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2010年6月14日月曜日

明日香に藤原鎌足の足跡を訪ねる(1)八釣小原の里

 今年の遅い梅雨を目前に、最後の晴れ間を利用して明日香に逍遙す。
いろいろあったが久しぶりにつかの間の時空散策を楽しめるようになった幸せをかみしめながら。

 明日香は田植えのシーズンだ。田んぼに水が張られ、水路には豊かな水が滔々と流れる。美しく豊かな日本の原風景だ。不動産バブルによる乱開発から、景観を守る為に設けられた土地利用、建築の様々な規制は、住む人達に多くの制約と不便を強いているのだろう。また皮肉にも日本がそのような経済合理性優先の時代を通り過ぎて20年。経済の停滞が田舎を守る。明日香は独特の日本の原風景を残し、それが新たな資産となって地域を潤す循環に入っているように思える。

 今回歩いた八釣、大原は明日香のメインストリートから東に外れた山あいの道に点在する静かな里。藤原鎌足にゆかりの土地だ。その藤原鎌足(生前は中臣鎌足)は中大兄皇子を助け、大化の改新を断行した人物として歴史の教科書に名を残している。しかし、その実像にはかなり不明な点が多い。

 伝承によれば、鎌足は東国に派遣された神官と大伴夫人との間にうまれた子。鎌子だとされている。その生誕地は(これにも諸説あるようだが)奈良県高市郡大原、すなわち現在の小原の地(大原の里にある大原神社)だとされている。

 後に奈良時代、平安時代を通じて天皇家に寄り添い、姻戚関係を持って権勢を振るった藤原一族の始祖、とされるがその人物像は不明。彼の子供である藤原不比人が実質上の藤原家の権力基盤を築いた人物で、それを権威づける為に、大化の改新やその中での鎌足の偉業を後世脚色した、という見解もある。

 生誕地である大原の里はいまは静かな山里で小原という地名になっている。ここには鎌足生誕地として大原神社が苔むして存在。すぐ近くには母親の大伴夫人の墓(円墳)がある。そして、その背後には鎌足を祀る談山神社と大化の改新を談合したと言われる御破裂山がそびえる。また、少し南へ下ると大化の改新の舞台となった飛鳥板蓋宮伝承地が。ここからは、かの蘇我氏の館があった甘樫丘が北西に望める。また北に蘇我氏創建の飛鳥寺(法興寺)が見える。

 645年の「大化の改新」の歴史的意義は最近の研究で大きく改めらた。その名も「乙巳(いっし)の変」として宮廷内クーデターの一つとして認識されている。「大化の改新」が天皇を中心とした律令国家の確立のマイルストーンとされた理解は修正され、その政治的国家的大変革にはさらに時間を要し、683年の壬申の乱の終結、天武親政を待たねばならぬことは以前に述べた通りだ。

 こうして見ると藤原鎌足がなぜ、天皇制確立の立役者であった、と後に評価されるようになったのかがよくわからなくなる。先ほど述べたような事情が後の藤原一族にあったのかもしれない。歴史書は後世に書かれるものであるから、時代背景、時の権力者の意向などを斟酌しながら批判的に読み解いてゆかねばならない。

 いずれにせよ、当時の倭国を取り巻く東アジア情勢は緊迫しており、特に朝鮮半島における百済と新羅の攻防は、倭国内を二分する争いになって行った。百済救済のためとして出兵した倭国は朝鮮半島で唐/新羅連合軍に大敗する。斉明大王、中大兄皇子がここ飛鳥の地で、グローバルな視野で情報を収集分析し、新しい国家のビジョンを構想し、それに基づいた国内外の政策決定を行っていたとは考えにくい。この出兵の失敗が何よりもそれを物語っている。

 まして鎌足が、彼の死の床を見舞った天智大王(中大兄皇子)に「私は戦では何の貢献も出来なかった」と語っていることが物語るように、あるいは後世編纂された記紀には白村江の戦いの敗北には一切ふれられていないことが物語るように、この箱庭的ステージでの権力闘争に明け暮れ、そこで培われた世界観では、「倭国」の存在を中華帝国、唐に認識させるだけのパワーはうまれなかった。「日本」へのマイグレーションにはさらに試練を経る必要があった。

 飛鳥は、多くの渡来系の氏族が割拠し、シルクロードの東の終点として、朝鮮や中国を始め、遠くはペルシャやローマ、ギリシャの文化の影響を残す地である。飛鳥の国際性をうたう文献が多いが、なぜかそのようなグローバルなパースペクティブの中に身を置いている実感がなかったのではないか。この飛鳥ののどかで、平和な心地よい囲まれ感を体感すると。日本人のDNAにこの日本の箱庭的な原風景と世界観が刻まれているような気がする。