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2012年2月8日水曜日

豊の国 宇佐神宮と六郷満山

 大分県の宇佐神宮は全国約4万社あると言われる八幡宮の総本社である。京都の石清水八幡宮、福岡の箱崎八幡宮とともに3大八幡宮とも言われる。

 宇佐神宮を守る神宮寺弥勒寺が現在の八幡宮境内にあったそうであるが、明治の廃仏棄釈の時期に破壊されてしまって現存しない。聖武天皇の勅願により、この神宮寺彌勒寺は創建されたが、国東半島の寺院群は宇佐神宮弥勒寺との関係が強いと言われている。八幡大菩薩、すなわち、八幡様は深く仏の道に帰依して菩薩になったという。神仏混淆の世界がこの、宇佐、安心院(あじむ)、国東半島一帯に展開されている。なかなか奥深い地域である。

 宇佐神宮は8世紀、称徳天皇の時代の、宇佐神宮御神託事件で有名である。女帝である称徳天皇(孝謙天皇重祚)に重用された僧侶の弓削道鏡が御神託により天皇になろうとした。その神の意志の信義を確かめる為に、平城京から和気清麻呂が天皇勅使として宇佐神宮に遣わされ、改めて伺ったところ、道鏡を廃して,国体を守れ、との御神託であったとして、道鏡は下野に配流となった、という話である。続日本紀に記述がある。

 この事件については、後世いろいろ解釈されている。藤原仲麻呂(恵美押勝)を交えた称徳天皇の後継争いが背景にあり、道鏡のような人物が皇位を狙ったので、これを廃して皇統を守った、というもの(戦前は和気清麻呂は楠木正成などと並んで国体を護持した忠臣として評価された)や、皇位継承紛争に利用されただけで、道鏡自身は皇位を窺ってはいなかった、というものや、宇佐神宮のステータス向上の為に作られた話である、とか....

 コトの真偽はともかく、ここで不思議に思うのは、都から遠く離れた九州の宇佐神宮が、なぜ皇室にとって、伊勢神宮と並ぶ、あるいはそれ以上に、御神託を求めてわざわざ平城京から勅使が遣わされる、という高い地位を持っていたのか,という事である。

 宇佐神宮の御祭神は、八幡大神(応神天皇)、比売大神(宗像三神)、神功皇后である。伊勢神宮の天照大神は皇祖神として位置づけられているが,その子孫たるずっと後の世の神々である。もとは地元の豪族(辛島氏)が天から降臨した比売大神を祀った磐座(隕石が展示してある)が元祖であるとされているが、奈良時代の神亀年間に宇佐神宮として創建とされている。このように古来からの地主神が祀られていた所が、のちに時の支配者によって自らの権威の象徴たる神社に衣替えしたケースは珍しくない。春日大社、大神神社や伊勢神宮もそうだ。
 それにしても大和国中からはるかにはなれた筑紫の地に、ヤマト政権の意思決定に大きな影響を持つ神がいるとはどういうことなのだろう。

 8世紀初頭の奈良時代、豊の国は、いまだ南の隼人との戦いの最前線であった。710年(平城京遷都の年)には隼人がヤマト政権に服属したとされているが、その後も隼人の反乱が続き、最終的には721年には完全に大和中央政権体制に組み込まれたとされている。このように最後までその権威を広める事に苦労した地域が、九州の熊襲、隼人、東北のエミシであった。おそらく記紀に現れる神功皇后の三韓征伐の話も、7世紀の斉明天皇の朝鮮出兵にともなう筑紫進駐の話も、隼人との戦いの話の続編なのかもしれない。そうした事からこの宇佐の地はヤマト政権と地元豪族が連合して南方の日向隼人と戦った最前線基地だったのだろう。宇佐神宮の境内にも戦いで死んだ多くの隼人の霊を慰める百體神社が祀られている。

