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2017年11月27日月曜日

畠山記念館探訪 〜茶室という小宇宙〜



 地下鉄高輪台から歩いてすぐの畠山記念館。ここは荏原製作所の創業者、畠山一清の邸宅であった場所を公益財団に寄贈し、茶の湯や能楽関連の美術館として一般に公開している。この高輪台は薩摩藩島津家の屋敷があったところで、別名島津山とも呼ばれている。現在は閑静な住宅街として知られる一帯だ。畠山記念館と隣の旧般若苑の敷地は、島津重豪(斉彬の父)の江戸別邸であった。明治以降、同じ薩摩藩出身の外務卿寺島宗則の邸宅になり、それを畠山一清が購入し邸宅とした。ちなみについ最近まで隣にあったその般若苑という料亭だが、海外からの賓客をもてな迎賓館として歴史に名を残す場所であった。しかしその後廃業して人出に渡り取り壊された。跡地には2013年にテラス白金という4階建ての白亜のビルが建設された。周辺住民の間では孫正義の迎賓館だともっぱらの噂だが公表はされていない。閑静な住宅街に突如出現した全く場違いでセンスを疑うような建造物。厳重に門扉は閉じられ、始終警備員が巡回警備するという不気味な存在だ。同じ実業家でも、その富の使い方には大きな違いがあって、奇しくもそのコントラストが際立つ場所になってしまった感がある。

 話を畠山記念館に戻そう。ここは茶道関連のコレクションを中心とした美術館で、こじんまりした展示点数もそう多くはない美術館である。一清が能楽にも通じていたため能関連のコレクションもあるそうだが、この日は目にすることがなかった。一方で、国宝7点を有するほか、茶室は三つある。畠山一清自身、茶人として即翁と称し、原三渓や、三井物産の益田鈍翁、横井夜雨などと交遊した。今回はこの三人(即翁、鈍翁、夜雨)の交流を偲ぶ「近代数寄者の交友録」展を鑑賞した。当時の財界人や政界人は、茶道を通じて交流し、文化人としても名を成した。こうした人々を「数寄者」と呼んだ。去年訪問する機会を得た京都南禅寺界隈別荘群の一つ、「野村碧雲荘」も野村徳七翁の数寄屋別邸で、特色ある茶室の数々と能楽堂で有名である。

 それにしても展示を丁寧に拝見して感じることは、茶道とは、一服の茶を媒介として、大の大人が素朴な小さな茶室に集い、大きな自然を感じ、そこに宇宙を見る文化だ。茶器も、備前、志野、楽茶碗などの枯淡な、あるいは偶然の造形の酔狂さに溢れるもの。それは縄文時代から続く手撚りの土器の延長であり、一切の装飾や人為的な造作を廃したもの(人為的に作り出しているのだけれど)の伝統が生きているように感じる。茶杓にいたっては要するに竹篦を竹林からそのまま削り出したものにすぎないではないか。茶室を彩る唯一と言って良いほどの装飾品も切り出した竹筒に投げ入れた一輪の野花。

 古代から中世にかけて、中国から伝わった唐物や、近世以降、西欧諸国から伝来した南蛮渡来物などへの強い憧れがあったのも事実だが、青磁、白磁などの磁器や金属機器、織物、絵画と異なり、自然の一部として生み出されたお道具が愛でられる空気が流れている。もちろん唐物や南蛮渡来のその影響を受けてはいるが、それを咀嚼し自分の物にして、さらにそこに日本人独特の自然観、それにもとずく精神性のスパイスを利かす。茶道においては利休がそれを目に見える形に完成させ、自然を重んずる侘び、寂びが基調になっていったような気がする。

