えを布教した。そういう点では仏教もカトリックも庶民は経典や聖書を読むことができなかった。仏教ではその教えを庶民に説く布教者も限られていたので、仏教が庶民の来世の救済や現世利益への信仰というコンテクストで受容されることもなかった。13世紀の鎌倉時代に入って現れた革命的な宗教者で、比叡山スクール出身の日蓮は、既存宗派を論破し、法華経こそが仏教の最高の経典であり、庶民は難しい経典を読まなくても「南無妙法蓮華経」を唱えれば成仏できる(救済を得ることができる)と説いた。既存の観念を打ち破る画期的な論法は、民衆の心を捉え、そして時の権力者に恐れられるのが常である。日蓮は権力や他宗派による弾圧にも屈せず宗旨を貫いた。グリフィスは、日蓮を「仏教中興の祖」であるとしている。16世紀のキリスト教伝来の時にもイエズス会宣教師にとって最大の難敵は日蓮宗のBonzu:坊主・僧侶であったし、今でもキリスト教布教にあたって越えるべきハードルのひとつだと考えている。一方で、親鸞を日本仏教のプロテスタントだと見做していることも興味深い。浄土宗の開祖である法然も「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽往生できると説いている。いずれも比叡山に学んだ新仏教宗派の開祖であり、来世の「救済」を説いたことで仏教の新たな地平を開いた。キリスト教プロテスタントの宣教師らしい評価なのであろうか。宗教改革のリーダーであるルターやカルバンの姿を投影したのかもしれない。

その一方で、グリフィスの日本の宗教、仏教や神道に関する眼差しは、この時期に日本にやってきた外国人のそれとはことなっていることに気づく。すなわち、キリスト教以外の宗教をエキゾチックではあるが野蛮な信仰、習俗と見る。『文明開花』とは『キリスト教化』することであって日本の『文明開花』は単なる西欧の模倣であると見る。すなわち外的なものが変わっても内的なものが変わらねば単なる模倣である。いわば『キリスト教vs異教徒』という二項対立の視点である。いわゆるジャパノロジストの中にも多かれ少なかれこのような深層理解が潜んでいることが多い。しかし、グリフィスはプロテスタントの宣教師であるにもかかわらず、仏教や神道を相対化して理解することができるジャパノロジストの一人である。先ほどの日蓮、親鸞論などもその象徴であろう。こうした観点で日本に接した人物のもう一人は、ラフカディオ・ハーンである。彼の眼差しとグリフィスの眼差しには共通するものがあるように思う。どちらも日本人の宗教観や日常の宗教行事に親近感と慈愛の目を持って接している。いやむしろ宗教や信仰の問題というよりは日常生活に根ざした習俗の中に自然に対する畏敬や祖霊に対する敬いの心を見出した。ただ、二人の違いは、グリフィスがキリスト教宣教師であるのに対し、ハーンはキリスト教に懐疑的、ケルト的である。グリフィスとハーン。この二人の日本観。またチェンバレンやサトウのそれについてはまた別の機会に詳しく比較考察してみたい。


『日蓮の法難の図』が巻頭に掲載されている


2024年6月10日月曜日

古書をめぐる旅(51)『Bushido The Soul of Japan:武士道』Inazo Nitobe:新渡戸稲造著

 

1900年(明治33年)東京・裳華房(しょうかぼう)より出版
1899年にフィラデルフィアで出版されたものの日本再版



新渡戸稲造は、日本精神を世界に紹介するために、1899年「Bushido The Soul of Japan:武士道」を米国・フィラデルフィアで出版した。その翌年、1900年には日本・東京で英語版で出版した。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」という書き出しで始まるこの本を通して、当時、条約改正という幕末以来の課題を解決する必要があったし、日清戦争に勝利し、日本がアジアの脅威になる恐れありとの西欧諸国の「黄禍論」という時代背景に、未開の野蛮国と見られていた日本にも、武士道という優れた精神があることを世界の人々に紹介したもの。その本はやがて、ドイツ語、フランス語、ロシア語など、多くの言語に訳され、新渡戸の名は一躍、世界の知識人に知れ渡った。その時代背景をもとに西欧列強諸国を強く意識して、日本が野蛮な国でも、文化的に遅れた未開国でもないと主張する著作が次々と英語で表された。岡倉覚三(天心)の「日本の目覚め」(3月のブログで紹介した。2024年3月29日「古書をめぐる旅(48)」「日本の目覚め」岡倉覚三)、「茶の本」、内村鑑三の「典型的日本人」が代表的であり、「日本人の精神とは?」「日本文化とは?」時代を代表する知識人各氏の共通したテーマであった。

