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2024年5月6日月曜日

旧朝倉家住宅とヒルサイドテラス 〜猿楽町の新・旧コントラストが物語る街の歴史〜


旧朝倉家住宅主屋


この連休は、前回紹介したように、ヒルサイドテラスフォーラムで開催された「マイケル・ケンナ」写真展に行ってきたが、もう一つのハイライトは、このヒルサイドテラスを始めとする、この街をプロデュースしたといっても良い朝倉家の本邸、「旧朝倉家住宅」を訪ねたことである。代官山、山手通りのいわばポストモダン建築の街並みと対照的なコントラストを見せる純和風の木造家屋。この街の歴史の物語を知る散策となった。「旧朝倉家住宅」は、現存する数少ない関東大震災以前の大正期和風住宅の特色をよく残す建築・庭園遺産である。国の重要文化財に指定されている。主屋は木造二階建て、ほぼ全室が畳敷の和室で、一階には絨毯時敷きの大広間がある。旧華族や政財界の重鎮の邸宅と異なり、洋館も洋風の広間も設定がなく、一階に比較的小さな洋室が一間あるだけである。屋根は重厚な本瓦葺き、外装は下見板ばりである。今では都内でなかなか見ることのできない貴重な木造邸宅建築である。庭は、南西の崖線という地形を取り入れた回遊式庭園。高低差がかなりあるせいか、池は設けられていない。敷地総面積は5,400平米と、都会には貴重な広大な緑のスペースが広がる。その隣の旧山手通り沿いに展開される代官山ヒルサイドテラスは、戦後に朝倉家が所有していた土地が再開発されたエリアである。

朝倉家は江戸時代以来続く旧家で、明治初期には精米業を営んででいたが、周辺の都市化の急激な進展に伴い農地を手放す農家が増え、農家から土地を買取り、住宅街を建設するなどで一帯の大地主として成長した。この建物は、戦前の東京府議会議長や、渋谷区議会議長などの要職を務めた朝倉虎次郎氏によって大正8年(1919年)に建てられたものである。しかし戦後は、一帯が戦災で焼け野原となったこと、占領政策の地主制度解体に伴い事業が大きく縮小されてしまった。残された猿楽町一帯の土地を再開発するために朝倉不動産を設立し、当主の友人であった建築家の槇文彦氏に計画立案、設計を依頼し、「代官山集合住宅計画」を開始。1969年から1998年にかけてA棟からF棟、アネックスまで順次開業して行き、現在のヒルサイドテラスが生まれた。すなわちこの街の景観と文化を創造したのが朝倉家と槇文彦氏であったという訳だ。今でもその斬新で洗練されたデザインの都市景観は、この猿楽町、代官山を東京でも人気の街にしている。しかし、関東大震災や戦災にも生き残った朝倉家邸宅は、朝倉家事業の戦後の困難期に、中央競馬界に売却され、その後は旧農林省の所有を経て、旧経済企画庁の渋谷会議所として最近まで使用されていた。現在は文部科学省(文化庁)を所有、管理団体は渋谷区となっている。平成16年に国の重要文化財指定。一般に公開される施設となっている。(以上、「旧朝倉家住宅」パンフレット、Wikipediaより意訳引用)。この朝倉家住宅と庭園が「再開発」と称して取り壊され、「複合商業施設」とやらに変貌しなかったことは幸いなことである。この古い伝統美と新しい伝統美の共存こそ、この街をユニークで魅力的にしている。

この猿楽町は我が家にとっては懐かしいところである。40年ほど前にイギリスから帰った後に、アメリカに赴任するまでの5年ほど住んだところである。長男は地元の幼稚園、小学校に通い、長女はここで生まれた。ちょうど行政改革、民営化の時代で、当時文書課に配属されていたので極めて多忙な日々を送った時期である。そうしたこともあり、ゆったりとこの界隈の雰囲気を楽しむ余裕もなく、子どもたちの幼稚園や小学校の行事に参加することも少なく、育児は妻に任せっきりの「昭和な亭主」であった。家族に申し訳ないことをしたと思う。それでも社宅敷地内にあった小高い丘の頂に大きな桜の木があり、季節になると社宅や近所の子供達がその下でござを引いて花見をしていことを思い出す。また西郷山公園に子供たちを連れて遊びに行った記憶はある。代官山界隈は、戦前は猿楽町の南西の崖線沿いにできた山手の邸宅街で、戦後しばらくはその面影が残っていた。旧山手通りの現在のレストランASOがあるところには以前は瀟洒な洋館があり、息子の小学校の同級生が住んでいて時々遊びに行ったりしていた。こうした一定のまとまった敷地を確保できる地域であったことからか、デンマーク大使館、エジプト大使館などの外国公館の所在地にもなった。また戦後高度経済成長期には大企業や外資系企業の社宅や集会場用の敷地も確保できたわけだ。現在では猿楽社宅と某米国航空会社社宅跡地に、蔦屋書店を主テナントとする商業施設「代官山T-SITE」ができ、週末には人が繰り出す人気のエリアとなっている。この日も、連休の人出で賑わい、外国人観光客も多く界隈は混雑していた。40年前もヒルサイドテラスもあり、有名フレンチレストランや、おしゃれなパティシエの店があったりで、それなりに人気の街であったが、渋谷から桜ヶ丘を上った一歩奥の山手で、代官山駅前に同潤会アパートがあったり、基本的には渋谷の雑踏を離れた閑静で瀟洒な住宅街といった風情であった。少なくともこれほどの人出はなかった。ちなみに、我が家が猿楽町にいた頃は旧朝倉家住宅は、経済企画庁の渋谷会議所で、一般には公開されておらず敷地に入ったことはなかった。当時は、鬱蒼とした杜の中にこのような和風の邸宅と回遊式庭園があることを知る由もなかった。

今回の再訪で、この猿楽町、代官山の賑わいのその基を作り、プロデュースしたのが、訪れた朝倉家住宅の家主であった朝倉家であることを改めて知った。土地にはにはそれぞれの歴史が刻まれていて、それがその土地の表情になっている。そうした土地に我が家も小さな足跡を残したことを感慨深く振り返る歳になった。


旧朝倉家住宅玄関

正門
「渋谷会議所」の表札がはずされている

正門から玄関までは鬱蒼たる緑の道

門からの道を進むと奥に主屋と玄関が現れる

車庫
郊外であったため車が必需であった


庭園側からの主屋

回遊式庭園 ただし池はない 



庭園内には灯籠や名石が多く配置されている




手水鉢

額縁庭園

丸窓

二階居室

一階廊下突き当たり

重厚な本瓦葺きの屋根

二階広間

二階縁側

二階和室


一階洋室




旧山手通り沿いのヒルサイドテラス

F棟



ヒルサイドテラス案内板

テナントはすっかり入れ替わっている

ヒルサイドテラスフォーラム



昭和初期の洋館だったが、今は人気レストランに


猿楽社宅跡地の今 すっかり変わって跡形もない。

社宅跡地には某有名書店T-SITEが

我が家跡推定地

社宅の石垣がわずかに往時の面影を止める

40年ほど前の猿楽社宅古写真(「公団ウォーカー」サイトより借用)



(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)