 国宝や文化財として指定されている茶碗や茶杓、一節の竹を割っただけの花瓶、一筆、墨で殴り描かれたような掛け軸にしても、ルーブルやエルミタージュ、メトロポリタンに並んでいる絢爛豪華なお宝を見慣れた西欧文明人の目から見ると、粗末とさえ見える素朴さで、「金目のもの」に見えない、超絶技巧のかけらも感じないシロモノがなぜ国宝や文化財として美術館に丁重に保管され展示されているのか不思議に感じることだろう。最近でこそ日本文化の真髄を理解し、愛でる人が世界中に増えたが、日本人である私ですら、こうした作品を目の前にすると、なぜこれが貴重な美術作品なのかふと不思議に思うことがある。茶室のしつらえにしてもそうだ。西欧的な感覚でいうと、木と藁と紙でできた極端に狭くて粗末な小屋でしかない。風雪に耐えて永遠に残るのは建物ではなく、その精神だという、この宇宙観、哲学、精神世界、美的センスを感じる日本人とは、ある意味不思議な人たちである。

 ルネッサンスを経て人間の英知と力と文明が自然に打ち勝ってゆく歴史を歩んだ西欧文明。「我思うゆえに我あり」。いろいろと思索を巡らす自己こそが疑いのない存在であり宇宙の中心であるということに気づいたという西欧個人主義哲学。これに対し、自然と共に生きてゆく、自己も自然の一部である、広大無辺な宇宙を構成する様々な要素の一つとしての自己という宇宙観を持つ日本人。唯一絶対神にすがるよりも一木一草に神が宿る八百万の神々の世界に生きる日本人。こうした違いが美への感性に染み込んでいるのだろうか。

 この日は見学者に外国人は見かけなかったが、彼らは一体ここに何を感じるだろう聞いてみたい気がする。茶道を愛好すると思われる様々な世代の見学者が集っていた。茶室では茶会も催され、着物姿の女性も多かった。中には一本の茶杓(本阿弥光悦の作という)の前にじっと佇み、一人はるかな宇宙を夢想する若い女性もいる。もうかれこれ何十分かこの前を動かない。決して多くはない展示品の数々だが、来館者はゆったりとして濃密な時間を楽しんでいるように見受けた。なんという人たちなんだろう日本人は...

 岡倉天心の「茶の本」を思い出した。読み返してみよう。




畠山記念館美術館
靴を脱いで入る



畠山即翁像
平櫛田中作















庭園内に残る松の巨木

茶室の板戸からの光が障子に
木洩れ陽



茶室への枝折り戸






すぐ隣には「ホワイトハウス」
一瞬で夢想世界から現実の物欲煩悩世界に引き戻される



2017年11月9日木曜日

Nikon Fマウントレンズ勢ぞろい!〜その宇宙に吸い込まれてみる〜

 ニコン創業100周年記念展示企画のトリを飾る企画展「Fマウント・Nikkorの世界」を見てきた。品川のニコンミュージアムで開催中。Nikon F以来のニコンファンなら垂涎のコレクション。437本のFマウントレンズが勢ぞろい!圧巻!壮観!至福感!見よこのF Nikkorの悠久の歴史を!最新鋭のデジタル一眼レフD850にも全てのレンズが装着できるという永遠不滅のFマウントである。ユーザのレンズ資産を無駄にしないという考え方はライカMマウントと同様である。

 ユニークなのは、広大な展示ケースの上部ガラスカバーを外し、全てのレンズが直接見えるように展示されている。触ろうと思えば触れる陳列だが、もちろん「お手を触れないよう」との注意書き。しかし、太っ腹だ。上面ガラスがないことで上からの照明がカバーに反射して、美しいレンズが見え難くならないように配慮されている。しかも、その照明にちょっとした工夫が。アクリルカバーで上手にデフューズされていてギラギラしない。そして、よく見ると星型とハート形の照明のコーナーもある。レンズの枚数と多層コーティングにその🌟と❤️の照明が映えてまるで色とりどりの宝石のようだ。昔のアンバーがかったコーティングのものから、最新のマルチコーティングまで、レンズよって彩りが異なることも新しい発見だ。最新のレンズはさらにレンガラスの透過性が高く、外からは内部のレンズが見えにくい。まるでブラックホールに吸い込まれるような感覚だ。しかしこうして光をあてると各層のレンズに施されているコーティングにより、多色の模様が多層的に浮き上がって見える。まるで宇宙を3D映像で見ているようだ。なんだか不思議な浮遊感を味わうことができる。なんと心憎い演出。レンズは撮影するための道具であるのだが、ここまで美しいとそれが鑑賞の対象になりうる。ニコンレンズの宇宙に吸い込まれる一日であった。

