仏教伝来以前の倭国では、甘樫丘は照葉樹である樫の木に覆われた神聖な場所とされ、宗教上極めて重要な地であった。記紀によると、盟神探湯(くがたち)が行われた場所として知られる。これは神裁裁判、呪術的裁判の一種であり、とりわけ国家の大事や、謀反の有無などの重大事案にかかる審判が執り行われた神聖な場所であった。このような山や丘が神聖視されるのは、自然崇拝を元とする古神道の常である。延喜式に甘樫坐神社の存在がみえ、甘樫丘が神南備山として祭祀の重要な場でもあった事をうかがわせる。他にもここ飛鳥には、畝傍、耳成、香具山の大和三山はじめ、雷丘やミハ山などの小さな山・丘が点在している。三輪王朝以前から三輪山が神聖で千古斧を入れぬ聖山として崇められてきたが、飛鳥時代に入ってからもこうした聖山信仰があったのだろう。
しかし、飛鳥世界の中心にあり、その「権威」の象徴であった山・丘は、その地の利から、同時にその世界を支配する「権力」の象徴ともなりうる。大王家は平地に宮殿を構え、祭祀を執り行なう際に山・丘に上っていたのであろうが、大陸伝来の宗教である仏教を導入、擁護し、倭国の東アジアにおける安全保障と、国内統治の中心思想に位置づけようとした蘇我氏は違っていた。既成の「ドメスティック」な価値観にはとらわれぬ「グローバル派」であったと言う訳だ。
日本書紀の記述によれば、蘇我蛦夷とその息子入鹿は、大胆にもこの神聖なる甘樫丘に砦ともいえる居館を築いたとされている。権力基盤の確立を図るため戦略的に最も枢要な場所に一族の拠点を確保するという合理性はもっともであるが、これは、とりもなおさず神をも恐れぬ不遜な振る舞いであったことだろう。古来より神の降り立つ聖山として大王家に恐れ崇められてきた場所を占拠し、世俗的権力の拠点化したのだから。しかし、彼らは新興の外来宗教を押しすすめる革新勢力である。倭国古来の権威(さらにそれを重んずる氏族たち)と対抗し、あらたな思想、統治の理念をかざそうとした彼らに取って、甘樫丘の占拠は軍事的な拠点化であると同時に、既成の権威の否定、新秩序確立のシンボルにもなったのだろう。最近の甘樫丘東側の発掘調査で、大掛かりな居館や兵器庫などの遺構が見つかっていることから、日本書紀に記述された蘇我氏の居館の実在が確認されたものと考えられる。
こうして、蘇我氏による現世的な開発の進行により、何時しか甘樫丘の神聖性は薄れ、乙巳の変での蘇我氏滅亡後も、その神の山としてのステータスが復活することはなかったようだ。その後、宮都も、いわゆる「大化の改新」後、難波へ、大津へ、藤原京へと遷り、飛鳥の政治拠点としての地位も徐々に低下してゆくことになる。
それにしても蘇我入鹿は、大王家を凌ぐ権力者として、また逆賊として歴史において記述されているが、多くの渡来人勢力をバックに有する蘇我一族の長として、その世界観、時代を読み取る先見性、革新性、行動力は抜きん出たものがあったのだろう。時代を切り開く革新者にして、果てに政治的敗者となったものは、こうしていつも勝者側の歴史書においては悪役として記述されることとなる。飛鳥寺の西側に入鹿の首塚があるが、そこからは甘樫丘を見上げることができる。ここから、展望台に立ってこちらを見下ろしている人々の姿を遠望することができる。入鹿は何を思ってここに眠っているのだろうか... 歴史に「もし...」はないが、もし入鹿が生きて「大化の改新」ではない政治制度の「改新」を断行していたらどのような倭国、日本が出来ていたのだろう。
(東は飛鳥寺を含む明日香村の集落を見下ろす)
(西は畝傍山と二上山を望む。麓には豊浦寺が。)
(北は耳成山、天香具山。手前の飛鳥川近傍に雷丘。遠くに生駒山も見える。藤原宮跡もこの方角)
(甘樫丘の東麓、飛鳥寺付近で発掘調査進む飛鳥の里。)
(飛鳥寺西端にある入鹿の首塚。甘樫丘を見上げて何を思うのだろう)
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(撮影機材:Leica M(Type 240), Voiktokaender 50mm f.1.4)
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甘樫丘への行き方:近鉄橿原神宮駅から徒歩20分。カメバスという飛鳥循環バスもあるが、一時間に一本くらいの運行なので時刻表を確認しておく必要がある。