特に札幌農学校の同級生でクラーク博士の影響でキリスト教徒となった新渡戸や内村の著作は、多くの欧米の知識人に受け入れられ、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトも愛読した。異教徒よりも同じキリスト教徒が英語で説く「武士道」は、彼らにとってまず第一段のハードルがクリアーという効果があったのかもしれない。著者にそのような意図があったかどうかはわからないが、この点で岡倉覚三の英文著作で、明治維新を説いた「日本の目覚め」(日本精神の基層にあるのはキリスト教でも、仏教でも、儒教でもない。まして武士道でもない)とは一線を画すものである。西洋諸国の知識人の間では、「文明開花」とは「キリスト教の教化により未開文明から脱することである」という特有の「共通理解」があり、従って異教徒である日本の「文明開花」は単なる西欧技術や制度の模倣に過ぎない。初期の頃の御雇外国人の多くもこうした視点で日本の「文明開花」、すなわち近代化を見ていたきらいがあった。やがて、キリスト教によらずとも文明開化は起きうると考える西欧知識人も出てくるようになる。我々日本人、アジア人(そして異教徒)から見れば、そんなことは自明のことで、「てやんでえ!」と西欧人の歴史認識の欠如と傲慢を指摘するのだが、西欧人の中には近代主義的な知識人ですらキリスト教徒であるか否かは「大きな違い」であると認識されていた。東西文明のファーストコンタクトの時代16〜17世紀には、アジア(異教徒)の文明と経済規模の方がヨーロッパ(キリスト教徒)のそれを遥かに凌駕していたことをお忘れか。大航海時代とは、そのアジアの文明と富と知識に群がってきた辺境ヨーロッパ人のムーヴメントであったことをお忘れか、と言いたいが、18〜19世紀のセカンドコンタクト時代には、アジアとヨーロッパの立場が逆転し、アジアは遅れた文明などとみなされるようになる。彼らはファーストコンタクトの時代をすっかり忘れてしまった。その中でいち早くアジアにおいて西欧流近代化に取り組んだ日本の有様をまざまざと観察し、そのキリスト教によらずとも文明は開けるという事実を突きつけられて「文明開花」の固定概念を変えた西欧知識人が現れるようになるのである。少しファーストコンタクトの時代を思い出したか。日本人の外来文明の受容と変容、習合という歴史。従って多神教的な世界観が形成され、そこに息づく精神と力の開花が今起きている。一神教的な世界観からの解放である。キリスト教/近代合理主義視点から日本を分析するチェンバレンを批判したハーン。グリフィスの日本観。古代、中世、近世に遡って日本とヨーロッパの交流史を研究したマードック、サンソム、ボクサーの日本史観にもそれが表れている。

話を戻すと、日本でも「武士道」が邦訳されて発売されるや、たちまちにしてベスト・セラーになった。明治天皇の天覧の栄誉にも輝く。それは「明治維新以後、西洋文明に圧倒されていた日本人に、自分たちにも世界に誇れる高い精神性、道徳性があることを自覚させ、誇りを与えるものだったからだ」と言うのが大方の受け止め方であっただろう。しかし、西洋文明に圧倒されていたという日本人が自覚した「武士道」が日本の精神性と道徳性を語る全てであったのだろうか。西洋人に「なるほど文明開花の鍵は武士道であったか!」「西洋で廃れてしまった騎士道精神が日本では生きているのか!」と民族的尊厳と愛国心をくすぐられると、すぐに「日本は武士道の国である」と元気になる。もう少し冷静になってみるべきではないのか。