 ちなみに撮影は、ニコンへのレスペクトとエールを込めてLeica M10+Apo Summicron 75/2で。あえてNikon D850+最新のAF Nikkorではなく永遠のライバル、ライカを持ち出すところに歴史的因縁のストーリーを思い起こさせる妙味がある。レンジファインダーで0.7mまでしか寄れないというライカレンズの近接撮影の限界(?)を超えて、一眼レフへのパラダイムシフトを果たしたF Nikkorという歴史的好敵手の極みを映し出すには、やはりこれしかないと考えた。ライカが美しいのかニコンが美しいのか。なんという贅沢な「至極の美」対決であることか。遊びの極致であるが。

















































(一部写真は寄り切れないため、クロップしています。)


2017年11月4日土曜日

仏教伝来とキリスト教伝来 〜グローバル化の受容と拒絶〜

(未定稿)

「仏教伝来」:538年/552年、(百済聖明王より仏像、仏典が倭欽明大王に。仏教公伝)
「キリスト教伝来」:1549年(イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル鹿児島上陸。布教開始)

1000年の時を隔てて日本に伝来した二つの世界宗教。その時代の世界文明の波をどのように受け止めたのか。異文化の受け入れには紆余曲折があろうことは容易に想像できるものの、結果的には異なる道を歩むこととなる。仏教は受け入れられ、古来からの原始神道(自然崇拝/祖霊崇拝)との融合が進み、以降日本文化の基盤をなすこととなる。一方のキリスト教は受け入れられず、伝来半世紀にして禁教令、バテレン追放、キリシタン弾圧、そして200年の鎖国時代を迎えることとなる。西欧流の近代文明が日本文化へ大きな影響を与えるのは開国後に持ち越されることとなる。いわば日本は歴史上二つの大きなグローバル化の波を受けたが、その対応は大きく分かれた。

何がこのような異なる結果を生んだのか。幾つかの切り口で考察開始!

1)国内時代背景

仏教:6世紀半ばの倭国、有力豪族による争い。ヤマト王権による列島平定に向けての戦い、国家創世の時代。倭から日本(ひのもと)誕生の約150年前。

キリスト教:16世紀後半の日本、有力戦国大名による争い、中世から近世への転換期、戦国時代の終焉から天下統一の時代。

2)国際情勢

仏教:古代東アジア的世界秩序形成期。秦、漢統一王朝が崩壊し、三国時代、南北朝時代へ。中国に大乗仏教が伝わり北魏では雲崗、龍門に石窟寺院が創建され、南朝梁でも仏教が支持された。朝鮮半島にも中国から仏教が伝来。朝鮮三国で仏教ブーム。百済と新羅と高句麗の対立。百済による倭国との同盟の一環で、最先端の思想、学問である仏教が伝えられた。

キリスト教:中世から抜け出て近世ヨーロッパが世界進出する大航海時代。「新大陸発見」、アメリカ、アフリカ、アジアの植民地獲得競争、帝国主義の始まり。カトリック国(スペイン、ポルトガル)と新興のプロテスタント国(イギリス、オランダ)の対立。植民地競争にカトリック/プロテスタント対立が投影される時代へ。