 また、記紀では、天孫降臨の地は筑紫の日向の高千穂である。また、初代天皇である神武天皇の東征伝説は、日向から始まり、豊前岡田の宮で瀬戸内海を東に向う風待ちを3年もしたことになっている。しかし、記紀が編纂された7世紀後半、日向は未だヤマト政権に服属しなかった隼人の国であった。さらに日本武尊伝説にもあるように、おそらく5世紀と思われる「熊襲征伐」のはるか以前から、既に「筑紫の日向(ヒムカ)」が天孫降臨の地とされていた。なぜ、ヤマト王権の権威が及ばなかった隼人/熊襲の国々がヤマトの発祥の地とされたのか。 豊、肥を含む北部九州がほぼヤマト王権の支配下に入ったのは6世紀前半の528年、継体天皇の時代の筑紫磐井乱鎮圧後の事である。前述のように、その後も隼人との戦いは続いていたのに、7世紀に編纂された日本書紀のヤマト日向起源のエピソードは何処からでてきたのだろう。

 記紀の記述だけでは相矛盾するストーリー展開で推理に苦慮する。これを魏志倭人伝のような中国の歴史書と照らし合わせてもなかなか史実を検証することが出来ない。魏志倭人伝にいう、邪馬台国と敵対した狗那国は、熊襲の国であったとする説もあるが,証明出来る文献も考古学的証拠も見つかっていない。日本の古代史は解明されない事が多過ぎる。

 ともあれ、九州はようやくヤマト体制に服属した地域であり、その新しい支配地域が、大王家、後の天皇家にとっても重要、且つ国発祥のルーツの地であると説明する事によって、支配の正統性を示す意図があったのかもしれない。少なくとも、宇佐神宮は8世紀には天皇家にとって伊勢神宮にならぶ重要な神社として尊ばれていたという事実だけは否定出来ない。

 その結果、往時は、宇佐神宮は絶大な権威と,豊かな経済的な基盤を有していた。平安時代にかけては、国東半島に、田染荘などの広大な荘園を保有し、多くの神宮寺弥勒寺の末寺を持つ,いわゆる六郷満山の仏教文化の中心ともなっていった。八幡様を祀る神社がこの地域の仏教文化の庇護者となっていた訳だ。.

富貴寺大堂
豊後高田市HPより
なかでも富貴寺大堂は、宇治の平等院鳳凰堂、平泉の中尊寺金色堂と並ぶ阿弥陀堂で、西国では唯一のものである。国宝で九州最古の和様建築物。簡素だが均整のとれたまことに美しいお堂だ。内陣中央には榧材寄木造りの阿弥陀如来座像が安置されている。堂内は、傷みが激しいものの美しい平安時代の壁画で覆われている。境内には国東塔、板碑,梵字石などが多数ある。山門の阿吽の仁王像は石像仏である。素朴な力強さを感じる。富貴寺は六郷満山を統括した西叡山高山寺の末寺の一つであった。その名から分かるように天台宗の寺院である。

 富貴寺から5キロ程はなれた真木大堂は、六郷満山六十五カ寺の本山本寺であり三十六坊を有した馬城山伝乗寺の寺坊の一つであった。その後、各寺坊が衰退したので諸仏をこの一堂に集めたものだという。本尊の阿弥陀如来座像の他、四天王立像、不動明王と二童子像、大威徳明王像が並び壮観だ。いずれも平安時代の作だが、鄙には稀な美しい仏像である。

 この他にも,国東六郷満山にはかつて程ではないにしても,いまだに数多くの寺や石仏が残っており、中でも熊野の磨崖仏は藤原末期の物と推定されている。これだけ豊かで、濃密な仏教世界がこの国東の地に出現していた事に感動を覚える。

 両子岳を中心とする国東半島には古来より、山岳信仰、修験道が盛んであったようで、ここに神宮寺弥勒寺の末寺が展開し、さらには平安時代に入って天台密教、阿弥陀信仰が盛んになり、山筋と山筋の間(六郷)に数多くの寺院だ創建された(満山)。今は、その寺院はほとんどが姿を消したが、富貴寺、両子寺、胎臓寺、真木大堂などが往時の隆盛を示す残映のごとく残っていることにあらためて感動する。なかなか通りすがりの時空トラベラーには不思議で奥深く、かつ空白の時代をまたがった複雑な世界である。いまだその「不思議」は解明されていない。


(撮影機材:Fujifilm X10)