しかし、この時期に、こうした決着に反論する本が出された。奈良県の生まれで大阪大学国史学科卒業のこてこて関西人研究者の論ずる、邪馬台国九州説に大いに興味を引かれた。
邪馬台国の滅亡=大和王権の征服戦争=(若井敏明著 2010年4月 吉川弘文堂 )が、その本。
邪馬台国と倭国を語る文献としては、中国の史書である三国志の魏志倭人伝、という限られた資料しかない。従ってその読み解き、解釈をいかように試みようとも限りがあること。また考古学的検証は、マクロ的な歴史認識を補強するにはあまりにもミクロ的に過ぎること。点が線や面に繋がっていないこと。これらを著者は意識する。
歴史学者としての著者は、資料としての古事記、日本書紀という日本側の文献の意味を見直すべしと主張する。戦後、学会においては、一斉に皇国史観批判から記紀の歴史書としての意義に懐疑的、慎重な扱いがされて来た。しかし、ただですら少ない文献を活用して、丹念に読み解いてゆくことが必要、と論じ、そこから邪馬台国が北部九州にあったことを論証。さらに大和王権が、その邪馬台国を盟主とする倭国連合を征服して全国統一を果たして行った、という新しい古代史解釈を描き出している。
その論点:
1)邪馬台国は北部九州の倭国連合の国。魏志倭人伝にいう邪馬台国は九州にあった(福岡県山門地方にあったとする)。魏志倭人伝に記されている倭の国々は九州内にあった、とする。
2)倭国は祭祀を行う女王(邪馬台国の女王卑弥呼や壱与)をシンボルとして集合した連合国家群
3)一方、大和王権は奈良盆地に発生した農耕集落の発展系ではなく、北部九州から2世紀ころ東遷した征服王朝が発展したもの(「神武天皇の東征神話」は後世の作り話とは言い切れないとする)。
4)しかし、邪馬台国自体が勢力を拡大して東へ移動したのではなく、群雄割拠していた北部九州の倭国連合から離脱して出て来た国
5)やがて近畿一円、中国、東海、東国を版図として統合した大和王権(征服王朝)が九州へ勢力を伸ばす
6)これが記紀にいう、仲哀天皇、神功皇后の熊襲、三韓征伐伝承の基になる動き
7)但し、九州中部(熊国)、南部(襲国)の征討が先で、最後に北部九州を制圧、すなわち邪馬台国のある倭国連合を征伐するのには手間取った
8)なぜならば当時の倭国は東征する程の力は、もはやなかったが、朝鮮半島、特に新羅との同盟関係があり強大であった。
9)これらの軌跡の確認は記紀の伝承を丹念に読み解くことによって可能。
10)記紀を天皇支配を正当化する為の、後世(天武天皇時代)の創作、とかたずけてしまうことへ反省。全てが史実であるとは言えないが、何らかの史実に基づく地域の伝承を元に創作、編纂されたものとして読み解く。
浅学非才の歴史愛好家に過ぎない私が、いちいち史実の検証をしたり、批判をしたりすることは出来ないが、荒唐無稽ではない面白い考察であると感じた。邪馬台国論争の決着が近いと思われた時期に、再び一石を投じるものとなった事をファンとして喜びたい。
私は九州出身者ではあるが、最近の考古学的発掘成果や、研究者間の論争、いくつかの歴史解説書により、邪馬台国はやはり奈良盆地の三輪山の麓、巻向辺りにあったのだろうと考え始めていただけに、邪馬台国位置論争はまだ結論は出ていないことをあらためて知らされた。
あるいは「邪馬台国」がどこにあったのか?という学者、素人を巻き込んだ江戸時代からの謎解き論争自体が、日本の古代史を分かりにくくして来たのかもしれない。なぜなら邪馬台国がそのまま大和王権、大和朝廷へと繋がり、さらに今日の日本に発展して来た、との推論が疑いのない史実であるかのように語られて来たからだ。
また、この時代の日本が、朝鮮半島や中国という東アジアの動静に深く関わっていることも見逃してはならない。倭国や日本という限られた地域内だけの出来事で判断するのではなく、あるいは「倭人」「日本人」の話ではなく、強く大陸の周辺部という地政学上の位置に属するエリアの歴史であることを忘れてはならない。