3)宗教の持つ性格の違い

仏教:在来宗教/思想/習俗との親和性。古来からの古神道(自然崇拝、のちに豪族氏族ごとの祖霊崇拝)の持つ多神教的世界観にはまる。神仏習合、本地垂迹という形、理解で融合してゆく寛容性があった(大乗仏教だからか)。当初は、蛮神として排斥する氏族と、これを積極的に受け入れる氏族が争ったが、後者が勝利した。信仰よりも、大王が天皇としての支配権を確立してゆく上での国家指導理念(鎮護国家の法)、さらには緊迫する国際情勢の中、世界文明を受け入れた「近代国家」であるとの対外アピールとしての宗教、思想、哲学として権力中枢に受容(国家管理)されていった(神道における最高神、皇祖神アマテラスの創設と合わせて進められたところに特色)。個人の救済、現世利益、来世願望の信仰としての仏教の受容は、奈良時代後期の宮廷、平安時代の貴族、平安末期の武士、そして民衆へと言うプロセスを経ながら移行してゆく。

キリスト教:一神教的排他性。進出先の既存宗教との融合というよりは対立、征服という歴史。野蛮な異教徒を教化して文明化するという目線。中世以前からヨーロッパでは強大なイスラム教勢力との戦いの歴史(ユーラシア大陸的俯瞰で見ると、イスラム教が世界的な広がりと文明の中心としてのポジションを占めていて、キリスト教はローマ帝国から西の大陸西端に圧迫されていた、いわばローカル宗教であった)。やがて聖地エルサレムを巡ってイスラム教徒の戦いの歴史に(十字軍遠征)。イスラム世界の外側(東側)にキリスト教徒がいる(プレスタージョンの伝説)という伝承から、東方世界への進出意欲。しかし、陸路はイスラム世界だったので、海洋ルートでの東方世界への進出を企図。さらにはカトリックとプロテスタントの対立。大航海時代のポルトガル、スペインの海外進出。「新大陸発見」南北アメリカ大陸への進出、マヤ、アステカ、インカなどの地域文明の征服、植民地化、キリスト教化。さらに希望峰経由でのアジア進出。やがてはイギリス・オランダの覇権に、という時代背景。日本における布教は、最初は南蛮文化の受容、渡来品獲得という権力者の意向に沿って始まった。しかし、信仰と言う意味では戦国時代という背景に民衆の苦しみ救済、来世の約束から入っていった。カトリックの戦闘的布教集団イエズス会の役割が大。民衆を取り込み、地元の君主を君主と思わぬ反権力志向。植民地化、帝国主義的海外進出の尖兵。一向宗的。

4)国内権力闘争の構造(内憂外患への対応)

仏教:ヤマト王権の全国統一事業の途中。有力豪族の勢力争い。蘇我氏、物部氏・大伴氏、中臣氏の対立。渡来系勢力の文化、先端技術を取り込んで権力基盤とした蘇我氏(崇仏派)。その中の仏教という「世界文明」の受容して権力基盤の確立を図った。一方、古来からの価値観、思想を基盤とした物部氏/中臣氏を打倒。しかし、やがて「乙巳の変」によりその蘇我氏が排除され藤原氏(中臣氏)が権力中枢に。やがて倭国は唐新羅連合軍に白村江の戦いで敗れ、大陸からの侵攻という対外的な危機を迎える。侵攻はなかったものの国家意識が芽生え「近代国家」体制の整備を急ぐ。そこで東アジアの「先進国」が導入している「世界文明」である仏教を鎮護国家思想として位置づける。律令制などの政治システム整備、大王から天皇へと支配強化、「日本」という国号と合わせ、いわば「大宝維新」「国家近代化」のイデオロギーとして取り入れられて行く。対外的に「文明開化した国」であることをアピール。