日本の「文明開花」すなわち近代化が西欧の模倣であり、またその野蛮な性質が西欧の脅威になりつつあるという主張に対し、日本人の根底にある価値観、倫理観を説き起こし、長い歴史に培われた独自の精神性と道徳性があること。そしてそれが明治維新の原動力であったと説いたのは画期的であるし、こうした自我の目覚めは「一等国への道」をひたすら歩む時代の要請でもあったろう。しかし、「武士道」が日本人の全てを物語るキーワードであるかは疑問なしとはしない。岡倉覚三(天心)は「茶の湯」の精神を日本人が誇るべき文化だと紹介している。花鳥風月を愛でる精神を説く。チェンバレンも新渡戸の「武士道」は日本を正しく表していないと批判的であった。明治維新で600年以上続いた武家政権の時代と武士中心の社会が崩壊したはずなのに、皮肉にも明治以降になって「武士道」が日本人のアイデンティティーだとする理解が広まる。それを海外にも喧伝し、その反射効果として国内的にもその精神を自覚させる。新渡戸の著作はこれに拍車をかけた。これはどうしたことなのか。武家時代へのノスタルジアなのか。武士階級に虐げられてきた庶民にまで「武士道」「尚武」を教え、「富国強兵」「国民皆兵」「忠君愛国」の根底をなす日本民族の基本精神であるかのように教えられてきた。武士道精神が、パッと咲いてサッと散る桜の花に象徴される自己犠牲、滅私奉公、死ぬことを厭わない潔いものだけでないことは理解するが、日本の精神文化にはもっと平和でおおらかな要素もある。万葉集を紐解けば、武士道とは異なる精神文化の地平がひらけているではないか。また武士道の根底をなす仏教的な悟り・死生観、儒教的な倫理・秩序観によらない異なった倫理観もある。しかし、今でも日本人は勇ましいサムライの物語が大好きである。現代でもNHK大河ドラマの主人公は戦国時代の英雄か幕末維新の英雄とほぼ決まっている。どれもサムライが主人公である。今年のように平安時代の紫式部が主人公になるということは初めてのことだ。戦国もの、幕末維新ものもネタ切れなのか。そろそろ司馬遼太郎史観の賞味期限切れかもしれない。平安時代でなくともそれを遡る古代における日本人の精神とはどのようなものであったのか。サムライでない人々の精神性や道徳観がどのようなものであったのか。維新から戦前に教えられた皇国史観に基づく「八紘一宇」「大和魂」などとは異なる、あるいは、その源流ともいうべき江戸時代の国学ブーム、尊王思想のような流れとも異なる、はるか有史以前に遡る日本人の自然の一部として暮らしてきた記憶をもっと呼び覚ましてみるべきではないのか。その上での外来文明の受容と変容の歴史。日本人の多神教的世界観や精神構造を振り返ってみるのはいかがだろうか。これは日本人と他民族を比較し、民族の優越性とやらを論ずるための考察ではない。日本人はどこから来てどこへ行くのか?気がつくと混迷と停頓の時代に立っている日本の行く末を考える、その答えの一部も見えてくるのではないかと思うが。


新渡戸稲造 1862年(文久2年)〜1933年(昭和8年)略歴

1862年(文久2年)盛岡藩士の三男として生まれる

1875年(明治8年)東京英学校(大学予備門)

1877年(明治10年)開拓使農学校(札幌農学校)

1881年(明治14年)卒業 開拓使御用掛

1884年(明治17年)米国ジョンズ・ホプキンス大学留学

1887年(明治20年)札幌農学校助教授 ボン大学、ベルリン大学留学

1891年(明治24年)札幌農学校教授

1900年(明治33年)「Bushido」出版 1899年米国フィラデルフィアで出版

1901年(明治34年)台湾総督府殖産局長

1903年(明治36年)京都帝国大学法科教授 兼東京帝国大学教授(殖民政策)

1906年(明治39年)第一高等学校校長

1918年(大正7年)東京女子大学学長

1920年(大正9年)国際連盟事務局次長

1933年(昭和8年)カナダ・ヴィクトリアにて客死





本書に掲載されている肖像

皇紀2500年、西暦1900年