そろそろ梅雨入りか。今年は6月に入ってもさわやかな天気が続き入梅の気配がなかったが、さすがにそろそろか。
窓から見える二上山、金剛山方面に低い雲が垂れ込めている。
ここの所、東京と大阪の行き来が激しく、時空を超えて大阪と難波、奈良と飛鳥を行き来出来ないのが寂しい。
我が時空旅の出発点、近鉄上本町も阿倍野橋も、とんとご無沙汰だ。
今日も窓から遥か河内平野の彼方に二上山が見える。気になるのはその二上山の手前に(八尾のあたりだろうか)高層マンションが建設中で、やがて二上山の美しい姿を遮る形で完成に向けて着々工事が進んでいることだ。かつて縄文時代後期にはこの上町台地に抱えられるように水をたたえた河内湖であったのが、やがて弥生時代頃から八岐大蛇のような大和川の合間の湿地帯となり、いまや大阪のベッドタウンとして、日本のモノ造りのシンボル、東大阪の中小企業の街として、殷賑を極める地域になったのだから景観の変貌も致し方ないのかもしれないが。
窓から景色を眺めながら、古代の河内の姿を想像力たくましく思い描くしかない。
生駒、葛城、金剛山系の谷間に沿って飛鳥故宮、藤原宮、平城京と河内、難波津を結ぶ古代官道、横大路、竹内街道が走っている。今も第二阪奈道路が走るその横にそびえる二上山。悲劇の皇子、大津皇子の墓がある所だ。ヤマト側から見ても大阪側から見ても、そのツインピークスの山容はまさに関西のランドマークだ。
万葉集でうたわれる二上山はヤマトの地から眺めた、日の没する西に位置する山である。二上山は、弥生の神々にとっては三輪山に日が昇り、二上山に日が没する、東西を軸とした世の終末を表し、仏教伝来後のヤマト世界では西方浄土へのあこがれを表す山だ。入江泰吉氏の「二上山残映」は、まさに夕陽に映える山容を写し取ったものだ。
しかし、こうして難波から東に向って眺望する二上山は、河内平野の向うにそびえる日が昇る山だ。大陸から渡って来た人々、あるいは遣唐使として日本に戻って来た人々にとっては、ここ難波津に降り立ち、はるかシルクロードの東の終点を間近にして、これから向う都を想い一息入れながら眺めた山なのだ。
あるいは、飛鳥の地から難波に遷都し、即位した孝徳大王。斉明大王と中大兄王はその後孝徳大王を難波に置き去りにして飛鳥へ戻ってしまう。この孝徳大王は失意のうちに難波宮から二上山をあおぎながら、遥か山の向うの飛鳥の故宮を恨めしく思ったことだろう。
歴史の風景も異なった位置から眺めてみると、また別の感慨を味わうことが出来る。
(難波から二上山を望む)
(夕暮れの難波宮跡)
(上町台地の光芒)