キリスト教:戦国時代を終わらせる天下統一事業の最終章。織田氏はキリスト教を仏教勢力(比叡山、一向宗など)を屈服させるための新たな思想として、新しい国家指導理念に取り入れようとした形跡。それ以上に鉄砲などの「近代兵器」入手、南蛮貿易利権志向。しかし道半ばで頓挫。続く豊臣、徳川政権も貿易利権に魅力。九州を中心とした大友氏のような大名もこうした観点から熱心に布教を支援。しかし豊臣vs徳川の対立構図のなかで、大坂城/秀頼+キリシタンが徳川政権から危険視され排除。背景にオランダが。
また対外的にキリスト教を国家宗教として導入し、統治支配の権威付けを行ったり、対外危機を乗り切るため「近代国家」を標榜する動機も意図もなかった。そういう国際情勢でもなかった。むしろ、南蛮/切支丹勢力の伸張こそが対外危機とみなした。仏教受容の背景との違い。

権力者の思惑、権力の確立に利用できるか否かという視点は共通。仏教は利用可。キリスト教は利用不可、あるいは利用の必要性ないと。民衆の信仰による救済という視点はいずれものちになってからのもの。

5)「近代化」への貢献:

仏教:古代における中国、朝鮮半島諸国と遜色ない「近代国家」の創造。律令制や唐風都城建設などと一体化されて受容されていった。異国風の寺院建築や美しい仏像などに魅了され憧れられ、それらを生み出す技術を積極的に受け入れてゆく。

キリスト教:戦国乱世を終わらせ天下統一の仕上げ。鉄砲伝来により戦いの形態が激変。外来文化、技術をいち早く取り入れた方が優位に。さらに南蛮交易による利権獲得のために切支丹に改宗する大名。最後は、禁教令、鎖国政策/出島管理貿易による貿易と宗教の分離。

6)文化への貢献

仏教:飛鳥、白鳳、天平文化に代表される日本の文化基盤を形成。

キリスト教:南蛮文化。安土桃山文化に影響。しかし日本文化の基層とはなり得なかった。

7)民衆の姿

仏教:初期には国家的宗教/思想/哲学。民衆の信仰とは無縁。わかりにくい教義。奈良時代後期から平安時代初期に入ると空海、最澄により教義解説、日本における新しい宗派誕生。貴族層、さらには武家層に受け入れられてゆく。民衆に受け入れられる現世利益、来世信仰は平安時代末期以降。

キリスト教:戦国時代にあって民衆の救いから一挙に30万人の信者を獲得。苦しい現世よりも来世の約束。反権力、殉教礼賛。皮肉にも支配層からは危険視されることに。禁教、弾圧、隠れの時代へ。


日本史における仏教とキリスト教を巡る動き。

仏教:

対峙した在来宗教はアニミズム/自然崇拝/祖霊崇拝(のちに神道へ)
インド/中国/朝鮮半島に置ける世界宗教/世界文化の受容による倭国の「近代化」
寺院建築、仏像、仏典などの「近代文明」の可視化。
崇仏派と廃仏派の対立
蘇我氏という渡来人をバックに有する権力集団による受容。
大王/天皇家による受容。やがて外来の統治システムである律令制、冠位十二階、班田収授法などとともに、仏教を鎮護国家の法として位置づける。国家統治理念にしてゆく。東アジアにおける中華的「近代国家としての成り立ち」に必要な思想としての仏教。
古来からの自然崇拝/祖霊崇拝の祭祀である原始神道との融合。神仏習合。本地垂迹。
外来文化、技術、科学の受け入れと権力との結びつき。渡来人集団の役割。
遣唐使による学問僧のの留学。空海、最澄による仏教教義導入、世界観の日本化。
鑑真招請による唐招提寺建立。授戒による僧の育成、普及
民衆に受け入れられる現世利益、来世信仰の宗教となるのは平安時代以降のこと。
空海による密教解釈、最澄による民衆宗派の始祖、親鸞や道元や日蓮や法然の育成。
明治維新後の一時期、国家神道隆盛の中で廃仏毀釈の蛮行により、多くの仏教寺院、仏像が破壊された。この時期に多くの文化財が海外に流出した。

キリスト教:

対峙した在来宗教は仏教各派、神道(神仏習合)
大航海時代、近世ヨーロッパ文明/文化の受容。
キリスト教の内部抗争。ローマカトリックとプロテスタントの対立。ポルトガル/スペインとオランダ/イギリスの対立。ローマカトリック教会の信徒獲得のためのアジア進出。その尖兵であるイエズス会の活躍。
権力者による南蛮文化受容の変遷(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)だんだん警戒。
当初は南蛮貿易による利益を重視。鉄砲、大砲などの近代兵器獲得。
キリシタン大名もほとんどが貿易利権志向。
戦国時代の権力者の対立構造。関ヶ原以降、西国大名/豊臣秀頼(大坂城にキリシタン結集)と関東の徳川家康政権の対立。
初期の仏教のような国家統治の思想/法としてではなく、戦乱に明け暮れる時代に、来世の救いを求める民衆に瞬く間に広がった30万人の信徒。やがてこれが権力者にとって脅威となる。一向宗のような反権力抵抗集団になる恐れ。それに乗じたスペインによる侵略警戒、脅威論など。特にプロテスタント国オランダ、イギリスによる反カトリックプロパガンダが徳川政権の意思決定に影響。鎖国へ。植民地化されて行くアジア諸国という現状認識に基づく。
イエズス会の役割、マカオにいたフランシスコ・ザビエルが日本人に会い、日本での布教に大いに関心を抱く。鹿児島に上陸し、豊後府内、博多、山口、京都と回る。信長の布教許可を得る。セミナリオ/コレジオなどの神学校を各地に創設。日本での布教に大きな役割を果たした。先行してやってきたイエズス会と異なり、その後やってきたドミニコ会、フランシスコ会の布教方針は教条主義的。原理主義的。在来宗教である仏教、神道との対立。寺社、仏像の破壊、仏教徒の排斥。これが秀吉の禁教令の発端に。(例:大友宗麟はキリスト教による神の王国を豊後に作ろうとした。領民にキリスト教を強制。仏教徒を弾圧)
一方、バテレン司祭は南蛮人。しかし日本人司祭がなかなか生まれない。日本人信徒の不満。キリスト教の日本化に一定の限度も。
天正遣欧使節派遣。イエズス会のプロパガンダ。ローマ法王/カトリック教会の苦悩。プロテスタントとの争いでイギリス、ドイツなどで信徒を失う。イエズス会が遠い東方の国に異教徒のキリスト教改宗者発見!東方の三博士の聖書説話再来。4人の少年のその後の運命。中浦ジュリアンの殉教。
仙台伊達藩からメキシコ(ノバエスパニア)派遣された支倉常長。さらにスペインに向かい皇帝に謁見するがなんの成果もなく帰国。
1614年徳川幕府による禁教令に伴いバテレン司祭がマカオに退去(一部は日本に残り潜伏)。日本人信者が取り残される(許しの秘儀、来世救済ができなくなった)、一方で、日本人信者もマカオへ追放。日本人の帰国を許さず。

既存宗教、仏教、神道との関係、一神教的な排他性。野蛮な異教徒を改宗させることが正義。一向宗の結束に例えられるキリシタン。一方で仏教僧侶の腐敗堕落もあり。
弾圧=殉教者を聖人として礼賛。権力者には脅威。
最終的には島原の乱を機にキリシタンは徹底弾圧され、地下に潜伏(隠れ切支丹)し、日本の歴史の表舞台から姿を消す。

禁教令から200年後、近代欧米流の「信教の自由」という新しい文明、思想の受容(不平等条約改正という動機があった)により明治政府により禁教令が廃止されキリスト教は受け入れられた。「長崎にキリシタン発見!」の報。しかし、その後の近代日本におけるキリスト教徒の数はそれほど増えず、人口の1%程度。


共通点と相違点の総括:

ユーラシア大陸の東端の海中にあった日本は、押し寄せる古代の中華文明、近世の西欧文明といったグローバリズムの波に対応してゆかねばならないという地政学的なポジションにある。仏教もキリスト教も、異民族/異教徒による征服による強制改宗ではなく、外から押し寄せる文明の波を受けて、受容するか否かを自ら決定するというプロセスを経ることが特色。常に既存の価値観からパラダイムシフトするリスクへの覚悟と相克を経験する。古来からの価値観、習俗との融合、受容と変容。あるいは対立/相克、あるいは受け入れられないものの排除。二律背反のせめぎ合いのなかでの一神教同志のイスラム教とキリスト教の戦い歴史を経験していない世界であった。二者択一ではなく、融合、咀嚼、変容のプロセス。あるいは「同化」できるか否か。そのなかで一神教的、排他的な宗教観は受け入れられない?多神教的(アニミズム/祖霊崇拝)、縄文以来の自然との共生という原始神道のDNAに適合する宗教観に拠って立つ志向が出来ていたか。そういう点ではアニミズムを基盤とするケルト族の原始キリスト教の受容の関係に類似するかもしれない(ただし多神教としての神仏習合のようなことが起こったのかはわからない)。ただ大航海時代に「新大陸」に繁栄したインカ、アステカ、マヤなどの太陽神信仰/アニミズムはスペインからの侵略者に滅ぼされ、征服され彼らが持ち込んだキリスト教への改宗を迫られた。

時の為政者、権力者の外来宗教、文化の受容をめぐる逡巡。「自らの権力基盤の構築、強化に役立つか否か」その一点。結果、仏教はYes。キリスト教(カトリック)はNoであったということ。特にキリスト教(カトリック)は帝国主義的な海外進出の尖兵として出てきたとの認識で警戒され拒否された(プロテスタント側のプロパガンダに乗ったにせよ)。ただし宗教と切り離して海外との交易利権の独占(幕府の出島における管理貿易、薩摩藩の琉球貿易、松前藩のロシア貿易)を図ろうとした。

どちらも、時代の相違はあれ国家の「近代化」を果たそうとした時代の画期であったという点は共通。

一方、民衆がこうした外来文明や文化に直接接する機会はなかった。特に仏教は支配層に伝わり庶民には無関係の代物だった。民衆の信仰になるのにはさらに500年ほどの時間が必要であった。一方のキリスト教の布教の形態は、貿易利権の魅力にはまった支配者に布教の許可を得て、民衆の現世における苦悩を来世で救うという教義を民衆に直接訴えかけ成功した。それがやがて権力者には懸念材料となった。



参考:
大航海時代の日本美術 桃山展
Japanese Art in the Age of Discoveries


展示作品:

「大洪水屏風」(メキシコ、ソウマヤ美術館蔵)のなぞ
17世紀末〜18世紀初期マカオで描かれたらしい。日本風の屏風(Bionbo)。しかし内容は旧約聖書の「ノアの箱舟」
誰が描いたのか?禁教令で1614年にマカオに追放された長崎の日本人キリシタン、教会絵師の子孫ではないか?


1)仏教伝来地紀行:

仏教伝来の地
奈良県桜井市の初瀬川(大和川)のほとり三輪にあったと言われる海柘榴市。
難波津から船で大和川を遡上しここに上陸したと伝わる。


三輪山の麓の仏教伝来の地記念公園


本邦最初の仏教寺院
法興寺(飛鳥寺)
蘇我氏により建立された

本邦初の仏像
飛鳥大仏
鞍作止利による


2)キリスト教伝来地/殉教地紀行

鹿児島のフランシスコ・ザビエル上陸記念碑


長崎の「二十六聖人殉教碑」





島原の乱の舞台
原城跡

原城跡から展望する雲仙岳
雲仙の地獄では凄惨なキリシタン弾圧が行われた。

天草四郎像

海に向かって祈るパードレ像


城内皆殺し、跡形もなく破壊尽くされた原城跡
わずかに残る石垣

籠城のキリシタンが救援に来てくれると信じたポルトガ船は現れず
オランダ船が幕府の要請で現れて原城を攻撃した。
原城趾から望む千々石湾(橘湾)